2004年4月5日(月)……論文「世界情勢の発展と『帝国主義』」のためのノート
(1)新綱領が提起した世界情勢論・帝国主義論
1)綱領で帝国主義はどう語られているか
〔今日のアメリカを政策と行動に照らして帝国主義だとする見解〕
・森原公敏「21世紀の世界とアメリカ帝国主義」(『前衛』2004年3月号)。アメリカは「アメリカ一国の利益を世界平和の利益と国際秩序の上に置き,国連をも無視して他国にたいする先制攻撃戦争を実行し,新しい植民地主義を持ち込もうとしている」(綱領)「それは,独占資本主義に特有の帝国主義的侵略性を……むきだしに現わしたもの」「諸国民の独立と自由の原則とも,国連憲章の諸原則とも両立できない,あからさまな覇権主義,帝国主義の政策と行動である」。アメリカの「覇権主義,帝国主義の政策と行動は,アメリカと他の独占資本主義諸国とのあいだにも矛盾や対立を引き起こしている。また,経済の『グローバル化』を名目に世界の各国をアメリカ中心の経済秩序に組み込もうとする経済的覇権主義も,世界の経済に重大な混乱をもたらしている」(綱領)(34~5ページ)。「いま,アメリカの世界政策にたいして,『アメリカ帝国主義』という規定づけをおこなっていますが,そのことは,私たちが,アメリカの国家あるいは独占資本主義体制を,固定的に特徴づけている,ということではありません。『アメリカ帝国主義』という特徴づけ自体が,……ソ連解体後に形づくられ,体系化されてきた一国覇権主義の政策と行動を特徴付けたものであります」「私たちは,国際秩序をめぐる闘争で,一国覇権主義の危険な政策を放棄することをアメリカに要求し,それを実践的な要求としています」(7中総への「日本共産党綱領改定案についての提案報告」)(35~6ページ)。
――アメリカ帝国主義への評価が非常に限定的である。ベトナムへの侵略があり,日本に対する支配もあるのだが。
――侵略性を認めるが,問題はそれを抑止する力との力関係である。力関係によっては抑止が可能であることを認めるからこそ,独占資本主義の枠内での平和運動に意義がある。ベトナム侵略時のアメリカが「帝国主義」であったのはまちがいない,そのときどきの具体的な政策と行動で特徴付けるし,そうだからこそ,「帝国主義」でないアメリカへの評価もできることになる。
〔レーニンの帝国主義論を何より植民地保有にむすびつける見解〕
・森原公敏「21世紀の世界とアメリカ帝国主義」(『前衛』2004年3月号)。7中総の報告から。レーニンは「帝国主義とは資本主義の独占段階である」という定義を与えた。その時代の開始の指標としてもっとも重視したのは「最大の資本主義諸国による地球の全領土の分割が完了した」という特徴付けであり,以後は世界の再分割,植民地の奪い合いの戦争がおこらざるをえないとした分析である。しかし,20世紀後半に植民地体制は崩壊し,植民地支配を許さない国際秩序も生まれた。資本の輸出も経済的帝国主義の手段という性格を失っている。だから,政党の政治文書である国を「帝国主義」と呼ぶのは「その国の政策と行動に侵略性が体系的に現れているとき」だけだとした(39~40ページ)。――「独占=帝国主義」についてはレーニン自身によるその後の模索がある。他方,平和をめざす力との衝突のなかで「侵略性が体系的に現れて」いない国については,そのことを正当に評価する基準が必要になる。それは平和をめざす闘いの力を確める基準ともなる。これは,1)独占資本主義論の否定ではなく,2)侵略性への批判でもない,3)しかし,世界史段階論については再検討がいる。
2)背景にある帝国主義と世界情勢(構造)論についての理論的見地
〔「独占資本主義=帝国主義」と単純にいえない時代の到来という見解〕
・不破哲三『科学的社会主義を学ぶ』(新日本出版社,2001年)。帝国主義は独占資本主義に固有のものではない,一般的には他国への侵略主義や他国を植民地として支配することを帝国主義という。20世紀以後の資本主義は,主だったすべての国が他国への侵略主義や植民地政策を基本的特質とするところに特徴があった。レーニンの分析は個々の国の問題より,資本主義全体が「帝国主義の段階」に入ったという分析が基本(125~7ページ)。個々の国についても当時は独占資本主義国は帝国主義国としてほとんどなんの不都合もなかった。しかし世界は変わった。1)植民地体制はほぼ完全に崩壊した,2)そのもとで影響力をめぐる国際的な争いはあっても植民地再分割をめぐる帝国主義戦争が問題になる条件はなくなった,3)国際的な平和秩序が決定的な力ではないが,あからさまな帝国主義的行動を抑制する,一定の力となっている,4)民間投資であれ政府投資であれ,必要な条件にかなう形で行なわれるなら,南北問題の解決など世界的進歩の流れに役立ちうる可能性が生まれている,その結果,5)独占資本主義本来の侵略性が他国への侵略行動・抑圧政策として現れるには様々な困難と制約がある時代となっている。となると,独占資本主義だから帝国主義だと簡単にいえない。行動と政策の具体的な検討が必要。従来の綱領でも,日本については,1)アメリカへの従属,2)日本の独占資本主義の対外行動が侵略と抑圧として現にあらわれているかの問題で評価してきた。今日では,これを帝国主義を考える一般論として考える必要がある。アメリカは日本に対して帝国主義的な支配権をふるっている。アメリカが帝国主義であることは間違いないが,それも政策と行動の具体的な分析にもとづくべき(124~135ページ)。
――侵略と抑圧の行動と政策というとき,アメリカの日本に対する「帝国主義的な支配権」はそれにふくまれるものといえるのか。「的な支配」という〈曖昧さ〉が気になるが。
〔レーニン時代の帝国主義との違いの指摘――2点〕
・不破哲三『日本共産党綱領を読む』(新日本出版社,2001年)。レーニンの時代とは,1)資本主義の最後の発展段階という意味でも,2)独占資本主義の侵略性のあらわれ方でも,帝国主義のあり方に大きな変化が生まれている。帝国主義・独占資本主義の勢力が世界全体に支配力をふるう時代は過去のものとなった(179~80ページ)。
――つまり帝国主義なき独占資本主義の段階が可能であるということ。いままでの自分の論文は,帝国主義と独占資本主義を直結させすぎていた。
〔大国中心の世界構造が大きく変化しているという見解〕
・不破哲三「新しい世紀と新しい綱領」(『前衛』2004年4月号)。少数の大国が世界を動かす時代は終わった。62億の人口は,1)発達した資本主義7億,2)社会主義をめざす国14億,3)アジア・中東・アフリカ・ラテンアメリカ35億,4)旧体制の解体から資本主義にもどりつつある国4億,計62億(42ページ)。これらのイラク戦争への態度を分類すると,1)支持2/3,反対・不支持1/3,2)すべて反対,3)支持23ケ国,反対100ケ国以上・30億以上,4)16ケ国が賛成,計戦争支持49ケ国で12億人,反対・不支持で50億人(43~4ページ)。さらに進む力関係の世界的激動,1)中国の発展可能性,2)イスラム世界との対話の発展,3)長くアメリカの独占支配下にあったラテンアメリカの大きな変化(ゲバラ主義からの脱却,民族自決権・多数者革命)(44~50ページ)。
――ラテンアメリカについては「アメリカの裏庭」の評価がアメリカ自身にあり,ウィルソンもこれを無視した。
3)「帝国主義」のいくつかの用語法について
・木谷勤『帝国主義と世界の一体化』(山川出版社,1997年)。もともと imperialism は古代ローマの他民族支配や帝国を意味するラテン語 imperium に由来し,19世紀半ばまではナポレオンなどの専制的な皇帝支配とその対外政策をさした。これが1878年イギリスの自由党系一新聞で保守党政府の対露強行外交および国内世論での「排外的愛国主義(ジンゴイズム)」の風潮を非難するのに用いられたのが,この言葉の今日の意味での使用例のはじめといわれる。以来,自由党の選挙キャンペーンで保守党非難に多く用いられたことからわかるように,この造語は敵を非難する政治闘争の用語であった。戦後の米ソ対立でも互いを「帝国主義」と呼び合うように,この言葉には政治闘争の用語の意味がつきまとう(6ページ)。シュムペーターも帝国主義を他民族への暴力的な征服・膨張政策や,政治支配をともなった「公式の」植民地を意味するものと理解した(11ページ)。
(2)レーニンの世界情勢論・帝国主義論
1)帝国主義の規定を独占資本主義に還元しないレーニンの見解
「一国帝国主義の判定基準をめぐるレーニンの模索――植民地保有の重視へ〕
・不破哲三『レーニンと「資本論」』第4巻「戦争と帝国主義」(新日本出版社,1999年)。――1917年段階での帝国主義の判定基準。「1」その国のブルジョアジーが植民地や勢力範囲にたいしてどんな帝国主義的要求をもっているかだけでなく,2)むしろその国の資本主義が金融資本の段階に達しているかどうかを重要な基準とし,ときには,乳製品や肉製品の世界市場での独占的地位を(デンマークの場合),あるいは金融資本の発達の度合いとその国際的関連を(スイスの場合),帝国主義的性格の最大の根拠づけとして論じたりしていることです。1)この基準で,植民地をもたず,世界戦争でも中立を維持していたスイスを『帝国主義的政府』と規定づけました。2)その一方,『帝国主義論』で,レーニンはかなり多くの植民地をかかえているポルトガルを,アルゼンティンなどとほぼ同列において,過渡的な形態の従属国と位置づけていました。これらを対比すると,ここには,なお研究と整理の余地がある一つの理論問題――一国の資本主義の規定にかかわる――がはらまれていることを指摘しておきたい」。(201)
――『帝国主義論』では「小国」についての正面からの分析はない。スイスについては16年10月~17年1月。
――ポルトガルを従属国の「過渡的形態」としたのは『帝国主義論』。
・『帝国主義論』(16年7月まで)では6大列強論に立っていたが,ノート「帝国主義国家への植民地の配分」(16年12月)では,政治的自立と金融的自立をそなえるのは4ケ国だけとされ,ロシアや日本の帝国主義の主要帝国主義に対する金融的・経済的な従属関係もとらえられる。金融的従属をはらみながら,ロシア・日本もふくむ国々が「半植民地」「植民地および政治的従属国」を支配しているという世界像。(209,212)
※発達した資本主義国の従属という分析は『帝国主義論』より後のレーニンの展開にある。帝国主義対植民地という関係だけでなく,様々な過渡的な従属の形態を究明している。その全体が現代をとらえるうえで大切。(第4巻386)
――『帝国主義論』を絶対視しないこと。
――現代の世界をとらえるうえで,植民地支配をまぬがれた諸国に対する「従属」についても具体的な分析の目を届かせること。
――帝国主義「大国」同士の関係についても。その「従属国」支配の方法の相違についても。
※※ポルトガルを大国への従属性をもちながら,植民地への抑圧者としてふるまう2面性をもったものとして。(209)「統計と社会学」への準備ノートで。「その国が植民地をもっているかどうかに特別の関心」。
――植民地への抑圧者としての側面をより重視する方向に。
――1916年12月の「帝国主義諸国家への植民地の配分」と題したノートで,ポルトガルはスイスと同じグループに。植民地の諸民族には帝国主義的抑圧者の一員としてふるまいながら,帝国主義諸大国への従属性をもつ。
・「統計と社会学」(17年1月)。世界を少数の抑圧民族による被抑圧民族の支配とし,1)西欧,アメリカ,日本という14の先進資本主義国による巨大な植民地支配と,2)ロシア,オーストリア,トルコなど,支配民族による従属諸民族の支配を共通の特徴とする東ヨーロッパの2つの地域にわけるという,帝国主義の地球支配のしくみ。ただし,まだ,中国などの半植民地や中南米の従属の過渡的諸形態までは筆が及ばず。(214~5)
2)帝国主義との闘いのなかでの世界情勢(構造)論の発展
〔レーニンの世界構造論の深まり――植民地解放運動への注目から〕
・不破哲三『レーニンと「資本論」』第4巻「戦争と帝国主義」(新日本出版社,1999年)。――第18章「帝国主義と民族・植民地問題」
・帝国主義との闘争に取り組むほどに,植民地・従属国での反帝運動の意味の広がり,世界的な規模で革命運動をとらえる視野が広がる。(228)
――世界情勢(構造)論の成熟過程。
※大戦前の民族自決論の決定版「民族自決権について」(1914年)。民族国家は過去のものだとするローザとの論争。ヨーロッパの枠内での議論。植民地諸民族の自決問題が帝国主義諸国のプロレタリアートの任務として押し出されるのは次の段階(世界大戦下での反帝国主義闘争)でのこと。(240)
※※植民地の解放なしに帝国主義戦争からの脱却はない。(246)
――つまり植民地がゆるされないという状況が生まれるなら,その争奪をめぐる帝国主義戦争もまた過去のものとなる。
・「社会主義革命と民族自決権(テーゼ)」1916年。先進資本主義国,東ヨーロッパ,植民地・半植民地。帝国主義に反対する革命運動の世界的配置があらまし現れている。それぞれでの運動が関連しあい,援助しあって,帝国主義的資本主義から社会主義への以降の時代がつくられる。(256)
――世界情勢(構造)全体の変化として世界史の前進をとらえるという見地。
※※民族自決否定論がなぜ強かったか(ローザ,ブハーリン,ピャタコフ)。戦争を支持する「祖国擁護」論への機械的反発/社会主義革命近しとして民主主義的要求を軽視する傾向/植民地・従属国の民族運動を理論的にも実践的にも視野にいれていない等。(263)
・「ユニウスの小冊子について」(1916年7月)。民族解放戦争と帝国主義の関係は歴史的な事情にかかるという弾力的な見方。ユニウスは民族的契機のすべてが帝国主義戦争に飲み込まれるとした。実際,第二次対戦における中国の日本に対する民族解放戦争は,日本とアメリカ,イギリスとの帝国主義的対立と結びついたが,中国の民族解放をめざす政治,日本の軍国主義に反対する世界民主主義の政治が世界戦争の大きな流れを特徴づけた。(272)
――アメリカとフランスとの対立についても,それを同じ地平に立つ大国同士の争いに還元するのでなく,同時に世界の平和・民主主義の流れに即する一面をフランスに見出し,これを評価し,実現していくことが必要。
3)一国社会主義論のもとでの「東洋」との同盟という大路線
〔レーニンの世界構造論の深まり――生き残りのための「東洋」との同盟〕
・不破哲三『レーニンと「資本論」』第7巻「最後の3年間」(新日本出版社,2001年)。第32章「転換点――1920年11月」
・(国際情勢の新しい認識――ソビエト政権と資本主義国との共存)演説「わが国の内外情勢と党の任務」(20年11月)/ポーランドとの講和だけでなく新しい考察の深まり/ソビエト共和国が「資本主義諸国と並存できるような条件」をたたかいとったという認識/かなり長期に渡る「新しい一時期」と。(32)
・(それまでの情勢認識は『共存不可能』論が基調だった)論文「ヨーロッパ合衆国のスローガンについて」(15年8月)――どの先進国の革命も他の資本主義国との対立の中で,革命戦争によってのみ社会主義の勝利を保障しうる/論文「革命の任務」(17年9月)――おくれたロシアの革命に2つの見通し,1)全世界への「民主主義的講和」のよびかけが休戦と講和交渉への道を切り開く(8~9割の可能性で),2)反革命・干渉戦争が現実となる/干渉戦争の時期に――1)社会主義国家と帝国主義国家の長期の共存は不可能,2)社会主義国家の延命にはいくつかの先進国での革命が必要/短い「息つぎ」期間に国内建設を,共存実現のなかでの経済政策にも言及。(36)
・(ふたたび情勢認識の転換について)演説「わが国の内外情勢と党の任務」(20年11月)/長期的な共存の一時期の獲得/重要なのは帝国主義国内部の干渉戦争反対の闘いと気分/新たに作用しはじめた国際関係の要因――1)国境を接する諸小国(フィンランド,エストニア,ラトビア)との講和,さらにポーランドとも,2)ソビエト共和国と資本主義諸国との通商関係/コミンテルン第3回大会での分析(21年6~7月)――資本主義の包囲のなかで社会主義が存立する不安定な均衡。(51)
・(新しい情勢認識と『一国社会主義』の展望)演説「わが国の内外情勢と党の任務」(20年11月)/ロシアが自力で共産主義体制という「実例」を自力でつくる――一国社会主義についての最初の体系的な論究/中心的なプログラムは全ロシアの電化,それによる工業と農業の復興/演説「青年同盟の任務」(20年10月)――電化と結んで「現代の教養」をと/この段階ではまだ経済関係の底辺としての「戦時共産主義」には手がいれられない。(59)
・(後日談・スターリンとトロツキーの一国社会主義論争)一国でやれる(スターリン),一国では無理(トロツキー,ジノビエフ,カーメネフ,いわゆる「反対派ブロック」)/結論ではスターリンが正しいが,双方とも20年11月のレーニンの転換を見ない/スターリンはレーニンを一貫した一国社会主義論者と描き,トロツキーは逆に一貫した世界革命論者だと/結論を正当化するスターリンの矛盾――1)レーニンが先進国で可能だとした「ヨーロッパ合衆国のスローガンについて」をロシアでも可能だとすりかえる,2)帝国主義戦争がそれを可能にするというこじつけ(レーニンにはない)。(77)
第34章「レーニン最後の世界革命論」
・(レーニン,病床で活動を続ける)コミンテルン第3回大会(21年6~7月)――転換以後初のまとまった世界情勢論だが,広い視野での分析はない/次が論文「量はすくなくても,質のよいものを」(23年2~3月)――党にもレーニンにも異常な状況の時期/第11回大会(22年4月)実務面の責任者として「書記長」ポストが新設されスターリンがつく,レーニン不在中に発言権を拡大し,誤った方針を持ち込むように/21年12月レーニン病気に,22年5月重い発作(一時は会話もできず),22年12月何度かの発作(手足の麻痺,口述筆記で論文を)/健康管理を名分としたスターリンによるレーニンの活動への制約,クルプスカヤを罵る/3月2日に「量はすくなくても,質のよいものを」を完成,3月9日の重い発作で政治活動を終える。(198)
・(論文「量はすくなくても,質のよいものを」の世界情勢論)5つの部分に区切られ第5の部分が世界情勢論/ヨーロッパ革命を誘発するような「実例の力」を示し得たのは政治の分野のみ/発達した国々の革命までもちこたえることができるか/敗戦によって奴隷化されたドイツ,戦勝国には平和による革命の遠ざかり,ヨーロッパには当面革命的危機の情勢はない/帝国主義戦争により東洋諸国など全世界が革命をめざす運動に入った(プラス面),期待されたドイツが他の帝国主義によって押さえ込まれている(マイナス面),東洋は人口では圧倒的だが物的・軍事的力が弱い(マイナス面)/ソビエト共和国は来るべき帝国主義との衝突をまぬがれるか――回答はない/まぬがれるために誰に依拠すべきか――帝国主義に反対する東洋の被搾取勤労住民との同盟(20世紀後半の大きな変化)/国内ではロシアの「文明化」(なにより生産力の発達)が課題――農民に負担をかけず,近代的な工業化にむけ「国家機構の最大限の節減」を/結論としての方針――1)ソビエト共和国の「文明化」2)帝国主義との衝突をひきのばす平和外交,3)ヨーロッパの社会主義化にむけ長期的姿勢で取り組む,4)「革命的民族主義的東洋」との同盟にもっとも重要な地位をあたえる。(216)
――※支配の世界化が反帝運動の世界化をもたらした。この段階では「東洋」への強い期待があるが,同時にその評価は決して高すぎない。
・(平和共存外交の具体化)20年以後の平和共存外交と小国との講和/転機はジェノバでの国際経済会議(22年4月)――帝国主義諸国によってソビエトが招かれた/経済問題だけでなくソビエト代表団は全般的軍縮・大量殺戮兵器の禁止を提案,ドイツとのラパッロ条約(正式な外交の確立――以後,ソビエトを承認する大国が次々と)。(235)
〔世界構造の変化として植民地解放とその役割を重視する見解〕
・不破哲三『日本共産党綱領を読む』(新日本出版社,2001年)。植民地・従属国の解放運動の世界史的意義にレーニンは着目した。論文「量はすくなくても,質のよいものを」(23年3月)で,ロシア生き残りのよりどころを「東洋」の人民の目覚めだとした。「東洋」は世界の植民地・半植民地・従属諸国を代表する代名詞。今日,国際社会におけるその力はレーニンの予想をこえるものに。1)植民地崩壊だけでなく,2)彼らが世界政治を積極的に動かす新しい国際勢力として生きた力を発揮しはじめたことを良く見るべし(176~8ページ)。
――彼らが歴史を動かす力として今日登場していることを重視する。
(3)植民地解放の歴史と意義をどうみるか――フランスを事例に
1)植民地帝国フランスと民族運動のはじまり(第2次大戦前まで)
〔フランス植民地帝国の歴史のあらまし〕
・グザヴィエ・ヤコノ『フランス植民地帝国の歴史』(白水社,1998年)。「より正確にいえばフランス領は,かつてのソビエト連邦に匹敵する規模であった」(7ページ)。「第一次植民地帝国」が最大の領土を誇ったのは,「正確な年代をいうならば1754年である」(13ページ)。1)1533~1830年。3世紀にわたる植民地の経験,あるいは3世紀におよぶ海外における重商主義の時代。2)1830~1930年。帝国主義と植民地革命の1世紀。3)1930~1962年。30年間の抗争。これにより植民地帝国は足早に崩壊へと向かう(10ページ)。
〔20世紀前半からの植民地帝国内部での民族運動の展開〕
・グザヴィエ・ヤコノ『フランス植民地帝国の歴史』(白水社,1998年)。1914年以前にすでに植民地からの自立を求める運動が。インドシナの反仏運動,チュニジアには1907年「青年チュニジア党」,「アルジェリア青年団」,マダガスカルには「VVS」。第1次大戦後には,シリア,チュニジア,モロッコなどに新しい動き。黒アフリカたとえはセネガルではアフリカ人同士の対立も深刻化する。マダガスカルにも独立運動。ベトナムも独立共和国建設をかかげ,1930年にはホーチミンを指導者とするインドシナ共産党が成立。「つまり1930年前後から,程度の差こそあれ,植民地帝国内で最初の民族運動が展開されていった」(137~140)。
2)第2次大戦中のフランス帝国
〔イタリアからフランスへの植民地再分割要求/植民地人民の戦争への動員〕
・グザヴィエ・ヤコノ『フランス植民地帝国の歴史』(白水社,1998年)。1929年からの経済恐慌は本国の政治に重大な影響,これが海外領土分野にも波及する。外からはイタリアの脅威が訪れる。1938年にはイタリア議会は「チュニジア,ジブチ,コルシカ」を要求する。フランス植民地帝国は戦争を容認し,動員が始まる。アルジェリアだけで21万6000人。黒アフリカも8万人(146~54)。
※木谷勤『帝国主義と世界の一体化』(山川出版社,1997年)。第1次大戦でフランスはアルジェリア,モロッコから84万人,仏領インドシナから15万人を戦争に動員。(80ページ)。
〔フランスの敗北による植民地の動揺とドゴールによる強い確保の意思〕
・グザヴィエ・ヤコノ『フランス植民地帝国の歴史』(白水社,1998年)。40年にドイツにフランスが敗北。敗北後に成立したドイツ寄りのヴィシー政権側に領土の大半の指導者層がつく。他方,ドゴール率いる自由フランスに加担するところも現れる。40年10月「植民地防衛評議会」でドゴールは「祖国解放のために,すべての領土で全面的に戦争を遂行する」ことを宣言。43年6月には「フランスは一丸となって植民地の一体性を完全に保持する」意志があり,そのためにこの帝国を改革する必要があることを確認する。43年,シリアとレバノンはヴィシー政権を離れて独立。42年11月連合軍は北アフリカに上陸。ここから植民地帝国のあらゆる領土がドゴール側に帰属してくる。例外はインドシナ。44年1月,戦後の植民地の在り方を討議するブラザヴィル会議,冒頭宣言「フランスは植民地で文明化の仕事を成し遂げてきたのであり,その目的からすれば,植民地の自立という考えも,あるいはフランス植民地帝国という枠組みを離れた形での植民地の発展の可能性も,断じて受け入れることはできない」。北アフリカは独立への道をすすむ(アルジェリア,モロッコ,チュニジア)。ベトナムは45年9月2日に独立を宣言「フランス政府は,植民地の領土に民族主義者の権力が打ち立てられるのを,目の当たりにした」(146~54ページ)。
――植民地を維持していくことへの非常に強い決意が語られている。
〔フランスの敗戦はアルジェリアにおける威信を失墜させた〕
・シャルル=ロベール・アージュロン『アルジェリア近現代史』(白水社,2002年)。「ドイツに対する敗戦は,アルジェリアにおけるフランスの威信を失墜させた。植民地政府の指導者たちはマゾヒズムに陥ることで満足し,復員者も解放された捕虜たちも『戦争の滑稽さ』を好んで語った」(119ページ)。
〔ヴィシー政権からアフリカを救えという口実〕
・岡倉登志『アフリカの歴史――侵略と抵抗の軌跡』(明石書店,2001年)。ヴィシー政権からアフリカ人を救おうという口実でイギリス軍と自由フランス軍がセネガル,コート-ジボアール,チャドなどに派遣されたときも彼らは歓迎した。自由フランス軍の基地としては白人植民勢力が比較的弱かったチャドが選ばれ,この基地は,仏領西アフリカの解放に寄与した。(184ページ)。
3)戦後の植民地帝国崩壊まで
〔20世紀前半にフランス植民地が当然視されたことの1つの傍証〕
・グザヴィエ・ヤコノ『フランス植民地帝国の歴史』(白水社,1998年)。「古今東西を通して最も大きな変動は,植民地化という形をとって引き起こされたものである。それはヨーロッパ人,またヨーロッパの資本が核となって,まどろむ住民のなかに,想像すらしなかった人工的,経済的,社会的大混乱をもたらし,将来第三世界となるものが世界の舞台に登場するのを準備した。この変動をめぐってフランスは,19世紀と20世紀のかなりの部分に責任を負っている」(96ページ)。アルベール・サロー『植民地の偉大さと隷従』(1931年)「偉大なヨーロッパは,いまや植民地という基盤の上になり立っている」「それは人類の,また文明の命じるところである」(133ページ)。――疑う事なき植民地主義への信仰。
〔大戦直後の植民地主義の当然視と植民地「経営」への財政困難?〕
・グザヴィエ・ヤコノ『フランス植民地帝国の歴史』(白水社,1998年)。一般国民も政治家も植民地問題には関心が薄く,まして非植民地化は政治問題では長く中心課題ともならなかった。ルネ・プレヴァン(自由フランスの植民地問題担当)は全面戦争下の48年「インドシナは県行政の改革や公務の改革と同程度の位置を占めるのみで,それ以上でもそれ以下でもない。……インドシナは各省庁の日常業務の一部でしかないのだ」(141~2ページ)。その後,非植民地化を支持する思潮が出てくる。1)キリスト教会,2)植民地帝国は採算がとれないという考え,「サハラ砂漠にフランスの金を浪費することへの拒否」,3)実業界もあっさりと,総督ロベール・ドラヴィニエット「非植民地化という考えには,何ら民主的なものはない。それはフランス国民の無関心のなかで,金のために押しつけられたものだ」,つまり資本主義は政治という覆いを取り去った方が経済的利益を維持できるという確信をもっての発言。実業界のリベラル,新植民地主義。(141~4ページ)。
――この実業界の転身はどう評価するべきか。もっと具体的に知りたい。
〔戦後の植民地確保のための戦争と植民地帝国の崩壊〕
・グザヴィエ・ヤコノ『フランス植民地帝国の歴史』(白水社,1998年)。45年から62年までほど途切れることなく,フランスはインドシナ,アルジェリアと海外領土での戦争に明け暮れた。フランス連合は46年の第4共和制憲法で創出されるが,1)ソ連の反植民地主義,2)アメリカはビッグ・ジビネスのために植民地を解放し,市場に,3)国連は旧植民地帝国への武器,4)アラブ連盟(45年創設)は「帝国主義とフランス植民地」を批判し,北アフリカの解放を要求。49年の中国革命を転機にアメリカはベトナムにおけるフランスを支援しはじめる。54年ジュネーヴ会議でインドシナ独立を確認(ただしベトナムは南北に暫定的分割)。インドの拠点も。56年モロッコ,チュニジアも独立。54年アルジェリアでは蜂起がつづく。58年5月ドゴールが権力につきフランス連合を葬り,フランス共同体への道が開かれる。しかし,60年の1年だけでアフリカの旧フランス領から14の共和国が独立。さらに62年アルジェリアの独立(156~68ページ)。
――戦争の継続は,それだけ民族独立への運動が強かったということ。
――アラブ連盟。アラブ諸国の主権擁護,関係強化などをうたうアレクサンドリア議定書にもとづき,45年エジプト,イラク,サウジアラビアなど7ケ国で結成。
〔フランス植民地帝国の崩壊にとってベトナムが致命的とする見解〕
・渡邉啓貴『フランス現代史――英雄の時代から保革共存へ』(中公新書,1998年)。第4共和制憲法(46年)により,フランスと植民地の関係は「フランス連合」によって再編された。本国,旧植民地の海外県(DOM)と海外領土(TOM),フランス連合参加領土(旧国際連盟委任統治領)ないしフランス連合参加国(旧保護国)など。植民地住民がきわめて少数ながらフランス議会に代表を送れるようになった以外,本質的な変化は何もなかった(29~30ページ)。51年でもフランス人の81%が植民地の維持が有益であると考えた。植民地解放という世界の潮流への認識は不十分だった(36ページ)。フランス連合に致命的打撃を与えたのはベトナムの独立問題。45年9月ベトミン(ベトナム民主共和国)独立。49年3月フランス連合の一員として主権を制限されたバオ・ダイ帝の傀儡政権である独立ベトナム国家(南ベトナム)が承認され,フランスはラオス・カンボジアとも同様の関係を。54年5月ディエンビエンフーでフランスは決定的な敗北。54年プレヴァン国防相,ピドー外相,エリー総司令官は渡米し,アイゼンハワーに原爆投下を要請。(69~81)
〔アルジェリアの喪失過程におけるフランスの内乱〕
・渡邉啓貴『フランス現代史――英雄の時代から保革共存へ』(中公新書,1998年)。長い戦争を批判するマンデス・フランスが54年6月首相に。7月21日ジュネーブ協定。56年3月チュニジア,モロッコ独立。54年11月アルジェリアでテロ勃発。マンデス・フランス「アルジェリアの諸県はフランスの一部」「それからは,ずっと昔から間違いなくフランスの領土であった」「アルジェリアとフランス本国の分離は考えられない」。ヨーロッパ人社会を内部にもつアルジェリアの独立はベトナム以上に難しかった。55年には反乱がひろがり,フランス側の報復も残酷をきわめる。スーステル現地総督は厳しい弾圧政策を(69~81ページ)。56年フランス政府はアルジェリアへ20万人から40万人もの大量の派兵を。57年1月には治安回復のための「アルジェの闘い」が行なわれ,凄惨をきわめる。56年7月エジプトのナセルが英仏の利権のからむスエズ運河を国有化。11月には英仏軍が国連総会の停戦決議(11月2日)を拒否して,5日にはスエズ奪還,6日停戦。米ソとも英仏に難色,フランスは国際的に孤立し,国連ではエジプトへの侵略とアルジェリア政策を批判された(86~89ページ)。58年5月アルジェリアの現地当局は「フランスのアルジェリア」をとなえる反政府支持者に奪取された。内戦の危機が生まれる(95ページ)。
――1957年3月までにイギリス・フランス・イスラエルは撤兵し,スエズはエジプトのものとなった。
〔アルジェリアのなかのヨーロッパ社会〕
・グザヴィエ・ヤコノ『フランス植民地帝国の歴史』(白水社,1998年)90ページによれば,「第2次大戦前夜のフランス植民地帝国」では,アルジェリアの人口は723万5000人,ヨーロッパ人の人口は94万6000人。
――アルジェリアのなかのヨーロッパ社会。植民地は1830~1862年,132年間。
〔アルジェリア独立を阻止できなかったフランス〕
・渡邉啓貴『フランス現代史――英雄の時代から保革共存へ』(中公新書,1998年)。58年6月ドゴールは憲法改正のための全権を委任され,10月には国民投票で新憲法が承認され第5共和制が発足,フランス共同体が成立する。共同体の構成員は,1)固有の自治権をもつが,2)外交・防衛・通貨・経済財政政策・教育・司法をフランス本学と共有する。58年8月ギニア(58年独立)の指導者セク・トゥーレはドゴールとの対談で「隷属下の豊かさよりも,自由の下での貧困を選びます」と。脱植民地化の動きは急で,60年6月には憲法が修正され,共同体の構成員はフランスとの関係を断絶しないまま独立することが可能となった。6月から11月にかけ,すべてのアフリカ諸国とマダガスカル独立。61年ドゴール「共同体はもはや存在しない」。フランスは旧アフリカ植民地を経済的・金融的に引き続き収奪しようと欲した(新植民地主義)。59年9月ドゴールは「アルジェリア人のアルジェリア」の可能性を示唆。現地では反ドゴールの反乱が。ドゴール「古い植民地主義者の制度はなくならねばならないが,独立もありえない」「アルジェリア人が選ぶだろうと私が思うのは,フランスと連携したアルジェリア人のアルジェリアであろう」。60年11月ドゴールは「アルジェリア共和国」設立を承認,61年1月の国民投票(75%以上の支持),現地の反乱と鎮圧,62年3月停戦協定,7月アルジェリア独立宣言(107~115ページ)。
――61年のドゴールの発言は,フランス植民地帝国そのものの崩壊の宣言。
〔アルジェリア問題が第4共和制を崩壊させた〕
・岡倉登志『アフリカの歴史――侵略と抵抗の軌跡』(明石書店,2001年)。アルジェリアの民族運動に対するフランス政府の弱腰を非難し,58年5月に「フランスのアルジェリア」をかかげた入植者の暴動が起こる。これがフランス国内右翼の支持をえて,第4共和制を実質的に崩壊させ,ドゴールを政界に復帰させた。(208ページ)。
〔独立への圧倒的なアルジェリア世論〕
・シャルル=ロベール・アージュロン『アルジェリア近現代史』(白水社,2002年)。「7月1日,民族自決の国民投票において,アルジェリア人は,『ノン』1万6534票,『ウイ』597万5581票の圧倒的多数でもって,独立を選んだ」(150ページ)。
4)植民地解放と国連
〔国連憲章の遵守か蹂躙かをめぐる戦後の闘い/植民地の解放をめぐって〕
・松竹伸幸『反戦の世界史――国際法を生みだす力』(新日本出版社,2003年)。戦後の歴史は,国連憲章の諸原則をまもり発展させる流れと,それを蹂躙する流れが争う場となった。国連憲章には「植民地解放」という目標が欠落していた。憲章を審議したサンフランシスコ会議ではソ連・中国などから植民地独立の明記が求められるが,フランスなどが反対し,アメリカもこれを支持した。そのなかで植民地の人民自らが解放のために立ち上がった。まずアジア。インドネシアでは45年8月に独立が宣言されるが,イギリス軍につづきオランダ軍ももどり,その後4年もオランダ軍との闘いがつづく。アフリカは20世紀はじめには大陸全体が植民地(唯一の独立国だったエチオピアもイタリアが併合した)。エジプトでは52年に独立をかかげた革命が成功,56年スエズ運河国有化,英仏との戦争が勃発するが英仏軍は撤退。57年スーダン,チュニジア,モロッコが独立,60年には17ケ国ガ独立。アルジェリアでは終戦の年からフランス軍の虐殺がつづき,54年の一斉蜂起ののちには,50万人の大軍を相手に7年余の独立戦争を強いられた。60年代前半には,アフリカの大半の地域が独立を達成する。これらの国の団結は強まり,相互にはげましあう関係が生まれた。55年には非同盟運動の源流となる第1回アジア・アフリカ会議(バンドン会議)が行なわれ,60年には国連総会で「植民地独立付与宣言」が採択される「いかなる形式および表現を問わず,植民地主義を急速かつ無条件に終結せしめる必要がある」(法的義務をもたないが,国際社会の共通認識としてのはじめての明文化)。61年第1回非同盟首脳会議。植民地の解放は,帝国主義戦争の基本的原因の喪失を意味した。植民地再分割をめぐる帝国主義同士の戦争は過去のものとなった。帝国主義が自分の力では清算できなかった問題を,植民地の人々が克服していった(98~107ページ)。
※文中の「唯一の独立国だったエチオピア」は誤り。アフリカ最初の独立国はリベリア(1847年)。またイタリアによるエチオピアの占領は,1936~41年。
※文中の「57年スーダン,チュニジア,モロッコ独立」は56年の誤り。
〔リベリアはアメリカの黒人奴隷が建国〕
・岡倉登志『アフリカの歴史――侵略と抵抗の軌跡』(明石書店,2001年)。リベリアはアメリカの解放奴隷たちが移住して建国した。1847年に独立。(131ページ)。
〔「フランスのアルジェリア」に対する国連の批判〕
・シャルル=ロベール・アージュロン『アルジェリア近現代史』(白水社,2002年)。「国連に北アフリカ戦線が創設されたことを懸念するフランス政府は,アルジェリア組織法についてアルジェリア議員と討議することを断念し,アルジェリア問題が国連総会で討議される予定日の7日前に,大綱法を議会に提示した(1957年9月13日)」(137ページ)。1958年にフランス空軍がチュニジアを攻撃すると,チュニジア政府は「アメリカ合衆国とイギリスに『調停』を求め,アルジェリア問題を国際問題にすることに成功」(138ページ)。「国連総会は,1958年,アルジェリア人民に独立の権利を承認する決議をかろうじて否決した。しかし,1959年になると,合衆国がフランスの意向に反対して賛成票を投じる可能性が高まり,この決議は可決する見込であった」(142ページ)。
〔戦後アフリカの独立運動をめぐる諸々の条件〕
・岡倉登志『アフリカの歴史――侵略と抵抗の軌跡』(明石書店,2001年)。第二次大戦はアフリカ人のなかの「白人神話」を打ち砕く役割を果たした。45年までの運動は政治への参加を主目的としたが,それ以後は独立運動となる。変化の背後には,アフリカの古い社会経済構造が崩れ,資本主義が形成され,労働者階級,インテリ,民族ブルジョアジーが成長していたことがあげられる。アジア諸国の独立は,55年のバンドン(インドネシア)で行なわれた第1回アジア-アフリカ会議で黒アフリカにも息吹を伝えることになった。大戦でフランスの経済力は疲弊し,かわってアメリカの影響力が戦後拡大していく。そのアメリカの政策は政治的独立の保障の上での経済的従属政策として「新植民地政策」と呼ばれる。イギリス・フランスも同じ政策をとるようになる。45年の世界労連の結成は,アフリカに労働運動を引き起こす。(182~190ページ)。バンドン会議には29ケ国の政府代表が参加,まだ独立していなかったキプロス,モロッコ,チュニジアもオブザーバーとして参加し,54年にディエンビエンフーでフランスに勝利したベトナムや,クーデタで反動政権を倒したエジプトも参加していた。ここで確認された反帝・反植民地しけ技,平和共存,アジア・アフリカの連帯は「バンドン精神」と呼ばれる(204~5ページ)。58年第1回全アフリカ人民会議「植民地主義者はアフリカから手を引け」「アフリカは自由にならなければならない」のスローガン。アフリカ解放運動の司令部としての機能を果たす常設の書記局や地域センターの設置も決定される(210ページ)。
5)その他
〔戦後におけるアジア・アフリカの大きな変化を示す指標〕
・森原公敏「21世紀の世界とアメリカ帝国主義」(『前衛』2004年3月号)。1899年オランダのハーグでの第1回ハーグ平和会議に世界から参加した国は26ケ国(アジア・アフリカで独立国とみなされたのは日本,中国,シャム,ペルシャ,トルコの5国のみ),45年設立時の国連原加盟国は51(アジア・アフリカ12ケ国),2003年末の加盟国数は191(同112)となっている(47ページ)。――世界の構造・配置の巨大な変化。
――リベリアがあがっていないことには意味があるのか? 松竹もあげないが。
――アジア・アフリカの独立と加盟は巨大な変化。同時に,そこにいまだ様々な従属の「過渡的形態」があることも忘れずに。
〔今日の武力紛争のほとんどが帝国主義的紛争ではないとする指標?〕
・森原公敏「21世紀の世界とアメリカ帝国主義」(『前衛』2004年3月号)。1990年から2002年に世界中では125の武力紛争が発生。現在も継続しているのは34件。そこに外国軍が介入しているのはアフガニスタン,イラクのみ。(47~8ページ)――「帝国主義」による介入は武力紛争の直接的要因ではない,だからこそその犯罪性が際立つ。
〔大戦下フランス帝国内部での民族運動のあり方――チュニジアとインド〕
・不破哲三『チュニジアの7日間』(新日本出版社,2004年)。ブルギバはチュニジア独立で大きな賢明さを発揮した。第二次大戦では反フランス路線に固執することなく,反ファシズムの立場で連合国に協力する態度をとった。インドの独立運動が,反イギリスから大戦に「中立」の立場をとり,一部が日本軍に協力したのとは対照的(43ページ)。
――反フェァッショと民族解放運動とのかかわりあい。
〔植民地大国であったことと深くかかわってフランスは多民族国家〕
・軍司泰史『シラクのフランス』(岩波新書,2003年)。フランスは「3人に1人は祖父母のいずれかが外国人」とされる多民族・多人種国家。50年代,フランス領インドシナ(ベトナム,カンボジア,ラオス),マグレブ(アルジェリア,モロッコ,チュニジア)の独立を期に,大量の移民が入国。人口約6000万人で,公式には移民は431万人(99年国政調査)(132ページ)
(4)グローバリゼーションをどうみるか
1)新しい問題提起
〔グローバル化・海外投資の民主化の可能性を主張する見解〕
・「綱領改定案Q&A/帝国主義についての見方の新しい発展とは?」(『月刊学習』2003年12月)。発達した資本主義国から途上国への投資を,途上国が積極的に受け入れ,それが途上国の経済発展につながるという例も生まれている。途上国を食い物にする,環境を破壊するなどの問題はあるが,だからといって途上国が投資そのものに反対しているわけではない。「グローバル化反対」でなく,各国の経済主権を保障する「公正で民主的な国際経済秩序をめざす」ことが必要(21ページ)。――要するに資本が形成する関係への民主的規制・制御の問題。それを行なう力が育ちつつあるということ。
――従属の過渡的形態,個々の被害を告発することと,当事者(経済主権者)の見解を尊重することとの相互関係,区別が大切。
2)いわゆる「新植民地主義」をめぐって
〔新植民地主義の定義について〕
・工藤晃『現代帝国主義研究』(新日本出版社,1998年)。これまでの新植民地主義の定義の2つの要素,1)植民地体制の崩壊がはじまった戦後にあらわれた,2)独立国を従属下におくための経済的・政治的支配の新しい方法・形態。工藤の見解――1)戦後としない方がいい(ラテンアメリカへのアメリカの支配などを念頭に),2)第3の要素として集団的植民地主義があげられる,その推進の主役は,アメリカ,フランス,イギリス,日本,ドイツ(54~56ページ)。
――ここで,推進の主役として一括することに課題がある。多様な従属の過渡的形態を分析することに問題があるわけではない。支配の主体の位置づけ(工藤氏ももちろんアメリカを頂点におき,またアメリカとフランスとの対抗関係もみているわけだが)が問題。「新植民地主義」対「世界人民」という対立の構図ではなく,古い植民地主義と戦後型の支配とをしっかり区別し,古い植民地主義の排除が戦後型支配の主にとっても課題となっていることをとらえること。そこがポイント。
〔レーニンの過渡形態論と新植民地主義との結合〕
※工藤晃『現代帝国主義研究』(新日本出版社,1998年)。レーニンの見解のなかに,新植民地主義問題へのアプローチが隠されている。1)金融資本は「完全な政治的独立を享有している国々さえ隷属させる能力がある」,2)国家的従属の幾多の過渡的形態をつくる,3)その手段は金融的従属,4)経済的意味での「併合」と政治的併合を区別すること(22~23ページ)。
――これらレーニンの分析に問題があるわけではない。
〔フランスのODA・軍司援助は旧植民地に集中している〕
・工藤晃『現代帝国主義研究』(新日本出版社,1998年)をいれること。69ページ,フランスは旧植民地集中型。74ページ,旧植民地21ケ国で例外なくODA第1位(80~94年合計),ほとんどの国に軍事援助,中央アフリカ,チャド,コートジボワール,ジプチ,ガボン,セネガルに計8800人のフランス軍を駐留,アメリカの仏領マイヨット,レユニオンにも4000人のフランス軍を駐留させている。ただし,ここにはアメリカの参入がある。
〔フランス最大のアフリカ基地はジプチ〕
・岡倉登志編『ハンドブック現代アフリカ』(明石書店,2002年)。「アフリカ最大のフランス軍基地にささえられ,事実上『基地国家』といった体の小国ジプチ」(340ページ,高林敏之)。旧フランス植民地では,基地が置かれているセネガルや中央アフリカはじめ,ほとんどがフランスとの軍事協力協定を結んでいた。アフリカにおけるフランスの軍事ネットワークが築かれており,セネガルや中央アフリカに駐屯するフランス軍が,「各国の親仏政権に対するクーデタ・反乱の鎮圧に出動することは珍しくない」(337~8ページ)。
――フランスのこうした行動をどうとらえるか。アメリカとの相違をのべたうえで,総体としての世界支配の主体ととらえる。そのバランスを具体的に。世界情勢論として。そこが課題,研究上の課題。レーニンのような世界構造論を今日にも。ブッシュドクトリンとその他の独占資本主義を区別しながら。
〔ODA=新植民地主義とはいえない〕
・工藤晃『現代帝国主義研究』(新日本出版社,1998年)「すべてのDAC加盟国のODAは,新植民地主義的というのはまちがいである。とくに北欧諸国のODAは,その点で注目に値する」。100%近くが贈与(無償援助)である,後発発展途上国へのODAの対GNP比率がもっとも高い,人間と子供の基本的ニーズを満たすための援助比率がもっとも高い(栄養・水・保険・衛生・教育・家族計画など)
――すでに工藤は,「ODA=新植民地主義」という理解をこえていた。
〔ヨーロッパとの経済関係が深い独立後のアルジェリア〕
・シャルル=ロベール・アージュロン『アルジェリア近現代史』(白水社,2002年)。フランスに依存しすぎと判断された経済関係(64年でフランスへの輸出は30億ディーナール,フランスからの輸入は24億ディーナール)を是正するため,まず社会主義国と,ついで資本主義国との経済関係を進展させようとした。結局,ヨーロッパ経済共同体諸国との貿易が中心になり,80年ごろには,これら諸国との取り引きが総額の約70%――その1/2は対フランス貿易――となった。社会主義国との貿易の割合は5%以下,アメリカやアメリカ大陸との貿易は約10%。フランスは70年までは最大の貿易相手国だったが,71年のフランス系石油会社の国有化以後,その役割は縮小し,イタリア・日本・アメリカ・西ドイツなどとの関係が強化された(159~160ページ)。
〔独立後のアフリカの負の遺産〕
・岡倉登志編『ハンドブック現代アフリカ』(明石書店,2002年)。独立後のアフリカの負の遺産。1)植民地時代からのモノカルチャー経済への依存,2)鉱物資源が豊かであることによるアメリカや日本など新たな先進国のアフリカへの経済進出,3)植民地支配下で定められた国境線をめぐる民族紛争。(16~7ページ)
〔アフリカへの新植民地主義的戦術〕
・岡倉登志『アフリカの歴史――侵略と抵抗の軌跡』(明石書店,2001年)。60年の「アフリカの年」をさかいに,黒アフリカの多くが帝国主義者のいいなりになり,自己の発言権をもたない時代は,一般的に終了する。彼らは国連に加盟し,61年には国連加盟総数の1/4を占め,中華人民共和国の国連加盟をめぐってはキャスティグ・ボードを握るなど,国際的な発言権を強めていく(214~5ページ)。しかし,アメリカとの共謀のもとでヨーロッパ各国は「新植民地主義的戦術」をとる。アフリカ諸国の反動的な封建勢力や,官僚ブルジョアジーを介し,『協力協定』『独立附与協定』などアフリカ側を従属的立場にたたせる協定を押しつけようとした。また,アメリカの侵入が深まった(217ページ)。
〔新植民地主義との闘いの歴史〕
・岡倉登志『アフリカの歴史――侵略と抵抗の軌跡』(明石書店,2001年)。ギニアのセク=トゥーレ大統領の国連第15回総会演説「政治的独立は,それ自体では完全な民族解放を意味しない。もちろん,それは,決定的に重要な段階である。それにもかかわらず,われわれは,民族独立が政治的解放ばかりでなく,これが肝要なのだが,完全な経済的解放をも前提とすることを認めざるをえないのである」。解放運動の主要目的は経済的自立=自律的民族経済の建設に。60年代前半から70年代後半にかけてのアフリカの民族解放運動は3つの局面。1)60年代前半。外国企業の民族化・国有化,工業化の基礎づくり,コンゴでアフリカにおける最初の新植民地主義打倒の革命(8月革命,63年),アフリカ統一機構(OAU)の結成。2)60年代半ばから末。アメリカを中心とする帝国主義国と現地反動勢力の捨て身の巻き返し。逆流期。3)60年代末から今日。民族民主革命が第1期にくらべ,はるかに拡大・深化(222~224ページ)。コンゴの8月革命は,旧宗主国フランスとのあいだに「協力協定」をむすび,国防・経済・技術・文化などでコンゴをフランスの従属下においたフルベール=ユール政権の打倒であった。マサン=デバ新政権はフランス軍基地を撤去する(225~7ページ)。
〔傀儡政権による新植民地主義の「ショーウィンドー」ナイジェリア〕
・岡倉登志『アフリカの歴史――侵略と抵抗の軌跡』(明石書店,2001年)。独立後のナイジェリアは新植民地主義の「ショーウィンドー」と呼ばれるほどに,傀儡政権による新植民地主義支配が浸透していた。これも66年には倒される(232ページ)。
3)EUと途上国との関係について
〔EU独自のグローバリゼーションについての指標〕
・村上直久『WTO』(平凡社新書,2001年)。EUはWTO下での自由貿易促進と,様々な途上国グループとの自由貿易地域創設の「二正面作戦」をとっている(113ページ)。EUは南アフリカ,メキシコと自由貿易協定をむすび,南米南部共同市場(メルコスル,ブラジル・アルゼンチン・パラグアイ・ウルグアイ4ケ国),メルコスル準加盟国のチリ,ロメ援助・開発協定を結んでいるアフリカ,カリブ海,太平洋の開発途上国71ケ国(いわゆるACP諸国,EU加盟国の元植民地)と自由貿易協定の締結を目指している。この他に途上国100ケ国と一般貿易優遇協定(GSP)をむすび,結局,世界中でEUが"通常"の貿易関係を維持している相手は,オーストラリア,カナダ,日本,ニュジーランド,台湾,アメリカの6ケ国・地域のみ(ただしイラク・北朝鮮との貿易関係は制限している)(118~9ページ)――アメリカン・グローバリゼーションとは異なる形でのグローバリゼーションの可能性がここにはある。問題は各種協定の内容である。
〔EUのグローバリゼーションには貧困・人権への配慮があるとする見解〕
・村上直久『WTO』(平凡社新書,2001年)。ACP71ケ国は貧しい。これまでEUとのロメ協定(アフリカのトーゴの首都ロメで調印された)により,EU市場へのアクセスで優遇されていた。EUとACP諸国は2000年6月,これまでのロメ協定を更新する新協定に調印。有効期間は20年。新協定では,貧困の根絶を最優先課題に設定。EUはACPに「良き統治」の基本原則と民主主義の原則を遵守し,人権を擁護するという条件で,7年間で225億ユーロ(約2兆2000億円)を供与する方針。EUはこれによってACP諸国に利益があるとするが,これにはEUへの不健全な依存が高まるなど,懐疑的な見方もある(121~2ページ)。――協定の具体的な内容をめぐる闘いが大切。EUが自動的に民主主義の旗手であるのではない。そこを誤らないこと。
〔EUのグローバリゼーションには従来援助の色彩が強かったとする見解〕
・長部重康・田中友義編著『ヨーロッパ対外政策の焦点――EU通商戦略の新展開』(ジェトロ,2000年)。EUとACPの(アジア・カリブ海・太平洋)諸国との新協定は「コトヌ協定」(71ケ国にミクロネシア連邦など6ケ国・地域が加わる,対象総人口6億5000万人)。1)平和構築・紛争防止,2)貧困撲滅,3)貿易・投資促進,4)金融改革,5)貧困の格差に応じた連帯(28ページ)。1963年EECと旧フランス植民地のアフリカ諸国およびマダガスカル18ケ国との相互特恵待遇を決めたヤウンデ協定。73年にはイギリス,デンマーク,アイルランドがECに加盟し,75年にはアフリカ・カリブ・太平洋(ACP)諸国として旧イギリス植民地もふくむ拡大途上国地域となった。75年にはECとACP諸国の援助・協力協定であるロメ協定が発足。ロメ協定は援助という観点からEU(93年11月発足)が手厚い待遇を施す性格が強く,EU側の財政負担も大きい。コトヌ協定は双方対等の立場に立ち,ACP諸国により自立を促すもの(75~6ページ)。――旧植民地とのあいだに相互協力の関係がつくられている。これが単純に支配の継続なのか,互恵的な関係なのかが問題。著者は「援助」「手厚い待遇」と特徴づけている。
――アルジェリア独立後,ただちに協定が。
――「援助・協力」だという評価。
〔EUのODAには人権・環境などへの配慮があるとする見解〕
・長部重康・田中友義編著『ヨーロッパ対外政策の焦点――EU通商戦略の新展開』(ジェトロ,2000年)。97年でEUの援助額(政府開発援助支出額,加盟国固有の援助は除く)は66億ドル。これはOECDから途上国への援助の12.2%。EUと加盟国の合計援助額はOECD全体の55.3%となる。75年前後には援助対象上位15ケ国中13ケ国がACP諸国だったが,96~97年では中・東欧・CIS諸国が拡大し,ACP諸国は2ケ国のみとなっている。93年末のマーストリヒト条約(欧州連合条約)は,途上国援助の新しい在り方を決めた。対外援助は共通の目的(人権・自由・法の支配の擁護,開発途上国の世界経済への組み入れなど)を明確にうたった。さらに欧州連合条約改正(99年5月発効)では,環境尊重と人権・民主主義をあらゆる対外協力にふくませた(76~78ページ)。
――援助額は非常に大きい。
※福島清彦『ヨーロッパ型資本主義』(講談社現代新書,2002年)。ヨーロッパ各国のイラク戦争慎重論に関連して,ロンドンの戦略国際問題研究所の年次報告(2002年5月),「(ブッシュ政権は軍事作戦にだけ力を入れているが)そうした行動によってテロリズムの根を絶つことはできない。テロリズムの根は,度量の狭いイスラムの政府が自国民の幸福を実現していく意志がないか,またはその能力がないということにある。はるかに深い目標を実現してゆくには,経済援助と結びついた,創造的で未来志向の,粘り強い外交政策が必要なのである」(217ページ)。米欧対立のもう一つの大きな要因は,途上国に対する国際経済政策の違い。フランスのファビウス前蔵相は「9月11日の事件は,世界に(貧しい国々と豊かな国々のあいだに・福島)橋を架ける必要があることを示した」という基本認識を示している(225ページ)。
――こうした大局的認識がEUの対外政策の一翼を担っていることを認めることが大切。それがEUの安保戦略における「ソフト・パワー」の重視にもつながっている。問題が,9.11以降の変化となっているところも重要である。テロを生む世界への認識の問題とともに,それに対処するアメリカのやりかたへの認識の問題,この両面から。
――日本のFTAは大国支配を押し進めるもの。
(5)「イラク戦争」の世界をどうみるか
1)アメリカの戦略
〔ブッシュ政権自身による「新しい植民地主義」政策の告白〕
・森原公敏「21世紀の世界とアメリカ帝国主義」(『前衛』2004年3月号)。2002年8月のブッシュ「国防報告」。「アメリカの戦力は,……アメリカとその連合国の意思を強制する能力を維持しなければならない。そうした決定的な打倒の中には,敵国家の体制を変えること,あるいはアメリカの戦略目標が達成されるまで外国領土を占領することがふくまれる」(第2章)(38ページ)
――イラクに限らず,より一般的な政策としてこれが示されている。戦前型の「新しい植民地主義」といえる。
2)フランスの動きをどうとらえるか
〔イラク戦争をめぐるアメリカ・フランス等の対立を帝国主義諸国間の対立とする見解〕
・大西広『グローバリゼシーョンから軍事的帝国主義へ』(大月書店,2003年)は,アメリカの軍事化を「歴史的な衰退過程」にとらえ,それは同時に「他国の勃興」を意味するとして,イラク戦争における仏独の行動を「資本主義の不均等発展」のなかにとらえる必要があるとする。そして「それが"帝国主義時代の常識"というものである」と(9ページ)。さらに「フランスもまた別種の帝国主義国家である」として,世界の変化を「『アメリカ一極支配』の構造から『諸列強の分割支配』の構造に大きく転換をしてきている」ととらえる,これがシラクのいう「『多極化』の世界」の実態だと(18ページ)。
――だが,そこには,支配者間の「対立」を見る視角はあっても,支配者と国内外の人民との対立をとらえる視角はない。それではアメリカの無法を放置せず,「国連のルールを守れ」とヨーロッパが語ることの意味が見落とされる。結果的には今日のアメリカへの免罪論になる。世界の動きのすべてを資本・支配者の思惑に還元することはできない。闘いこそが原動力。ものの見方が平板である。
〔イラクとフランスの石油取引をめぐる密接な関係を重視する見解〕
・酒井啓子『イラクとアメリカ』(岩波新書,2002年)。ソ連のアフガン侵略を転機に,イラクは79年に共産党を非合法化,さらにソ連離れをすすめ70年代後半以降に西欧との関係を深める。原油の取引相手としては,フランス,イタリア,日本が主な買い取り先に。イラクへの輸出でも,日本とドイツ,フランス,イギリスがつづいた(46ページ)。しかし,80年代半ばまで対イラク交易の常連だった日本,フランスなどの企業が,代金の取り立てに苦労して徐々に撤退するなか,アメリカは88・89年には原油輸入を急速にふやし,イラクの最大の貿易パートナーとなっていく(98ページ)。イラクのクウェート侵略にともなう経済制裁により「食糧のための石油」輸出が生まれるが,イラクは国連安保理常任理事国への接近をはかり,主な輸出相手にロシア,フランス,中国を選ぶ。またロシア・フランスには初めて外国企業の油田開発への参加を認めた。他方,アメリカもまた96年から原油輸入をふやし,98年以降は最大の輸入国となった(138~9ページ)。1)イラクは国連においてはロシア,フランスなどの支援に期待し(193ページ),2)他方アメリカはイラクへの経済進出の「乗り遅れ」につながるとして,経済制裁解除に反対した(202ページ)。
――イラクにおける経済的な利権がアメリカとフランスの対立の1つの根拠としてある。しかし,問題はそれが双方の合意による経済的な活動としてあるのであって,イラクを軍事的に従属させようとする「植民地争奪」の対象としてあるのではないということ。
――「影響力」をめぐる争い。アメリカにも利権はあった。その利権を根拠に「侵略」を行なうのかどうかが,問題の分かれ目。
〔イラクとフランスの利権による結合/各国市民の運動との関連も?〕
・酒井啓子『イラク――戦争と占領』(岩波新書,2004年)。2002年秋,フランス・ロシアにとってアメリカのイラク侵攻への最大の懸念材料は,フセイン政権との利権契約および借金返済(71ページ)。2003年1月,国連査察期間を短くせよとのアメリカの要求に,フランス,ロシア,ドイツが抵抗。「なによりも,アメリカが戦後のイラクに描いている青写真のいい加減さが,中東諸国の内情を熟知しているフランスに危機意識を抱かせたものと思われる」(80ページ)。2月14日国連安保理理事国演説でフランスのド・ビルパン外相「武力行使は正当化されず,査察継続が戦争にとって代わられるべき」「フランスは国際社会すべてが決然と行動することを願う。そしてその価値観に対して忠実であり続け,よりよい世界を共に築き上げる力があることを,信じている」拍手喝采。この数日前には安保理理事国各代表にメールをとの呼びかけが幾度も,各代表にはメールが洪水のように。2月15日600の都市で1000万人のデモ,ロンドンだけで100万人は史上初,アメリカでは開戦の日にサンフランシスコで1000人の逮捕者(83~5ページ)。安保理理事国内部でもアメリカとフランスの援助合戦があり,3月10日にフランスは「拒否権の行使」を明言,3月17日アメリカは外交交渉の打ち切りを宣言,同日夜にはフセイン政権への最期通告を行なう(87ページ)。
――強烈な対立だが,問題は対立が双方の側からする「侵略」ではなく,一方が「侵略」を,他方が「国連のルール」の尊重を語っていること。これを単純に「帝国主義諸国間の対立」ととらえることはできない。酒井は,利権によるつながりを強調しながら,それ以外の問題についても位置づけを明確にしないままに語っている。
――青写真のいいかげんさというのは,どういう意味か?
――アメリカが安保理の多数派を形成できなかったという現実をしっかりとらえること。
〔フランス・ドイツによるイラク人への主権委譲の主張を復興事業への参入を重視してとらえる見解〕
・酒井啓子『イラク――戦争と占領』(岩波新書,2004年)。戦後,アメリカに復興政策の権限独占をやめろと主張しているのは,フランス,ドイツ,ロシアなど。特にフランス・ドイツは戦後早い時期から「イラク人政権への早期主権委譲が必要」と主張。10月23・24日のマドリードでのイラク復興支援会議では,フランス・ロシアは独自の資金供出を拒否(ドイツは若干)。結局総額330億ドルのうち,アメリカの203億ドル,日本の50億ドルで全体の2/3以上。12月,アメリカはフランス・ドイツを復興事業から排除すると発表(221~2ページ)。フランスやロシアが「イラク人の暫定政権」にこだわるのは,復興事業への関与に焦点がある。イラク人政権が復興事業の主体となることが,現時点で復興に堂々と参加できる唯一の機会(225~6ページ)。
――復興事業をめぐる利害の対立はある。だが,ヨーロッパはイラクへの占領支配をもくろみはしない。アメリカに合意しはしない。そこが重要な意義をもつ相違。
――日本の復興資金援助50億ドル,1ドル110円として,5500億円。
〔フランスの反米行動を「多国間主義」から説明する見解(ただし盲目的な国連信仰ではない)〕
・軍司泰史『シラクのフランス』(岩波新書,2003年)。フランスがイラク戦争に反対した理由。1)油田利権でなく,2)平和主義でもなく,3)「多国間主義」。そのためにフランスは国連安保理を重視するが,他方で,盲目的な国連信仰があるわけでもない。99年のユーゴ空爆では安保理の議論を結果的には回避した。(185~6)――酒井との意見の違い。国連信仰があるわけでもないからこそ,闘いが必要になる。ユーゴ空爆については西口論文の評価とあわせて。
――軍司は,酒井と異なり,利権ではアメリカ一極支配の抑制を重視する。たとえそれが自国利益を最優先する立場からのものであり,利益実現の方法が国連を核とした多国間主義であれば,それは客観的には平和維持秩序形成の方向に向かう。この理解が大切。大西との相違。
〔国連憲章を重視するシラクの世界観〕
・軍司泰史『シラクのフランス』(岩波新書,2003年)。フランスは90年代におけるアメリカとヨーロッパとの軍事力格差から教訓を得ている。ユーゴ空爆でも8割は米軍がになった。この格差がアメリカによる戦争をカジュアルにした。その変化にフランスは危険を嗅ぎ取った。2003年4月12日シラク演説「世界の安全保障と国際法」。「冷戦時代,国連憲章は手の届かない理想に見えた」「50年近くにわたり,現実には破壊手段の均衡,核の黙示録の恐怖が国際秩序の基盤となってきた」「私たちは現在,いわゆる『歴史の終わり』が,戦争という手段の復帰として表現されるさまを目撃している。戦争は紛争解決の一手段として蘇った。同時に逆説的だが,(自由など)私たちの共通価値の勝利は,それぞれの国家が集団的連帯的な責任の原則に従い,法に支配された力の在り方を自由に検討できる世界を生み出したと言える。それは国連の枠組みで言えば,外交と軍事力の間に必要な均衡を集団で定義することが,公正さの原点であるような世界,国際社会の支持なしには,軍事力行使が困難な世界だ。つまり,私たちは国連憲章の諸原則に立ち戻ったといえる」(187~8ページ)。
――アメリカによって無法が「蘇った」。同時に,無法を「法」で制御することが可能に時代となった。それは多国間主義によるしかない。この点でのシラクの主張は明快である。
〔アメリカの先制攻撃論にシラクは違和感を抱いているという見解〕
・軍司泰史『シラクのフランス』(岩波新書,2003年)。イラク戦争前,米仏は多くの点で一致していた。しかし,問題の解決策をめぐる議論で対立が生じた。その核心は,9.11からくみ出した教訓の差異。シラクはブッシュ・ドクトリンによる先制攻撃論に根本的な違和感を抱いていた。自衛を口実に先制攻撃が認められるなら,明日にもインドがパキスタンに,中国が台湾に攻め込むかもしれない。それを難じる根拠が失われる。これは深いところでの世界観の衝突である(192~3ページ)。
――どういう世界をつくるかの世界秩序の在り方をめぐる衝突。これはJCPの主張にそのまま重なる部分。秩序なき世界への違和感。
〔シラクの軍事力信奉のあらわれとしての核実験〕
・渡邉啓貴『フランス現代史――英雄の時代から保革共存へ』(中公新書,1998年)。95年9月から核実験。96年1月の6回目の実験ののち,実験終結を宣言。以後,フランスは南太平洋非核地帯条約(ラロトンガ条約)への加盟の意思を明らかにした(311ページ)。
――南太平洋仏領ポリネシアで実験。国際的批判のなかで当初の予定8回を6回に減じながらも,しかし,自国の軍事力は確保。
3)EUの安全保障戦略をどうみるか――フランス・ドイツの大きな役割
〔国連重視のEU安保戦略〕
・浅田信幸「注目すべきEUの『安全保障戦略』」(『前衛』2004年3月号)。2003年12月12日ブリュッセルでの欧州理事会(首脳会議)で,1)欧州安全保障戦略「よりよい世界の中の安全な欧州」を採択,2)欧州委員会が提出していた報告書「欧州連合と国連――多国間主義の選択」(03年9月10日発表)を承認。EUの安保外交路線の基本を初めて明らかにしたもの。注目されるのは「1)イラク戦争に示された米国の単独行動主義(ユニラテラリズム)と先制攻撃・予防戦争戦略に対して,2」なによりも国連を中心とした多国間主義(マルチラテラリズム)を強調し,危機を生み出す根源の問題に取り組む予防外交の展開を打ち出したことにある。それは米国の『国家安全保障戦略』に対する明白な一つのアンチテーゼとなっている」(70ページ)。戦略文書作成責任者のハビエル・ソラナ共通外交・安全保障上級代表は,首脳会議翌日の論文で「国際関係の基本的枠組みは国連憲章である。国連安全保障理事会は国際的な平和と安全保障に主要な責任を負っている。国連を強化して,その責任を全面的に果たせるようにし,効果的に行動できるようにすることは欧州の優先課題である」(71ページ)。
――アメリカへのアンチテーゼが,自らもが「新しい植民地主義」に走るのでなく,「国連憲章」の実施となっているところに両者の決定的な相違があり,意義がある。
――国連尊重には5大国中心主義の限界はある。
〔EU安保戦略はアメリカとの「対等」の関係を指向している〕
・浅田信幸「注目すべきEUの『安全保障戦略』」(『前衛』2004年3月号)。武力行使を原則的に否定していないが,外交や経済援助などのソフト・パワー重視の姿勢を明言。経済についても政治についても「ルールにもとづく国際秩序がわれわれの目標」と明示。米欧関係・NATOに配慮したところもあるが,アメリカとの対等な関係を強調してもいる。EU15ケ国のうち11ケ国がNATO加盟国だが,それが盟主の路線に公然と異を唱えた。戦略文書の策定過程でも,当初の準備文書と採択された文書では,1)武力行使を示唆する文言が減り,2)多国間主義が強調され,3)アメリカとの対等な関係をめざす姿勢が強まっている。(72~74ページ)
〔EU安保戦略には軍事力信奉の要素があるが植民地主義ではないとする見解〕
・浅田信幸「注目すべきEUの『安全保障戦略』」(『前衛』2004年3月号)。シラクには対米自立とともに独自の軍事力強化という形での軍事力信奉への傾斜もある。しかし,それはイラク戦争に示した国際法重視の姿勢からして,かつてのような植民地征服・支配のための軍事力ではない。アメリカの独走を牽制するためにも,アメリカに依存せずに,紛争予防・警察活動,平和維持活動を行なう力をもつとの表明(77ページ)。
――単純な「植民地争奪」論にはならない。一極主義批判のための軍事力?
――ただし,フランスが保有する核が,国連憲章の精神に矛盾するものであることについては,別個に批判がいる。
〔EU安保戦略の実際は今後の展開にかかるとする見解〕
・浅田信幸「注目すべきEUの『安全保障戦略』」(『前衛』2004年3月号)。欧州安保戦略の文字通りの実践は今後の課題。NATOとの関係,アメリカの指揮権介入の問題,域外諸国への出動の基準など,今後の展開にかかる(79ページ)。――だからこそ闘いの力がいる。
〔「新戦略」段階にも国連の意義をめぐるNATO内部の対立があったとする見解〕
・西尾正哉「米国のNATO戦略と欧州同盟国の反発」(『前衛』2004年3月号)。新戦略概念の採択時も採択後も,欧州同盟国は国連安保理の承認を重視していた(92ページ)。シラクは新戦略概念採択後の記者会見で「NATOはこの国際機関(国連)の承認なしに行動できないし,しないであろう」と(91ページ)。
・軍司泰史『シラクのフランス』(岩波新書,2003年)。フランスは99年のユーゴ空爆に加わった。NATOがかかげた武力行使の大義は「人道的介入」。国連の承認はなかった。しかし,国際社会での一定の支持はあった。空爆開始直後,ロシアが安保理に提出した攻撃停止決議案は,反対12,賛成3で否決されている(189~190ページ)。
――やはり問題は,9.11以後,あるいはブッシュ・ドクトリン以後に大きな展開を見せたというべき。
〔イラク戦争をめぐるNATOの亀裂〕
・西尾正哉「米国のNATO戦略と欧州同盟国の反発」(『前衛』2004年3月号)。2003年1月アメリカはドイツ駐留NATO軍をイラクと国境を接するトルコ防衛に覇権することをNATOに提案。ドイツ・フランス・ベルギーの強い反対で会議は決裂。イラクで国連査察団が活動をつづけるもとで,NATOがイラク攻撃を前提にした活動をすることは国連の活動を弱体化させるというのが理由。(95ページ)
――すでにNATOは「アメリカいいなり」の組織ではなくなってきている。国連の活動を尊重するとの表面のもとでのNATOの亀裂。
〔フランスはNATOの軍事機構にそもそも加わっていない〕
・西尾正哉「米国のNATO戦略と欧州同盟国の反発」(『前衛』2004年3月号)。フランスは66年にアメリカの核独占体制を批判し,NATO統合軍事機構を脱退している。これ以後,フランスは軍事機構には加わっていない(95ページ)。
――NATOの具体的な構造はどうなっているのか? 『社会科学総合辞典』では,フランスは88年以降軍事機構から脱退となっている。いずれが正しいのか?
〔アメリカへの妥協はあったが欧州軍事本部はつくられた〕
・西尾正哉「米国のNATO戦略と欧州同盟国の反発」(『前衛』2004年3月号)。欧州安保戦略の採択にあたり,アメリカともっともはげしいやりとりがあったのはNATOから独立した「司令部」の新たな設置。2003年4月29日,フランス,ドイツ,ベルギー,ルクセンブルグの4ケ国で独自の軍事本部創設で合意。パウエルなどアメリカの激しい批判があるが,イギリスの妥協によって話はすすむ。10月下旬,アメリカは緊急のNATO大使級会合を要求。「米国は将来のEU防衛政策を潜在的な競争者とみており,大西洋同盟国間の緊張を強調するもの」と(フィナンシャル・タイムズ)。12月12日のEU首脳会議で欧州軍事本部はNATO本部内に「欧州司令室」として規模・機能を縮小する形で合意した。(96~98ページ)
――アメリカには強い警戒心がはたらいた。それによる巻き返しはあっても,結果的に「司令室」は確立した。アメリカの影響力の低下はまちがいない。問題はこの「司令室」が行なう軍事活動の内容である。そのためにも「国連のルールのもとで」というしばりをかけることが大切になる。
――ヨーロッパ美化でなく,事実にもとづく評価を与える。ただし,歴史の「転換」のポイントがいまどこにすえられているかをつかみとりながら。世界秩序をめぐる対立。
(6)国連の役割をどうみるか
1)国連の性格と期待される役割
〔国連の基本精神と弱点の両面を見る〕
・坂口明『国連――その原点と現実』(新日本出版社,1995年)。国連は45年10月24日に発足,原加盟国は51。国際連盟に次ぐ「集団的安全保障」の2番目の組織(17~8ページ)。
・坂口明『国連――その原点と現実』(新日本出版社,1995年)。国連の真価の発揮をはばむのは,1)5大国中心主義と,2)軍事ブロック容認の条項(45ページ)。5大国の特権,1)無期限の常任理事国である,2)重要事項の採択における拒否権,3)自らが紛争国であっても部分的例外を除いて拒否権をもつ(46ページ)。国連では安保理の権限は絶大で,平和維持機能に第一義的な責任を負うのは15ケ国の安保理。国連総会はこの問題では安保理への勧告以上の権限をもたない(50ページ)。総括的にいって,国連誕生の過程には,1)戦争を禁止し平和をもとめる探求の反映,2)第二次大戦後の最大国となるアメリカの世界支配戦略,それと連携する諸大国の思惑が刻み込まれている(59ページ)。基本精神,1)加盟国の主権平等,内政不干渉,2)武力による威嚇や武力行使の禁止,3)国際紛争は平和的に解決する義務を負う,4)平和的解決が不可能な場合には非軍事的または軍事的な集団的制裁をすることができる,これの発揮が求められる(181ページ)。
――国連に2面性をみるからこそ,基本精神の発揮が大切になる。それによって5大国をしばることも必要になる。「国連=大国同盟」という理解にとどまらず。
〔21世紀の課題についての問題提起――国連平和秩序と文明の共存〕
・不破哲三『21世紀はどんな時代になるか』(新日本出版社,2002年)。大事なのはアメリカの覇権主義がすんなりと世界に受け入れられる時代ではないという,時代認識。世界の構造,配置の大きな変化。非同盟諸国(中心は,アジア,中東,アフリカ,ラテンアメリカ)が国際政治を動かす一定の力をもちはじめた。2000年の国連総会決議で「新アジェンダ連合」やASEANともあわせて,アメリカに核兵器廃絶の目標から「究極」の文字をとることを同意させた。究極廃絶論でなく,緊急の課題として核兵器廃絶を語る立場にアメリカもあからさまに抵抗できない。歴史的な力の成長。今後の問題を考えるうえでは,1)国連憲章にもとづく平和秩序を本気でつくる努力,初心にかえった国際的努力,2)異なる文化のあいだの平和共存が大切,特にイスラム(93~105ページ)。
〔軍事同盟は戦争を誘発するという統計〕
・坂口明『国連――その原点と現実』(新日本出版社,1995年)。ジャック・レヴィの研究によると,軍事同盟への参加は戦争を防ぐより誘発する可能性の方が高い(1495年から1975年までの戦争の現実から)(40ページ)。
2)反戦の思想と組織の発展
〔最初の集団的安全保障組織としての国際連盟〕
・松竹伸幸『反戦の世界史――国際法を生みだす力』(新日本出版社,2003年)。歴史上はじめて戦争を制限した法規はフランスの1791年憲法(12ページ)。しかし,92年の立憲君主制打倒で短命に終わる(30ページ)。これが国内法だったのに対して,国際法としては国際連盟規約(1920年)が最初。28年には「戦争放棄に関する条約」(不戦条約)も,「国際紛争解決の為戦争に訴ふることを非」とし「国家の政策の手段としての戦争を放棄すること」を宣言(第1条)(36~7ページ)。1918年1月ウィルソンの14ケ条の提案が国連規約に結実する思想の源泉。ただし,これは植民地問題については「自由にかつ公平無私に整理する」というにとどまり,レーニンも「諸国家の統治権を分配し,世界を分割しようとするこの悪名高い『国際連盟』」とのべた。革命翌日のレーニンによる「平和についての布告」こそ,ウィルソンに14ケ条作成を決意させた要因(39~40ページ)。
――国際連盟に対するレーニンの渋い評価。植民地の分割支配を前提し,これを固定化する条約として。たほうで,レーニンの「平和の布告」による国際的なイニシアに対するアメリカの対抗という意味もある。
〔国際連盟の成立におけるロシアの役割〕
・坂口明『国連――その原点と現実』(新日本出版社,1995年)。1914~8の第1次大戦はすべての帝国主義国をふくむ30数カ国をまきこみ,約1000万人が戦死,2000万人が負傷。1920年に国際連盟。その設立にはレーニンの「平和の布告」が大きな影響。そのことはヴェルサイユ講和会議でのアメリカ・イギリスの発言にも裏付けられる(37~9ページ)。
〔国連に形成には反ファッショの国際同盟が大きな役割を果たしたとする見解〕
・松竹伸幸『反戦の世界史――国際法を生みだす力』(新日本出版社,2003年)。第二次大戦には1億1000万人の兵士が動員,2500万人が戦死,民間人の死者2500万人,戦傷者3500万人。第一次大戦の民間人犠牲者50万人の50倍。ポーランドでは人口の17%にあたる600万人が死亡,ソ連・中国はそれぞれ2000万人の死者。帝国主義が放置されれば人類は破滅に陥りかねない(72ページ)。41年8月ルーズベルト・チャーチル共同発表の「大西洋憲章」「両者の国は,領土的たるとその他たるとを問わず,いかなる拡大も求めない」「両者は,すべての国民に対して,彼らがその下で生活する政体を選択する権利を尊重する」。42年1月「連合国共同宣言」26ケ国(のちに47ケ国),大西洋憲章に賛意。43年10月米英ソ中「モスクワ宣言」で国際機構の必要性を強調,44年ダンバートン・オークス会議にアメリカが国連憲章草稿を提出。45年6月国連憲章はサンフランシスコ会議で採択。各国国民の大きな闘いが反ファッショの団結を生み,これが戦争に勝利したことが国連憲章の誕生につながる(73~7ページ)。はげしく対立していた米英ソが第二次大戦で「大同盟」をつくることができたのは,ファシズム打倒を何より優先すべきだという国民の声(87ページ)。
――しかし,国連憲章は植民地解放には直接,道を開かず。フランス,アメリカの反対。
〔国連憲章で守られてこなかった「武力不行使」の原則〕
・松竹伸幸『反戦の世界史――国際法を生みだす力』(新日本出版社,2003年)。国連憲章に明記されながら守られて来なかったものの一つが,第2条第4項の武力不行使原則。この原則の尊重に向けて流れを大きく変えたのがベトナム戦争をめぐる国際的な対決。54年のジュネーブ協定の作成には参加しながら,協定には署名しなかったアメリカは,ベトナム南部の傀儡政権をたてて植民地として支配しようとした。60年には南ベトナム解放民族戦線がうまれ,61年にはアメリカが公然と介入戦争にふみだす。64年にはトンキン湾事件をでっちあげ,侵略をベトナム全土にひろげていく。75年まで最大時で50万人,のべ240万人の兵員を派遣。第二次大戦でつかわれたよりはるかに大量の爆弾を投下。生物・化学兵器も。史上最大の破壊戦争(107~111ページ)。
――武力不行使原則の実態化にとって大きな役割を果たしたのが,ベトナム反戦の運動。
〔「武力不行使」をめぐる世界的世論の高まり――ベトナム反戦を契機に〕
・松竹伸幸『反戦の世界史――国際法を生みだす力』(新日本出版社,2003年)。巨大な反戦運動,アメリカ国内でも。72年パリで「インドシナ諸国人民の平和と独立のための世界集会」に84ケ国,32国際団体から1200名,73年ローマでも。こうした運動の高揚を理論的にささえたのが,国連憲章への理解の深まり。特定の国が行なう戦争の是非が国連憲章を基準にして諸国民に判断され裁かれるという新しい局面の開始。75年ベトナム勝利。これ以後,79年ソ連のアフガン,83年アメリカのグレナダ,86年リビア,89年パナマの軍事侵攻にいずれも国連憲章違反として国連総会で批判決議があげられていく。54年グアテマラ,65年ドミニカへのアメリカの軍事介入はラテンアメリカ諸国でも意見対立があり,ベトナム問題でも国連総会はアメリカを批判できず,非同盟諸国会議さえ侵略を公然と批判することはできなかったのに。さらに国連憲章の規定を発展させる動きとして,70年「友好関係原則宣言」,74年「侵略の定義」が国連総会決議される。侵略への基地提供も「侵略の定義」にふくまれることになる(111~117ページ)。
――一般論でなく,具体論として,個々の戦争の是非が問われる段階へ。
〔国連憲章の実施の大きな障害となる核兵器/撤廃にむけた運動の広がり〕
・松竹伸幸『反戦の世界史――国際法を生みだす力』(新日本出版社,2003年)。核兵器の存在は,集団安全保障体制を根底からくずす,国連憲章上の無視できない問題。侵略国が圧倒的な軍事力をもてば,その国に集団的制裁措置を発動することはほとんど不可能だから。核保有大国である安保理常任理事国自身の侵略を排除する実力に国連が欠けるという実態面の問題もある。76年非同盟諸国会議が核兵器の使用禁止・核軍縮を優先課題とする国連軍縮特別総会を要請。78年に開催。アメリカなどの反対で核兵器使用禁止の決議案は採択されなかったが,78年秋の国連総会で同じ決議を反対を押し切って採決に持ち込み,103国の賛成で採決。80年を前後してアメリカ,ヨーロッパでも反核運動の盛り上がり,87年には中距離核ミサイル全廃条約(歴史上,配備された核兵器が撤去されたのははじめてのこと)。90年代後半の変化,1)非同盟諸国が期限を切って核兵器を廃絶する国際合意をもとめて,国連総会に決議案を提出,毎年圧倒的多数で採択,2)98年スウェーデン,ニュージーランド,アイルランドなど7ケ国が核保有国に核兵器廃絶のための交渉開始をもとめる声明を発表(資本主義国の一部政府にまで)。「新アジェンダ連合」。秋の国連総会でも同じ趣旨の決議を実現させた(120~126ページ)。
――核兵器廃絶への実力の高まり。ここでも非同盟運動の役割の高まり。同時に,それは国連憲章の精神をいかす道の開拓でもある。
3)イラク戦争の中での国連
〔イラク戦争において「武力不行使」を求めた世論の新たな展開〕
・松竹伸幸『反戦の世界史――国際法を生みだす力』(新日本出版社,2003年)。アメリカのイラク戦争は国連憲章に反している。これへの国際世論の反撃は新しい段階へ。世界的規模での運動が,各国政府の態度にも影響力を。イスラム諸国会議機構(57ケ国),アラブ連盟(23ケ国),非同盟諸国首脳会議(116ケ国)の他,フランスやドイツなどアメリカの同盟国にまで反対の世論が。非同盟諸国の要請で安保理の公開協議がもたれ,大多数が武力行使反対の態度表明を行なったことも新しい取り組み。83年のグレナダ侵略に際して,フランス「国際法からみて驚くべきこと」「強く非難する」,ドイツ「事前の連絡があれば反対した」,イタリア「米軍の侵攻であり不同意」,カナダ「アメリカの行為は正当化できない」,イギリス「強い疑問」「米軍の可及的かつ速やかな撤退」。さらにイラク戦争では国連安保理が,アメリカの武力行使が許されるかどうかを真剣に議論し,その多数が拒否しようとした(国連史上初めて)。21世紀は国連憲章をめぐる攻防の時代に。憲法9条を守る闘いは,これと一体(142~145ページ)。
――国連無力論でなく,また単純な「大国同盟」論でなく,これらの事実に即して,いまある国連の役割をどう成長させるかを明らかにする。
〔イラク戦争/アメリカの単独行動主義に対するアナンの国連原則を基準とした批判〕
・浜谷浩司「海外リポート・国連総会・アメリカの単独行動主義に集中した厳しい批判」(『月刊学習』2003年11月)。イラク戦争後初の国連総会(2003年9月)。冒頭のアナン事務総長演説が議論の基調を決めた。「国家は,先制して武力行使する権利をもつ」「安保理の合意を待つ義務はなく,一国あるいは有志で行動することができる」というアメリカの論理は「58年間,世界に平和と安定をもたらしてきた諸原則(国連憲章のこと)にたいする根本的な挑戦だ。こんな論理が受け入れられるなら,単独行動主義による無法な武力行使がまん延しかねない」(110ページ)。踏み込んだアメリカ批判。シリア,ヨルダン,エジプト,フランス,ドイツ,ロシア,ブラジル,中国,ベトナム,スウェーデン,メキシコなどの批判(111ページ)。
――国連は万能ではない。しかし,そこには積み上げられたルールがあり,これを守ることで平和を維持しようとする力がある。この「対決」を帝国主義者同士の同じ地平での対決だとすれば,それはアメリカの行為の免罪にしかならない。
(7)いままでの自分の見解に照らして
・国際問題については発言をしてこなかった。認識の不十分さへの自覚があった。一国主義的な理解。
・しかし,基本的には「独占資本主義=帝国主義」あるいは「帝国主義の本質は独占資本主義」という理解で論文を書いてきた。どういう歴史的条件のもとで,独占資本主義は帝国主義という現象をとるか。そのことを問う視角が欠けていた。それは世界システムとして帝国主義をとらえるという視角の弱さもかかわっている。
・木谷勤『帝国主義と世界の一体化』(山川出版社,1997年)。「今日でもなお帝国主義をもっぱら資本輸出や独占資本主義といった経済事象だけで特徴づける旧い見方がみられる」(9ページ)。「私も帝国主義を長期的パースペクティヴでとらえながら,今のところ19世紀末から1945年までを,二つの世界戦争をふくみ世界分割競争がクライマックスに達した帝国主義現象のもっとも典型的な一時期とみなしたい」(28ページ)。
――レーニンの「帝国主義」研究を広い視野にすえてとらえる。1)すべての資本主義国が植民地政策をとるようになった段階,2)そして,その再分割の戦争がくりかえされるようになった段階,その段階についての研究であり,それ以前の植民地主義全般についての研究でもなく,帝国主義戦争なき後の現実についての研究でもない。歴史的意義を正確にとらえること。
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