以下は、『季論21』2010年秋、第10号、2010年10月20日発行、88~108ページに掲載されたものです。
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資本主義の発展段階と戦後日本経済史
こんにちは。しばらく前に「戦後日本経済の時期区分について問題提起をしてほしい」というご依頼が編集部からあり、その時に、ぼくのあたまにあったのが、資本主義の発展段階をどうとらえたらいいのかという問題意識であったために、このような大きなテーマをかかげることになってしまいました。
いまこの場に立ってみると、明らかに失敗しましたね(笑)。羊頭狗肉との批判を覚悟したうえで、以下、問題提起的なお話しをさせていただきます。
最初に、私なりにものを考えてきた経過について、少しお話しします。最近、経済理論学会の『季刊・経済理論』(2010年4月)に鶴田満彦さんの『グローバル資本主義と日本経済』について、また『経済』(2010年9月号)に森岡孝二さんの『強欲資本主義の時代とその終焉』について、それぞれ書評を書かせていただきました。いずれも大変に勉強になりました。
その仕事をする中で、現代資本主義の「現代」とはいったい何を基準に、いつ頃からと考えるべきなのか、さらに遡って、そもそも資本主義の発展段階というのは、資本主義の何が変化することを基準に考えられるべきものなのだろうか、そういう疑問がわいてきたのです。
そこで、まずは、マルクスがそもそも資本主義の発展をどのように考えていたのかを整理してみようと、この夏、関西唯物論研究会(7月17日)で「マルクスによる資本主義の歴史の模索」というテーマで報告させていただき、あわせて兵庫県勤労者学習協議会で「講座・マルクスは資本主義の発展をどうとらえたか」(全4回、7月18、25、8月1、8日)を行わせていただきました。
今日のお話しは、こういうまだ始めたばかりで、熟していないマルクスの検討の上に、さらに戦後日本経済史という新しい要素を無理やりかぶせたものになりますので、問題提起とあえていわないところにも、ぼくの問題未整理がもたらすいわば天然の問題提起が(笑)、多々ふくまれることになるかと思います。みなさんには、ぜひとも前向きにお受け取り願い、むしろたくさんのご意見をお聞かせ願いしたいと思います。
1、戦後日本経済史をとらえる視角
資本主義の発展段階がどのようであるかという視角と、日本の戦後経済史を結びつけて語ろうとした時に、最初に、ぼくのあたまに浮かんだのは次のような問題でした。
非常に基礎的な問題になるのですが、ひとつは、資本主義の歴史と経済の歴史との関係――資本主義史と経済史との関係といった方が、わかりやすいかも知れませんが、それはどのようなものかということです。まずはここで、はたと立ち止まりました。ぼくも当たり前のようにして、日常、経済史とか政治史といった言葉をつかっているのですが、あらためてその中身は何かといわれると、簡単には答えが出てきません。
たとえば、この一〇年ほどの日本経済の歴史を考えてみても、それは「構造改革」と呼ばれる経済政策の主導性を抜きには語れません。そして「構造改革」がこのように長く継続している現実は、そういう政治勢力を自覚的にであれ、あるいは無自覚にであれ、支持している多くの国民の意志あるいはそのような意志を形成させるイデオロギーの役割といったものを抜きには説明ができません。こう考えると、この一〇年ほどの日本社会全体の歴史の中から、経済の歴史を自立したものとして抜き取ることの困難は明らかであるわけです。
問題はまた、反対の側から見ることも可能であって、こうした「構造改革」の時代を体験するなかで、多くの国民は貧困にあえぎ、社会の閉塞感にさいなまれ、そこから抜け出す道を模索して、政治の大きな転換を模索し、そこに向かい始めている。こういう角度からみると、貧困と生活苦を拡大させている経済の状況が、今度は、政治や社会全体の変化を生み出す力の土台の役割を果たしているわけで、この意味でも経済の歴史を自足したものととらえるわけにはいきません。
こんなことを考えて、現時点では、経済史については、政治や文化やイデオロギーなど資本主義の社会を構成する他の要素との相互作用の中にありながら、資本主義社会全体の変化の基礎となるものといった、あらためて言葉にすると陳腐な気もしてきますが、そのようなものとしてとらえるしかないかと思っています。
つまり、経済史は文字通り経済の歴史なんですが、それは孤立したものとして、それだけで理解しうるものではなく、社会全体の中に位置づけて、他の要素に規定されるとともに、他の要素を強く規定するものとして、そのように見てはじめて事実に即してみることになる、そういうものではないかと思います。この点、みなさん、どのように考えられるでしょう。
もうひとつ、あたまに浮かんだ問題は、戦後経済史の「戦後」という歴史的規定を、個別日本の「戦後」としてではなく、世界史的な角度からとらえる必要があるのではないかという問題です。日本資本主義や日本経済の発展を、その内発的な論理と外的条件をなす世界資本主義のあり様との相互作用の中でとらえる必要があるということです。
日本の資本主義は世界資本主義の構成要素としてあり、それは世界資本主義の戦後段階に深く規定されています。敗戦後の日本に、占領軍の統治のもとで起きた変化、たとえば国民主権の確立や男女平等の推進などは、そうした世界全体の発展段階を抜きには語れません。そして戦後の日本経済は、それらの現実を歴史的な前提として、あるいは所与の条件として発展するほかなかったわけです。
そのような世界史の発展段階がもたらす規定性の中で、戦後日本資本主義のあり方を最も大きく左右したのが、「冷戦」という世界構造の中でのアメリカ帝国主義による支配の問題です。これを通じて、戦後日本は今日もなおつづくアメリカへの国家的従属の関係に入り、それによって日本経済もそのような条件に強く縛られて、発展する以外の道をもつことができなくなりました。
なお、少し先走って述べておけば、二〇世紀末から世界は大きな構造変化の時代に入っていますが、その生き生きとした変化に日本は取り残される形になっています。なぜ、そうなるのかという理由を考えたとき、日本資本主義と日本経済の構造が、いまなおアメリカの占領政策を起点につくられた「戦後」の仕組みを抜け出せずにいることを、指摘しないわけにはいきません。
2、マルクスは資本主義の全史をどうとらえたか
次に、マルクスによる資本主義発展の歴史理解の問題です。さきほど、これについての整理をはじめていると述べましたが、その途中経過のあらかたについては、今日、受付の方で配布していただいた冊子に、資料として入れさせていただきました。今日は、これを詳しく紹介している時間はありませんので、みなさん、後ほどご覧ください。
以下では、簡単に述べますが、マルクスは『資本論』の「最終目的」を、「近代社会の経済的運動法則を暴露すること」だと書きました。エンゲルスも実際上、『資本論』第一部を指しながら『反デューリング論』の中で、「今日までわれわれがもっている経済科学は、ほとんどもっぱら、資本主義的生産様式の発生と発展とに限られている」、この科学は「この生産様式がそれ自身の発展によってみずからを不可能にする点に向かって、突き進んでいる、ということの証明をもって、終わる」と述べています。
マルクスの経済学というと、労働価値説や剰余価値説が大切だというのは良くいわれることですが、理解を最終的に及ばせねばならない点は、それらの諸学説を積み重ねた上での資本主義社会の「経済的運動法則」、つまり生成・発展・死滅の全過程を貫く法則にあるというわけです。
こうした角度から、あらためて『資本論』などを読み返してみると、大きくひろいあげただけでも、資本主義の全史について、次のようなことが語られています。
まず、資本主義の発生についてですが、マルクスは封建制社会の内部にそれが発生するのは、概ね一六世紀のことだと繰り返しており、「散発的」には一四~一五世紀から、という叙述も見られますが、「資本主義時代が始まるのは、ようやく一六世紀から」だと概括されています。
それを可能にした歴史的条件としては、商品流通の発展、特に、地理上の諸「発見」にもとづく世界市場の形成があげられ、その上で――資本主義の確立に先行した――本源的蓄積の進行、中でも二重の意味で自由な労働者の形成――それは同時に少数者への生産手段の集中を意味します――が指摘され、さらに、それを促進する政府の諸政策が検討され、そして労資関係の形成にともなって、生産物の取得法則の転換が起こっていく、このようなことが述べられています。
ふたつめは、以上のような資本主義の発生期を終えて、資本主義が自分の足で立つ「本来の資本主義的生産様式」の段階についてです。これをマルクスは、産業革命をへて成立する「独自の資本主義的生産様式」――内容は社会的結合と技術的工程との両面からなる――の時代ととらえていました。
これによって資本による労働者の実質的包摂が進み、資本は労働者たちを自力で経済的に支配するようになりますが、同時にその過程で労働者たちは、労働組合を結成し、資本の支配に対抗するたたかいを開始します。後で述べますが、ぼくはこの労働者のたたかいの位置づけが、マルクスの資本主義発展論をとらえる重要な鍵になると思っています。
この労資双方の力のぶつかり合いのもとで、したがって労働者のたたかいが資本にあたえる歴史的な条件に制約されながら、資本は生産の集積と集中をすすめ――ますます少数の人々の手に生産手段を集中させ、その有機的構成を高め、また信用制度の発達にもとづく金融活動の領域を広げていきます。そして、このような形で形成され、成熟していく物的・主体的両面の力が、資本主義を乗り越える未来社会の形成要因になると、マルクスは指摘しています。
なお、マルクスは独占資本主義への過渡期となった一九世紀後半の「大不況」期が、それまでの資本主義を大きく変化させ始めていることに早い段階で気づきますが、独占資本主義そのものは見ることなく亡くなりました。
最後は、資本主義の死滅あるいは未来社会への移行の問題です。マルクスはこれが生産手段の社会化を最大のてことして起こる過程だと考えました。自己増殖を動機とし、労働者たちの貧困とたたかいを招かずにおれない経済活動の根底には、生産手段の私的所有という歴史的な条件があるのであって、それを社会的所有に転換することこそが、人々の自発的な連帯にもとづく新しい社会づくりの土台になるというわけです。もちろん、それは多数者の合意にもとづく政治の転換を前提します。
この転換の過程は『資本論』第一部の段階では、比較的短い期間とされましたが、後にマルクスは「『フランスにおける内乱』第一草稿」で、生産組織の改革や生産組織間の国内外での調整は、長い「時間を要する」と見通しを修正しています。そしてマルクスは、この過程もまた、物的条件の変更だけでなく、それを可能にし、またそのもとで成長する人間たちの発達を必要とすると考えました。
さらにマルクスは、こうして成立する共産主義の社会の中で、社会の豊かな生存に必要な経済活動の時間をこえて、各人がそれぞれの能力を豊かに開花させていく自由な時間が拡大することを、人間社会のさらに急速な発展につながるものと展望しています。
きわめて大雑把なお話しですが、マルクスが探究した資本主義の全史の内容は、それぞれに、このような論点を含むものであったかと思います。詳細は別の原稿にまとめる予定ですが、この点も、ご意見をお願いしたいところです。
3、とりわけ資本主義の発展過程に注目すれば
次に、マルクスの特に、資本主義の「発展」のとらえ方に注目してみたいと思います。日本の戦後経済史や、いわゆる現代資本主義もこの「発展」の中にあるでしょうから、これをとらえるヒントをマルクスの中に探してみたいということです。
まず資本主義の「運動」を導く矛盾にかかわって、マルクスは『資本論』にこう書いています。
「資本主義的生産の真の制限は、資本そのものである。というのは、資本とその自己増殖とが、生産の出発点および目的として、現われる、ということである。生産は資本のためのものにすぎないということ、そして、その逆ではないこと」。
資本主義のもとでは、生産が資本の「自己増殖」のための生産でしかなく、社会のための生産になってはいない、そのことが資本の自由――やり放題を生み出すのだが、しかし、そのことが、逆に、資本にとって乗り越えられない「制限」になるのだというわけです。
なんだか禅問答のようにも見えますが、これを理解する鍵は、同じ『資本論』の中の次のような論理にあると、ぼくは考えています。
一つ目に「資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命にたいし、なんらの顧慮も払わない」。
マルクスも『資本論』の中で「過労死」の事例をたくさんあげていますが、資本のもうけのために労働者が殺されていく現実の中に、経済活動の目的が資本のもうけであって、人間や社会に奉仕することではないということが、よく現われていました。
しかし、二つ目に、そうした事態の中で、労働者はやられっぱなしではありません。労働組合をつくって資本家とたたかい、イギリス議会を動かし、子どもや女性の分野から労働時間を制限する工場法を勝ち取るのです。そのたたかいの意義を、マルクスはこうとらえていました。
「工場立法〔労働時間法〕、すなわち社会が、その生産過程の自然成長的姿態に与えたこの最初の意識的かつ計画的な反作用は………大工業の必然的産物である」。
労働者のたたかいは、資本が生み出すもうけのための「自然成長」的な経済活動に、それを制御する「計画」性を与える「反作用」となる。そして、大切なことは、その反作用もまた「大工業の必然的産物」としてとらえられているということです。つまり資本主義の発展は、資本のやり放題だけにもとづく発展の歴史ではありません。もうけだけを追求するやり放題の「作用」と、これを「意識的」「計画的」に制御しようとする労働者や国民の「反作用」の衝突として、資本主義の現実的発展は形作られるというわけです。
そして、三つ目にマルクスは、「工場立法の一般化は、生産過程の物質的諸条件および社会的結合とともに、生産過程の資本主義的形態の諸矛盾と諸敵対とを、それゆえ同時に、新しい社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」と述べています。
労働者たちのたたかいが生み出す「工場立法の一般化」は、「生産過程の物質的諸条件および社会的結合」を「成熟」させ、それと同時に、資本主義の「矛盾」と労資の「敵対」を「成熟」させるというのです。
ここでいわれる生産過程の成熟の典型的な事例が、『資本論』の中では、絶対的剰余価値の生産から相対的剰余価値の生産への資本主義の発展であると思います。資本が長時間労働による「過労死」を蔓延させたのに対して、労働者は工場立法という「反作用」を加えていく、そうすると資本はその「反作用」を押し返そうとしながら、あわせて「反作用」の制約を免れることのできるもうけの道を探究する。そういう両者のぶつかりあいの中で、長時間労働に依存するだけでない資本主義の発展が生まれてくるというわけです。
こうした「自己増殖」に向けた資本の能動的な作用と、これに対する労働者や国民の反作用が、資本主義の具体的な姿をつくります。それが、未来の「新しい社会」に必要な物的条件や労働者たちの結合を、あわせて資本主義の枠内では解決のつかない問題を解決しようとする、労働者や国民の「古い社会の変革契機」を「成熟」させることになるわけです。
資本主義の発展をこういう視角からとらえるからこそ、マルクスは「資本主義的生産の真の制限は、資本そのものである」と述べました。生産の目的が「自己増殖」であるということ自体が、それを目的とする資本主義の改革や、資本主義をこえる新しい社会の準備を必然的に生み出す原動力となる。資本はそうした運命を免れることができないということです。
4、マルクス以後の資本主義の発展と現代
マルクスは二〇世紀以降の資本主義を知りませんが、その時期をふりかえってみても、以上に見たマルクスの視角は大きな意義をもち続けていると思います。
たとえば、二〇世紀以降の資本主義を、資本の「作用」つまり「自己増殖」のための強い能動性のあらわれという角度からみると、そこには、二〇世紀初頭における経営者団体の形成と国家独占資本主義の形成、そのもとでの植民地再分割を目的とした世界大戦、戦後の新しい条件のもとでの大量生産・大量消費システムの形成やIT革命にいたる急速な技術の革新、またそれらの過程をつうじた資本の巨大化と多国籍化、IMF体制やその後のサミット等に見られた国家独占資本主義の国際的連携、さらには最近の金融投機の急速な拡大などをあげることができると思います。
しかし、二〇世紀の資本主義の発展は、同時に労働者・国民のたたかいによる「反作用」が資本の増殖に向けた無制限な衝動に大きな規制をくわえ、資本主義を、よりましな姿にかえさせる歴史でもありました。
植民地体制の崩壊、普通選挙制にもとづく国民主権の確立、そのもとでの労働時間短縮など労働条件の一定の改善、自由権から社会権への人権の発展と社会保障制度の発展、民主主義の発展、さらには戦争のない世界や核兵器のない世界の実現を現実的な課題として掲げるまでになった取り組みの前進、金融投機に対する規制の形成などがあげられます。
事例は思いつくままにあげただけですが、こうした労働者等のたたかいによる「反作用」は、「自己増殖」のみを運動の推進力とする資本に対して、するべきこと、してはいけないことの方向づけを与え、資本主義の姿をかえる力となっています。
さらに、現瞬間の二一世紀初頭の資本主義ですが、これが今後どのような発展の展望をもっているかについても、こうした角度から、いくつかの見通しを述べることが可能かと思います、それは次のような諸要素を含むものになるでしょう。
一つは「新自由主義」の破綻と、そのような思想と諸政策を野蛮な資本主義として批判してきたEU諸国における「社会的市場経済」の発展という問題です。資本の多国籍化とソ連・東欧崩壊という新しい歴史的条件のもとで、資本が「自己増殖」の自由をあらためて拡大しようとしたのが「新自由主義」の諸政策でした。かつてレーガン・サッチャー・中曽根イズムと呼ばれたこともありましたが、いまなおその路線に政府が固執しているのは日本だけです。本家本元のアメリカでさえ、金融投機の規制をめぐって、あるいは経済再建のための税財政政策の分野で「新自由主義」の一定の見直しをはじめています。
ソ連崩壊後の資本主義を「新自由主義」政策が席巻した世界とのみ見るのは一面的であり、その間、九三年に発足したEUは、ジグザグの道を通りながらではあっても、資本主義経済の根底に「連帯」をすえようとする「社会的市場経済」の道をすすみ、加盟国を二七ヶ国に拡大しています。雇用を守り、社会保障を充実させる等の点で、資本主義の改革を先にすすめているこれらのタイプの資本主義が、今後の資本主義の発展を先導するものになるでしょう。
二つ目は、これに関連しますが、アメリカを中心とした大国主導の世界資本主義から、各国がより対等な形で関わり合う新しい経済秩序への移行です。IMF等による「構造調整」の押しつけも活用した、アメリカ主導での「新自由主義」の拡大は、中南米地域を先頭に各国からの強い反発を生みました。さらに〇八年からの世界経済危機は、G7からG20へ、G20にとどまらずG192へという、世界経済の運営に対する各国の対等な関与という方向を強めています。
これは、イラク戦争をきっかけとしたアメリカの国際的孤立とアメリカの支配層におけるスマートパワー路線の模索という、戦争と平和をめぐる世界政治の力関係の変化にも連動したものです。
三つ目は、金融投機への規制の問題です。アメリカ資本の多国籍化とアメリカ製造業の国際競争力の低下の中で、IT技術の発展と「金融工学」の開発にもとづくアメリカ資本の金融化が進みました。マルクスも資本主義の発展が金融のペテンを拡大させると述べ、レーニンは自らが剰余価値を生産せずにもうける独占資本主義の「寄生性」や「腐朽性」を指摘しましたが、それがさらに大規模に現われているのが、現在のアメリカといっていいのでしょう。
金融投機への規制は、EU諸国にあってもきわめて不十分なものでしたが、今回の金融危機がまねいた世界経済危機の深刻さと、これに対する世界各国からの強い批判の前に、アメリカもEU諸国も金融規制の強化をすすめていかずにおれなくなっています。
四つ目は、地球環境破壊とエネルギー危機の問題です。これについては、まだはじまったばかりですが、産油国による巨額のオイルマネーを投入しての太陽エネルギー開発など、いわゆるクリーンエネルギーの開発が急速です。
現瞬間も地球温暖化ガスの排出はつづいていますが、それにしても環境破壊への強い警鐘と石油の枯渇という見通しを前に、資本が新しい「自己増殖」の道としてクリーンエネルギー開発に乗り出していくという現実は、資本主義の生きた発展の姿を見せておもしろいところだと思います。
以上のような現時点での資本主義発展の展望も、もうけに向かう資本の衝動と労働者・国民のたたかいがつくりだすものであり、事態がどのようにスムースに、人間社会にとってより合理的な形で実現されるかの程度については、多くが労働者・国民の知的能力と社会改革の力量に左右されるものとなるでしょう。
同時に、エクアドル、ボリビア、ベネズエラのように「新しい社会主義」をかかげる国々が登場し、また資本主義の限界が様々に指摘される世論の変化も起こっていますが、右のような資本主義の新しい発展方向の探究は、これらの諸問題を生み出す資本主義の根本問題、資本主義の経済が人や社会のためでなく、資本のもうけを目的としている問題への認識を深めるものともなるでしょう。それは、いつまでも資本主義のままでいいのかという問いを、より多くの人にもたせるものとなるものです。
なお、右の四点は資本主義の根本的な矛盾の今日的な現れといっていいと思いますが、矛盾は運動の原動力ですから、その現われは、たんに資本主義の困難を示すだけでなく、その困難を乗り越える方向――それは労働者・国民のたたかいの方向ともなりますが――、それを示すものとしてとらえる必要があると思います。
5、戦争と一体だった戦前日本の資本主義
次に、日本資本主義の問題に入ります。ぼくは大学院で日本経済史のゼミに所属していたのですが、残念ながら、あまり熱心に歴史を勉強した記憶がありません。むしろ抽象的な理論問題に関心をもっていました。その上、ゼミで学んだ時代からすでに、一五年がたっていますので、当時身につけたわずかな知識についても、すでに時代遅れになっているかも知れません。これからお話しすることの事実認識には、そのような欠陥の可能性があるとご理解ください。
先ほど、資本主義の歴史と経済の歴史の関係について、また一国の歴史と世界史との相互作用の問題についてお話ししましたが、その点を意識しながら、日本資本主義と経済の歴史を駆け足で見ていきたいと思います。
一つ目は、日本資本主義の発生の問題です。幕末期の市場経済の発展は、東アジア地域では最高度の広範な中小企業を生み出すまでになっていました。そこに欧米ロシアなど帝国主義諸国からの「開国」の圧力がかかってきます。これへの対応を重要な契機として、明治維新(1868年)が行なわれます。こうして成立した明治政府は、海外列強への強い危機意識とこれへの対抗の必要を原動力に、「富国強兵」という軍事大国化のための本源的蓄積政策を急ぎました。
明治新政府の樹立後には、人民主権を求める自由民権運動も一定の高揚を見せましたが、明治の天皇制権力はそれとの対抗の中で、強権的な制度と姿勢を次第に固め、これを抑圧していきます。
二つ目は、日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年)をきっかけとした植民地支配の開始です。消費財生産部門とともに、軍需部門の巨大さを際立たせる特徴をもって産業革命が達成されるのが、概ね二〇世紀の最初の一〇年までとなっています。日清戦争は、ちょうどその開始期に、日露戦争はその過程で行われた戦争ということになるわけです。
いずれも日本資本主義が独占段階を迎える以前の戦争ですが、台湾を植民地化し、遼東半島に関東州を形成し、さらに朝鮮半島の植民地支配へと直結していく帝国主義的で侵略的な戦争でした。
直前には、天皇を唯一の主権者とする大日本帝国憲法(1889年)体制が形成され、日露戦争後には、いわゆる軍部が政治・軍事勢力として生み出されます。大正デモクラシーの憲政擁護運動や、ロシア革命(1917年)の影響を受けた労働運動や民衆運動の成長もありましたが、天皇制政府は、治安維持法(1925年)に象徴される徹底した弾圧策によってこれに対抗しました。
一九二〇年代までには経済は独占資本主義の段階に入り、三〇年代には侵略を拡大する戦時統制経済という形での国家独占資本主義に移行します。
三つ目は、日中戦争(1937年)からアジア・太平洋戦争(1941年)へ、そして大日本帝国の敗北と瓦解(1945年)へという時期です。戦争の詳細にはふれませんが、「大東亜共栄圏」の形成という貧弱な後知恵のイデオロギーで粉飾された、無謀で無計画な侵略の戦争でした。いわゆる対米英戦争も中国侵略に直結して展開されたものでした。
米英両国が戦後の世界秩序をさだめる原理とした「大西洋憲章」(1941年)は、すでに領土不拡大、侵略により奪われた主権の回復、国際的な平和機構の創設などを掲げており、こうした世界史の進展に対する日本の後進性と逆流ぶりは際立っています。
経済的には統制の深まり、軍需生産への特化などで国民生活は疲弊し、最後には原爆投下をふくむ全国各地への空襲により、多くの生産設備や経済拠点、国民生活の基盤が失われることになりました。
ここまでの戦前・戦中の歴史を見る時、日本資本主義の形成と発展は戦争の歴史にいろどられており、日本経済の発展も「富国強兵」に先導され、また全体として戦争を支える目的に奉仕するものになっていたということができます。
日清戦争からアジア・太平洋戦争の敗戦までは「五〇年戦争」とも呼ばれますが、残念ながら、その過程で自由や民主主義を求める取り組みが、政治をリードすることはほとんどありませんでした。一八七三年には、早くも「征韓論」が明治政府によって一度は決定されますが、このように対外関係で民主主義を尊重することのできない日本の資本主義は、国内にあっても民主主義の抑圧を特徴とするほかないものでした。
6、戦後日本資本主義の発展
話を戦後にすすめます。
四つ目は、連合国を代表した米軍の占領支配と、その占領政策の転換の時期です。まず、米軍はポツダム宣言にもとづく日本の改造をすすめます。財閥解体・農地改革・労働改革などの戦後改革が実施され、国民主権と戦争放棄を明記した日本国憲法(1947年)が発布されました。
しかし、米ソ「冷戦」体制の形成と、朝鮮半島と中国での政治の急速な展開から、アメリカは四七~四八年に、日本をアメリカに従属した軍事大国として育てるという方向に、占領政策を転換させます。
戦争協力者への公職追放が緩和され、労働改革にも米軍によるブレーキがかかる中で、財界団体が労働運動に対する「強さ」を強調しながら、戦争への協力者を大量にふくんで復活してきます。
そして朝鮮戦争(1950年)による特需と警察予備隊の発足、レッドパージ、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約の発効(1952年)と、平和憲法がめざした道に反する、いわゆる「逆コース」が進展します。警察予備隊は保安隊(1952年)、自衛隊(1954年)と名前をかえて拡大されました。
こうした経過のもとで、侵略戦争に対する真剣な反省は日本社会全体のものとならず、講和条約にもとづくわずか四ケ国だけへの賠償は、日本企業による「役務賠償」とされ、これにかかわった財界には「賠償から商売へ」という流行り言葉も生まれました。侵略への反省がないままでのアジアへの経済進出の再開です。アメリカは東南アジア地域を「西側」に引きつけておくための経済的な役割も、日本に強く求めてきました。
五つ目は、日米安保体制の強化と革新自治体の発展の時代です。憲法九条の「改正」を目的とした自民党の結党と、これに対抗した社会党左右両派の合同により、いわゆる「五五年体制」がつくられます。アジア・太平洋戦争開戦時の商工大臣であり、敗戦直後にはA級戦犯容疑者とされた岸信介が首相になり(1957年)、六〇年には激烈な安保闘争にもかかわらず、米軍と自衛隊との共同行動をもりこんだ新安保条約が成立させられます。
他方で、五〇年代は母親運動や原水爆禁止運動、憲法の生存権規定の実質化をもとめた社会保障拡充の運動などが成長し、これが歴史的な安保闘争の高揚にもつながりました。五〇年代初頭から半ばにかけて、改憲の世論を改憲反対の世論が上回るという逆転もつくられます。六〇年以後、安保闘争の高まりに驚いた日米支配層は、いわゆるケネディ・ライシャワー路線のもとで、国民の反米・反戦意識を骨抜きにすることを追求し、他方で日本をベトナム戦争に深く巻き込んでいきます。
最新鋭設備の導入によって高い国際競争力をもった日本の大資本は、対米輸出主導型の経済構造のもとで、年率一〇%に近い「高度経済成長」(1955~73年)を実現し、敗戦からわずか二三年で世界第二のGNP(1968年)を達成します。アメリカの庇護のもとでの急成長でした。
京都には、一九五〇年に蜷川府政が誕生しましたが、六〇年代には、福祉・教育の充実や公害反対などの課題をかかげ、「憲法をくらしの中にいかそう」というスローガンをもつ革新自治体が、社会党・共産党を軸に、労働運動や多くの市民・運動団体の協力によってつくられます。七〇年代には、全国民の四三%が革新自治体のもとにくらすまでになっていきます。
六つ目は「高度経済成長」の終焉と、いわゆる戦後第二の「反動攻勢」の時期です。ドル危機と金ドル交換停止(1971年)、石油危機(1973年)をきっかけに、日本と世界の「高度成長」が終わります。一九七四~七五年は戦後初の本格的な世界同時恐慌となりました。
日本の大資本はエネルギー省力化やロボット導入など、リストラとハイテク化を積極的にすすめ、高い輸出競争力を維持して、アメリカやヨーロッパ諸国への集中豪雨的な輸出を行いました。これがアメリカ等との貿易摩擦につながり、後の「国際収支の不均衡」是正にもつながります。
マスコミが「賃金爆発」と名付けた七〇年代初頭の賃金上昇を抑制するため、一九七四年には日本経営者団体連盟が春闘対策を本格化させ、労働戦線の「右寄り再編」に取り組みはじめます。
また革新自治体を破壊するための社会党の取り込みが本格化し、これが「社公合意」(1980年)という形で実現します。これをきっかけに全国の革新自治体は失われていきます。八一年には、革新自治体の取り組みが高まるもとでつくられた福祉・教育制度を再び破壊する「臨調行革」がスタートします。
一九七五年にアメリカはベトナム戦争に敗北しますが、その後、日本への軍事的な肩代わりの要求を強め、一九七八年には、日米共同戦争のマニュアルである日米ガイドラインが結ばれます。
七つ目は、一九八二年に発足した中曽根内閣のもとでの「戦後政治の総決算」路線と「バブル経済」(1986年)の時代です。
一九八一年に日米共同声明は、はじめて日米間の「同盟」を明記し、一九八三年には首脳会談が「運命共同体」を語ります。中曽根首相は「日本列島の不沈空母化」「四海峡封鎖」などの構想を「国際国家」日本の役割として強調し、ソ連を「悪の帝国」と呼んで軍拡政策をすすめたレーガン政権に呼応して、アメリカとの共同戦争への道を広げようとしました。
一九八五年には「国際収支の不均衡」是正を名目に「プラザ合意」が行われ、アメリカ主導で、急速な円高がすすめられます。日本側は「前川レポート」(1986年)を作成し、これが一九八九年からの「日米構造協議」さらには九〇年代の「対日規制改革要望書」「構造改革」につながります。同時に、日本側は対米輸出抑制・内需拡大の名のもとに、国内の大型公共事業を急拡大し、これが八六年からの「バブル経済」を進行させます。
円高のもとで、日本大資本がアメリカや東アジアへの多国籍的展開を急速にすすめる一方、「臨調行革」路線は「自助、自立」を強調します。レーガン・サッチャー・中曽根イズムとも呼ばれた「新自由主義」のイデオロギーが次第に前に出てきます。
「戦後政治の総決算」は、日本の軍事的役割の拡大と、国内における福祉、人権保障の解体を同時に押し進めようとしたものでした。
八つ目は、ソ連崩壊(1991年)と「バブル崩壊」(1990年)が開いた局面です。ベルリンの壁の崩壊(1989年)とソ連の崩壊を受けて、「共産主義終焉/資本主義万歳」のキャンペーンが大規模に行われます。同時に「国際貢献」の名のもとに、PKO法(1992年)を入り口とした自衛隊海外派兵への動きが強められます。
「バブル経済」の崩壊後、日本は長期にわたる「平成大不況」に突入しますが、その中で一九九三年と九五年には公共事業費が五〇兆円を突破する、世界に例のない「土建国家」型の経済政策がすすめられます。同時にアメリカからの要求に応じた「構造改革」も進展し、自動車や電機機械など、財界指導部中枢が製造業多国籍企業に移行する中で、経団連の「魅力ある日本~創造への責任」(1996年)や橋本六大構造改革(同年)など「新自由主義」の諸政策が、経済政策の中心に立つようになってきます。
「土建国家」路線に対する国民の強い批判によって、自民党は単独政権の時代を終え、連立政権の時代に移ります。
その中で、一九九六年には「日米安保共同宣言」が行われ、日米の軍事協力が、いよいよ全地球的規模で企まれるようになりました。
九つ目は、「構造改革」政治の推進と行き詰まりの時代です。橋本六大構造改革には、借金王小渕内閣に象徴される大型公共事業推進への揺りもどしの動きもありましたが、小泉内閣(2001年)の発足によって、「構造改革」路線が強引にすすめられます。これによって、大資本の利益は急速に拡大しますが、非正規雇用の拡大と社会保障制度の一層の解体のもとで、国民は一九九七年をピークに絶対的な貧困化をすすめ、日本経済の成長は完全にストップします。
二〇〇二年には日経連と経団連が合併して、日本経団連がつくられました。財界は、自民党政治への国民の批判を警戒し、「二大政党制」の確立に向けて民主党の結党をリードし、「財界通信簿」と企業・団体献金によって、自民・民主両党に対する「財界いいなり政治」の深化を強制します。
その一方で、二〇〇三年に開始されたイラク戦争に日本政府は無条件での支持を表明し、「後方支援」の名目で戦地にはじめて自衛隊を派遣します。
二〇〇四年には自民党・民主党から全面的な憲法「改正」案が示され、これに対抗して、同じ年に「九条の会」がつくられるなど改憲・護憲をめぐる双方の取り組みが強化されます。二〇〇六年には「五〇年戦争」の全体を肯定する安倍晋三氏が首相になり、改憲にむけた国民投票法の強行採決などを行いますが、内外の強い批判の前に辞任(2007年)に追い込まれます。
一九九七年の東アジア通貨危機以後、アメリカ離れの度を深めたASEAN諸国がリーダーシップを握る形で、二〇〇五年には東アジアサミットが開始されます。中国を筆頭に、東アジアが世界の巨大な成長センターとなり、日本の政財界にも侵略戦争への反省を曖昧にしたままでの、なし崩し的な東アジア重視の動きが強まります。
最後の十番目は、二〇〇八年にはじまった世界経済危機以降の局面です。国民生活圧迫の政治がつづき、「貧困と格差」が一層深刻になる中で、二〇〇九年には自民党政権から、自民党政治の批判を押し出した民主党等への政権交代が起こります。国民はようやく、自民党政治以後の政治の模索に入りました。その後、民主党は財界・アメリカへのすり寄りをふたたび深め、二〇一〇年の参院選では、民主・自民両党ともに得票率を大きく後退させます。財界がたくらんだ「二大政党制」づくりは、思うように進みません。
二〇〇八年の大統領選挙で、アメリカではハードパワー(軍事力)からスマートパワー(軍事力と外交力)への政策転換をかかげ、アメリカの国際的威信を回復しようとするオバマ政権が成立します。クリーンエネルギー開発に重点をおいた地球温暖化問題への対応、核兵器廃絶をめざした「プラハ演説」、加盟国相互の永久の平和を定めた東南アジア友好協力条約(TAC)への加盟など、大きな政策転換がすすめられています。
従属国日本には、高圧的な態度をかえていませんが、普天間から辺野古への基地移設・増強には沖縄住民を先頭とする強い反対運動が起こっており、日米関係についても国民による新たな模索が開始されようとしています。
7、戦後日本経済の大局的変化と脆弱性
以上、駆け足で日本資本主義と、その一環としての日本経済の発展を見てきました。ここで、あらためて戦後日本経済の変化を大きくまとめてみれば、それは、①アメリカへの従属のもとで輸出主導型経済構造をつくりあげ、戦争による崩壊から世界第二のGNPへの急速な発展をなし遂げた時代から、②競争力を強めた日本に対するアメリカの抵抗と、逆に利益獲得の場として日本市場の位置づけを高めたいアメリカ資本の要望の強まりのもとでの、多国籍企業主導型の経済構造づくりへの大きな転換の時代へと総括できるのではないかと思います。
そして現瞬間は、「多国籍企業主導型の経済構造」の具体的なあり方をめぐり、「失われた一〇年」とよばれる日本経済の停滞の中で、大資本の利益だけが拡大していくという、そういう仕組みでいいのかどうか、その点をめぐる財界・大資本と労働者・国民との綱引きの時代となっているように思います。
輸出主導型で大資本の利益が優先されたとはいえ、それでも国民経済全体がそれなりに豊かになった日本の経済が、なぜ、国民生活が完全に置いてきぼりにされ、一部の大企業だけが「成長力(利益)」を拡大していく経済に変化したのか、そこには次のような歴史的要因があったと思います。
一つは、一九五〇年代後半からの「高度成長」の時代にも、内需を牽引するのに十分な個人消費を形成することができなかったという問題です。大企業の輸出競争力の強さは、技術の優秀さだけでなく、安い人件費、中小企業の低い下請け単価に支えられました。これに対して、労働者たちの賃上げ闘争や、福祉・教育の充実をもとめる革新自治体づくりの取り組みの前進がありましたが、それはGNP世界第2位の経済力にふさわしいものとはなりませんでした。労働者・国民の力に、まだ不十分さがあったのです。
一九七四~七五年の恐慌は、日本経済の構造を、厚い内需に支えられたものに転換させるチャンスとなるものでした。しかし、大資本と政府は国民に第二の「反動攻勢」をしかけながら、一方では国際的な摩擦を引き起こす集中豪雨的な輸出の道へ、他方では「内需拡大」の名での大型公共事業推進の道へと進みました。それが、強い国際競争力と貧しい国民生活――乏しい個人消費――が併存するという、日本経済の脆弱性を拡大させました。
二つ目は、経済政策面での対米従属およびアメリカ市場への過度の依存の問題です。戦後、日本経済はアメリカによる「強い日本の復活」政策にもとづいて、戦前来の中国との経済交流を断ち切り、アメリカからの技術援助とアメリカ市場への輸出を原動力として成長しました。これは「高度成長」期の全体に一貫した特徴です。一九六〇年の新安保条約には、アメリカに対する、日本の経済協力が義務づけられました。
さらに、もはや許容できないほどに対米輸出競争力を高めた日本に対して、アメリカは「貿易摩擦」の名でこれを政治問題化し、また「プラザ合意」によって円高を強制して、さらには「日米構造協議」の中で六三〇兆円もの公共事業支出を求め、同時に各種の「規制改革」を求めてきました。
このようなアメリカの対日経済介入に、日本政府と大資本は、部分的な抵抗を示したことはあっても、独立国らしい経済主権を行使し、正面から抵抗する姿勢を示したことは一度もありません。アメリカ政府の対外経済政策の枠の中で、それを前提にして、そのもとでどのようにして自身の利益を拡大していくかというのが日本大資本と財界の基本姿勢であり、それに従う日本政府の政策でした。
これもまた、日本の財界赤字を拡大し、日米大資本の利益を高める一方で、国民生活への圧迫を強め、結果として、日本経済の脆弱性を、いっそう深めるものとなりました。
こうした戦後日本経済の特徴は、経済過程が独自に生み出したものではありません。そこには何より、政治のあり方が強く作用しています。大資本の利益を尊重しながら、国民生活を軽視する政治、またアメリカ政府へのいいなりをつづけ、国家的従属からの脱却の道を探ろうとしない政治、これらが大資本とアメリカにやさしく、労働者・国民や中小企業にはつらい、現在の日本経済をつくりあげています。政治を改革する社会の力、労働者・国民の運動の力の弱さが経済の仕組みに反映しているのです。
8、日本資本主義発展の今日的課題
最後に、以上の全体をふりかえった上での日本社会の大きな発展課題を提起しておきます。
再びマルクスの視点にもどって、日本資本主義の現在をみれば、それはGDP第二位という高い生産力を、人間のくらしのために制御する力が未熟な社会という特徴をもっています。OECDに加盟するような、いわゆる経済「先進国」の中で、日本は特別に、男女差別がひどい、少子化が極端に進んでいる、社会保障予算や教育予算が少ない、労働時間が長い、労働法制が貧弱……といった指摘がなされていますが、要するにそれは、資本の「自然成長的姿態」に対して、労働者・国民が加える「計画」性が貧しいということであり、それを強制する労働者・国民の力が弱いということです。
そうした日本社会の未熟さは、労働者・国民がもつ次の三つの思想あるいは精神の歴史的後進性に裏づけられているように思います。
一つは、人権や民主主義の思想の弱さです。憲法二五条を実態化する取り組みは様々に行われてきましたが、しかし「構造改革」を正当化するための「勝ち組・負け組」論がこれほどまでに浸透し、「自己責任」論への反撃にこれほどのエネルギーが必要とされる。ここには、やはり、あらゆる人間に豊かにくらす権利があり、その最低限は国が守らねばならないという思想それ自体の弱さがあらわれていると思います。
歴史的には、それは資本主義の発生期における「ブルジョア民主主義」獲得の運動の不十分さ、また敗戦直後の改革期もふくめた戦後の民主主義拡充の運動の不十分さがもたらしたものといえるように思います。
ただし、国民が古い自民党政治にかわる、新しい何ものかを模索しはじめている現在の状況は、このままでは生きられないという生活の実態が、国家による最低生活の保障、国民に奉仕する国家のあり方、それらを実現するために必要な社会的連帯などを切実にもとめていることを示していると思います。これ以上の生活破壊を食い止めようとすれば、歴史的な後進性の克服が、もはや避けられないものになっていると思います。
二つ目は、侵略と植民地支配に対する明確な総括を、あいまいにしつづけているという弱点です。ぼくは毎年、韓国の「慰安婦」被害者と接する機会をもっていますが、ある被害者は「韓国併合から一〇〇年もたった」「それでも謝罪をしない」「一〇〇年間もいったい何をしてきたのだ」と繰り返します。まったく返す言葉がありません。
歴史的にはこれも敗戦直後に、天皇裕仁の戦争責任が追求されなかったこと、占領軍が戦争責任の追求をなし崩しに中止したこと、これにとってかわり自国の犯罪を自分で裁く強い意志と力が日本社会の中には形成されなかったこと、などの要因を指摘することができます。
しかし、世界資本主義の発展が、そのような曖昧と不誠実を許さない段階に接近し、日本経済もかつて侵略と破壊の限りをつくした東アジアとの交流を深めずにおれない状況となり、この面でも歴史的後進性の克服が目前の大きな課題となるにいたっています。財界団体の中からも、かつての戦争を直視することの必要を語る意見がだされていますが、この期を逃さぬ取り組みが、労働者・国民に強く求められています。
三つ目は、軍事・外交をアメリカまかせにし、経済政策においてさえアメリカの横暴な求めに抵抗することをしない卑屈な従属者の意識です。これが形成された戦後の過程については、すでにいくつかふれたとおりです。日本の国民とともに経済的・政治的支配層さえもが、もはや世界の変化を自分の目で見ることができなくなっており、オバマ政権の登場によるアメリカの変化にも、ついていくことができなくなっています。
しかし、この点でも国民意識の大きな成熟なしに、平和や安全、経済の発展を展望することができない局面に、日本社会は入っていると思います。対米従属の継続に対する、もっとも鋭い問題提起となっているのは、沖縄の基地問題です。それは憲法体制か安保体制かという改憲の是非をめぐる問題にも、北東アジアの平和と安全をどう実現していくかという課題とも深く絡み合うものとなっています。これ以上、基地はいらないという声を、より積極的な平和外交の展開に結びつけていくことができれば、この面でも、歴史的後進性からの脱却に大きく進むことができるでしょう。
世界はすでに各国が、どのような大国も恐れず、自立して発言し、行動する方向への大きな変化を開始しています。その中で日本はどういう世界とアジアを目指し、そのためにどういう具体的な役割を果たしていくのか、こうした前向きで建設的な外交戦略を、労働者・国民がしっかりつくり上げていくことが必要になっていると思います。
以上の三つは、相互にからみあって日本資本主義全体の後進性とその克服の展望を広げています。たとえば、対米従属からの脱却の取り組みは、沖縄人民はじめ日本国民の人権と民主主義に対する自覚の深まりを伴うでしょうし、そのたたかいの過程は、この国の政府や大資本の姿勢に対する批判的で自主的な知見を育むものともなるでしょう。そして、これらの歴史的後進性を乗り越えていく取り組みの前進は、日本経済の民主的な改革にとっても、次のように可能性を広げます。
日本経済が「失われた一〇年」を抜け出していくには、第一に強い内需が必要であり、それは何より家計・個人消費に支えられねばなりません。それには労働法制の充実であれ、社会保障や教育制度の拡充であれ、国民の権利意識の発揚が不可欠です。
第二に、新たな世界的成長センターとなっている東アジアや南アジアとの経済交流の深化が必要です。そのためには、かつての侵略や植民地支配についての明確な反省と謝罪が必要であり、またいくつかの領土問題についても、過去の清算を前提とした、対等で友好的な姿勢のもとに解決のための話し合いを行なうことが必要です。
第三に、財政赤字の問題については、右のような政策により経済の安定成長を追求するなかで、対GDPでの赤字比率を引き下げ、あわせて歳入・歳出構造の見直しをすすめることが必要です。成長なのか財政再建なのかの二律背反ではなく、成長の中で財政を建て直すという道が可能であり、財政構造改革の内容についても、家計・個人消費の激励という角度から、おのずと方向が決まってきます。
第四に、経済成長の安定を確保するための通貨政策の転換が必要です。いつでも、いかにドル価値を高く維持するかを最優先する対米従属型、属国型の通貨政策ではなく、日本国民の生活と日本経済の安定確保を最優先する通貨政策が必要です。保有外貨はドルだけでなく、ユーロや元などに分散される必要があるでしょうし、すでに様々な議論が行われている東アジアの共通通貨や、その前段階での各国通貨間の為替変動の調整についても、積極的な議論と探究が必要でしょう。
すでに見たように、日本資本主義は、人権や民主主義の充実の面でも、侵略と植民地支配への反省の面でも、対米従属からの脱却の面でも、大きな転換の岐路に立っています。そして、その成否は、この局面を前向きに打開し、後進性を乗り越えた新しい社会づくりをリードしうる労働者・国民の成熟と、その取り組みの創造性にかかっています。その取り組みが成功的に前進する時にはじめて、後進性の克服は現実のものとなり、結果としてそこから「脱戦後」の時代が日本資本主義におとずれるのではないかと思います。
〔付記〕
右の報告をさせていただいた後の討論で、日本の労働者階級の政治的成熟についての検討が、より重視して行なわれるべきではないかとの指摘をいただきました。たいへん的確な指摘であると考えます。今後の検討課題とさせていただきます。
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