〔マルクスの眼で、現代日本をとらえる〕
こんにちは、石川康宏です。日本の神戸女学院大学で、経済学を教えています。『社会のしくみのかじり方』を、韓国のみなさんに読んでいただけることになりました。とても嬉しく思っています。
この本は、すでに韓国で出版されている『マルクスのかじり方』の姉妹編です。『マルクスのかじり方』は、カール・マルクスの学問の到達点を、わかりやすく紹介するものでしたが、こちらはマルクスの目で、現代の日本社会をとらえるとどうなるだろうということを、ぼくなりにコンパクトに書いてみたものです。
そこには日本社会に固有の問題もありますが、21世紀の資本主義をどうとらえるかといった、現代韓国社会の分析に役立つところもあるでしょう。
少し先まわりをして、日本の社会がかかえる大きな問題点を示しておきます。1つ目は、国民が主権者だという憲法の規定にもかかわらず、財界・大企業が経済社会にとどまらず、与党や政府にも強い影響力をもち、彼らが日本国内の事実上の権力者になっているということです。カネの力による政治の支配ということですね。
2つ目は、国土の一部と相当に広い空域が米軍の思うままにされ、さらに外交政策や経済政策にもアメリカが強い影響力をもっているという対米従属の問題です。日本は1945年から52年までアメリカに軍事占領され、2019年のいまも130をこえる米軍基地に5万人の米兵が駐留しています。
そして、最後の3つ目は、政界や言論界、マスメディアなどに、大日本帝国時代の日本を正しい社会だったと主張する、時代錯誤の思想が根深く残っているということです。「慰安婦」問題でも徴用工の問題でも、日本政府が誠実な対応の姿勢をとれない理由の根本はそこにあるわけです。
ぼくは、あらゆる人間の尊厳を大切にし、民主主義を守り、平和を追求するという日本の憲法の理念はとても大事なものだと思っており、ぜひともこれにまじめに取り組む政府をつくりたいと思っています。そうした方向性を同じくする日本の様々な運動は、この3つの問題をどう解決していくかを大きな課題としています。
〔「個人の尊厳・立憲主義を守れ」の大運動〕
ところで、この本が日本で出版されたのは、2015年7月30日のことでした。それからすでに4年近くがすぎています。そのあいだに、日本の政治や社会には様々な変化がありました。ここではそれを少しだけ補足しておきます。
この間の大きな変化の1つは、本を出した直後の15年9月19日に、国会でいわゆる「安保法制」が与党等によって強行採決され、「海外で戦争する国づくり」に向けて日本の政治が大きな一歩を踏み出したということでした。
この法律は、これに反対する日本の市民運動の中では「戦争法」とも呼ばれました。日本国憲法は、日本の「戦争の放棄」を定めていますが(どこかの国に攻撃された時に、国を守って闘う自衛権までを否定しているわけではありません)、これに反して「安保法制」は海外でのアメリカとの共同戦争(つまり日本を守る自衛の戦争ではない戦争)を可能としてしまったのです。
これは明らかに憲法違反の法律です。こうしてつくりだされた「安保法制」と憲法のねじれ状態を解消するために、安倍晋三を首相とする日本政府は憲法の「改正」(実態は改悪です)に突き進もうとし、それに対して多くの市民が抵抗の声を強めるという状況が生まれています。
この市民の抵抗は、新しい特徴をもちました。その1つは、戦後日本の護憲運動が長く「平和を守れ」という論点に限られがちだったのに対して、今日の運動は、平和の追求にくわえて、自由や民主主義など、日本国憲法のすべての価値ある理念の実現をめざすものに変わってきているということです。
それを象徴するのが「個人の尊厳を守れ」という運動の新しいスローガンです。ここには日本の市民の人権意識や民主主義的な感覚の一段の成熟が現れているといっていいでしょう。
「個人の尊厳を守れ」の「個人」には、若者も年寄りも、男も女も、どのような性的指向や性の自認をもつ人も、どの国の国籍をもつ人も、どこの国や地域で生まれ育った人も、そのほかどんな個性の違いによっても、それで人間の価値に差をつけることがあってはならない、そういう理解が込められています。
そうした考え方は、まだ日本の市民全体の自覚的な多数派になっているわけではありませんが、こうした理念をはっきりと掲げ、全国的な規模で闘いが継続されるようになったのはとても大きな変化です。
〔「市民と野党の共同」という政治を変える新たな手法も〕
もう1つ、こうした市民の運動は、社会づくりの方向を同じくする政党とのつながりを深め、「市民と野党の共同」という、政治を変えるための新しい闘いのスタイルを生み出しもしました。
安倍政権を倒そう、「安保法制」を撤廃し立憲主義をとりもどそう、個人の尊厳を守る政治を本気でつくろう。そういう大きな方向性を一致点にして、たくさんの野党が共同し、国政選挙の小選挙区をはじめ各地の選挙に統一候補を立てて取り組むようになったのです。共同は選挙だけでなく、国会の中での共同、市民運動の現場での共同にも広がっています。
野党には、当然、それぞれ独自の考え方があり、お互いの不一致を言い出せばきりがありません。しかし、それを理由に、バラバラに闘っていたのでは、いつまでも政治を変えることができません。そこで市民運動が共同に向けた接着剤となり、野党に政策の共通点をさぐる話し合いや納得して応援できる統一候補の選出、そして力をあわせて選挙に取り組む態勢づくりを求めたのです。
これは、市民が政治家や政党に「お願い」をする取り組みから、主権者の意思に従うことを求める取り組みへの運動の質の大きな転換を意味するものでした。
その結果、2016年の参議院選挙、2018年の衆議院選挙と2つの大きな国政選挙で、共同を破壊しようとする支配勢力の攻撃をはねかえしながら、「市民と野党の共同」勢力は、当選者が1人しか生まれない小選挙区でも議席を増やし始めました。
今は2019年7月の選挙に向けた、野党間の政策協議と候補者調整が急がれているところです。この本が出版されるころには、もう選挙結果が出ているのかも知れません。ぜひとも安倍政権の特に憲法「改正」に向けた暴走にブレーキをかけ、さらに安倍政権の打倒を引き寄せていきたいものです。
〔資本主義の発展段階論の再検討〕
日本の政治がこうした変化を見せる一方で、この4年のあいだには「社会のしくみ」をとらえるぼくの考え方にも一定の変化が生まれてきました。
その中心は、自由競争の段階から独占資本主義の段階へ、国家独占資本主義の段階へという、マルクス主義経済学における従来型の資本主義発展論への疑問が深まり、これに代わる資本主義発展のとらえ方を探究するようになったということです。
こうした展論の原型をつくったのは、ロシア革命を成功させたウラジーミル・イリイチ・レーニンですが、レーニンは、資本主義は自由競争を特徴とし、その次にやってくる社会主義は完全な計画化を特徴とすると考えていました。そして、資本主義の内部に計画経済の要素がどのように形成されてくるかを、社会主義に向けた資本主義発展の最も重要な指標としました。
そこから巨大資本同士の協定=独占(独占資本主義)の形成や、第一次大戦での国家による統制経済(国家独占資本主義)の形成を資本主義発展の根本的な画期とする先のような段階論を導いたのでした。レーニンは、独占が自由競争と共存しはじめた独占資本主義を「死滅しつつある資本主義」と呼び、さらに国家が計画経済の中心に立ち上がった国家独占資本主義を「社会主義への入口」と位置づけました。
しかし、その後100年の歴史をふりかえるなら、財界・大資本が国家と結託して自らの利益を計画的に追求していく国家独占資本主義は、「社会主義の入口」どころか、資本主義をもっとも急速に成長させる経済形態となりました。
さらに『帝国主義論』をはじめレーニンの諸研究をよく読み返してみると、他のどのような変化でもなく自由競争から計画へという変化(つまり資本間関係の変化)を、資本主義のもっとも本質的な変化だとする理論的根拠は、どこにも書かれていないのでした。あるのは、自由競争は資本主義の基本的特質であり、独占はその直接の対立物だという断定だけでした。
〔マルクスの発展段階論に立ち返って〕
こうした問題を立てる上で、大きな刺激となったのは、日本でのマルクス『資本論』に対する研究の深まりです。
資本主義は生産力を高めるが、それは労働者の搾取を通じてのことであり、これに気づき、また耐えられなくなった労働者は、職場での結合と訓練をつうじて力をつけ、最後には社会革命に立ち上がっていく。一昔前には、資本主義から社会主義への『資本論』の変革論はこういう形で理解されていました。
しかし、最近の研究はこれをさらに掘り下げて、マルクスは資本主義の発展を、資本の生産力の発展とともに、資本による利潤第一主義の弊害を制御する法的規制(労働条件の改善、製造物への責任、環境保護を求める諸立法など)の積み上げや、それらの規制を勝ち取っていく労働者・市民の闘う力(社会を制御する力)の発達を中心にとらえていたことを明らかにしてきました。
レーニンは資本主義発展の基準を、自由競争から計画へという資本間の関係の変化にみていましたが、マルクスはそうではなく資本主義的生産関係の核心をなす資本家と労働者の関係の変化にみていたのです。そこにはレーニンがマルクスから引き継げなかった理論問題がありました。
なお、レーニンは自由競争から計画へという論理を語る時に、マルクスの革命運動の同志であり、共同研究者でもあったフリードリヒ・エンゲルスの『空想から科学へ』を自説の背景として引用しています。その意味では、資本主義経済の発展に対するマルクスとエンゲルスの理解の相違も1つの重要な論点となってきます。
〔ぼくなりの解決は次の本で〕
この本には、ぼくの考え方の最近のこうした変化は、明示的には、ほとんど盛り込まれていません。本の性質が入門的なものであるということもその理由の1つですが、より大きな問題は、ぼくの考え方がまだ問題提起の枠を出ていないというところにあります。
ぼくがレーニンの発展段階論についての批判的な検討を発表したのは、『経済』という雑誌の2015年1月号に書いた論文が最初でした。それはレーニンの理論と現実の歴史との食い違い、また理論の組み立て方の弱点やマルクスの経済理論との相違を指摘するものではありましたが、レーニンの理論にかわる新しい発展段階論を提起するものではありませんでした。
この状況を切り拓くために、具体的な現実の中から新たな理論を導こうと、ぼくはいま、日本における資本主義の形成と発展の歴史の検討をあらためて始めています。この数年先に、また新しい本をみなさんのお手もとに届ける機会が与えられるなら、その時には、ぼくなりの資本主義発展段階論や日本資本主義発達史論を、少しはまとまった形でお届けできるものと思っています。そうであることを未来の自分に期待したく思っています。
まずは現時点での石川康宏流の『社会のしくみのかじり方』を、以下、お楽しみください。
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