以下は、「しんぶん赤旗」2003年4月28日付けに掲載された書評。
「不破哲三著『マルクスと「資本論」①~③--再生産論と恐慌』/恐慌論の空白に挑戦/現代資本主義理解への貴重な貢献」,小見出しは編集部がつけてくれたもの。
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恐慌論の「空白」に挑戦/現代資本主義理解への貴重な貢献
この本は「科学的社会主義の経済学のなかで,再生産論と恐慌論のかかわりを明らかにする」ことを主題としています。「『資本論』のなかで」ではなく「科学的社会主義の経済学のなかで」とされているところがミソです。『資本論』での恐慌論の展開には「一種の『空白』」があり,少なくとも恐慌論については『資本論』をそのままマルクスの到達点とするわけにはいかない。それがこの本の出発点となっています。
巨大な研究課題
では,その「空白」とは何であり,それは何によって埋められるのか。「空白」とは何より,恐慌の「根拠」である「生産と消費の矛盾」が「再生産過程の正常な進行のための均衡諸条件を破壊」していく,その具体的な運動過程の解明にあります。恐慌の可能性を現実性に転化させるその過程の分析を,マルクスは『資本論』の再生産論(第2部第3篇)に書き込むつもりでいました。しかし,その予定は果たされることなく終わり,マルクス亡き後に『資本論』の編集を引き継いだエンゲルスによっても補われることはありませんでした。そこで,その書かれるべくして書かれなかったものを,マルクスの莫大なノートと草稿の中に分け入って探し,それをマルクスの研究にしたがって再現すること。それがこの本の課題となっています。この著者にしてすら「私なりの覚悟が必要だった」といわずにおれない,何とも巨大な研究課題です。
研究の結論が示す「空白」の核心は,再生産論の最後の章として書かれるはずだった「再生産過程の攪乱」に凝縮されます。著者はその再現を「推測の域を出るものでは」ないといいますが,しかし,その著者の手のひらには1000ページに近い研究で得られた「推測に役立つ多くの情報」が乗せられています。それによれば,この章には,①恐慌の可能性の問題,②恐慌の根拠である「生産と消費との矛盾」の問題,③「流通過程の短縮」をキーワードとする恐慌の運動論的な解明という,マルクス恐慌論の3つの基本的要素のすべてが含まれていました。
運動論の考察
その中でも最も深刻な「空白」となっているのは運動論の解明です。マルクスにとってその解明の「起点」となったのは「流通過程の短縮」(あるいは「再生産過程の独立化」)の発見でしたが,その発見が行なわれた「第2部第1草稿」を,エンゲルスは第2部編集の際に「断片的」であるとして視野の外にはずしてしまったのです。それが『資本論』におけるこの「空白」の大きな要因となりました。
「流通過程の短縮」を軸とする運動論の考察には,次の2つの問題が含まれるはずでした。第一は,再生産過程が均衡をはずれて恐慌にいたる,その文字通りの運動過程の考察です。①「他の産業資本家や卸売商人」による現実の消費を超えた大量の買いつけ(流通過程の短縮)が再生産を拡大させ,②それが再生産の「最盛の繁栄」を生み出し,③ついには恐慌の勃発へと導いていく。その全過程で恐慌の根拠である「生産と消費の矛盾」はどのような働きをするのか,それが大きな解明の課題となります。
第二は「流通過程の短縮」そのものの突っ込んだ理論的究明です。①それが「生産のための生産」を本領とする資本主義的生産の必然の産物であること,②信用制度がその短縮の規模を大きく左右するものとなること,③「世界市場」が一方で短縮の作用を見えづらくし,他方で短縮の運動に世界的規模での活動の場を与えること,これらが重要な論点として含まれていきます。もちろん,こうした解明はそのすべてが『資本論』第2部に収められるわけではありません。しかし,著者はこの理論の枠組み自体はすでにここで与えられるはずだったと結論します。
以上が,この本の最も骨太いあらすじとなります。誤解のないように強調しておきますが,この精緻な学説史的研究は現代資本主義の分析と無縁な,現代への理解から切り離された古い学説の詮索ではありません。マルクスの恐慌論が本来もっていた「広い視野と角度」を大きく引き出したこの研究は,日本経済の現状分析にとっても,現代における資本主義の運動法則の解明にとっても新しい重要な理論的指針を与えるものです。それはまちがいなく21世紀の資本主義を研究するための貴重な理論的貢献となっています。
“最後の一打”
さらに,この本の魅力と威力は以上にとどまるものではありません。例えば,第2部第3篇の最後に恐慌の研究が予定されていたとなると,『資本論』第1部を「生産のための生産」,第2部を「消費のための生産」と理解し,その上で第3部を両者による矛盾の展開ととらえた従来の「資本論の方法」理解は根本的な再検討を避けることができなくなります。また利潤率の傾向的低下の法則を資本主義の限界を示すものと理解することはできないという率直で大胆な問題提起や,「独自の資本主義的生産様式」「再生産資本家」といった草稿にはあるが『資本論』には採用されていない(あるいは充分説明されていない)重要な概念への注目,さらには巻末にそえられた「不破流の年譜」が再現するマルクスの研究史像のユニークさや草稿の執筆時期についての独自の考証など,この本が投げかける新しい問題はかなりの数にのぼります。
巨大な古典家たちの業績を「歴史のなかで」読むことは,著者によるこの間の連続した研究の重要な方法論的特徴となっていますが,そのマルクス恐慌論版というべきこの本は,いつでもマルクスを同じ地平に出来上がったものとして読もうとする教条主義への最後の一打としての意義ももっています。マルクスその人をも「科学の目」でとらえる。そのことが,時に誤り,苦しみ,試行錯誤に陥りながら,それでも科学することをあきらめないマルクスの変革者としての人間的魅力と迫力を逆にリアルに浮き彫りにしています。
今回の研究は『マルクスと「資本論」』の全体ではなく「最初の部分」だと著者は書いています。また,この5月からは「代々木『資本論』ゼミナール」の内容が全7冊のブックレットで出されるということです。政党幹部としての激務の中でのこの知的生産力の高さには,本当に驚かされます。
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