以下は、大阪歴史科学協議会『歴史科学』189号(2007年9月)44~53ページに掲載された講演録です。
2006年11月の関西歴史研究者「9条の会」での講演に、2007年3月時点での補足を加えたものとなっています。
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学生と学ぶ『慰安婦』・平和問題
神戸女学院大学・石川康宏
http://walumono.typepad.jp/
2006年11月3日に行われた関西歴史研究者「9条の会」第8回懇談会で,神戸女学院大学での9条の会の取り組みと,私のゼミの「慰安婦」問題の学びと取り組みを紹介させてもらいました。以下は,当日の発言に加筆,整理を施したものです。
1・「神戸女学院大学9条の会」の発足
最初に,神戸女学院大学9条の会について簡単にご紹介します。この会は2005年2月2日が発足の日となっています。発足当初の会員は2年生の学生2名だけでした。2月2日というのは,この2人の学生がホームページをつくり,これを公開した日ということです。それが,本学9条の会が学内メンバーの前に公然と姿をあらわした日になっています。私もこの日に,学生からホームページをつくりましたというメールを受け取って,驚かされた側の1人です。
あとで聞いたことですが,学生たちが9条の会をつくろうとしたのは,私の講義を聞いてのことでした。2004年度後期のある授業で,私は日米経済関係をテーマにしていました。その締めくくりの時間に,アメリカの政治的支配者たちによる日本政府への改憲要求の問題をとりあげ,自民党が検討している改憲案の内容が大変に危険なものであること,この改憲の動きをくいとめるために「9条の会」という市民運動がよびかけられ,それが全国に広がっていること等を紹介しました。
じつは,その直後,研究室にもどろうとする私のところに,学生がやってきて「9条の会というのは私たちでもつくれるんですか」と聞いていたそうです。私はまったく覚えていないのですが,「誰でもつくれるよ」とこたえて,私はすぐにその場を離れたようです。
今ふりかえってみると,こういう形で9条の会が立ち上がることがあるわけですから,学生たちの主体性を見くびるべきではありません。また,こちらの講義の仕方としては,自民党の改憲案の危険性を強調する,いわゆる危機をあおるというだけではなく,まじめな大人たちが立ち上がり,闘いをはじめているということを丁寧に語ったことが大切だったと思っています。
さて,学生たちはインターネットを使ってまわりの9条の会との連絡を深め,3月20日には早くも,神戸での兵庫全県規模の平和集会で,テントの一角をまかされていました。この集会の実行委員会から「参加しませんか」とメールが入り,学生たちはあっと言う間にその運動の中心にかかわっていったのです。
ここにはインターネットを利用した活動の迅速性や,学生たちの驚くべき行動力が良くあらわれています。私もこの集会に顔を出し,学生たちを励ましてきましたが,名だたる「お嬢様大学」の学生が堂々と「神戸女学院大学9条の会」の看板を出して署名を集め,小学生などの子どもたちに世界地図でイラクの場所を教えたりする姿には,まわりの大人たちが驚いていました。こういう機会は,もちろん学生たちに大きな自信を与えますし,まじめに社会の問題を考える大人たちとの交流は,学生たちの成長にとっても大変に大きな刺激となるものです。
2・学生主導での取り組みの工夫
4月になると,9条の会は学内での取り組みを本格的に開始します。ホームページをつくった2人の学生は,いずれも3年生の私のゼミに入ってきました。そこで,この頃から,私と9条の会の「接点」が安定したものとなってきます。
とはいえ,それは私が学生たちを「指導する」立場に立ったということではありません。いまどきの若い世代は,いったいどういう取り組みをすすめるのだろう,そのことを自分の目で確かめたいという思いを私は強くもっていました。ですから,アドバイスはするが強制はしない。学生からの相談にはのるが,先回りして指図するようなまねはしない。こういうことを,自分なりの行動基準としてきました。
9条の会での私の立場ですが,私の大学では9条の会は学生サークルのあり方に近い姿をとっています。教員はその組織の「顧問」という立場です。しかし,この関係は,最初から計画的につくられたものではありません。
ある日,学生たちが「9条の会で教室を借りたいのですが,事務室に相談にいったら『顧問の先生のハンコ』をもらってくるようにといわれました」「先生,顧問になってください」といってきたのです。それで,まず私が顧問になりました。そして,学生たちに「顧問の先生の数は多い方がいい」と,顧問になってくれそうな先生たちの名前を思いつくまま,学生たちに教えていったわけです。それで,顧問の数は簡単に10名近くまで膨らみました。
話を急ぎますが,そうした教員の有形無形のバックアップを受けながら,学生たちは手書きのポスターやビラをつくり,顧問の先生の研究室等に貼らせてもらい,ゼミに「訴え」に入るなどの取り組みをすすめ,次第に会員の数を増やしていきました。
ここでの学生たちの工夫のひとつは,「活動メンバー」と「賛同メンバー」との二重の会員構成をつくるというものでした。「活動メンバー」というのは,物々しい空気の名前ですが,サークルでいえば執行部にあたるものです。「賛同メンバー」というのは,趣旨には賛成するが自分からあれこれの取り組みの推進者にはなれない,といった人に加わってもらうということです。また「活動メンバー」の運営は,あくまで集団でやるという方針で,事実上のリーダーシップを発揮する学生はいたとしても,今日まで代表者というものを名前で特定したことはありません。
こういうやり方のメリットとデメリットについては,実際の取り組みの経験を積み重ねながら,学生たちが自主的に判断していけば良いかと思っています。
3・『ベアテの贈りもの』上映会に学生だけで400人
さて,2005年は偶然にも神戸女学院の創立130周年の年となっていました。その中で,ある教員から「女性の権利に関する取り組みができないか」という声があがりました。この教員は顧問ではないのですが,この声を,すでに顧問になっていた教員がすくいあげたのです。
結局,それは86年実施の男女雇用機会均等法をつくる渦中の人であった赤松良子さんの講演と,映画『ベアテの贈りもの』の上映会を行うという形に具体化していきます。文部大臣もされた赤松さんは,じつは一時期,本学に在籍されたことがあるのでした。
この取り組みは,学院の公式行事として教職員が統括するものでしたが,学生たちの中にも実行委員会を立ち上げての取り組みとなりました。9条の会は,学生実行委員会の中心を担うグループのひとつとして,最初からこれに正式に加わっています。これは9条の会があるのは当たり前だという,学内のその後の空気をつくるうえで大変に重要な役割を果たしました。
9条の会のメンバーたちは,他の学生実行委員のメンバーと力をあわせて,何度も小さな規模の学習会を積み上げ,また職場や家庭での女性の地位に関する憲法寸劇をつくるなどの工夫をしていました。たくさんの講義に入って「『ベアテの贈りもの』の上映会に参加しましょう」という訴えもして,その参加確認を整理券の半券を集めて数えていきました。
講演と上映当日の学生の参加目標は400名でしたが,最終的には,本当にそれに近いだけの学生の参加をかち取ることができました。一般市民の参加もあわせると650名の参加になっています。これは9条の会の顧問にとどまらない,たくさんの教職員の協力や主体的な取り組みと力をあわせてのことではありますが,それでも全国的にも十分誇ることのできる取り組みではなかったかと思います。
ただ,残念なことに,これらの取り組みの中心に立ったのは3年生たちであり,彼女たちが就職活動に突入するにつれて,9条の会の活動は勢いを弱めることとなりました。「130周年事業のように大きな取り組みはできなくても,自分たち自身が学び,成長する取り組みをしていこう」と,何度か打ち合わせはあったのですが,そこは残念ながらあまりうまくはいきませんでした。
とはいえ,月に1~2度でも昼休みに集まって打ち合わせをするなど,取り組みを継続させたということは大変に重要なことでした。じつは2007年に入り,学生たちの就職活動と卒論づくりが終わったところで,この力にはもう一度新しい火が灯されます。それが可能だったのは,4年生の忙しい時期にも9条の会を存続させようとした努力があったからです。2007年に入ってからの,新たな取り組みの広がりについては,また後ほどふれたいと思います。
4・「慰安婦」問題を学び始めて
さて,今日の話のもうひとつの柱である私のゼミでの「慰安婦」問題の学びについてです。
経済学者である私が,なぜゼミで「慰安婦」問題をとりあげるようになったかについては,すでに何カ所かで書いてきました。ようするに韓国の「ナヌムの家」を訪れ,大きな衝撃を受けたということです。
2004年2月の卒業旅行で,4年生たちといっしょに韓国のソウルを訪れました。その際,半日ほどの自由時間があり,それを利用して「ナヌムの家」を訪れたのです。そこで被害のあまりの深刻さ,それを解決しない日本の政府をつくる国民としての責任,社会の改革をめざす学者としての責任などを,痛感させられました。
そこから,まず自分自身がこの問題をしっかり学んでおきたいと,4月からのゼミのテーマを変更することになったわけです。その時のことをふりかえって,04年4月からのゼミ生たちは,後にまとめた著作『ハルモニからの宿題』(冬弓舎,2005年)の中で「先生から『ナヌムの家』……にゼミで行きたいという提案があったときも,私たちにはどこか実感のともなわないところがありました」(4ページ)と述べています。
前期の授業でしっかり学び,夏休みの9月に韓国へ行く。「ナヌムの家」でかつての「慰安婦」被害者に会い,「日本軍『慰安婦』歴史館」に学び,「水曜集会」に参加するというスケジュールはこの年にはじめてつくられたものです。
夏休み中に7万円ものお金をかけて,3泊4日の学びの旅に出るわけですが,学生たちは良く応えてくれたと思います。この学年のがんばりがあったので,翌年からは「9月に韓国『ナヌムの家』へ全員でいきます」ということを,私もゼミ生募集の条件としてかかげることができるようになりました。
学生たちとつくった『ハルモニからの宿題』は,大学の総合文化学科叢書の一冊として出版されたものです。これは総合文化学科の全学生に無料で配布されますので,学内ではかなり大きな影響力をもちました。じつは,この本の出版と配布の時期は,その1年後輩の学生たちが9条の会を立ち上げていく時期に,見事に重なる結果となっています。
2005年からは,前年度の経験を活かした上でのゼミ運営です。集まる顔ぶれに応じて,新しい調整課題も当然うまれてくるのですが,それでもやはり,しっかり学び,夏には全員で韓国の「ナヌムの家」を訪れ,「水曜集会」にも参加してきました。
「水曜集会」というのは,ソウルの日本大使館前で,「慰安婦」問題の解決を日本政府に求める集会です。これへの参加については,学生たちに強制はしていません。学びを深める中で,学生たちが自主的に判断することをルールとしています。
結果的には,学生個々人に多少の温度差はあっても,「参加しないで見学する」という学生はまだ1人も生まれていません。それには学生同士の話し合いや,励まし合いの力も大きな役割を果たしているようです。
前年度の学生は3年生の1年間全体を「慰安婦」問題の学習に費やしましたが,この年の学生は前期と夏休みの韓国訪問を「慰安婦」問題に費やし,後期は「日本における女性の歴史」を学んでいます。
それで,この年には『「慰安婦」と出会った女子大生たち』(新日本出版社,2006年)をつくりましたが,それは希望する学生たちの出版プロジェクトで作業をすすめるというやり方をとりました。これには6名の学生が参加しましたが,その半数の3名は9条の会を立ち上げた2人をふくむ,先ほどの9条の会のいわゆる「活動メンバー」です。この作業は,さきほどの創立130周年行事の準備と並行して行われましたから,学生たちにはかなりハードであったと思います。
2冊目のこの本は,大学の叢書として出したものではありません。ですから,学内への影響力よりも,今度は一般の書店で手にしてくれた方からの大きな反響を得るものとなりました。
手書きの長文の手紙がいくつも届きました。中心は長く「慰安婦」問題に取り組んできた,あるいは,取り組まねばならないと思ってきた年配の女性たちからの「驚き」と「励まし」というものです。
また「同じ年代の人にこんなことができるなんて」といった若い世代,特に若い女性からの反応が多いのも特徴です。 韓国の「ナヌムの家」には日本人の訪問者がたくさんいるのですが,この本は,2006年夏から「ナヌムの家」でも販売されています。
そして,これは予想外のことでしたが,それが韓国の市民運動家の目に止まり,現在これの韓国語での出版作業が進められるところとなっています。2007年春のうちには出版となる予定です。
5・ゼミの中での学びの工夫
現在の3年生は,さらにその次の学年となっています。この学年の実際にそって,ゼミでの学びと取り組みを,もう少しつっこんで紹介してみます。「慰安婦」問題とは何かといったそもそも論については,今日は歴史学者のみなさんの集まりですから,省略します。
ただ学生たちといっしょに学んでいることのごく要点だけを紹介しておけば,それは次の3つの柱をもっています。
1つは,「慰安婦」制度が日本の政府と軍によってつくられた公的なレイプ推進の制度であったこと等の歴史の事実についてです。2つは,今日までそのことについての誠意ある謝罪を日本政府が行っておらず,その一方で老いた被害者が謝罪を強く求めているという戦後の日本の政治についてです。3つは,そうした日本政府の無責任な態度については,この国の主権者である日本国民すべてに責任があるということです。特に大切なのは,この3つ目の問題を忘れずキチンと話し合うことです。
社会と自分,政治と自分の関係が,いまの若い世代にはプツリと切れている人が多いですから,ここの議論を抜いてしまうと「『慰安婦』の人達は気の毒だ」と心から思っていながらも,それが「でも私には関係がない」という理解と案外簡単に両立することがあるのです。「現在の被害者の苦しみについては,私自身にも責任がある」。そのことをしっかりと見つめられるようになるには,時間をかけた議論が必要です。
歴史の事実の学びについては,「慰安婦」問題など存在しないという,そういう角度からの見解も正面から時間をかけて検討するようにしています。現在のマスコミや教育の状況のもとでは,学生たちに対して「つくる会」のような歴史観は,いつでも一定の影響力をもっています。そのときに,「日本政府は謝罪すべきだ」という立場からの文献ばかりを読んでも,じつは問題は解決しません。「先生はそういうけど,本当のところはどうだったんだろう」。そういう疑問がずっと残ってしまうのです。
この問題を解決するために,私のゼミでは「『慰安婦』はいなかった」「『慰安婦』問題は存在しない」と主張する文献を正面から取り上げ,「ここに書かれていることは本当だろうか」と学生といっしょに疑問をだして,その疑問を学生たち自身が各自もちかえって調べて来て,それを次のゼミで学生たちが報告する,こういうやり方をとっています。
自分で調べ,自分で考え,それによって自分の心の中の疑問をそれぞれが自分で解決していく,そういうプロセスを学生が歩むわけです。ちょっと手間はかかりますが,そこに時間をかけないと「つくる会」史観の影響は,本当には払拭できないように思っています。
もうひとつ学びの方法で重視しているのは,たくさんの映像を見ることです。戦争当時の記録であったり,加害や被害の証言であったり,また「女性国際戦犯法廷」のような「慰安婦」問題の解決にむけた市民の努力であったり,靖国神社の遊就館で手に入れてきた,かつての大本営が編集した戦意高揚のためのニュース映画も見ています。
映像を見ることは,戦争のイメージ,人が人を殺すとか凌辱するということの具体的なイメージを得るうえでとても大きな役割を果たします。私たちの年代の人間が「戦争の悲惨」といったときに頭に思い浮かべることと,若い学生が思い浮かべることとはまったく違った事柄です。それを放っておいたままでは,同じテキストを読んで,話し合いをしても,同じ言葉でまるで違う現実を思い描いているということになりやすいのです。
そこを短時間に乗り越えていくためには,屍累々の実際の映像,土の中からでてくるたくさんの白骨,泣きながら語る被害者や加害者の声と顔,こうしたものをしっかり自分の目で見ることが大切です。私の研究室には,「慰安婦」問題,戦争,改憲などに関係するビデオが40本近くならんでいます。
こういう盛りだくさんのゼミですから,やはり短い時間では間に合いません。3年生たちのゼミは,毎週月曜日の3時から8時までの5時間となっています。ゼミ生を募集する段階で,最初から「ゼミは5時間」「月曜日はバイトを入れないように」と伝えておけば,トラブルは起こりませんし,実際のゼミでの学びがそれに値するものだと実感をもって受け止められれば,むしろ学生は熱心にこれをこなそうとするようになります。
6・「ナヌムの家」を訪れて
さて,2006年は,9月11日から14日の日程で韓国へ行ってきました。私のゼミの学生9名の他に,他のゼミの3年生2人が参加し,また大学の同僚や一般市民8名が同行しました。さらに「ナヌムの家」と「水曜集会」では,先に日本で交流をすませておいた京都の学生たち8名とも合流しました。
初日の9月11日は,関西国際空港に10時30分の集合です。午後1時には離陸して,3時前には韓国の仁川(インチョル)空港に到着しました。朝鮮戦争時に米軍が上陸したあの仁川です。「フライト時間がすごく短い」と,飛行機を降りて感想をもらした学生がいましたが,それにもかかわらず,いまだ韓国は「近くて遠い国」となっています。戦後61年をへて,いまなおそういわねばならない両国の関係に,日本の政治は大きな責任を負っているわけです。
4時には迎えに来てくれた専用バスで,ソウル市内へ向かいます。日本語の上手なガイドさんについてもらいます。ホテルに荷物をおいて,その日は,あらかじめ予約しておいた焼き肉屋へと歩きました。ソウルのど真ん中を歩くわけですが,「韓流ブーム」の影響でしょうか,たくさんの日本語が目につき,また日本語で話しかけられることも少なくありません。
夜は自由行動にしましたが,私たち大人組の数名は地元の人たちが入る居酒屋でマッコウリを飲みました。店の人とは互いに言葉がまったく通じませんが,それでもとてもにこやかに接してもらいました。
翌日12日は,10時半にはホテルを出ます。「ナヌムの家」へ向けての移動です。昨日と同じバスでの移動です。ガイドの李さんは,子どもが2人いるという若いオカアサンで,日本語がとても上手です。この李さんが日本と朝鮮の交流の歴史を簡単に話してくれました。「ナラという言葉は韓国では国のことです。奈良という地名の由来は朝鮮の言葉なのかも知れません」「ハナというのは韓国では一のことです。日本語でも『最初から』のことを『ハナから』というでしょう」。
歴史の順を追ったその話の終わりの方に「朝鮮半島は1910年から45年まで日本に占領されました」という言葉がサラリと流れてきます。李さんに,何か特別のこだわりがあってのことではなかったと思います。歴史を語れば,避けることのできない事実の紹介です。しかも,その上で李さんは,戦争の歴史を乗り越えて,お互いに仲良くなっていきましょうと語ってくれました。胸の奥に痛みを禁じ得ない一言でした。
途中で食事をとって,1時前には「ナヌムの家」に到着です。学生たちが緊張の度合いを急速に高めていくのがわかりました。ほどなく京都の学生8人も合流します。「ナヌム」というのは韓国後で「分かち合い」という意味です。苦しいことも楽しいことも,ここに集うみんなで分かち合っていこうという意味だそうです。私にとっては,これが4度目の「ナヌムの家」です。
日本人スタッフの村山さんにご挨拶をして,まずはビデオを2本見ていきました。『中国・武漢に生きる─元朝鮮人「慰安婦」』と『ひとつの史実─海南島従軍慰安婦の証言』です。いずれもゼミでは見ることができなかったものでした。それぞれ16才と14才で「慰安婦」となることを強制された被害者が登場します。「海南島」の方には,当時のことを覚えている男性住民も登場し,「日本人が中国人の首を切るのを何度も見た」と語ります。
7・歴史館に学び,ハルモニの体験証言を聞く
つづいて,同じ敷地内に併設されている「日本軍『慰安婦』歴史館」に入りました。ここにはたくさんの資料が展示されています。それを村山さんがていねいに解説してくれます。かつて「慰安所」として利用されたアジア各地の建物の写真や,日本軍が発行した軍票の現物があり,「慰安所」利用に必要とされたチケットや,日本軍が配給していた当時のコンドームもならんでいます。驚くべきことに「慰安所」利用の割引券もありました。また「兵站指定慰安所故郷」という看板を出し,それが軍の管理下にあったことを明快にしめす「慰安所」入り口の写真も残されています。
レイプは建物の中でのほか,トラックの荷台や野外など,様々な場所で行われましたが,ここにはある部屋の1つがモデルとして再現されています。狭い板張りの部屋に,粗末なベッドと沖縄の「慰安所」で実際に使われていた金ダライがおかれています。この金ダライには消毒液が入れられ,かつて「慰安婦」とされた人たちは,これで自分のからだを拭い,時には使いまわしのコンドームを洗いもしたそうです。もっともコンドームをつけない兵士が少なからずいたからこそ,年若い「慰安婦」たちは数多く妊娠せずにおれなかったのですが。
前の年にはこの部屋の前でゼミの学生が1人倒れましたが,今回は京都から参加した女子学生がやはり1人倒れてしまいました。若い女性にはそれほどにつらい追体験の場になるということです。部屋の中に足を踏み入れたある学生も「入るのにとても勇気が要った」「両側の板の壁から強い圧力が感じられて,怖くて長くは中にいれなかった」とのことでした。
戦争が終わった瞬間に捨てられた被害者たちの戦後の苦しみも紹介されており,また日本政府からの誠意ある謝罪の言葉を聞くことなく無念の思いをかかえて亡くなったハルモニたちの遺品も展示されています。そう大きな歴史館ではありませんが,2時間以上をかけてじっくり学んだあとには,立っているのがつらいほどの大きな疲労感が残りました
一呼吸おいて,カン・イルチュルハルモニの証言をうかがいました。この方は15才のときに軍人と巡査に連れ去られたそうです。セックスがどういう意味をもつかもわからないまま,毎日レイプを繰り返され,抵抗した時に兵士に頭を壁に打ちつけられ,今もその後遺症で鼻血が出たり,手がふるえることがあるそうです。
「慰安所」へ行く前は生理もまだ安定しない子どもであり,生理が安定するようになったのは戦争が終わったあとのことだったと,これを話すのは恥ずかしいといいながら語ってくれました。
とはいえ,ハルモニは,日本人への「怨み」を繰り返すだけではありません。政府には誠意ある謝罪を強く求めながらも,日韓は二度と戦争を繰り返してはならない,若い人たちに同じ苦しみを味わってほしくはない,政府同士がうまくいかなくても,市民同士が仲良くすることはできる,独島(竹島)が争いのタネになるなら,日韓両国民が自由に行ける場所にすれば良いなどと語ってくれました。
話は通訳もふくめて1時間ほどで終わりです。ある学生は「自分の祖母の姿に重なって」と,ずっと涙を流して聞いていました。
直接の「慰安婦」被害は昔のことでも,被害者への謝罪をさける政治は現代日本のものです。そして謝罪を求めるハルモニは今も私たちと同じ空気を吸って生きている。ゼミではたくさんのことを学びますが,学生たちにとっては目の前にあらわれた被害者から,話を直に聞くことは大変に大きな衝撃となります。
その夜は,中庭に出て,何人かのハルモニともいっしょに,サムギョプサルという豚の焼き肉を食べました。
8・いよいよ「水曜集会」へ
「ナヌムの家」に一泊し,翌9月13日は,朝からソウルへもどります。「水曜集会」に参加するためです。荷物をまとめて貸し切りバスに乗り込みました。ソウルまでは,1時間以上の道のりです。マイクロバスで移動する80才前後のハルモニたちには,決して楽な道のりではありません。市内にもどり,1919年に「3・1独立宣言」が最初に読み上げられたタプコル公園に寄り,日本大使館前に移動しました。
1992年1月8日から行われているこの集会は,この日で713回目でした。水曜デモとも呼ばれますが,いわゆるデモ行進は行いません。集会は,韓国挺身隊問題対策協議会が運営しています。韓国では「慰安婦」問題は「挺身隊」問題とも呼ばれているのです。最前列に黄色のゼッケンをつけてハルモニたちが椅子に座ります。この日の参加者は全体で80名ほどで,たくさんの日本人の顔もありました。ゼミの学生たちも,緊張した面持ちで,縦1m,横5mの大きな横断幕をひろげていきます。「日本政府は謝罪せよ。正しい歴史教育を行え」と,あらかじめ日本でハングル文字で書いていきました。
集会の参加者代表が交代で前に出て,発言をします。「従軍慰安婦は古今東西存在しなかった」と述べた埼玉の上田県知事に直接抗議するために来日した,例のイ・ヨンスハルモニも元気に発言されていました。京都の学生たちの次に,私たちのゼミの発言がありました。以下は,3人の代表による発言の全文です。
「はじめまして。私達は日本から来ました、神戸女学院大学3回生石川ゼミです。私達は毎週5時間、半年に渡り、日本の加害の歴史を学んできました。私達の中には『慰安婦』の言葉さえ知らなかったものもいます。日本の加害は教育の中で重要視されていないからです。私達は広島や長崎の原爆など、ほとんど日本の被害ばかり教えられてきました。しかし、この『慰安婦』の問題を含め、日本の加害の歴史を学ぶようになり、とても大きなショックを受けました。日本にはこの問題を知らない若者がまだまだたくさんいます。私達は大学で学び、実際にハルモニに話を聞きたいと思い、今回韓国に来ました」(Uさん)。
「私は昨日ナヌムの家に行き、歴史館を見学したり、ハルモニの証言を聞いたり、とても多くのことを吸収することができました。私たちとあまり年の変わらない時に,そういった被害を受けて苦しんでいたと考えると、とても胸がいたくなりました。私たちの前で証言して下さったカン・イルチュルハルモニは、私は被害を受けたけれども今の若い人たちには受けてほしくない、人と人の関係を大切にしたいとおっしゃってくださいました。加害国の人間である私たちに対してとてもやさしくしてくれて、私はそれを本当にうれしく思いました。日本に帰ってナヌムの家での話をいろんな人に伝えたいと思います」(Nさん)。
「今の日本は平和とは反対の道へと進んでいます。再び過去の歴史を繰り返すような国になろうとしています。次期首相に名前があがっている安部官房長官は憲法を改正し、過去の反省を消し去り、戦争のできる国にしようとしています。私たちは決してそのような国になることを望んでいません。今回韓国に来て、決して日本と韓国、日本とアジアが再び争う事はあってはいけないと強く感じました。私たちは日本へ帰ったら一刻も早く、周りの人々に呼びかけ大きな輪を作り、正しい歴史が教えられるような政府を私たちでつくります。日本と韓国、日本と世界が争いのない国に、そして本当の意味で日本が平和な国になるよう若い力で日本を変えたいと思います」(Kさん)。
「カムサハムニダ(ありがとうございます)!!」(全員で)。
この発言の最後にあった「若い力で日本を変えたい」の言葉には,大きな拍手がとんでいました。日本を発つ瞬間の学生たちには,これほど明快に自分の立場を語る自信はなかったように思います。若い世代というのは,集中して学び,考え,決断を余儀なくされる瞬間には,大きな飛躍を遂げるものだと,強く思わされる出来事でした。
翌日9月14日には日本にもどります。朝から仁川空港へバスで向かいます。その途中,同行した大人たちもふくめて,全員が旅行の感想を語っていきました。その時の学生たちの発言を紹介する時間がないのが残念ですが,これもまた充実した時間となりました。学生たち全員の発言が終わったところで,ガイドの李さんがこう語ってくれました。
「私はいまとても感激しています。仕事でたくさんの日本人に会いますが,歴史の問題をこんなにまじめに考えている日本人には初めて会いました。私は32才ですが,本当に生まれて初めて会いました。いままで『日本が占領したから,おまえたちの国は発展した』と日本人のおじいさんにいわれたこともあります。そういう時,私はガイドですから黙るしかありません。いまはとても感激しています。1人の韓国人としてとてもうれしいです。私もがんばります」。
小さくはあっても,市民同士の大切な心の連帯が実感できた瞬間でした。学ぶだけでなく,こういう交流をすることも大切なのだと,強く感じさせられる出来事でした。
9・「帰ってからが新たなスタート」
帰国後も学生たちのがんばりはつづきました。というよりも,むしろここから始まったという方が正確かも知れません。合い言葉は「ハルモニの笑顔を裏切りたくない」「帰ってからが新たなスタート」です。
学内ではたくさんのポスターやビラをつくって,韓国訪問の報告会を行いました。それだけではなく,大学の外でも「慰安婦」問題を語り始めています。「学生さんの話を聞かせてください」。こういう依頼があるのは,先輩たちがつくった本の力によるものです。しかし,その要請に正面からこたえ,学び感じたことを自分の言葉で話し,それによって次々と依頼がつづく実績をつくったのは,今年のゼミ生たちの力です。
大阪夕陽丘学園高校,尼崎小田高校,鈴蘭台西高校と3つの高校で計700人もの生徒を前に話をしてきました。いくつかの教育研究集会では学校の先生たちの前でも話しています。他にも,総合社会福祉研究所で,母親大会連絡会で,新日本婦人の会で,労働者学習運動の場で,宗教者の集まりの中でと,語りの機会はすでに10数回となっています。多くが学生だけでの講演です。遠くは四国の香川にも出かけました。
すでに学生たちは就職活動を始めていますが,それでも「都合のつく限り」と,語りの要請にこたえる構えを変えようとはしていません。いま私たちは,この学生たちの座談会を中心とした『「慰安婦」と心はひとつ 女子大生はたたかう』(かもがわ出版)という,新しい出版企画をすすめています。これは全国の若い仲間と,同僚である大学教員へのエールとなるはずのものです。
10・「知識人」としての役割が問われる時代
さて,もうおしまいにせねばなりません。2007年1月26日,久しぶりに神戸女学院大学9条の会のまとまった会合が開かれました。
この日の集まりのテーマは,これまで取り組みの中心を担ってきた4年生から,3年生以下への役員の引き継ぎを行うことでした。会議には文学部,人間科学部,音楽学部と全学部からの参加があり,顧問の教師からも3名の参加がありました。これまでの取り組みがもっぱら文学部の学生を中心としてきたことを考えると,学生たちのこの構成は,今後の取り組みの新たな発展を予感させるものとなっています。
取材にやってきた学内ミニコミ誌の学生記者が,会合の様子を見て,その場で自分から入会してくれるという嬉しいできごともありました。その後,さっそく2月には,楽しい食べ歩きの企画もまじえながら,大阪城公園にある「ピースおおさか」という平和資料館に出かけています。4月以降の新世代の取り組みに期待したいと思います。
私自身の学生時代をふりかえってみると,そこには学生の社会活動を激励するたくさんの教員の姿がありました。今はどうでしょう。平和憲法の危機という日本社会の重大な岐路にあって,私たちには戦後のどの時代にも増して,そうした学生たちの応援,さらには「知識人」としての社会的なはたらきが大きく求められているのではないでしょうか。私はそのように考えています。
みなさんは関西歴史研究者9条の会をつくり,すでにその役割を果たす努力をされておられるわけですが,その力をさらに広く,社会の中で発揮される上で,今日の私の話をひとつの参考していただければ,とても嬉しく思います。ご静聴ありがとうございました。 (2007年3月4日稿)
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