以下は、『経済』2008年5月号(152号)に掲載された、座談会「語り合う教師と学生 大学生活と学び」の中の石川の発言です。
関東の5人の学生さんとの話し合いは、なかなか楽しいものでした。
全体の小見出しは次のようになっています。
「今の大学・学部を選んだわけ」
「大学でどう学ぶか」
「勉強の悩みとアドバイス」
「社会科学をなぜ学ぶか」
「仲間とともに学ぶ」
「人生観を鍛える学びを」
以下の小見出しは、ここでの紹介のために便宜的につけてみたものです。
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【石川】--学生時代の思い出から
こんにちは。神戸女学院大学の石川康宏といいます。みなさんの自己紹介を聞かせていただいて、いろんなことを考えて、大学や学部を選んできたんだなあと感心しました。
僕は一九五七年の生まれで、出身は北海道の札幌なんですが、高校のころは、自分の生き方については何も考えていませんでした。社会や政治についても、世の中にどういう政党があるかも知らないといった具合でした。
ですから、大学を選ぶ時には、自分が入れそうな大学で、学費が安いということだけを基準に、京都の立命館大学を受験しました。立命館は当時、入学金が七万円で、授業料は年間一〇万円でした。
一番入りやすかった産業社会学部に、補欠合格ですべり込んだのですが、補欠合格だったので大学の授業についていけるんだろうかという不安があり、それでともかく本屋に行ってみました。
そうすると、偶然にも、産業社会学部の先生が書いた『マルクス主義と産業社会論』(新日本新書)という本がならんでいたんです。山口正之さんの本でした。
「これだ」と思って読んだわけです。タイトルにある「マルクス主義」という言葉の意味も、何も知らないままに。結局ほとんど何もわからず、唯一印象に残ったのは「世の中にはレーニンという偉い人がいたらしい」ということだけでした。
そこで、次には同じ本屋で、レーニンという名前を頼りに本を探す。すると見つかったのが、林直道さんの『経済学』(下)(新日本新書)です。これはレーニンの『帝国主義論』の解説になっていました。そこからさらに「(下)を読んだのだから次は(上)だ」と、金子ハルオさんの『経済学』(上)(新日本新書)に進んだのです。
ここまではたぶん、入学式までに読んでいたと思います。とてもなつかしい思い出です。
その後、大学では勉強よりも学生運動をやり、学生自治会の委員長などもやりました。授業に出ないので成績が悪い上に、家庭からの仕送りがなくなったり体調を崩したりして大学を中退し、結局、後で学士入学した二部の経済学部を卒業しました。
いろいろありましたが、そこから京都大学の大学院を経て、今は神戸女学院大学で教員をしているわけです。
経済学者ということになっていますが、大学では「慰安婦」問題やジェンダー問題をやったり、『経済』誌では人口問題に関する論文を執筆したりと、かなり手広くやっています。「専門はなんですか」と問われることもありますが、「マルクス主義(科学的社会主義)です」などと開き直ったりもしています。
今日はみなさんと、学問のことや、大学での学びなどについて、話し合えることを楽しみにしてきました。
【石川】--学びの主体はあくまで学生
自分の学生時代のことも思い返しながら話してみますが、私は大学生の学びは、基本的に自分でするものだと思っています。
授業に自分の学びを無理やり合わせる必要はないし、何か大学のカリキュラムどおりに育たなければならない理由もない。あくまでも自分が学ぶ主体です。
授業で学べるものはそこで学べばいいし、授業で学べないものは自分で学べばいい。サークルに入って勉強したり、何かの講演会に行ってみたりと、自分で決めて行動すればいいわけです。そこの自覚がまず大切だと思います。
自分がそういう主体になると、学びのテーマを自分で決めていく楽しさを味わうことができるようになります。
ある本を読んでわかったこと、面白いと感じたことを、さらに続けて深めていける楽しさがある。次に読むべきもの、読みたいものが芋づる式に見つかっていくわけです。そうした流れに身をまかせてみるのは、なかなか楽しいことですよ。
大学に入学した頃の僕が、最初に味わった芋づる式が、先の『マルクス主義と産業社会論』をきっかけとしたものだったわけです。そうしたテーマ選びについては、自分の内発的な欲求や、直感を大切にしてほしいと思います。
学びの主体が自分だということになると、じつはフットワークが軽くないといけなくなります。
学部・学科をこえていろんな先生の授業を聞いてみたり、見つかると叱られるところもあるかも知れないけれど、他の大学の授業も覗いてみたり、さらには大学以外の場での講演会などにも積極的に参加してみる。また、気の合った友だち同士で読書会をするのもいいですね。
アルバイトなどで忙しくて時間があわないということもあるかも知れないけれど、今はブログや掲示板、ミクシィといったインターネットをつかっての議論もできますから、そこは工夫して補ってほしいと思います。
学びのスケールの問題も重要です。学生時代には「1年で本棚1本分の本を買う」。これくらいを具体的な目安にしてほしいと思います。
それくらいの規模で読もうとすると、熟読、とばし読み、段落の1行目だけ読みなど、本の読み方についても工夫が必要になってきます。
また、「いまの自分に読める本」だけでなく、「将来読めるようになりたい本」を早めに手元におくことも大切です。それを時々手にすることが、学びの意欲を高めたり、自分の知的成長を確認する手段になりますから。
【石川】--生き方を探し、広い視野をもつ
自信の持てる生き方を探すというところに、社会科学を学ぶ大きな意義のひとつがあると思います。若い時代は、生き方そのものにいろいろと迷うことが多いですから、特にそういう役割が大きいように思います。
今の日本には、冬に凍えて死んでしまうホームレスの人や、生活保護が受けられずに「おにぎり食べたい」といって死んでしまう人がいるなど、悲しく、理不尽なことがたくさんあるわけです。
そういう出来事を知れば、誰だって、もう少し何とかできないものかと思う。でも、自分ひとりでやれることには限りがあって、何をどうすればいいのかも良く分からない。また自分の毎日の楽しさも大切なことで、将来の幸せを切りひらいていくことももちろん重要です。
そこでそうしたたくさんの思いの調和をうまくとらねばならなくなります。
「私の幸せ」と「他人の幸せ」あるいは「社会の幸せ」を重ね合わせていくには、どうしたらいいのかという問題です。経済学を含め、社会科学を学ぶ大きな意味のひとつは、そこを明らかにしていくことにあると思います。
学問の中身にそっていえば、どういう分野の勉強をするにせよ、科学的社会主義を学ぶことは、学びの広いバックグラウンドをつくることにつながります。
科学的社会主義には、人間社会の構造と歴史の一部だけではなく、その全体を丸ごととらえようとする視野の広さがあるからです。
そういうたいへんな学問的野心が、たとえば『資本論』には良くあらわれています。そこでは哲学も、経済学も、歴史学も、政治学も、農学も、人間論も、労働論も、環境論も、機械論も、家族論も、ともかく資本主義を理解するために必要と思われた、ありとあらゆる学問の視角や成果が動員されている。
それによって、なんとかしてその全体をつかえまようとしているわけですね。
だから科学的社会主義を学んでおくと、自分が大学で学んでいる学問を、より広い全体の中に位置づけることができるのです。
もちろん従来の科学的社会主義が十分扱っていない領域もあるでしょうが、その場合にも、それがどういう意味で新しい領域なのかを考える出発点が得られます。
もうひとつ科学的社会主義が、資本主義社会を歴史の永遠の存在ではなく、一時的な存在としてはっきりとらえているところも重要です。
例えば近代経済学では市場の存在が所与の前提とされることが多いわけですが、しかし、じつは市場も日本でいえば室町時代ぐらいに、ようやく貨幣を内発的に必要とする段階にいたったものです。
いま目の前にある社会の仕組みも、そうして歴史のある段階で何かの理由があって生まれてきたもので、歴史的な存在理由を失えば、これからの歴史の中で消え去っていく可能性をもつものです。
そういう大きな歴史の視野に、自分が勉強している分野の研究対象を位置づけることもできるわけです。
自然科学もふくめてどんな領域の学問であれ、人間の社会や生活に無関係なものなどないわけですから、科学的社会主義を学ぶことは、みなさんの勉強の深まりにも大いに貢献すると思います。
【石川】--『資本論』に立ち向かうことの面白さ
『資本論』の骨子を要約したものという意味でのテキストはいくつかあると思います。
商品の価格はどう決まっているのか、お金と資本はどう違うか、労働者の賃金と資本のもうけの関係、賃金とは何であり、どうやって額が決まるか、資本主義はどのように発生・発展し、どのように未来社会を準備しているのか、資本主義における生産と消費のバランス、なぜ周期的に恐慌がやってくるのか、産業資本・商業資本・銀行資本の関係、土地所有はどのように地代を生むか等々、多くのことが簡潔に描かれていると思います。
ただし、そのように簡潔にまとめられたテキストは、要所の結論を紹介することに主眼がおかれますから、なぜそれが正しいといえるかという、学問にとってもっとも肝心な生命というべき部分が希薄になってしまいます。
そこでこの手のテキストは、たいていのものが『資本論』そのものに挑戦するための導きという位置づけをもって書かれるわけです。
もし教師が「これは正しいのだから、疑わずに暗記しなさい」というのであれば、そういうテキストだけでいいということになるかも知れませんが、しかし科学的社会主義は科学であり、科学を学ぶためには、なぜ、どのようにしてそれは正しいといえるのかを、一つずつ確かめていく作業が必要です。
そこでテキストですべてをわかったとしてしまわずに、マルクス等の古典を読むことが求められるのです。
とはいえ、私の学生時代に比べれば、入門的なテキストの種類が少なすぎるかとは思います。学者の側にも、そうした導入書を書くことの自由闊達さが必要なのかも知れません。
『資本論』と最近の経済現象を研究することの関係ですが、新しい現実はいつでも新しい研究を必要とします。『経済』誌には、そういう研究が毎号掲載されています。
そして本当であれば『資本論』などが明らかにした基礎理論と、新しい研究の成果が突き合わされることが必要です。その作業をつうじて、基礎理論の正しさや誤り、また修正や補足の必要などが明らかにされていくわけです。それは口でいうほど簡単なことではありませんが。
もうひとつ『資本論』と現代の関係で、私が面白さを体験しているのは、そこに骨太で体系的な理論の他に、現代を分析するのに非常に有効な理論の「断片」があるということです。
たとえば私は『経済』誌に「人口変動とマルクスの資本主義分析」という論文を書いた時に、『資本論』が資本主義と人口の関係をどうとらえているかの断片を集めてみました。
また『前衛』という雑誌に「長時間労働・女性差別とマルクスのジェンダー分析」という論文を書いた時には、『資本論』を労働者家族の仕組みをどうとらえているかといった角度からながめてみました。
そうするとなかなかに強力な理論的用具が見つかるわけです。そういう意味では『資本論』の生命力は非常に多面的だと思います。ぜひみなさんにも、独自の問題意識をもって「断片」を探す楽しさを味わってほしいと思います。
【石川】--自分のアタマで結論を得る
三、四年生のゼミは二〇〇四年以後ずっと「慰安婦」問題をメインにしています。きっかけはゼミの卒業旅行で韓国に行った時に、かつて「慰安婦」を強制された被害者が暮らす「ナヌムの家」に行ってみたことです。
そこには日本軍「慰安婦」歴史館があり、当時、日本軍が配っていたコンドームの現物といった史料がたくさんありました。
私は一通りのことは知っているつもりで行ったのですが、この加害行為が被害者女性たちの体と心をどれほど深刻に傷つけるものであったかという点には、まるで理解がとどいていなかった。その時、その重大性に、はじめて気づかされたのです。
私が「ナヌムの家」を離れようとしたその時、ひとりの被害者がニコニコ笑いながら握手をしてくれたのですが、私は満足に目をあわせることもできませんでした。
私は戦時中におばあさんたちに大変な加害を行いながら、未だに誠実な謝罪さえできない政府をつくりつづけているこの国の主権者なのですから。
この私の個人的な体験が、このテーマでの学びの出発点となりました。
具体的な学びの様子については、すでにあちこちで紹介してきました。
ゼミは毎週月曜の3時から8時までの5時間です。またこの春休みの宿題は『ここまでわかった! 日本軍「慰安婦」制度』(かもがわ出版)と『歴史教科書への疑問』(展転社)を要約することですが、そのように結論がまるで正反対の本を読んで、そこから「さあ、何が本当のことだろう」「みんなで探究してみよう」とすすむ学びの方法をとっています。
学びの主人公はあくまでゼミの学生たちです。
たくさんの映像もみています。
「女たちの戦争と平和資料館」や「しょうけい館」「靖国神社・遊就館」にも足をはこび、さらに夏休みには3泊4日で韓国を訪れ「ナヌムの家」で被害者の証言をうかがってもいます。
「これが正しいことだ」といって僕が教え込むのでなく、あくまで学生たちが自分で事実を調べるゼミにしています。
だからこそ到達した結論に対する学生たちの確信はとても強いものになります。
それが本を出版したり、各地で講演活動をしたり――2007年は約30ケ所でやっています――「反日だ」と批判されてもたじろがないという、そういう姿にあらわれるわけです。
身近な人から「大東亜戦争は正しかった」なんていわれることもあって、学生たちはたくさんの葛藤も体験しながら育ちます。
私の知らないところで、そうした悩みを相談しあってもいるようです。一緒に勉強するということを土台にして、互いの生き方を考えるというところまで、自然に仲間としての話題もひろがっているようです。
【石川】--可能性を信じて、面白く
学問は本来楽しいものです。
楽しいからどんどん学べるし、そうやってどんどん学ぶことが、将来いろいろな形で多面的につかえる頭を鍛えることにつながってきます。ぜひこれは面白い、夢中になれると思うテーマを見つけてほしいと思います。
そうやって丸1年を費やして卒業論文を書くなんていうのは、ものすごくいい頭の鍛練になりますよ。
卒業後の話も出てきましたが、その点では、自分の成長に勝手に限界をもうけないことが大切だと思います。
若いみなさんは効率的な努力を重ねれば、まだまだドンドン成長します。最初から「自分には無理だ」なんて自分の可能性を抑え込んでしまわないことです。私も高校時代のいわゆる偏差値は52くらいしかなかったはずです。それでも大学の教師になっているわけですね。
それから将来を考える時には、どういう大人になりたいかというイメージを具体的にもつことが大切です。
たとえば「ああいう人のようになりたい」というあこがれの人をもつのです。そして、その人の人生に関心をもち、18才の時にその人は何をしていただろう、20才の時には何をと調べて、それに追いつき追い越そうという努力をしていくわけです。そうすると目標に近づいていくために必要な努力のスケールということもはっきりしてきます。
ともかく若いみなさんいろんな可能性をもっているのだから、その可能性を信じて、大いに学んでほしいと思います。
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