2003年10月18日(土)……長谷川慶太郎・竹中平蔵『これからの日本とアメリカ』(学習研究社,1995年)から
・もっぱら竹中氏の発言のみに注目して読む。
・1980年代半ばからアメリカの経済学会の人気セッションが「経済成長論」に移行した。その背後にはアメリカ型ルールとは異なるアジア型の成長が生まれてきたこと(83ページ)。---以前の竹中批判論文における「経済成長論」の位置づけとの関係を確かめること。
・クリントン政権は財政再建のための増税・財政支出削減によるデフレ効果を相殺するものとして,アジア・太平洋への輸出を位置づけた。APECもそこから必要になる。グローバリゼーションは外に新しいフロンティを求めることと一体である(86ページ)。---しかし,その「フロンティア」には先住民がおり,アジアの国民がいる。彼らの生活・経済に配慮しない,自己中心主義への批判はないのか。
・NAFTA(北米自由貿易協定)の批准,APEC,GATTウルグアイ・ラウンドの妥結,アメリカはこの3層の国際戦略をとっている。日本はアメリカともアジアとも仲良くといっているが「そういった曖昧な姿勢がゆるされなくなっている」。アメリカにとってはマハティール構想をいかにおさえるかが関心事。「日本は,アメリカとアジアの両方から踏み絵を踏まされて迷っている」(90-92ページ)。---ここでは,いずれを踏むべきかを竹中氏は明示しない。そうであれば,氏の実際の活動で判断するほかないか。
・「一橋大学の山沢逸平先生とか,大体この地域の専門家の方は,このマハティール構想というのは,政治的には問題があるかも知れないけれども,経済的には実は一番実態を反映したものなんだ,という判断なんです」(96ページ)。---調べること。
・マクドナルドは世界共通通貨のひとつ。マック・カレンシー。ニューヨークでは90円,それが日本では240円,バンコックは90円。日本の市場障壁がいかに大きいか(113-114ページ)。---なぜ異常円高にふれないのか,この本が書かれた時期は,円が史上最高値に向かう時期であるにもかかわらず。ためにする議論? はじめに結論ありき? 144ページにも長谷川氏の円高を無視する発言に同意する箇所がある。
・アメリカはソフト経済パワーを巧みにあやつっている。これによってアジアでの優位が目立ってきた。ひとつは知的インフラ,もうひとつは情報インフラ,最後が資本主義のインフラ。世界中どこでもインテリはアメリカ発のニュースを,「アメリカの解釈に基づいて英語で聞いている」それが日本にはない(118-119ページ)---CNNの世論操作,そのソフトパワーが自己中心的に活用されるものであることにより,世界に多くの軋轢が生まれている。そのことへの批判がない。強いもの(アメリカ)を見習うという姿勢のみ。そもそもソフトであれ,ハードであれ,他国にむけられるパワーをそのまま肯定すること自体に問題があるのではないのか。
・「会計原則を統一しないと単一市場にならない」「単一市場にすると,アメリカの利点は非常に大きなものになる」(長谷川)。これに竹中氏は会計原則のアメリカへの統一化を主張(120ページ)---為替の異常円高を放置して市場の単一化をすすめるなら,日本経済そのものが破壊されてしまう。日本経済がおかれた「外的」環境にはまるでふれない,それはアメリカが日本にあたえる「聖域」ということか。
・「日本の金融・証券市場の空洞化」は「何も問題ないかもしれない」。「基本的には農業と同じで,元来競争力がないと割り切ってはどうですか」(122-123ページ)。---競争至上主義的発想,90年代のアメリカによる日本金融市場への進出戦略と内容は合致。アメリカのエージェント(吉川)。さらに農業の切り捨ても当然視。他の先進国にこれほど自給率の低い国がどこにあるというのか。
・金融部門は世界の中での国家戦略がえがける部門。国連やGATTをつくる際にも,ウォールストリートの金融家が大きな役割を果たした。そうした金融家が育つ環境が必要で,規制に守られて生き残ろうとするような金融家は必要ない(124-125ページ)。---ということは,日本には国家戦略を描く部門そのものが不要ということか。残るのは対米従属という国際「戦略」のみ? ドルを支える以外のマネー戦略がない(吉川),世界戦略が描けない(上田)。
・公共投資630兆円は「増やしたという意味では大変いい」。問題は何をつくるかの中身を示さないこと。その意味では「日本の無責任体制の,象徴」(160-161ページ)。---中身が示されないで,莫大な財政支出の金額だけが決められることのどこが「大変いい」のか。ここでもアメリカの圧力は,無条件で受け入れられる前提としてある。
・公共投資が「国民生活とあんまり関係ないところで投資されている」。「都市生活者への配分が少ない」。「この際,国家的なシンボルプロジェクトみたいものものをつくる必要がある」(164-165ページ)。---地方へのバラマキから都市への集中へという小泉流都市再生に通じるものがある。他方で,シンボルプロジェクトは「国民生活」と関係のあるものになる保障はあるのか。
・経済と政治の癒着が問題になっている以上,物理的距離を離すことを考えるべき。「首都移転」が必要。国会と官僚,霞が関を移す(168-169ページ)。---電話で話して,密使が金を運ぶ。「物理的距離」がどうして,その障壁になるというのか。企業・団体献金の禁止を読むものの目からそらせつつ,最悪の財政破壊公共事業といれわる「首都移転」が合理化される。それのどこが「新自由主義」か「小さな政府」か。「都市再生」は土建国家の再編と集中(五十嵐・小川)。
・アメリカには「ごみ缶理論」がある。政治家が政策を決定するときに,ごみ缶に入っている政策から掘り出し物を出す。ところが日本にはごみ缶がない(174-175ページ)。---これが竹中氏流のシンクタンク設立論につながる。政策専門家による政治家のコントロール。アメリカの経済シンクタンクを念頭? 『経済政策論争』?
・日本は理想論者からリアリストにもどらねばならない。アジアのケアも必要だし,安全保障の責任も追わねばならない(186-187ページ)。---「アジアのケア」はどういう立場から行われるのか,なぜ安保の責任がアメリカの戦争への自動的追随なのか。そこの説明がまるでない。ようするに当然視されており,前提とされている。
・430兆円が630兆円に増えた。しかし物価水準の変動があるので,630兆円は実質的には510兆円の効果しかない。私(竹中氏)は,以前から530兆円が必要だといってきた。したがって,630兆円でもまだ「決して十分な額ではない」。ただし「現状の硬直的な投資配分をどう見直し,国民生活に直接役立つようなものにするか」が問題(234ページ)。---いったい何をどう考えての発言なのか。財政赤字をどうするかについては,何ひとつ案が示されないにもかかわらず。
・「小さくても強い政府にむけて,徹底した規制緩和と,一方で政府の役割を見直すという作業を,われわれは急ぎ進めていかなければならない」(258ページ)。---630兆円でもまだ足りないと語りながら「小さな政府」を追求するという。この支離滅裂。もっともレーガンも同じことを語っていたから,当然竹中氏にも自覚はあるのだろう。意図的な国民の欺きという他ない。
・明快なのは決してアメリカを批判しないというその姿勢。アジアをアメリカがフロンティアと勝手に位置づけるも良し,ソフトパワーを他国に向けるも良し,それらのパワーが日本に向けられ,円高が強要されるのも良し,公共事業が強要されるのも良し,アメリカ追随のリアリストであることを求められるのも良し……そして,それに飽きたらず,アメリカ型の経済界による政治支配強化のための「ごみ缶理論」をふりまわし,対米従属型のシンクタンク設立論をぶちあげる。竹中氏の対米従属姿勢,アメリカの主張を侵すべからざる大前提としてものを考える,その発想法にあらためて驚かされる。これが日本の経済閣僚のナンバーワンである。いったいどこの国の閣僚でいるつもりなのか。
最近のコメント