不破哲三『「資本論」全3部を読む』第4~7冊
--浮かび上がった驚きの『資本論』像--
神戸女学院大学・石川康宏
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全3部に渡る合理的な読み方の探求
第1~3冊についての書評(本誌4月号)では,この本の特徴を次の3つにまとめておきました。1つはマルクス本来の到達点を盛りこんだ新しい『資本論』像の提起,2つは全体を1つのまとまりとして読むことへの強い姿勢,3つは経済学にとどまらない科学的社会主義理論への多面的な注目です。
第4~7冊を読み終えて,新しい『資本論』像の提起が,予想をはるかに上回る大きなスケールで展開されたことに驚かされています。『資本論』全3部は,もちろんエンゲルスの努力なしにはありません。エンゲルスはマルクスの文字どおりの共同研究者であり,マルクス亡き後には,その遺志を次いで『資本論』第2・3部を編集・出版した人物です。しかし,その最良のマルクス理解者であるエンゲルスでさえ,限られた時間に完全な編集を行なうことはできませんでした。その結果,出版された『資本論』には,マルクスの草稿により補われねばならない空白もあれば,編集の不手際による余計な重複もあり,さらにマルクス自身が誤りをおかした議論や,その誤りをエンゲルスが増幅してしまった箇所も残されることになりました。
著者はこの本で,マルクス自身の成果によって過不足を正し,正された『資本論』が示す新しい理論の高みを確認しながら,あわせてマルクスが解決に至らなかった諸問題についても,率直な指摘をしています。それはマルクスと『資本論』を歴史の中で読み,その当否の1つ1つを「科学の目」で確かめる,『資本論』のいわば合理的な読み方を徹底的に探求したものです。こうした作業を『資本論』全編に渡って行なう仕事は,この7冊がはじめてでしょう。以下,いくつかの論点を紹介しておきます。
恐慌論の補足で「雷鳴」を轟かせる第2部
第2部では,なんといっても恐慌論の補足が中心です。『マルクスと「資本論」』で論じられた研究成果が,あらためて第2部の展開にそくして論じられます。
ここで著者は,エンゲルスには,全3部にしめる第2部の位置づけが正確にはとらえられなかったと指摘します。それは,第2部を紹介するエンゲルス自身の言葉と,マルクスの第2部第1草稿をエンゲルスが第2部の編集にまったく活用しなかった事実に象徴されています。第2部の全体的なプランをふくんだ第1草稿によれば,恐慌論の中心的な解明は第2部で行われることになっています。しかし,現行の第2部に,そのようなまとまった解明はありません。
そこで,著者はマルクスの本意にもとづく第2部の再現を試みます。まず第1篇を,第1草稿の「流通過程の短縮」論で補強します。これは,特に恐慌の直前に生じる投資の過熱(バブル)を説明する,恐慌の「運動論」の基礎部分です。現行の第2部には「短縮」という言葉はあっても,その理論的な意味を解明した文章はありません。
さらに,最もまとまった補足が行われるのは第3篇です。第1草稿のプランには,現行第2部にはどこにもない「再生産過程の攪乱」が含まれていたからです。第2部第3篇は,拡大再生産が円滑に進行するための条件を探り当てたところで終わっています。しかし,マルクスの構想は,その円滑な進行の条件がいかにして崩れ,再生産がどのようにして破局に至らずにおれなくなるのかという「攪乱」の問題,すなわち恐慌の発生についての本格的な解明がつづくものになっていました。
著者はこれを,恐慌の可能性,恐慌の根拠・原因,恐慌の運動という3つの柱にまとめ,マルクスの草稿類から,それぞれに具体的な理論の内容を与えています。可能性を現実性に転化させる「動因」となる「生産と消費の矛盾」の解明では,その動態的な理解の点で,エンゲルスに的確さの欠けるところがあるという指摘もなされています。また,この矛盾が累進的に不均衡を拡大していく恐慌の具体的な発現過程(運動論)については,「流通過程の短縮」論がフルに活用されています。
このように恐慌論を内に組み込んだ第2部は,もはやエンゲルスがゾルゲへの手紙で語った「大きな当てはずれ」などではありません。マルクスは資本主義が未来社会に移行していく必然性を,恐慌のうちに読み取り,その解明を「経済学批判」の核心としていました。その肝心要の問題が,この第2部を本格的な舞台として行われる以上,それは第3部を待たずして巨大な「雷鳴」を轟かせずにおれないものだったのです。著者による新しい第2部像の提示は,こうして『資本論』全3部の構成の理解にも大きな変更を迫るものとなっています。
なお,第2部第3篇の拡大再生産論については,この箇所の読み方の問題がありました。ここでエンゲルスは,マルクスが問題を正しく解明した文章以外に,本来入れる必要のないマルクスの模索と失敗の文章を盛り込んでしまったのです。著者はこの混乱を見事に交通整理し,読む者がここでその跡に迷い込むことのない読み方を示しています。また「貨幣資本の遊離」にかんするマルクスの誤りを増幅させてしまったエンゲルスは,そこで信用論と再生産論とのかかわりについてのマルクスの問題意識をとらえることができずにいます。これもまた,エンゲルスが十分にマルクスの思いを理解できないままに,第2部の編集を行なったことの1つの証左となっています。
現象の世界を内面から説明しつくす第3部
第3部では,そもそもこの部の課題は何かが問題です。それは第1部・生産過程と第2部・流通過程の統一あるいは矛盾の展開などではありません。それは,すでに第2部で達成された課題であるからです。
第3部を「資本主義的生産の総過程」と名付けたのはエンゲルスで,もともとマルクスが与えた表題は「総過程の諸姿容」でした。著者は,そのマルクスのタイトルの重大な意味に注目します。「姿容」とは目に見えるままの姿かたちということです。「総過程の諸姿容」とは,すでに解明された生産と流通の内的論理が,資本家たちの「日常の意識」に現われた,その「表面」的な観念のことです。
内的本質は,そのままの姿で現象の世界に現われはしません。もしそうであれば,現象を分析する科学の必要はなくなってしまいます。そこで,現象から本質を探るにとどまらず,逆に,本質から現象を説明しつくす――つまり第1・2部が解明した資本主義の内面世界が,どうして内面の姿とは違う,ある「表面」の姿をとって現われ出ずにおれないのか――その問題の解明が第3部の課題とされるわけです。著者はこれをマルクスの「発生論的方法」が典型的に現われたところだと強調しています。
さらに,ここで重要なのは,本質を正確には反映しない「表面」世界の資本家的観念が,それにもかかわらず物質的な力となり,現実経済を動かしているという事実の分析です。価値の支配する市場経済から,生産価格の支配する市場経済への転化は,その「観念」を推進力として行なわれました。
可変資本と不変資本の区別をもたない資本家たちは,剰余価値を前貸総資本が生み出す「利潤」ととらえ,剰余価値率ではなく「利潤率」を高めることを資本家としての直接的な課題とします。それは「利潤」の源泉を正確にはとらえない,非科学的な歪んだ観念です。しかし,その観念が資本家全体の行動を律し,平均利潤を形成させる運動をつくり,結果として,平均利潤を含む生産価格を市場に成立させていくのです。
利潤論につづく商業利潤や利子や地代の議論も,生産価格を前提として成り立つ世界の問題であり,全3部の最終篇となる第7篇は,現象世界をはいまわる俗流経済学の「三位一体」論が資本家的観念の写しにすぎないことを暴露しています。現象の必然性の解明をつうじた内的本質の確証こそが,第3部全体の課題となっているわけです。
他方で,第3部の編集にも問題がないわけではありません。特に,草稿のなかで最も完成度の低かった信用論には,特別に深いメスが入ります。エンゲルスは,マルクスによる本文と準備材料を区別せず,これを混在させることで,今の読みにくい信用論をつくってしまいました。著者は,これをマルクス本来の考察にそって整理します。また,議会報告書などからの莫大な抜粋については,あくまで材料の無秩序な集成であり,ここから理論的に意味あるものをつくろうとすること自体が無理であったと結論します。ここは読み手には格別にお手上げ感の強いところですから,この道案内は大変にありがたいものです。なお,恐慌にかかわる文章にふれて,著者はここの書き換えには編集の枠をこえた「邪道」があると,厳しい言葉でエンゲルスを批判しています。
つづく地代論は,資本主義的地代の解明と土地所有論の人類史的展開という2つの魂をもつマルクスの研究から,前者だけが取り込まれて出来たものです。エンゲルスは,マルクスが地代論を書き換えたならロシアが主な舞台になると予測しましたが,著者はこれを2つの魂の十分な区別にもとづく見解ではないと論じています。
さらに,第3部がはらむ弱点と研究上の課題について,著者は,まず利潤率の傾向的低下が,資本主義の歴史的に一時的な性格を表わすという見解に異議をとなえます。また差額地代については,差額地代の第Ⅱ形態は第Ⅰ形態が追加的投資のもとでどのような運動をするかという問題であり,第Ⅱ形態自体を独立させることに無理があると指摘します。これらはいずれも,マルクスの到達点そのものへの著者の批判的な検討となっています。
改革者の深い「教養」の土台として
1995年に連載が開始された『エンゲルスと「資本論」』で,著者は「今後の『資本論』研究」への「期待」として,エンゲルスによる『資本論』編集の追体験,マルクスの経済学ノートの研究,1870年代の新しいプラン問題の解明をあげました。『マルクスと「資本論」』をへて,今回の『「資本論」全3部を読む』に結実した成果は,何より著者自身がこの「期待」にこたえる努力を率先して行なってきたことを示しています。それが,この本の講義の中でも,「ここの理解は定説と違う」「不破流なのだ」と繰り返し語ることの深い裏付けになっています。
もちろん著者は現行『資本論』の問題点ばかりに目をむけるわけではありません。経済学はもとより,唯物論,弁証法,認識論,史的唯物論,未来社会論など,たくさんの宝の山に深い注目を寄せ,そこに新たな光をあて,新しい発見を見て取っています。著者が,やさしい語りに込めた多くの新たな解明を吟味することは,並大抵の仕事ではありません。
本書が,よりマシな社会づくりを考え,これを語ろうとする人たちの深い「教養」の地盤を形成するものとして,ますます多くの読者に歓迎されることを心より期待したいと思います。
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