「大企業中心主義から生まれた『小さな政府』」
--日米大企業には大きな利益,国民には小さな生活」--
神戸女学院大学・石川康宏
http://web.digitalway.ne.jp/users/walumono/
「小さな政府」という言葉を聞くことが多くなってきました。古くはアダム・スミス等による「自由放任」の主張を表わすためにつかわれた言葉ですが,現代日本では「日米大企業のもうけを大きくするために,国民生活支援を小さくしていく政府」といった意味になっています。社会保障制度改革の口実ともされる小泉内閣の「小さな政府」論を,主に竹中平蔵氏の発言をもとに検討してみます。
1,私は「小さな政府」の担当大臣――竹中平蔵氏
朝日新聞社の月刊誌『論座』2006年1月号に「竹中平蔵総務相インタビュー」が載っています。竹中氏は小泉流「構造改革」の中心に立つ人物ですから,その発言には注目の必要があります。「総務大臣就任で,どういう役目を引き受けたと考えていますか」という質問に,竹中氏は次のように答えています。
「郵政民営化というのはやはり,数ある改革の中の『本丸』です。法案が国会を通るまでは郵政民営化担当大臣(これも竹中氏でした)が大きな役割を果たすわけですが,成立以降は政省令や基本計画など,実務の話になってくるので総務省の役割が重要になります。とにかく『そこをしっかりやれ』というのが最大のメッセージだと思っています」「また,総務省は旧自治省,総務庁,郵政省が一緒になった役所ですので,改めて『これは「小さな政府」担当大臣だ』と。『民間でできることは民間で』は旧郵政省,『地方でできることは地方で』は三位一体,特に地方交付税の改革が重要ですがこれは旧自治省,そして総人件費の縮減,定員管理の問題は旧総務庁の管轄になりますから,『小さな政府』に関係する非常に重要な課題をいくつか担当することになりますね」(137ページ)。
いかがでしょう。少しことばを足せば,日米大企業にもうけ口を与える郵政民営化を最後までやり遂げ,三位一体改革で地方の福祉や教育を切り捨て,そして公務員の人件費削減で公的サービスを解体していく――これを担当するのが私の仕事だといっているわけです。
もちろん,これは竹中氏個人の見解にとどまるものではありません。2005年11月22日に発表された自民党新綱領は,第3項に「小さな政府を」という見出しをつけ,次のように語っています。「私たちは,国,地方を通じて行財政改革を政治の責任で徹底的に進め,簡省を旨とし,行政の肥大化を防ぎ,効率的な,透明性の高い,信頼される行政をめざします。また,国,地方の適切な責任分担のもとで,地方の特色を活かす地方分権を推進します」。また第4項は「持続可能な社会保障制度の確立を」となっており,社会保障制度改革は「小さな政府」という大目標を実現していくためのひとつの手段と位置づけられているわけです1)。
2006年度政府予算案から,社会保障関係費の実態を見ておきましょう。国民には,文字どおりの踏んだりけったりです。高齢者の増加で必要と見込まれた自然増の8000億円は,本人負担の引き上げ,医療・福祉サービスの単価引き下げ,三位一体改革による国庫負担削減で,1931億円弱まで切り縮められています。医療費の国庫負担は,70才以上の長期入院患者の食費・居住費負担の増加(月額2・8万円増)や診療報酬の引き下げで,2737億円もの削減です。介護保険は介護報酬を引き下げ,生活保護は70才以上の老齢加算の廃止,国民年金は保険料を増やしながら給付額は減額といった方向です。くわえて障害者には「自立支援」の名での「応益負担」が導入されます。政府がこうして残酷なまでに社会保障を削りながら,それでも「小さな政府」に執着するのは,一体どうしてなのか。そもそも「小さな政府」とは,何を目指したものなのでしょう。
1)新綱領を発表した自民党立党50年記念大会については, http://www.jimin.jp/jimin/jimin/toutaikai/toutaikai72/04/01.html
新綱領の具体化をかかげた2006年1月18日の第73回自民党大会については,http://www.jimin.jp/jimin/jimin/toutaikai/toutaikai73/05_houshin.htmlを参照のこと。
2,日米大企業のもうけ口をふやしていくのが「小さな政府」
再び,竹中氏の言葉を聞いてみます。今度は『郵政民営化――「小さな政府」への試金石』(PHP研究所,2005年)という本からです。
氏は書いています。「小泉総理は,今年(2005年)1月の施政方針演説で,『郵政民営化はまさに小さな政府を実現するために欠かせない行財政改革の断行そのものであります』と述べていますが,これこそが郵政民営化問題の本質だと私は思います」。「郵政民営化は,まさに日本が『小さな政府』の国になれるのかどうかの試金石なのです」(8ページ)。つまり,郵政民営化を見れば「小さな政府」の実態がわかる――竹中氏がいっているのは,そういうことのようです。
しかし,すでに郵政民営化の正体は明らかです。2004年9月に小泉首相は,ブッシュ大統領に郵政民営化を約束しました。つづく11月の日米財界人会議は「郵貯・簡保が,日本国民一般にユニバーサルサービス(全国一律のサービス)を提供し続ける必要はなく,本来的には廃止されるべきである」という共同声明を採択します。そして2005年9月,アメリカの下院歳入委員会で,カトラー通商代表部補は「われわれの大使館は,日本でこの課題に取り組む重要人物たちと週1回の会合を開催している」「日本政府の中にわれわれの立場に大変,共鳴する人がたくさんいる」と暴露しました。
つまり郵政民営化とは――配達,貯金,保険を主な業務とする郵便局をつぶして,日米の宅急便,銀行,保険業界に新たなもうけ口をつくろうという企みなのです。その狙いをアメリカ政府はひとつも隠していません。「日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく日本国政府への米国政府要望書」(2005年12月7日)は,こういっています2)。
「米国は日本郵政公社の民営化という日本の改革イニシアティブを特に歓迎する。日本の銀行・保険・エクスプレス便市場において,米国系企業,日本企業およびその他の民間企業に比べて日本郵政公社に付与されてきた税制面などでの優遇措置を撤廃するよう,米国は長年にわたり求めてきた。日本は,2005年10月に国会で法案を成立させることにより,その方向へ重要な進展をはかる枠組みを築いた。日本がこれらの改革の実施準備を行うにあたり,日本郵政公社と民間企業との間に均等な競争条件を確立するとの法律の原則を,完全に実現するために必要なすべての措置が講じられることが鍵となる。また,これらの改革の準備過程と実施において,すべての利害関係者にとって完全な透明性の確保が図られることも重要である」。
実にあけすけです。話をもとにもどしましょう。小泉首相や竹中氏がいうように,郵政民営化が「小さな政府」にとっての「本丸」なら,「小さな政府」は結局,日米大企業のもうけのジャマをすべて取り除いていく政府ということです。なるほど,この郵政民営化「方式」を他の分野にあてはめるならば,国や地方による公的保障は医療・年金・福祉での大企業のもうけのジャマになる――義務教育や国立大学などの公教育もジャマである――だからそれらを民営化する――これで必要のなくなる公務員も削減する――さらにいえば,国による生存権の保障を定めた憲法25条もジャマである。話はずいぶん見やすくなってくるわけです。
そういえば,先の本で竹中氏はこうも述べていました。「民間でやるということは,国の制約がなくなって,企業として自由な活動ができるということです」(26ページ)。それは企業の金もうけの自由が拡大するということです3)。
2) http://tokyo.usembassy.gov/pdfs/wwwfj-regref20051207.pdf。
3)自民党の「憲法改正草案大綱(たたき台)――『己も他もしあわせ』になるための『共生憲法』を目指して」(2004年11月17日)は,一方で「企業その他の私的な経済活動は,自由である」としながら,他方で「現行憲法の権利規定の一部(たとえば,25条の生存権規定など)についてもこの節の中に位置づける」と述べました。「この節」というのは「『基本的な権利・自由』とは異なり,『権利』性が弱」いものをまとめた節だとされています。
3・「民間・競争礼賛」と近代経済学の歴史
しかし,さすがの竹中氏も,「小さな政府」の狙いを,国民の利益を崩して,大企業の利益を拡大するものですとはいえません。そこで彼なりの理屈がならべられます。
郵政民営化は何のために行われるのか――この質問に竹中氏はこう答えています。
「きわめて単純明快です。『民間にできることを民間でやる』べきだからです」「もちろん,民間でできることを国がやってもいいではないか,という考え方もありうるかもしれません。しかし,それは社会主義的な考えだと思います。私たちの社会を支える原点は,民間にできることは民間でしっかりやって,民間の競争のなかでみんなでがんばってやりましょう,というものだと私は理解しています」「『民間で』『競争をして』経済活動を行うこと,それが結果として,よい経済社会をつくるという理念のうえに私たちの社会は成り立っています。したがって,『民間でできることは民間でやる』という基本理念を大切にしなければいけないと思います」(21ページ)。
いかがでしょう。びっくりするほど単純な「民間(日米大企業)礼賛」「競争礼賛」の信念です。JR西日本やヒューザー,ライブドアなどの事件を見ても,大企業の競争に暴走がつきものなのは明白です。そうであれば,「私たちの社会を支える原点」は,競争の長所をいかしながらも,この暴走の面をどうやってセーブするかを,重要な柱とせずにはおれないはずです。
じつは経済学者・竹中氏のこの主張は,近代経済学の歴史の経過にも反しています。竹中氏がいう「『民間で』『競争をして』経済活動を行うこと,それが結果として,よい経済社会をつくるという理念」は,アダム・スミスなど18世紀の経済学者が,資本主義社会の誕生の瞬間に語ったことです。しかし,スミス等の期待に反し,自由競争は貧富の差をひろげ,19世紀には周期的な恐慌を生み出します。恐慌のたびに大量の労働者が職を失い,非人間的な生活に追い込まれました。スミスの後で,古典派経済学の最後の頂点に立ったディビッド・リカードウは,資本主義がもつこの深刻な矛盾に,すでに気づき始めていました。ここから経済学の世界では,竹中氏のいう「原点」や「理念」への問い返しが行われていきます。
19世紀の後半には,労資の対立を背景に,こうした問題が,なぜ,どのようにして生まれてくるのかを正面から探究する,マルクス主義の経済学が生まれてきます。カール・マルクスとフリードリッヒ・エンゲルスによる経済学の革新です。
他方で,ほぼ同じ時期に,貧困や格差などの社会問題から目をそらし,あくまで自由競争を礼賛しつづける経済学も旗をあげます。新古典派の経済学です。これが近代経済学の出発点です。ウィリアム・ジェヴォンズ等は,「完全競争」による経済資源の最適配分(効率的な経済的利益の極大化)を主張します。独占資本主義の成立も近いこの時期でのそうした主張は,結果的に大企業(独占資本)のやり放題を,学問的装いのもとに容認していく役割を果たしました。
しかし,20世紀に入ると,新古典派の無力を明らかにする大事件が起こります。1929年からの「大恐慌」です。かつてない深刻な経済破綻と,公的救済を求める市民の闘いを前に,「すべてを競争にまかせよ」というほかない経済学は,まるで権威を失います。
近代経済学の第一の危機です。この危機を乗り越えるべく登場したのが,資本主義には「賢明な管理」が必要だという,ジョン・メイナード・ケインズでした。竹中氏のいう「基本理念」は,このケインズ以前の経済学にもとづくものです。
4・むきだしの「資本の論理」に乗っかって
「賢明な管理」の公認は,同時に,誰のためのどういう管理かをめぐる社会の対立をあらわにします。20世紀の後半には,それを焦点とした左右のケインズ派による国際論争が行われます。アメリカでケインズ右派を代表し,ベトナム戦争の中で産軍複合体による「混合経済」の有効性を主張したポール・サミュエルソンは,不況期の「賢明な管理」と好況期の自由競争の政策的結合を提唱し,マクロ(ケインズ)経済学とミクロ(新古典派)経済学の折衷である「新古典派総合」を提起します。これに対してイギリスのケインズ左派を代表するジョーン・ロビンソンは,右派の議論をケインズ以前への理論的後退と批判し,環境汚染や不平等など資本主義には多くの社会的コストが不可避であると主張します。長い論争の末,サミュエルソンは新古典派総合の提起そのものを取り下げました。
しかし,ケインズ左派の勝利の時期は,財政危機の深まりによる,ケインズ主義的な財政政策の不可能のはじまりの時期でもありました。勝者ジョーン・ロビンソンは敵地アメリカの経済学会で,近代経済学の第二の危機を宣告します。
ここから近代経済学は,定説をもたない混沌の時代へと入ります。新自由主義の台頭は,80年代以降のことでした。これは新古典派総合やマネタリズムなど,いくつかの経済学の混合です。混合の土台となったのはかつての「競争礼賛」――市場原理主義の復活で,復活を推進したのは,何らかの学問の発展ではなく,「もうけの自由」を内外に拡大したい,アメリカを中心とする「資本の論理」の巻き返しでした。ケインズ学派の混乱をつき,大企業に都合のよい経済学を総動員して宣伝した――これが今日の新自由主義流行の実態です。
さて竹中氏の議論の評価にもどります。以上からわかることの第一は,竹中氏が「理念」「原点」という,「民間礼賛」「競争礼賛」の考え方は,18~19世紀の古典派経済学あるいは新古典派経済学の主張にすぎず,それは近代経済学の歴史においても,ケインズによってすでに乗り越えられたものだということです。そして,第二に,21世紀のいま,竹中氏が新自由主義の立場をとるということは,何より氏自身が,自説の主張に学問の根拠を必要としない,「資本の論理」への単純な追従者にすぎないことを証明するものです。
そういえば竹中氏は『早い者が勝つ経済』(PHP研究所,1998年)で,レーガン政権の新自由主義にふれ,「規制緩和をリードしたのは,決して確立された経済理論ではなく,より現実的で実利的な政策判断だった」(186ページ)と述べていました。それは今日の竹中氏自身の立場でもあるわけです。竹中氏には,左右のケインズ学派が論じた,誰のための「管理(政策)」かを問う姿勢はありません。「民間(大企業)礼賛」が大前提となっているからです。それは,多くのまじめな近代経済学者によっても批判されているところです4)。
なお「賢明な管理」をつうじた「大恐慌」からの脱出の試みは,一方にファシズムを生みながら,他方で,各人の自由権の尊重の上に,個人の尊厳を社会(国家)が守る社会権の拡充という人権思想の発展――あるいは社会保障の形成をもたらしました。竹中氏は,社会的格差を是正するための所得再分配について,「集団的なたかりみたいなもの」(佐藤雅彦氏との対談『経済ってそういうことだったのか会議』日本経済新聞社,2000年,108ページ)と語っており,また社会保障をねだり,くすね,強奪の正当化システムとも呼んでいますが(中谷巌氏との共著『ITパワー』PHP研究所,2001年,64~5ページ),「小さな政府」の議論と政策は,この社会権を敵視するものとして,人権思想の歴史的発展に対する逆流ともなっています5)。
4)以上,経済学の歴史については,拙稿「20世紀経済学のパラダイム・シフト」(平井雅子他著『共同講座20世紀のパラダイム・シフト』2000年,国書刊行会)を参照のこと。
5)竹中氏によるこの種の暴言を,整理して批判したものに,拙著『現代を探究する経済学』(新日本出版社,2004年)の第2章「『理論』なき弱肉強食――竹中流経済政策を読む」があります。また,社会権の否定を思想的に根拠づけるリバタリアニズム(自由至上主義)の流行にも,今日十分な注意が必要です。
5・大企業には「大きな利益」,国民には「小さな生活」
もうひとつ,竹中氏の『郵政民営化』には,「小さな政府」を正当化する次のような理屈もふくまれています。「『大きな政府をつくって重い税負担をする社会』を選択しますか。それとも,『小さくて効率的な政府にして,国民の税負担を最小化する社会』を選択しますか」(7ページ)というものです。
これもまた,ひどいごまかしの議論です。第一に,竹中氏はここで,大企業の税金が安く,庶民の税金が高いという,日本の税負担の不公正を意図的に消し去ろうとしています。
第二に,竹中氏は,社会保障や教育など国民生活部面に少なく,公共事業や軍事費に多いという,この国の税のつかい方の異常さも意図的に隠そうとしています。それは,庶民減税,大企業増税という選択肢や,軍事費や公共事業費の節約という選択肢を,あらかじめ国民の前から消しておき,その上で国民を「小さな政府」に追い込んでいく,計画的な世論誘導にほかなりません。
日本評論社の月刊誌『経済セミナー』2006年1月号が,「『小さな政府』は可能なのか?」という特集を組んでいます。その中で,経済財政諮問会議の議員でもある本間正明氏(大阪大学)は,「われわれは,まず公共投資削減を行った。しかし,将来をみると大きな政府の最大要因は社会保障制度にあります」(17ページ)と,あたかも公共事業の削減がすでに終わったかのような発言をしています。確かに経済財政諮問会議の「構造改革と経済財政の中期展望――2005年度改定」(2006年1月18日)も,公共事業の削減については,ただの一言もふれていません。ですが2006年度の政府予算案では,3大都市の環状道路22・0%増,空港28・8%増,京浜・名古屋・阪神のスーパー中枢港湾36・9%増と,大規模事業はいずれも大幅増となっています。公共事業費総額は4・4%の減ですが,それでも生活関連設備をのぞく額は,アメリカ・ドイツ・フランスの3倍規模となっています。また事業の大型化は,大規模ゼネコンに利益を集中させるためのものです。道路特定財源の一般財源化も,その規模は総額6兆円の1%弱(472億円)にしかなっていません。
そもそも「小さな政府」論の本家アメリカが,日本の10倍以上の軍事費をつかっているように,「小さな政府」論は,もともと国家財政全体の緊縮を説くものではありません。人口1000人あたりの公務員数でも,日本の35・1人に対して,アメリカは80・6人と2倍以上になっています。「小さな政府」の議論と政策は,あくまで「大企業の大きな利益」のために,国民に「小さな生活」「小さな保障」を飲み込ませるための方便です。
1989年度に導入された消費税の累計額は,2004年度までに148兆円に達しました。その間に法人税の基本税率は40%から30%に引き下げられ,減収の累計額はほぼ同額の145兆円となりました。庶民増税が,大企業減税の埋め合わせをさせられたというわけです。また同じ期間に,金融・保険をのぞく資本金10億円以上の大企業の内部留保は,合計100兆円以上も増えました。不況で大変といいながら,大企業の内部留保は,いまも確実に伸び続けています。
2006年1月1日,この道をさらに邁進するため,日本経団連は「本年の重要政策課題」に,「消費税を含む税体系の抜本的改革」と「国際競争力の向上に資する法人実効税率の引き下げ」を盛り込みました。この強欲な大企業中心主義の徹底は,決して「小さな政府」論と抵触するものではありません。なぜなら「小さな政府」の議論と政策は,何より大企業中心主義の内部から,その新たな展開のために生みだされてきたもので,大企業体制に「痛み」を求めることは,原則としてありえないことであるからです。
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「小さな政府」か「大きな政府」か――この問題設定の背後には,「国民のための政府」か「日米大企業のための政府」かという,現代日本における社会対立の根本問題が隠されています。国民に「小さな政府」を求める影で,いったい誰の利益が拡大されようとしているのか。誰のもうけのために,われわれ国民の生活が犠牲にされようとしているのか。日米財界とその代弁者たちの徹底した大企業中心主義に対する,正面からの批判が必要です。
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