以下は、『経済』2015年1月号(№232、16~36ページ)に掲載されたものです。
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「資本主義の発展段階を考える」
1 資本主義への批判と懐疑が深まる中で
〔引き続く「資本主義の限界」への注目〕
資本主義の限界や行き詰まりがあらためて話題になっています。私は、本誌2009年1月号でも、「資本主義の限界」についてお話をさせていただきました(「『資本主義の限界』を考える」)。サブプライムローン問題をきっかけとした金融危機の世界的な深まりや、日本では小林多喜二の『蟹工船』がブームになるといったこともあり、マスコミが「資本主義の限界」を論じる中でのことでした。
そこで私は、そうした状況は「資本主義が人々の安心できる生活を破壊している現実に根をもっています。ですから『資本主義の限界』に目を向ける議論は、一時的なものには終わりません」と述べました。現状はその指摘の妥当性を確認させるものとなっています。
その後6年になる資本主義の変化にふれておけば、2008年から09年にかけての深刻な恐慌は、「100年に一度の危機」と言われました。2015年を迎えようとする現局面が、そのような危機をすでに抜け出したところにあるかどうかについては、議論があるところです。しかし巨額の投機が、最終消費に支えられることのない「架空の需要」をもたらし、これが実体経済での生産の加熱と過剰を生み出すこと、また投機バブルの破綻が実体経済における生産と消費の乖離を一挙に現して、そこから、多くの人々が深刻な経済危機(恐慌)の渦に投げ込まれる──こうした危機を生み出す構造の根本問題には、何の修正も加えられていません。「経済の金融化」とマネーの暴走にもとづく投機資本主義は、今もはげしく運動をつづけ、その代償として多くの貧困を産み落とし続けています。
〔米日欧の閉塞と混迷〕
今回の金融危機の発信源となったアメリカの経済成長率は、2009年後半にはプラスにもどりました。しかし、内情はいまだ不安定です。消費は一定の回復を見せたものの、これは政府による巨額の財政出動(金融機関の救済と内需拡大策)と量的金融緩和が、住宅市場や株式市場を回復させたことにもとづくもので、この面では、状況は金融危機以前に逆戻りしているといっていいかも知れません。加えて、企業の設備投資はいまだ低調で、失業も深刻な状況がつづいています。それが、“We are the 99%”のスローガンをかかげた、11年の「ウォール街を占拠せよ」(Occupy Wall Street)という労働者・市民による抗議の運動につながりました。この取り組みは、政府による金融機関の救済策や富裕層への優遇措置を強く批判するものでもありました。
2009年に誕生したオバマ政権は、大資本や富裕層の負担の強化を掲げました。しかし、同じ年にこれを「大きな政府」路線だと批判する保守派のティーパーティー運動が起こり、両者の対立は2013年に政府予算の成立を延期させる「財政戦争」にもつながりました。結局のところ、マネー暴走に対する抜本的な規制は生み出されず、国民による監視と批判以外に頼るものがないというのが現状です。
ヨーロッパ各国も、アメリカと同じく財政支出と金融緩和で対応しました。しかし、金融機関の負債を国家が肩代わりしたため、ギリシャ、イタリア、スペイン、ポルトガルなどで財政危機が深刻化します。そこから赤字減らしのための社会保障の抑制、公務員の削減といった緊縮政策がとられて、これが貧困の拡大をもたらしました。これは労働者・市民の強い反発を生みだし、最近では、欧州委員会からも〝財政より景気”という声があがり始めています。投機の規制については、ドイツ、フランスを含む各国が「金融取引税」の導入で合意しましたが、金融業界は強い反対の声をあげています。
その中で日本経済は、「失われた20年」から「30年」への道に入りました。自民党の「構造改革」に対する強い不満を背景に、2009年には民主党政権が誕生しました。しかし、被災地支援や原発問題での無策もあって、2012年には自民党政権が復活します。再登板となった安倍首相は、アベノミスクの第一に、異次元の金融緩和を掲げましたが、その実態は、内外の投機資本に新しい儲けのタネをばらまくだけのものでした。他の政策も「トリクルダウン(おこぼれ経済)理論」を建前に、大資本を優遇し、国民生活を犠牲とするものです。海外で戦争をする国づくりや極端な右傾化の動きもあって、国民の中には「新しい政治」の模索が広がっています。
〔トマ・ピケティ『21世紀の資本論』〕
こうした閉塞状況の継続が、資本主義という経済システムへの懐疑を深めさせる客観的な条件となっています。そうした中で、資本主義と貧困の関係を分析したトマ・ピケティの『21世紀の資本論』(2013年、原書)が、アメリカでベストセラーになるといったことが起こりました。
ピケティ氏はフランス社会党のブレーンともシンパとも紹介されていますが、基本は、「資本主義を否定するつもりはない」という立場です。しかし、今日の資本主義が生み出す経済的な「不平等」には強い危機感をもっており、富裕層への課税強化による格差是正の必要を訴えています。格差拡大の要因としては「金融の規制緩和」に注目しています。この本は、年末には日本語訳が出るようですが、すでに日本のメディアでもいろいろ語っていますから、一部を紹介しておきます。
「第一次世界大戦までは、極めて大きな不平等があった。不平等を大きく縮小させたのは、2度の世界大戦や金融恐慌による暴力的な衝撃だけだった。戦後の復興期には、著しい経済成長を皆が享受した期間があり、そこでは比較的平等な状態がつづいた」「80年代に入ると、再び不平等が拡大する傾向が現れた」。
「私は資本主義を否定するつもりはない。民主的な制度により、きちんと管理がなされるなら、もちろん受け入れる。私有財産や市場のシステムは基本的に個人の解放や自由を可能にするものだと思っている」「資本主義の力はイノベーションや経済成長、生活水準の向上を可能にするもので、それ自体はすばらしいのだが、当然ながら道徳的な規律というものがない」(『週刊東洋経済』14年7月26日号)。
このように、ピケティ氏は、不平等を是正する「道徳的な規律」をもたないところが資本主義の問題点で、これを補うための「民主的な制度」にもとづく「管理」が急がれねばならないという見解です。私は、民主的な管理の積み上げは、同時に、資本主義を越える社会の準備につながると考えていますが、当面の課題意識については、共鳴できるところが大きいです。
〔資本主義の終焉がはじまっているという指摘〕
日本国内では、よりラディカルな議論も注目されています。水野和夫氏の『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)です。水野氏は大手証券会社のチーフエコノミストをつとめ、日本政府でも仕事をされた方ですが、その人が「資本主義の次なるシステム」は見えていないと言いつつも、「資本主義の終焉」はすでに始まっていると語っています。
「中間層が資本主義を支持する理由がなくなってきている」。「私たちが取り組むべき最大の問題は、資本主義をどのようにして終わらせるかということ」。「資本主義を前提につくられた近代経済学の住人からすれば、私は『変人』にしか見えないことでしょう。しかし『変人』には資本主義終焉を告げる鐘の音がはっきりと聞こえています」と言うのです。
水野氏が資本主義「終焉」の根拠とするのは、主に次の二つです。一つは、資本主義は常に「中心」と「周辺」で構成されてきたが、アフリカにグローバリゼーションの手が届いたあたりから「地理的・物的空間」としての「周辺」はどこにも存在しなくなり、その限界を越えるために「電子・金融空間」(マネー経済の領域)が創造されたが、これが中間層を貧困層(新しい「周辺」)に転落させる力になっている、というものです。もう一つは、先進各国での利子率の低下は、各種企業の利潤率の低下を意味しており、それは資本の自己増殖がいよいよ不可能になってきていることを示している、というものです。個々の議論については、意見を違えるところもありますが、実体経済の行き詰まりが「電子・金融空間」を拡大させ、その新しい「空間」が貧困と格差を拡大し、中間層を貧困層に転落させる大きな要因になっているという点は、大枠で同意できるところです。
あわせて、スミス、マルクス、ケインズの思想はそれぞれ「むきだしの資本主義」にたいする「近代の偉大なブレーキ」役となってきたが、それが1970年代に入って効かなくなり、そこから資本主義の終焉が始まったとする資本主義の歴史把握も、なかなか興味深いところです。
〔資本主義の発展段階論をあらためて〕
さて、私は先のインタビューで、資本主義の枠の中での資本主義の発展(あるものの中での発展)は、資本主義から社会主義への発展(あるものから他のものへの発展)をどのように準備するのか、ということを、マルクスの探求にも立ち返って考えてみました。「資本主義の限界」とは何か、そこへの接近はどのように行われるかという問題を考えるためです。今回は、少し角度を変えて、マルクス主義経済学の発展段階論の基本とされる、自由競争の資本主義から独占資本主義へ、国家独占資本主義へという議論を再検討してみたく思います。
インタビューの中で、私は「資本主義の成熟をなにを基準に評価するか」という問題に、次のような試論を述べておきました。
「生産力や内政・外交両面での民主主義、平和を実現しようとする力の成熟など、社会発展の度合いをはかる基準は様々に設定できますが──そして、もちろん生産力については、どれだけの生産物をつくることができるかという単純な量的指標によってではなく、地球環境の維持を可能とする生産力でもあるかという質的な評価が不可欠ですが──、これらはいずれも、むきだしの資本の論理を、社会全体の安心や安定、平和や豊かさを求めるその国の労働者・国民がどこまで制御し、管理することに成功しているかという問題に帰着します。つまり、資本主義の歴史的発展の度合いをもっとも骨太くはかる尺度は、国民による資本主義の民主的な管理がどこまで達成されているかという点におかれるように思うのです」(本誌09年1月号、30㌻)。
これをあらためて検討してみたいということです。
2 レーニンの発展段階論
資本主義の自由競争段階から独占段階へ、国家独占資本主義の段階へ、こうした発展段階論を打ち出したのは、レーニンでした。論者によるその後のバリエーションはいろいろありましたが、原型をすえたのはレーニンでした。以下では、そのレーニンの議論を確認しておきます。
〔独占資本主義、国家独占資本主義という段階〕
(1)レーニンは、帝国主義を資本主義の特殊な段階だとして、その特殊性を「独占資本主義、寄生的な、または腐敗しつつある資本主義、死滅しつつある資本主義」という三つの角度からとらえました(「帝国主義と社会主義の分裂」『レーニン全集』大月書店、第23巻、112㌻、以下全集)。その際に、最も根本的な規定とされたのは、帝国主義の「経済的本質」である独占資本主義の問題でした(『帝国主義論』、全集第22巻、345~9㌻、新日本出版社古典選書、202~8㌻)。
(2)帝国主義を、資本主義の死滅しつつある段階ととらえたのは、独占資本主義が「競争の完全な自由から完全な社会化への過渡的な、ある新しい社会秩序」だからという理由でです(全集第22巻、236㌻)。自由競争は「資本主義と商品生産一般との基本的特質」だが、独占はその「直接の対立物」である。そこから、独占資本主義は「資本主義のいくつかの基本的特質がその対立物に転化しはじめたとき、また資本主義からより高度の社会=経済制度への過渡期の諸特徴があらゆる方面にわたって形づくられ、あらわになった」資本主義だという規定が導かれました(全集第22巻、306~7㌻)。
(3)レーニンのこうした立論は、『空想から科学へ』におけるエンゲルスの議論を継承したものです。エンゲルスは資本主義が発展するにつれ、資本家は「生産力の社会的性格」を部分的に承認せずにおれなくなるとして、その一例にトラストをあげました。「トラストにおいては、自由競争は独占に転化し、資本主義社会の無計画的な生産は、せまりくる社会主義社会の計画的生産の前に降伏する」「もちろん、さしあたりはまだ資本家の利益のため」にだが(『マルクス・エンゲルス全集』第19巻、217㌻、新日本古典選書、8㌻)。
このような議論を受けて、レーニンは次のように述べました。
「エンゲルスが27年前に、トラストの役割を考慮に入れず、『資本主義は無計画性を特徴とする』とかたるような、資本主義についてのそういう問題の立て方の不十分なことを指摘したということは、興味ぶかい。エンゲルスはこれについてこう指摘している。『トラストにうつるなら、そこでは……無計画性もなくなる』、しかも資本主義は存在している」。資本家は「いっそう『計画的に』利潤を手に入れるようになる」が、その利潤の追求により「資本主義は、いっそう高度の計画的形態へと成長転化しつつある」(全集第24巻、313~4㌻)と。
(4)つづいてレーニンは、国家の経済的役割に注目したブハーリンの議論の検討をきっかけに、第一次大戦のヨーロッパに生まれた戦時統制経済を国家独占資本主義と呼び、これを未来の社会主義に向け、過渡期をさらに前進した資本主義の段階ととらえるようになっていきます。そこで根本にすえられたのは、資本主義は「資本主義的生産の国家化の原理」にしたがって国家独占資本主義に転化する。それは、一方で「資本主義の巨大な力と国家の巨大な力とを単一の機構」に結合し、他方では、その機構のもとに「幾千万の人々」を「組織する」(全集第24巻、429㌻)という議論でした。これによって帝国主義は、独占資本主義の時代から「独占資本主義が国家独占資本主義へ成長転化する時代」に発展する時代になった(全集第25巻、442~3㌻)とされたのです。
(5)国家独占資本主義を、レーニンは、これ以上ないほどに社会主義の準備を完了した資本主義の歴史的な段階ととらえます。資本主義の経済を「数百万の人々が一つの計画に指導されるような仕方で活動する経済的有機体に転化すること」──これは社会主義革命が直面するもっとも困難な課題の一つだが、それは「資本主義のもっとも発展した諸形態」つまり「記帳の組織、巨大企業の統制、国家経済機関」を手がかりに実現することができる(全集第27巻、84~85㌻)。国家独占資本主義は、そのために必要な「高度な技術を装備した機構」をもたらすもので、「社会主義のためのもっとも完全な物質的準備であり、社会主義の入口であり、それと社会主義と名づけられる一段のあいだにはどんな中間的段階もないような歴史の階段の一段」(全集第25巻、386㌻)であるというのです。
以上が、レーニンの議論のあらましです。自由競争の資本主義から独占資本主義へ、国家独占資本主義へという発展段階のとらえ方は、帝国主義は「死滅しつつある資本主義」「資本主義の最後の段階」であるという歴史的地位への認識と、完全に一体となったものでした(注)。
(注)「新経済政策」とのかかわりで。ただし、これには少し補足がいるかと思います。レーニンが書き残した資本主義発展論は右のようなものですが、では、これがレーニンによる探求の本当に最終的な到達だったかというと、そこにはさらなる変化の可能性があったように思います。その可能性は、ロシア革命後に社会主義建設の道を探求する中で生まれました。
国家独占資本主義を「社会主義の入口」と位置づけるレーニンの理論は、社会主義を完全な社会化あるいは計画化の社会ととらえることを大前提とするものでした。この理解にもとづいてレーニンは、革命後、貨幣や市場を廃止し、経済社会を物資の国家的生産と国家的分配に、直接に置き換えようとする「戦時共産主義」論を実践的な指針としていきます。しかし、これは現実の取り組みの中で、大きな壁にぶつかりました。農民たちが、市場での売買から、ただちに切り離されることへの強い抵抗を示すようになったのです。農民の支持は、革命政権の維持に不可欠なものでしたから、事態は深刻でした。そこからレーニンは社会主義に向かう新しい道の探求に進みます。それが実を結んだのが、1921年からの「新経済政策」でした。それは、資本主義を社会主義に「適合させる」には「準備期」が必要だとして、少なくともその間は、市場を活用しながら社会主義に接近する他ないという画期的な新方針でした(全集第33巻、76㌻)。
残念ながら、この転換から1年半ほどで、レーニンは理論活動を終えざるを得なくなります。その間に、レーニンが資本主義発展の問題を、あらためて論ずる機会はありませんでした。しかし、この転換は、少なくとも、国家独占資本主義の特質を「記帳と統制」の強化に見て、これを社会主義の「完全な物質的準備」だとする議論に、大きな見直しをせまるものでした。そうした見直しの可能性にたどりついたというところを、レーニンによる資本主義発展論の最終的な到達点と見るべきではないかと思います。
〔「全般的危機」論の克服と帝国主義論の発展〕
資本主義の発展をどうとらえるかについては、「全般的危機」論の克服や帝国主義論の発展という重要な議論がありました。『経済』誌で「全般的危機」論の克服が議論されたのは1980年代後半のことで、帝国主義論の再検討と発展が論じられたのは2000年代半ばのことでした。いずれも直接には、日本共産党の問題提起をきっかけとしたもので、20世紀あるいは21世紀の世界をとらえる上で、それぞれ大きな意義をもつものでした。しかし、どちらも自由競争の資本主義、独占資本主義、国家独占資本主義というレーニンの議論を問い直すものではありませんでした。
まず「全般的危機」論については、それがレーニンではなくブハーリンやスターリンによってコミンテルンに持ち込まれた議論だったという歴史の経緯が明らかにされ、その上で、ロシア革命後の資本主義を一路危機深化の過程だとする機械論的・観念論的な情勢観、社会変革をもっぱら経済的危機の深化に解消する経済決定論的な革命論、さらに世界的な資本主義の危機深化の推進力をもっぱらソ連の発展に求め、ソ連への支持を世界の共産党や民主運動に求めるソ連覇権主義の合理化論など、この理論がもつ重大な欠陥が明らかにされました。
これは世界各国での革命運動の努力を骨抜きにし、それをソ連覇権主義への屈伏にとってかえようとするものでしたから、きっぱりとした清算の態度を示したことは、実践的にもたいへんに重要なことでした。
しかし、これは「全般的危機」論をレーニンの理論や実践とは異質なものとした上で、その内容を批判するというものでしたから、レーニンの理論自体が検討対象になることはほとんどありませんでした。
もうひとつの帝国主義論の発展については、事情がこれとは、だいぶん違ってきます。そこでは、独占資本主義の国はいずれも植民地をもった帝国主義の国であり、世界史的に見れば帝国主義の時代は「資本主義の最高にして最後の段階」だとするレーニンの見解自体が、有効性を問われることになりました。
レーニンの帝国主義研究から半世紀をへた20世紀の後半に、世界的な植民地体制は崩壊し、それにもかかわらず旧植民地保有国は資本主義の国として、特に衰弱することもなく、むしろ急速な発展を遂げるという現実が生まれます。これは、帝国主義が世界史的には資本主義の「最後の段階」ではなかったことを明らかにし、個別の国についても帝国主義の国から「植民地なき独占資本主義」への発展が可能であることを示すものでした。
この時の議論は、こうした帝国主義と独占資本主義の区別と関連をあらためて明らかにし、加えて、アメリカのように政策と行動に侵略性が体系的に現れている国を、今も帝国主義国と呼ぶという、帝国主義評価の今日的な基準を明らかにするものとなりました。
これによって、レーニンの「帝国主義=最後の段階」論は、はっきり乗り越えられることになりました。しかし、帝国主義を「死滅しつつある資本主義」ととらえることの歴史的制約が明らかになった時、そうした理解の最大の根拠とされた独占資本主義や国家独占資本主義についての研究には、どのような見直しが必要になるのか、その点についての明示的な検討は行われませんでした。それは、後の検討課題として残されてきたのです。
3 すでに100年を超える「国家独占資本主義」
〔自由競争が資本主義の本来の姿か〕
自由競争は資本主義の「基本的特質」であり、自由競争がもたらした独占はその「直接の対立物」である。したがって、独占資本主義以降の資本主義は「死滅しつつある」資本主義である──このようなレーニンの議論に対する私なりの疑問は、次のような順で、次第にはっきりとした形をとるようになりました。
その第一は、レーニンが『帝国主義論』で検討した第一次世界大戦から100年をへた今日、資本主義は、自由競争の段階よりも、独占段階以降の方に長い歴史をもつわけで、果たして、そのもとで自由競争の資本主義を資本主義の「基本的特質」を体現した、いわば資本主義の本来の姿ととらえることは妥当なのかという問題です。
マルクスによれば、資本主義が封建制社会の内部に誕生するのは、16世紀のことでした。それが「産業革命」をへて、機械制大工業という「独自の資本主義的生産様式」を樹立するにいたるのは、一番早いイギリスでも18世紀後半から19世紀前半にかけてのこととなります。イギリスにおける「産業革命」の終了は、1830年代のことですから、自由競争の資本主義の確立は、この瞬間ということになるでしょう。
しかし、その後の資本主義の変化は急速で、1873年には、欧米の資本主義は「大不況」と呼ばれる時期に入り、これが19世紀末までつづきます。それは自由競争の資本主義が、独占資本主義に転化する歴史的な過渡期となるものでした。これをへて、20世紀初頭に、独占資本主義が成立します。
このように歴史をふりかえってみると、資本主義の自由競争段階はいかにも短命です。純然たる自由競争の期間は、イギリスでも40年ほどしかありません。それに対して、「大不況」後に確立した独占段階以後の資本主義は、すでに1世紀を越えてつづいています。
こうなると、より短命な自由競争の段階を、資本主義の本来の姿ととらえ、独占段階以後を「基本的特質」を失っていく「死滅」の過程だとすることには大きな無理が生じてきます。しかも、独占段階以後の資本主義は、歴史的に巨大な成長を遂げていますから、むしろこちらの段階こそが発展する資本主義の本来の姿であり、逆に自由競争の段階を、幼年期の資本主義ととらえた方が、現実に合致しているのではないか。
大資本の利潤を拡大するための計画性が組み込まれた「自由競争と独占の結合」した段階こそ、資本主義のもっとも資本主義らしい姿といえるのではないか。これが、一つ目の問題意識でした。
〔独占資本主義と国家独占資本主義〕
二つ目は、独占資本主義と国家独占資本主義の関係についてです。両者を、大きく発展段階の異なるものとして区別することに、一体どれほど意味があるのだろうかという問題です。
レーニンの議論は、20世紀初頭に独占資本主義が成立し、それが第一次大戦による戦時統制経済の形で、国家独占資本主義に転化していくというものです。これがもとになって、資本主義は自由競争の段階、独占資本主義の段階、国家独占資本主義の段階の三段階をへるのだとする議論が、様々なバリエーションはあっても、その後、強い影響力をもちました。
しかし、第一次大戦が開始された1914年から、すでに100年になる今日から見れば、国家独占資本主義以前の独占段階を、自由競争の段階や国家独占資本主義の段階とならぶ独自の段階と位置づけるのには、やはり大きな無理があるように思います。
そう考える理由の一つは、実際の期間が非常に短いということであり、もう一つは独占の成立の瞬間に、すでに経済と国家の新しい密接な関係が孕(はら)まれていたではないか、ということです。
たとえば『帝国主義論』を執筆した段階のレーニンには、まだ国家資本主義や国家独占資本主義の概念はありませんでした。それでも、すでに独占は「絶対的な必然性をもって、政治機構やその他のどのような『こまごましたもの』とも無関係に、社会生活のすべての側面に浸透し」、一握りの独占資本による「金権政治の支配」を生み出す(全集第22巻、273~4㌻、新日本古典選書96㌻)と述べ、「例外なしに、現代ブルジョア社会のすべての経済的機関、政治的機関のうえに、従属関係の濃密な網の目をはりめぐらしている金融寡頭制」が「独占のもっとも顕著な現われ」の一つだという指摘を行っていました(全集第22巻、346㌻、新日本古典選書、203㌻)。
そのような傾向は国家独占資本主義の段階で初めて発現したものではなく、独占資本主義の段階がすでに内包していたものだということです。国家独占資本主義は、独占資本主義の内部に最初から含まれていたものであり、第一次大戦はそれを経済社会の前面にあらわすことを促進するものでしかなかったのではないか。そのように考えるなら、独占資本主義とは、本来、国家独占資本主義であり、その十全な姿をあらわにする以前の独占資本主義は、国家独占資本主義と区別される別の段階を成すよりも、むしろ国家独占資本主義の萌芽と評すべきものになるのではないでしょうか。これを先の第一の問題意識に付け加えると、長い歴史における資本主義の典型な姿は、独占資本主義ではなく、さらに国家独占資本主義だということになってきます。
つまり、①資本主義(独自の資本主義的生産様式)は自由競争の資本主義として確立したが、それは半世紀をへずに独占段階への移行を開始し、②「大不況」期をへて成立した独占資本主義はごく短期の萌芽の時期をへて、国家独占資本主義の姿をとるようになり、それがすでに1世紀の寿命を誇っている、③つまり大きな視野で振り返るなら、確立した資本主義の経済は、「大不況」をへて、自由競争の段階から国家独占資本主義の段階へと発展しており、④それは、資本主義の歴史的に典型的な姿が自由競争の資本主義でなく、国家独占資本主義であるということを示している、というわけです。
しかし、このような見解には、さらに次のような疑問がつづきました。「自由競争」は、なぜその時代の多くの側面をもつ資本主義を総括する規定でありうるのか。「国家独占資本主義」は、同じく多くの側面をもつ20世紀以降の資本主義の全体を、どのような意味で総括しうる規定になっているのか──その根底に横たわったのは、要するに、「無政府性」から「計画性」への変化をもって資本主義発展の段階をとらえるという、レーニンの基本見地ははたして適切なのか、という問題でした。
4 レーニンはなぜ「計画性」を段階区分の基準としたか
〔独占すなわち過渡期という立論〕
資本主義が「死滅しつつある段階」に入ったことの根拠を、レーニンは自由競争の独占への転化に求めました。その点の論理を検討してみます。
まず、独占の内容についてです。レーニンは『帝国主義論』の第一章で、独占を二つの側面からとらえています。第一は、「分散し、互いについてなにも知らず、未知の市場での販売のために生産する経営者の古い自由競争」(全集第22巻、235㌻、新日本古典選書42㌻)との対比で、「販売条件」「支払期限」「販路」「生産物の量」「価格」「利潤」などを「協定」を通じて、よく知り合い、調整しあっている大資本間の関係という側面です。大資本相互の関係における計画性ということです。
第二は、「もはや小企業と大企業との、技術的におくれた企業と技術的にすすんだ企業との競争戦」ではない、「独占に、その抑圧に、その専横に服従しないものが、独占者によって絞め殺される」という大資本による中小資本への「支配」の側面です。大資本と中小資本の関係における計画性の形成という問題です。
ただし、いずれも、100%の完全な「協定」や完全な「支配」を意味するわけではありません。大資本相互の間にも、大資本と中小資本のあいだにも一定の競争や対立が残ります。そこでレーニンは、独占段階にある資本主義は、競争と独占(計画性)が絡み合った段階、すなわち「競争の完全な自由から完全な社会化への移行する、なにか新しい社会秩序」(全集第22巻、236㌻、新日本古典選書43㌻)だとしたのでした。
ここで注意しておきたいのは、こうした議論を展開する時、レーニンは、なぜ、他のどの基準でもなく資本間の関係の変化を物差しに、資本主義の発展や段階をはかろうとするのか、その理由については、ほとんど何も語っていないということです。自由競争は「資本主義と商品生産一般との基本的特質」で、独占はその「直接の対立物」であるというのが、与えられたほぼ唯一の説明です。そして、そこから一足飛びに、だから独占資本主義は社会主義への過渡にあたる段階なのだという結論が、特別の証明を必要としない、いわばすでに自明なことであるかのように導かれます。
「資本主義の若干の基本的特質がその対立物に転化するようになり、資本主義からより高度な社会─経済制度への過渡期の特徴があらゆる方面にわたって形成され、あらわになった」(全集第22巻、306~7㌻、新日本古典選書143㌻)。「自由競争を地盤とし、ほかならぬその自由競争のなかから成長する独占は、資本主義制度からより高度の社会─経済制度への過渡」である(全集第22巻、346㌻、新日本古典選書202㌻)、といった具合です。
〔先にあった「終わりの時代」論〕
これは一体なぜなのでしょう。理由については、二つのことが類推できます。ひとつは、レーニンが、帝国主義戦争の時代は資本主義の「終わりの時代」だという、ある種の先入見にとらわれていたのではないかということです。そのように考えるのは、「独占」段階の「発見」以前に、レーニンが資本主義の「最高の形態」「終わりの時代」について繰り返し語っていた事実があるからです。
たとえば1915年10月の講演で、レーニンは「現在の戦争は帝国主義戦争である」「資本主義はすでにその最高の形態に達し」ている、「18世紀と19世紀の民族戦争は資本主義のはじまりを意味していたが、帝国主義戦争はその終わりをしめしている」(全集第36巻、332~3㌻)と述べました。さらに、同じ月に「この戦争は帝国主義戦争、すなわち、もっとも発展した資本主義の時代、資本主義の終わりの時代の戦争である」(全集第21巻、25㌻)と書きました。
また、1915年2月以降に執筆された未完の論文「よその旗をかかげて」(1917年初出)では、資本主義の「通例の歴史的時代区分」は、①1789年~1871年、②1871年~1914年、③1914年以降の三段階だとした上で、第二の時代を「ブルジョアジーの完全な支配と衰退の時代」「進歩的なブルジョアジーから、反動的な、さらにもっとも反動的な金融資本への移行の時代」と描き、そして第三の時代を「下向線をたどり、衰退しつつある、もっとも反動的な、命数のつきた、生きのこりの金融資本の、新しい勢力にたいする闘争が現われた」(全集第21巻、139㌻)と特徴づけています。
また「第一の時代には、封建制度から解放されつつある人類の生産力の発展の支柱であった、諸国家のブルジョア的=民族的な枠は、いまや第三の時代には、生産力のより以上の発展の障害となった。ブルジョアジーは、興隆しつつある先進的階級から、転落しつつある、衰退的な、内面的には死んだ、反動的な階級になった。まったく別の階級が、興隆する──広範な歴史的規模で──階級となった」(同前、141~2㌻)とも書きました。
これらの段階規定を与える際に、レーニンは「自由競争の独占への転化」を理由としていません。独占資本主義を分析した結果として「最後の段階」規定が生まれたのではなく、「最後の段階」規定が先にあり、それを理論的に根拠づける「独占」段階論が後になって発見される、レーニンの理論史にはそういう逆転した関係があったのです(注)。
(注)エンゲルスは1885年に「資本主義的生産様式の最後の存続期」(ギョーム・シャックへの手紙、『マルクス、エンゲルス書簡選集・下』新日本古典選書、32㌻)と述べ、1890年には帝国議会選挙での大勝利をもって「1890年2月20日はドイツ革命の開始の日です」「古い安定は永遠に去ってしまった」(同右、112~3㌻)と書いていました。また、レーニンは、1913年に出版されたローザ・ルクセンブルクの『資本蓄積論』(1913年)をただちに読んで、批判的な評注を書きつけましたが、ローザも、「資本主義の最終段階」(岩波文庫、下巻、188㌻)という文言を、特別な説明を抜きにして、いわばさらりと登場させています。19世紀の末から20世紀初頭の時期を、大局としてこのようにとらえることは、当時の革命家たちにとってある程度共通した認識だったのかもしれません。
〔エンゲルスの資本主義論に依拠〕
独占段階への移行によって資本主義が未来社会への過渡期に入ったと、レーニンが自明のように主張したもうひとつの理由は、エンゲルスの資本主義発展論に対する、レーニンの信頼と依拠だったと思います。
生産力の発展にともない、資本家は「生産力の社会的性格」を部分的に承認することを余儀なくされる。「トラストにおいては、自由競争は独占に転化し、資本主義社会の無計画的な生産は、せまりくる社会主義社会の計画的な生産の前に降伏する」「もちろん、さしあたりはまだ資本家の利益のためにだが」(『空想から科学へ』、『マルクス・エンゲルス全集』第19巻、217㌻、新日本古典選書、81㌻)。エンゲルスがこう述べた箇所を念頭において、レーニンが「資本主義は、いっそう高度の計画的形態へと成長転化しつつある」(全集第24巻、313~4㌻)と書いたことは、先に紹介しました。
このエンゲルスの議論は、その発展にともない、資本主義の基本矛盾がどのように展開するかという角度から述べられたものでした。しかし、エンゲルスによる資本主義の基本矛盾論には、資本主義的な生産力と生産関係の矛盾といいながら、その一方の極の生産関係を商品生産一般の特徴である「生産の無政府状態」(無政府性)に解消してしまう弱点をもっていました。
その上で、エンゲルスは『空想から科学へ』の中で(『反デューリング論』の中でも)、「大多数の人間をますますプロレタリアに変えるのは、生産の社会的無政府状態という推進力」(全集第19巻、213㌻、新日本古典選書、74㌻)、資本家に没落を避けるために機械を改良させるのも「社会的な生産の無政府状態という推進力」(同)という具合に、資本主義の推進力を生産関係の「無政府性」に求めていき、恐慌もこの「無政府性」から展開しています。そこには剰余価値生産を追求する資本の論理は登場してきません。
このような資本主義の運動や構造に対する基本的な認識の下で、エンゲルスは、株式会社、トラスト、国有化の進展という19世紀後半に拡大した新しい現象を、生産力の社会的性格の発展ととらえ、これを「無政府性」という資本主義の生産関係が「承認」することを余儀なくされていく過程ととらえました。それが「せまりくる社会主義社会の計画的生産」への資本主義の「屈伏」という、先の理解につながっていくわけです。
レーニンは、自由競争を「資本主義と商品生産一般との基本的特質」だとして、資本主義の特徴を「商品生産一般」との共通性に解消し、独占という「直接の対立物」の広まりを、資本主義の枠内における社会主義への「過渡」ととらえていきますが、この論理の組立は、基本的に右のエンゲルスの議論にもとづくものといっていいでしょう。
さらに国有化を論じたエンゲルスが、「(国有によって)資本関係は廃棄されないで、むしろ極端にまでおしすすめられる。しかし、極端に達すると一変する。生産力にたいする国有は衝突の解決ではないが、それは解決の形式上の手段、その手がかりを自己のうちにたくわえている」(新日本古典選書、84㌻)。「資本主義的生産様式は、ますます大規模な社会化された生産手段の国有への転化をおしすすめることによって、それみずから変革を遂行するための道をしめす。プロレタリアートは国家権力を掌握し、生産手段をまず国有に転化する」(同86㌻)と述べていることも、国家独占資本主義を「社会主義のためのもっとも完全な物質的準備であり、社会主義の入口」だとするレーニンの議論に、基本線では太くつながるものと言っていいでしょう。
このようにレーニンの「死滅しつつある資本主義」論は、資本主義と社会主義をとらえる根本のところで、エンゲルスの資本主義論に深く依拠したものとなっています。「独占」段階の発見以前に、時代を資本主義の「終わりの時代」とした先のレーニンの時代認識も、こうしたエンゲルスへの信頼と結びついたものだったのかも知れません。
『帝国主義論』の中で、「帝国主義段階にある資本主義は、生産のもっとも全面的な社会化にピッタリと接近する」と書いたレーニンは、つづけて「生産は社会的になるが、しかし取得は私的なままである」(全集第22巻、236㌻、新日本古典選書、43㌻)と、エンゲルスの基本矛盾論を自分の言葉で繰り返しましたが、次にも見るように、独占段階に入った20世紀は、資本主義の「死滅」ではなく、より本格的な「発展」を遂げる過程となっていきます。この歴史の事実にもとづくレーニンの議論の再検討は、同時に、その一部を成したエンゲルスの資本主義論の再検討を含まずにおれないものとなっています。
5 20世紀における資本主義の多面的な発展
以上の議論は、自由競争の資本主義や国家独占資本主義といった段階把握の一切が無効だと主張するものではありません。その歴史的地位の規定を除くなら、資本主義の経済や社会には様々な側面がありますから、それを資本間関係の変化や、経済と国家の関係の変化など、ある限定された視角からの規定として活用することには一定の有効性があると思います。
しかし、たとえば国家独占資本主義を、資本主義経済や社会の全体を総括し、さらに過去100年の資本主義を一括する段階規定として用いるなら、それはあまりに表面的、形式的なものに、現実世界の多面的な変化を反映しない、のっぺらぼうの規定になってしまうのではないかと思うのです。次に、その点を、20世紀以後の資本主義の発展を振り返ることで確かめてみます。
〔実体経済の大きな変化〕
レーニンが『帝国主義論』で、大資本の指標の一つにあげたのは従業員50人以上ということでした。しかし今日、世界一とされるウォルマートの従業員数は190万人(2008年)となっています。4万倍近くになっているということです。このような個別資本の巨大化の中で、資本は世界市場を股にかける多国籍企業の形態を当然とするようになり、さらに、今日では利殖の領域をマネー経済に大きく拡げています。
まず実体経済の変化を歴史的に見ておけば、資本主義を自立させた機械制大工業は、繊維産業を中心とした軽工業を内容とするものでした。それが鉄道建設ブームにも牽引されながら、19世紀の後半から20世紀にかけて、鉄鋼業を中心とした重工業に、さらには重化学工業に変わります。それは労働集約的な産業から、規模の経済性がものをいう資本集約的な産業への重心の移動ということでもありました。
その後、鉄鋼業などの素材型産業や鉄道産業にとどまらず、自動車などの加工組立産業や化学産業、石油産業にも巨大な独占資本が形成され、特に加工組立産業では、広範な中小企業が「下請」の網の目に絡めとられていきます。
また、ローン(販売信用)という新しい売買方式の普及に支えられ、1920年代の特にアメリカには、自動車、ラジオ、掃除機や洗濯機などの家電製品の大量生産・大量販売が広まります。同時に、従来、労働集約的とされた繊維産業が化学繊維、合成繊維などの資本集約型産業に発展し、サービス産業の巨大化も進みました。
こうした変化は1929年からの「大恐慌」により、一時的な中断を余儀なくされます。生産と消費の矛盾の爆発です。この状況に、大型公共事業の推進や社会保障の形成など、「平時」における国家の経済介入が拡大しますが、結局、震源地アメリカでの景気回復は、第二次世界大戦という「戦時」の再開を待たねばなりませんでした。その過程でアメリカ経済の軍事化が大規模に進行します。
戦後は、IMF体制(国際通貨基金)のもとで「ドル特権」を手にしたアメリカが、「軍事・ケインズ主義」政策の下、「西側世界の胃袋」としての役割を果たします。1950~60年代には、消費財の大量生産・大量販売が、西欧や日本を中心に安定的に発展する「資本主義の黄金時代」が生まれました。
しかし、1960年代後半のドル危機、1971年のドルショック、1973年のオイルショックをへて、1974・75年には当時戦後最大といわれた過剰生産恐慌が起こり、この「黄金時代」は終了します。ドルショックによる金ドル交換停止は、IMF体制を崩壊させ、外国為替制度は変動相場制に移行しました。これが今日につながる「経済の金融化」の直接の入口となっていきます。
同時に、ベトナム戦争に敗北(1975年)し、財政赤字のためにケインズ主義政策の継続が困難になったアメリカは、政策の軸足を「新自由主義」に移行させ、他方で先進国首脳会議(サミット)を呼びかけて、「西側」の協調による世界経済の管理を試みるように変わります。
70年代後半からの世界的な「低成長」時代の中で、リストラとME化による低コスト生産を土台とした「集中豪雨的な輸出」にもとづく、日本の「一人勝ち」状況が生まれます。しかし、これは1985年の「プラザ合意」による急速な円高と、つづくバブル崩壊の中で終焉し、以後、日本経済は「失われた20数年」に入ります。
ソ連・東欧の崩壊による「米ソ冷戦」の終結という激動の中で、軍事面ではアメリカの横暴を深め、経済面では特に金融を中心に「新自由主義」的改革を世界に強制するアメリカン・グローバリゼーションが展開されます。それによって、一国内部でも各国間でも貧富の格差が拡大しました。また、70年代後半から市場経済化をすすめた中国が、「世界の工場」から「世界の消費地」へと変化してきます。
他方、ソ連崩壊の1991年にはヨーロッパにEU(欧州連合)が創設され、中南米諸国の非米・反米化、通貨・金融危機(1997年)をきっかけとしたアジアのアメリカ離れなど、新興工業諸国の発展ともあわせて、アメリカの世界的な威信の低下が進みます。1974・75年恐慌以来の本格的な世界恐慌となる2008・09年恐慌が、「経済の金融化」による新しい混乱を大きな誘因として爆発します。
このように、同じ国家独占資本主義に照応するとされる時期には、資本の巨大化、産業構造、恐慌の形態、各国間の経済的な力関係など、多くの変化が起こっており、それぞれの角度から経済発展の段階を様々に画することが可能になっています。
〔「経済の金融化」という新しい変化〕
つづいて、1970年以降の「経済の金融化」に焦点を当ててみます。今日、金融資産や金融経済(マネー経済)の取引額は、実体経済をはるかにしのぐものとなっています。そのような変化の起点となったのは、ドルショックによる変動相場制への移行と、「資本主義の黄金時代」に蓄積された相対的な過剰生産の露呈でした。
大規模な過剰生産を前に、投資先を失った貨幣資本の世界的な過剰は、「ケインズ主義」政策に代わって台頭した「新自由主義」のイデオロギーと結びつき、金融市場の規制緩和(自由化)を強く求めます。他の分野に比べた金融産業の急速な成長が生まれ、その政治への影響力の強まりの中で、アメリカの経済政策全体がますます金融中心型に変化します。
アメリカは、グローバリゼーションの名で「金融の自由化」を世界に強要し、その結果、金融市場の動向が各国経済に大きな影響を与えるように変化します。実体経済を担う産業・商業資本も株主利益を優先し、金融・財務活動をより重視せずにおれなくなってきます。株主利益を拡大するための人件費削減は当然のこととされ、貧富の格差が拡大します。
リーマンショックに象徴される2008・09年恐慌の中で、労働者・国民の生活が巨大マネー(資本)に翻弄され、多くの人が“We are the 99%”と叫ばずにおれない現実が露になります。ピケティが注目する貧富の差の再拡大の時期や、水野氏が「電子・金融空間」の無理として語った「資本主義の終焉」の開始は、いずれも1970年代以後のこうした資本主義の異変(経済の金融化)に注目してのものでした。
資本主義経済の下で、長く、金融経済は産業・商業資本の運動や国民の家計を支える役割を果たしてきました。それは一時的な景気の加熱を促進し、恐慌の爆発を支える要因ともなりますが、資本主義はそうした景気の循環を日常の「生活行路」として成長を遂げてきたのでした。
しかし、ここに来て、投機を主目的とする金融経済は、実体経済からの乖離を深め、逆に、実体経済の担い手である諸資本や家計、国家財政などを大きく振り回すものに変わりました。両者の関係は転倒し、現代資本主義は、マネーの暴走に撹乱されることを常態とするものになっています。これは20世紀以後の資本主義発展における、きわめて大きな変化の一つです。
〔社会権、経済活動への規制、戦争の違法化〕
さらに、資本主義の歴史的変化を見る時に、欠かすことができないのは、特に民主主義の充実にあらわれる、労資の階級的な力関係の変化です。かつて、レーニンが国家独占資本主義を「資本主義の巨大な力と国家の巨大な力とを単一の機構」に結びつけたものと特徴づけたとき、その国家のほとんどは、男女共通の普通選挙制度をもたず、多数の意思を反映しない政府に代表された国家でした。
しかし、およそ第二次大戦後には、男女共通の普通選挙にもとづく議会制民主主義や、支配階級の横暴を抑止するために憲法が権力を拘束する立憲主義が、多くの国で当たり前のこととなってきます。
同様の政治的民主主義の拡充は、たとえば憲法の内容の変化にも表れました。ブルジョア革命による近代憲法は、アメリカの独立宣言(1776年)やフランスの人権宣言(1789年)に始まります。そこでは、封建制社会の身分制度など、各種の束縛から解放されて生きる人々の「自由権」が宣言されました。経済活動の自由、つまり財産権や、労働・営業・契約の自由なども盛り込まれました。自己労働や営業の成果が、国王や領主等によって力で奪われることがあってはならないというわけです。
しかし、その1世紀後のパリ・コミューン(1871年)は、自由放任の経済に対する批判から、生活と教育の保障を国家に求める「社会権」を提起します。人は「自由権」だけでは、生きられない。野放しの資本主義経済がもたらす過酷な現実が、国民の基本的人権に「社会権」を付け加えることを、労働者たちに要請したのです。社会権というのは、人たるに値する生活の保障を国民が国家に対して求める権利のことです。この思想を、ロシア革命直後のドイツで継承したのが、ワイマール共和国の憲法(1919年)で、ここで国民の生存権、教育権、労働権が、資本主義社会の憲法にはじめて書き込まれることになりました。
加えて、ワイマール憲法には、経済活動の自由に対する制約が書き込まれました。「経済生活の秩序は、各人に人間に値する生活を確保することを目的とし、正義の原則に適合しなければならない。各人の経済上の自由は、この限界内で保障される」(第151条1項)というものです。野放しの資本主義では「人間に値する生活を確保する」ことはできない。そこで「正義の原則」によるルールを強制するということです。
パリ・コミューンは2ヵ月ほどで弾圧されましたし、ワイマール共和国もナチスの台頭に抗することができず、短期間のうちに崩壊します。しかし、これらの思想は人類全体の貴重な到達として、各国の特に戦後の憲法に反映されました。日本国憲法にも、生存権、教育権、勤労権、労働三権などが含まれましたし、また第29条の財産権には、それが「公共の福祉」に「適合」せねばならないことが、次のように記されました。
「第二十九条 財産権は、これを侵してはならない。2、財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。3、私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる」。
現代日本の大資本や富裕層による投機の活動は、はたして「公共の福祉に適合する」行為といえるでしょうか。
資本主義諸国の国際関係にも、様々な変化が生み出されました。重要な問題のひとつは、レーニンが独占段階では不可避と考えた帝国主義の戦争を、「違法」だとする合意が深められてきたことです。第一次大戦後の国際連盟の創設(1920年)や不戦条約(1928年)、第二次大戦後の国際連合の創設(1945年)など、この1世紀のあいだには様々な取り組みがありました。
不戦条約は、「締約国は、国際紛争解決の為戦争に訴ふることを非とし…政策の手段としての戦争を放棄する」(第1条)、「一切の紛争又は紛議は…平和的手段に依る」(第2条)などとなっており、これを受けて「国家の政策の手段としての戦争を放棄」という文章が、1931年のスペイン憲法や1935年のフィリピン憲法に盛り込まれました。
1947年に施行された日本国憲法第九条は、こうした思想的・実践的な模索の上にあるもので、現実に根をもたない理想論などではありません。ソ連崩壊(1991年)やイラク戦争(2003年)をきっかけに、また世界各地での平和のための地域機構の発展の中で、紛争の平和的解決を求める国連憲章の本格的な実施が、現実の課題となりつつあるのは、こうした1世紀に近い努力の成果です。
侵略と植民地支配、それを推進する軍事同盟の担い手だったレーニン時代の資本主義が、第二次大戦後には「植民地なき(国家)独占資本主義」への発展を遂げたことについては、すでに紹介したとおりです。
このように経済の面でも政治の面でも、20世紀以降の資本主義には大きな変化がありました。
6 マルクスの資本主義論を導きに
資本主義の多面的で多様な変化をとらえる上で、私たちはレーニンの規定にとらわれすぎず、もっと自由に、事実にもとづく創造的な探求を進める必要があると思います。
冒頭に、前回のインタビューの中から、資本主義の発展・成熟をとらえる基準についての私なりの問題提起を紹介しておきました。
「生産力や内政・外交両面での民主主義、平和を実現しようとする力の成熟など、社会発展の度合いをはかる基準は様々に設定できますが」「資本主義の歴史的発展の度合いをもっとも骨太くはかる尺度は、国民による資本主義の民主的な管理がどこまで達成されているかという点におかれるように思うのです」。
この直感は、先に紹介したエンゲルスやレーニンの資本主義論よりも、マルクスの資本主義論に近いものとなっています。
〔マルクスの資本主義発展論〕
マルクスは「資本主義的生産の真の制限は、資本そのものである」として、資本に内包された「現存資本の増殖」という「目的」と、「社会的生産諸力の無条件的な発展」という「手段」の絶えざる「衝突」が、恐慌をふくむ資本主義の根本問題をつくりだし、同時に、資本主義がいつまでも資本主義にとどまることのできない歴史的に過渡的な性格を生み出すとしています(『資本論』新日本新書版、第9分冊、426~7㌻)。
エンゲルスは、商品生産一般の問題である「生産の無政府性」を矛盾の一方の極としましたが、マルクスは商品生産には解消しえない、剰余価値生産の追求を一方の極にすえました。
そこからマルスクは「無政府性」の克服ではなく、剰余価値生産という生産の「目的」を転換するための最大の要素となる労働者たちの社会的な結合と、新しい社会の実現に向けて闘う力の成長を、未来社会への接近をはかる最も重要な条件と考えました。労働者たちの結合は「資本主義的生産過程の機構」の発展、つまり生産手段の共同的生産手段への転化に基礎づけられるとして、マルクスは、資本主義社会から社会主義社会への転換の瞬間を、「生産手段の集中と労働の社会化とは、それらの資本主義的な外被とは調和しえなくなる一点に達する」(『資本論』新日本新書版、第4分冊、1306㌻)と書きました。
この「一点」にいたる資本主義の発展を、マルクスは、資本による労働者の結合と結合された労働者による闘いの前進、つまり剰余価値生産への一定の制限の形成と、この制限を乗り越えようとする生産力の発展との相互関係の内に描いています。
たとえば機械制大工業は、イギリス社会に過労死を頻発させる過酷な労働条件をもたらしましたが、そこに結合された労働者たちは、労働組合をつくり、議会を動かして「工場立法」を成立させます。マルクスはそのような労働者の闘いとそれによる野放しの剰余価値生産への「反作用」を、「大工業の必然的産物」だと書きました(『資本論』第3分冊、828㌻)。同時に、マルクスは、そのような労働者の闘いの前進を、資本主義経済の発展を萎縮させるものとしてではなく、逆に、機械制大工業の一層の発展すなわち絶対的剰余価値から相対的剰余価値へと、剰余価値生産の重点をますます移行させ、より巨大な資本主義の発展をもたらす要因としてとらえました。
こうした闘いの積み上げとそれを乗り越えようとする資本による生産力の発展は、直接には資本主義の枠内における資本主義の改良や変化を生み出すものですが、同時に、マルクスはそれを、未来社会を手前に引き寄せる新しい歴史的条件の形成としてとらえました。
「工場立法の一般化は、生産過程の物質的諸条件および社会的結合とともに、生産過程の資本主義的形態の諸矛盾と諸敵対とを、それゆえ同時に、新しい社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」(『資本論』同、864㌻)というわけです。「物質的諸条件および社会的結合」が「新しい社会の形成要素」に、深まる「矛盾」と「敵対」が「古い社会の変革契機」になるというのです。
再び、20世紀における資本主義の発展にもどっておけば、それは一方で、レーニンの時代とは比べ物にならない資本の巨大化、生産力の発展、独占団体・財界団体の緻密な発展、国家の経済への計画的で恒常的な介入などをもたらしました。そして、それによって資本主義は「死滅」を実現することはなく、反対に、これまでにない巨大な発展を遂げました。しかし、同時に、この時期は、労働時間の短縮、国家に人間らしい生活を求める社会権や労働者の意向を政治に反映させずにおれない議会制民主主義の確立、経済活動における「正義の原則」の必要などを、労働者たちが闘い取っていく過程でもありました。それは、マルクスが「工場立法」を特徴づけた「生産過程の自然成長的な姿態」に対する「意識的かつ計画的な反作用」を、さらに高く、広く、積み重ねる意味をもつものです。それは「新しい社会の形成要素」と「古い社会の変革契機」をますます成熟させるものともなっています。
〔資本主義を越える社会の提起も重要に〕
資本主義の発展段階をめぐる新たな議論については、20世紀以降の生産力や生産機構の発展、労働運動の前進や課題、一定の「福祉国家」を可能とした社会権の拡充、実体経済と金融経済の関係、経済と政治の国際関係の変化など、様々な問題意識にもとづき、多くの論者で試論を示しあい、集団の力をもって浮き彫りにしていくしかないように思います。その作業の中では、右に見たマルクスによる資本主義の原理的な把握が、現実を分析する導きの糸として、出発点に置かれてよいのではないでしょうか。
「全般的危機」論の克服が議論され、ソ連・東欧諸国が崩壊した頃から、レーニンが基礎をすえた資本主義の発展段階論は、正面から論じられることが少なくなりました。それ以前より、独占資本主義をレーニンによる歴史的地位の規定と切り離し、その問題を言わば脇に置いてこれを論ずる傾向はありました。いま、そうした問題解決の曖昧(あい まい)さに決着をつけていく努力が必要なように思います。それは、独占資本や金融資本、金融寡頭制や資本輸出、経済的領土分割と直接的領土分割の関係など、レーニンが示した様々な規定の歴史的意義や有効性を、より分析的に評価する可能性を拡げるものにもなるでしょう。
なお、社会の改革に向けた労働者の闘いという時、その方向性や力強さは、資本主義の枠内での改良を直接の課題とする場合にも、未来社会への転換を含む、より長期の展望がどれほど豊かであるかによっても左右されます。目前の課題を乗り越えるための改良の政策とともに、そのような課題を生み出さずにおれない資本主義の歴史的制約に対する告発と、それを乗り越える社会の可能性を提起することは、いつでも理論活動の重要な仕事となります。資本主義の「終焉」や行き詰まりが様々に指摘される現段階にあって、その必要性はますます高くなっているといってよいでしょう。
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