成長する東アジアと日本の進路
―― 揺れる日本の政財界 ――
神戸女学院大学・石川康宏
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1・歴史的転換の中で
いま日本の経済と政治は歴史的な転期に立っている。内外両面に要因があり,外的要因としては,アメリカからの経済介入強化と東アジアの急成長があげられよう。ここでは特に東アジアの変化に焦点をあて,それが日本の今後にどのような影響を及ぼしているかを考えたい。
最初に,必ずしも詳論できない論点も含むが,このテーマを論ずるにあたり,私なりに念頭している問題意識を列挙しておく。
第一は,急成長する東アジア市場が,日本経済の過度のアメリカ市場依存の緩和に,道をひらく可能性を与えるものだということである。戦後日本経済の復興と成長は,対米依存を重要な特徴とした。その結果,自動車産業や電機産業など今日の財界中枢に位置する諸産業は,つねに「円高ドル安」に揺さぶられ,いまや日本経済は,円高回避のための日銀によるドル買い介入が,アメリカ政府の財政赤字を支えるという「マネー敗戦」の構図に組み込まれている。2003年には中国特需という言葉もつかわれたが,成長する中国はじめ東アジアとの経済交流の深化は,このアメリカのみに集中しすぎた対外経済関係の大きな転換へ道をひらく。それは政治や軍事の対米関係にも,小さくない影響を与える可能性をもっている。
第二は,東アジアですすめられる共同体づくりの動きが,アメリカによる軍事的支配とドル支配からの脱却をかかげるものとなっており,総じて東アジアにおける「脱帝国主義」を推進する立場に立っていることである。これは日本の東アジア外交にも重大な影響を与える問題である。東アジア経済は,日本の市場に期待するところはあっても,すでに日本の協力を不可欠としているわけではない。その中で経済的利益を追求しようとすれば,日本財界といえども東アジア諸国との一定の友好を求めずにおれない。東アジアが「脱アメリカ」の道を進もうとしているとき,日本財界はどのような進路を選択するのか。これは第一の問題ともあわせて,戦後日本の対米従属を大きく揺さぶる要因となる。
第三は,それにもかかわらず現時点で財界は,軍事面での対米従属を深化させ,日米の軍事一体化をすすめており,それが財界の諸方針に軍事政策と経済政策とのまったくの不整合をもたらしているという問題である。2005年2月の日米安保「2+2」協議で,日本政府は台湾海峡「有事」における自衛隊派兵に同意したが,このような中国敵視の姿勢と経済での交流がいつまでも両立するものでないことは明白である。それだけにアメリカへの軍事的従属からの脱却,在日米軍基地再編強化の阻止,憲法改悪阻止の取り組みは,東アジアとの友好と経済交流の発展にも大きな可能性を開くものとなる。
第四は,日本の政財界が東アジア経済の「脱ドル」の動きに,部分的にではあるがすでに加担・協力している事実の問題である。「プラザ合意」以後,東アジアへの資本輸出を急拡大した日本大企業は,すでに東アジア経済圏に企業内ネットワークを形成し,そのネットワークの安定的運用すなわち東アジアの一定の安定を,自らの利益追求に重ね合わせるにいたっている。それが97年の東アジア通貨危機に際して,日本政府に東アジアにおける通貨協力を推進させる強い動機となった。まずは投機に対する防衛的な通貨協力からだが,その道は「アジア共通通貨」の設立もふくむ「脱ドル支配」の動きにつながっている。そこには財界の利益とアメリカのドル特権との齟齬という問題がはらまれている。
第五は,東アジアの通貨協力をすすめる動きの延長線上に,政財界内部にはすでにアメリカ離れの必要を語る議論が現れているという問題である。通貨危機に際して,アジア通貨基金の創設に奔走した元大蔵省国際局の榊原英資氏は,日本の国益のためにこそ「親米から親中へ」の大胆な政策転換が必要だと述べている。また中曽根康弘氏が会長をつとめる「東アジア共同体評議会」でも,研究者による同種の発言が行なわれている。アメリカとの距離のとり方や東アジアとの友好の程度は様々だが,ジャーナリズムの世界にも離米の議論が拡大している。それはまだ日米安保という対米従属の根幹に焦点をあてるものではないが,こうした潮流が支配層の内部にどのような位置を占めていくかは,大いに注目せねばならない問題である。
第六は,東アジアでの利益追求を最優先する立場から,財界中枢部が靖国神社への首相参拝の中止を求めずにおれなくなっている問題である。自民党にせよ財界にせよ,戦後日本の支配勢力は,侵略戦争を推進した当事者たちが,対米従属を条件に,再び支配層に復帰したものである。その結果,戦後日本の支配層には,反米を潜伏させる靖国史観と,現実政治における対米従属の両者を,対米従属を上位におきながら,未整理のままに混在させる曖昧な思想が生まれた。そこに一定の新しい「整理」が求められている。その中で,靖国参拝の抑制を強調することで東アジアにおける利益拡大を優先しようとする傾向から,靖国史観の否定に強い不安と反発を感じる動きまで,様々な論調の分岐が生まれている。靖国史観の根本的な払拭にかかわる萌芽的な動きもあり,アジアとの経済交流を重視する利益優先の立場が,その道の選択に追い込まれていく可能性は十分にある。これもまた戦後支配層の政治的特質の転換にかかわる重大な問題である。
第七は,こうして内外の巨大な変化の可能性を前に,日本と世界の民主的な改革を望む諸政策はどのようにあるべきかということである。経済面では,日本は2002年にシンガポールと経済連携協定を締結し,その後も韓国,マレーシア,メキシコ,タイ,フィリピン,オーストラリア,ASEANなどとの地域貿易協定(自由貿易協定)交渉をすすめている。すでに,これらの協定を単純に大国主導の経済侵略と決めつけることのできない世界構造のもと,日本政府による個々の交渉や合意の内容を,どう評価するかの具体的な判断基準が求められている。日本農業の擁護など市民の生活を守る観点とともに,交渉の過程と結果における相手国との平等・公正がこれを評価する重要な要素となろう。
さらに大局的には,①イラク戦争のような「新しい植民地主義」政策をとるアメリカ帝国主義からの政治的・軍事的自立の追求,②東アジアにおける平和と自立と経済発展の促進,③その際に前提となる植民地支配と加害の歴史の明快な清算の努力,④「東アジア自由経済圏構想」(日本経団連)がはらむ大企業中心主義の東アジア構想への批判,⑤東アジアとの共同をつうじた日本経済の健全な発展への戦略の立案などが求められる。
以上のことから,政治・経済の現状分析という面でも,国内における政治的な闘いの意義づけという面でも,さらに政策指針の策定においても,今日の世界とアジアの急速な変化に立ち遅れることのない,意欲的で創造的な研究が求められていることは明らかである。
2・世界構造の変化と東アジアの激動
21世紀にどのような東アジアをつくるかという実践的な問いを立てる時,この地域の歴史については次の4つの時代区分が重要である。
第一は,東アジアの自生的発展の時期である。この時期にもその内部には対立や抗争があり,様々な社会の勃興や衰退があった。しかし,それは東アジア内部の勢力による闘争や共存によってつくられた歴史であり,外部勢力による長期の支配が存在しない時期である。少なくとも数万年におよぶ東アジアの人間社会の歴史において,この自生的発展の時代は圧倒的な期間を占めている。
第二は,西欧帝国主義による野蛮な植民地支配の時期である。オランダやイギリス等による侵略と支配の歴史は十六世紀に開始される。その後,時代を追って帝国主義諸国による侵略と植民地化は広がり,日本による東アジア侵略が本格化する直前の二〇世紀初頭には,東南アジアの独立国はすでにタイ一国となっていた。大国中国もまた「半植民地」化を余儀なくされた時期である。
第三は,欧米からの植民地奪取と新たな支配を目的とした,20世紀前半の日本帝国主義による破壊と略奪の時期である。「自存自衛」や「アジアの解放」,「大東亜共栄圏の設立」などを建て前に,侵略をつづけた日本帝国主義は,この時期2000万人以上の犠牲をアジアに生んだ。
第四は,東アジア諸国が5世紀に渡る外部からの侵略と支配に終止符を打ち,植民地体制を打ち崩しながら,再び独立を回復していく20世紀後半以降の時期である。このような区分のもとに歴史を見るなら,①21世紀初頭の東アジアの現在が,20世紀後半に開始された独立を,さらに確かなものとする前進の過程にあること,②そのなかで,日本の加害責任を問うだけでなく,帝国主義支配一般を乗り越える「脱帝国主義」が焦点とされていること,③特にアメリカによる政治・経済支配からの最終的な脱却が模索されていること等の脈絡が,実に読み取りやすいものとなる。
とはいえ,独立が回復される第四の時期も,決して平坦な道のりだったわけではない。第一に,それは戦後も植民地体制を維持しようとしたオランダ,フランスなどとの,また戦後新たに事実上の「植民地」を獲得しようとしたアメリカ等との軍事的衝突を余儀なくされた時期でもある。
最も長い戦闘が必要とされたのはベトナムである。1945年8月,ベトナムは独立を宣言するが,「宗主国」フランスは植民地支配の継続の権利を主張し,ここに「ベトナム戦争」が開始される。闘いのすえ,1954年に,フランスはベトナムからの撤退を求めたジュネーブ協定に調印する。しかし,戦後資本主義世界の盟主を自認するアメリカが,この戦争をフランスに取って代わって「継続」した。これがアメリカの敗北によって終了するのは1975年のことである。ベトナムとインドシナ,東南アジアにおける政治的独立は,こうして第二次大戦後30年にも及ぶ,多大な犠牲の上にようやく実現された。なお,かつての侵略国日本が,このベトナム戦争でもアメリカの軍事拠点として重要な役割を果たしたことは忘れるわけにいかない。
第二に,欧米帝国主義の後退と敗北による植民地体制の崩壊は,それだけで自動的に,東アジア内部に調和を生み出したわけではない。1949年の中国革命をきっかけに,アメリカは軍事的な介入と「同盟」による東アジアの「冷戦体制」づくりをすすめ,ベトナム戦争に韓国軍を動員するなど,戦後東アジアの内部に新たな分裂や敵対を生み出していった。またベトナム戦争終了後の1980年には,中国によるベトナムへの軍事侵攻があり,関連してカンボジアとベトナムの間にも長期の紛争が継続した。
歴史の第四の時期がこのような経過をたどったことを振り返るなら,今日の東アジアにおける共同体づくりの動きが,①植民地体制の崩壊と帝国主義による領土的支配の排除の上に,②さらに東アジア内部における対立と分裂を自らの手で乗り越えようとする試みであることも良くわかる。
このような戦後の経過があるからこそ,共同の中心に立つASEANは,いつでもTAC(東南アジア友好協力条約)を取り組みの根底においている。「この条約は,締約国の強化,連帯及び関係の緊密化に寄与する締約国の国民の間の永久の平和,永遠の友好及び協力を促進することを目的」(第一条)とする。加盟国相互の平和と友好と協力の確認は,こうした戦後の歴史からの貴重な教訓なのである。またASEANプラス3(日中韓)は,すでに,かつての宗主国をふくむEU諸国との定期協議ASEM(アジア欧州会議)を96年から開催している。これは領土的支配・被支配の状態にあった両地域が,半世紀という短期間のうちに,対等等・公正な関係へと再編されたことを象徴するものである。
こうした世界構造の急速な変化は,西欧帝国主義に「植民地なき独占資本主義」への発展を余儀なくさせるものでもあった。植民地体制の崩壊は,レーニン『帝国主義論』の歴史的制約を明らかにした。①レーニンは帝国主義を,全世界的規模での植民地分割と大国による植民地争奪の戦争を特徴とする世界史の段階ととらえたが,今日,植民地体制はすでに崩壊し,植民地争奪の闘いはありえないものとなっている。②レーニンはそうした帝国主義を資本主義の最高にして最後の段階ととらえたが,現実の歴史は資本主義の枠内において植民地体制以後の段階をつくりだした。
こうした変化の過程で,個々の帝国主義国は「植民地なき独占資本主義」へと発展した。ただし,それは独占資本主義が,侵略への衝動をもたない平和的な独占資本主義への変質を遂げたということではない。その衝動を抑止し,制御する新しい民主主義の力が成熟したということである。たとえばベトナムからのフランス軍の撤退にあたっては,フランスでの政権交代が重要な役割を果たした。アメリカ政府にベトナムへの原爆投下を求めたラニエル首相は,選挙戦で戦争の継続を主張した。しかし,フランス国民は「光栄ある撤退」をかかげたマンデス・スランスを首相に選ぶ。そこにはこの戦争の大義に関するフランス自身の世論の変化があった。
こうして,植民地体制の崩壊は,旧植民地地域の独立とともに,植民地を保有した宗主国が,その放棄にすすまずにおれなくなるという二重の意味での「脱植民地化」の過程であった。この視角からすれば,イラク戦争にあらわれたアメリカの「新しい植民地主義」の政策は,この国がいまだそのような成熟に至らぬ時代遅れの資本主義だということを示している。
さらに植民地体制の崩壊は,国連内部の大国と途上国との力関係にも反映した。国連憲章の制定にあたりソ連・中国は「植民地解放」を求めたが,フランスやアメリカの反対により,これが憲章に盛り込まれることはなかった。その結果,現実の解放は,戦争をふくむ独立への様々な闘いを避けることができなくなる。しかし,それでも独立への流れは止まらず,1945年発足の国連原加盟国は51ヶ国,うちアジア・アフリカの国はわずか12ヶ国にすぎなかったが,それが今では加盟国191ケ国,アジア・アフリカの国は112ヶ国へと増えている。この数字の変化自体が,旧宗主国と旧植民地地域との力関係の大きな転換を物語っている。自力で独立を達成した国が次々と国連に加盟し,1960年には「植民地独立付与宣言」を国連総会で採択する。国連の性質を論ずる時には,このような力関係の歴史的変化を良く見ることが必要である。
3・「アメリカのための東アジア」か「東アジアのための東アジア」か
植民地体制の崩壊後も,アメリカ等による東アジアへの政治的・軍事的な介入は継続された。直接的な領土的支配はもはや不可能だが,それでも,「アメリカのための東アジア」か,「東アジア自身のための東アジア」かという両者の綱引きは続けられた。
こうした視角から東アジアの現代を見るとき,第一に重要なのは,ベトナム戦争中の1967年に創設されたASEAN(東南アジア諸国連合,原加盟国はタイ,インドネシア,フィリピン,マレーシア,シンガポール)が,アメリカやイギリスに親しい国の集まりではあっても,アメリカのベトナム侵略に加担する軍事同盟としての役割を果たすものではなかった事実である。戦争中の1971年,ASEAN外相会議は「東南アジア平和自由中立地帯宣言」を発表する。「アメリカ側につくのか,ベトナム側につくのか」という,アメリカによる「冷戦」体制づくりの中で発せられた「中立」宣言は,このアメリカの思惑に対する抵抗の意味をもつものであった。
75年にアメリカは建国以来初の敗戦を喫し,最大の帝国主義国に勝利したベトナムは,翌76年に南北統一からベトナム社会主義共和国の設立へとすすむ。この東南アジア情勢の大きな変化を前に,ASEAN諸国は初の首脳会議を開き,社会主義ベトナムの敵視や「封じ込め」ではなく,その反対に東南アジア諸国の平和共存をうたう「協和宣言」(76年)を採択していく。各国の社会体制はその国の人民が決めることであり,外部からの干渉が許されるべき問題ではない。「宣言」は長い侵略や植民地支配による被害と,戦後の分裂と敵対の歴史から,この重要な教訓を導いた。加盟国間の平和と友好と協力を定めた先のTACが採択されたのも,この会議でのことである。
第二に,しかし,アメリカ帝国主義は,これらの動きを座して眺めたわけではない。特に「ソ連・東欧崩壊」を転機に打ち出された「経済・軍事グローバリゼーション」戦略にもとづき,90年代にはあらためて東南アジアに対する介入を深めていく。89年オーストラリア・ホーク政権のイニシアチブにより,APEC(アジア太平洋経済協力会議)が設立される。そこには,東アジアの経済成長を,太平洋を越えたアメリカやオーストラリアの利益につなげようとする思惑がこめられていた。
89年のベルリンの壁崩壊と91年のソ連崩壊をへて,93年にクリントン政権は「新太平洋共同体構想」を打ち出していく。そして,その具体化のためにAPECへの関与を深め,APEC初の首脳会議をシアトルで開催させる。これ以後,アメリカはAPECを,多国籍企業や金融機関に都合のよい東アジアづくりの手段と位置づけ,貿易・投資・為替の自由化を加盟各国に強要していくことになる。
なお,このようなアメリカ財界に都合の良い経済構造づくりは途上国だけに求められたものではない。86年の前川レポートや,これを盾に取った89~90年の日米構造協議と90年代以降の「構造改革」など,現代日本の政治経済状況も,同種の路線にもとづくアメリカの介入とこれに対する日本の政財界の追随によってつくりあげられたものである。それは日本企業の多国籍化という内的要因だけで説明のできるものではない。
この結果,第三に90年代の東アジアには,アメリカ主導のアジア太平洋構想と,東アジア自身の手になる東アジア構想との大きな対立が,交錯していくことになる。特に,97年のアジア通貨危機にいたる一時期には,ASEAN諸国の一部にも,アメリカ主導の経済発展に対する小さくない期待があった。
93年開催のシアトル会議に,マレーシアは異議を唱えて欠席している。マレーシアのマハティール首相は,APEC設立の翌90年に,今日でいうASEANプラス3を地理的範囲とした,東アジア独自のEAEG(東アジア経済グループ)構想を提起していた。ただちに実現への動きが起こることはなかったが,すでにこの段階から東アジアの共同をめぐる二つの道の対立が始まっていた。
94年にAPECは「ボゴール宣言」を採択している。これは貿易・為替・投資の自由化を,年限を区切って進めるというものである。それは結果的に,97年のアジア通貨危機の露払いとしての役割を果たした。しかし他方で,これに先立つ1992年,ASEANは自ら「自由貿易協定」の設立を決定してもいた。こちらはTACを前提とする,平和のもとでの貧困の克服と経済成長を目指したものである。こうしてASEANの側に自由化による経済協力の促進という政策があり,またASEAN諸国が長く外資活用の成長戦略をとってきたことが,「ボゴール宣言」に込められたアメリカの経済覇権主義に対する警戒心を弱める理由の一部となっていった。いずれにせよ通貨危機に先立つこの時期には,ASEANとアメリカとの異なる思惑をもった自由化の取り組みが交錯したのである。
第四に,その異なる思惑の共存に終止符を打ったのが,タイを入り口として,東アジア各国経済に重大な破壊と損害をもたらした97年のアジア通貨危機である。これをきっかけにASEAN各国はAPEC離れ,アメリカ離れの動きを明確にする。
当時,成長する東アジアの資金需要は高く,東アジア各国には大量の海外資金が流入し,特に流出入の自由度が高いタイ経済は,明らかな過剰投資の状況にあった。そのなかで,アメリカ大企業・金融機関など各国の巨大資金を操る投機専門機関ヘッジ・ファンドが,為替投機を仕掛けていく。タイの通貨バーツは,金融当局によってドルにリンクされた「ドル・ペッグ制」をとっていた。しかし,日本の異常円高の緩和によるタイの輸出競争力の低下を見越した投機勢力は,バーツの一挙大量の売り逃げに走り,その巨額によって通貨当局による「ドル・ペッグ制」の維持を不可能とさせた。こうして変動相場制に追い込まれたバーツは,さらにつづく大量のバーツ売りにより,坂道を転げ落ちるようにその価値を失っていく。この時,事前に先物市場で,バーツの高値での売却契約を結んでいた投機勢力は,暴落によって生まれたバーツの契約価格と大幅に低下した市場価格との差額をそのまま自分の利益とし,それによって莫大な収益を得ることができた。
このようなバーツ暴落は,当然のことながら,タイ経済に破壊的な混乱をもたらすものとなる。バーツ安は自動的に輸入代金の値上がりを招き,同時に大量の海外資金の逃避による国内資金の不足をもたらす。こうしてタイ経済は,豊富な外資と貿易黒字という経済発展の両の翼をもぎとられる。こうした結末を回避するため,タイ政府と中央銀行は,投機勢力による「バーツ売りドル買い」に対抗して,「ドル売りバーツ買い」の市場介入を行なった。しかし,莫大な資金を操るヘッジ・ファンドの前に,タイ政府は介入資金のそこをつく。為す術を失った通貨当局の目の前で,バーツの価値喪失とタイ経済の破壊は進行させられた。こうして始まった経済危機は,インドネシア、マレーシア、韓国等にも波及する。これが97年のアジア通貨危機の概要である。
これは誰にも予期することのできない自然現象ではない。投機はその意図をもった経済勢力に引き起こされる人災である。マレーシア政府はアメリカのヘッジ・ファンドを名指しで批判し,タイ政府も事実上それに等しい詳細な経過報告を明らかにした。APECがすすめた投資や為替の自由化は,こうした投機の条件をさらに拡大させるものであった。ここからASEAN諸国による,APEC離れの決断がすすむ。アメリカは,危機発生以後にも,加盟諸国の窮状に何の救済措置もとらなかった。行なったのはIMFからの融資のすすめと,それによるさらなる自由化・規制緩和と,債務返済のための公共料金値上げ,増税など経済への緊縮政策の押しつけだけである。アメリカのすすめに従って融資を受けたインドネシアでは,緊縮政策の実施による生活悪化から,政治に対する国民の不満が強まり,スハルト政権が覆された。
他方,危機からの脱出の過程で,アメリカ・IMF流の「構造調整」を拒否したのはマレーシアである。マレーシアは規制緩和の推進ではなく,逆に,投機的な短期資金の流出入に対する規制強化をはかり,通貨危機被害国の中ではもっとも早く経済再生に成功していく。後にはIMFも,このマレーシアの道の有効性を認めずにおれなくなった。
なお,この危機からの脱却を模索するなかで,97年に初めてASEAN+3の会議が実現する。危機への日本の対応は次に見るが,ともかくこれがアメリカ抜きの東アジア諸国だけでの定期協議を開始させるきっかけとなった。マレーシアのマハティール首相は,この会議を,自身が90年に提唱した東アジア経済協力の別の形での実現だと評価した。
4・通貨・金融協力による「脱ドル」の動きと揺れる日本の財界
97年の通貨危機は,ASEAN諸国による「脱ドル」への大きな動きの出発点となった。
注目すべき点の第一は,日本政府がアメリカ抜きの「アジア通貨基金(AMF)」の実現に向けて動いた事実である。これは東アジア各国の拠出による共同基金をつくり,タイに仕掛けられたような投機に際して,これに対抗するためのドル資金(介入資金)をここから融通しようというものである。目的は明快に,アジア通貨危機の再現回避におかれていた。
日本政府のこの動きの背後には,85年の「プラザ合意」以後,日本大企業が東アジア各国への進出をすすめ,そこに国境を越えた企業内ネットワークを形成していた事実がある。つまり東アジアの経済混乱は,同時に日本大企業のネットワークの混乱をもたらすものでもあった。そこでこの利益の確保に向け,日本政府は,東アジアに一定の安定した経済秩序を望まずにおれなくなっていたのである。
この時の日本政府の動きを,大蔵省国際局の一員として,同構想の実現に動いた榊原英資氏が繰り返し紹介している(『経済の世界勢力図』文藝春秋,2005年など)。提案は多くの東アジア諸国から支持を得るが,最終的に,日本がアメリカの「許可」を得ようとした段階で頓挫する。それはAMFがIMFからの独立性をもつものだと知った,サマーズ米財務長官の「激怒」によって粉砕された。アジア諸国による国際機関の創設に,アメリカの許可を求めようとするところに,従属国家日本の卑屈さが良くあらわれている。それでも翌98年,日本政府は「新宮沢構想」と呼ばれた二国間協定により,マレーシア等への金融協力にこぎつける。それは,アメリカからの要請によるラテン・アメリカの債務問題への協力と引き換えに行なわれた。以上の経過には,対米従属という「国是」と,東アジアにおける日本財界の経済的利害との乖離の始まりが,萌芽的な形であらわれている。
第二に,日本発のAMF構想の頓挫を受けて,次にはASEAN自身が通貨危機の再現を許さぬ協力体制をつくっていく。2000年のチェンマイ・イニシアチブが,その出発点となった。これはASEANプラス3による多国間通貨スワップ(交換)の協定で,たとえば通貨投機の攻撃を受けた国にドル(介入資金)不足が起こった場合,日本など他の国がその国の通貨と手持ちのドルを交換してやるという制度である。交換の量的制約やIMFとの一定の連動性など,部分的にはアメリカへの配慮も含まれているが,それでもこれが投機勢力への対抗を目的とすることは明白である。
第三に,関連して,2002年に結ばれた日中通貨スワップ協定は,さらに重要な意味をもった。これは多国間スワップ協定の一環として,日中両中央銀行間で結ばれた協定である。ただし,この協定はドルの融通ではなく,日中双方の通貨を融通しあう点に独自性をもった。アメリカ等「ドル圏」との貿易には支払いのためのドルが不可欠だが,東アジア内部での域内貿易比率が高まれば,ドル保有の必要性は減少する。そこからヨーロッパにおけるユーロのように,東アジアの共通通貨をつくるという動きも生まれてくることになる。実際,この協定の当事者である日銀理事(当時)の松島正之氏は,これはアジア通貨形成への意思表示だと述べていた。ドル以外の国際決済通貨の形成は,明らかにアメリカのドル特権に抵触していく。それにもかかわらず,大企業の利益を追求する立場から,日本の政財界はこうした動きをとらずにおれなくなっている。
第四は,東アジア地域における,公然たる「脱ドル支配」の議論である。2003年第1回東アジア会議,2004年アジア政党会議と,この地域ではASEANプラス3の枠を越えた各国政府や政治勢力間の活発な国際交流が行なわれている。第1回東アジア会議に参加した国会議員笠井亮氏の報告によれば,そこでは「脱米軍支配」と「脱ドル支配」が公然のテーマとなっていた。チェンマイ・イニシアチブは,各国通貨の防衛策にとどまらず,より大きな「脱ドル支配」につながるものであり,他方で日米安保条約に対する強い警戒心と反発も,「脱米軍支配」の一環として,これら各国に当然の認識となってきている。
一方で日米の軍事一体化をすすめる日本の財界が,他方で東アジアの「脱ドル」の動きに加担していく。その混迷の背後には,実質的な経済主権の確立に向かう東アジアの強い意志と,それを支える現実的な経済力の強まりがある。次に,もう少し詳しく財界の対東アジア戦略を見ておきたい。
第一は,日本経団連による2003年の「奥田ビジョン」である。中長期的な財界の政治経済戦略文書であるこれには,「東アジア自由経済圏」構想の他に,アメリカの反対で頓挫したアジア通貨基金(AMF)の創立が明記されている。さらに,日本経団連の奥田碩会長は,「奥田ビジョン」の解説書である『人間を幸福にする経済』(PHP研究所,2003年)の中で,アジアの「通貨統合」にもふれている。これらはすでに財界主流の合意事項といって良いのだろう。
第二は,日本経団連の「わが国の基本問題を考える」(2005年)である。この文書は,9条第2項と96条に焦点をしぼった,財界による憲法「改正」の号令文書として有名だが,実はここにも「東アジア自由経済圏」構想が述べられている。さらにこの文書の特徴は,アメリカを「最大のパートナー」と位置づける一方で,中国を経済面での「第二のパートナー」と明確に表現し,さらに「東アジア自由経済圏の構築と日米同盟の強化」を外交の二本柱だと述べた点にある。実際には,東アジア各国は日米同盟強化に強い警戒心をもち,アメリカはアメリカ抜きの東アジア共同体に強く反対していたから,これは世界のどの国からも受け入れられない議論であった。それにもかかわらず,対米従属のもとで東アジアにおける経済的利益を追求すれば,財界はこのような混迷の方針を打ち出す他になかった。
第三は,2005年の日本経団連「日中通商・経済関係のさらなる拡大に向けて」である。この文書は,アジア経済の発展に向けた「日中共同」のリーダーシップを強調した。ASEANと中国との急速な交流の深まりを考慮すれば,もはや東アジアの共同における日本単独のリーダーシップには現実性がなくなっている。そのことに対する財界の自覚が明示された文書といえる。
第四に,驚くべきは,2005年の経済同友会による文書「日本の『ソフトパワー』で『共進化(相互進化)』の実現を」である。経済同友会は同じ財界団体とはいえ,日本経団連のような意思決定の機関ではない。むしろ,調査や研究に力点をおき,必ずしも財界全体の合意を待たずに,様々な見解を打ち出すことのできる組織である。だが,そうした事情を差し引いても,この文書の内容は驚くべきものといって良い。
たとえば文書はこう述べる。「これまで日本は米国一辺倒であったが……米国以外に,特にアジアの中で,パートナー〔中国〕が必要になっている」。日本は「アメリカのためを思って意見が言える」国に変わらねばならない。ただし,アメリカに意見をする際には,韓国,東南アジア,中国,インドなどと共同し「日本が矢面にたつこと」がないように注意せねばならない。また「通貨の統合」については,それが「通貨主権の放棄である」と語ったうえで,「率先して自国通貨(円)を捨てることで共通通貨を大きく推進させ,東アジア共同体の実現に貢献する事ができる」と述べている。ここではかつていわれた「円の国際化」は,すでに過去の話となっている。
このような見解が,その一部からとはいえ,主要財界団体の内部から出てくるところに,財界の経済戦略と対米従属という外交方針との今日的な軋轢のあらわれがある。
第五に,この同友会文書の見解と響きあう論壇の議論を紹介しておく。たとえば同文書には「アメリカはアジアに関与するとは限らない」というくだりがあるが,これについて先の榊原氏は「アジア諸国の台頭、アメリカのゆるやかな没落という世界の大きな流れを考えるとき」と,現在のアメリカがアジアに関与する力を失いつつあるとの認識を,より率直に述べている。アメリカはすでに没落の過程にあり,最後の力でイラクへの戦争政策を取りはしたが,軍事費の急増による財政危機も深刻で,戦争自体も思うようには進んでいない。そのような世界の大局的な変化の中で,日本は「国益」のためにこそ,親米路線から「親中路線」へと転換すべきだと榊原氏は強調している。
もう一人,『ヨーロッパ通貨統合――その成り立ちとアジアへのレッスン』(勁草書房,2002年)の著書をもち,中曽根康弘氏が会長をつとめる「東アジア共同体評議会」に参加している山下英次氏は,東アジアの共同を不可避の流れと判定し,その中で日本に必要なことの第一は「アメリカ離れ」なのだと明快に述べる。また山下氏は,アジア通貨基金の必要にふれ,その意義を「ウォール街の業界の利害にとらわれることなく,適切な政策上の助言をアジアの新興市場に対して行う観点からも,ぜひとも必要」と解説している。これはアメリカの金融界から独立した,日本の自主的な国際金融政策の樹立を求めたものである。これらの発言は,97年の通貨危機以後,日本の支配層に伏在する強い流れの一つとなっている。この「離米」の議論には,今後とも十分な注目が必要である。
5・自由・平等・公正の東アジア共同体に向けて
最後に,21世紀にどういう東アジアをつくるかという問題にかかわって,最近の情勢のいくつかにふれておきたい。
第一は,アメリカの対東アジア戦略の変化についてである。2005年12月,ASEANプラス3にニュージーランド,オーストラリア,インドを加えた16ケ国による第一回東アジアサミットが,マレーシアで開かれた。地球人口の半数以上を代表する諸政府による,アメリカ抜きでの定期協議の歴史的な始まりである。この会議の中心に立ったASEAN諸国は,2020年のASEAN「共同体」設立にすでに合意しており,12月の第11回首脳会議では,ASEAN憲章の骨格も決定した。長く国境紛争に揺れた中印両国も,サミットをきっかけに新たな対話を開始しており,この会議が,この地域における平和と共同の取り組みをすすめる重要な推進力となっていくことはまちがいない。
当初,アメリカはこの会議の開催に強い反対を表明した。ライス国務長官やアーミテージ氏による繰り返しの発言は,東アジアに対する恫喝といって良いものであった。特にアーミテージ氏は,日中の接近を日米安保に亀裂を入れるものと,中国に対する露骨な敵意さえ表明していた。こうしたアメリカの強気を背景に,アメリカと同じく先制攻撃戦略をとるオーストラリアは,当初,このサミットへの参加条件であるTACへの加盟を「時代遅れ」とさえ述べていた。
しかし,アメリカの恫喝が強い効果をもちうる国は,いまや日本の他にはどこにもなく,アメリカも,サミット開催が近づくにつれ,対応を軟化させずにおれなかった。11月30日,シーファー駐日大使は「誰も米国をアジアから排除しようとしない限り,たとえ米国を含まなくても,どんなフォーラムや何かにも特別な問題があると思わない」と語るにいたった。このアメリカの方針転換に対応して,オーストラリアもTACへの加入を突然表明し,第一回サミットへの参加に,ぎりぎりのところでこぎつけた。アメリカと東アジアの政治的な力関係は,今日このように変化している。
第二は,アメリカによるこの軟化の背景に,中国経済の急速な成長があったという問題である。「冷戦」時代のアメリカは,中国「封じ込め」の戦略をとったが,もはやそれは不可能である。今日のアメリカにとって,最大の貿易赤字相手国は中国であり,今やアメリカの消費生活の多くは中国からの製品輸入に支えられている。
さらに中国は低賃金労働力に基づく「アメリカの工場」であるだけでなく,「中産階級」の勃興による巨大な消費市場ともなりつつある。ここにいう「中産階級」は,もちろん厳密な社会科学の用語ではない。それは富裕層ではないが,かつてのような貧困層でもない――平たくいえば,ローンをつかえば家電製品やクルマを買うことができる,そういう所得をもった層をいう,ジャーナリズムの用語である。中国,インド,東南アジアにおけるこの「中産階級」の急速な成長が,アメリカに「市場としての東アジア」に対する新しい政策を採用させる力となった。アメリカもまた,この巨大市場に対する安定したアクセスを確保しないわけにはいかないのである。
当面最大の焦点は中国市場だが,2005年10月の5中全会(共産党代表者会議)で,中国政府は経済支援の力点を沿岸部から内陸農村部へ拡げる新しい「5ケ年計画」(06年~10年)を策定した。その直後に中国を訪れたスノー財務長官は,これを「世界にとっても良いこと」と絶賛した。アメリカは,中国内陸部の開発による消費の拡大が,アメリカ企業の利益と対中貿易赤字の縮小につながると判断している。国務省と国防総省で政策に一定の温度差があるともいわれるが,それでもアメリカは一国覇権主義の基本を維持しつつ,東アジアには対話の姿勢をもっているのが現実である。アメリカへの軍事的従属だけを柱とする日本外交は,時代遅れのアメリカ帝国主義からさえ,さらに遅れたものとなっている。
第三に,靖国問題が日本と東アジアの経済交流の最大の障害となり,これがアメリカとの間でさえ摩擦のタネになりはじめている。小泉首相は五度の靖国参拝を実行したが,財界はすでに一致して首相による参拝の中止を求めている。中国政府は日中関係を「政冷経熱」と表現したが,現実には「政冷」は「経熱」にも水をさすものとなる。財界はそれを見越して,「ポスト小泉」にも靖国へ行かない首相を求めている。こうした動きを受けて,またアメリカからの批判も受けて,「ポスト小泉」の第一候補といわれる安倍晋三氏は「日本の伝統を金で売るのか」という当初の強気の発言を,「政治家として参拝するかしないかを口にしないことが大切」とまでトーンダウンさせている。
靖国問題での財界のこうした動きは,外交分野での「ルールある資本主義」づくりの一つの過程をなすものとなる。歴史を大きく振り返るなら,植民地支配が可能であった時代には,財界はどの国でも軍国主義と結んで植民地の拡大に突き進んだ。しかし,戦後,植民地支配が許されることのない段階に入れば,独立した途上国との間に合意にもとづく関係をもち,これを通じて利益を追求するよう変わっていく。たとえば今日のEUと東アジアによるASEMの定期協議についても,そこにEUの側からの東アジアにおける利益追求の衝動が込められるのは当然である。それは資本主義が資本主義である限り,決して消えてなくなるものではない。しかし,その衝動が軍事的な形で貫かれるのか,あるいは平和的な形で貫かれるのか,その具体的な形態の相違は重大である。アメリカが「新しい植民地主義」を利殖の手段に採用し,EUが国連の平和秩序のもとに利殖の自由を制限しようとするとき,両者を「どちらも利益を追求している」との理由で同列にならべることはもちろんできない。
資本の本性は,それがおかれた歴史的・社会的条件に応じて違った形で現象する。その現象の姿を「社会の力」で民主的に変えていくのが,「ルールある資本主義」づくり(資本主義の枠内での改革)の取り組みである。同じ論理は外交分野にも適応される。戦前の戦犯性を色濃く引きずる野蛮な日本の財界も,利益第一主義の立場から,その障害となるものを取り除かずにはおれない。靖国参拝をその障害だと感じさせる強い社会の力があれば,財界はそれを取り除かずにおれなくなる。さらに内外の世論が成熟すれば,侵略と加害の検討さえもが,同種の課題となっていく。経済同友会は,2006年3月の文書「東アジア共同体実現に向けての提言――東アジア諸国との信頼醸成をめざして」で,次のように述べている。「特に,政府首脳の靖国神社参拝を一因とする中国,韓国との関係悪化については……日本自身が近代史を総括,対東アジア関係のあり方を主体的に検討し,戦没者の追悼方法も含め,早急に友好的かつ建設的な解決を期待する」。
これはもちろん,財界が「海外でアメリカとともに戦争できる日本」を目指していることを,軽視させる理由にはならない。しかし,「歴史問題」にここまで踏み込む財界の動きの現局面には,アメリカいいなりと靖国史観を特徴とする戦後日本の支配層に,大きな変化が生まれる予兆を感じさせられる。注目をつづけたいところである。
冒頭に列挙した問題意識のすべてにはふれることができていないが,それらについては他日を期したい。あえてまとめを述べるなら,第一に,いま東アジアに起こっているのは、5世紀に渡る日米欧の帝国主義支配を最終的に抜け出し,東アジアに平和と自立と経済発展を目指す安定した秩序を建設しようとする動きである。第二に,その変化のなかで日本の財界はアメリカとの軍事的一体化をすすめながら,同時に東アジアの「ドル離れ」に手を貸す矛盾に陥りつつある。第三に,日本経済の安定と繁栄は,日米の軍事同盟強化に歯止めをかけ,アジアとの連帯を深める方向を求めるものとなっている。それは日本経済が過度のアメリカ依存を脱する重要な条件を得ていく道であり,東アジア全体の自立と発展を促す道でもある。その具体的な道筋の政治的・経済的な究明が強く求められていよう。
注・小論は関西唯物論研究会の総会(2005年9月10日)に際して行なわれた,シンポジウム「日本資本主義の現状と展望」での報告「東アジアの中の日本経済」に大幅な加筆を行なったものである。多くは拙稿「自立と平等の『東アジア共同体』に向けた日本の役割」(『前衛』05年9月号)に依っている。また,あわせて「憲法9条こそ日本経済再生への道」(『経済』05年1月号),『軍事大国化と「構造改革」』(山田敬男・牧野広義両氏との共著,学習の友社,04年11月),「世界情勢の発展と『帝国主義』」(『経済』04年6月号),「財界のアメリカへの従属と過度の依存」(『前衛』04年3月号)等の内容も加味したものとなっている。
〔関西唯物論研究会編『唯物論と現代』(文理閣,2006年6月30日発行)第37号,17~32ページ〕
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