以下は、経済理論学会編『季刊・経済理論』第47巻第1号、2010年4月20発行、82~84ページに掲載されたものです。
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書評
『グローバル資本主義と日本経済』
鶴田満彦著 桜井書店,2009年
石川康宏(神戸女学院大学)
1・望ましい経済システムを求めて
1975年の入学以後,私の大学生活の多くは学生運動に費やされるものとなった。その後,経済学に関心をもつようになり,いくつかの研究書に手を伸ばしはじめた時,大学生協で手に入れた最初の本の一冊が鶴田満彦氏の『現代日本経済論』(青木書店,1973年)であった。
それから30数年をへて,同書は今も本棚の奥に収まっている。編集委員会より『グローバル資本主義と日本経済』の書評を課せられた時,最初に頭に浮かんだのは,この懐かしい思い出であった。
「あとがき」によれば,「本書は,1990年代以降の主としてグローバリゼーションや日本経済に関する論文や講演記録をまとめて一本にしたものである」(p.343)。
著者は「論文のほかに講演や講義の記録が入っていたり,補論として書評まで入っている不体裁な書」と書かれているが(p.347),こうしたつくりは本書にまとめられた思索の成果を,様々な角度からわかりやすく読み込ませる長所をつくるものともなっている。目次は次のようである。
序論 グローバル資本主義と2008年世界経済恐慌
Ⅰ グローバル化とその変容
第1章 グローバリゼーションとは何か
第2章 グローバリゼーションと国民経済
第3章 グローバリゼーションの経済学問題
第4章 金融資本再考
第5章 現代資本主義の変容と多様性
Ⅱ 現代国家の危機と将来
第6章 現代国家の危機
第7章 現代国家の将来
Ⅲ 日本経済の低迷と再生
第8章 バブル崩壊と90年代不況
第9章 90年代不況の示すもの
第10章 グローバリゼーションと日本型資本主義
第11章 激動の世界経済
第12章 日本経済の低迷と再生
終章 望ましい経済システムを求めて
補論 諸説の検討
「終章」は中央大学での最終講義の記録だが,「望ましい経済システムを求めて」というタイトルには,学問と社会に対する著者の姿勢がよく表れている。
「本書全体の問題意識」を説明した「序論」には,「家やモノが売れなくてあり余っているのに,他方では家も食もないホームレスの人々が増えているという矛盾に満ちた現実を前にして,多くの市民が,これまでの経済社会システムを考え直すひとときを作っていただきたい」(p.27)という文章があるが,これもまた同じ社会に生きる多くの人々の暮らしを思い,その改善を経済研究の強い動機とする著者の姿勢を示したものである。
2・グローバリゼーションの変容と「公」改革
本書のより具体的な目的は「[A] いわゆるグローバル資本主義の暴走が、[B] 世界金融危機を媒介としていかにして今日の世界経済恐慌をもたらしたか、[C]さらに恐慌自体がいかにグローバル資本主義を変容させつつあるかを理論と実証をつうじて明らかにしようとする」ことである(p.1,[A][B][C]は評者)。
第Ⅰ部でのグローバリゼーションの理論的な検討,第Ⅱ部でのグローバリゼーションと国家の関係の検討,第Ⅲ部での90年代以降の日本経済の具体的な分析と,本書の内容は幅広いが,先の著者の意図にそって「序論」の要点をまとめておけば,概ね次のようになるかと思う。
[A]について――①資本主義が「グローバル資本主義」の段階あるいは局面に進んだのは1970年代のことである。②1990年前後にはソ連・東欧の体制転換と湾岸戦争でのアメリカの勝利が,グローバル資本主義における米国の主導性を決定づけた。
[B]について――①2007年夏に表面化した世界金融危機は,信用の収縮を糸口に経済活動全体を縮小させ,②とりわけリーマン・ショックを契機に世界経済は過剰生産恐慌に入った。③日本の実体経済がアメリカ以上の速度で不調に陥ったのは,直前の「実感なき景気回復」が極端に輸出依存的であったからである。
[C]について――①08年恐慌をきっかけに,グローバル化はアメリカナイゼーションから多極的で透明な規制を伴うものへと変容し始めた。②その構造変化の内容は,地球市民の意思と行動にかかっている。③一市民として強調したいのは,バブル経済の再現を許さず,エネルギーと資源と水と食糧を公正に配分するシステムをつくることの必要である。④総じて新自由主義の「官から民へ」のスローガンに,「民から公へ」を対置したい。ここでの「公」とは「誰をも排除しない、誰もが関与できる」という意味であり、「公」改革はそのような領域を社会に広げるものである。
本書の全体は,以上のような諸論点を,より精緻に掘り下げるものとなっている。3・「グローバル資本主義」にいたる諸段階
教えられる論点は多いが,以下では資本主義の段階規定の問題に議論をしぼってみたい。
「資本主義は、成立当初から今日に至るまでの約200年の間,平坦かつ一様に発展してきたわけではなく,一連の段階的変容をとげながら発展してきた」(p.96)。著者によるその区分は次のようである。
[A]「英国産業革命をつうじて19世紀初頭に確立した資本主義が・・・自由競争的・個人企業的経済システム」であり,「それが19世紀末から20世紀初めにかけて・・・独占的・株式会社的経済システムに移行した」。
[B]「19世紀末から今日に至る独占資本主義においてもいくつかの段階的変容がみられる。第一次大戦までは古典的独占資本主義といっていい」(以上P.96)。
[C]「第一次大戦から1929年大恐慌を挟んで第二次大戦に至る時期は,古典的独占資本主義が現代資本主義に変容していく過渡期だったといっていい」(p.97)。
[D]「第二次大戦後は第一次大戦までの古典的独占資本主義に対して,国家独占資本主義あるいは福祉国家資本主義の時代である」(p.98)。
[E]「1974~75年恐慌とその後のスタグフレーションの過程を契機として,資本主義は,低成長,情報化,金融化,グローバル化,福祉削減・民営化の新自由主義などの諸現象によって特徴づけられる新しい局面を展開してきた。・・・新しい局面を特徴づけるネーミングは・・・独占資本主義を基礎としながら,古典的独占資本主義や国家独占資本主義あるいは福祉国家資本主義と段階的に区別される含意があればよいと思われるのであるが,筆者は・・・『グローバル資本主義』と規定した」(pp.101-102)。4・「古典的独占資本主義」と国家独占資本主義
以上の諸点にかかわり,私なりに考えるのは次のようなことである。
第一に,著者も重視しているところだが,資本主義の発展段階という場合,個々の側面の発展と総体としての発展の区別が必要である。
マルクスの『資本論』も,絶対的剰余価値の生産から相対的剰余価値の生産へ,平均利潤法則が成立する以前と以後など,様々な側面の歴史を含んでいた。しかし,後にレーニンは『帝国主義論』で,それらを自由競争段階の資本主義と一括し,20世紀初頭以降の独占資本主義をそれとは質を違える段階とする。
著者が,[A]で資本主義の全史を大きく二つに分け,[B]以降の変化をそれとレベルの異なるものとしている点は,非常に重要なところである。
第二に,その上での問題提起となるが,国家独占資本主義については,これを独占段階本来の成熟した「経済形態」ととらえるべきではないだろうか。
レーニンの独占段階論は,自由競争から独占へという資本間関係の変化を基本に,金融資本という新しい支配的資本の誕生,金融寡頭制の形成,資本の輸出,資本家団体のあいだでの世界の経済的分割と領土的分割などを柱とした。
しかし,レーニンは戦時ドイツ等の分析から,さらに「資本主義的生産の国家化の原理」にもとづく国家独占資本主義の概念にたどりつく。
それは,少数金融資本による社会全体の支配,すなわち金融寡頭制への理解を深め、それによって独占段階論の新しい到達を築くものとなった(その国家独占資本主義論には,戦時下の「記帳と統制」を社会主義に直結させる誤りも含まれたが)。
実際の歴史を見ても,20世紀初頭から第一次大戦にいたる「古典的独占資本主義」は期間も短く,安定した「段階」を構成したとはいえないように思う。
そう考えると,著者が[C]「古典的独占資本主義が現代資本主義に変容していく過渡期」としているものは,自由競争段階を脱したばかりの未熟な独占資本主義が,確立した独占資本主義すなわち国家独占資本主義へと成熟していく過程ととらえ返される。
また資本主義の全史は,大きくは自由競争の資本主義と独占段階の典型としての国家独占資本主義の二つにわけられるものとなり,国家による経済への介入が大幅に後退する未来を展望することの困難を考慮すれば,それが資本主義の全史に占める比重は,今後ますます高くなると思われる。
5・国家独占資本主義の変化と改革
第三に,あわせてとらえるべきは,国家独占資本主義自身の発展である。
国家の経済への介入には,すでに様々な変化が起こっている。その最大のものは,第二次大戦後の国民主権にもとづく議会制民主主義の確立により,資本家団体との力関係に応じてではあるが,国家の経済政策に国民多数の意思が反映される経路が築かれたことであろう。
戦後「福祉国家」の形成は,こうした変化に基づいている。さらに戦後の国家独占資本主義は,植民地体制の崩壊により世界の領土的分割が不可能となった時代に成長する。それは内外の民主主義の発展に押され,国家独占資本主義自身が脱植民地化の「試練」をくぐり抜ける過程でもあった。
著者がいう「グローバル資本主義」段階の新しい変化も,国家独占資本主義を否定するものではなく,それを新しく発展させるものととらえることができると思う。
本書第4章が注目している金融資本の形態変化(独占的産業資本との癒着による利子収入から金融市場での投機利得への主たる利益源泉の変化)や資本輸出の内実の変化(実体経済への投資から投機の急拡大へ),さらにはIT革命など生産力面の大きな変化も,レーニンが示した独占段階論を現代的に豊富化するものとして整理することが可能ではないだろうか。
別の著作で,著者は「グローバル資本主義のもとにおいても,国家は依然として deus ex machina(とりなしの神)の役割をはたしており,福祉国家体制もスリム化はしているが,現存している」と述べている(鶴田満彦編著『現代経済システム論』,日本経済評論社,2005年,p.59)が,このある種の曖昧さは,それを国家独占資本主義自身の変化とすれば,ただちに解決されるように思う。
第四に,国家独占資本主義の改革の展望という問題である。
レーニンは帝国主義の段階を,独占の形成から世界の領土的分割にいたる「純経済的概念」(独占資本主義)だけでなく,寄生的あるいは腐朽しつつある資本主義,死滅しつつある資本主義としても特徴づけた。
1970年代末以降の金融の肥大化を見れば,寄生性・腐朽性への指摘はあらためて光を放っているといってよい。しかし,独占の成立により資本主義が「死滅」の過程に入ったという認識は,社会主義を求める各国労働運動の力量不足と相まって,結果的には当たらなかった。独占段階でこそ資本主義は飛躍的な発展をとげたというのが,その後の歴史の実際である。
ただし,その発展は,資本の利益のために労働者や国民の生活が一方的に踏みにじられたものではない。
『資本論』は,労働者たちの時短闘争による絶対的剰余価値生産への制約が,相対的剰余価値生産の追求という資本主義の新しい局面を開いたことに注目したが,それはその後の資本主義についても同様である。
国家独占資本主義も,大局的には資本の横暴を抑制するために闘う労働者・国民の生活と労働条件の改善を内包しながら発展している。そうした変化は,とりわけ社会民主主義政党が政治をリードしたヨーロッパ諸国の戦後に顕著である。
「5つの資本主義」「7つの資本主義」など,著者は度々,現代資本主義の多様性にふれているが(p.207,265,276),それを生みだす重要な要素のひとつは,各国の資本家団体(財界)と労働者・国民の力関係の相違であろう。
そして,人々の知的・政治的成熟の進展を土台に,資本の活動を豊かで安定した国民生活の実現に向けて制御する国家独占資本主義の民主的改革の積み重ねは,次第に資本主義そのものの限界をあぶりだし,人々をより進んだ経済システムの探求に向かわせるものとなるだろう。6・「今日の夢は明日の現実になる」
最後に,再び「あとがき」の一節を紹介しておきたい。
「まさかグローバル資本主義が米国サブプライム・ローンの焦げ付き問題を契機に今日現出しているような世界金融危機・世界経済恐慌を惹き起こすとは推測していなかった。その意味では,せっかく若い時期からマルクスに学んできたはずなのに,資本主義と市場経済の合理性と効率性を過大評価してきた不明を恥じ入るほかない」(p.345)。
こうした自己点検の表明は,誰にも容易にできることではない。
他方で,著者はこうも述べている。
「今回の恐慌による米国型金融モデルと新自由主義の破綻によって,グローバル資本主義は,多極型・規制許容型・格差是正型のよい方向のグローバリゼーションへ向かうのではないかと思われる」。そして,いくかの長期的な経済・社会改革の見通しを述べたうえで、段落の最後を次のようにしめくくる。「たしかに,このようなことは,今日では夢であろうが,私はキューバの革命家・詩人であるホセ・マルティスとともに『今日の夢は明日の現実になる』ことを信じている」(同上)。
このような精神のたくましさもまた,しっかり学びとられるべきものだと思う。
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