2004年12月24日(金)……以下は,論文「憲法第9条件こそ日本経済再生への道」のためのノート
日本とアジアで生きるしかない,謝罪と補償が必要
・「日本はどうやっていけばいいのか。わたしの個人的見解であるが,わが国もそろそろ『アジア連合(AU)』に先立つ『アジア経済共同体(AEC)』のようなものを設立することを真剣に考える時期にきていると思う。
さらに,欧州通貨制度(EMS)のようなアジア通貨制度(AMS),あるいはアジア通貨基金(AMF)とでもいうべきものを設立するための,経済・金融的インフラの整備にとりかかる必要もあるだろう。
もちろん,ユーロ導入でユーロ圏から最終的に追い出されたアメリカは,アジアでも排除されるこのようなシステムを決して認めないであろうが,独自の立場でわが国は,21世紀のビジョンを提示する必要がある。
そのようなシステムがあれば,東アジアのバブル的経済成長,その反動としての通貨・経済危機は生じなかったかもしれないのである。
EUやドイツのように,わが国も自分の頭で21世紀へのビジョンを構築する時期にきているように思われる。21世紀に入ったら,わが国の技術力,中国の経済力,そして,香港・シンガポールの金融市場という三極を中心とする『アジア経済共同体(AEC)』を設立したらどうであろうか。
そこで大前提となるのは,ドイツが戦後一貫して実行してきたように,侵略と戦争犯罪に対しての明確な謝罪や補償を行うことである。心底からそれを実行しなければ,決してアジアの人々は日本を受け入れてはくれない。このことをわれわれは肝に銘じなければならない。くりかえすが,21世紀には日本は,アジアの中でしか生きていくことはできないのである」(相澤幸悦『ユーロは世界を変える』平凡社新書,1999年,185~186ページ)。
東アジア市場の形成に「主導権」を発揮すべし
・「わが国としては、ASEANを重要戦略地域と改めて認識し、東アジアのバランスある発展を目指すべきである。そのためには、わが国が主導権をもって、ASEANとの包括的経済連携構想を早期に具体化することが重要である。これに韓国ならびに中国との経済連携をあわせたASEAN+3を中心とする統合された東アジア市場の形成に努めるべきである」(日本経団連「日・ASEAN包括的経済連携構想の早期具体化を求める」2002年9月17日,http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2002/054.html )
国益達成の手段としてのODA
・「わが国が、将来にわたり貿易立国として生存し繁栄していくためには、世界平和の実現、世界各国との友好関係の維持を図ることはもとより、貿易・投資等の経済活動の維持・発展が必須の条件となっている。わが国にとってODAは、これらの諸目的を実現するための極めて重要な手段である。従って、ODA大綱の基本理念においても、国際社会が共通して取り組むべき諸課題への貢献に加えて、国内資源に乏しい貿易立国としてのわが国の安全と繁栄を確保するという国益のためにODAを積極的に活用するとの姿勢を明確に打ち出すべきである」(日本経団連「ODA大綱見直しに関する意見」2003年4月22日,http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2003/033.html )。
東アジア自由経済圏の手段としてのODA
・「いわゆる要請主義については、まず、わが国の国益を重視した総合的な戦略(グランド・デザイン)を立て、その上で相手国政府との政策対話を通じて、相手国政府の政策の取り組みを促すとともに、具体的なプロジェクトを策定すべきである。そのためには、大綱整備と並んで、中期計画の充実も必要であり、「国別援助計画」についても、こうした観点からの整備・拡充が急務である。そうした中で、東アジア諸国については、経済連携、ひいては東アジア自由経済圏の実現のためにODAを戦略的に活用することが重要であり、こうした視点に立った政策対話、経済協力を推進すべきである」(日本経団連「ODA大綱見直しに関する意見」2003年4月22日,http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2003/033.html )。
東アジアを重視しながらODAの活用を
・「わが国のおかれた歴史的、地理的、政治的、経済的な状況に鑑み、わが国のODA政策においては、引き続きアジア、特に東アジア地域を重視すべきことを大綱にも明記すべきである。特に、近年、ASEANとの包括的経済連携強化が重要課題となっていることを踏まえ、その推進のためにもODAを戦略的に活用すべきである。具体的には、ASEANの結束強化と安定のために、貿易・投資の促進や関連諸制度のハーモナイゼーション、後発加盟国への支援や域内協力の促進に資するようなODAの活用を大綱に盛り込むべきである」(日本経団連「ODA大綱見直しに関する意見」2003年4月22日,http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2003/033.html )。
単一の市場,単一の生産拠点をめざすASEAN共同体
・「ASEAN経済共同体は,単一の市場と単一の生産拠点を目指している。第二次バリ宣言は次のように述べている。
『ASEAN経済共同体は,地域を特徴づける多様性を,ASEANを世界の供給ネットワークのよりダイナミックで強力な一部にするビジネス補完の機会に変えつつ,ASEANを単一の市場,単一の生産拠点として確立するべきである』」(北原俊文「ASEAN共同体に向けた一歩――第37回外相会議」『前衛』781号,2004年9月,41ページ)。
ソ連崩壊後のアジア覇権をめぐるEAECとAPECの対立
・「マハティール前首相が最初に東アジアの共同を呼びかけたのは1990年末です。当時の提唱は東アジア経済グループ(EAEG)で,その後,東アジア経済会議(EAEC)と改められます。欧州のEEC(欧州経済共同体,現在のEU〈欧州連合〉の前身)と北米自由貿易協定(NAFTA)に対抗してゆくためにとして提起したのでした。
猛烈な妨害にまわったのが米国です。理由は,米国が参加しない組織がアジアにできることを許さない,です。米国に忠実な日本だけでなく,東南アジアのなかのいくつかの親米的な国もマハティール提案に消極的態度をとり,『ASEAN経済閣僚会議がEAECに支援と方向を与える』(ASEAN外相会議)と規定されるにとどまりました。
しかし,マハティール構想に同調する動きが根強いことをみてとったクリントン米政権は,アジア太平洋経済協力閣僚会議(APEC)を利用し,アジアにおける主導権確保に出ます。93年7月,来日したクリントン大統領は早稲田大学で講演し,経済から軍事協力まで視野に入れた『新太平洋共同体』構想をぶちあげました。そして同年,シアトルで米国のイニシアチブでAPEC非公式首脳会議を開催,ソ連崩壊後のアジアでの覇権確立に乗り出したのでした」(三浦一夫「平和と友好,対話と協調のアジアへ――東アジア共同体を考える」『前衛』781号,2004年9月,25~26ページ)。
多面的に「帝国主義」支配からの脱却をすすむASEAN
・(東アジア共同体)「この発展の背景にあるのは何か。……
第一は,いわゆるグローバル化がすすむ中での《ASEANの着実な発展》です。……
第二は,《中国の変化と発展,その中国とASEANの関係の発展》です。アジアにおけるとくに経済面での中国の比重はここ数年の間に顕著に拡大しています。日本,米国を抜き去りつつあるとの見方すらあります。……
『中国脅威論』は過去のものとなりつつあるだけでなく,今では中国はASEANの重要なパートナーです。
第三は,《EUの発展》です。……
……重要なのは,共同体ということでの関心だけでなく,EUが単独行動主義に抗して多国間協調主義の立場に立つ地域協力,連合という形ですすんでいることに注目していることです。今年のASEAN外相会議が,『ASEAN憲章』作成を決めたのは,そういった点でもEUに刺激されたのは明らかでしょう。
第四は,《イラク戦争が生み出した新しい世界の流れ》が共同体という主張の中に反映していることです」(三浦一夫「平和と友好,対話と協調のアジアへ――東アジア共同体を考える」『前衛』781号,2004年9月,26~29ページ)。
APECによる覇権樹立の失敗
・「マハティール前首相の最初の構想を妨害したのは米国(クリントン政権)でした。そして,これに対抗して,APEC強化に乗り出し,東アジア共同体構想を封じ込めようとしたのでした。しかし,その後の経過はあざやかです。APECはいま,年中行事として閣僚会議,首脳会議はつづいていますが,その影は限りなく薄くなっています」(三浦一夫「平和と友好,対話と協調のアジアへ――東アジア共同体を考える」『前衛』781号,2004年9月,32ページ)。
アジアの動きを日米関係に従属させようとする日本の役割
・「日本政府は,東アジア共同体に関して積極的姿勢を示していますが,その中で,これらの点についてどういう考えでいるのか,いくつかの問題点を指摘しないわけにはゆきません。
その一つは,小泉内閣が,東アジア共同体への米国の参加に道を開くことを狙っているととれる立場をとっていることです。外務省は,今年のASEAN+3外相会議に文書(イッシュー・ペーパー)を提出しましたが,その文書の『東アジア共同体の範囲』と題した項目の中で,『他のパートナーに参加の可能性』とか『開放性』を強調しています。あたりまえの指摘のようにみえますが,これは米国に参加の可能性を開こうとするものというのが専門家の指摘です。
東アジア共同体論は,いま日本の政財界の中でも急速に活発化していますが,同論を主張する民間機構の中には,日米同盟など米国とアジア各国との軍事同盟関係を東アジアの安全保障体制の柱と提唱するものもあります」(三浦一夫「平和と友好,対話と協調のアジアへ――東アジア共同体を考える」『前衛』781号,2004年9月,34ページ)。
TAC加入は中国との主導権争いという財界の自覚
・「日本政府のEAEC忌避はその後もつづく。2002年1月,小泉首相はASEANを訪問し,今後の日本の課題としてのアジア外交についてのべ,東アジアと『共に歩み,共に進む共同体』をつくることを提言した。……ところが,昨年2003年10月,インドネシアのバリでおこなわれたASEAN首脳会議,同+3(日中韓)会議で,日本政府は,TACに加入してほしいとのASEAN側の要請をしりぞけた。……
拒否の理由は『(TAC加入が)米国との特別な関係にどのような影響を与えるかについて日本の内部にいくつかの問題がある』というものであった。要するに『日米安保体制と相容れない』との判断だった(ジャカルタ・ポスト10月9日付)。……
ところが,そのほぼ2カ月後の12月11,12日に東京でおこなわれた日本・東南アジア諸国連合特別首脳会議で,小泉政権は一転してTAC加入を表明した。180度の転換であった。……この2カ月に何があったのか。
当時,ある財界誌記者はこう説明していた。――もちろんアジアからかなり厳しい批判もあったのは事実。同時に,日本の経済界関係者がかなり政治に詰め寄ったようだ。かれら,とくに一部の有力財界の間では,自由貿易協定(FTA)問題をふくめてかなり早くから,アジア共同体とくに経済共同体に積極的に介入した方がいい,というよりイニシアチブをとるべきだ,いまもたもたしていたら情勢に立ち遅れる,とくに中国に完全にやられてしまう,という考えがますます広がっていた。
他方では"この間に外務省は米側におうかがいをたてた可能性がある。その結果,OKとの感触を得た"との見方もある」(三浦一夫「アジアの新しい流れと日本」『前衛』774号,2004年3月,64~65ページ)。
国益追求が中国への対抗を焦点としているという政財界の自覚
・「今回の会議にいたる経過には,日本政府と財界が,中国に対抗するという意識が目立っているとの指摘もある。
日本政府にはもともと,特別会議で『共同文書は法的拘束力がある「憲章」にしたい』との思惑があったという(日本経済新聞12月14日付)。そこには,ますます緊密になりつつある中国とASEANの関係を牽制するととともに,浮上しつつある『共同体』構想で日本が主導権を握るという狙いがあった,というのが大方の分析である。しかし,結局『憲章』案はASEAN側に受け入れられず,『東京宣言』となった。
採択宣言には『政治・安全保障分野でのパートナーシップ』という文言も盛り込まれたが,この文言も含めて『憲章』ということになれば,いわば日本中軸の東アジア共同体という構図を打ち出すことになる,先の財界誌記者の指摘にはこの狙いに通じる思惑が明らかである。しかし,それはASEANとしてこれまで追求してきた『東アジア共同体』とは相容れないというのが,ASEAN側の本音ではないだろうか。結局『日本・ASEAN憲章』は幻の文書となった。
実際に,中国をわきにおいての東アジア共同体などありえない。そういう狭い国益追求型の共同体構想は,結局小泉政権のアジア外交がいままでの枠を大胆に超えない,古い発想の域を出ないことをしめしている」(三浦一夫「アジアの新しい流れと日本」『前衛』774号,2004年3月,64~65ページ)。
2020年に安保・経済・社会文化の共同体を
・「インドネシア・バリ島のリゾート地ヌサドゥアにあるバリ国際会議場で2003年10月7,8の両日,東南アジア諸国連合(ASEAN)の第9回首脳会議が開かれた。合わせて,ASEANと日本,中国,韓国(ASEAN+3)の全体および個別の首脳会議,ASEANとインドの首脳会議が開かれた。……
……バリ島で27年ぶりに開かれた今回の首脳会議は,第二次ASEAN協和宣言(第二次バリ宣言)を発表し,2020年を目標に,安保共同体,経済共同体,社会文化共同体を3本柱とするASEAN共同体を目指すと宣言した。また,中国とインドがTACに加入した」(北原俊文「内を固め外に拡げるASEANと日本の孤立」『前衛』771号,2004年1月,130ページ)。
日本への不満を隠す必要がなくなっているASEAN――日本の孤立
・「今回の首脳会議では,最終準備のための高官会議の段階から,日本への不満がかつてなく聞かれた。……。
日本への不満は多々あるが,中国とインドがTACに加入する一方,日本がTAC加入の要請を断ったことで,頂点に達した。『他の条約とのかねあいもあるので……』というのが,日本の対応だった。『他の条約』とは当然,日米安保条約のことである。……
TACは,ASEANの『平和憲法』とも,ASEAN発の国際的『不戦条約』ともいえるもので……」(北原俊文「内を固め外に拡げるASEANと日本の孤立」『前衛』771号,2004年1月,131ページ)。
中国・インドにも後れをとらずにおれないというASEANの評価
・「首脳会議終了後の10月18日,マレーシア戦略国際問題研究所のシャウハル・ハッサン所長が,『日本が米国追随から抜け出せばもっと良いことができる』と題する論評を,同国の英字紙ニュー・ストレーツ・タイムズに寄稿した。同氏は,次のように述べている。
『中国の魅力ある攻勢は,最近のバリASEAN首脳会議で最も明白で,そこでは,中国は日本を完璧に凌駕した。……』
『最も重要なことは,中国がインドとともに,TACに署名したことであり,日本にはできないことである。……』
同論評はさらに,『ASEANに対するまったく新しい,ダイナミックな接近方法をとらない限り,中国だけでなく,インドなどの諸国に対しても,日本は,イニシアチブと推進力で後れをとることになろう』と警告し,『日本の官僚主義は,その慎重さと伝統的な思考をいくらか捨てる用意がなければならない。何より,対米追随を脱却し,自分自身の独立の道を固める必要がある』と指摘した」(北原俊文「内を固め外に拡げるASEANと日本の孤立」『前衛』771号,2004年1月,132ページ)。
単一市場・単一生産拠点をめざす経済統合の多面性
・「ASEANの経済統合では,ASEAN自由貿易地域(AFTA)を中心に,ASEANサービス枠組み協定(AFAS),ASEAN投資地域(AIA),ASEAN統合イニシアチブ(IAI),ASEAN統合の行程表(RIA)など,列挙しきれないほどの様々な取り組みが行われている。地域の多様性を利点として活かしつつ,単一の市場と単一の生産拠点を創出するのが目標である」(北原俊文「内を固め外に拡げるASEANと日本の孤立」『前衛』771号,2004年1月,137ページ)。
第1回東アジア会議のメインテーマは「経済」
・第1回東アジア会議はマレーシアの首都クアラルンプールで「マハティール首相の提唱と設立されたシンクタンク,マレーシア戦略問題研究所(ISIS)が主催して2003年8月4日から6日までおこなわれ……1500人余が参加し,経済問題が主に議論されました」(笠井亮「大国の横暴ゆるさず『アジアのことはアジアで』」『前衛』769号,2003年11月,66ページ)。
ASEANの成果を東アジアの全体へ
・東アジア会議の趣旨について,ノルディン・ソピーISIS会長はこう述べた。「『私たちは,いま東アジア共同体の形成ということを考えており,今回の会議がそうした方向への一助となればと思っている。……
東アジア共同体というのは,アジアのためのアジア諸国の組織である。ASEANの発展を踏まえながら,さらに東アジア全体で,各国の独自性,多様性を尊重しつつ,地域の平和確立を最大の目標に,経済,文化面でも協力をすすめていくための組織にできればと思っている。とにかく,一番重要なのは,地域の平和ということだ。平和が担保されてはじめて,安定して経済建設の条件ができる。……
「共同体」の範囲は,当面は,ASEAN10カ国と日本,中国,韓国,つまりASEAN+3でつくることを考えている。ゆくゆくは北朝鮮も入れることになるだろう』」(笠井亮「大国の横暴ゆるさず『アジアのことはアジアで』」『前衛』769号,2003年11月,67ページ)。
金融でも貿易でも「脱ドル支配」が共通の決意――日本の孤立
・「とくに議論が集中したアジアの『債権市場』や『通貨基金』の構想,『自由貿易協定』(FTA)の問題などの議論でも,主権尊重と平等・互恵の立場にたって,『脱米軍支配』とともに,『脱ドル支配』へ一歩を踏み出そうというのが共通の決意でした」(笠井亮「大国の横暴ゆるさず『アジアのことはアジアで』」『前衛』769号,2003年11月,69ページ)。
中国であっても中心にはしないというマハティール
・マハティール首相演説は,東アジアの協力では,『帝国的な支配や,「ご都合主義の」覇権の奇跡の存在を信じない』『東アジア共同体は日本や米国あるいは中国が中心になるといったものでもない』とのべ……
そのうえで,『いまこそ,われわれ自身がわれわれの国民とわれわれと世界の未来のために権能を与えられるときだ』と訴え,『互恵,相互尊重,平等,コンセンサス,民主主義』を繰り返し力説し,『覇権主義ノー』『帝国主義ノー』などを列挙して『東アジアの,東アジアのための,東アジアによる共同体創設』の重要性をのべました」(笠井亮「大国の横暴ゆるさず『アジアのことはアジアで』」『前衛』769号,2003年11月,70ページ)。
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〈日米経済協力の一面としてのアジアでの役割〉
三角地域結合構想は1951年から
・日米経済協力は1951年に明らかになっている。「このときから,『日米経済協力』には二つの側面があった。
その一つは,日本経済を,アメリカがその時どきに必要とする,さまざまの面で,対米協力させることである。……
また『日米経済協力』はもう一つの側面があり,それはアメリカ,日本,東南アジアの結合である。後に太平洋トライアングル地域といわれるようになったこの構想は,サンフランシスコ条約前から,つまり,ダレスが来たときに早くも提示されている。
アメリカのアジア戦略に日本経済をどう利用するかというときに,日本は工業力,技術力で進んでおり,東南アジアは日本にはない資源をもっている。だから,アメリカ,日本,東南アジアの三角地域を相互に緊密化する結合関係をつくり出すことが,アメリカのアジア戦略にとって不可欠の構成部分であるというわけで,三角地域結合の構想は,最初から『日米経済協力』構想の主要な内容とされていた」(工藤晃『帝国主義の新しい展開』1988年,新日本出版社,109~110ページ)。
三角地域結合によって「西太平洋の自由」を拡大しようとしたアメリカ
・「また,アイゼンハワー大統領は59年4月の演説で次のように述べている。『日本が貿易を拡大する最大の機会のひとつは,自由圏にあって開発が進んでいる東南アジアの中にある。……一方の国の大きな必要は原料を入手することであり,他方の国では工業品をうることである。この二つの地域はいちじるしくお互いに補足し合っている。われわれは,ベトナムを強化し,南太平洋と東南アジアの安全を確保するのを助けることによって,この地域……と高度に工業化した日本とのあいだの,両者にとって有利な大きな貿易の可能性をしだいに開発しているのである。このようにして,西太平洋の自由は大いに強化されるであろう』。」(工藤晃『帝国主義の新しい展開』1988年,新日本出版社,111ページ)
三角結合のアメリカ戦略に従属することで対外進出をはたす日本財界
・「このように歴史的に『日米経済協力』はつねに日米軍事同盟優先であり,経済面で日本に対米協力をやらせることであり,さらに,たえず日本をアメリカのアジア戦略の中に位置づけて,アメリカ,日本,東南アジアの三角地域の緊密化をすすめてきたことが特徴的である。
『日米経済協力』においてたえず日本の経済主権が侵害されながら,日本独占資本にとっては,このアメリカ,日本,東南アジアの三角地域がアジアその他の地域に進出していく足がかりになるというので,対米従属的日米軍事同盟から日本独占資本の帝国主義的復活の実利を見出してきたといえる。そしてこのことが,日本独占資本が一貫して対米従属下の帝国主義復活・強化をつづける歴史的条件であった」(工藤晃『帝国主義の新しい展開』1988年,新日本出版社,112ページ)。
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〈ODAでの役割分担〉
OECDへの加盟自体がアメリカの世界戦略への組み込み
・「さらに,歴史的にもう一つ重要なことは,日本の1964年のOECD(経済協力開発機構)加盟である。……
当時アメリカがOECDをつくる上でねらったことは,大西洋共同体構想の推進である。OECDは,①経済成長,②自由化,③対外援助の3目標をかかげたが,②についていうと,EECに対米市場開放をやらせることであり,③についていうと,ドル危機におちいったアメリカの対外援助政策を,他の諸国へ肩代わりさせることであった。
その後サミット(先進国首脳会議)がおこなわれるようになり,日米軍事同盟とNATOとの結合,一体化がすすめられたが,経済面では日本のOECD加盟ということで,先行的にすすめられていたということをみておく必要があると思う」(工藤晃『帝国主義の新しい展開』1988年,新日本出版社,112~113ページ)。
日本の資本輸出はアメリカの「新植民地主義支配」に依存している
・「言葉をかえていうと,日本独占資本が巨大な資本蓄積をすすめて,つぎに資本輸出を大規模にすすめる段階になったとき,そうなればなるほど,アメリカの新植民地主義的な支配,影響,とりわけ軍事ブロック,軍事協定・軍事援助のうえにのって進出する路線を強めるようになったということである。
そうであるから,日本独占資本にとってみれば,日米軍事同盟は,21世紀が近づいてきた今日でも,自らが進出し膨張していくための前提条件であるということになっているわけである」(工藤晃『帝国主義の新しい展開』1988年,新日本出版社,130ページ)。
ODAをアジア・太平洋以外にも拡大せよというアメリカからの指示(84年)
・「日米軍事同盟のもとで,アメリカは経済力をいちじるしく強めた日本にたいして,対外援助の対象国をアジア地域にとどまることなく,もっと広い地域でアメリカの世界戦略の要請にこたえることを促してきた。
『日米諮問委員会報告』(1984年9月)は,これまで,アジア・太平洋地域で日米間の援助にかんする協力があったことをみとめたうえで,今後それをアジア・太平洋地域以外の国にも拡大すべきであるとして,次のようにのべている。
『援助計画策定にかんする日米間の協議は政策,実務両面にわたって緊密であり,きわめて効率的であった。両国はそれぞれの二国間援助努力の影響を強めるために,両者がプロジェクトを調整もしくは有効に組合せられる領域を見つけ出したり,タイにおける農業事業やサモアの教育援助などからえた経験や特別な専門技術を有効にいかすべきである。この点に関連し,今後の援助協力の範囲をこれまでのアジア,太平洋地域以外の国にも拡大していくべきである』
日本政府が実際にその要請にこたえてきたことは,同報告が,『日本はODAの60~70%をアジアに向けてきたが,これはこの地域の安全に大きく貢献してきた。最近になってみられるエジプト,トルコ,スーダン,ソマリア,およびアラブ湾岸諸国の一部,さらにカリブ海地域などにたいする援助の拡大は,戦略的に重要な地域にたいする援助の政治的重要性を日本が認識していること』として大いに評価したとおりである」(工藤晃『帝国主義の新しい展開』1988年,新日本出版社,130~131ページ)。
東南アジア各国への日本の圧倒的なODA比率
・「最近の日本のODAの実績(1980~86年)は,表2のように,インドネシア,韓国,マレーシア,フィリピン,シンガポール,タイで一位をしめ,しかも総額にしめる日本のシェアは,40%から70%といった日本の決定的な役割を物語っている。……
このように現在,ASEAN諸国,アジアNICSにたいして,日本はODAで決定的な役割を演じ,また,日本,アメリカの多国籍企業が肩をならべて進出する関係をつくりだしている状況である」(工藤晃『帝国主義の新しい展開』1988年,新日本出版社,132~133ページ)。
アメリカの補完とアジア地域では資本輸出の支援
・「①日本は,60~85年のODA額では,アメリカ,フランス,西ドイツにつぎ第4位の対外援助国である。しかし80~85年には西ドイツと入れかわり第3位となった。
②日本のODAはアジア地域に重点的に配分され,またアメリカの戦略的援助補完型である。……
③……日本のODAは,日本独占資本のアジア・中南米をはじめとする発展途上国での直接投資の展開に地ならし的役割を果たしている。したがって,日本のODAの特徴として,第一にアメリカの戦略援助補完の面での積極性,第二に日本独占資本のアジア太平洋地域での海外進出助成の面での積極性,以上の二点をあげなければならない」(工藤晃『帝国主義の新しい展開』1988年,新日本出版社,151~155ページ)。
ODAと資本輸出の密着度はドイツより日本の方が高い
・日本と西ドイツの比較。「①ODAを経済的進出の条件として利用している点では,日本の方が上手である。……
……ODAで一位であることと,経済的進出でも一位(または上位)であることとを,日本の方がはるかに強くむすびつけている。日本独占資本の方が,一面対米協力,一面経済進出の両面のむすびつけ方の上で,はるかにあつかましくふるまっていることを物語っている。
②日本独占資本は,政府の対外援助政策であるODAやその他の政府資金を,かれらの海外直接投資のリスク肩代わりなどに広く利用している。……
③以上のような日本と西ドイツとの違いは,日本と西ドイツとの戦後形成された対外直接投資の対象地域の違いの結果でもある。
日本の対外直接投資の地理的分布は,アジア,北米,中南米,大洋州をあわせた地域が全体の80%をしめる(1951~86年度届出ベース合計)。ここで,アジア,中南米の発展途上国に対する直接投資はつねに高い比重をしめてきた。ここにはまた,アジア・太平洋圏の輪郭がはっきり浮かび上がってくる」(工藤晃『帝国主義の新しい展開』1988年,新日本出版社,157~161ページ)。
日米共同経営のアジア開銀はベトナム侵略拡大と一体
・「アジア開発銀行(ADB)
すでにのべたように,アジア開銀は,1965年ジョンソン大統領がベトナム侵略のエスカレーションをすすめる方針とあわせてあきらかにした,アジアの『地域協力』方式による『アジア開発援助』構想の産物である。
したがって,アジア開銀の経営に特徴的なことは米日共同経営である。すなわち,アメリカ,日本の投票権シェアが同数,出発時はそれぞれ17%余で2国で3分の1以上をしめた。現在は2国で全体の4分の1をしめる(今日はアメリカ12.36%,日本12.53%と日本がわずかながら多い)」(工藤晃『帝国主義の新しい展開』1988年,新日本出版社,167~168ページ)。
アメリカの戦略のための日本のODA――アメリカ高官発言
・「日本も偉大な富と力をもっています。世界第2位の経済大国であり,世界第2位の対外援助大国です」(リチャード・L・アーミテージ米国務副長官「世界の中の日本と米国」2004年2月2日,日本記者クラブでの講演,
http://tokyo.usembassy.gov/j/p/tpj-j20040202-54.html )。
・「長期におよび日本経済の停滞が米国に痛みを与えたもう1つの分野は,世界における共通の目的達成を支援するために,日本が米国と共に働く力が低下することです。1つの典型的な例は,日本の対外援助予算の縮小です。本年,日本はその対外援助予算を前年比で4.8%削減する予定です。日本の政府開発援助(ODA)予算は,4年連続で縮小されることになります。日本は,すでに,世界最大の対外経済援助国としての地位を失いました(在日アメリカ大使館ジェームズ・ズムワルト経済担当公使の講演「日米経済関係:日本経済回復への期待」2004年5月21日,http://tokyo.usembassy.gov/j/p/tpj-j20040528-51.html )
自衛隊派兵を独自判断として踏み切れというアメリカの圧力
・「日米関係は良好だ。日本はイラクへ自衛隊を派遣したが,それは日本のためにいいことであったからだ。日米の友情関係に基づくものではない。もちろん,米国は評価したが,日本の国益のために自衛隊は送られたのだ。
私たちは日本が平和憲法を持っていることをよくわかっている。自衛隊に制約があることを十分承知している。しかし,世界は日本をスーパーパワー(超大国)だと認識している。日本は偉大な国家として責任を持ち始めている。ゴラン高原,東ティモールへの平和維持活動(PKO)派遣は大国としての役割だ。イラクへの自衛隊派遣も同じ流れだと思う」(「中曽根・ベーカー会談」におけるハワード・H・ベーカー駐日アメリカ大使の発言,2004年7月8日「読売新聞」,http://tokyo.usembassy.gov/j/p/tpj-j20040709-50.html )
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アメリカのいいなりになるな――マハティール
・「米国型の極端な経済改革を行なおうとしている今の日本では,失業率も高く,国民が自身を失っているようです」「しかし日本を再びいい国にするために,ぜひ頑張っていただきたい。皆さんには勤勉であるという日本人の素質が根づいているのだから,他国の言いなりになるのではなく,自分の考えで行動してほしい」(マハティール・モハマド『立ち上がれ日本人』新潮新書,2003年,24ページ)。
東アジアのリーダーへの挑戦を――マハティール
・「今まさに日本が挑戦すべきことは,東アジアにおけるリーダーの役割を果たすことです。日本には経済的な規模があり,富があり,世界水準の技術力がある。世界のリーダーとなるには軍事力も必要だという考え方もあるでしょうが,今日の『戦争』は経済的な側面が焦点です」(マハティール・モハマド『立ち上がれ日本人』新潮新書,2003年,47ページ)。
日本へのアドバイスはアメリカ化の防止――マハティール
・「わたしが日本の首相になったら,まずなにをするかと聞かれたことがある。わたしは,他の国に対してアドバイスをする立場にはないのであるが,アドバイスすることがあるとすれば,それはひとつだ。『アメリカ化』を防ぐことである。日本は,日本のシステムを信じて働き,戦後の世界で一番成功した国になった。そのシステムを信じずに,ほかの何を信じるというのか。わたしには理解ができない。日本経済も日本社会も,90年代にアメリカのシステムを取り入れたときから転落している」(マハティール・ビン・モハマド『日本人よ。成功の原点に戻れ』PHP,2004年,120ページ)。
戦争が解決策にならないことを日本はよく知っているはず――マハティール
・「たとえ米国の核の傘下にいても,日本が平和憲法を持っていることに変わりはありません。戦争が解決策にならないことは,世界で唯一原爆を落とされた日本が一番よくわかっているはずです」(マハティール・モハマド『立ち上がれ日本人』新潮新書,2003年,129ページ)。
一線を越えると自衛隊は米軍と変わりがなくなる
・「日本とアジアとのかかわりにおいて,常に取りざたされるのが過去の日本の軍国主義と侵略の歴史であるが,日本はすでにアジアの脅威でなくなって久しい。日本の防衛予算が上がろうが,新しい防衛システムを導入しようが,われわれはそれを日本の軍国主義の再来とか,新たな侵略への道とかいった見方で捉えたりはしない。なぜなら,日本がアジアを侵略すれば,それは日本の自殺行為に等しいことを,われわれは知っているからである」「日本は過去の戦争でよい教訓を得たとわたしは思う」「しかしながら,唯一心配なのは,日本の軍備がアメリカに利用されてしまうことだ。アメリカ軍は日本に米軍基地を構えて,そこから海外に展開している。今回のアフガニスタン空爆の際も,イラク戦争の際も,日本は艦船をインド洋に派遣して,アメリカ軍を補完する役割を担った。これが一線を越えると,日本の自衛隊はアメリカ軍と変わりがなくなってしまうだろう。ここが心配なところではある」(マハティール・ビン・モハマド『日本人よ。成功の原点に戻れ』PHP,2004年,103~104ページ)。
日米安保のためにアジアが常に緊張する
・「自衛隊は必要で,自国内の任務だけと限定すべきではない。他の国を攻撃するのでないのだから,国連の平和維持活動に手を差し伸べるべきだ。
日本が米国との同盟関係を必要としていることは,この同盟が他国に向けられたものでない限り理解できる。ただ残念ながら米国はアジアの幾つかの国への敵意を隠さず,日米同盟はこれらの国に向けられていると見なされている。これはよくない。なぜならこれらの国も日本を敵と見,地域が常に緊張するからだ」(マハティール・モハマド『アジアから日本への伝言』毎日新聞社,2000年,59ページ)。
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日本とマレーシアの協力によってアジアの途上国支援を――マハティール
・「いま域内では,自由貿易協定(FTA)に関する議論が盛んです。なかでも私は,日本との経済連携交渉に期待しています。なぜならこの協定は単に関税率を引き下げるという貿易・投資上の視点にとどまらず,人材育成など,マレーシアと日本が協力して域内の発展途上国を支援するという総合的なものだからです。日本のリーダーシップは域内の国々を豊かにするために大変重要です」(マハティール・モハマド『立ち上がれ日本人』新潮新書,2003年,127~128ページ)。
日本はアジアで唯一のG7国――マハティール
・「かつてマレーシアがEAEC(東アジア経済会議)を提唱したとき,日本は支援することを渋った。私の考えでは,日本は太平洋戦争中の大東亜共栄圏を復活させたと非難されたくなかったからではないか。戦争に対して,日本人はとても過敏で永続的に罪の責任を負っている。常に戦争に対して謝罪をしている。EAECはこの大東亜共栄圏と帝国主義を思い起こさせるのだろう。中国と韓国も同じだが,中国はEAECを支援している。私は改めて日本と他国の人々に,EAECが日本の発案によるものではないことに注意を喚起したい。これはマレーシアの発案によるものだ。だから日本は戦時中の目標の再来だと罪の意識をもつことはない。日本はアジアのリーダーとしての役割を果たすことを怠るべきではない。我々はアジアで,日本しかG7のメンバーをもたない。日本が我々を擁護してくれなかったら誰がしてくれるというのか」(マハティール・モハマド『アジアから日本への伝言』毎日新聞社,2000年,135~136ページ)。
日本がアメリカが自立し,独自の立場で見解を示すべき時期――マハティール
・「日本には,帝国主義的な野望をもっていると非難されることを恐れる雰囲気がある。太平洋戦争中,日本は『大東亜共栄圏』構想を喧伝した。日本政府だけでなく,日本の人々はこの『大東亜共栄圏』構想を,手を変え品を変え再び持ち出そうとしているのではないかと疑念を差し挟まれることを些かでも避けようとしている。半世紀以上も経つが,日本人は太平洋戦争中の侵略行為を大いに罪に感じ,いまなお謝罪しなければならないと感じている。
この罪悪感に加え,戦勝者,とりわけ米国の感情を損ねないようにしなければという気持ちを日本は持ちつづけている。かつてのように攻撃的で軍国主義的でない日本の存在を,アジアの近隣諸国は歓迎している。日本が民主主義を受け入れ,天皇を神でなく,憲法上の君主としたことは,特に東アジアの人々を安心させた。日本が独自の立場に立って,米国に気遣いすることなく,自らの見解をはっきりと言明すべき時が訪れている」(マハティール・モハマド『アジアから日本への伝言』毎日新聞社,2000年,157~158ページ)。
EAECはちがった形で成功した,中国・韓国は最初から賛成――マハティール
・「最後に,1990年12月に提案した東アジア経済圏構想(EAEC)に関しては,紆余曲折はあったが,わたしは違った形で成功を収めたと考えている。『ASEANプラス3』がそれだ。このまとまりは,わたしが1990年当初掲げた『東アジア経済グループ(EAEG)』の範囲に等しい。また,その役割も,東アジア諸国のゆるやかなフォーラムである点で『ASEANプラス3』と同様である。このまとまりの中で参加国の共通の課題に取り組み,国際社会の中での地位を確立しようというのが構想の中味であった。中国と韓国は,当初からこの構想に賛成の立場を表明したが,日本のように米国の圧力を懸念して反対した国もあった」(マハティール・ビン・モハマド『日本人よ。成功の原点に戻れ』PHP,2004年,11~12ページ)。
近隣が豊かでこそ,マレーシアも豊かになる――マハティール
・「マレーシアは,近隣諸国を豊かにすることが,自国にとっても大事なことであると確信しています。けっして,貧しい国を置いてきぼりにしてはなりません。
近隣諸国がまずしければ,多くの問題が自分の国にふりかかってきます。貧しい国から難民がどっと入ってくれば一大事ですが,近隣諸国が豊かになれば,自国製品を輸出することもできる。だから,マレーシアは,近隣諸国を富ます政策を積極的にとりいれているのです」(マハティール・モハマド『立ち上がれ日本人』新潮新書,2003年,22ページ)。
なぜアジアの貧困克服の努力に力を貸さないのか――マハティール
・「ASEANに中国と日本,韓国を加えた,私がかつて提案した『東アジア経済グループ(EAEG,後の東アジア経済協議体=EAEC)もまた経済的なつながりであり,やがて東アジアに平和をもたらすでしょう。域内諸国にとって一番大事なことは平和であり,これは世界にとっても同様です。
EAECに反対する気持ちが,私にはわかりません。なぜ域内の国々だけが,貧しいままとどまらねばならないのでしょうか。まさしく理解に苦しむところです」(マハティール・モハマド『立ち上がれ日本人』新潮新書,2003年,85ページ)。
隣人を富ませる「啓蒙された自己利益」――マハティール
・「マレーシアの将来の発展を真剣に考え抜いた際に到達した結論が『隣人を富ませよ』という政策だった。これは,隣人を富ませることによって自国が富むという,両者にとって得となる政策である。われわれには産業がなかった。産業化に必要な技術力も,資金も,知識も,経営力もなかった。そこでわれわれは外資の導入を促進した。われわれは日本企業を誘致し,日本企業はマレーシアに職をもたらした。マレーシア人が雇用され,給料を受けるようになると,購買力が生まれ,結果として日本製品が売れるようになる。つまり,日本が,マレーシアの工業化を促進すると,マレーシアを豊かにし,廻りまわって日本が得をすることにつながるのである。
逆に,貧困国は,周辺の国に問題を撒き散らす傾向が強い。貧困国において職を得られない国民は,経済移民として周辺の先進国へ向かい,移動先の社会でさまざまな摩擦を引き起こす。よって,先進国が貧困国の繁栄に協力することは,廻りまわって自国の問題の軽減に役立つのである。他国の利益になることを行って,結果として自国の利益になる行いを,われわれは『啓蒙された自己利益』と呼ぶ」(マハティール・ビン・モハマド『日本人よ。成功の原点に戻れ』PHP,2004年,45ページ)。
APECはアジア通貨危機で何の役にもたたなかった――マハティール
・「(99年)北京に滞在中,両国の政財界のリーダーを集めた『第3回マレーシア・中国フォーラム』で東アジア経済会議(EAEC)の創設を再び提唱した。アジア独自の協議体があったなら,アジア通貨危機での投機筋の急襲に対処できたと痛感するからである」「米国の主導するアジア太平洋経済協力会議(APEC)は東アジア経済を支配している。しかし,APECはアジアの諸国が経済・通貨危機から抜け出す手助けもせず,その力もなかった。その代わりに先進国と発展途上国を加えたG22に責任を転嫁した。APECはアジア市場をできるだけ早期に開放することだけに焦点をあてている。そしてその恩恵を享受するのは誰なのか自明の理である」(マハティール・モハマド『アジアから日本への伝言』毎日新聞社,2000年,82~83ページ)。
繁栄する国だけが,自国製品の買い手となりうる――マハティール
・「米国はEAECに反対してきた。しかし,アジアは初志を貫徹しなければならない。アジアはEAECが東アジアだけでなく世界にとっても重要であることを証明しなければならない。
アジアは,世界を支配するという見地から考えてはならない。EAECは世界を繁栄させるというメッセージを説かねばならない。アジアは他を貧しくして豊かになることはできない。繁栄した豊かな世界だけが,われわれの生産したものを購入できるのだ」(マハティール・モハマド『アジアから日本への伝言』毎日新聞社,2000年,93ページ)。
APECが追求する市場開放はアジアの脅威ともなる――マハティール
・「マレーシアのビジョン2020は,ほかの多くの国々による長期ビジョンの策定に影響を与えた。東南アジア諸国連合(ASEAN)も,ASEAN自由貿易協定(AFTA)を目さすASEAN版『ビジョン2020』を採用した。ただ残念なことにアジア太平洋経済協力会議(APEC)のメンバーがASEANの地域連帯を損なってしまった。ASEAN各国はAPECのメンバーとして独立した立場をもち,APECへの関与はASEANへの関与より尊重されるようになった。世界で最も強く豊かな国が加盟し,世界のトップリーダーが代表しているAPECの方が魅力的なのかもしれない。
APECの基本的な利益は,加盟国の市場開放であり,中国や韓国,東南アジア諸国の市場の潜在力は非常に大きい。しかし,東南アジアや韓国は,市場開放は深刻な脅威をもたらすことも今回の危機で知った」(マハティール・モハマド『アジアから日本への伝言』毎日新聞社,2000年,117~118ページ)。
アメリカ同様アジアの自由化を最優先する小泉発言
「Q 総理は以前,ASEAN諸国の文化,宗教,伝統はそれぞれに異なっており,民主主義の形態にも同様の違いがあるとおっしゃっています。そのように文化や伝統が異なるASEAN諸国を,実際に一つに結びつけるものは何でしょうか。
A 最も大きな要素は,市場経済と商品の自由な流通,すなわち貿易です。ASEAN諸国の投資環境は改善されつつあります。そのことが政治体制の変化にもつながっており,今後もその傾向は続くでしょう。また,それは財界のリーダーたちの安心感を高めることにもつながります」(〔インタビュー〕カンボジア・デイリースタッフ『ASEANの首脳は語る』たちばな出版,2003年,26ページ,小泉純一郎「共通の脅威と闘うための協力」)。
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西側諸国やIMFによる圧力は植民地政策の延長――マハティール
・「植民地の終焉で小型砲艦はアジアから姿を消しましたが,経済的・政治的な圧力は現在も威力を発揮しています。西側諸国が私たちにとって大きな脅威であることに変わりはないのです」(マハティール・モハマド『立ち上がれ日本人』新潮新書,2003年,35ページ)。「(通貨危機の直後)行政機関は国際機関の支配下におかれました。そしてその国際機関はといえば,豊かな国々の論理に支配されたものです。これではまるで植民地政策の繰り返しではありませんか。かつて西側諸国が『自由貿易』のために小型砲艦を差し向けたように,国際機関が開国を迫っているようなものと言えます」(マハティール・モハマド『立ち上がれ日本人』新潮新書,2003年,37~38ページ)。
植民地の独立以後も,世界では西側による一方的な支配がつづいている――マハティール
・「彼らはアジアやアフリカの多くの国々を植民地にして,富を根こそぎ奪い取っていきました。それらの国が独立してからも,大所高所から『こうやるべきだ』『ああやるべきだ』とあれこれ指南してくれたものの,全ては間違った処方でした」「前世紀までに植民地主義とアパルトヘイトは一掃されましたが,世界ではまだ西側による一方的な支配が続いています」(マハティール・モハマド『立ち上がれ日本人』新潮新書,2003年,132ページ)。
オーストラリアはアメリカと連携してアジアで殿様顔をする――マハティール
・「インドネシアからの東ティモールの分離で最も利を得るのは豪州だ。豪州軍が真っ先にティモール島に進駐したのは驚くことではない。東ティモールに対する豪州の防衛は永久的なものになるかもしれず,豪州はその用意があるようだ。東ティモールは豪州のベトナムになる可能性がある。
すでに豪州はアジアの警察官として,米国の代理人となることを口にし始めた。これはまったく傲慢である。オーストラリア人は自分たちはアジア人であるというが,アジアに対して殿様顔をすることしか考えていない。これゆえにマレーシアが東アジア経済会議(EAEC)を提案したとき,アジア諸国は豪州がメンバーとなることを歓迎しなかった。
このため豪州は米国に働きかけ,アジア太平洋経済協力会議(APEC)をつくってEAEGを葬った」(マハティール・モハマド『アジアから日本への伝言』毎日新聞社,2000年,88~89ページ)。
独立後もイギリスによるマレーシアへの経済支配が――マハティール
・「マレーシアが英植民地統治を受けていたころ,英政府はマレーシアなどの植民地に対し『帝国特恵』と呼ばれる政策を実行した。これは,マレーシアなど英国植民地は英国企業の製品しか輸入してはいけないという政策で,1957年の独立後もマレーシアはこれを継続した。1968年になって初めて,マレーシア政府は日本企業と契約を結んだ」(マハティール・モハマド『アジアから日本への伝言』毎日新聞社,2000年,162ページ)。
一国主義でない「アジア的寛容性」のリーダーを日本は自覚すべし――マハティール
・「地球環境問題やエネルギー,食糧問題は,国境を越えた新しい人類共通の問題であるが,人間が協力しあってこの難関を突破できるか否か,最後の試練が待ち受けている。このハードルは,従来の自己中心的な,一国主義では越えられない。力による解決では越えられない。人間が,互いの民族性,文化,宗教,価値観を認めあい,互いに干渉せずに,助けあって暮らすこと,つまり,『アジア的寛容性』をもたなければ,越えられないのである。そして,その『アジア的寛容性』をリードできるのは,ほかならぬ日本であることを,改めて日本人が自覚すべきである」(マハティール・ビン・モハマド『日本人よ。成功の原点に戻れ』PHP,2004年,212~213ページ,西欧的価値観への拒否もある)。
帝国主義を抑止する段階への世界情勢の前進
・「歴史はすでに,帝国主義が資本主義の『最後の段階』ではなかったことを明らかにした。現実世界は,帝国主義を抑止し,独占資本主義の侵略性を抑止する平等・互恵の民主的な国際秩序づくりの段階へと足をすすめている。内政・外交においてルールある資本主義の発展を求める取り組みは,その歴史をさらに前へ進める意味をもつものとなる」(石川康宏「世界情勢の発展と『帝国主義』――レーニンの時代と現代」(『経済』2004年6月号)177ページ)。
西側諸国を一括することの問題点(マハティール批判としても)
・戦後の途上国支配の主体として,アメリカを頂点とした「西側同盟」を一括することの問題点に注意する必要がある。途上国に対して「支配」的な地位にある国についても,それを強制をつうじて行うのか,独立国同士の合意にもとづいて行うのかの相違がある。後者が戦前型の「古い植民地主義」を排除する主体として立ち現れていること,あるいはヨーロッパ資本主義における新しい「脱皮」が行われていることに注意すべし。
EUの途上国支援はテロ対策・世界の安定化対策
・EUの対外戦略。「9月11日の事件は,世界に(貧しい国々と豊かな国々のあいだに・福島)橋を架ける必要があることを示した」(ファビウス前蔵相,福島清彦『ヨーロッパ型資本主義』講談社現代新書,2002年)。これは日本のFTAあるいは「東アジア自由経済圏」構想にはまったく別のもの。EUと加盟国の途上国援助額はOECD全体の55.3%(長部重康・田中友義編著『ヨーロッパ対外政策の焦点――EU通商戦略の新展開』ジェトロ,2000年,76~78ページ)。
侵略への反省なしにアジアとの友好はありえない
・「日本は,過去において,中国と東南アジアに侵略戦争をおこないました。台湾と朝鮮にたいして,植民地支配をおこないました。
日本が明治維新で国際政治の舞台に登場してから,いままでに約130年が経過していますが,この130年間に,アジアの国のなかで,アジアの隣国を植民地にしたとか,アジアの隣国に対して領土拡大の侵略戦争で攻め込んだとかいう歴史をもつ国は,日本以外にはありません。植民地支配と侵略戦争の歴史をもっているのは,アジアの諸民族のなかでは,日本だけなのです。
しかもその歴史は,台湾にたいする植民地支配が50年,朝鮮にたいする植民地支配は35年,中国に対する侵略戦争は,いわゆる満州事変(1931年)から数えても足かけ15年という長期にわたるものでした。ヒトラー・ドイツのヨーロッパ侵略は,たいへん長期にわたるものだったように思われがちですが,1939年9月のポーランド侵略から始まって1945年5月のベルリンでのナチス崩壊まで,わずか6年間の戦争でした。アジアにたいする日本の植民地支配と侵略戦争は,ヒトラー・ドイツがやったヨーロッパ侵略の戦争とくらべても,歴史の規模が違う,きわめて重大で深刻なものでした。そしてそれがアジアにひきおこした惨害は,言葉にはつくしがたいものがありました。この戦争の犠牲者は,アジアの各国政府・公的機関の公式の発表を合計しますと,2000万人をこえます。また,日本人の被害者は,戦死者,前線での犠牲者,空襲の死者をあわせて,310万人にのぼりました(別表)。
日本の憲法は,前文に『政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こるようなことのないやうにすることを決意し』と,平和と民主主義の政治を誓っていますが,過去の侵略戦争への反省をぬきにしては,アジア諸国との友好はありえないということを,日本国民として,肝に銘ずる必要があると思います」(不破哲三『歴史教科書と日本の戦争』小学館,2002年,21~22ページ)。
戦争責任を政府自身がはっきり認めるドイツと日本との違い
・「私はその点で,ヨーロッパにおいてドイツがとっている態度には,日本として本当に注目する値打ちがあると思います。
ドイツは,第二次世界大戦中の日本の同盟国で,ヨーロッパで大規模な侵略戦争をおこなった国であり,この点では,日本と共通する国際的な立場にある国です。ところが,自国がおこなった過去の侵略戦争にたいするドイツ政府の態度は,日本の政府とはまったく違っています。
ドイツでは,世界大戦の歴史にかかわる節目ごとに,大統領や首相など,ドイツ政府の責任ある人々が,ナチス・ドイツのおこなった犯罪的な戦争を告発し,その歴史の記憶をしっかり握って次の世代に引き継ぐこと,それが現代に生きる自分たちの責任だということを,繰り返し訴えています。
1995年,世界大戦終結50周年の記念式典がおこなわれたとき(5月8日),ヘルツォーク大統領(当時)は,『ドイツは,かつて存在したことのない最もおそろしい戦争を開始した』といって,その戦争を告発し,ドイツがこの戦争によってヨーロッパにもたらした惨害の大きさ,深刻さを生々しく描き出しました。
『ヨーロッパは,大西洋からウラル,北極圏から地中海沿岸まで廃墟となった。ドイツも含め,あらゆる欧州諸国の何百万人という人々が死亡し,たおれ,爆撃のなかでくだかれ,収容所のなかで飢え死にし,逃走の途中で凍死した。そしてユダヤ人,ロマたち(ジンティとロマ),ポーランド人,ロシア人,チェコ人,スロバキア人をはじめとする何百万という人々が,人間の頭にかつて浮かんだことのないような最大の絶滅行動(大虐殺)の犠牲となった』
そして大統領は,この惨害にたいしてドイツが責任を負うべきことを,きっぱりと断言します。
『多くの諸国民の罪のない人々にたいして大虐殺(ホロコースト)をおこなったのはドイツ人である。ドイツ人は今日でも,むしろ50年前よりももっとはっきりと,自分たちの当時の政府や自分たちの父親の多くが,大虐殺に責任があり,ヨーロッパの諸国民に破滅をもたらしたことを知っている。ドイツ人の多くはそのことに苦しんでいる。そしてまた自分自身の苦しみも忘れていない』
戦争が終わって50年たったときに,国の大統領が,こういうことをドイツ国民の前で訴え,"戦争はどんな戦争も悲惨なものだ"という一般論に逃げないで,ドイツの戦争責任をはっきり示すのです。
つづいて2000年には,こういうことがありました。ナチス・ドイツによって強制労働に動員され被害を受けた人びとに補償をする,そのための約5400億円の基金が設けられました。基金の名称は『記憶・責任・未来』とされました。
この基金の設立法案がドイツ議会に提案されたとき,シュレーダー首相が提案演説をおこないました(4月14日)。首相は,強制労働の犠牲者にたいして財政上の支援をすることがドイツの歴史的責務であることを訴えると同時に,『しかし,財政上のことだけが問題なのではない。なによりも,過去の犯罪の繰り返しをこれからのあらゆる時代を通じて阻止する,その目的でこの歴史の記憶をもちつづけることが重要なのだ』と語りました。
この法律の前文には,『ドイツ議会は,ナチズムの犠牲者にたいして政治的・道徳的責任があることを認める。ドイツ議会は,これらの人びとにくわえられた不正の記憶を将来の世代に伝える』と書きこまれています。この歴史と責任を将来にわたって忘れてはならないという前文をもって,この基金の法律が設けられたのです。
もう一つつけくわえますと,ドイツの刑法には,1994年12月に,次のような条項が追加されました。
『ナチズムの支配下でおこなわれた民族虐殺を,公の秩序を乱す形で否認したり,故意に過小評価したものは,5年以下の禁固刑または罰金刑に処す』
ヨーロッパの諸国民にたいしてナチス・ドイツが犯した侵略戦争と民族虐殺の犯罪について,ナチスが崩壊して50数年たった現在の瞬間においても,ドイツ政府はこれだけきびしい態度をとっているのです。だからこそ,ドイツは,いろいろな問題があっても,戦後のヨーロッパで信頼ある地位を占めることができているのです」(不破哲三『歴史教科書と日本の戦争』小学館,2002年,26~29ページ)。
49年にアメリカは日本を対ソ軍事防衛戦に組みこむ
・〔アメリカの冷戦戦略に組み入れられる〕「当時,アメリカの世界戦略は,従来のヨーロッパ第一主義から,アジアに重点を移しつつあった。ソ連の原爆実験(1949年9月)による核独占の破綻,中華人民共和国成立(同年10月)という新情勢に対応して立案された49年12月のNSC-48(『アジアに関するアメリカの立場』)は,共産主義との対立の場をアジアにまで拡大した。まず,ホー・チ・ミンひきいる解放軍がフランス植民地軍を追いつめていたインドシナで封じこめ政策を採用し,日本もまたフィリピン・琉球とともに対ソ軍事戦略上の防衛戦(同時に攻撃の第一線)に組みこまれた」(藤原彰・荒川章二・林博史『新版・日本現代史』大月書店,1995年,67ページ)。
対日講和における米軍の要請と,日本財界からの従属の表明
・「このような,世界のあらゆる地域への武力介入(熱戦)をも辞さないという冷戦の新段階・世界的規模への拡大と並行して,対日政策をめぐるアメリカ政府内の妥協点も模索されていた。その大まかな妥協策が見出されたのは,朝鮮戦争開始直前の6月である。1950年5月,対日講和担当の国務省顧問に任命されたダレスは,翌6月,韓国・日本訪問に旅立つが,ダレスを追うようにジョンソン国防長官,ブラッドレー統合参謀本部議長も来日した。そして,東京でマッカーサー,国務・国防両省首脳の折衝がおこなわれたのである。ここでの妥協案は,早期講和で一致する代償として,日本全土におけるアメリカ駐留軍の無制限の行動の自由の保障,憲法の存在にもかかわらず,侵略的攻撃のさい,日本が自衛の権利をもつことを承認するという,軍の主張を大幅にとりいれたものであった。講和後のアメリカ軍駐留に関しては,のちに日米安保条約として具体化する日米二国間協定締結が想定されており,同協定は日本側の自発的意志にもとづく形で結ぶこととされた。これはすでに同年5月,経済使節団団長として訪米した池田蔵相に託した吉田首相のアメリカ政府への秘密メッセージを反映したものであった。この提案は前年49年12月,外務省がまとめた『アメリカ軍駐留は短期に,なるべく本土外に』という希望条件を踏みこえたものであった。日本政府は,経済復興・貿易再開のため早期講和をのぞむ財界の期待を背景に,講和を促進する手段として,講和後の日本の安全について日本側からアメリカ軍の駐留を要請してもよいという条件を示していたのである。それは,アメリカの軍事的世界戦略に日本を組み入れ,中国,ソ連そして東南アジアの民族解放闘争に日本を対立させる道の選択であった」(藤原彰・荒川章二・林博史『新版・日本現代史』大月書店,1995年,67~68ページ)。
全面講和を否定する日本政府
・「国際的な対日講和促進の動きの中で,日本国内での『全面講和か,単独講和か』の議論ももりあがっていった。
日本政府は,形式的にはソ連・中国をふくむ全面講和を排除していなかったが,実質的には,アメリカの冷戦政策,封じこめ政策のアジアへの拡大にそって中ソの排除を辞さずに講和条約を締結する単独講和(多数講和)を選択していた。1950年5月,吉田首相は,全面講和を主張する南原繁東大総長を『曲学阿世の徒』であると批判して物議をかもし,6月1日には単独講和ののち,順次講和を拡大するという政府声明を公表した。この単独講和の立場は,軍事基地提供や中国侵略にたいする戦争責任や朝鮮等に対する植民地支配を不問に付そうとする日本政府の姿勢と密接に結びついていた」(藤原彰・荒川章二・林博史『新版・日本現代史』大月書店,1995年,68~69ページ)。
朝鮮戦争への積極的協力,死者52名
・(朝鮮戦争に際して)「日本政府は,この戦争でアメリカ軍に積極的に協力した。義勇軍の派遣こそ実現しなかったが,掃海作戦への協力,人員・物資の輸送・荷役,軍需物資の生産・兵器の修理など戦争遂行に欠かせぬ役割を果たした(死者52人,負傷者349人)。また,在日アメリカ軍基地の重要性は,空軍がすべての日本の基地から飛びたったという一事に,端的に示されていた」(藤原彰・荒川章二・林博史『新版・日本現代史』大月書店,1995年,78ページ)。
対日講和を軍事戦略問題として考えたアメリカ,各国の不満・不安
・「この両者の対立は,1950年9月8日,国務・国防両長官の共同覚書という形で,妥協をみる。覚書では,条約発効期限については軍部の意見をいれ,その他,『米国に対し,日本のどこでも,長期間,米国が必要と思う程度に,軍隊を維持する権利を与え』る,琉球諸島にたいするアメリカの独占的な戦略上の支配確保,日本政府の要請でアメリカ駐留軍が国内暴動・騒乱の鎮圧行動にでるのを禁止しない,日本が早期に自国の防衛の一部負担をひきうける準備にはいることなどが合意・承認された(石丸和人『戦後日本外交史Ⅰ』)。アメリカにとって講和条約交渉の核心は,軍事戦略上の問題だったのである。そして,ここに焦点が絞られたことは,単独講和やむなしの判断に立ったこと,および日本占領の最大の目的であった非軍事化が完全にほうむられ,再軍備拡大の方向を選択したことを意味した。
この合意をへて,9月11日,国務省は9章26条からなる対日平和条約草案をまとめ,ついで極東委員会構成諸国に対日講和7原則を送付した。条約参加国の構成・日本の再軍備・アメリカ駐留軍の継続等に関するアメリカ政府の態度にたいし,ソ連・中国政府の反対は必至であった。ほかに,オーストラリア,ニュージーランド,フィリピンが将来の日本の軍事的脅威について懸念を示し,7原則第6項の賠償の放棄に反対した。これら諸国をダレスは精力的に訪問し,三国にたいしアメリカとの相互安全保障条約締結を約束することで日本再軍備への不安を解いた。朝鮮戦争への中国参戦で劣勢に立たされたアメリカは,日本軍国主義復活への各国の警戒心を利用して,太平洋・アジア地域の反共軍事同盟強化をはかったのである。賠償については,ゲリラの蜂起に直面していたフィリピン政府などの強硬姿勢で譲歩せざるをえず,『原則として賠償を支払うべき』,に転換していく」(藤原彰・荒川章二・林博史『新版・日本現代史』大月書店,1995年,81~82ページ)。
日本の再軍備をすすめるアメリカ,同意し感謝する昭和天皇
・「ところで,各国との講和交渉がすすめられていたとき,アメリカ軍部内では日米二か国間の安全保障協定の検討が開始されており,1950年10月27日には,第一次草案がまとめられた。そこでは,アメリカ駐留軍が日本を侵略から守ること,有事のさいにアメリカ軍指揮官は無制限の権限をもつこと,再軍備禁止の効力停止,日本軍創設のスケジュールはアメリカ政府が決定権をもつこと,有事のさい,創設された日本軍はアメリカ軍指揮下にはいること,軍需生産の再開などが主張されている。のちの安保条約と行政協定を一本にしたようなこの草案は改定をかさね,51年2月,日本側に提示された。
他方,1950年8月,日本政府は,朝鮮で火をふいた『二つの世界の実力的対決』の中で中立はありえず,中立論・全面講和論は『実戦における敵前逃亡』と排撃し,7原則がだされた9月から平和・安保両条約準備作業を開始した。そして,51年1月,平和条約に関しては,『まず米国一国とだけでも』締結する方針を打ち出す。また,安保問題では,日本の再武装の門を開いておくことに反対すべき理由はないとしながらも『内外にたいする政治的考慮』やアメリカから武器援助・経済援助を引きだす必要から,『当面の問題として,再軍備は,日本にとって不可能』という結論をだした。財界は,先の『講和条約に関する基本的要望』で,早期講和(単独講和やむなし),アメリカ軍による日本の防衛などを期待していた。
1951年1,2月の吉田・ダレス会談は日米のこのような作業を前提にはじまった。最大の争点は安保条約と再軍備問題である。ダレスは,『日本が相応の義務を引き受けることができるようになるまで,米国の求めるのは,義務よりむしろ権利だ』という立場から,再軍備,アメリカ安保協定草案の承認を迫った。『米国は,この問題(平和条約・安保協定)で主導権と責任といったものを持っている。日本政府は協議を受けてはいるが,この協議は米国政府の善意と表敬から出たものであり,日本の権利ではない』というダレスの言葉は,当時の日米の政治的力関係をはっきりと示している(『戦後日本外交史Ⅰ』)。結局,吉田は,5万人の保安隊創設と国家治安省の設置を認める文書をダレスに提出(極秘にするよう要求)し,安保協定については,国民の批判をおそれた日本政府の主張をいれ,条約本文は簡単にし,日本の軍事力にたいしアメリカ軍司令官が指揮権をもつ問題などは国会の批准を要しない行政協定に移すこととなった。2月9日,平和条約・安保協定・行政協定要綱の事務レベルの合意が成立,翌10日,ダレスの訪問をうけた天皇はアメリカ軍駐留を含む協定に同意し『合衆国にたいする心からの感謝の意を述べた』(『朝日ジャーナル』1982年10月8日)」(藤原彰・荒川章二・林博史『新版・日本現代史』大月書店,1995年,82~83ページ)。
反共・反民族解放の姿勢を明確にしたサ条約・安保
・「1951年9月4日,サンフランシスコ対日講和会議が開かれた。日本全権団は当初共産党を除く全党一致をめざしたが,社会党が参加を拒否し,吉田茂,池田勇人,苫米地義三(国民民主党――50年4月,民主党野党派・国民協同党合同)ら6人で全権団を構成した。会議の招請状は日本をふくむ55か国にだされたが,ユーゴスラビアのほか,ビルマ(現ミャンマー)が賠償問題での不満から,非同盟の立場を明確にしつつあったインドが領土問題の処理・安保条約締結・中国代表権問題への疑問を理由に欠席,参加は52か国となった。中国は先の米英妥協の結果,招請もされず,会議は日本の最大の戦争相手であり,最大の被害をあたえた国を除外することによって『真の平和条約』たる資格を失う(周恩来声明)ことになった。朝鮮については,韓国の国際的認知をもくろむアメリカは韓国招請を主張したが,朝鮮を連合国と認めないイギリスの意向がとおり,会議から除外された。日本政府も当初韓国招請に反対したが,その理由は,100万人の在日朝鮮人の『大部分は共産主義者』であり,彼らに『平和条約による財産条項の恩恵』をあたえるべきでないという点にあった(51年4月吉田・ダレス第二次交渉)。吉田内閣の反共主義・民族差別観が反対論の背景にあったのである。
中国・朝鮮への侵略という,日本の戦争責任のもっとも根本的な問題が不問に付された講和条約であり,ビルマ・インドの不参加も加えれば,アジア諸民族にたいする日本の戦争責任を棚上げにした『平和条約』であった。この点は軍備制限・民主化条項の欠如というこの条約の異例な性格と一体の関係にあった。
こうした事情から,8月に会議参加を決めたソ連は草案を『平和条約ではなくて極東で新しい戦争を準備する条約である』と批判し,条約修正案を提示したが,アメリカのアチソン議長に却下された。結局,9月8日の調印式には,ソ連,ポーランド,チェコスロバキアの三国は欠席し,残る49か国が前文と17か条から成る講和条約に調印した。西側諸国だけの調印式になり,ソ連・中国・朝鮮半島諸国との国交回復や東南アジア諸国との賠償問題は以後の政治課題として残されたのである。
同じ日の夜,日本の国会にも全貌が示されず秘密裡に交渉がすすめられてきた日米安保条約の調印がおこなわれた」「1951年9月8日,この日は,連合国との戦争状態の終結を宣言し日本が先進資本主義国の仲間入りをする前提条件をつくった日であるとともに,主権を回復したはずの『独立』日本の新たな政治的・軍事的対米従属の開始の日ともなった。さらにアメリカを中心とする東南アジアの帝国主義体制のもとで,朝鮮戦争を契機に進展した中国・ソ連,そしてアジアの民族解放運動に敵対する方向性をいっそう明確にした日でもあった」(藤原彰・荒川章二・林博史『新版・日本現代史』大月書店,1995年,87~89ページ)。
米軍による沖縄支配の延長
・「また米軍の沖縄支配は,敗戦による軍事占領から,講和条約第3条にもとづく新たな占領統治に移行した。沖縄の人々は講和条約発効日の翌年4月28日を屈辱の日として記憶することになる」(藤原彰・荒川章二・林博史『新版・日本現代史』大月書店,1995年,89ページ)。
アジアへの経済支配とアメリカへの発言力拡大をねらった岸信介の「アジア開発基金」構想
・「1957年2月,石橋内閣の副総理格であり,臨時首相代理をつとめた岸信介が新内閣を組閣した。東条英機と結んで侵略戦争を推進し,太平洋戦争開戦時の東条内閣の商工大臣であり,A級戦犯容疑者だった人物が,戦後わずか12年にして首相となったのである。岸は改憲――再軍備論者であり強烈な反共主義者だった。
岸内閣はまず再軍備強化にとりくんだ。……」
「1957年5月,岸は東南アジア6か国を訪問し,『アジア開発基金』構想を打診した。実現にはいたらなかったこの構想は,中ソの経済援助に対抗して,アメリカの資金で日本が東南アジアを援助する計画だった。それは高度経済成長にはいった日本資本主義の東南アジアへの経済進出の意欲を示すとともに,東南アジアをバックにしてアメリカへの発言権を強化することをねらいとしていた。それはアジアの冷戦を増幅させる政策だった」(藤原彰・荒川章二・林博史『新版・日本現代史』大月書店,1995年,124~125ページ)。
正式の賠償はビルマ・フィリピン・インドネシア・南ベトナムだけ,個人補償はなし
・〔アジア諸国への賠償問題〕「アジア諸国との国交回復は独立後も容易にはすすまなかった。賠償問題の解決が必要だったからである。
サンフランシスコ条約の賠償規定にもとづいて賠償請求の意思表示をしたのは6か国である。そのうちラオスとカンボジアは後に請求権を放棄し,日本はその見返りにラオスと58年,カンボジアと59年に経済技術協力協定を結び,それぞれ10億円と15億円を無償供与した。ビルマとは54年11月に賠償2億ドルと経済協力費(借款)5000万ドルで,フィリピンとは56年5月に賠償5億5000万ドル,経済協力2億5000万ドルで妥結し,賠償協定が締結された。
インドネシアとベトナムとの交渉は岸内閣にもちこされた。1958年1月,インドネシアと賠償4億ドル(対日貿易債務を差し引いた2億2300万ドルが純賠償)と借款4億ドルの賠償協定を結んだ。これは非同盟運動の中心だったインドネシアとアメリカとの関係修復という性格をもち,さらに賠償金をめぐる利権がスカルノ政権の腐敗を助長することになった。
59年5月には南ベトナムと賠償3900万ドル,借款750万ドルで賠償協定を締結した。日本軍の占領下で100万~200万人ともいわれる人々を餓死させたのは北ベトナムであるのに,南ベトナム政府にのみ賠償をおこなった。これは南北統一に合意したジュネーブ協定を否定し分離の固定化をはかるアメリカの政策に応じたものであり,南ベトナム傀儡政権への露骨なてこ入れだった。
なお賠償ではないが,賠償に準じた経済協力がおこなわれた。タイには1955年に特別円協定を結び,54億円を支払い,96億円の借款を供与することにした。
サンフランシスコ条約では,賠償は日本の『存立可能な経済を維持』できる範囲で,しかも『役務賠償』としておこなうことを規定していた。賠償額を低くおさえ,かつ日本経済のアジア進出に道を開くうえで好都合の規定だった。『賠償から商売へ』がはやり文句になったように,財界は輸出市場の開拓や豊富な天然資源の確保など経済進出のために賠償を利用しようとした。事実,実際の役務賠償は,水力発電事業,鉄道・道路・通信網,各種工場の建設などが大きな比重を占めた。日本の大企業が独占的にこれらを受注し,10~20年という賠償支払い期間の間,安定的な海外市場を得ることができた。そしてそれを足場にいっそうの市場を拡大することができた。賠償金自体はそうした日本企業の手に落ちたのである。1950年代後半から賠償対象国の多くをふくむ東南アジアに対する日本の重工業製品の輸出は急増しており,高度成長と時期を同じくする賠償開始は日本の重工業化に重要な役割を果たしたといえる。
これらの賠償にあたって,日本政府も財界も自分たちの経済的利益になるという観点しかなく,侵略戦争であたえた被害をつぐなうという発想はほとんどなかった。戦争の犠牲者個人には何も渡らなかった。さらに岸内閣のときにはアメリカのアジア戦略にそったきわめて政治的な性格が強まった。しかも賠償金をめぐって相手国の高官と日本企業や政治家の間での疑惑が生まれた」(藤原彰・荒川章二・林博史『新版・日本現代史』大月書店,1995年,126~128ページ)。
問題を曖昧にする戦後50年国会決議
・「(「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」1995年6月9日衆議院本会議にて)一つだけ,韓国で『東亜日報』と並んで大きな発効部数を持っている『韓国日報』の社説を紹介しておく。
『過去の侵略行為に対する謝罪の文句も見当たらない。中味のない殻になっている。』『決議文を繰り返し読んでみても,心から反省し,謝罪しようとする真実さがまったく見えてこない。植民地支配をした国と侵略した国の国名すら明記されていない。』『世界の近代史にあった植民地支配の侵略行為に執着してこういう行為を犯したと逃げ口上でかわしている。』『一般論,すなわち西欧の諸大国を植民地支配の問題につい引きずり込んだ抱き合わせ作戦で,自国の責任を何とか薄めてみようとする魂胆が読み取れる。』」(荒井信一「戦後50年と戦争責任」(歴史学研究会編『戦後50年をどう見るか』青木書店,1995年),68~69ページ)。
脱植民地化の過程をもたない日本,サ条約も問わず,国籍条項の問題も
・〔脱植民地の不在〕「一つは日本の脱植民地の特異性という問題があると思う。つまり,第二次世界大戦後の戦後史の一つの特徴は,列国の植民地支配の崩壊ということにあるわけだが,これは多くの場合には,流血をともない,本国の側からしても非常に苦痛に満ちた形で脱植民地化がおこなわれていった。
この最も顕著な例は,フランスの場合であって,フランスは第一次インドシナ戦争,その後にアルジェリア戦争,そこでおびただしい犠牲を払って,やっとアルジェリアの独立を1962年に認めた。第一次インドシナ戦争が始まった時期から計算すると,戦後50年のうちの最初の15年,つまりほぼ3分の1がこの脱植民地化を阻止するための植民地戦争に費やされた。しかもこれは最後には本国社会を分裂させるような内政的危機にまで発展していくが,そういうプロセスを経て脱植民地化がおこなわれた。
オランダにしてもインドネシアの独立戦争があったし,あるいはイギリスの場合には平和的な権力移譲という形をとるわけだけれども,しかし1946年のインド海軍の反乱をきっかけとする独立運動のはげしい盛り上がりに直面して,はじめてインドに対する権力移譲を決意していくという形をとった。
ところが日本の場合には,脱植民地化の過程というのが,これは非常に誤解を招く言い方かもしれないけれども,極端にいえば存在しなかったとさえ言える。
その一つは,日本の植民地支配のあり方にかかっているわけで,確かに植民帝国というのは究極には軍事力に依拠するが,とくに日本の植民地支配の場合にはその度合いが非常に強かった。たとえば朝鮮の場合でいうと,朝鮮総督,この歴代総督は陸軍の軍人か,海軍の軍人であったということに象徴される。
さらにアジア太平洋戦争における日本の占領地域,これはいわば非公式の大日本帝国と言っていいだろうと思うが,これはまったくむき出しの軍事力によって支えられたと言って過言ではないだろう。
日本の植民地支配の崩壊の特徴というものは,日本の軍事力が崩壊する,つまりポツダム宣言を日本が受諾して,そしてポツダム宣言の中に『全日本国軍隊の無条件降伏』と書いてあるが,その全日本国軍隊の降伏と同時に,極端に言えば植民地支配が崩壊した,という形をとっていくわけである。
したがって,脱植民地化の過程は,欧米諸国の場合で言うと,さまざまな後遺症を本国社会の政治,文化,あるいは国民の意識の中に残していった。ある意味でいうと非常にトラウマティックな形で後遺症を残すわけだが,日本の場合にはそういうプロセスというものがほとんど存在しなかった。
最近の渡辺美智雄発言にいたるまでのような,かつての植民地支配者としての意識がほかの植民地支配国家と比べるとかなり強固に残って,そしてこれが戦後政治の中で一定のウェートを占めているという形になった」
「もう一つは,植民地支配の清算をすべき機会というのは,サンフランシスコ講和条約が1951年に調印されたのだが,ここでは領土権の放棄だけを規定している。たとえば台湾とか,朝鮮とかに対する一切の権利,請求権を放棄するということが規定されているだけである。
ところが同じ枢軸陣営であったイタリアと連合国との戦後の講和条約を比べてみると,もっと具体的に細かく植民地支配の清算ということが講和条約で規定されている」
「なぜそうなったかということだが,日本の植民地支配の最大の被害国である朝鮮半島の国々も,中国も,はじめから講和会議に招請されていない。いわばアジア不在の形で戦後処理の一つの要であるこの講和条約が結ばれたということがそのことに関連していようと思われる。
それから国籍条項の問題というのは,現在まで尾を引いている問題であるけれども,講和条約締結と同時に,法務省の民事局長通達で,従来に日本国籍を持っていた朝鮮,あるいは台湾の旧植民地の人々の国籍は失われるということを宣言する。そしてその後,さまざまな,たとえば教員の任用とか,公務員の任用とか,あるいは住宅金融公庫からお金を借りるとか,生活保護を受けるとか,そういうものについてすべて国籍条項をつけて,そして『在日』の人々をここから排除していくということも最近までおこなわれてきた(まだ未解決の問題もたくさんある)。
これも各国別に言っている暇はないので,ごく問題点だけ申し上げると,ほかの諸国の場合には,たとえば旧植民地の人々に独立の時に国籍を選択させるということをやる,あるいは植民地支配のいわば代償として,かつての植民地から独立した以後も市民権を認めるというふうなさまざまな手をうっているわけであるが,日本の場合にはそういう否定的なことしかやっていないということである」(荒井信一「戦後50年と戦争責任」(歴史学研究会編『戦後50年をどう見るか』青木書店,1995年),70~74ページ)。
軍事独裁政権の経済運営のための日韓条約
・「1961年5月16日の明け方,ソウル市内がとつじょ軍隊によって占領されました。朴正煕(パクチョンヒ)少将を中心とする軍部がクーデタを起こしたのでした。
そして全国に非常戒厳令がしかれ,共産主義に反対しないものはきびしくとりしまることや,腐敗した社会の一掃などを国民に訴えました。
朴政権は,経済をたてなおそうと第一次5ケ年計画を実施しましたが,思うように外国からの資金が集まらず,うまくいきませんでした。それまで韓国に多額の援助をしてきたアメリカが,不景気のため援助を削ったことが原因でした。
朴正煕は,1963年に選挙によって大統領に当選しますが,政権の運営はむずかしい状況にありました。そのため,日本との国交を正常化し,日本からの経済援助を追求しました。
1965年,日韓の国民の強い反対をおしきって日韓基本条約が結ばれ,日本は韓国に無償経済協力3億ドル,有償借款5億ドルをあたえるとしました。
これらの資金を使って,朴政権は輸出中心の経済のしくみをつくりあげました。高速道路が整備され,製鉄・石油精製などの大工場も建設されました。しかし,輸出の二割以上を占めていた繊維産業をささえていたのは,換気も十分ではない工場で働く低賃金の労働者でした」(三橋広夫『これならわかる韓国・朝鮮の歴史Q&A』大月書店,2002年,111~112ページ)。
ヒモつき賠償という4ケ国賠償の実態
・「よく知られているように,サンフランシスコ講和会議は1951年9月,対日無賠償を原則としたアメリカ・イギリス共同作成の条約草案をもとに,いっさいの審議・修正の認められない調印会議として開催された。連合国を構成する55カ国のうち,インド・ビルマ,ユーゴスラビアは招請されたが参加せず,ソ連,チェコスロバキア,ポーランドは参加したが調印しなかった。結局,参加52カ国のうち49カ国の調印をもって終了する。対日無倍賞を原則としたこと,米ソ対立が色濃く会議に投影されたことなどは,この会議が冷戦の産物であることを物語る。
しかし,不参加国や未調印国があったとはいえ,49カ国の調印が得られた背後には,戦争中に戦場となった東南アジアの新興独立国が反対にまわらなかったという事実がある。反対国がなかったわけではない。戦争中もっとも大きな被害をうけたフィリピンなどは,対日無倍賞の方針に強硬に反対した。その結果アメリカは,当初の無倍賞方針を転換し,『連合国が個別に賠償を希望する時は,その賠償に応じなければならない』旨の条項を第14条にもりこむことで,東南アジア諸国の調印を得ることができたのである。
条約調印後,東南アジアの国々のなかで,日本に賠償交渉をもとめてきたのはビルマ,フィリピン,インドネシア,ベトナムの4カ国であった。これらの国々は54年11月のビルマとの交渉妥結を手はじめに,つぎつぎと交渉を妥結していく(図参照)。
ここで問題にしたいのは,これらの国々が日本と交わした賠償交渉の内容である。賠償供与は無原則に実施されたわけではなく,締結された協定の附属文書にかかげられた事業計画を実現する線でおこなわれたのであった。
1948年初頭から中国や東南アジア諸国におこなわれた中間賠償を別にすれば最初に本格的賠償が実施されたビルマの場合,その事業計画には,奥地のバルーチャン発電所の建設と首都ラングーンまでの送電網の建設,これに付随する鉄道網,港湾施設の復旧計画がもりこまれていた。そして賠償の支払いは現金ではなく,機械やプラント類の資本財で支払われた(『日本の賠償』)。
こうした計画を立案するには,当然,それを専門とする土木技術コンサルタントの支援が不可欠となる。それも,日本政府や日本企業と交渉ができるコンサルタント会社であることが望ましい。こうした経過が久保田の登場を必然化した。久保田の東南アジアでの活躍は,賠償の実施と分かちがたく結びついていたのである。
久保田がビルマを訪問したのは53年12月。彼はさっそく現地調査をおこない,この地域の開発に必要な基礎調査を完了した。さらにこの事業を鹿島建設がおこなうようにとりはからい,これを日本の賠償でおこなうように日本政府に働きかけている。彼はときの総理大臣吉田茂に直訴してまで,この事業の実現に奔走する。
彼はその後,南ベトナム政府と組んでダニム発電所も手がけるが,これも賠償がらみの事業であった。この工事はあきらかにアメリカ軍と南ベトナム側を利する工事になるわけで,ベトナムの解放勢力から見れば敵対行為にほかならず,いくたびか彼らの攻撃をうけたという。賠償と大規模工事,これを結びつける土木技術コンサルタントと日本の土木会社,この構図をつなぐ人物,久保田の行動がクローズアップされてくるのである。それはしばしば,東西冷戦の狭間を西側陣営に立って行動することを意味した」(小林英夫『戦後アジアと日本企業』岩波新書,2001年,38~41ページ)。
賠償をテコとした日本企業の東南アジア進出
・〔東南アジア市場への進出〕「ともあれ,東南アジア市場に対し,賠償によって足がかりをつくり,借款でその基盤を整備した日本企業は,その後中国市場の低迷をしりめにここへの輸出を急速に増大させていった。そして,何より特徴的だったのは,すでに述べたように,海外建設事業の展開であった。賠償の多くが発電事業や港湾整備,道路建設などで土木建設事業に関連した大型工事だったため,これが呼び水となって,東南アジアの土木建設事業を積極的に押し進めることとなったのである」(小林英夫『戦後アジアと日本企業』岩波新書,2001年,50ページ)。
「北」に対抗する韓国経済成長の支援と,ベトナムへの韓国軍派兵の支援
・「1950年代後半から,日本企業の海外進出は東南アジアを中心に進行しはじめていた。しかし,戦前の最大の貿易相手だった中国,そして植民地支配の地であった韓国との関係修復は,政治面のみならず経済的にも早急に解決すべき課題であった」
「国交正常化をめざした日韓交渉は,52年2月,第一次会談がもたれたものの,交渉は妥結せず,両国の経済関係は遅々として進行しなかった。日本側に過去の植民地支配に対する反省が欠如していることが最大の障害となったが,くわえて韓国の李承晩政権が会談に消極的であった。しかし60年4月に韓国民衆の手で李承晩政権が打倒され,8月に張勉内閣が発足すると日韓会談は進展を開始する。61年5月軍事クーデターで軍部出身の朴正煕政権が誕生すると,その動きはいっそう早まった。
交渉の焦点のひとつであった,日本が韓国に支払う金額とその名目については,62年10月,金鐘泌中央情報部長と大平正芳外相とのトップ会談で,次のような妥協合意が成立する。内容は,無償供与3億ドル,有償援助2億ドル,資金協力1億ドル,名目は請求権と経済協力を使い分ける,というものであった。そして65年6月,両国の共同声明が発表される(『検証日韓会談』)。この時期に急速に妥協した背景には,ソ連や中国の援助で北朝鮮が経済成長を続けており,これに対抗して朴政権は62年を初年度とする第一次5カ年計画の資金が必要であったこと,またベトナム戦争が激化しはじめるなかで,アメリカは韓国軍のベトナム派兵を強く要請していて,その代償として日本からの資金援助をもとめていたことなどがあった。
日韓条約締結を契機に,日本と韓国は経済交流を深めていく。無償3億ドル,有償3億ドルは,締結後10年間にわたって分割供与されることとなっており,前者は主に農林水産・鉱工業の振興に,後者は道路・港湾・水道・ダムといった社会間接資本の充実のためにつかわれた。それ以前,1950年代の韓国経済を支えたものはアメリカの援助であり,その内容は『三白』(砂糖,綿花,小麦)と称されたアメリカの余剰農産物の供給である。この結果,三白産業なる農産物加工業が勃興していたが,それはあくまでも援助物資の加工にすぎなかった。しかしこの援助が,輸出が輸入の15~20分の1に満たない貿易赤字国だった韓国の経済を支えていたのである。ちなみに,韓国の輸出は,60年代初頭で数千万ドル,65年時点でも1.75億ドルであった。こうした実情を考えると,無償・有償あわせて5奥ドルという額の意味はたいへん大きかったというべきだろう」
「日韓借款の象徴ともいえるプロジェクトは浦項総合製鉄所の建設であった」(小林英夫『戦後アジアと日本企業』岩波新書,2001年,51~53ページ)。
東アジアの反共を強めたいアメリカと,その支援を受けたい韓国,日韓の黒い癒着
・「政権維持のためにも,朴正煕政権にとって近代化は至上の課題であった。それに必要な資金や技術を導入するには,二つの政治的決断を迫られた。一つは日韓条約の締結を急いで日本の経済協力をえることであり,もう一つはベトナムで苦境に陥っているアメリカ軍のために援軍を送る,ベトナム派兵に踏み切ることであった。
この二つによって,アメリカから強力な支持を取りつけることも,朴正煕政権にとっては重要なことであった。アメリカは日韓の国交正常化で東アジアにおける反共戦線の強化を図ろうとした。日韓国交正常化のための話しあいはすでに朝鮮戦争中の1951年に,アメリカの仲介で始まっていた。しかし両国のあいだに横たわる懸案の問題があまりにも多く,それに日本の植民地支配に対する韓国国民の感情的なわだかまりもあって,進展はほとんど見られなかった。
1961年11月12日,朴正煕はケネディ大統領の招きで,アメリカ訪問の途上日本に立ち寄った。そして池田勇人日本首相との単独会談で『東北地方や鹿児島出身の人よりもりっぱな日本語を駆使して国交正常化に関する彼の意欲を披瀝した』といわれる(李祥雨『秘録朴正煕時代』)。朴正煕は旧満州の軍官学校出身であった。そこで日本では,岸信介を始め旧満州系人脈が親韓派として登場するようになった。こうして日韓関係は『日韓癒着』問いを黒い霧に包まれながら進行するようになった」(池明観『韓国 民主化への道』岩波新書,1995年,57~58ページ)。
日韓条約への韓国国民のはげしい抗議
・「日韓基本条約は1965年6月22日に調印され,12月18日に,批准書を交換して発効した。これで戦後20年間正式の国交を持たなかった日韓関係が,日韓新時代ともいわれる歴史を歩み始めた。この条約は両国間の『基本関係に関する条約』と『請求権・経済協力に関する協定』,『在日韓国人の法的地位と待遇に関する協定』,『漁業に関する協定』,『文化財・文化協力に関する協定』の4つの附属協定を含むものであった」
「日本側は賠償ということばの代りに『請求権・経済協力』ということばをえらんだ。
日本は3億ドルの無償資金と2億ドルの長期低利政府借款及び3億ドル以上の商業借款を供与することにして妥協した」
「韓国では日韓会談に対する国民的な抵抗が大きく盛り上がった。それは朴正煕政権下で日韓会談が始まった1963年以来くすぶっていたものであったが,65年4月3日,日韓条約仮調印を前後して戦いはピークを迎え,全国が騒然とした。朴正煕政権は武力的弾圧を加え,大学や高校を強制的に休校させ,学生たちを逮捕,投獄し,大学から追放したりした」(池明観『韓国 民主化への道』岩波新書,1995年,61~64ページ)。
国民を抑圧し,アメリカの圧力をうけて日韓条約は成立した
・「日韓会談中における日本の姿勢は,決して新しい日韓関係とか東アジアの平和を展望するというものではなかった。謝罪どころかいかにすれば会談を日本に有利に導くことができるかと,ただそろばんをはじき,駆け引きをする姿勢であった。差別的な態度がしばしばあらわになり,韓国国民の憤激を買った。今にして思えば,それは実に愚かなことであった。今日におけるような日韓関係,アジアの新しい時代などまったく展望できなかった」
「1965年の日韓条約は,韓国国民を銃剣で抑えつけて妥結されたものである。国民の多くは日韓条約に抵抗するだけではなく,これを契機に朴正煕政権を倒さねばならないと考えた。それで戦いはいっそう激しく燃えたのであった。
日韓条約はまた,背後にあったアメリカの圧力によって,それこそ非自主的に結ばれたものであった。朴正煕政権はその延命策として,日本は経済的利益のために,多くの矛盾をはらんでいても,条約を取りまとめた。そして多くのことを積み残したために,いまでもいくたの問題がくすぶり続けている。
この条約は冷戦体制下において強要されたものとして,いつか公平な立場から再検討されねばならないであろう。特に朝鮮半島が統一される日には」(池明観『韓国 民主化への道』岩波新書,1995年,66~67ページ)。
韓国の経済発展にはずみをつけた日韓条約
・「(日韓条約)それにもかかわらず,その後の日韓関係と交流,そして韓国の経済発展のことを考えると,このとき日韓のあいだで国交を正常化したことは,肯定的に評価されねばなるまい。日韓関係を正常化して,国交を持つことは早ければ早いほどよかったに違いない。ただそれがもっと理想的な形でなされていれば,今日の日韓関係,東アジアの状況にとってはるかにいい結果をもたらしていただろうと思うのである。
何よりも1965年の日韓条約は,韓国の経済発展に大きなはずみをつけたことは事実である。経済統計の面から見ても,この条約による対日請求権資金は,1966年から75年に至るあいだ,韓国の経済運営においてかなりの比重を占めた。固定資本形成に対するその寄与度という面から見ると,製造業3.9パーセント,建設業3.8パーセント,農林水産業3.7パーセント,電気水道は21パーセント,運輸通信は1パーセントであった」(池明観『韓国 民主化への道』岩波新書,1995年,68ページ)。
深まる日本経済への依存,韓国からの利益を競う日本財界
・「日韓条約後は日韓癒着に対する戦いが,韓国の民主化運動におけるもっとも重要な主張の一つとなった。日韓条約締結以前,すでに日本の資本は朴正煕政権といろいろな形で結ばれつつあったが,65年の日韓条約締結後は,日本の資本がそれこそ堰を切ったように流れ込んだ。条約で決められた経済協力資金無償3億ドル,有償2億ドル,そして3億ドル以上の商業借款をめぐって,日本の財界はしのぎを削ったのである。
商業借款においてはプラントの輸入が多く,日韓の合弁会社も続々と設立された。商業借款の場合は有償援助2億ドルが年利3.5%,据置期間7年を含めて20年で償還というのに比べて,金利6~8パーセンに期間は10年前後というきびしいものであった。しかも,このような借款をめぐっては,政権や個人に対するリベートのうわさが絶えることなく,不安定な国内政治情勢の下でその一部が政治資金となったり,権力側の個人資産に変わって国内外に蓄積された」
「この時期は女工哀史の時代であった。確かに日本資本の大量進出によって,韓国の輸出は伸びたが,原材料も機械も製品の部品も日本から輸入しなければならなかったし,輸出入のためには多くの場合,進出してきた三井物産,丸紅,伊藤忠など日本の商社の手を借りなければならなかった。経済の日本依存度は高まるばかりであり,日本からの輸入は増え続けた。
日本資本の導入が,韓国工業の発展,国民の生活向上に果たしてどれだけの効果があるのかと疑わざるを得なかった。それは政権と買弁資本に連なる少数を潤すだけで国民はもっぱら収奪されるだけであると批判されたのであった。
日本資本の直接投資は主に労働集約的な工業に限られた」(池明観『韓国 民主化への道』岩波新書,1995年,153~155ページ)。
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自信を失いアメリカに同調することこそ日本の最大の危機――マハティール
・〔日本人よ自立への自信をもて〕「日本も,独自の民主主義,独自の文化,独自の進み方があってよいのである。もちろん,かたくなに他との協調を否定することもないが,自分の国になにが必要か,なにがこの国にとってベストなシステムなのかということを常に見極め,それを選択することが重要である」「じつは,日本にとって最大の危機は,外国の脅威でもなんでもない。日本人が日本に自信をなくし,外国のシステムに同調することで自らを救おうとしていることこそが,最大の危機なのではないかと思えてならない」(マハティール・ビン・モハマド『日本人よ。成功の原点に戻れ』PHP,2004年,125ページ)。
北東アジアの平和に対する盧武鉉政権の建設的な姿勢
・「(盧武鉉大統領の2004年3月1日,政府主催3.1独立運動記念式典での演説について)大統領が日韓両国の歴史問題を取り上げた意図は,演説のなかの一節から読み取れると思う。『どうすれはわれわれが平和と繁栄の北東アジア秩序を主導的に築いていけるのか,それをどのように韓国国民の誇りと自負心にするのか。3.1独立運動85周年を迎えたいま,心にしっかりと決意を込め,未来の準備をするようお願いしたい』」(面川誠『変わる韓国』新日本出版社,2004年,191ページ)。
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