〔マルクスの眼で、現代日本をとらえる〕
こんにちは、石川康宏です。日本の神戸女学院大学で、経済学を教えています。『社会のしくみのかじり方』を、韓国のみなさんに読んでいただけることになりました。とても嬉しく思っています。
この本は、すでに韓国で出版されている『マルクスのかじり方』の姉妹編です。『マルクスのかじり方』は、カール・マルクスの学問の到達点を、わかりやすく紹介するものでしたが、こちらはマルクスの目で、現代の日本社会をとらえるとどうなるだろうということを、ぼくなりにコンパクトに書いてみたものです。
そこには日本社会に固有の問題もありますが、21世紀の資本主義をどうとらえるかといった、現代韓国社会の分析に役立つところもあるでしょう。
少し先まわりをして、日本の社会がかかえる大きな問題点を示しておきます。1つ目は、国民が主権者だという憲法の規定にもかかわらず、財界・大企業が経済社会にとどまらず、与党や政府にも強い影響力をもち、彼らが日本国内の事実上の権力者になっているということです。カネの力による政治の支配ということですね。
2つ目は、国土の一部と相当に広い空域が米軍の思うままにされ、さらに外交政策や経済政策にもアメリカが強い影響力をもっているという対米従属の問題です。日本は1945年から52年までアメリカに軍事占領され、2019年のいまも130をこえる米軍基地に5万人の米兵が駐留しています。
そして、最後の3つ目は、政界や言論界、マスメディアなどに、大日本帝国時代の日本を正しい社会だったと主張する、時代錯誤の思想が根深く残っているということです。「慰安婦」問題でも徴用工の問題でも、日本政府が誠実な対応の姿勢をとれない理由の根本はそこにあるわけです。
ぼくは、あらゆる人間の尊厳を大切にし、民主主義を守り、平和を追求するという日本の憲法の理念はとても大事なものだと思っており、ぜひともこれにまじめに取り組む政府をつくりたいと思っています。そうした方向性を同じくする日本の様々な運動は、この3つの問題をどう解決していくかを大きな課題としています。
〔「個人の尊厳・立憲主義を守れ」の大運動〕
ところで、この本が日本で出版されたのは、2015年7月30日のことでした。それからすでに4年近くがすぎています。そのあいだに、日本の政治や社会には様々な変化がありました。ここではそれを少しだけ補足しておきます。
この間の大きな変化の1つは、本を出した直後の15年9月19日に、国会でいわゆる「安保法制」が与党等によって強行採決され、「海外で戦争する国づくり」に向けて日本の政治が大きな一歩を踏み出したということでした。
この法律は、これに反対する日本の市民運動の中では「戦争法」とも呼ばれました。日本国憲法は、日本の「戦争の放棄」を定めていますが(どこかの国に攻撃された時に、国を守って闘う自衛権までを否定しているわけではありません)、これに反して「安保法制」は海外でのアメリカとの共同戦争(つまり日本を守る自衛の戦争ではない戦争)を可能としてしまったのです。
これは明らかに憲法違反の法律です。こうしてつくりだされた「安保法制」と憲法のねじれ状態を解消するために、安倍晋三を首相とする日本政府は憲法の「改正」(実態は改悪です)に突き進もうとし、それに対して多くの市民が抵抗の声を強めるという状況が生まれています。
この市民の抵抗は、新しい特徴をもちました。その1つは、戦後日本の護憲運動が長く「平和を守れ」という論点に限られがちだったのに対して、今日の運動は、平和の追求にくわえて、自由や民主主義など、日本国憲法のすべての価値ある理念の実現をめざすものに変わってきているということです。
それを象徴するのが「個人の尊厳を守れ」という運動の新しいスローガンです。ここには日本の市民の人権意識や民主主義的な感覚の一段の成熟が現れているといっていいでしょう。
「個人の尊厳を守れ」の「個人」には、若者も年寄りも、男も女も、どのような性的指向や性の自認をもつ人も、どの国の国籍をもつ人も、どこの国や地域で生まれ育った人も、そのほかどんな個性の違いによっても、それで人間の価値に差をつけることがあってはならない、そういう理解が込められています。
そうした考え方は、まだ日本の市民全体の自覚的な多数派になっているわけではありませんが、こうした理念をはっきりと掲げ、全国的な規模で闘いが継続されるようになったのはとても大きな変化です。
〔「市民と野党の共同」という政治を変える新たな手法も〕
もう1つ、こうした市民の運動は、社会づくりの方向を同じくする政党とのつながりを深め、「市民と野党の共同」という、政治を変えるための新しい闘いのスタイルを生み出しもしました。
安倍政権を倒そう、「安保法制」を撤廃し立憲主義をとりもどそう、個人の尊厳を守る政治を本気でつくろう。そういう大きな方向性を一致点にして、たくさんの野党が共同し、国政選挙の小選挙区をはじめ各地の選挙に統一候補を立てて取り組むようになったのです。共同は選挙だけでなく、国会の中での共同、市民運動の現場での共同にも広がっています。
野党には、当然、それぞれ独自の考え方があり、お互いの不一致を言い出せばきりがありません。しかし、それを理由に、バラバラに闘っていたのでは、いつまでも政治を変えることができません。そこで市民運動が共同に向けた接着剤となり、野党に政策の共通点をさぐる話し合いや納得して応援できる統一候補の選出、そして力をあわせて選挙に取り組む態勢づくりを求めたのです。
これは、市民が政治家や政党に「お願い」をする取り組みから、主権者の意思に従うことを求める取り組みへの運動の質の大きな転換を意味するものでした。
その結果、2016年の参議院選挙、2018年の衆議院選挙と2つの大きな国政選挙で、共同を破壊しようとする支配勢力の攻撃をはねかえしながら、「市民と野党の共同」勢力は、当選者が1人しか生まれない小選挙区でも議席を増やし始めました。
今は2019年7月の選挙に向けた、野党間の政策協議と候補者調整が急がれているところです。この本が出版されるころには、もう選挙結果が出ているのかも知れません。ぜひとも安倍政権の特に憲法「改正」に向けた暴走にブレーキをかけ、さらに安倍政権の打倒を引き寄せていきたいものです。
〔資本主義の発展段階論の再検討〕
日本の政治がこうした変化を見せる一方で、この4年のあいだには「社会のしくみ」をとらえるぼくの考え方にも一定の変化が生まれてきました。
その中心は、自由競争の段階から独占資本主義の段階へ、国家独占資本主義の段階へという、マルクス主義経済学における従来型の資本主義発展論への疑問が深まり、これに代わる資本主義発展のとらえ方を探究するようになったということです。
こうした展論の原型をつくったのは、ロシア革命を成功させたウラジーミル・イリイチ・レーニンですが、レーニンは、資本主義は自由競争を特徴とし、その次にやってくる社会主義は完全な計画化を特徴とすると考えていました。そして、資本主義の内部に計画経済の要素がどのように形成されてくるかを、社会主義に向けた資本主義発展の最も重要な指標としました。
そこから巨大資本同士の協定=独占(独占資本主義)の形成や、第一次大戦での国家による統制経済(国家独占資本主義)の形成を資本主義発展の根本的な画期とする先のような段階論を導いたのでした。レーニンは、独占が自由競争と共存しはじめた独占資本主義を「死滅しつつある資本主義」と呼び、さらに国家が計画経済の中心に立ち上がった国家独占資本主義を「社会主義への入口」と位置づけました。
しかし、その後100年の歴史をふりかえるなら、財界・大資本が国家と結託して自らの利益を計画的に追求していく国家独占資本主義は、「社会主義の入口」どころか、資本主義をもっとも急速に成長させる経済形態となりました。
さらに『帝国主義論』をはじめレーニンの諸研究をよく読み返してみると、他のどのような変化でもなく自由競争から計画へという変化(つまり資本間関係の変化)を、資本主義のもっとも本質的な変化だとする理論的根拠は、どこにも書かれていないのでした。あるのは、自由競争は資本主義の基本的特質であり、独占はその直接の対立物だという断定だけでした。
〔マルクスの発展段階論に立ち返って〕
こうした問題を立てる上で、大きな刺激となったのは、日本でのマルクス『資本論』に対する研究の深まりです。
資本主義は生産力を高めるが、それは労働者の搾取を通じてのことであり、これに気づき、また耐えられなくなった労働者は、職場での結合と訓練をつうじて力をつけ、最後には社会革命に立ち上がっていく。一昔前には、資本主義から社会主義への『資本論』の変革論はこういう形で理解されていました。
しかし、最近の研究はこれをさらに掘り下げて、マルクスは資本主義の発展を、資本の生産力の発展とともに、資本による利潤第一主義の弊害を制御する法的規制(労働条件の改善、製造物への責任、環境保護を求める諸立法など)の積み上げや、それらの規制を勝ち取っていく労働者・市民の闘う力(社会を制御する力)の発達を中心にとらえていたことを明らかにしてきました。
レーニンは資本主義発展の基準を、自由競争から計画へという資本間の関係の変化にみていましたが、マルクスはそうではなく資本主義的生産関係の核心をなす資本家と労働者の関係の変化にみていたのです。そこにはレーニンがマルクスから引き継げなかった理論問題がありました。
なお、レーニンは自由競争から計画へという論理を語る時に、マルクスの革命運動の同志であり、共同研究者でもあったフリードリヒ・エンゲルスの『空想から科学へ』を自説の背景として引用しています。その意味では、資本主義経済の発展に対するマルクスとエンゲルスの理解の相違も1つの重要な論点となってきます。
〔ぼくなりの解決は次の本で〕
この本には、ぼくの考え方の最近のこうした変化は、明示的には、ほとんど盛り込まれていません。本の性質が入門的なものであるということもその理由の1つですが、より大きな問題は、ぼくの考え方がまだ問題提起の枠を出ていないというところにあります。
ぼくがレーニンの発展段階論についての批判的な検討を発表したのは、『経済』という雑誌の2015年1月号に書いた論文が最初でした。それはレーニンの理論と現実の歴史との食い違い、また理論の組み立て方の弱点やマルクスの経済理論との相違を指摘するものではありましたが、レーニンの理論にかわる新しい発展段階論を提起するものではありませんでした。
この状況を切り拓くために、具体的な現実の中から新たな理論を導こうと、ぼくはいま、日本における資本主義の形成と発展の歴史の検討をあらためて始めています。この数年先に、また新しい本をみなさんのお手もとに届ける機会が与えられるなら、その時には、ぼくなりの資本主義発展段階論や日本資本主義発達史論を、少しはまとまった形でお届けできるものと思っています。そうであることを未来の自分に期待したく思っています。
まずは現時点での石川康宏流の『社会のしくみのかじり方』を、以下、お楽しみください。
「共闘」を守り進んだこの場から、さらに前へ
全国革新懇代表世話人・神戸女学院大学教授 石川康宏
※一部誤字を修正しました。
〔「共闘」破壊をねらった二度目の策謀〕
「全国革新懇ニュース」(2017年11月号)にも書かせていただきましたが、今回、希望の党を活用した謀略が出てきた瞬間に、最初に思い浮かんだのは1980年の社公合意のことでした。フロアが若い人ばかりの場合には詳しい説明が必要なのですが、今日おられる皆さんは、じっくりとそのときを過ごしてきた方がほとんどのようですので、それはあまり必要ないですね。
私には穀田さんの後輩として京都で活動していた時期があります。私が立命館大学の学生だったころ、京都府庁に「憲法を暮らしのなかに生かそう」という垂れ幕がかけられていました。蜷川虎三さんというすごい名前のすごい知事がおられて、私は防衛隊にもよくかり出されたものでした。行政自身が憲法どおりの政治をしようと訴える、いまとは大違いの政治があったのでした。それを支えたものこそ今風の言葉で言えば「市民と野党の共闘」の地方版でした。
60年代、70年代と全国にその「地方版」が広がり、1975年には全人口の43%が革新自治体、つまり「福祉が大事だ」「教育が大事だ」「企業のやり放題は許さない」という自治体に暮らすまでになりました。それへの逆流として社公合意による「市民と野党の共闘」の破壊という謀略が行われたのでした。当時「共闘」の中で野党の中軸を担っていたのは共産党と社会党でした。共産党は戦前もがんばりぬいた「確信犯」なので、そう簡単につぶれそうもない。そこで、社会党に白羽の矢が立てられたのでした。1980年に「共産党とはもう組まない」という合意を、公明党が社会党とのあいだにつくり、それから社会党を右へもっていきます。これが社公合意でした。
民進代表の前原さんは、いまも「共産党とは組まない」と言っていますね。まったく同じ策謀でした。そうした激動の中で、政党の動向に左右されずに市民と野党の共闘を発展させようということで、1981年に結成されたのがこの革新懇でした。
今回2度目の大がかりな分断策として、希望の党が活用されましたが、見ておくべきことのひとつは、それが「市民と野党の共闘」が再び大きな力を発揮するようになったことのいわば結果であったということです。それが支配体制にとって非常に大きな脅威になった。だからこその策謀だったということです。希望の党がどう準備され、民進の解体がどう企まれたについては、現在進行形でいろいろ情報が出てきているようですが、はっきりしているのは、それが自民党政治の継続を前提に、一番脆い野党であろう民進を解体して「市民と野党の共闘」を破壊しようとするものだったということです。
〔「共闘」を守り抜いていく市民の力〕
しかし、柳の下に二匹目のドジョウはいない。今回の策謀を聞いた時、私のあたまに浮かんだもうひとつのことは「二度目はそううまくはいかない」というものでした。そう思えた最大の理由は、80年当時とは質の違った市民運動の成熟です。有権者・市民はそう簡単にだまされはしない。そう簡単に分断されはしない。この運動を守り抜く力を、市民運動はすでに身につけていると思ったのです。
(スクリーンを差し)これはあの瞬間に、私がTwitterで発信したものですが、「民進がどうあれ、希望がどうあれ、市民と立憲野党の共闘をすすめていくことこそ、安倍政権打倒への本道です。民進の党員・サポーターの皆さんにもこの大義に踏みとどまる方がたくさんおられるでしょう。(このフロアには、踏みとどまってもらうためにずいぶんご苦労された方も多いと思いますが)。ますます本道を太く広げていきましょう」。
このフライヤーは大阪でのものですが、大阪では「政党の離合集散に惑わされることなく、これまで通り7項目合意を貫く政治を押し進めよう」という街頭宣伝が、若い人を中心にして直ちにJR梅田・ヨドバシカメラ前で行われました。それは全国で行われましたが、それは、そのことを可能にする力を各地の運動がすでに身につけていたことの現れでした。ものごとを中央任せにせず、その地域のカラーに合わせた「市民と野党の共闘」をつくる取り組みが、今回の策謀以前に行われていたのです。フロアにも「自分の地域はこうだった」「私たちはこうやった」と発言したい方がたくさんおられるでしょう。この写真は滋賀県での取り組みです。中央がどうあれ滋賀では統一しなさいという野党各党へのはたらきかけです。こちらは熊本です。これは秋田です。かつて「保守王国」と呼ばれた地域でも、活発な取り組みが展開されています。
そのなかで「市民連合」も見解を発表しました。我々はあくまで7項目の基本政策を実現する政治を目指しているという本筋を再確認した上で、その線で考えるなら「希望」を共闘相手にすることはありえないとして、他方、民進の動きにはまだ紆余曲折があると言い、そして「市民と野党の共闘」を力強く再生させる可能性を模索しようと呼びかけました。
〔枝野立て、共産の英断、「共闘」勢力の前進〕
私は、こうして全国各地で展開されたより成熟した市民運動の力こそが、立憲民主党を作り上げたと思っています。6年前には「枝野寝ろ」とずいぶん言われたことがありましたが、今回は「寝ろ」ではなく「枝野立て」という激励の言葉がネット上に山のように飛び交いました。「いつ立つんだ」「今日じゃないのか、明日なのか」と強い切迫感をもって背中を押した声でした。
この点で注目されるのは、ついに立ち上がった枝野さんが、立憲民主党は「権力ゲーム」にのって、政策を曖昧にすることはしないと表明せざるを得なかったところです。政権につくことだけを目的とした合従連衡はしないということです。これを明快に語らせた力は、なんといっても事前にあった7項目の合意でした。これを実現するためにこそ市民運動はがんばってきたし、民進もこれに合意してきたじゃないかという市民が野党にはめたタガです。議員一人一人の腹を探れば、本心があやしい人もいるかも知れない。しかし「議員は選挙で変わる」し、さらに日常の活動を通じても変えていけます。
立憲民主党の立ち上げに際して、見事だったのは、ここに穀田さんがおられるから言うわけではありませんが、67人の候補者をあの急場で自らおろしていった共産党の英断でした。これが「市民と野党の共闘ここにあり」と、一旦解体されたかに見えた「共闘」の具体的な姿を有権者に示し、新しい野党の共闘を深めながら、「共闘」勢力全体の選挙での前進を可能にしました。これを英断と評する声は、むしろ固い共産党支持者以外の中に強いように思います。この写真では、志位さんと枝野さんが街頭で握手をしていますが、ネット上ではたくさんの人に大歓迎され、リツイートされたものです。この瞬間、この図をつくる上で、共産党が果たした役割は非常に大きかったと思います。
選挙結果はいろんな角度から見ることができるでしょうが、政党別で見れば、自民・公明の政権与党は前回比で13議席減っています。ついに公明も減り始めました。安倍暴走政治の応援ばかりでいいのかという、公明内部の矛盾の現れでしょう。続いて関西では維新、それと同類の希望、この政権補完勢力も公示前に比べて10議席の減です。これで希望が野党第一党になり、改憲勢力の2大政党制をつくるという目論見は完全に失敗しました。以上、同じ穴の狢(むじな)の合計は23議席の減となります。「減」に追い込んだのは、選挙の直前にあれだけ大がかりな謀略を仕掛けられたことに耐え抜き、これを跳ね返していった「市民と野党の共闘」の実力でした。立憲・共産・社民の「市民と野党の共闘」は31議席の増です。共闘の発展を願う力と行動の成果でした。各地、各地での自発的な行動の成果でした。昨日の全体会での発言にも「突然候補者がいなくなった。本当に困った」という話がたくさんありました。それに現場ごとに対応していく力があった。これは、すばらしいことだと思います。
他方、大変残念なことは「共闘」勝利の立役者である共産党の議席が半減したことです。比例で20議席から9議席も減らしてしまった。実は一昨日の夜、その議員バッジを外さざるを得なくなった堀内照文さんの「いったんお疲れさま会」に参加してきました。居酒屋でのごく少人数での集まりでしたが、とても優秀な、私の年代から見ればまだ「若者」です。ああいう優秀な若い議員をたくさん落してしまったことはとても残念です。おひらきの後の店の前での最後のあいさつは「また国会に行こう」としましたが、できるだけ早くこれを実現したいと思います。
〔前へ──7項目、3000万署名、連合政権の構想を〕
これからの政治をどうすすめるかについて、いくつか思いつきを並べさせてもらいます。
一つは、7項目合意を実現するための国会内外での取り組みを直ちに大きくすすめる必要があるということです。「共闘」勢力が増えたことで、政治に変化が出てきた、希望が見えてきた、そう思える国民的な体験をつくりだすことが必要です。それはさらに「共闘」の輪を広げ、議員や政党を鍛えることにもなるでしょう。
とりわけ腹をすえてかからねばならないのは、7項目合意の第一項目「安倍9条改憲は許さない」ということです。周辺ではすでに3000万署名が始まっていると思いますが、3000万の数は、現在の「市民と野党の共闘」の枠に留まっては到底実現できるものではありません。「私は保守だが、今の安倍改憲はまずいと思う」。そう考える一層広い市民との対話が必要です。その取り組みをはげます、これまで以上に枠を広げた企画も必要でしょう。大いに工夫していきたいところです。
二つめに、注意しておきたいのは、無所属の会や、参議院の民進、それからつぶれていく希望の党を抜け出す元民進党議員、こういう人たちとどう手をつなぐかということが新たな課題になってきますが、そこで7項目の合意を曖昧にしないということです。安直な2大政党制論や権力ゲーム論の復活は許さない、「共闘」は政治を変えるという本筋の取り組みのためにこそある。この線をブレさせないことが必要でしょう。
三つめに、「市民と野党の共闘」は、もちろん、立憲野党を永遠に野党のままにすることを目的としているわけではありません。7項目の本格的な実現には、その達成を課題にかかげる立憲政権の実現が不可欠です。市民と野党の共闘で立憲の連合政権をつくっていく。そのための構想を豊かにつくっていくことが必要です。
個別の政策ではまったく支持されない安倍政権が、選挙では相対的に多数になる。その大きな理由のひとつは国の形についての魅力的な対案が打ち出されていないということです。ここを打開していく必要がある。この政策づくり、政権構想も、中央まかせにする必要はなく、各地の要望、各地の課題に真剣に取り組む政府を、自由に語り合う。それが入り口でいいと思います。主権者・市民は中央にいるのではなく、全国の各地域にいるのですから。
くわえて革新懇の独自の役割も重要です。革新懇は、暮らし、平和、民主主義をめぐる3つの共同目標を実現する政治をめざしていますから「私たちはこういう方向が、豊かに安心して暮らせる政治のあり方だと思います」と、今まで以上に強く打ち出すことが必要ですか、それは現在の多くの市民の願いにも合致するものとなり、共感を広げうるものになっていると思います。
〔労働組合、若者との接点、共産の前進を〕
四つめは、あまり強調されないことですが、労働組合運動の強化です。7項目合意の中にも、8時間普通に働いたら暮らせるルールをといったことが入っていますが、その実現のためにも労働組合に入ろう、労働者の権利を守る労働組合を強くしようという取り組みが切実に求められていると思います。これを正面から議論する必要がある。
労働組合を名乗りながらも「連合」の執行部が、私たちの新しい政治をめざす取り組みのむしろ大きな障害となっている。そのことは「共闘」に集まる人の中では、広い共通認識となっています。しかし、それは労働組合本来のあり方ではない。「共闘」の中では「総がかり」がきわめて重要な役割を果たしている。そういう認識が広まるなかだからこそ、労働組合とは本来どういうもので、日本の運動にはどういう課題があるのか、そこをしっかり議論する必要があると思うのです。
日本の運動の現状に即していえば、それは資本から独立し、政党から独立し、要求で団結するものでなければならない。政党からの独立についていえば、「連合」執行部のように上意下達で組合員に「あの政党を応援しろ」というのは、決してあってはならないことです。それは「個人の尊厳」を踏みにじる行為です。この点は「連合」とつきあいの深い立憲民主党にも、よく考えてもらいたいところです。
五つめは、これらの取り組みをもっと多くの若い世代と連携してすすめるにはどうすればよいかという課題です。取り組みをしている側からすると「若者への接近」となるわけですが、この言葉の意味を取り違えてはいけないと思います。「接近」するということは「取り込む」ということではありません。何よりも広く「接点をもつ」ということです。
若い世代にとって魅力的な企画、運動をすすめる。そこに若者が自分の意志で参加する、かかわりをもとうとしてくる、そういう関係をどうつくるかということです。たった一人、身近に若い人がいるということでそれを全力で「取りこみ」にいくといったことになれば、なんて厄介なおじさんおばさんなんだろうということにしかなりません。むしろ若い世代に「あの団体はヤバイぞ」と、警戒心を広げる逆効果にしかなりません。
魅力的な行動や企画への呼びかけ、「どうぞどなたでも参加してください」ということです。そして、そこに参加してくれた若者と繰り返し接点をもち、互いを知り、信頼感を醸成していく。その粘り強い取り組みが必要です。よびかけの手段は、なんといってもSNSです。私は、もう10年くらいSNSに取り組みましょうと行ってきましたが、これがベテランの大きな壁になっていますし、ベテラン主導の運動の一つの限界になっています。若者と本当に接点をもちたいと言うのであれは、まずやってみてください。挑戦するなんておおげさにかまえるようなことではありません。先生は、子どもや孫でいいのですから。
昨日の全体会で青年革新懇の方が「私たちは発言権が小さい」と言っていました。これはいろんな若者から聞くことです。さすがに発言の機会がないところは少ない。しかし、話の中身を検討してもらえない。おじさん、おばさんが「言わしたる。でも、わしは全部わかっている」という顔をしている団体です。こういう現場で若い世代にもっとも嫌われるものの一つが、こういう「私は答えを知っている顔」です。それでは若い人たちが取り組みの主人公になれません。
私たちの運動やネットワークは個人を従えさせるためにあるのでなく、個人の願いを叶えるためにあるはずです。そこをあらためて確認してほしいと思います。「次の企画は若い人にまかせる。ベテラン組は縁の下の力持ちに徹する」。それくらいの勇気を発揮してほしいと思います。
若者の保守化が言われますが、年代別の絶対得票率で見ると、自民党に投票している人の割合は若いほど低くなっています。むしろ政治にあきらめをもっている、期待していない、どうかかわっていいのかわからないという人が多数ではないかと思います。
最後の六つめですが、私の職場の先輩でもあった内田樹さんは「今回の選挙は立憲にはカンパ、社民にはカンパ、そして、やせ我慢でがんばる共産党に1票」と発信していました。「共闘」を支えるひとつのうれしいあり方だと思います。とは言え、共産には、このままずっと痩せ続けられたのでは困るわけです。「市民と野党の共闘」のなかで一番頼りになる政党なのですから。今回の選挙は緊急事態でしたから、昨年の参院選につづいて共産党が一方的に候補者を降ろすということになりましたが、本来は共闘する者たちが互いに支援しあうというのが当然です。この当然の考え方を市民運動のなかに広げていくということも大切ですし、また共産党自身が今回のような緊急事態にも揺らがないという大きな力を身につけてほしいと思います。以上です。
[2024年]
「先住民族アイヌを学ぶ-人の多様性が認められる社会へ」 部落問題研究所『人権と部落問題』2024年2月号(第980号)、2024年2月1日、31~38ページ
「戦争の準備より平和の準備-2024年を展望して」 全国商工団体連合会『月刊民商』2024年1月号(第765号)、2024年1月1日、18~23ぺージ
「市民目線なき軍拡から転換し、戦争を回避する国際秩序へ」(三牧聖子氏との対談) 日本平和委員会「平和新聞」2023年12月25日・2024年1月5日合併号(第2340号) 第2~3面
[2023年]
「大軍拡・『死の商人』国家づくりはゆるさない-財界・軍需産業の要望に焦点を当てて」 労働運動総合研究所『労働総研クォータリー』2023年秋号(第128号)、2023年12月15日、2~15ページ
「『新しい戦前』にしないために」 平和・民主・革新の日本をめざす東京の会「東京革新懇ニュース」2023年11月5日(第487号)、第1~3面
「プレインタビュー 社会保障充実へ何が必要なのか」1・2 兵庫県保険医協会「兵庫保険医新聞」2023年11月5日(第2053号)、第2面
「マイナスオーラ 若者敏感」 日本共産党「しんぶん赤旗」2023年10月18日、第3面
「若者とどう向き合うのか-構えずに対等の姿勢でまず話し合おう」 平和・民主・革新の日本をめざす全国の会「全国革新懇ニュース」2023年10月号、第453号、1面
『先住民族アイヌを学ぶⅡ-北海道に行ってみた』 日本機関紙出版センター、2023年9月20日、全203ページ
巻頭グラビア
はじめに(建石始)
第1部 北海道に行ってみた
よく学び、楽しくすごした4日間(石川康宏)
第1章 アイヌ語と口承物語の継承者(木幡サチ子)
第2章 違いを認めて理解し合えば、戦いは起きない
(貝澤耕一)
第3章 過去に目を閉じる者に未来はない(木村二三夫)
第4章 アイヌ語を北海道の公用語にしたい(関根健司)
第2部 北海道から帰ってきて
第1章〈学生座談会〉フィールドワークを終えて
(学生7名)
第2章〈教員座談会〉フィールドワークを終えた
(教員3名)
第3部 アイヌの世界観とアイヌ文化の現在
中川裕先生をお招きして(石川康宏)
第1章 アイヌの世界観とアイヌ文化の現在(中川裕)
第2章 中川裕先生と学生たちのQ&A
おわりに(大澤香)
『若者よ、マルクスを読もう-甦る「資本論」』「韓国語版へのあとがき」 2023年8月7日提出
「平和を守る現実的な道-アセアンからの提起にこたえて」 全日本民主医療機関連合会『民医連医療』2023年8月号、第611号、2023年8月1日、8~11ページ
『若者よ、マルクスを読もう-甦る「資本論」』かもがわ出版、2023年7月31日、全268ページ
まえがき(内田樹)
Ⅰ・その沿革、概要、最近の研究成果(石川康宏)
Ⅱ・資本が初めて生身の人間にふれた時(内田樹)
Ⅲ・「未来社会」はどう描かれているか(石川康宏)
Ⅳ・「大洪水」とは何か-資本主義と世界の未来予測
(内田樹)
Ⅴ・関連文献
『イギリスにおける労働者階級の状態』について
(石川康宏)
『若者よ、マルクスを読もうⅡ』中国語版への序文
(石川康宏・内田樹)
おわりに-それで、マルクス主義者って?(石川康宏)
「ロシアのウクライナ侵略をめぐる諸論点」 基礎経済科学研究所『経済科学通信』2023年6月、第157号、2023年6月10日、16~19ページ
「書架散策/理解できる人間になりたいと/見田石介著『資本論の方法』」 日本共産党「しんぶん赤旗」2023年6月4日、8面
「消費のための労働、労働力をつくる労働、人間の尊厳を守る労働」 労働者教育協会『学習の友』2023年6月号、第838号、2023年6月1日、45~50ページ
「マルクス『資本論』のジェンダー視角」 関西唯物論研究会『唯物論と現代』第67号、2023年5月30日、2~20ページ
「『資本論』から読み解くジェンダー平等」 新日本出版社『経済』2023年5月号、第332号、2023年5月1日、62~68ページ
「第3・4巻の最初の読者を楽しんで」 シナリオ・野口美代子/漫画・丸川楠美/監修・中村敬三『マルクス&エンゲルス』第4巻、高文研、2023年4月20日、148ページ
「よりよい社会づくりに意欲をもって、大学生活の主人公に」 日本民主青年同盟「民主青年新聞」2023年4月3日、3134号、第10~11面
「K・マルクス『資本論』のすすめ/新入生歓迎 人の社会にも発展の論理」 日本共産党「しんぶん赤旗」2023年3月31日、第14面
「『変革ありき』の熱狂に対峙し政治を変える選択を」(内田樹氏との対談) 大阪府保険医協会「大阪保険医新聞」2023年3月25日、第4~5面
『今、「資本論」をともに読む』 新日本出版社、2023年3月15日出版、全187ページ
第Ⅰ部 マルクスはなぜ面白いのか
第1章 『資本論』の旅とこの社会(石川康宏)
第2章 新自由主義の時代に『資本論』を学ぶ意義
(萩原伸次郎)
第3章 マルクス「未来社会論」の研究(関野秀明)
第4章 新版『資本論』の刊行と今日の世界(山口富男)
第Ⅱ部 座談会 新版『資本論』の完結によせて
1 新版『資本論』の特徴(山口富男)
2 第1部を読む(石川康宏)
3 第2部、第3部を読む(関野秀明、萩原伸次郎)
「安倍改憲くい止めたのは署名と対話の力」 農民運動全国連合会「農民」2023年3月13日、第1544号、第1面
「どの道でも先達として大きな背中を」 日本平和委員会『平和運動』2023年2月号、№622号(通巻937)、2023年2月1日、27~29ページ
「個人も組織もさらに大きく(2023年新春代表理事あいさつ)」 日本平和委員会「平和新聞」2023年新春特別号、12月25日・1月5日合併号、2310号、第7面
[2022年]
「激動の中、どうする暮らし、大軍拡と改憲阻止」 憲法改悪阻止各界連絡会議『月刊憲法運動』2022年12月号、通巻516号、2022年12月3日、10~46ページ 「一部訂正」の文書 同2023年2月号
「統一協会は政治にどう関わってきたか-国際勝共連合の活動を中心に」(シンホジウム「ジェンダーの視点から考える統一協会と自民党」より) 日本平和委員会『平和運動』2022年11月1日、№619(通巻934)、12~14ページ
「無題あるいは近況報告」 兵庫県自治体問題研究所『住民と自治・兵庫版』2022年11月1日、№589、2ページ
「日本共産党創立100周年記念講演を聴いて-学者・研究者との交流への期待」 全国学者・研究者日本共産党後援会『全国学者・研究者後援会ニュース』2022年10月19日、№205、1~3ページ
「参院選の結果と平和・生活守る取り組み」 全国商工団体連合会『第31回・全国事務局員交流会記録集』2022年9月、8~20ページ
「参院選の結果とこれからの政治(上) (中) (下)」 農民運動全国連合会「農民」2022年9月5日(第1519号)、9月12日(第1520号)、9月19日(第1521号)
「『資本主義に代わる経済体制』模索/トマ・ピケティ『来たれ、新たな社会主義』」 日本共産党『しんぶん赤旗』2022年9月18日、第8面
「ミニ解説・最新科学の下でのジェンダー平等」「家事労働の分担と女性のはたらく自由・権利」 労働者教育協会『ジェンダー平等と労働者-学習の友・別冊2022』2022年9月1日、22~24ページ、30~35ページ
「激動する政治の中、市民の関心にかみ合わせて」 日本平和委員会『平和運動』2022年9月1日、10~17ページ
『先住民族アイヌを学ぶ-藤戸ひろ子さんに聞いてみた』(藤戸ひろ子・建石始・大澤香氏との共著) 日本機関紙出版センター、2022年8月1日、全体148ページ
巻頭グラビア
はじめに~藤戸ひろ子から
はじめに~ともに学んだ教員から
第1部 今を生きるアイヌ民族を学ぶ授業
-第1章 和人との関係でみるアイヌの歴史(石川康宏)
-第2章 「共生」の視点に学ぶ(大澤香)
-第3章 アイヌの言語(建石始)
-第4章 みなさんからのお話
(1)アイヌの世界観とは(中井貴規)
(2)宣教師ジョン・バチラーの足あとを辿る(廣岡絵美)
(3)私の中のアイヌ(関根摩耶)
第2部 藤戸ひろ子さんに聞く
-第1章 アイヌのゆたかな文化を伝えたい――藤戸ひろ子さんの授業の内容(石川康宏)
-第2章 〈座談会〉藤戸ひろ子さんを囲んで(藤戸ひろ子・石川康宏・建石始・大澤香)
「危機的状況脱し再生する別の道/大門実紀歴史『やさしく強い経済学』」 日本共産党「しんぶん赤旗」2022年6月26日付、第8面
「座談会・金田さんと選挙戦を振り返って」「座談会・2021年選挙戦を振り返って」他 憲法が輝く兵庫県政をつくる会『憲法かが輝く県政へ-2021年兵庫県知事選挙の記録』2022年6月20
「からっぽの『新しい資本主義』か、『格差是正こそ真の経済成長への道』か」 兵庫県保険医協会「兵庫保険医新聞」2022年6月15日、第2008号、第2面
「平和を『力で守る』幻想 『外交と合意で開く』現実主義か」 安保破棄中央実行委員会「安保廃棄」2022年5月号、2022年5月1日、第4面
「いま若い人と読む『資本論』-現代的探求の旅に出発!」 新日本出版社『経済』2022年5月号、第320号、2022年5月1日、8~25ページ
「世界大きくとらえる知性をもとう」 日本共産党「しんぶん赤旗・日曜版」2022年4月17日付、第19面
「楽しく学び、改革の力をいっしょに育てていきましょう」 日本共産党兵庫県委員会「兵庫民報」2022年4月10日付、第4面
「なぜ緊張緩和策を探さないのか-岸田軍拡の本質(背景)と改憲策動」 全国商工団体連合会『月刊民商』2022年2月号、第741号、2022年2月1日、2~9ページ
「ゆりもどしの力をはねかえして-資本主義の発展と総選挙」 労働者教育協会『学習の友』2022年1月号、第821号、2022年1月12日、20~27ページ
「政治の転換のために『言葉』と『ビジョン』を示して希望をつくる」(1)、 (2)
(景山佳代子氏との対談) 日本平和委員会『平和新聞』2021年12月25日・2022年1月5日合併号、2280号、2~3面
「よく学び、よく語る機会をもって/総選挙の結果と参院選、改憲阻止へ」 新日本婦人の会「新婦人しんぶん」2022年1月1日、第3397号、第6面
「2022年を展望するために-21年総選挙を考える」 日本平和委員会『平和運動』2022年1月号、第609号(通巻924号)、2022年1月1日、2~11ページ
[2021年]
「総選挙をどう見るか 落胆せず結果に学び前進を 自分の言葉で政治を語ろう」 全国商工団体連合会「全国商工新聞」2021年11月15日付、第3483号、第7面
「コロナ禍の日本の政治・社会をどう見るか、どう展望するか」 中央社会保障推進協議会『社会保障』2021年冬号、第499号、2021年11月10日、4~14ページ
「コロナ禍の日本の政治・社会をどう見るか、どう展望するか」 日本医療労働組合連合会『医療労働』2021年11月号、第650号、2021年11月10日、7~15ページ
「コロナ禍の下で『資本論』を学ぶということ(上・下)」(座談会/萩原伸次郎・関野秀明氏と) 日本共産党『前衛』2021年11月・12月号、第1006、1007号、2021年11月1日・12月1日、116~137、191~215ページ
「本と話題/『新版 資本論』第11分冊・第12分冊/配列是正し未来社会論が読み取りやすく」 日本共産党「しんぶん赤旗」2021年8月29日付、第8面
「人の尊厳を踏みにじる新自由主義からの脱却を」 日本婦人団体連合会編『女性白書2021-コロナ禍とジェンダー平等への課題』2021年8月20日、ほるぷ出版、17~23ページ
「生産力の質の転換で、安心して暮らせる地球環境へ」 労働者教育協会『学習の友・別冊2021 気候機器・感染症・環境破壊を考える』2021年8月1日、8~19ページ
「日本経済をどうしていくか」 日本自治体労働組合総連合『月刊自治労連デジタル』№35、2021年7月15日、21~31ページ
「職場に政治の風を吹かせよう-野党連合政権の実現を」 全国労働組合総連合『月刊全労連』2021年7月号、2021年7月15日、1~10ページ
「コロナ危機を乗り越える社会へ」 兵庫歴史教育者協議会『兵庫の歴史教育』第21号、2021年6月27日、2~24ページ
「市民と野党の共闘で『命と暮らしを本気で守る県政』を」(シリーズ 憲法が輝く兵庫県政へ30・まとめ) 「兵庫民報」2021年5月16日付、第1面
「ジェンダーギャップ日本深刻/散々な政治・経済 政権党の責任」(経済これって何?) 日本共産党「しんぶん赤旗・日曜版」2021年5月16日付、第20面
「新自由主義からの脱却とジェンダー平等への道」 労働運動総合研究所『労働総研クォータリー』2021年春季号、№119、2021年5月1日、2~9ページ
「コロナ禍で見えた日本社会の矛盾 未来を変える絶好のチャンス」 全日本民主医療機関連合会『民医連新聞』第1734号、2021年4月19日付、第4~5面
「私を助ける政治をつくろう! 法律家への期待にもふれて」 自由法曹団『団報』205号「2020年兵庫・神戸総会の記録」、2021年3月、18~29ページ(資料63~82ページ)
「野党連合政権と日米安保」 日本平和委員会『平和運動』第598号(通巻913号)、2021年2月1日、2~11ページ
「(発言)コロナ危機が明らかにした新自由主義経済の破綻と克服の課題」他 平和・民主・革新の日本をめざす全国の会(全国革新懇)「シンポジウム/コロナ危機をのりこえる新しい社会をめざして」(藤田孝典さん、本田宏さん、岡野八代さん、志位和夫さんとともに)4~14ページ、43ページ、52~54ページ
「2021年の政治・経済を展望する」 全国商工団体連合会「全国商工新聞」第3442号、2021年1月18日、第7面
「野党連合政権でポストコロナ社会を切り拓こう」 平和・民主・革新の日本をめざす東京の会『東京革新懇ニュース』第458号、2021年1月5日、4~5面
「資本主義の限界と変革を考える」 新日本出版社『経済』2021年1月号、2021年1月1日、28~42ページ
「マルクスの前進、エンゲルスの苦闘、現代の課題-不破哲三『「資本論」完成の道程をたどる』を読んで」 日本共産党『前衛』2021年1月号、第996号、2021年1月1日、201~207ページ
〔2020年〕
「世話人総会での発言」 全国学者・研究者日本共産党後援会『全国学者・研究者後援会ニュース』№195、2020年12月8日、3~4面
「憲法にそった『私をたすける政治』をつくろう」 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟編『治安維持法と現代』2020秋節号№40、2020年10月30日、17~22ページ
「新型コロナが問う 日本と世界/『個人の尊厳』守る社会へ/広がる『脱新自由主義』」 日本共産党「しんぶん赤旗」2020年8月18日号、第1・3面
『ゆたかさ』世界思想社、2020年8月20日、全115ページ(3~34ページ執筆)
「『緊急事態』対応において組合が果たした役割(下)」 関西地区私立大学教職員組合連合「私大教連かんさい」2020年7月30日、№158、第6~7面
「『緊急事態』対応において組合が果たした役割(上)」、「遠隔授業の苦心-研究時間が大きく圧迫される」 関西地区私立大学教職員組合連合「私大教連かんさい」2020年6月30日、№157、前者第3~5面、後者第6面
「『政治を変えたい』 切実な願いと手を取り合って(1面) (2・3面)」 兵庫革新懇「全国革新懇ニュース(兵庫版)」2020年6月号、1~3面
「社会のしくみや展望、いまこそ探求の時」 日本共産党「しんぶん赤旗・日曜版」2020年5月17日号、第19面
「不可欠にして稀有な第二バイオリン・エンゲルス」 新日本出版社『経済』2020年5月号、2020年5月1日、45~61ページ
『いまこそ、野党連合政権を!』 日本機関紙出版センター、2020年4月24日、全156ページ(101~137ページ担当)
【第1章】真実とやさしさ、そして希望の政治を(冨田宏治)
【第2章】野党共闘と本当の民意、そして安倍改憲との闘い(上脇博之)
【第3章】野党は連合政権構想を今すぐに―世界の「幸福大国」に学びながら―(石川康宏)
「暮らし守る視点 軸に」(政府の緊急事態宣言を受けて) 日本共産党「しんぶん赤旗」2020年4月8日、第3面
「貴族社会に戻っている-深まる格差への強烈な危機意識/ピケティ原作 映画『21世紀の資本』を見て」 日本共産党「しんぶん赤旗」2020年3月20日、第9面
「私と資本論④ マルクスを広く市民の教養に」 日本共産党「しんぶん赤旗」2020年1月31日、第9面
「経済これって何? ジェンダー格差 日本は121位 女性参加がすすめば経済も活性化」 日本共産党「しんぶん赤旗・日曜版」2020年1月19日、第20面
「野党連合政権へ、学習を土台に自力をつけて」 全国革新懇ニュース(兵庫県)№252、12・1月合併号
「問題提起 野党連合政権へ、本気の構えを今すぐに」 進歩と革新をめざす大阪の会『大阪革新懇だより』第205号、2019年12月10日、第1面
「革新懇青年交流会・基調報告 『政治と私』を学ぶ仲間をつくろう」 平和・民主・確信革新の日本をめざす全国の会(全国革新懇)『安倍政治を終わらせ、希望ある政治へ 地域・職場・青年革新懇全国交流会in兵庫記録集』2019年12月10日、108~115ページ
「書評 牧野広義著『マルクスの哲学思想』」 関西唯物論研究会編『象徴天皇制を考える』(『唯物論と現代』第61号、2019年11月30日、145~148ページ
「『社会のしくみのかじり方』韓国語版・はじめに」2019年9月27日
「参院選の前進点、青年との接点をどう広げるか」 平和・民主・革新の日本をめざす全国の会(全国革新懇)「全国革新懇ニュース」2019年9月号、№412、2019年9月10日、4面
「野党連立政権構想がいよいよ共闘の表舞台に」 日本平和委員会『平和運動』2019年9月号、№581(通巻896)、2019年9月1日、2~11ページ
「閉会あいさつ」 日本平和委員会『平和運動』2019年9月号、№581(通巻896)、2019年9月1日、19~20ページ
「参院選結果をどう見るか/改憲勢力が3分の2割れ/連立政権協議に道を開く」 全国商工団体連合会「全国商工新聞」2019年8月19日、3373号、7面
「希望の見える未来を大いに語ろう-市民と野党の新たな挑戦」 憲法会議『憲法運動』2019年7月号、482号、2019年7月3日、4~11ページ
「『明治150年』と日本資本主義の形成」 関西唯物論研究会編『近現代日本と思想の課題』(『唯物論と現代』第60号)、2019年6月30日、17~33ページ
「憲法を生かし、だれもが安心して暮らせる社会をめざして」 新日本婦人の会『女性&運動』2019年5月号、2019年5月1日、8~14ページ
「労働者階級の発達への注目」 新日本出版社『経済』2019年5月号、2019年5月1日、36~37ページ
「本と話題 マルクス未来展望の今日的総括 不破哲三『「資本論」のなかの未来社会論』」 日本共産党「しんぶん赤旗」2019年4月21日付、8面
「過労死、低賃金いったいなぜ? マルクスを読もう」 日本共産党「しんぶん赤旗日曜版」2019年4月14日付、19面
「どうして憲法を変えたがるの?」 総合社会福祉研究所『福祉のひろば』2019年2月号、2019年2月1日、10~29ページ
「安倍政権と社会保障、日本の形」 北海道社会保障推進協議会『笑顔でくらしたい』2018年12月1日、第103号、5~8ページ
『21世紀のいま、マルクスをどう学ぶか』山田敬男/牧野広義/萩原伸次郎編著 学習の友社 2018年12月1日 全203ページ
〔Ⅰ マルクスの生き方と思想〕
マルクスの生き方を考える(長久啓太)
個人の尊厳とマルクス(牧野広義)
未来を先取りする労働組合(赤堀正成)
〔Ⅱ 資本主義の分析と批判〕
マルクスの経済危機分析とわたしたち(萩原伸次郎)
『資本論』の視点で、AIやICT革命をどう見るか(友寄英隆)
資本主義批判としての疎外・物象化論(岩佐茂)
「資本主義の限界」と変革の展望
〔Ⅲ 社会変革と未来社会〕
労働者階級の成長・発展とマルクス・エンゲルス(妹尾典彦)
日常生活と政治意識(長澤高明)
マルクスが資本主義の先に見た社会(石川康宏)164-179ページ
マルクスの視点から日本の変革主体と労働運動を考える(山田敬男)
「みんなのしあわせを育てるために」 全国保育問題研究協議会編集委員会『季刊・保育問題研究』第293号 新読書社、2018年10月25日、142~166ページ
「全体討論での発言」(日本平和委員会第68回定期全国大会) 日本平和委員会『平和運動』2018年10月号、2018年10月1日、25ページ
『若者よ、マルクスを読もうⅢ アメリカとマルクス-生誕200年に』(内田樹さんとの共著) かもがわ出版、2018年9月21日、全286ページ
第1部 往復書簡『フランスにおける(の)内乱』(石川・内田)
第2部 〈報告と批評〉アメリカとマルクス
〈報告〉アメリカとマルクス・マルクス主義(内田)
〈批評〉現代アメリカ型「マルクス主義」への道(石川)
第3部 〈報告と批評〉生誕200年のマルクス
〈報告〉マルクスとは何者であり続けてきたか(石川)
〈批評〉現実から生まれた理論、外部から来た理論(内田)
第4部 〈新華社への回答〉『若マル』の著者が語る生誕200年のマルクス
マルクスを読むことにはどういう意味があるのか(内田)
資本主義の改革と本当の社会主義のために(石川)
「市民運動の意識が、日本国憲法に追いついてきた」 日本母親大会『第64回日本母親大会のしおり in 高知」2018年(6月、日付なし)、14~19ページ
『憲法が生きる市民社会へ』(内田樹さん、冨田宏治さんとの共著) 日本機関紙出版センター、2018年5月20日、全87ページ
1・今の世界をどう見るか
2・日本の政治をどう見るか
3・対米従属と安倍改憲
4・希望の灯をどうともすのか
座談会「私立大学における女性のキャリア形成」(肥塚直美さん、武石恵美子さん、塘 利枝子さんと、司会・兼高聖雄さん) 日本私立大学連盟『大学時報』2018年5月号、№380、5月20日、18~33ページ
対談「生誕200年 マルクスってロックだ」(中山歩美さんと) 日本共産党「しんぶん赤旗・日曜版」2018年4月29日・5月6日合併号、第20~21面
「革命家マルクスと経済学のすすめ」 新日本出版社『経済』2018年5月号、№272、5月1日、19~40ページ
「日本の民主主義はどこまできたか(上)-憲法理念と国民の力量に溝」、「日本の民主主義はどこまできたか(下)-憲法の実現阻んだ資本の論理」 日本平和委員会「平和新聞」2018年3月25日、2164号、第4面/2018年4月5日、2165号、第4面
「分岐に立つ日本社会-9条改憲か日本国憲法段階の市民の意思か」 日本平和委員会『平和運動』2018年3月号、№563、2018年3月1日、2~12ページ
『日本の民主教育2017』みんなで21世紀の未来をひらく教育のつどい-教育研究全国集会2017実行委員会、大月書店、2018年1月17日、19~51ページ、全352ページ
主催者あいさつ/開催地実行委員会代表あいさつ
討論のよびかけ「仲間とともに、子どもたちを真ん中に、憲法と教育を語り合おう」
記念講演「社会のしくみと子どもの育ちを考える-大学生の大人への飛躍を応援して」(石川康宏)
分科会報告(国語教育、外国語教育、社会科教育、数学教育ほか)
「マルクス生誕200年-引き継ごう、変革の理論と生き方」 日本民主青年同盟「民主青年新聞」2018年1月15日、3007号、第10~11面
「新春対談 神戸女学院大学教授 石川康宏さん 市民と野党の共闘は日本社会にしっかりと市民権を得た/日本共産党委員長 志位和夫さん 世界でも日本でも、逆流を乗り越え、新しい時代を開く大変動が起こった」 日本共産党「しんぶん赤旗」2018年1月1日、第1・4・5・6面
〔2017年〕
「憲法と経済民主主義を考える」 第20回中小商工業全国交流・研究集会全国実行委員会『中小商工業と地域の力で幸せで公正な社会を』、2017年12月、88~108ページ
「『共闘』を守り進んだこの場から、さらに前へ」(特別分科会での報告) 平和・民主・革新の日本をめざす全国の会(全国革新懇)『いま、わたしたちが政治を変える(地域・職場・青年革新懇全国交流会記録集 2017年11月18日・19日 愛知)』、2017年12月25日、60~65ページ
「政治がわからなければ、子どももくらしも守れません」 全国保育実践交流連絡会/保育カレンダー編集委員会『全国保育実践交流連絡会20周年記念誌』、2017年11月、47~59ページ、シンポジウム「子どもの命と平和を守る保育を目指して」(コーディネーター廣木克行氏、シンポジスト小森陽一・土佐いく子氏と)71~92ページ
「『資本論』第1部における資本主義の発展論」 関西唯物論研究会『唯物論と現代』第58号、2017年11月30日、2~17ページ
「分断の試練をこえてさらに前へ-共闘を鍛えた2017衆院選」 平和・民主・革新の日本をめざす全国の会「全国革新懇ニュース」2017年11月号、第394号、第4面
「『帝国主義論』の現代的意義を考える」 新日本出版社『経済』2017年11月号、№266、11月1日、76~88ページ
「『憲法をいかす』を政治の本流に」 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟『治安維持法と現代』2017年秋季号、第34号、2017年10月31日、5~16ページ
「総選挙2017 今言いたい/新しい共闘の結集を」日本共産党「しんぶん赤旗」2017年10月8日、第3面
『被災地福島の今を訪れて-見て、聞いて、考えて、伝える』 神戸女学院大学石川康宏ゼミナール著、日本機関紙出版センター、2017年9月20日、全206ページ
Day1 9月5日(月)
原発事故から5年5カ月-福島の現状と課題(伊東達也)
〈Day1〉を振り返って(学生座談会)
Day2 9月6日(火)
震災復興とは何か-UDOK.で考える(小松理虔)
分断を乗り越えるには-いわきの町を案内しつつ(小松理虔)
みんな原発に振りまわされてきた(里見喜生)
〈Day2〉を振り返って(学生座談会)
Day3 9月7日(水)
東電の馬鹿野郎ですよ!(渡辺勝義)
〈Day3〉を振り返って(学生座談会)
Day4 9月8日(木)
放射線を心配しなくていい、制限のない保育を(斎藤美智子、安彦孝)
福島の果樹農家に起きたこと(野崎隆宏)
〈Day4〉を振り返って(学生座談会)
いろんな実感、いろんな気づき-座談会のまとにかえて
「『資本論』発刊150年/現代的生命力持つ汎用性」 日本共産党「しんぶん赤旗・日曜版」2017年8月20日号、第20面、「経済これって何?」欄
『本当は怖い自民党改憲草案』 伊地知紀子・新ケ江章友編 法律文化社、2017年7月31日、180~206ページ
はしがき(伊地知紀子)
第1章 ナショナリズム-国民と国家はどうなるのか(山室信一)
オピニオン 自民党改憲案の「歴史的意義」について(内田樹)
第2章 戦争-どこが戦場になるのか(藤原辰史)
コラム 解釈改憲(石埼学)
第3章 表現・思想・信仰-人間の「精神的自由」とは何か(中村一成)
コラム 権利と義務(武村二三夫)
第4章 教育-幸福追求権としての教育はどうなるのか(西垣順子)
コラム 労働(岩佐卓也)
第5章 家族-誰かとつながりたい個人はどこへ向かうのか(弘川欣絵)
オピニオン カヤマさん、”違憲の人”となる(香山リカ)
第6章 貧困-社会はどのように分断されていくのか(西澤晃彦)
コラム 刑事手続(金尚均)
第7章 国政-独裁政治になってもいいのか(石川康宏)
コラム 社会運動(大野至・塩田潤)
おわりに(新ケ江章友)
資料 自民党日本国憲法改正草案
「資本主義の誕生、発展、死滅と労働者階級」 新日本出版社『経済』2017年5月号、№260、2017年5月1日発行、30~48ページ
「社会の発展と憲法の歴史-『とうげ』を迎えた現代日本」 全国保険医団体連合会『月刊保団連』2017年5月号、№1240、2017年5月1日、31~36ページ
「講座・変革の時代と『資本論』」よびかけ文 和歌山学習協ニュースのために、2017年3月13日
『変革の時代と「資本論」』-マルクスのすすめ』 『経済』編集部、新日本出版社、2017年1月30日、172~194ページ
【Ⅰ】 『資本論』とマルクス経済学のすすめ
1 科学としての経済学=『資本論』の魅力を語る(金子ハルオ)
2 『資本論』を学ぶ五つの心得(金子ハルオ)
3 『資本論』を学ぼうとする人に(平野喜一郎)
4 盟友エンゲルスと共に生み出した『資本論』(今宮謙二)
5 マルクスによる経済学の変革(山口富男)
【Ⅱ】 マルクス経済学の基礎を学ぶ
6 『賃金・価格・利潤』を読む(金子ハルオ)
7 《解説》 マルクスの剰余価値論(関野秀明)
8 『資本論』の源流をたどる(平野喜一郎)
【Ⅲ】 世界を変えるマルクスの目
9 マルクスの目で見て社会を変える(石川康宏)
10 世界をつかむ(上瀧真生)
11 変革の時代におけるマルクスの思想(鰺坂真)
「人権・社会権と医療を考える」(座談会/岩田俊さん・松村康夫さん・於曽能正博さんと) 東京保険医協会「東京保険医新聞」2017年1月5日・15日合併号、第1671号、4~5面
「『個人の尊重』(憲法13条)を貫く平和運動を」(対談/澤村暁世さんと) 日本平和委員会「平和新聞」新春特別号(12月25日・1月5日合併号)、第2127号、2~3面
「市民と野党の共闘で平和と安心の日本を」 労働者教育協会『学習の友』2017年1月号、第761号、2017年1月1日、28~33ページ
「政治の流れの逆転へ、推進力の根本は市民運動から」(報告)、「今日を懐かしく振り返る、大きな前進を力をあわせて」(討論のまとめと閉会あいさつ) 日本共産党『前衛』2017年1月号、第943号、2017年1月1日、122~126ページ、162~163ページ(全国革新懇『市民と野党の共闘の発展をめざす懇談会 記録集』からの転載)
「政治変革の『とうげ』/2016年から2017年へ/平和で民主的な政治へ力の結集を」(インタビュー)(1)・ (2) 兵庫革新懇「ニュース」2017年1月1日、第222号、2~3面
以下は、和歌山学習協主催で行われる
「講座・変革の時代と『資本論』」への
3月13日作成のよびかけ文です。
学習協のニュースに掲載するための文章です。
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〔和歌山講座よびかけ文〕
講座・変革の時代と『資本論』
和歌山のみなさん、こんにちは。神戸女学院大学の石川康宏です。今年は『資本論』第1部の出版から150年の年ですが、これを記念する和歌山学習協の企画でお話させていただく機会をいただきました。たくさんの方にお会いできると嬉しいです。
〔『経済』5月号の特集をよろしく〕
このよびかけ文を書いている今日は2017年3月13日で、いまは月刊『経済』5月号(『資本論』150年特集号)の原稿をまとめているところです。編集部からの依頼は12000字でしたが、ついつい26000字も書いてしまい、原稿は中をとって18000字あたりにおさまりつつあります。
そのため、うまい具合に(?)、誌面ではカットされる原稿部分がありますので、以下、それをもとに「『資本論』と私」風の思い出話や、『資本論』をめぐる最近の問題意識について少し書かせていただきます。
〔『資本論』を初めて買った1975年〕
家の本棚を探してみると、『経済』の1967年5月臨時増刊号が残っていました。背表紙には「『資本論』発刊100年を記念して」とあり、発行は5月5日となっています。マルクスの誕生日(1818年5月5日)にあわせて出したということです。中を開くと全300ページのすべてに上下二段組の細かい文字がビッシリと。今なら「読みづらい」と言われてしまいそうですが、当時はそうでもなかったようで、手元にあるのは1974年11月1日の5刷です。月刊誌のある号が、発刊から7年たっても新たに印刷されていた。これは驚きですね。
ぼくがこの号を手に入れたのは、1975年に入学した立命館大学でのことでした。先輩のすすめがあって生協の書籍部で買ったものです。初めて『資本論』の本体を買ったのもこの生協でのことでした。新入生歓迎の時期で力が入っていたのでしょう、店内には大月書店の普及版『資本論』(全3部5冊が1つの箱に入ったもの)が、山のように積まれており、他の学生にまじって、18才のぼくもその山をひとつ小さくしたのでした。
〔まるで歯が立たなかった学生・院生時代〕
しかし、言わずもがなのことですが、買うと読むのはまったく別で、大学時代のぼくには『資本論』はまるで歯が立ちませんでした。学生運動の日々に区切りをつけて、大学院への進学準備をはじめた頃に、初めて友人と集団的に読みましたが、それでも理解は各種の解説書に依拠する以上にはなりませんでした。逐条的な解説としては、デ・イ・ローゼンベルグの『資本論注解』(青木書店)をよく使ったように思います。ベテランのみなさんには、この本を覚えておられる方もあるかも知れません。『資本論』のレジュメを文章でつなげたような味気ない本でしたが、当時のぼくには、それが必要なのでした。
院生時代は、鉄鋼産業の日米関係をテーマにした論文書きに精一杯で、『資本論』に正面から取り組んだ記憶はありません。
〔恥をかきながら講義に挑んで〕
そんなぼくが、ようやくまともに『資本論』に向かったのは、神戸女学院大学に就職した1995年になってのことでした。すでに38才になっており、『資本論』との最初の出会いからは20年が過ぎていました。
大阪の関西勤労者教育協会で「基礎理論」の講義に加わりながら、京都労働者学習協議会、和歌山県勤労者学習協会、兵庫県勤労者学習協議会などで『資本論』の講義をさせてもらったのです。和歌山では不破哲三『「資本論」全3部を読む』(新日本出版社)をテキストに、第3部までとおしで講義させてもらったこともありました。
わからない箇所はたくさんありましたが(いまもたくさんあります)、恥をかいても、語りながら学ぼうという気持で行ったものでした。幸運だったのは、95年がちょうどエンゲルスの没後100年になっており、関連の文献が次々出版されていたことです。
『経済』に95年から96年にかけて連載され、97年に出版された不破『エンゲルスと「資本論」』(新日本出版社)もそのひとつでした。これは「『資本論』をマルクス自身の歴史の中で読む」と不破氏が強調する一連の本格的な研究の出発点ともいえるもので、特に『資本論』第二部・第三部への立ち向かい方という点で、後の諸文献ともあわせて大きな刺激を受けたものでした。
〔『資本論』について書くように〕
こうして始めた私なりの『資本論』修行は、2000年代に入って「マルクス主義フェミニズム」とのかかわりで『資本論』をジェンダー視角から読むとか、相対的過剰人口の問題にとどまらず人口爆発や少子化など長期的な人口変動の論理を『資本論』の中に探求するといった形で、少しずつ姿を現わすようなりました。これが、もう50才近くなってのことでした。さらに2010年代になると、出版社に請われて『若者よ、マルクスを読もうⅠ・Ⅱ』(かもがわ出版、内田樹氏との共著)や『マルクスのかじり方』(新日本出版社)など「マルクスのススメ」本も書くようになりました。これらは韓国語にも翻訳されて、どちらも結構読まれているようです。
振り返ってみれば、知り合って40年、まともに読むようになって20年、それについて書くようになってから10年と、つきあいの濃淡はありましたが、『資本論』とは人生の2/3を超える長いつきあいです。ぼくにとって、それだけ『資本論』は魅力的な本だということなのでしょう。
〔レーニンの資本主義段階論への疑問をもって〕
さて話題を転換します。じつは今年の『経済』5月号の原稿から、丸ごと落とすことで、次の原稿に活用することになった問題に、日本資本主義の確立・発展論がありました。この2年ほど、この問題を勉強しつづけています。きっかけは『経済』の2015年1月号に書いた論文「資本主義の発展段階を考える」でした。
詳しい内容は、読んでいただくしかないのですが、誤解をおそれずに簡潔に言えば、レーニンの独占資本主義論は「死滅しつつある資本主義」論と一体で、国家独占資本主義論は「社会主義の入口」論と一体で、いずれも資本主義の発展段階をとらえる基軸の理論としては妥当性を失っているのではないか、というものでした。これらのレーニンの理論の根っこに『空想から科学へ』などでのエンゲルスの資本主義発展理解があり、それとマルクス『資本論』との間にはある程度の理解の違いがあるということについても少しふれました。
〔日本資本主義の発展を考える〕
しかし、これはあくまでこれまでの理論に対する批判的な問題意識の提示です。それを本当に乗り越えるためには、これにぼくなりの資本主義発展論を対置することが必要です。そう思って、その時から日本資本主義の歴史あるいは日本の近現代の歴史の勉強を始めたのです。
その最初の書き物が「日本資本主義の発展をどうとらえるか」(『経済』2015年11月号)でした。またそれをかなり書き直して渡辺治他『戦後70年の日本資本主義』(新日本出版社)に収録した同じタイトルの論文でした。
その後も、この検討を深めることを目的に、2016年秋には関西勤労者教育教会で「日本資本主義講座」(全4回)を担当しました。明治維新から戦後にいたる近現代史や日本資本主義の歴史に関する研究について、たくさんの文献を紹介しながらぼくなりの解説を加えるというものでした。
〔日本での資本主義社会の確立は〕
これもまた詳しい内容は、とりあえず先の論文を読んでいただくしかないのですが、やはり誤解を恐れず簡潔に述べるなら、これまでの研究では1910年前までの「産業革命」で日本社会は基本的に資本主義の段階に達したとされていますが、実際には明治維新から敗戦にいたる期間は、封建制社会から資本主義社会への過渡期であって、資本主義が経済社会全体で支配的な要素になるのは戦後の「農地改革」(寄生地主制の解体)と「労働改革」(労働三権の確立)と天皇制国家の解体をつうじてのことではなかったか、というものです。
つまり日本社会がはっきりと資本主義の段階に達したのは戦後のことで、その後の資本主義社会としての日本の歴史はわずかに70年程度しかないのではないかというものです。このように歴史を整理する上で、ぼくなりに指針にしたのは、レーニンの資本主義論ではなく、マルクスの資本主義論でした。
〔2回の講義のタイトルは〕
今回の講座では、以上2つの問題意識を柱にすえて、マルクス『資本論』についてのお話をしてみたいと思っています。今のところ、2回の講義のタイトルは次のようなところでしょうか。
第1回「マルクスの目で見て社会を変える」
第2回「日本資本主義の発展をどう見るか」
とはいえ、講座は、まだ4カ月以上も先のことです。それまでの間にぼくなりの研究や問題意識に何かの変化があるかも知れません。いえ、あってほしいと思っています(研究の進展に期待するということですね)。もしそうなれば、その新しい成果を組み入れて、お話をバージョンアップさせたいと思います。ですから、この呼びかけ文は、あくまで3月13日段階のものとしてご了承いただけるようお願いします。
では、みなさんとお会いできることを楽しみにしています。
以下は、労働者教育協会『学習の友』2017年1月号に掲載されたものです。
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市民と野党の共闘で、「平和と安心の日本」をつくろう
1 2017年を「とうげ」を越える画期の年に
「危機」(Crisis)という言葉には、もともと、事態の一方的な悪化という意味だけでなく、状況がよい方向にも悪い方向にも変わりうる「分岐点」という意味が含まれています。テレビドラマなどで、時々、病人を前にしたお医者さんが「今夜がとうげですね」なんて家族に語る場面がありますが、あの医学用語としての「とうげ」はCrisisです。
安倍政権の暴走が生み出した日本の政治状況を「危機」的と評する場合には、その「危機」は、この「とうげ」という意味でなければなりません。なぜなら、そこには、改憲派が参議院・衆議院両方の2/3議席をもち、安倍政権が「戦争する国づくり」に異常な執念をもやす事実がある一方で、そうした企みをはねかえし、日本国憲法をこの国の政治の本当の指針にすえようとする、戦後史になかった画期的な社会の力も生まれているからです。その核心をなすのが国政では戦後初めてとなった「市民と野党の共闘」です。
「市民と野党の共闘」は2016年夏の参院選で、安倍政権の暴走にブレーキをかけ、政治を民主と平和の方向に転換する大きな力をもつことを事実で証明しました。その後、この共闘は、地元のみなさんに「もはや新潟は保守王国ではない」といわしめた新潟県知事選挙での米山隆一さんの勝利など、地方政治の刷新にも、活動の場を広げています。
この原稿を書いている時点で、衆議院選挙は、まだ時期が確定していませんが、中央で、全国各地で、すでに共闘の候補者づくりが進んでいます。市民と野党がしっかり力をあわせることができるなら、2017年を、市民の安心と安全が回復される方向へ、政治を転換していく画期的な年にすることは可能です。
2 立憲主義の回復から、憲法どおりの日本へ
私は、2016年4月のインタビューで、安保法(戦争法)の強行採決(2015年9月19日)以後、その廃止だけでなく、待機児童の解消、奨学金問題の改善、最低賃金1500円の実現など、「個人の尊厳が尊重される政治」に向けて、市民運動がますます声を大きくしていく状況について、次のように述べました。
「これらは現実の深刻さに余儀なくされた怒りの表出だけでなく、憲法で保障された権利の実現を国に求める国民の主権者意識の高まりをもつ」ものです。
「日本社会の現実はこれ〔憲法がさだめた生存権・教育権・労働権など、国家が国民の社会権を保障すること〕とかけ離れています。個人の尊厳を守る責任を負った政府がそれを放棄し、問題を国民の『自己責任』に解消する姿勢をもっているからです。いま急速に広がっている市民の運動は、ここに最大の問題があることを見抜いています」。
「立憲主義の回復を求める現在の運動は、その制約〔自らがもつ社会権に対する国民の理解の弱さ〕を超える歴史的な意義をもっていると思います。それは憲法を楯に悪政から生活を守るという受動的な運動ではなく、憲法の本格的で全面的な実施をめざす攻勢的な社会改革、社会建設の運動の端緒となっています」(「しんぶん赤旗」2016年4月22日)。
ここで社会権というのは、憲法がさだめた基本的人権の中で、国民が国家に対して、自分たちの生活や教育や労働の最低限を保障せよと命ずる権利のことですが、今日のように、自由権だけでなく社会権──直接、そのような言葉を用いてはいませんが、内実として──の尊重を求める広範な市民運動が巻き起こったのは日本史上初めてのことです。その点の強調はいまも大切なことだと思います。
しかし、ここでの私の語りには、「市民と野党の共闘」という政治改革をすすめる具体的な運動の進め方にふれたところがありません。当時の私には、3ヵ月後の参院選で、32の1人区で11議席を獲得し(前回選挙での野党の勝利は岩手と沖縄の2議席のみ)、その威力を存分に発揮することになる、こうした新しい闘い方の意義が十分とらえられてはいなかったのでしょう。
3 市民と市民運動の成長が根本に
このインタビューから7ヵ月、参院選から4ヵ月が経過した今、私のまわりには「市民と野党の共闘」を、どのように発展させていくかという話し合いがあふれています。
全国革新懇は、10月22日に「市民と野党の共闘の発展をめざす懇談会」を行いましたが、そこでコーディネイターをつとめた私は、最初と最後の発言で、次のように述べました。
「2年半前、『「一点共闘」と政治を変える共同の発展をめざす懇談会』というものを、やはり全国革新懇の主催で行いました。面白いんですね。フロアから、東京革新懇の方だったと思いますけれど、国政選挙でなんとか革新の共同候補を立てることはできないのか、という声があり、それに対して共産党の志位委員長から、現状ではなかなか難しいが、何とかそこに変化をつくりたいという回答がされていました。それから2年半たっての今日の懇談会は、すでに国政では初めての市民と野党の共闘が行われ、1人区で前回参院選の2議席から11議席へという飛躍を生み出した、そういう歴史的体験を共有したうえでの懇談会になっています」(最初の発言)。
「最初にお話をさせていただいたときに、2年半前の『一点共闘』についての議論を紹介し、そこから短期間のうちに大きな変化があったことを確認しました。この先、2年後にこのような企画が3度あるのかどうかは分かりませんが、もしあるとすれば、2016年の懇談会ではまだあんな議論をしていたんだね、そんなことを懐かしく語り合えるような、さらに大きな前進を、市民と野党の共闘の一層の発展を通して達成していきたいと思います」(閉会のあいさつ)。
同じく全国革新懇が11月に行った都道府県事務室(局)長学習交流会では、市民と野党の共闘を可能にした「市民運動の『質的変化』」について、次のような分析と問題提起がされました。
①共通の要求として安倍政権打倒をかかげ「政治」や「政府」の問題に接近した、②労働組合、各種の民主団体、政党との本格的な連携が生まれた、③反共的な意識の乗り越えがすすみ、「共産党を除く」という壁が崩された、④候補者一本化の名目で「ともかく共産党が候補を降ろせ」という一方向的な議論が乗り越えられた、などなどです。
30年ほど前には、与党も野党も同列視して、野党との連携をあたまから否定する「既成政党」論や「既成左翼不要」論が、一部の市民運動に大きな影響力をもっていましたが、主権者にふさわしい市民運動の成長は、こうした面でも急速です。
また、私が暮らす兵庫県では、2017年夏に県知事選挙が行われますが、11月に立候補予定者を発表した「憲法が輝く兵庫県政をつくる会」は、前回2013年の知事選挙の際には発足していなかった、あるいは発足したばかりだった各種の団体・ネットワーク──安保関連法に反対するママの会、学者の会、あすわか(明日の自由を守る若手弁護士の会)、学生たちなど──との交流と共同を、決定的に重要な問題のひとつと位置づけています。
同時に兵庫県は、複数の議員が当選する選挙区だったため、2016年の参議院選挙では具体的な野党候補の「調整」を体験していません。長年の「オール与党」政治がいまも継続し、また民進党の組織的な崩れが大きく──地方議員の離党がつづいています──、反面、維新の会が一定の影響力をもっているという「土地柄」の中で、いかにして「市民と野党の共闘」を切り拓き、発展させていくべきか、その道筋をめぐる議論も様々な形で行われています。
4 「個人を活かす」組織・団体づくりを
2004年に発足した「9条の会」の取り組みを土台におきながら、2011年からの「脱原発」「原発ゼロ」を求める「一点共闘」をきっかけに加速した市民運動の成長、主権者意識の高まり、政治参加の姿勢の深まりはきわめて大きく強い流れです。安倍政治の暴走に対する不安や怒りを背景に、広範な市民の政治的成長にもとづく「市民と野党の共闘」は、2017年にもますます大きな発展を遂げていくでしょう。
この発展を加速するために、目前の衆議院選挙に向けた野党間の政策合意を深めていくこと、選挙共闘だけでなく政権共闘についても前向きの合意をつくっていくこと、それぞれの野党に対する国民の支持に応じた本格的な「相互」協力の体制をつくっていくことなど、全国革新懇の「懇談会」でも、多くの課題が指摘されました。
それに加えて、ここで『学習の友』らしい問題提起をしておけば、日本の労働組合運動全体を、労働者やその家族の利益をしっかり守り、組合員それぞれの政党支持の自由を擁護するものへと成長させる取り組みの重要性と緊急性が指摘できます。
労働組合に、資本からの独立、政党からの独立、共通の要求にもとづく行動の統一が必要だということは長く指摘されてきたことですが、いま「市民と野党の共闘」を発展させる上で、日本の労働組合の最大組織である「連合」に、そうした労働組合本来の姿を獲得する脱皮が求められるようになっています。
最大の野党である民進党の主要な「支持母体」となり、しかも民進党と共産党の共闘に水を差すという「連合」の役割が、広範な市民によって批判的に見られるようになっているのです。
こういう状況だからこそ、労働組合とはそもそも何か、それは現在の日本社会でどういう役割を果たすべきかを、これまで以上にわかりやすく、広く市民に向けて問題提起をしていくことが必要です。それは健全な労働組合に、新しい加入者を迎える取り組みとも相乗効果をもつものになるでしょう。
もうひとつ、労働組合・民主団体には、加入する個人のアクティビスト(よりましな政治・社会をめざす活動家)としての能力を高め、成長を支援する活動が、ますます強く求められています。
「若者の組織ぎらい」が言われることがありますが、その一因は、組織と個人の関係で、個人が組織の「指導に従う」ことが主とされ、組織が個人の成長を支援し、個人の発意を尊重しながら力をまとめるという、「個人を活かす」関係が主になっていないところにあるように思います。それが、個人が組織に埋没するという傾向や、個人が組織にしばられるという実感を生み出すもとになっているように思います。
こういう「組織と個人」のあり方も、市民と市民運動の今日的な成熟の段階を考慮して、積極的に検討していく必要があるでしょう。
新しい時代の新たな課題に意欲をもって挑戦し、2017年を「平和と安心の日本」に向けた大きな転換の年としていきましょう。
以下は、日本共産党『前衛』2017年1月号に掲載されたものです。
(全国革新懇『市民と野党の共闘の発展をめざす懇談会 記録集』からの転載)
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報告「政治の流れの逆転へ、推進力の根本は市民運動から」
〔2年半前の懇談会をふりかえって〕
皆さん、こんにちは。神戸女学院大学の石川です。全国革新懇の、あまり出席率はよくないんですけども、代表世話人の1人です。きょうはコーディネーターという格好いい名前で、実際には普通の司会をさせていただきます。スライドをご覧ください。
まず、ご報告の皆さんをご紹介します。すでに発言順に座っていただいています。
こちら側から小田川義和さん、全労連議長、総がかり行動実行委員会の共同代表をされています。次が中野晃一先生です。安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合の呼びかけ人で、上智大学の先生です。お隣が志位和夫さんです。日本共産党の委員長を務められています。
それから、そのお隣が西郷南海子さんですね。安保関連法に反対するママの会発起人で、今日は小さなお子さん2人と一緒に、家族3人でご参加ということです。それから、トリが横山良さん、オール徳島県民連合代表呼びかけ人で、神戸大学の名誉教授です。皆さん、よろしくお願いいたします。
私からも、話をしなさいということですので、少しだけ準備をしてきました。
先ほど牧野先生からもお話がありましたが、2年半前、「『一点共闘』と政治を変える共同の発展をめざす懇談会」というものを、やはり全国革新懇の主催で行いました。その記録集を読み返してみましたが、面白いんですね。
フロアから、東京革新懇の方だったと思いますけれど、国政選挙で何とか革新の共同候補を立てることはできないのか、という声があり、それに対して共産党の志位委員長から、現状ではなかなか難しいが、何とかそこに変化をつくりたいという回答がされていました。
それから2年半たっての今日の懇談会は、すでに国政では初めての市民と野党の共闘が行われ、1人区で前回参議院選の2議席から今回の11議席へという飛躍を生み出した、そういう歴史的体験を共有したうえでの懇談会になっています。
そのような変化を反映して、前回の報告者は革新懇の内部の、あるいは敷布団の方だけだったのが、今回は敷き掛け合わせて、さらに広く、分厚いみなさんになっています。
今後、市民と野党の共闘をどのように発展させていくかということについてのお話ですが、その運動の渦中にある方がお並びですので、私からは外堀の一部を埋めるということで、一方で、戦後初めて改憲派が両院の3分の2議席を取る危険な状況が生まれ、もう一方で、市民と野党の共闘で戦後初めて国政選挙に取り組むという変化がつくられてきた、その経過について簡単に思うところをお話しさせていただきます。
〔現在に直結する90年代からの社会の劣化、閉塞化〕
今のように非常に生きづらい、閉塞感の強い日本社会がつくられるうえで、私が自分の人生でも実感を持って感じるところですが、大きく2つの転機があったかと思います。
1つは、かつての革新統一戦線運動、革新自治体をつくり広げる運動が、70年代半ばから壊されていき、それを食い止めることができなかったというところ。
もう1つは、こちらが今日の社会のあり方に直結するわけですが、91年にソ連が崩壊した後に「社会主義は死んだ」だけでなく、「革新は死んだ」という大合唱があり、同時に「資本主義万歳」という大合唱が行われました、その後の10年間での非常に大きな変化でした。
その内容の1つは「構造改革」です。アメリカの大企業が自由に金もうけのできる環境整備を進めろというアメリカからの圧力があり、これに日本の財界が乗っていく。そこから、賃金が1997年をピークにして、それ以降それを超えることがなくなるという現状が生まれ、他方で大企業の内部留保がうなぎ登りに伸びるという、貧困と格差の拡大が進みました。
2つは、日米安保の問題ですが、96年に安保共同宣言が行われています。ソ連が崩壊したにもかかわらず、もう安保はなくてもよいという話にはまったくならず、反対に、アジア太平洋の全域で日米同盟を展開する、日米安保をグローバル安保に拡大するということが確認されました。今日の安保法体制づくりに直結するところです。
加えて3点目が復古主義の台頭、前面化です。河野談話や村山談話に対する危機感と、護憲の力が弱くなっていると見る復古派の判断の両方があったかと思いますが、97年に日本会議が結成され、日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会や新しい歴史教科書をつくる会がつくられます。これは、93年に発足した自民党の歴史検討委員会が95年に発表した『大東亜戦争の総括』などにもとづく、相当に大がかりな策動の結果でした。
4点目は、自民党が、今日のように政治的に幅のない政党になってしまうきっかけの問題です。自民党元総裁の河野洋平さんが安倍政治は右翼政治じゃないかと言われましたが、そうした自民党の劣化の1つのきっかけが、96年の衆議院選挙で小選挙区制がスタートしたことでした。
ベテランの皆さんは、よく覚えておられると思うんですが、かつての中選挙区制では、1つの選挙区から自民党の議員が2人当選する、場合によっては3人当選するといったこともありました。出身派閥の違う人たちが同じ自民党から当選したわけです。その結果、同じ自民党の中に、それなりに意見の違うグループが併存しました。
しかし、小選挙区制になると、党執行部のお墨付きをもらわないと当選できなくなってしまい、そこから執行部へのイエスマンばかりの党に変わり始めます。有力者が自分のオトモダチばかりを集めた政党に変質するわけです。ここに、先の復古主義の台頭がかさなりました。96年から首相をつとめた橋本龍太郎さんは靖国公式参拝を総裁選の公約とし、小泉純一郎さんは8月15日に公式参拝することを公約して総裁になりました。こうして自民党の単色化・劣化と右傾化が一体で進むことになりました。
5つ目に、市民の意識に対する攻撃として、90年代後半から、特に若い世代に向けて「勝ち組・負け組」論が、『SPA!』なんていう、ベテランの皆さんには元「週刊サンケイ」と言ったほうが通りがいいかと思いますが、そういう雑誌で展開されました。
こうして90年代には、いわば同時多発的に、大きな社会の変化がつくられました。そういう急速な社会の劣化、閉塞化を前に、98年の参院選では共産党が比例で820万票を獲得する変化も起こりますが、その後、集中攻撃を浴びせられ、また自民・民主の2大政党制を財界主導でめざす動きが表面化し、それに押し戻されるということもありました。
〔九条の会、各種の一点共闘、市民と野党の共闘へ〕
このようにして日本社会は、日本国憲法の理念からますます遠ざけさせられました。そのうえで、2000年代に入ると、自分たちで遠ざけた現実に合わせる方向で憲法の方を変えようという動きが表面化します。
00年の「読売」の改憲試案、02年には公明党が「加憲」というごまかしの言葉で改憲に同調する。04・05年になると、自民党の中からは毛色の違ういくつもの改憲案が出てくるし、財界団体や民主党からも同じ方向の意見が出てくる。
そんな状況に強い危機感をもって市民が大きく立ち上がったのが、04年の九条の会の発足でした。立場の違いを超えて憲法を守ろう、9条を守ろうという1点での市民の取り組みでした。
その後、2006年に第一次の安倍政権が成立し、国民投票法を可決させるなど直接的な改憲の準備に踏み込みますが、07年の参議院選挙で自民党は歴史的な大敗を喫します。
ご存じのように、あの瞬間には「9条は守れ、しかし、憲法は変えてもよい」というそれまでの市民の世論が、「9条は守れ、憲法も変えてはいけない」に変わりました。九条の会はじめ、さまざまな護憲団体の取り組み、市民運動と護憲政党が力をあわせた取り組みの大きな成果でした。
そして、2009年には民主党中心の連立政権が誕生します。自民党に取って代わる新しい政権を国民が選択したものでしたが、残念ながら、これは国民の期待に十分応えることができませんでした。安倍政権は倒したが、それに代わる政権の準備はできていなかった。これが安倍政権とのたたかいの第1ラウンドの結果でした。
誕生した民主党政権が右往左往する間に、2010年には自民党が新しい綱領を決めていきます。「日本らしい日本の保守主義を政治理念として再出発したい」(前文)と、自民党はここで右傾化から右翼化への飛躍を確認します。また、さらなる政治反動の先兵として、維新の会が国政に進出したのも10年でした。
2011年の東日本大震災と原発事故をきっかけとして、新しい形での市民運動が高揚します。原発ゼロへの取り組みからのスタートでしたが、震災復興、TPP、消費税、基地などさまざまな問題ごとに、個々の政治課題に応じた一点共闘が誕生し、民主党政権に向かって政治の中身の転換を求めていきました。
しかし、そうした市民の声に応える政権構想は見えてこず、2012年に第2次安倍政権が成立、復活し、これが暴走を開始します。安倍政権とのたたかいの第2ラウンドの開始です。安倍さんたちは、一度国民に倒された経験から教訓を得て、一方ではメディアを抱き込み、もう一方では、内外二枚舌外交で、東アジアやアメリカを怒らせないというように、より巧妙に「政治技術」を駆使します。
しかし、いかに巧妙であっても、進められる政治は市民の利益に反したものですから、矛盾を最も集中させられた沖縄から、2014年にはオール沖縄による画期的勝利が生み出されてきます。
15年には、安保法が強行採決されますが、全国的に、強力に展開された巨大な市民運動の期待に応えて、共産党が安保法廃棄のための「国民連合政府」を提唱し、その動きを加速させる「市民連合」も誕生します。市民連合は、安保法の廃止と立憲主義回復だけでなくて、個人の尊厳を守る政治いわば日本国憲法が定めた基本的人権のすべてを生かす政治を掲げて選挙に取り組みました。
これは戦後の国民運動、市民運動の歴史上画期的なことでした。
こうした歴史的な経過のうえに立って、この夏の参議院選挙は、改憲派が両院の3分の2の議席を戦後初めて獲得するという危機的状況の深化とともに、市民と野党の共闘が状況の転換に向けて新しい希望の火を灯すものともなりました。改憲の道に踏み込むのか、その流れを逆転させて憲法の生きる日本をつくるのか、文字通り、ここが本当に踏んばりどころです。
〔改憲派から国会の議席を取り戻すために〕
今後に向けた問題ですが、まずは、改憲案の発議を可能とする両院の3分の2議席を改憲派が握る状況を堀り崩さねばなりません。国会の議席を取り戻さねばならないのです。しかし、野党が一党ずつでたたかったのでは、今の選挙制度では勝ち目がありません。そこで市民と野党の共闘を、さらに強く、広く発展させるしか道はありません。それを急いで進める以外に道はありません。
これを強く、広く発展させるためには一体何が必要なのか。そこを話し合うのが今日のテーマで、具体的には、報告者のみなさんから提起があると思いますが、ごく簡単にふれておけば、1つには、野党間で政策の合意をどう深めるかという問題があると思います。市民の信頼をさらに広げるために、これは欠かすことのできないことだと思います。
2つには、自民党政権を倒しはしたが、受け皿となる政権準備ができていなかったという2009年の失敗を繰り返さないためにも、筋の通った連立政権の合意が必要だということです。
3つ目は、野党間のより対等で公正な相互協力の実現という問題です。最大野党は民進党だから民進党を応援しましょうでは、それ以外の野党を支持する市民の力は十分発揮されません。取り組みをより力強いものにするためには、ここも避けて通ることのできない問題です。
こうした課題をやり遂げるうえで、根本の推進力となるのは市民運動の力です。後ほど、ご発言があるかと思いますが、10月16日投票の新潟知事選挙の結果は画期的なものでした。最終盤には民進党の蓮舫さんが、野田さんの制止を振り切って、新潟へ応援に行かざるを得なくなり、選挙後には原発政策についてもう1回ちゃんと考えたいと言わざるを得なくなっている。
そうして全国的な情勢にさえ前向きの変化を切り開いた力は、何より市民の運動によるものでした。これを全国で、もう一回り大きく発展させるには、どうしたらよいのか。それを、それぞれの運動の領域で大きな役割を発揮されているみなさんに、お話しいただけるものと思います。
勝手にハードルを上げてしまったところがあるかもしれませんが、それではみなさん、順にご報告をよろしくお願いいたします。
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まとめの発言と閉会あいさつ「今日を懐かしく振り返る、大きな前進を力をあわせて」
みなさん、ありがとうございました。最後に、私から、まとめと閉会のあいさつをするようにとのことですが、今日は、自由に意見を交換することが目的ですし、また、これはこうだと勝手に答えを出すと、あとで中野先生に怒られそうでもありますので(笑)、そういうまとめはやめておきます。
かわりに、私が今日、皆さんの報告や発言をうかがって、印象的に思えたところをいくつか挙げさせていただくと、1つは「届く言葉」ということでした。「届く言葉」が必要だと、口で言うことは簡単なんですが、それを具体的に探求するのは大変です。
私も、すでに敷布団人生が40年になっていますので、この経験の世界から抜け出すことはなかなか難しいのですが、幸い、大学などで若い世代との付き合いがありますので、彼らとの対話のなかで、自分の言葉がどの程度届いているのかの確認に気を配り、少しでも自分を育ててみたいと思います。
それから、未来を切り開くポジティブな構え、ポジティブな訴えが大切なんだということも大事な点だと思いました。
敷布団世代には、今ある政治にはこういう問題があるというネガティブなところから話を展開する習性がありますが、そうではなく、私たちが本来目指したい社会はこういうものじゃないでしょうか、もう少しこうあったらすごしやすいですよねというポジティブな提起を先に打ち出して、そこから考えるといまの政治にはこういう課題があるんじゃないでしょうか、さて、皆さん一緒に乗り越えていきましょうよ、というふうに、そういう論の立て方に努力することもひとつの方法なのかと思いました。
志位さんからは、政党の立場からということで、野党間での政権の構想について、少しでも前向きな合意を作っていきたいというお話がありました。これはぜひとも深めていただきたいところで、私も、よりよい合意が実現するように、みなさんといっしょに取り組みを進めていきたいと思います。
それから掛け布団、敷布団に次いで、敷布団の新種なんでしょうか、せんべい布団という言葉も登場しました(笑)。いろいろ楽しくあってよいと思いますが、しかし、これは「自称」にとどめた方がいいでしょうね。人さまに向かって「あなたはせんべい布団だ」なんて言うわけにはいかないでしょうから(笑)。
新潟の知事選挙についてのご発言は、本当に感動的でした。「もう新潟は保守王国ではない」。この言葉に、万感の思いが込められていると思えました。長年の様々な体験や時々の気持をふりかえりながら、あらゆる思いを凝縮した言葉だったかと思います。
日本のどこでも政治の流れは変えられる、そのことを新潟のみなさんが実証してくれたわけですから、私が知事選挙にかかわっている兵庫県でも、ぜひとも過去の経験の枠をこえた新しい挑戦を進めたいと思います。
フロアからの発言のあり方についてですが、司会の私としては、発言したいとおっしゃる皆さんの権利を最大限尊重したいと考えました。それは、ここに集まっている方々一人ひとりを私が信頼し、リスペクトするということからです。
その点にかかわって、もう少し考えていただきたいと思うところがあったのは、今日のこの企画の主旨に沿う形で報告を作り上げてきたみなさんや、主催者の準備、またその内容にそった議論参加することを期待して全国から集まってこられた方がおられるわけですから、発言される方一人ひとりにもその努力や思いをリスペクトする姿勢を貫いていただきたかったということです。
一部のご発言に限ってのことですが、率直にお伝えしておきます。
さて、最初にお話をさせていただいたときに、2年半前の「一点共闘」についての議論を紹介し、そこから短期間のうちに大きな変化があったことを確認しました。この先、2年後にこのような企画が3度あるのかどうかは分かりませんが、もしあるとすれば、2016年の懇談会ではまだあんな議論していたんだね、そんなことを懐かしく語り合えるような、さらに大きな前進を、市民と野党の共闘の一層の発展を通して達成していきたいと思います。今後とも、力をあわせていきましょう。
では、これにて今日の企画は終了とします。みなさん、お疲れさまでした。
以下は、『マルクスのかじり方』韓国語版に、
「韓国の読者のみなさんへ」と題して掲載されたものです。
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韓国の読者のみなさんへ-日本におけるマルクス受容の歴史から
〔韓国語訳は3冊目です〕
はじめまして、石川康宏です。日本の神戸女学院大学で、経済学を教えています。私が書いた『マルクスのかじり方』を、韓国のみなさんに読んでいただけることを、とても嬉しく思っています。
私の本が韓国語に翻訳されるのは、おそらく、これが3冊目です。一冊目は、ゼミの学生といっしょに書いた『「慰安婦」と出会った女子大生たち』で、二冊目は内田樹先生といっしょに書いた『若者よ、マルクスを読もう』です。『若者よ、マルクスを読もう』は、日本ではシリーズで出版されており、「番外編」もふくめてすでに三冊になっています。
この『マルクスのかじり方』は、マルクスについての超入門書です。「マルクスに関心がある」という人よりも、むしろ「マルクスなんて知らないよ」という人のために書かれたものです。本の最後には、私の大学の学生が登場しますが、彼女たちもマルクスを読むのは「生まれてはじめて」なのでした。そんな本ですから、みなさんは、ソファにでも寝っころがって、気軽にながめてみてください。
〔より平和的・民主的な日本をめざして〕
少しだけ自己紹介をしておきますね。私は、1957年生まれ、59才の男性です。朝鮮半島を植民地にし、アジアに広く侵略の手をのばした大日本帝国が、戦争に負けて12年後に生まれたということです。子どものころには、天皇制の権力によって侵略の手先とされた結果、腕を失ったり、足を失ったりという大人の姿を、街の中でも時々見かけることがありました。高校までは札幌という雪の多い街で暮らしましたが、1975年に京都に移りました。立命館大学に入学するためで、私がはじめてマルクスを読んだのは、この大学でのことでした。
当時の立命館大学には、アメリカの戦争に反対する平和運動(1975年はアメリカがベトナムへの侵略戦争に敗北した年で、それまで日本は長くアメリカを支援していました)や、財界・大企業中心の政治を国民全体の政治に転換する運動などが行われていました。学生だけでなく、教職員も活発に、そんな運動に取り組んでいました。
そうした空気の中で、私は先輩に誘われてマルクスを読み、その学問と生き方にひきつけられ、「より平和的で、より民主的な日本」をめざす運動にも参加するようになりました。
早いもので、それからすでに40年。その間のいろいろな出来事はすべて省略しておきますが、いろんなことに手を出しながらも、いまなお私はマルクスを読み、「より平和的で、より民主的な日本」をつくる運動をつづけています。なかなかに執念深い性格であるようです。
〔マルクスへの不当な評価の源〕
さてマルクスとは何者か。ここで少しだけ紹介しておきますね。マルクスは『資本論』に代表される資本主義社会の精緻な分析を残した学者であり、資本主義社会の欠陥を乗り越えるための社会改革をよびかけた革命家でした。マルクスが研究した学問の領域は、大きく、世界観(哲学)、経済理論、資本主義の先に来る未来社会(社会主義・共産主義)論、資本主義の改革・革命論という4つの分野に渡っており、それらは、互いに深く結びついています。
少し先まわりをしておけば、マルクスの学問や政治的な主張は、後にソ連のスターリンが定式化した「ソ連型マルクス主義=スターリン主義」とはかなり大きく異なるものです。スターリンは、人民への強権的な支配を確立するため、マルクスの学問をゆがめ、ゆがめられたマルクスで自分を権威づけるということを行いました。それが現代世界におけるマルクスへの誤解や悪評のかなりの部分をつくる原因となっています。マルクスにとっては、まったく迷惑なことでした。
ところでマルクス本来の学問や主張は、時々の政治的・経済的な支配層にとっては、とても目障りなものになってきます。1848年のヨーロッパにブルジョア革命の動きが起こった時、マルクスは王政から議会制への転換を求め、身を挺してたたかいました。また経済が発展したイギリスなどでは、スラム街に押し込められた労働者の貧困に憤り、弱肉強食の資本主義を、共同と連帯の新しい社会に転換するたたかいを呼びかけました。
そのため、マルクスは故国ドイツを追放され、フランスやベルギーにも住めなくなり、政治亡命者に寛容だったイギリスに渡ることを余儀なくされます。同様に、マルクスの学問も、学問としての正当性の問題とは別の理由で、支配者たちから悪罵を投げつけられることになりました。いまもなお、マルクスにはそうした政治的・経済的な利害にもとづく歪曲や不当な評価が、スターリンによる内容のねじ曲げとも結びつけられて、行われることが少なくありません。
〔日本でのマルクス研究のはじまり〕
そんなマルクスを解説した入門書が、どうして今の日本で出版されているのでしょう。これを説明するには、いささか複雑な、日本社会でのマルクス受容の歴史を解説せねばなりません。しばし、おつきあいください。
1991年のソ連崩壊(ソ連はスターリンとその後継者たちが支配した人民抑圧と覇権主義の社会でした)をきっかけに、世界から共産党という名の政党が次々消えていきました。
スターリンによるねじ曲げが行われる前に、社会主義・共産主義の社会をめざす上で、政党の活動が必要だということを語った元祖はマルクスでした。日本にも、その流れを汲んで、1922年に共産党がつくられます。その時につくられた日本共産党はなかなかに長寿で、いまも国会に一定の議席をもち(2016年の選挙で、得票率10・74%、得票数は600万を超えています)、安倍政権の好戦的で強権的な政治との闘いの中心に立っています。
日本でのマルクス研究の始まりは、この政党の誕生の流れと深く結びついたものでした。
しかし、創立直後の日本共産党は「侵略戦争から手を引け」「植民地を解放せよ」「朝鮮半島を朝鮮人民の手に」「天皇制打倒」「人民に主権を」などの主張をかかげ、天皇を頂点とした支配層は当然これを敵視します。1925年には、共産党を狙い撃ちにした治安維持法という弾圧法がつくられて、マルクスの著作は事実上、禁書扱いとなりました。その結果、マルクスの研究や、マルクスの目で日本社会を分析するといった研究は、地下にもぐった共産党員や、共産党にシンパシーを感じる研究者たちが、秘密で行う作業となりました。これが日本におけるマルクス受容の最初の時期の状況です。
〔第二次大戦後の民主化の中で〕
そこに大きな変化をもたらしたのは、侵略戦争に敗北した日本を軍事占領した、米軍による日本の「戦後改革」でした。
天皇を主権者とし、周辺の官僚と軍部とともに人民を支配するという戦前の国家体制は、この改革の中で解体されます。軍隊も解散させられ、日本は朝鮮半島をふくむ、すべての植民地を手からたたき落とされます。そして、政治の民主化の一環として、投獄されていた政治囚が釈放され、弾圧のため1935年に全国的な組織活動を停止していた日本共産党も、ただちに活動を再開したのでした。
「侵略戦争に反対した唯一の党」としての信頼もあり、1946年に戦後初の選挙で共産党は5議席を得て、国会では、1947年に施行された日本国憲法に「国民主権」を明記させる上で大きな役割を果たします。マルクスを読み、研究することも自由になり、大学の講義でもマルクスが様々な形で教えられるようになりました(その後、1980年代までは、「経済原論」の講義が、「近代経済学」と「マルクス経済学」の二本立てで行われることが珍しくありませんでした)。この時期には、戦時中に秘密警察が没収していたマルクス関連の書物が、古本屋にまとまって現われるということもあったそうです。
〔冷戦の中での再度の抑圧〕
しかし、状況はさらに変化します。アメリカによる日本の占領は、1945年から52年までの7年ですが、途中で占領の方針が大きく転換されてしまうのです。
連合国側には、戦後日本の改革方向を定めた「ポツダム宣言」という合意文書がありました。内容は、日本を平和・民主の国につくりかえ、戦争犯罪人を厳しく追求するといったものです。1947年に施行された日本国憲法は、基本的にこの線にそってつくられたものでした。しかし、アメリカは1948年には、これを一方的に投げ捨てて、日本をアメリカの軍事基地国家として再建する道に進みます。「戦争放棄」を定めた憲法第9条の変更を、初めて求めたのは他ならぬ米軍なのでした。
米軍に方針転換を促したのは、米ソを頂点とする東西冷戦の進展でした。ヨーロッパでの西欧と東欧の対立だけでなく、東アジアでも、48年に朝鮮半島が南北に分断され、49年には中国に共産党政権が生まれます。その状況変化を見て取って、アメリカは日本の従属化と再軍備を始めたのでした。
現代日本には、かつての戦争が侵略戦争だったと認めたがらない政治家(安倍首相はその代表ですが)が少なくありませんが、その大きな理由のひとつは、アメリカがここで戦争犯罪人の追及を中断し、それどころか、戦争犯罪人容疑者をアメリカに従属した日本づくりの代理人として活用していったことにありました。
このような転換によって日本共産党とマルクスは、今度はアメリカ占領軍によって敵と位置づけられるようになってきます。1950年の朝鮮戦争の直前に、アメリカは「公職追放」という形で日本共産党への直接の攻撃を開始し、同時に「日本共産党はソ連の手先」「マルクスは民主主義を否定するソ連の思想」といった宣伝を本格化してきます。占領軍の下請機関だった当時の日本政府も、これに積極的に同調しました。
こうして、1945年まで大日本帝国によって「天皇制の転覆をはかる不敬の輩」とされた共産党やマルクスは、今度は、「独裁者スターリンのソ連と直結した反民主主義の危険思想」というレッテルを、新たに、重ねて貼り付けられたのでした。
〔理論と歴史をねじまげたスターリン〕
ここで、スターリンという人物について少し解説しておくことにします。先にソ連の独裁者でマルクスの学問をゆがめた人物として紹介しましたが、その点の理解が現代におけるマルクスの評価を決定的に左右するものになるからです。
マルクスは1883年に亡くなり、マルクスの盟友だったエンゲルスも1895年に亡くなっています。その後、彼らの理論と運動をもっとも色濃く引き継いだのはロシアのレーニンでした(革命論と社会主義論にはマルクスを継承できなかったところもありましたが)。
レーニンの指導の下、1917年にロシア革命が成功し、ロシアには社会主義をめざす共産党の政権がつくられます。レーニンは、政治の分野では民主主義を尊重し、経済の分野では、様々な模索の末に、市場を活用しながら社会主義に接近する(国家による統制経済ではないということです)という柔軟な改革の路線にたどりつきます。
しかし、レーニンが1925年に亡くなると、権力を一手に握っていったスターリンが、これらの道を転換します。レーニンの死後、スターリンは、多くの仲間を虐殺しながら、全権力を自己に集中させる個人専制体制をつくりました(そうした権力集中の制度は、レーニンの時代にはなかったものです)。同時に、30年代には、農業を強制的に集団化して(レーニンは農民の自発的意志を尊重しました)、歯向かうものをシベリアの強制収容所に送り込むという恐怖政治を確立します。この時点で、ソ連社会は、マルクスやレーニンが目指した社会とは、まるで異なるものになってしまいました。
その上で、スターリンが格別に狡賢かったのは、この体制を、マルクスやレーニンの名で正当化し、それによって世界の共産主義者を味方につけようとしたことです。①社会主義は暴力革命によってしか生まれない、②ソ連こそ社会主義の模範である、③ソ連が発展すれば資本主義は自動的に崩壊する、といったスターリンがつくった「理論」は、ソ連以外の国での独自の改革運動を否定して、ただただソ連への従属と忠誠を求める体系となっていました。これをスターリンは「マルクス・レーニン主義」という名前で定式化します。
さらに、歴史の真実を知る者たちを抹殺しながら、自分をレーニンと並ぶロシア革命成功の英雄として描き出すという、歴史の偽造も行います。それをソ連共産党の歴史文献に書き込むのです。事実としては、スターリンは、ロシア革命でこれといって目立った役割を果たしてはいません。
スターリンはこうしてでっちあげた「理論」と「歴史」を、当時の共産主義者の国際組織であるコミンテルンをつうじて各国の共産党に広めていき、いつわりの国際的な「権威」を身にまとっていったのでした。
〔東欧支配のために朝鮮戦争を〕
スターリン独裁下のソ連の政治は、謀略的な朝鮮戦争の開始と継続や、日本共産党への介入などの形で、日韓双方の人民に直接的な被害を及ぼしもしました。
第二次大戦後、ドイツとの戦争をつうじて東欧諸国にソ連軍を駐留させたスターリンは、これらをソ連の「衛星国」につくりかえようとします。しかし、各国の抵抗や国際世論の批判があって、計画は思うようなテンポで進みません。そのうちに、アメリカがヨーロッパの復興に本格的に乗り出してきます。こうした状況に焦りを感じたスターリンは、アジアに「第二戦線」を開くことを計画していきます。アメリカの力をアジアにそらせて時間稼ぎをし、その間に東欧の「衛星国」化を完了させようとしたのです。1950年からの朝鮮戦争は、そういう目論見の下にスターリン主導で開始されたものでした。
1949年、韓国から米軍の主力部隊が撤退したのを見て、まず金日成が「南進」の許可をスターリンに求めます。スターリンは、当初、アメリカを挑発しないという立場をとりましたが、次第にこの方針を転換し、1950年3月から4月にかけて、金日成等との三度の会議を通じて「南進」作戦を一緒に練り上げます。
アメリカを朝鮮半島に釘付けにする一方で、自分はフリーハンドを得ておきたい。その目的のためにスターリンは「北」の軍事支援を、1949年に政権についたばかりの中国にまかせていきました。そのことを毛沢東に指示したのは、なんと開戦直前の5月のことでした。
結局、アメリカは国連軍の中心として(それをスムースに決定させるために、ソ連はあえて国連の関係会議に欠席しました)、朝鮮戦争に多くのエネルギーを割くことになり、その間にスターリンは、不十分ながらも東欧の「衛星国」化に成功していきました。
こうして朝鮮人民を分断から相互の殺戮へといたらしめた朝鮮戦争は、スターリンの領土・勢力圏拡張の欲求を満たすひとつの手段と位置づけられていたのでした。
〔日本共産党に武装闘争を求める〕
スターリンが主導した朝鮮戦争は、日本の政治と社会にも大きな影響を与えました。
第一に、この戦争をきっかけに、アメリカは日本の再軍備を進めます。戦後日本は「軍隊のない国」になりましたが、朝鮮戦争の年に警察予備隊が創設され(軍隊の復活です)、これが52年に保安隊、54年に今日の自衛隊に格上げされます。52年には旧日米安保条約も発効しました。占領初期の平和で民主的な日本をつくるという改革路線の逆転という意味で、これは日本では「逆コース」と呼ばれています。
第二に、本来なら、こうした動きと正面からたたかわねばならない日本共産党に、スターリンは乱暴な介入を行い、日本人民の運動を混乱させます。介入の目的は、朝鮮半島での米軍の活動を、「後方」から攪乱させることでした。
1949年に、早くも日本共産党の内情調査を開始していたスターリンは、50年に占領軍との「武装闘争」を求めてきます。そして、日本共産党にスターリン派の分派をつくり、アメリカ占領軍による「公職追放」をきっかけに、分派による党全体の乗っ取りをはかりました。その後、この分派の本部を中国の北京に置こうとしたように(それは「北京機関」と呼ばれました)、介入はソ連共産党と中国共産党の連携によるものでした。
「武装闘争」といっても、米軍の占領下で日本共産党が武器など持っているはずもありません。それをどう調達するつもりだったのかはわかりませんが、スターリン分派は勇ましい空文句を振りかざします。それを逆手にとった占領軍と日本政府は、「共産党はソ連の手先」「共産党は暴力革命の党」という大宣伝を行って、共産党に対する国民の信頼を失わせていきました。
その結果、49年の選挙で35議席(298万票)を得ていた共産党の議席は、51年の選挙でゼロ(89万7000票)になってしまいます。
事態の収拾は、1952年に米軍が日本の軍事占領を終え、53年にスターリンが亡くなり、あわせて日本共産党のスターリン分派の有力幹部が亡くなったところからはじまりました。これをきっかけに、朝鮮戦争については休戦協定が結ばれ、日本共産党については分派の活動が停滞していきます。
日本共産党の統一の回復は、正式には1958年のことになりましたが、その第7回党大会で、同党は重要な決定を下しました。それは、今後、日本共産党は、いかなる海外の「権威」にも従属せず、日本の問題については自分たちで判断し、結果への責任も自分たちで負うという「自主独立」の路線の確認です。これは、それまでの「ソ連を頂点とした世界の共産主義運動」という常識からすれば、文字通りの「異端」の決定でした。
後に日本共産党は、ソ連共産党と中国共産党という世界の二大共産党からふたたび強力な介入を受けますが、正面から全党で反撃し、いずれに屈することも、ふたたび分裂することもありませんでした。
〔「マルクス・レーニン主義」の総点検へ〕
1960年代に、日本共産党は日本社会の改革の展望や、アメリカ帝国主義に対する評価をめぐって、ソ連・中国の共産党と徹底した国際論争を行いました。
さらに70年代に入ると、スターリン主義の「理論」体系に対する自主的で批判的な検討を本格的に開始します。1970年の第11回大会では、ソ連型「社会主義」を日本の将来のモデルとせず、反対政党の存在や選挙による政権交代など議会制民主主義のルールを守ることを明示しました。その方針は、76年の第13回大会で「自由と民主主義の宣言」として、さらに発展させられます。
また、同じ第13回大会で、日本共産党は、綱領・規約の中に残っていた「マルクス・レーニン主義」という名称を、すべて「科学的社会主義」という言葉に統一していきます。これは単に名称だけの問題ではなく、スターリンが出発点をすえたこの「理論」体系を、今後、全面的に総点検していく意思を示したものでした。
85年の第17回大会では「資本主義の全般的危機」という規定を綱領から削除します。これは冷静な事実認識の目をくもらせる独断的な規定だという判断でした。つづいて、ソ連社会がどのような社会であるかについては、段階的な理解の深まりがありましたが、ソ連崩壊(1991年)の瞬間には、これを「歴史的巨悪の崩壊」として歓迎し、94年の第20回大会ではスターリンとその後継者たちが築いた政治・経済体制を、社会主義と無縁の人間抑圧社会だったと結論づけました。
これらの創造的で意欲的な理論活動は、同時に、スターリンによる歪曲から「マルクスの真の姿」を救い出し、マルクスその人の見解にもとづく、冷静で科学的なマルクス研究を可能にする道を開くものともなりました。こうした研究の積み上げによって、現代の日本では「マルクス・レーニン主義」の殻にとらわれない、新しい世代のマルクス研究が活性化しています。
〔ソ連崩壊を歴史の進歩と歓迎して〕
日本の政治の動きにもどっておけば、1991年のソ連崩壊は、日本の支配層に「マルクスと共産主義は死んだ」「共産党は時代後れだ」「資本主義万歳」という大キャンペーンを行わせるきっかけになりました。この頃には、日本の書店からマルクスの本が消えていくということも起こりました。
これに対して日本共産党は、①崩壊したのはソ連型の抑圧と覇権主義の社会であり、それは世界の進歩にとって歓迎すべきことである、②ソ連の崩壊によって資本主義の諸問題が解決されるわけではない、「資本主義万歳」などといえる状況ではない、③資本主義がかかえる問題の解決を展望する時、マルクスの思想は依然として現代に生きている、という趣旨の反論を行いました。
それから25年の歳月をへた今日、日本共産党は安倍政権を倒すために「市民と野党の共同」を進めるという運動の中で、政党としては中心的な役割をにない、市民からの信頼をあらためて拡大しています。2016年夏の選挙でも得票率が10%を越えていることは、先に紹介したとおりです。
もちろんマルクスを研究するという場合、マルクスをいつでも正しいとする原理主義やマルクスの行動のすべてを正当化する神格化の立場をとらないことは、科学として当たり前の大前提です。
そうした研究のひとつの到達として、現代日本では、マルクスによる研究を彼自身の成長・発展の歴史に即してとらえることの重要性が共有されつつあります。また、盟友エンゲルスとの理論的な立場のズレが、エンゲルスが編集した『資本論』第2部、第3部にどのように現われているかという問いも立てられています。さらに過去には、レーニンの見解を入口にマルクスを理解するという傾向も強くありましたが、革命論や社会主義論の領域でのレーニンとマルクスの大きな相違も指摘されるようになっています。
〔研究の最新の到達に立った入門書〕
そろそろ終わりにしていきましょう。この小さなマルクス入門の本は、じつは、こうした歴史を踏まえて書かれたものです。誰にでも読むことのできる入門書として書かれながらも、内容は、「マルクス・レーニン主義」の全面的点検を開始して以後、40年以上の歳月を積み上げた研究の蓄積に学んで書かれた、その意味での最新のマルクス入門書です。
日本の「平和的で、民主的な改革」を展望する上で、「真実のマルクス」は依然、きわめて重要な役割を果たすもので、そういうマルクスを日本の若い世代にしっかり伝えていきたい。そういう願いを込めて書きました。そのことを、まずお伝えしておきたくて、こんなに長く書いてしまいました。
本文が、誰にでも読める入門書なのに、韓国のみなさんに向けて書いたこの文章は、ずいぶんややこしく、ページ数も多いものになってしまいました。しかし、それは、この本の自己紹介のためには、避けることのできないこともありました。日本の政治の歴史と現状、スターリンの歴史的役割やソ連社会の実像、マルクスと「マルクス・レーニン主義」の関係など「科学的社会主義」(マルクス主義)の歴史についても、かなりのことをお伝えできたかと思います。
では、これから先は、本文であるマルクスのやさしい入門編を、お楽しみください。ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
コメント 「国会に欠かせぬ経済論客」 日本共産党「しんぶん赤旗」2016年4月22日、13面
以下は、労働者教育協会『季刊 労働者教育』2015年3月号に掲載されたものです。
全国学習習交流集会in千葉/記念講演
憲法かがやく社会、自己責任論をのりこえる学びの仲間
石川康宏
神戸女学院大学教授
1 戦争をする国づくり
これからお話しするテーマは、自己責任論についてです。私たちの暮らしの根本にかかわる問題です。
同時に、戦争する国づくりが急ピッチですすんでいますので、これにまったく触れないわけにはいきません。最初に少しだけこれに触れ、それから生存権、自己責任論の問題に進みたいと思います。そこでは自民党はいま日本社会をどうしようとしているのかについて、また、そもそも日本国憲法の生存権を「古い」「いらない」「だめだ」とするのが彼らの主張ですから、人権が人間社会の歴史でどのような位置にあるかについても考えます。
さらに時間がゆるせば、資本主義社会の発展にとっての人権の意味にもふれ、最後に、いまの政治状況を変えるために、どのようなとりくみが必要か、また私たちの学習教育運動にどのようなとりくみが必要かについて考えたいと思います。
〔集団的自衛権行使容認を歓迎するアメリカ〕
7月1日に集団的自衛権の行使を容認する閣議決定が行われました。内容の詳細は省きますが、紹介しておきたいのは、関連する日米関係についてです。閣議決定をアメリカ政府は強く支持しました。当然です。「世界中どこへでもアメリカの戦争に子分として付き従います」と決めたわけですから。
この時に、アメリカ側が語ったことで重要なことのひとつは、「自衛隊がより広い範囲で任務を遂行でき、日米同盟をより効果的にする」(ヘーゲル国防長官)というものでした。はっきりと「広い範囲」と言っています。直接日本の防衛にかかわる日本周辺の地域ではなく、「アジア・太平洋地域」という巨大な領域で、ということです。
また「琉球新報」(7月14日)は、「閣議決定を急いだ背景には、集団的自衛権で米側の歓心を買うことで、尖閣問題に米軍を引きずり込みたい思惑が」「だがヘーゲル氏は『中国との建設的な関係を育成するよう話した』」と書きました。意訳すれば安倍首相等は、「尖閣でなにか問題があれば、アメリカさん出てきてくださいね。その代わり世界中どこにでも行きますから」とアプローチしたけれど、アメリカ側は、「それは自分で対処しなさい」と応じたということです。
これは当然のことです。アメリカにとって、最大の貿易相手は中国であり、最重要の二国間関係は米中関係なのですから。その中国との間にもめ事を起こすという選択肢は、アメリカ側にはありません。話し合いを通じて、中国を、軍事面、経済面で、なんとかアメリカが許容できる行動の範囲にコントロールしたいと思っているのが実際です。
現在の日米政府間には、大きな思惑の違いがあるということです。図1は、先ほど紹介した「アジア・太平洋地域」の範囲です。2013年1月の日米ガイドラインの話し合いで、すでにアメリカ側から提示されていたものです。どう考えても日本の防衛を課題としたものではありません。中東から南アジアにかけて、アメリカが「不安定の弧」と呼ぶ地域に、アメリカの思うままにならない政権がある。そこに軍事行動をしかける時に、「日本軍もいっしょに来い」ということです。これが集団的自衛権行使の実態です。
〔憲法違反の閣議決定と若い世代の抵抗〕
7月15日の衆院予算委員会で、「戦後初の戦死者」の可能性について問われた安倍首相は「自衛官の命の危険」を語りませんでした。「めったにそういう判断はしない」というのが回答でしたが、めったにしないということが、人の命を危うくする言い訳になると思っている点がすでに異常です。閣議決定はされましたが、国会の中では、まだ何一つ決まっていません。そこはこれからのたたかい次第ということです。
7月8日の「朝日」には「安保法案、提出は来年に 地方選への影響懸念し先送り」という記事が掲載されました。いま関連法案を国会に出せば、来年(2015年)3~4月のいっせい地方選挙に影響が出る。それだけでなく11月の沖縄県知事選にも影響がある。だから、これは選挙の後にしようということです。そこには国民の運動が、「戦争をする国づくり」に向かう彼らの最短コースでの思惑実現を押し返しているという事実があります。この力関係はきちんととらえておきましょう。
〔付記〕――講演後の沖縄県知事選挙で、辺野古への基地移設をゆるさないとする翁長知事が誕生しました。さらに年末の衆院選では4つの小選挙区すべてで自民党が敗北し、「基地ノー」連合が完勝しました。安倍首相と自民党本部の狡猾さを、沖縄の民意がはね返したということです。
集団的自衛権の行使容認決議を批判するときに、一番肝心なポイントは、それが憲法違反の決議だということです。この国の最高のルールは憲法です。自民党でも、共産党でも、どんな思想・信条の持ち主であれ、この国の政治は憲法を守って行われねばなりません。
憲法第9条は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」「交戦権は、これを認めない」としています。この憲法を、変えようとして変えられなかったのが安倍内閣です。そうであれば当然安倍内閣にもこの憲法を守る義務がある。
憲法第99条は「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」としています。閣議決定が憲法違反なのは明白でしょう。安倍内閣がやっていることは、わがまま勝手なルール違反だ。そういう批判が必要です。
安倍首相は「憲法解釈をかえたわけではない」と言い訳をすることがありますが、祖父である岸信介をはじめ、田中角栄、鈴木善幸、中曽根康弘、小泉純一郎と、歴代首相はみな、現行憲法の下で集団的自衛権の行使は許されないと語っています。解釈が変わっていないなど、大ウソというしかありません。
こういう異常な事態の進展に、若い世代の抵抗が広がっています。「東京新聞」8月15日の一面には、「8・15若者の覚悟」「集団的自衛権おかしい/秘密法反対声あげる」という記事が出ました。直接のきっかけになったのは、7月と8月の世論調査(共同通信)で集団的自衛権問題についての20~30代の世論が大きく変化したということでした(図2)。若い世代に「そこまでやるのか」という深刻な驚きがあったということです。ひところ、「若者は政治に無関心だ」と言われましたが、その逆転がはじまっているのかも知れません。意味の大きい変化です。
〔付記〕――つづく2014年末の衆院選では、SASPL(特定秘密保護法に反対する学生有志の会)が小選挙区制を批判しながら、安倍政権を倒すための「戦略的投票」を呼びかけました。各政党に対するかなり的確な評価を添付してのもので、これも政治に対する若い世代の意識の重要な変化を示すものです。
〔教育への国家の介入、メディアとの癒着〕
関連して、戦争をする人づくり、戦争に反対しない人づくりの企みも行われています。たとえば、下村文部科学大臣は、「政府が閣議決定した集団的自衛権の行使容認について学校現場で不適切な解説があった場合には、教育委員会を通じて指導する」と述べました(7月15日参院予算委員会)。教師による批判を許さないということです。学校では、子どもたちに「日本の平和憲法は」と教えています。その時に、子どもたちから「でも集団的自衛権が」と問われた時に、先生はまともに答えてはいけない。教員の口封じと、子どもたちへの誘導教育が進められようとしているわけです。
教育委員会制度の改悪、学校教育法や国立大学法人法の改悪、道徳の教科化、高校での「近現代史」の必修化の動きなども、これと方向を同じくしたものと言えるでしょう。
加えて、帝塚山学院大学や北星大学には、「朝日新聞」で「慰安婦」問題に関する記事を書いていた記者が、大学で教育をするのはけしからんという脅迫が行われました。帝塚山学院大学は教員の辞表をすぐに受け取ってしまいましたが、北星大学は多くの激励もあって、脅しに屈しない姿勢を維持しています。内閣の右傾化にともなう、こうした世論の変化にも敏感な対応が必要です。
沖縄での米軍基地建設問題については、みなさんご存じのとおりです。現場での合法的な反対の取り組みに、国家が暴力を振るっています。海上保安庁という海の上の警察が、怒鳴りつける、羽交い締めにする、首をひねるといったことをしながら基地建設の準備を進めています。
その上で、これらのそれぞれを重大問題として報道する見識をもたないメディアの堕落を指摘せねばなりません。昨日の夜も、安倍首相は、大手の新聞記者たちと贅沢な食事をしていました。「7時15分、東京・赤坂の中国料理店『赤坂飯店』。内閣記者会加盟報道各社のキャップと懇談」(「朝日」)とのことです。
そこに参加した新聞記者からは、何を語り合ったかについての情報がいっさい出てこない。権力を監視するのがジャーナリズム本来の役割ですが、日本の大手ジャーナリズムは、多くがすでに死にかけているということです。個々の記者による部分的な抵抗や奮闘があるだけです。
そうした中で、多くの人が、ほんとうの情報と政治批判、政治改革への正論を求めています。そこで大きな役割を果たしているのがインターネットの空間です。みなさん方の運動が、そこにどれだけの影響力をもっているか、そこが深刻に問われています。ツイッターやフェイスブックなどのSNSの活用もふくめ、この領域でも真剣な努力が求められています。この点でも大いに力を発揮してほしいと思います。以上、前置きでした。
2 日本国憲法の制定から「自己責任論」が横行する現在まで
本題に入ります。「自己責任論」がこうまで蔓延し、反撃がなかなか広がらないのはなぜでしょう? 不思議なことです。なぜならば、この国は憲法第25条で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と謳っているのですから。誰がこの権利を充たすのか。ここには「国は」とはっきりと書いてある。国が国民生活の最低限については責任をもつのだと。
それに対して「自己責任論」は、「国民は国に頼るな」「行政に頼るな」「おのれの力で生きていけ」というものです。憲法とは明らかに180度違ったものです。それがなぜ日本社会で通用するのかは、根の深い問題です。憲法の誕生から今日までの政治状況の変化を追って考えてみます。
〔戦後日本の民主化を求めたポツダム宣言〕
1945年8月に日本は戦争に負け、連合国を代表した米軍によって全土を軍事占領されました。私の大学に入学してくる学生は、多くが、日本がアメリカに軍事占領されていたことを知りません。ついでに言うと、その直前に50年間も侵略戦争をつづけた事実も知らないことが多いです。そういう歴史の事実を若い世代に伝えていくことが大切です。「そんなことは知っていて当たり前」などと横着な態度をとらずに、正面からきちんと伝える努力が必要です。
占領は足かけ8年続きました。連合国側はあらかじめその占領の方針についての合意をつくっていました。それが「ポツダム宣言」です。内容のいくつかを紹介しましょう。
「吾等の条件は以下の条文で示すとおりであり、これについては譲歩せず、吾等がここから外れることも又ない。執行の遅れは認めない」(ポツダム宣言第5項)。こういう日本改革の方針を、大日本帝国は1945年8月14日に、連合国に受諾すると通告して降伏したのでした。
「日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を除去する」(第6項)。「捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されること」(第10項)。戦争推進の勢力を排除し、戦争犯罪人を処罰するというのです。これらの項目があるため、日本軍は戦争犯罪の証拠となりそうなものを組織的に隠滅することも行いました。
「民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除されるべきこと。言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されること」(第10項)、そして、「日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に占領軍は撤退する」(第11項)。
これが、アメリカを含む連合国による日本占領の方針でした。一言でいえば、平和・民主の日本をつくるということです。
実際にも、1945年8月末に来日した占領軍最高責任者のマッカーサーは、10月に、①女性の解放、②労働者の団結権の保障、③教育の民主化、④秘密警察の廃止、⑤経済の民主化という、いわゆる「五大改革指令」を発します。さらに、日本の政府に対して「新しい憲法をつくる」ことを指示します。
その後の経過については、みなさんもよくご存じだと思います。結局、日本政府からはまともな改憲案が出てこず、占領軍が草案をつくることになりました。それが帝国議会の議論にかけられ、第25条が追記されるなどのこともあった上で、47年5月に憲法の施行となりました。第9条をふくみ、第25条をふくむ憲法です。このまま、この憲法を本当の指針とする国づくりが行われていれば、日本は世界に冠たる民主国家になったでしょう。
〔アメリカいいなりの軍事大国づくりへの転換〕
ところが、アメリカの自己中心的な判断により、占領政策の大転換が起こされます。47~48年にアメリカは、ポツダム宣言を事実上放り出し、日本を「アジアにおける反共の砦に」「反共産主義、反ソ連の砦にする」と言い出したのです。「砦」というのはたたかいの基地のことです。日本を、二度と戦争をしない平和国家ではなく、米軍による戦争のための出先の軍事基地国家にすると言い出したのです。
背景にあったのは、アジアにおける、米ソ「冷戦」の進展でした。48年には朝鮮半島が南北に分断されました。49年には中国革命が起こります。第二次大戦直後のアメリカは、東アジア支配の拠点を中国に置こうと考えていました。第二次大戦を共にたたかった、蒋介石政権をあてにしてのことです。実際に戦後アメリカは中国に武器援助を行い、軍事顧問も派遣していました。
ところがその中国で、毛沢東の共産党が力を増してくる。そこで、アメリカは判断するわけです。「中国には期待できない」と。それで、東アジア支配の拠点をどこか他の場所に移すことを考えたとき、手のひらにのっていたのが日本列島だったということです。
アメリカは、日本の民主化を中断させ、「アメリカいいなりの軍事大国につくり変える」ことを始めました。ですから有名な話ですが、「9条を変えろ」と世界で初めて言いだしたのは、アメリカの軍部です。こうして、すでに世界史的にも先進的な立派な憲法が施行されているにもかかわらず、この国の支配者であった占領軍は、日本を対米従属の軍事大国に育て、思想・信条の自由にも制約をくわえ、反共を社会の根本思想にすえるレールを敷いていきます。
そして、その過程で、戦争犯罪人の追及を中断します。それは、アメリカ言いなりの日本をつくる上で、役に立つ日本の政治家や支配層をアメリカが必要としたからです。アメリカのために役立ちそうな人間は、当時、すべて巣鴨の拘置所に放り込まれていました。米軍は、東京裁判によってそのうち何人かを処刑します。
しかし、それ以降の裁判を中断して、この拘置所から、アメリカ言いなりの誓いを立てた者を出したのです。その代表が、48年12月25日に出てきた岸信介です。後に自由民主党をつくる人物です。同じ日に出てきたのが、小佐野賢二と笹川良一です。いま、会場にどよめきがありましたが、そういう反応が起こるのはフロアの平均年齢が高いことの証拠です。うちの学生たちに話しても、誰一人としてそういう反応はしませんから(笑)。
「朝日」も「毎日」も「読売」も、経営者は一時期を除いて、戦時中と代わりませんでした。後に日本への原発導入の立役者となる読売新聞社主の正力松太郎も、A級戦犯容疑者として収容されていた巣鴨の拘置所から出された組の1人です。
こうして、ほんの数年前までアメリカ人を「鬼畜米英」と罵っていた人間が、「あの戦争は正しかった」と言いながら、もう一方で、「アメリカ様」に卑屈にあたまを下げる。そういう支配層が、戦後の日本にはつくりあげられました。戦時中の最高権力者であった昭和天皇も、一切の罪を問われることがなく、本人にも反省の色はまったくありませんでした。
〔戦後保守の原型と革新自治体づくりの運動〕
1952年4月28日に、米軍による占領は終わり、日本は形式的に独立します。形式的にというのは、この瞬間から旧日米安保条約がスタートしたからです。それは、この日が対米従属国家としての戦後日本の始まりになったということです。戦後日本の保守政治の原型が、ここに姿をあらわします。
第一に、経済は財界まかせ。この財界も、戦時中は産業報国といって侵略戦争に全面加担した人たちが中心です。第二に、外交・軍事は、アメリカに首根っこを抑えられたまま。そして第三に、歴史認識はどうなっているかというと、侵略戦争とその時代を美化する思想にとりつかれたままの状態です。こうして、いわゆる三つの異常が、戦後政治のスタートラインに置かることになりました。
以上が、文章としては立派な日本国憲法をもちながら、これを国づくりの指針とすることを国家権力が拒否していく、こういうねじれた国がつくられた経過です。これは戦後日本の政治や社会の理解にとってきわめて大切なポイントです。その結果、日本国憲法の実現は、支配層と国民のたたかいの力関係にまかされることになりました。
1955年に、岸信介が初代幹事長になって、自民党をつくります。最大の目的は自主憲法の制定、つまり改憲でした。改憲に必要な国会の3分の2の議席を得るために、当時の自由党と民主党を合同させます。アメリカの求めに応じて9条をかえ、あわせて戦前型の軍事大国の復活を目指したものでした。
結局、国会の3分の2を得ることには失敗し、改憲の発議は挫折しますが、1957年に首相になった岸は、60年に国民の激烈な反対運動を押しのけて、アメリカとの共同戦争に向けた新安保体制をつくっていきます。
他方で、国民の側も、1950年には、早くも京都に蜷川府政を誕生させます。後に「憲法を暮らしの中にいかそう」という有名なスローガンをかかげる有力な地方政治が、朝鮮戦争とレッドパージの年につくられるのです。その後、1960~70年代には、これをお手本として、政党としては社会党、共産党の共同を軸とする革新自治体が全国につくられます。最大時には、全国民の40数%が「憲法どおりの日本」をめざす革新自治体の下で暮らしました。
この運動は、国政にも大きな影響を与えていきます。1973年には自民党が「福祉元年」を宣言しました。憲法第25条の精神からすれば、あまりにも当然のことであり、遅きに失したということですが、自民党政権は一貫してこれをさぼってきたわけです。ところが選挙の度に、京都だけでなく、東京も、大阪も、横浜も、沖縄もと日本中に「福祉」をかかげた革新自治体がひろがっていく。国政選挙でも共産党の前進が進みました。
そこで自民党政権が方向転換をするのです。「これからは自民党が福祉を進めます」「だから社会党、共産党にばかり投票しないでください」というわけです。73年に高齢者医療の無料化制度がつくられたのは、こういう事情によってでした。自民党政権は、自分がやりたくてやったのではありません。「憲法どおりの国をつくれ」という国民の運動がこれを実現させたのです。
〔「オール与党」で財界が政治の前面に〕
しかし、支配層はやはり狡猾です。社会党と共産党の連携を壊しにかかります。共産党に対しては、党首だった宮本顕治に対して、この人は戦時中、共産党に入り込んだスパイを殺した人物だと、国会の中で民社党という公党の委員長が発言し、これに大手メディアがとびつくという一大謀略攻撃がかけられました。それは歴史の事実をまるでねじまげるものでした。
さらに、社会党を共産党から引きはなし、労働運動を右寄りに再編しようといった動きがはじまり、福祉のあり方については日本型福祉社会論が宣伝されます。日本型福祉社会論というのは、国や自治体の責任での公的な社会保障を「家族の愛」にすりかえるもので、今日の「行政に頼るな、家族で抱き合え、それがこの国の美しい姿だ、伝統だ」という思想に直結するものです。こうした国民に対する支配層からの巻き返しが、70年代半ばから強化されました。
その結果、80年に、社会党が革新政治をつくる運動から最終的に離れていきます。公明党との合意(社公合意)の中で「もう共産党とは手を組みません」という姿勢を、明らかにしたのです。これによって全国の革新自治体が崩れていきます。選挙での共産党の前進にもストップがかかりました。
入れ代わりに政治の前面に出てきたのが財界です。当時の経団連会長・土光敏夫が「めざしの土光」という、後の言葉でいえば「清貧」を売り物にしてテレビに登場し、「官は民を見習え」「国や自治体は企業のように動け」という圧力を強めてきます。財界いいなりのための「行政改革」の推進です。
とはいえ国民の側は、これを黙って見ていたわけではありません。社会党が自民党側に寝返っていくなかで、どのようにして日本の平和や民主主義の充実をはかるのか。その探求の末、81年に結成されたのが全国革新懇です。革新懇は、三つの共同目標をかかげました。「日本の経済を国民本位に転換し、暮らしが豊かになる日本をめざします」「日本国憲法を生かし、自由と人権、民主主義が発展する日本をめざします」「日米安保条約をなくし、非核・非同盟・中立の平和な日本をめざします」というものです。この取り組みが全国に広げられます。
「階級闘争の弁証法」という言葉がありますが、実際にも、今日の日本社会は、このような「押しつ押されつ」のたたかいを通じて、あるいは「押されても、くじけずにもう一度押し返していく」という不屈の運動の積み重ねによってつくられてきたものなのでした。
社会党が転落したことで、80年代の国会はいわゆる「オール与党」となっていきます。共産党以外のすべての政党が、自民党と連携するようになってしまいました。「共産党を除くすべての政党が」と、あらゆるテレビ番組が、政治を語る枕詞のように言っていました。その中で政党と政治家の質が悪くなっていきます。
〔アメリカいいなりの「構造改革」推進〕
1980年代の半ば、中曽根内閣の頃には「規制緩和」路線がはっきりと打ち出されてきます。さらに1989~90年にはアメリカの求めにより「日米構造協議」が行われました。これがその後の「構造改革」の直接のきっかけとなります。
94年には、国際的な労働条件引き下げのためのサミットが、アメリカのクリントン大統領の主導の下に行われます。そして、同じ94年から「対日改革要望書」が日本にどんどん届けられるようになってきます。すべてを市場にまかせろ、余計なルールをつくるな、ルールはアメリカ型に統一しろという、アメリカングローバリゼーションの強制でした。
こうした動きの背景にあったことのひとつは、大資本の多国籍企業化・多国籍銀行化です。個々の資本が金儲けの範囲を自分の国から世界に広げる。そうすると世界各地でルールが違っているのはややこしい、どこの国へ行っても一律の金の儲けやすいルールであってほしいという願いが強くなる。こういう世界のルールの改革を、アメリカ政府が先頭に立って行いました。労働条件の改悪も、日本に進出してくるアメリカ企業にとって儲けやすい環境をつくるのが目的です。
もう一つの大きな背景は、ソ連・東欧諸国の崩壊でした。統制経済を特徴としたこれらの国が、市場経済の方向に転換します。その新しい大きな市場を、アメリカ資本に有利な形に誘導するということが、アメリカングローバリゼーションを世界的規模で実施していくもう一つの強い動機になりました。
この中で特に重視されたのが「金融制度の改革」「金融の自由化」です。日本では「金融ビッグバン」という言葉で推進されました。1960年代の世界的な「資本主義の黄金時代」が終わり、70年代半ばには、当時、戦後最悪といわれた世界恐慌が発生します。「黄金時代」を通じた世界的規模での過剰生産の結果でした。
そこで行き場を失った巨大資本が、投機での儲けを拡大していきます。そこから「金融の肥大化」「経済の金融化」「マネー経済の拡大」「投機資本主義化」などと呼ばれる変化が生まれます。アメリカングローバリゼーションは、その「投機の自由」を世界に強制することを、重要な内容としたのでした。
こうしたアメリカの求めにどう対応するか、抵抗していくのか同調していくのか、日本側にも一定の軋轢がありました。
しかし、結局、小泉内閣時代には、「山の国」から「海の国」へという路線転換が、これは当時のソニーの出井会長の言葉ですが、はっきりさせられます。「国の規制に守られた経済ではダメだ」「世界市場でたたかえる経済に改革しなければいけない」というものです。
それは大手のゼネコンや鉄鋼、農業などが強い力をもっている経済から、世界市場でたたかう製造業多国籍企業の利益を最重視する経済づくりに変えるというもので、財界内部にもそうした一定の主導権の転換がありました。製造業多国籍資本によって「内需主導型」から「グローバル国家型」への方針転換がかかげられます。
この転換が政治の表面にあらわれたのが、「旧い自民党をぶっ壊す」「私に抵抗するすべての者が抵抗勢力だ」とした小泉首相の発言でした。あれは古い「内需主導型」経済にこだわる勢力への攻撃であり、地方への「バラマキ経済」への攻撃でした。「改革か、抵抗か」という政治の世界での争いは、右のような経済の世界の変化によって生み出されたのでした。
同時に、この転換を正当化するために小泉首相が、前面に打ち出したのが「トリクルダウン」「おこぼれ経済」論です。「大企業が潤えば、いまに下々も潤う」という主張です。それなりに地方経済を支え、それなりに国民生活を支える役割をもっていた経済政策を、製造業大企業への奉仕に集約化していく動きです。
このような理屈によって、大企業を潤わせるための労働条件の改悪、社会保障の切り捨て、法人税減税のための消費税増税などが急速に推進されるようになります。この点は、今日のアベノミクスもまるで変わりません。
〔「自己責任論」への道、格差を放置する政治〕
「自己責任論」は、こうした規制緩和の流れの中で強く打ち出されてきたものです。大きくいうとこれは、戦後の憲法25条の実現を求める運動の成果に対する正面からの巻き返しです。95年には、政府の社会保障制度審議会が「公私分担論」を打ち出しました。憲法25条は、国民の最低生活の保障は「国」がやるとしているわけですが、そこに「私」がすべりこまされてくる。そして、これが「自助」という言葉にかわっていきます。
先に見たように、70年代半ばから日本型福祉社会論の思想攻撃がありました。「福祉は家族でやるものだ、子どもや年寄りを支えるのは家族、これが日本人の良いところだ」というものです。そして革新自治体をつぶしながら、経団連会長の「めざしの土光」が前面に立って、「臨調行革」を進め、80年代に福祉制度をどんどん切り捨てていく。
さらに90年代に入ると「公的社会保障という考え方自体がおかしい」となってきます。これが福祉や生活をめぐる「自己責任論」として展開されました。
2013年に、悪名高い「社会保障改革プログラム」が成立しますが、この中で政府は自分たちの役割を、「自助、自立の環境整備」と定めました。
「公的保障」の役割は一体どこにいったのでしょう。この重大な理念の転換、社会保障の変質の説明を、政府は積極的には展開しません。それをごまかすために行われるのが「財政赤字だから、社会保障が削られるのは仕方がない」という、まやかしの財政赤字論です。
図3には、17の先進国が並んでいますが、グラフの上の灰色の部分の数字は、各国の相対的貧困率を示すものです。国によって生活水準には差がありますが、国ごとの真ん中の生活水準のさらに半分以下の水準の人が、その国の中にどれくらいの割合でいるかという数字です。
これで見ると、貧困者が一番多いのはフランスの24・1%です。しかし、みなさんが知っているフランスはそんなに格差の大きな国ではないと思います。
実はこのグラフの本当の値打ちは、上の灰色の棒グラフの数字と下の黒い棒グラフの数字の差にあります。
上の数字は、貧困を政府が放置しているとこれぐらいの貧困者が生まれるという数字であり、しかし、実際には政府は国民生活を下から支える政策をとっていますから、その数字はどんどん小さくなります。国が、税と社会支出・社会保障で貧困者を支援する、それによって、実際に存在する貧困者の割合は減っていく、そうして減った結果を示しているのが下の黒い棒グラフの数字です。現に存在する貧困者の割合です。
つまり、上と下の数字の差が大きければ大きいほど、その国の貧困者対策は役に立っており、小さければ小さいほど、役に立っていないということです。
そうすると、フランスは24・1%が6・0%まで下がっている。その差がもっとも大きい。つまりフランスは、各国の中でもっとも有効な対策をとっている国だということです。
その反対に、もっとも役に立たない政府をもっている国は、日本です。16・5%が13・5%にしか下がっていません。
理由は簡単です。貧困は「自己責任」だと政府が責任逃れをしているからです。「国家が面倒を見るつもりはありません」というのが日本政府の公式見解です。これは日本のありようの異常さが、よくわかるグラフになっています。
〔財政赤字の急拡大は「構造改革」から〕
日本政府が公的保障の放棄を正当化する理由にあげる財政赤字を見ていきます。財務省の資料を見ると、1年間の財政赤字が一番大きくなっているのは、最近20年ほどのことです。つまり「構造改革」の時代です。改革の前よりも、改革を進める中での方が、財政赤字が大きくなっている。「社会保障を切り捨てる」と公然と言いだした後の方が、財政赤字が大きくなっています。
赤字拡大の理由は簡単です。税収が減っているからです。一番減っているのは、所得税です。20年前には国に26~27兆円も入っていたものが、いまは13兆円台に減っています。半分になっているのです。
もう一つ、大きく減っているのが法人税です。これもまた20年ほど前には、国に18~19兆円も入っていたものが、いまは8兆円台まで減っています。こちらも半分ということです。
これは景気の悪化で自然に減ったものではありません。資本金10億円以上の大企業の内部留保は猛烈な勢いで伸びていますし、格差拡大政治の中で富裕層の所得も大きく伸びています。それにもかかわらず、なぜこんなに税収が減っているのか、答えは、税率が下げられたからです。誰が下げたのか。国会議員です。これは政治の選択です。
そして同じ国会議員たちが、それによる税収の穴を埋めるために、消費税をどんどん上げている。こうした政治の正当化に「大企業が潤えば、いまに下々も」という「おこぼれ経済」の理屈が使われています。
〔雇用の「自己責任論」とバッシング〕
次に、雇用をめぐる「自己責任論」の問題です。1995年に日経連が「新時代の『日本的経営』」を打ち出しました。ここで労働者を雇い方と給与の支払い方によって3つのグループに分けることが提起されました。
1つは、終身雇用だが、競争の中で際限なく働かせることができる幹部候補の成績給グループ。2つは、技術者等を必要な時に雇って必要がなくなれば解雇できるようにする年俸制グループ。そして3つは、それ以外の低賃金で、いつでもくびを切ることができる時給制グループです。福利厚生の削減ともあわせて、目的は、企業が払う総額人件費をできるだけ安くするということでした。
これを政府が応援しました。典型は非正規雇用増やしです。2004年の労働者派遣法改悪で、製造業の現場にも派遣が広まり、派遣労働者は2000年の33万人から2008年の140万人、2012年の245万人へと急増します。非正規雇用者全体を数えれば、すでに日本の全労働者の3分の1を超えています。
非正規労働者は給料が安いです。そして、それを重石として使うことで、正規労働者の賃金も引き下げられました。その結果、日本の労働者の平均賃金は1997年をピークに低下し、全世帯の平均所得も97年をピークに低下しました。国民は絶対額で貧乏になっており、生活の貧困化が進んでいます。
こんなに長期にわたって国民の所得が伸びない先進国は、他にどこにも見当りません。同じ97年を始点にみても、給料が1・5倍ぐらいになっている国はたくさんあります。その中で日本だけがへこんでいる。「世界中どこでもこんなものでは」というのは事実にもとづかない誤解です。そう思わされているだけです。
90年代の後半には『SAPIO』などの雑誌で「勝ち組、負け組」論が展開されました。「給料が安いのはオマエが負け組だからだ」「就職できないのはオマエが負け組だからだ」という、政治や社会の構造の問題を、個人の努力にすりかえる思想攻撃です。これはいまだに大きな力をもっています。
このような労働条件と社会保障の破壊をすすめる上で、大きな役割を与えられたのは野蛮なバッシングでした。「自己責任論」への批判を封じ込めようとするものです。たとえば生活保護へのバッシング。
日本の政府は、本来生活保護を受けるべき多くの人を取りこぼしているにもかかわらず、逆に、生活保護を受けている人のごく一部の「不品行」を取り上げて、保護を受けている人たち、受けようとする人たち全員を攻撃する。これは憲法25条そのものへのバッシングです。
労働の分野では、公務員への集中攻撃が行われました。民間企業に比べれば、まだ比較的労働法が守られていた公務の分野を攻撃することで、日本の労働条件全体を引き下げていこうとするものです。
公務員賃金が下がると、病院や私学など「人事院勧告に準拠する」という給与基準をもつすべての職場の賃金が引き下げられる。そうして民間賃金と公務員賃金が引き下げ幅を争うという「賃金デフレ」の悪循環がつくりだされました。
公務員の人数の削減も劇的でした。それは行政による公務の放棄と結びついています。特に削減が集中したのは福祉・医療関係でした。住民の生活をささえる公務が真っ先に切り捨てられている。その意味で公務員バッシングは、国民生活へのバッシングとなっています。
以上が、日本国憲法の実現をめぐる戦後のたたかいの歴史、世界的にも先駆的な日本国憲法の下で、なぜ「自己責任論」のような反憲法的な思想が広がるようになったかの歴史を追ったお話です。
この国には世界に誇れる優れた憲法があります。しかし、それだけで自動的に良い社会が目指されるということはありません。国民は、まだ憲法を本気で実現しようとする政治を打ち立てることに成功していないからです。
通常の歴史では、よりよい政治をめざす勢力が政権を握り、その政権がそれにふさわしい憲法をつくっていくのですが、日本の歴史はそこがひっくり返っています。憲法の実現を本気で願う、そういう政治をつくることが、日本国民の歴史的な課題になっています。
3 自民党がめざす近未来の日本社会像
次に自民党は、日本社会を一体どうしていきたいのか、その全体像を綱領と改憲案から探ってみます。
〔2010年自民党新綱領〕
まず綱領です。綱領というのは、どういう政治をめざすのか、そのためにどういう政策をとるのかなどを記した、政党にとってもっとも重要な文書です。自民党は2010年に綱領を変えました。なぜこの時期に変えたのか。2009年の総選挙で民主党に政権を奪われたからです。
その時に自民党は解党につながりかねない危機に直面します。そこに、財界から「自民党よ、踏みとどまれ」「再生せよ」という号令がかかります。それは鳩山、小沢の民主党では、財界は心もとないということからでした。それで自民党は態勢を立て直します。
その結果、つくられたのがこの綱領です。前文を見ると、自民党の政治理念は、「日本らしい日本の保守主義」と整理されました。これだけだと、なんとでも読める文章ですが、2年後に発表された改憲案で、その内容がはっきりします。先回りして述べておくと、それは日本を天皇中心の国にするということです。
そして自民党の政策の基本には、何よりもまず改憲が示されました。日本らしい日本の姿、つまり天皇中心の日本をつくり、世界に軍事力で貢献できる日本を目指す。そのための改憲が自民党の基本政策の第一なのだと語っています。
「自民党はどういう政党ですか?」と問われた時の100点満点の回答は「改憲のための政党だ」というものです。
「どういう内容の改憲ですか?」と聞かれたら、まず天皇中心の国にする。そして、9条をなくして戦争をする国にする。
さらに「自助自立する個人を尊重する」国にするというのが答えです。これは自助自立できない人間を尊重しない国づくりということです。「自己責任論」の憲法化です。
では、その下で国民はどうやって生きていけというのか。綱領の回答は「家族で抱き合え」ということです。日本型社会福祉論そのものです。これが自民党の目指している近未来の日本社会像です。
現在の自民党は、こうした綱領で団結した政党です。安倍さんの個性によってたまたま「暴走」しているのではないのです。この綱領の策定過程で、自民党全体がはっきり思想的に右に一歩ずれ、国民生活を一段とないがしろにする方向にはっきり一歩動いたのです。
ですから、河野洋平さん、野中広務さん、古賀誠さん、加藤紘一さんといったかつての自民党の大幹部が、いまの自民党にはついていけない、おかしな政党になってしまったと言うのです。
〔2012年日本国憲法改正草案――独裁の国へ〕
こうした自民党がめざす日本社会像を、より具体的に示したのが、2012年の改憲案です。綱領も改憲案も自民党のホームページに公開されていますから、ぜひ、全文を自分で確かめてください。
改憲案の前文は、「日本国は、長い歴史と固有の文化をもち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家」だとしています。「戴く」というのは「頭の上に置く」ということです。つまり、天皇は下々とは別格の存在なのだということです。
そして、そういう国を「末永く子孫に継承するため、ここにこの憲法を制定する」と言っています。天皇が頂点にすわる国をつくり、それを「子孫」にまで残すために改憲を行うというのです。
では、天皇が頂点に立つというのは、具体的にはどういうことか。それは改憲案の条文に書かれています。ひとつは、天皇を「日本国の元首」(第1条)にするということです。この国を代表するのは首相ではなく天皇になるということです。主権在民との関係はどうなるのでしょう。
この原則と整合的に理解しようとすれば、私たちに国の「元首」である天皇を選ばせるということになります。「第一回国民的天皇選出選挙」といったハガキが、私たちのところに届けられるということでしょうか。そして、その場合、私たちも天皇に立候補してよいということでしょうか。
ところが、そういう話しをすると、途端に「違う、天皇家は万世一系なのだ」と言い出します。つまり、私たち国民は、国民の代表者を選ぶ権利を失うということです。主権在民はガラガラと崩されていくということです。
もう一つは、天皇を憲法尊重擁護義務をもたない存在に変えていくということです。ご承知のように、日本国憲法は、権力を縛るための法律です。「権力はついつい調子に乗っていろいろな過ちを起こしがちだ。だから、大きな政治的力をもつ人たちは、必ずこの枠の中で行動しなさい」と決めているのです。
日本国憲法には「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」(第99条)という条文があります。ところが、自民党の改憲案は、ここから天皇と摂政(天皇の名で仕事を行う代理人)をはずすとしています。
これはすごいことです。天皇は、この国の元首であり、なおかつ憲法を守る必要のない存在になるというのです。普通の日本語だと、これは「独裁者」と言うのではないでしょうか。
しかし、ただちに補足しておかねばならないのは、いまの天皇がこんな悪巧みをしているわけではないということです。いまの天皇は、二度と戦争をしてはならないということを、安倍内閣が集団的自衛権の行使を容認する閣議決定を行った直後にも強調しましたし、天皇としての役目についても、日本国憲法が定める範囲でこれを行うということを繰り返しています。今の政治の動きを相当意識しての発言だと思います。その限りで言えば、現在の官邸と宮内庁にはけっこうな緊張関係があると思います。
〔付記〕――2015年1月1日の「新年の感想」でも、天皇は次のように述べました。「本年は終戦から七十年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」。
裏を返すと、安倍首相には、いまの天皇の意向を尊重するつもりはないということです。天皇なら誰でも敬うということではない。
安倍首相が大好きなのは、誰からも敬われている天皇が国の中心にいて、その天皇が国民に仮に死ねと命令すれば、誰一人文句を言うこともなく死んでいく。そういう精神的な一体感のある国の形です。それを安倍さんは「美しい国」という。そういう国の形に対する強い憧れの下に行動しているということです。思想の力というのは恐ろしいものです。
〔外には戦争、内には弾圧の国づくり〕
日本国憲法は、二度と戦争をしないとしていますが、改憲案では、それらはすべて削除です。何せいま、戦争をする準備を進めている最中なのですから。全世界の国民が「平和のうちに生存する権利」も削除です。日本は世界のどこかに攻め込む準備をしている最中なのですから。ですから「恒久平和」なんて言ってちゃだめだとなるのです。ここには「世界の平和は戦争を通じてこそつくることができる」という「積極的平和主義」が貫かれています。
それから前文には、わざわざ「活力ある経済活動を通じて国を成長させる」という文章が入れられます。自民党のいう活力ある経済は、活力ある大企業と同じ意味ですが、これを国の経済運営の基本として、憲法の中に書き込むというのです。「おこぼれ経済神話」の憲法化です。
自衛隊を「国防軍」に変えた上で、第9条では、軍の任務をこう整理しています。「国防軍は、第一項に規定する任務を遂行するための活動のほか」。第一項の任務というのは、日本の独立を守ることです。その限りであれば、国民の多くは不満を述べないでしょう。問題はその「ほか」に任務があるとしているところです。
そのひとつは「国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動」です。これがアメリカの戦争についていきますという、集団的自衛権の行使に化けていく部分です。
もう一つ重大な任務が記されています。「公の秩序」を守るための活動です。「公の秩序」については明確な定義がありません。しかし、改憲案全体をみていくと、うかびあがるのは天皇を頂点に置いた政治体制そのものです。つまり、この体制を守る活動を軍が行うというのです。
その場合、誰がこの体制を脅かすと想定されているのか。外から誰かが攻めてくるのでしょうか。それには第一項の任務で対応することになっています。
そうなると、考えられるのは国内からの反対運動、あるいは政治改革の運動以外にありません。民主主義の日本、主権在民の日本をつくろう、戦争をしない平和な日本をつくろうという国民の運動を、国防軍は弾圧しますということです。大日本帝国憲法と治安維持法がセットになったような憲法です。
〔国民の上に「公の秩序」をすえる復古主義〕
「自己責任論」とのかかわりでは、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない」(第12条)という現行憲法に、ただし、それは「公の秩序に反してはならない」と付け足します。国民の自由や権利は「公の秩序」に反してはならない。
いまの日本国憲法では国民が主人公としてあって、その自由や権利を国家が下から支えるものとなっていますが、これをまったく逆転させて、国民は「お上」が許す枠の中で生きていけということです。日本国憲法は国家権力を法で制御するものとなっていますが、自民党の改憲案は、天皇を頂点とする権力が全権を握った上で、それが国民の権利をしばるものとなっているのです。
第21条の結社の自由では、「公の秩序を害する……結社をすることは、認められない」となっています。さて、今日の取り組みの主催者である労働者教育協会はどうなるのでしょう。また全国各地の労働者の学習教育組織はどうなるのでしょう。
考えられる道のひとつは、これまでの信念を「もう天皇中心でいい」「民主主義も平和も、もういいや」と曲げることによって、結社を許してもらうという道です。
もう一つは、節を貫く道ですが、この道は憲法違反の存在となるということですから、これを選んだ全員が地下に潜っていかねばならなくなります。何せ憲法違反の存在ですから、家に帰れば警察が待っています。家族にも会えません。事務所にもいけません。つばの広い帽子を目深にかぶって、大きな建物の影から影へと逃げて歩くしかなくなります。そういう地下活動をするしかありません。愛読書は、もっぱら小林多喜二になるのでしょうか。
こうして、改憲案に繰り返し登場してくる「公の秩序」とは一体なんのことでしょう。私は、これは戦時中に語られた「国体」のことではないかと思います。1937年に文部省が編纂した『国体の本義』は、「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である」と書きました。天皇を中心に、天皇の命にしたがって全国民が団結する、世界に類をみない国の姿。これを、もう一度日本に再現させたいということなのだと思います。
また「両性の本質的平等」を定めた第24条の冒頭には、「家族は、互いに助け合わなければならない」を加えています。自民党の綱領にあった、国民は家族で抱き合って生きていけということの憲法化です。
実際、生活保護の適用にも、本人の困窮を証明するだけでなく、一族郎党の困窮の証明が求められるようになってきています。さらに「平等」の内容に、あえて「扶養」が付け加えられています。女性にも扶養の責任を求めることで、「家族責任論」を強化しようとしているのです。
第72条は「内閣総理大臣は、最高指揮官として、国防軍を統括する」です。戦闘機に乗っては笑って手を振り、戦車に乗っては笑って手を振る。そういう安倍首相なら大喜びでしょう。
第9章「緊急事態」は、全体を新たに盛り込むものです。これは国に何か大きな困難が起こった時に、日本中の法律を一時ストップして、「国民はすべて権力の指示にしたがえ」という状況をつくるものです。どういう時にそれを実施するのか。第一に戦争、第三に大きな自然災害があげられていますが、二番目にあげられているのは「内乱等による社会秩序の混乱」です。
普通の日本語だと、これは戒厳令のことですね。まだ民主主義を十分実現できずにいる国で、軍事独裁政権が時々、実施しているものです。軍のお気に入りの大統領に、民衆がノーを突きつけたとき、戦車が出ていって運動を蹴散らしていく。そんな構図が目に浮かびます。
〔改憲案の内容を知らせる運動の工夫を〕
全体をまとめてみると、非常にいびつな改憲案です。天皇中心の復古主義を軸に置きながら、決してアメリカには楯突かず、アメリカの戦争に子分としてついていく。他方で、国民の生活に対する責任は追いません。自己責任と家族責任でなんとか生きてくださいという内容です。さらに経済運営は、ともかく大企業を優先する。最後に、そういう政治が気に入らない国民を、容赦なく弾圧していくというものです。これが自民党が目指す国づくりの内容です。
このような改憲案を自民党は2年以上も前に公表し、その後、ホームページにずっと公開しています。それにもかかわらず、国民の怒りが高まる気配はありません。なぜなら、ほとんどの人が読んでいないからです。そしてそれを知らせる力も同じく弱い。そもそも全体を読んだことがないという人は、私たちのまわりにも随分多いのではないでしょうか。
内容の異常さを伝えるのは、そう難しいことではありません。格別ひどいと思った条文を、何カ所かビラにコピーする。そしてタイトルに「これが自民党のめざす日本の姿です」と書き、コピーの下に1行「私は反対です」とすればいい。
そのビラを配られた人は、たぶんはじめて見ますから、「そんなばかな」とか「ウソでしょう」というのが予想される反応です。「いくら安倍さんでもここまでひどいことは言わないだろう」と。それに対して「いいえ本当です。自民党のホームページに全文がありますから、ぜひ確認してください」と答えていけばいいわけです。
「9条を守ろう」「憲法を守ろう」というだけの抽象論にとどまらず、問題を具体的にとらえ、具体的な危険と具体的にたたかう運動論を、ぜひ工夫していただきたいと思います。
4 日本国憲法までの世界の人権保障の歴史
こうした改憲の動きや「自己責任論」の広がりに、大きな抵抗の力を発揮し、「憲法が輝く日本」を目指していくためには、いまある憲法の条文を読むだけでなく、どうしてこういう条文になっているのか、その背景を知ることが必要です。以下では、国家が国民の人権を保障するという考え方の誕生と発展を見ておきます。
〔人権の誕生は自由権から〕
人権という言葉は、身分の高いものが土地や人間を支配するという封建制の社会から、近代の資本主義社会に移り変わる中で生まれました。マルクスは、16世紀から封建制の中で資本主義が始まったとしていますが、それに照応するかたちで、資本主義の誕生を支えるものの考え方が現れてきます。
古い身分による差別を超えて、あらゆる人間に対等な権利を認めていかねばならない。人は誰しも平等な権利をもってこの世に生まれてくる。そういうホッブズ『リヴァイアサン』やロック『市民政府論』のような思想が出てくるのは、17~18世紀のことです。そこでは、国家は、独立し、平等である諸個人の契約(約束)によってつくられるものだとされました。
それが封建制の社会と権力を批判して、歴史を大きく進める原動力になりました。人を生まれつきの身分にしばりつける社会に対して、万人の平等が対置されたのです。そこには経済活動の自由、財産権などの言葉も出てきます。「私たちの労働の成果を、王様が力づくで奪い取ってはいけない」「私の労働の成果は私のものだ」という思想です。それは生まれたばかりの資本主義の発展を促す思想でもありました。
こうした人権の思想は、ブルジョア革命の指針になると同時に、打ち立てられた新しい権力の下で、憲法という形をとっていきます。近代憲法の誕生です。最初の典型はアメリカの独立宣言と、フランスの人権宣言です。
内容の基本は自由権でした。「何々からの自由」「何々されることのない自由」です。私のものは盗まれない、私は誰にも拘束されない、私の思想・信条は制約されない、私の経済活動は束縛されないなど。これらは封建制の社会を否定し、資本主義の発展に合致したものです。ブルジョア革命が生み出した近代憲法は、この自由権を中心としたものでした。
ただし、ここでいう人権の「人」の範囲には大きな制約がありました。フランス人権宣言の際に「女性にも人権を」と訴えたオランプ・ドゥ・グージュは、ギロチンで首を落とされました。人権の「人」に女は入らないとされたのです。
同じような制限がいろいろありました。人権を語りながら、フランスはアフリカに、アジアに植民地を広げます。「黒人には人権はない」「黄色い人間には人権はない」とされたのです。
そして選挙権は金持ちにしかあたえられません。貧乏人には人権はない。身体障害者にも人権はない。要するに人権は、ごく限られた人たちの権利からスタートしたのでした。
男女の平等、人種差別の撤廃、普通選挙権、各種のマイノリティの権利など、こういう適用範囲の狭さを乗り越える取り組みは、その後、今日まで、長くつづけられています。
〔自由権のみの制約を超えて〕
同時に、自由権の限界も次第に明らかになってきます。焦点は経済活動、営業や雇用の自由です。「契約のルールは自由だ」「当事者が同意していればいい」「国が口をはさむな」ということの結果、マルクスが『資本論』で豊富に紹介したように、低賃金、長時間、過密、不衛生な労働が増え、たくさんの過労死が生まれました。
ここから「ブルジョア革命の限界をのりこえよう」「封建制を越えたのはいいが、越えた後がこれでは困る」という、エンゲルスの『空想から科学』が第一章で描いたような考え方が出てきます。次に、この資本主義をのりこえる社会をつくらなければいけない。そうして、さまざまな社会主義の思想と運動が発展します。
ご承知のように、マルクスは社会主義の元祖ではありません。マルクス以前に社会主義者はたくさんいましたし、同時代にもいっぱいいました。いっぱいいたからこそマルクスは、それらの人々と論争したり、共同したりしていたわけです。資本主義の害悪は、そのように誰の目にもわかりやすいものでした。
ブルジョア革命は、資本家と労働者が一緒になって、封建制の権力を倒すものでした。しかし、その後の資本主義の中で、「おれたち労働者は、資本家とは利害が対立している。これを解決しなければ」という自覚が生まれてきます。資本家の側も同様で、労働者たちを支配の対象と考えるようになっていきます。
1871年、マルクスが、本質的に労働者階級の政府だったと総括した「パリ・コミューン」が生まれます。このコミューンは、従来の自由権にくわえて、新たに社会権を主張しました。これが近代憲法を再編、拡充する最初の試みです。
社会権というのは、国民が国家に対して幸福に生きるための保障を求める権利のことです。パリ・コミューンは、万人の教育と最低生活は国が保障するのだと宣言しました。そういう権利を実現する意志をもった政治をつくると宣言したのです。公的保障の思想です。
これは労働者の運動から生まれた思想でした。「経済活動の自由だけでは、満足に生きられない」「こんな契約では、こんな低賃金では暮らせない」「働けなくなったら終わりだ」「そこをなんとかしなければ」ということです。パリ・コミューンの指導部には、いわゆるマルクス派は一人もいませんでした。つまり、社会権の思想は、当時の先端の労働者たちに、すでに広く共有されたものだったということです。
さらにパリ・コミューンは、これらの社会権を実現するには社会の構造をかえることが必要だと考え、「賃金制度と永遠に決別する」と主張します。さらに「権力と財産を万人のものにする」とも語ります。これらの改革は運動の目的ではありません。万人に社会権を実現することが目的であり、社会の改革はそのための手段だったのです。しかし、残念ながらパリ・コミューンは、短期間のうちに、ブルジョアと旧封建制の支配者たちの武力によってつぶされます。
〔経済の自由に制限をかける現代憲法〕
しかし、この考え方は20世紀に継承されました。これを条文に書き込んだ最初の憲法が、1919年のドイツにつくられたワイマール憲法です。ここには国民の生存権、教育権、労働権が書き込まれました。
1917年、ロシアに社会主義をめざす革命がおこり、その影響でドイツでも革命運動が一定の高揚を見せます。その中で、ロシアのような革命は嫌だが、民衆はそれに魅かれている、そこで間をとって、帝政は倒すが、ロシア型社会とはしないという運動が力をもちます。この運動から生まれたのがワイマール共和国です。
この共和国は、自由放任の経済に制限をかけました。憲法に「経済生活の秩序は、各人に人間に値する生活を確保することを目的とし、正義の原則に適合しなければならない。各人の経済上の自由は、この限界内で保障される」(第151条1項)と書き込んだのです。
もうけの自由、食えない自由ではだめだ、経済活動は正義の原則に適合しなければいけない、各人の経済上の自由はこの限界内でのみ保障されねばならないというのです。
このように自由権にとどまらず、人々の社会権を国家が保障するとした段階の憲法を、現代憲法と呼びます。それは資本のやり放題に、制限をかけるようになった憲法でもあり、資本の運動にルールを与えることが、資本主義の内的な欲求であることを明確に示す憲法ともなりました。
〔大日本帝国憲法から日本国憲法への飛躍〕
こういう角度から、あらためて日本の歴史を振りかえると、何が見えてくるでしょう。日本にも近代憲法と現代憲法の二つの憲法が存在します。大日本帝国憲法は、日本の最初の憲法で、徳川封建制から資本主義への社会の大きな転換の中つくられた近代憲法のひとつです。
しかし、日本の近代憲法は、人権保障の内容を一切もっていませんでした。基本的人権、自由権が何一つ書かれていないのです。ですから、実際社会にも、多喜二の小説が描いたように過酷な非人間的労働が放置され、タコ部屋と呼ばれた労働者への身体的拘束も野放しで、小作人といわれた農民には封建的農奴とかわらぬ小作料が課され、学問や思想の自由も許されませんでした。
大日本帝国憲法には、国民の自由権がありません。そもそも国民は天皇の家来を意味する「臣民」としてしか書かれていません。憲法学者は、世界の近代憲法にはアメリカの独立宣言やフランス人権宣言のように、後の社会発展の本流となる部分と、そういう内実をもたず、傍流として消えていくカッコつきの「近代憲法」があるとして、後者の代表に、ワイマール憲法前のドイツ憲法(プロシア憲法)と大日本帝国憲法をあげています。
もちろん民主主義と人権を求めるたたかいが、戦前の日本になかったわけではありません。たとえば自由民権運動です。憲法をつくれ、憲法のもとで自由権を保障しろというのが、植木枝盛たちの運動でした。
政治は国民が選んだ議員たちが、政党をつくって行うべきだという、政党内閣制、議員内閣制を求める大正デモクラシーの運動もありました。
さらに日本にも、資本主義の限界を越えようとする社会主義の運動がおこります。しかし、これらの運動は天皇制の権力によって弾圧されてしまい、結局、国民の人権を守る政治をつくるには至りませんでした。
その後、侵略戦争での敗北をきっかけに、日本社会は激変します。その変化のひとつが、世界でも最先端の憲法の施行でした。自由権さえ実現することができなかった日本人と日本社会に、一挙に、社会権を盛り込んだ最先端の日本国憲法が与えられました。
日本国憲法は、人権は「侵すことのできない永久の権利」だと第11条と97条で2度もくり返しています。そしてたくさんの自由権が規定されています。くわえて第25条から28条には、生存権は国が保障する、教育権も国が保障する、労働条件も法律で決める、さらに労働三権の保障も書かれています。社会権が盛り込まれているのです。
経済活動についても、第22条には職業選択の自由があり、第29条の財産権にはそれが「公共の福祉」に反してはいけないことがはっきり記されました。加えて男女平等や戦争放棄も明記されています。
このような世界史的に見ても、きわめて先駆的な憲法に、日本国民は、世界史的に見てひどく遅れた大日本帝国憲法から、一挙に飛び移ることを余儀なくされました。そこから日本国憲法が保障する権利に、理解が及ばないという問題が生まれます。
憲法第97条は、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と書いてます。その意味がよくわからないという問題です。
「自己責任論」の横行は、憲法とのかかわりでいえば、現代憲法から近代憲法への逆行です。資本やり放題の野蛮な時代への逆行です。
それを食い止めるには、自由権の大切さに加え、社会権の必要を理解し、それを実現する社会づくりに取り組んできた人類社会の努力に共感できねばなりません。そこの理解を深めることが、私たちの憲法学習にも求められています。
いまある条文を知ることに加え、改憲を許さない運動論を考えることに加え、この憲法に現れている人類社会の到達点、社会とはこうあるべきで、人々の共同はこうあるべきだという模索の到達点を、国民の共通理解にしていく。これが、私たちが担わなければならない憲法学習の内容です。
〔20世紀に急進展した戦争違法化への道〕
戦争の違法化については、ゆっくり触れる時間がありませんが、第9条も生存権と同じように、人間社会の長い模索の到達だということを、箇条書き的に紹介しておきます。
19世紀の終わりから20世紀の最初が、軍事大国による世界分割、植民地支配の最盛期でした。国際法の範囲内なら戦争の正当性は問わないというのが、当時の大国の戦争観です。
しかし、第一次大戦で2000万人の死者が生まれます。そこで1920年に「加盟国は、戦争に訴えざるの義務を受諾し」とする国際連盟が45カ国の同意で誕生します。
さらに1928年には「戦争放棄に関する条約」(不戦条約)が結ばれました。「締約国は、国際紛争解決の為戦争に訴ふることを非とし…政策の手段としての戦争を放棄する」(第1条)、「一切の紛争又は紛議は…平和的手段に依る」(第2条)とするものです。
これをきっかけに「国家の政策の手段としての戦争を放棄する」(31年、スペイン憲法)、「国家の政策の手段としての戦争を放棄し」(35年、フィリピン憲法)などの憲法がつくられました。
しかし、そこには「自衛権」の名で戦争正当化の論理をもぐりこませる弱点も残されました。アメリカ、イギリス、フランスなどの企みです。そして、これを最大限に活用したのが日本でした。日本の生命線を守るという「自衛」論をかかげて日本は「満州事変」(31年)を起こすのです。このことへの国際的な批判を前に、日本は国際連盟を脱退する最初の国家となりました(33年)。そして、第二次世界大戦に突入します。
戦争中に連合国は、大西洋憲章(41年)で「すべての国のすべての人が、恐怖と欠乏からの自由のうちに、かれらの生をまっとうすることを保障するところの…平和を確立する」ことを確認しました。
第二次大戦後、1945年10月には国際連合が創設されます。国連憲章を確定した最後の会議(45年4月)では、①平和の基礎となる経済の安定を目的に経済社会理事会を設置し、②「人民の同権及び自決の原則の尊重」(米ソは渋々の賛成でしたが)が盛り込まれました。同時に、ここでも、③国連が措置をとるまでの個別的・集団的自衛権という逆流が書き込まれます(第51条)。
集団的自衛権というのはこの時に初めて主張されたアメリカの造語で、目的は、同じ常任理事国となるソ連の同意なしに軍事力を発動できるようにするということでした。いま日本社会がこの集団的自衛権の実行部隊になるということは、戦争の違法化に向けた世界の歴史に再び逆行するということを意味します。
〔資本主義発展の歴史を考える〕
関連して、憲法の発展と資本主義社会の発展の関連についてもふれておきます。今日は学習運動の集まりですから、少しだけ理論的な話もしておきます。
私たちは、資本主義の経済や社会の歴史について学ぶ時に、自由競争の資本主義から、20世紀初頭の独占資本主義、そして第一次大戦、あるいは大恐慌、第二次大戦を経て、国家独占資本主義へ、現代はそういう段階の延長線上にある社会だと学んできました。
このような理解の原型をつくったのは、レーニンの『帝国主義論』とそれ以後の書き物です。独占段階の段階としての重視は、それを「死滅しつつある資本主義」ととらえる歴史観と一体のものでした。この歴史観が誤りだったことは、歴史がすでに証明しています。
レーニンはなぜ独占段階を「死滅しつつある資本主義」と判定したのか。その根拠のひとつは、資本主義は自由競争で、社会主義は完全な計画化だというエンゲルス流の資本主義理解です。そこから、無政府性が独占によって乗り越えられつつある段階は、資本主義の枠内における社会主義への過渡のはじまりなのだという理解が生まれてきます。
これに関連する問題提起をしてみます。
一つは、資本主義にとって、自由競争が本当に典型的な段階なのかという問題です。レーニンはそう考えました。しかし、歴史をふり返ると、封建制の体内に発生した資本主義が、産業革命を通じて初めて自立するのは、19世紀前半のイギリスです。
ところがその資本主義はたかだか40年ほどの間に、「大不況期」と呼ばれる独占段階への過渡期に入ります。そして20世紀の初頭に独占資本主義に達します。
それからすでに1世紀以上が経過しました。つまり確立した資本主義の全生涯で、もっとも長い期間を占めているのは独占段階以降の資本主義です。なぜこれを資本主義の典型と言ってはいけないのでしょう。これが一つ目です。
二つ目に、独占段階以降の資本主義ですが、その下で二度の世界大戦があり、社会権や人民主権、戦争の違法化などの社会の発展がありました。国際的な関係では、植民地なき資本主義への転換も起こります。
このように同じ独占段階でも、資本主義の具体的な姿は相当大きく変わっています。独占段階あるいは国家独占資本主義段階という資本主義のとらえ方は、これをきちんと反映したものになっているでしょうか。
三つ目は、さらに踏み込んで、計画性の発展を資本主義発展の最大の基準とすることに道理はあるのかという問題です。自由競争から独占へ、私的独占から国家独占へ。これらの段階区分は、資本間の関係への計画性の広がりを基準としています。では、なぜそれが基準となるのでしょう。
レーニンの説明は、結局のところ、自由競争こそが資本主義の基本的特質だからだというものでしかありません。つまり「死滅しつつある資本主義」論にもとづいているのです。しかし、20世紀以後の独占段階が「死滅」でなく、むしろ「発展する資本主義」を体現してきたことは明らかです。その時に、私たちはまだ「自由競争から計画性へ」を基準に資本主義の発展段階を考える必要があるのでしょうか。
四つ目に、この問題を考えるときに、あらためて重視すべきは、社会をとらえる史的唯物論の見地ではないかと思います。社会は土台である経済構造が、政治や法や社会意識などの上部構造を規定するだけでなく、逆に上部構造も経済に反作用します。
この作用と反作用の関係を、エンゲルスは、土台と上部構造という二つの等しくない力の相互作用と表現しました。最も大きな力を発揮するのは経済だが、それ以外の要素も常に力を発揮して、その社会のあり方をさだめる役割を果たしているということです。
このような土台と上部構造の相互作用の全体として、資本主義の発展をとらえ返す必要があるのではないでしょうか。
20世紀以後の資本主義には、さまざまな変化が起こっています。多国籍資本と国民経済の対立をもたらすほどに発展した資本の生産力、過剰生産とケインズ主義の破綻の中での金融の肥大化や恐慌の形態変化、主権在民と議会制民主主義の定着の下での一定の福祉国家の実現、世界的な植民地体制の崩壊と世界構造の大きな変化などです。
これらの巨大な変化を、資本主義社会の発展段階としてきちんと示していく必要があるように思います。
そういう角度からマルクスの理論をあらためて振り返えると、やはり次の箇所が示唆に富んでいると思います。
「工場立法、すなわち社会が、その生産過程の自然成長的姿態に与えたこの最初の意識的かつ計画的な反作用」「工場立法の一般化は、生産過程の物質的諸条件および社会的結合とともに、生産過程の資本主義的形態の諸矛盾と諸敵対とを、それゆえ同時に、新しい社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」。
ここには、労資の力関係の変化と生産力の発展の相互関係の下に資本主義の発展をとらえる構造的な視角、その資本主義の発展を同時に未来社会の準備としてとらえる歴史的な視角が、端的に示されています。こうした見地を導きに、あらためて資本主義の発展のあり方を、とらえなおす必要があるのではないでしょうか。
〔付記〕――これらの論点は、拙稿「資本主義の発展段階を考える」(『経済』2015年1月号)で、より詳しく述べました。ご参照ください。
5 憲法が輝く社会に向けて
いま、自民党政権の動きに対する国民の反応はどうなっているでしょう。多くの世論調査で、閣議決定に反対だとする声が多数となっています。では、そうした声にもとづく政治の転換の可能性はあるのでしょうか。そこを少し考えてみます。
〔新しい政治を模索する国民の動き〕
国会にはいろいろな政党が議席をもっていますが、NHKが毎月調査している政党の支持率をみると、2014年の最大勢力は「支持なし」です。これに拮抗しているのが自民党の支持率です。自民党の支持率は34~40%です。3人に1人、多くても10人に4人くらいの支持にとどまっており、相対的には一番ですが、絶対的には有権者の3分の1強の支持しかありません。
その次に支持率が高いのは民主党で5~6%です。次が公明党で3~4%。そして共産党が2~3%。あとは離れたり、くっついたりの維新が1%程度。安定して一定の支持を得ているのは、自民、民主、公明、共産の4党だけです。
こうした政党支持の到達点は、どうやってつくられてきたのでしょう。それをふり返っておきます。
90年代の後半に、自民党の不人気が強まりました。そこで小選挙区制が拡大され、また、財界による二大政党制づくりが急がれます。しかし、二大政党制は破たんしました。自民と民主の支持率に、あまりにも大きな差がついてしまったからです。
政権を獲った2009年に2984万票を得ていた民主党は、4年後の2013年には713万票しかとれない政党になりました。この短期間に、国民は学んだのです。自民党にお灸をすえるために民主党に入れたが、結果的に民主党は何の役にも立たなかった。そう判断して2200万以上の人が民主党から票を引き上げました。
もちろん、それが自民党や公明党に戻ってしまえば元の木阿弥です。しかし、実際には、票はもどっていません。2009年に政権の座を失った自民党の得票は1881万票でしたが、2013年の安倍自民党は1846万票に後退しています。安倍自民党は、国民の支持を伸ばすことに成功してはいないのです。これを支える公明党も805万から757万へ、48万票を減らしています。
それでは、民主党に愛想をつかし、自民党にも公明党にも戻らなかった人たちは、一体どこに行ったのでしょう。一方では、もう政治に期待しない、投票しないという動きが強くなりました。2009年の衆院選の投票率は69%でしたが、その後、2010年の参院選は58%、2012年の衆院選は59%、2013年の参院選は53%と低下します。
もう一つの大きな変化は、選挙のたびに投票先を大きく変動させる模索の動きとなって現れます。2010年にみんなの党は794万票を集めますが、2013年には476万票まで減らして、その後分裂となりました。2012年には維新に1226万票が集まりますが、2013年には636万票となり、やはり分裂、そして数あわせの統合となっていきました。「第三極」への期待と失速を短期間に生んだ流れです。
その中で、2013年に新しい変化がつくられます。共産党への期待の回復です。2009年494万票、2010年356万票、2012年369万票と停滞した共産党が、2013年に514万票に前進します。
転換のきっかけは、2012年選挙での安倍政権の成立とその直後からの「暴走」でした。自民の「暴走」を止める力を求めた国民が、共産党に期待を寄せる結果となったのです。「共産主義のことは知らない」「ソ連や中国はきらいだ」「しかし、安倍政治は止めてほしい」そういう期待の現れです。
ここで期待に応えることができなければ、共産も、みんなや維新のように、短期間に再び支持を失う可能性をもっています。いまが踏ん張りどころということです。
〔付記〕――2014年12月の衆議院選挙で、自民党は2013年の1846万票から1766万票へ、公明党も757万票から731万票へ、それぞれさらに得票を減らし、与党合計で106万票を失う結果となりました。他方、民主党は新党大地との協力や生活の党からの合流などもあって713万票から978万票に、また共産党は515万票から606万票に前進しました。今回の選挙でも、安倍自民党政治の転換を求める国民の動きははっきりしています。ただし、投票率は53%にとどまっており、政治への期待を回復できない国民はいまだ多くを占めています。
〔「一点共闘」から政治転換の大共闘へ〕
政治の転換をどう進めるかについてですが、来年(2015年)にはいっせい地方選挙が行われます。再来年(2016年)には参議院選挙があり、衆議院選挙もあります(この衆議院選挙は2014年12月に実施されました)。それをどうやって迎える必要があるでしょう。一方ではもちろんみなさんが支持している政党にがんばって大きくなってもらうということがあります。
もう一方で、私たちが学び、考えなければならないのは、先日の堺の市長選挙での保守から革新まで手をつないでの「ストップ維新」の勝利です。保革の垣根を越えたこうした共同が、いま沖縄の県知事選挙にも現れています。辺野古に基地はつくらせないという「オール沖縄」の連帯です。そういう広い共同を、日本全土に広げるために一体何が必要か。その探求に、いま知恵をしぼる必要があると思います
〔付記〕――2014年11月の沖縄県知事選挙では「オール沖縄」を代表した翁長候補が、基地建設をすすめる仲井真候補に10万票の差をつけて圧勝しました。また、12月の衆議院選挙では4つの小選挙区すべてで「オール沖縄」の候補が勝利しました。いずれも保革連携の威力を見事に実証するものとなっています。
その足掛かりになるのが、いわゆる「一点共闘」の進展です。一点共闘はすでに保革の垣根を越えた大運動となっています。消費税10%反対、原発再稼働反対、TPP加入反対、憲法守れ、辺野古への基地建設反対など、今日の政治の中心的課題のすべての問題で、多数の共同が生まれています。この力を「政治を変える力」に、どのように発展させていくかが課題です。
私も役員の末席を占める全国革新懇は、一点共闘でがんばっているみなさんに「つくりたい政治」を自由に語り合ってもらう場を提供しようとよびかけています。「みなさんは、安倍内閣で憲法が守れると思っていないでしょ」「安倍内閣で原発ゼロが実現するとは思っていないでしょ」「安倍内閣で増税が止められるとは思っていないでしょ」「ではみなさん方は日本にどういう政治をつくりたいと思いますか」。それを自由に語ってもらう場をつくる取り組みです。
100%自由に語ってもらっていい。その中で、「私は消費税増税反対でがんばってきたけど、原発ゼロの人とあまり意見が変わらないことに気づいた」「私は脱原発だけど、護憲の人とあまり意見がかわらない」というように、お互いの中に共同の気付きの広まりが生まれてきます。それを促進しようということです。
全国革新懇の主催で、東京では6月にやってみました。もっと幅広い顔ぶれでやるべきだったという声もあがりました。革新懇の総会で、これはすでに全国に呼びかけられています。すぐに手をつけてくれたのは、京都と大阪でした。大阪は維新とのたたかいでこういう取り組みが発展しています。京都にも保革の垣根を越えた幅広い「町衆」の連帯を追求する伝統があります。それぞれ大いに期待したいところです。
これらの取り組みを通じて「こういう政治をつくりたい」「これなら保守から革新まで納得できる」。そういう合意をつくっていく。そういう下からの強い合意に支えられた時に、安倍内閣打倒と政治転換の運動は、国会内の取り組みと連携して、本当に国民的なものとなるように思います。そうした大きな国民的な運動は、国会の中にさらに新しい変化を生み出す力ともなっていくでしょう。
〔付記〕――安倍内閣が衆議院選挙を2014年末に繰り上げ実施したのは、集団的自衛権の行使や改憲論議で国民の反感を買うことを避けるためでした。結局、自民は3議席の減、これを公明の4議席増が帳消しにして、自公全体での「大負け」回避は成功したようです。しかし、その代償として、安倍政権は3つの大きな失点を余儀なくされました。
一つは「安倍暴走政治ストップ」を正面からかかげる共産党を、8議席から21議席に躍進させてしまったこと。二つ目は、沖縄の全小選挙区で「基地ノー」連合に敗北し、辺野古への基地建設をますます困難にしてしまったこと。三つ目は、改憲の最大の援軍と期待していた「次世代の党」を壊滅状態(19議席から2議席)に追い込んでしまったということです。
大手メディアを抱き込み、野党の不意を突き、用意周到に行った選挙だったのに、どうして、こんな結果になってしまったのか。それは消費税増税、原発再稼働、格差拡大のアベノミクス、戦争する国づくり、沖縄基地建設の強行など、安倍暴走政治の根本に、国民の多数が反対しているからです。政治は権力者の思惑だけでは進みません。権力と国民の綱引きによってしか進みません。これは、私たちが、2015年の政治を展望する上でも、根本にすえるべき視点となるものです。
6 全国の学びの仲間に対する期待
最後に、学びの仲間のみなさんへの期待をこめて、いくつか問題提起をしておきます。
科学的社会主義の基礎理論や目前の課題に結びつけた情勢学習にくわえて、日本国憲法の理念・条文と国民意識の到達のずれを埋める、歴史的に大きな構えをもった憲法学習を進めていただきたいと思います。
憲法の条文につうじることはもちろんですが、なぜそういう条文がつくられたのかという思想的・歴史的な背景を学ぶこと、そして自民党の改憲案の具体的な内容について、また憲法どおりの日本をめざす運動のあり方について、これらのものをセットにして学ぶ取り組みを期待したいと思います。
次に、学びの水準をどう引き上げていくかということについてです。すそ野を広げると同時に、学習運動のリーダーの水準をどう引き上げていくかという問題に、独自に取り組むことが必要です。
たとえば大学にはアドバンスト・コースというものがあり、卒業に必要な単位には数えられないけれど、希望する学生には特別に質の高い授業を提供するといったことが行われています。労働学校を何度も受講している人たちに、もう一段質の高い学びをどう保障するか、そこを考えていただきたいと思うのです。
そこで検討しうる学びの方法のひとつは、読書ゼミではないかと思います。たとえば科学的社会主義の基礎理論には、この20年ほどのあいだにかなり急速な変化が生まれています。次々に出てくる新しい研究、新しい文献に、個人で追いついていくことはなかなか大変な状況です。そこで、それを集団で学ぶ。励ましあいながら、集団で検討をくわえていく。そういう取り組みができないものかと思います。
もうひとつ検討をお願いしたいのは、インターネットの活用の発展です。取り組みの案内を掲示するのは多くの組織が行っています。
さらに「いまここで、こんな風に学んでいます」ということを、写真や映像つきで発信する。そういうライヴ感覚をもった学習運動の発信ができないものでしょうか。ツイッターなどのSNSの活用を念頭してのことですが。
それからお勧めの本の紹介や、受講生や卒業生との日常の連絡にも、インターネットをうまく活用できないものでしょうか。「ああ、こういう人間的なつながりがある場なんだな」ということを、受講生の外に拡散するための発信です。
独習をどう組織し、その水準をどう高めていくのかという問題も重要です。独習と教室の相乗効果の検討も必要でしょうし、独習そのものの水準をどう高めていくかという検討も必要です。
たとえば科学的社会主義の研究を目的とした雑誌のひとつに『経済』がありますが、みなさんはこれをどのように活用されているでしょう。私の年代だと、学生時代から定期講読をつづけている人も少なくないと思います。
最初から読めたから講読したのではありません。読めるようになりたいから定期講読をしたのです。そういう背伸びに、組織的に取り組むことはできないものでしょうか。
独習を進めるには、文献の紹介や販売の他に、読書の感想を紹介することも大切です。
また独習によって、私はこういう風に変わりましたという育ちの実際を示すことも大切だと思います。読書カルテをつくって、ホームページやフェイスブックに学びの様子を公開するグループをつくる。「私は日々、このように学んでおり、去年とちがって、いまはこんなことを考えるようになりました」といったことを、ずっと公開していく。カルトっぽく見えてしまってはいけないのですが、生活の中に学びを取り込むよびかけとして、なんとか工夫できないものでしょうか。
今日からの3日間、みなさんは全国の学習運動の経験を交流するわけですが、心の中に秘めたアイディアなども大いに積極的に交流していただき、学びの取り組みの発展に、お互いに力をあわせていきたいと思います。集会の充実を期待して、私のお話を終わります。どうもありがとうございました。
(本稿は、2014年10月11~13日に開催した全国学習交流集会in千葉での記念講演〔集会1日目〕をもとに加筆・修正したものです。)