以下は、新日本婦人の会「新婦人しんぶん」2010年6月10日、第2845号、第5面に掲載されたものです。
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第3回「主婦とは何か?にとりくんで」
この本には、二つの章を書きました。「仕事にまつわるジェンダー・ギャップ」(第7章)では、日本の職場での女性差別の実態を、ゼミの卒業生の事例もあげて紹介し、女性の働きづらさや、雇用機会均等法の不十分さなどを指摘しました。これは連載の第1回で書いたように、私の講義を、学生たちに「これは私の人生の話だ」と実感してもらうために、どうしても必要なものでした。
もう一つの「主婦とはどういう存在なのか」(第5章)は、「男は仕事、女は家庭」という近代家族の歴史を、資本主義の発展とからめてまとめ、「主婦論争」の内容がその段階に応じて変化してきたことなどを紹介したものです。ここでは、はじめて家族社会学の成果に学びました。
「主婦」を課題にしたのも、きっかけは学生たちの人生です。結婚・出産退職をせまられて、あるいはパートナーの転勤などで、専業主婦にならざるをえない卒業生があり、さらに、そうした現実を見越してか、「最初から主婦になりたい」学生も案外多くいたのです。私には、その学生たちに語ってやれる「主婦論」が必要でした。
学びのなかで、主婦を経済学の理論にしっかり位置づけねばならないという問題意識も生まれてきました。直接的な労資関係の外にいる人を、検討範囲からはずしてしまう経済学のあり方に、疑問をもつようになったのです。成人女性の半数を視野にふくまない経済学では、社会全体の分析とはいえないだろうということです。
職場の差別をどう見るか?
研究会では、職場での女性差別を「男性による差別」と見るか、「資本による差別」と見るかが、大きな論点になりました。
いろいろな意見がありましたが、私は、自分なりの考えを、この本の小さなコラムに書きました。
戦後日本の財界は、①女性を低賃金労働力と位置づけたが、②それは男性賃金のおもしとしても活用された、③財界は、早期退職などで女性を職場から排除したが、④それは男性を会社に取り込む手段としても活用された。
現実を、性差別の論理と資本の論理のどちらか一方だけでとらえることは誤っている。よく考えねばならないのは、両者の関係なのだ、と。これが、その時点での私なりの結論でした。
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