以下は、労働者教育協会『季刊 労働者教育』2015年3月号に掲載されたものです。
全国学習習交流集会in千葉/記念講演
憲法かがやく社会、自己責任論をのりこえる学びの仲間
石川康宏
神戸女学院大学教授
1 戦争をする国づくり
これからお話しするテーマは、自己責任論についてです。私たちの暮らしの根本にかかわる問題です。
同時に、戦争する国づくりが急ピッチですすんでいますので、これにまったく触れないわけにはいきません。最初に少しだけこれに触れ、それから生存権、自己責任論の問題に進みたいと思います。そこでは自民党はいま日本社会をどうしようとしているのかについて、また、そもそも日本国憲法の生存権を「古い」「いらない」「だめだ」とするのが彼らの主張ですから、人権が人間社会の歴史でどのような位置にあるかについても考えます。
さらに時間がゆるせば、資本主義社会の発展にとっての人権の意味にもふれ、最後に、いまの政治状況を変えるために、どのようなとりくみが必要か、また私たちの学習教育運動にどのようなとりくみが必要かについて考えたいと思います。
〔集団的自衛権行使容認を歓迎するアメリカ〕
7月1日に集団的自衛権の行使を容認する閣議決定が行われました。内容の詳細は省きますが、紹介しておきたいのは、関連する日米関係についてです。閣議決定をアメリカ政府は強く支持しました。当然です。「世界中どこへでもアメリカの戦争に子分として付き従います」と決めたわけですから。
この時に、アメリカ側が語ったことで重要なことのひとつは、「自衛隊がより広い範囲で任務を遂行でき、日米同盟をより効果的にする」(ヘーゲル国防長官)というものでした。はっきりと「広い範囲」と言っています。直接日本の防衛にかかわる日本周辺の地域ではなく、「アジア・太平洋地域」という巨大な領域で、ということです。
また「琉球新報」(7月14日)は、「閣議決定を急いだ背景には、集団的自衛権で米側の歓心を買うことで、尖閣問題に米軍を引きずり込みたい思惑が」「だがヘーゲル氏は『中国との建設的な関係を育成するよう話した』」と書きました。意訳すれば安倍首相等は、「尖閣でなにか問題があれば、アメリカさん出てきてくださいね。その代わり世界中どこにでも行きますから」とアプローチしたけれど、アメリカ側は、「それは自分で対処しなさい」と応じたということです。
これは当然のことです。アメリカにとって、最大の貿易相手は中国であり、最重要の二国間関係は米中関係なのですから。その中国との間にもめ事を起こすという選択肢は、アメリカ側にはありません。話し合いを通じて、中国を、軍事面、経済面で、なんとかアメリカが許容できる行動の範囲にコントロールしたいと思っているのが実際です。
現在の日米政府間には、大きな思惑の違いがあるということです。図1は、先ほど紹介した「アジア・太平洋地域」の範囲です。2013年1月の日米ガイドラインの話し合いで、すでにアメリカ側から提示されていたものです。どう考えても日本の防衛を課題としたものではありません。中東から南アジアにかけて、アメリカが「不安定の弧」と呼ぶ地域に、アメリカの思うままにならない政権がある。そこに軍事行動をしかける時に、「日本軍もいっしょに来い」ということです。これが集団的自衛権行使の実態です。
〔憲法違反の閣議決定と若い世代の抵抗〕
7月15日の衆院予算委員会で、「戦後初の戦死者」の可能性について問われた安倍首相は「自衛官の命の危険」を語りませんでした。「めったにそういう判断はしない」というのが回答でしたが、めったにしないということが、人の命を危うくする言い訳になると思っている点がすでに異常です。閣議決定はされましたが、国会の中では、まだ何一つ決まっていません。そこはこれからのたたかい次第ということです。
7月8日の「朝日」には「安保法案、提出は来年に 地方選への影響懸念し先送り」という記事が掲載されました。いま関連法案を国会に出せば、来年(2015年)3~4月のいっせい地方選挙に影響が出る。それだけでなく11月の沖縄県知事選にも影響がある。だから、これは選挙の後にしようということです。そこには国民の運動が、「戦争をする国づくり」に向かう彼らの最短コースでの思惑実現を押し返しているという事実があります。この力関係はきちんととらえておきましょう。
〔付記〕――講演後の沖縄県知事選挙で、辺野古への基地移設をゆるさないとする翁長知事が誕生しました。さらに年末の衆院選では4つの小選挙区すべてで自民党が敗北し、「基地ノー」連合が完勝しました。安倍首相と自民党本部の狡猾さを、沖縄の民意がはね返したということです。
集団的自衛権の行使容認決議を批判するときに、一番肝心なポイントは、それが憲法違反の決議だということです。この国の最高のルールは憲法です。自民党でも、共産党でも、どんな思想・信条の持ち主であれ、この国の政治は憲法を守って行われねばなりません。
憲法第9条は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」「交戦権は、これを認めない」としています。この憲法を、変えようとして変えられなかったのが安倍内閣です。そうであれば当然安倍内閣にもこの憲法を守る義務がある。
憲法第99条は「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」としています。閣議決定が憲法違反なのは明白でしょう。安倍内閣がやっていることは、わがまま勝手なルール違反だ。そういう批判が必要です。
安倍首相は「憲法解釈をかえたわけではない」と言い訳をすることがありますが、祖父である岸信介をはじめ、田中角栄、鈴木善幸、中曽根康弘、小泉純一郎と、歴代首相はみな、現行憲法の下で集団的自衛権の行使は許されないと語っています。解釈が変わっていないなど、大ウソというしかありません。
こういう異常な事態の進展に、若い世代の抵抗が広がっています。「東京新聞」8月15日の一面には、「8・15若者の覚悟」「集団的自衛権おかしい/秘密法反対声あげる」という記事が出ました。直接のきっかけになったのは、7月と8月の世論調査(共同通信)で集団的自衛権問題についての20~30代の世論が大きく変化したということでした(図2)。若い世代に「そこまでやるのか」という深刻な驚きがあったということです。ひところ、「若者は政治に無関心だ」と言われましたが、その逆転がはじまっているのかも知れません。意味の大きい変化です。
〔付記〕――つづく2014年末の衆院選では、SASPL(特定秘密保護法に反対する学生有志の会)が小選挙区制を批判しながら、安倍政権を倒すための「戦略的投票」を呼びかけました。各政党に対するかなり的確な評価を添付してのもので、これも政治に対する若い世代の意識の重要な変化を示すものです。
〔教育への国家の介入、メディアとの癒着〕
関連して、戦争をする人づくり、戦争に反対しない人づくりの企みも行われています。たとえば、下村文部科学大臣は、「政府が閣議決定した集団的自衛権の行使容認について学校現場で不適切な解説があった場合には、教育委員会を通じて指導する」と述べました(7月15日参院予算委員会)。教師による批判を許さないということです。学校では、子どもたちに「日本の平和憲法は」と教えています。その時に、子どもたちから「でも集団的自衛権が」と問われた時に、先生はまともに答えてはいけない。教員の口封じと、子どもたちへの誘導教育が進められようとしているわけです。
教育委員会制度の改悪、学校教育法や国立大学法人法の改悪、道徳の教科化、高校での「近現代史」の必修化の動きなども、これと方向を同じくしたものと言えるでしょう。
加えて、帝塚山学院大学や北星大学には、「朝日新聞」で「慰安婦」問題に関する記事を書いていた記者が、大学で教育をするのはけしからんという脅迫が行われました。帝塚山学院大学は教員の辞表をすぐに受け取ってしまいましたが、北星大学は多くの激励もあって、脅しに屈しない姿勢を維持しています。内閣の右傾化にともなう、こうした世論の変化にも敏感な対応が必要です。
沖縄での米軍基地建設問題については、みなさんご存じのとおりです。現場での合法的な反対の取り組みに、国家が暴力を振るっています。海上保安庁という海の上の警察が、怒鳴りつける、羽交い締めにする、首をひねるといったことをしながら基地建設の準備を進めています。
その上で、これらのそれぞれを重大問題として報道する見識をもたないメディアの堕落を指摘せねばなりません。昨日の夜も、安倍首相は、大手の新聞記者たちと贅沢な食事をしていました。「7時15分、東京・赤坂の中国料理店『赤坂飯店』。内閣記者会加盟報道各社のキャップと懇談」(「朝日」)とのことです。
そこに参加した新聞記者からは、何を語り合ったかについての情報がいっさい出てこない。権力を監視するのがジャーナリズム本来の役割ですが、日本の大手ジャーナリズムは、多くがすでに死にかけているということです。個々の記者による部分的な抵抗や奮闘があるだけです。
そうした中で、多くの人が、ほんとうの情報と政治批判、政治改革への正論を求めています。そこで大きな役割を果たしているのがインターネットの空間です。みなさん方の運動が、そこにどれだけの影響力をもっているか、そこが深刻に問われています。ツイッターやフェイスブックなどのSNSの活用もふくめ、この領域でも真剣な努力が求められています。この点でも大いに力を発揮してほしいと思います。以上、前置きでした。
2 日本国憲法の制定から「自己責任論」が横行する現在まで
本題に入ります。「自己責任論」がこうまで蔓延し、反撃がなかなか広がらないのはなぜでしょう? 不思議なことです。なぜならば、この国は憲法第25条で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と謳っているのですから。誰がこの権利を充たすのか。ここには「国は」とはっきりと書いてある。国が国民生活の最低限については責任をもつのだと。
それに対して「自己責任論」は、「国民は国に頼るな」「行政に頼るな」「おのれの力で生きていけ」というものです。憲法とは明らかに180度違ったものです。それがなぜ日本社会で通用するのかは、根の深い問題です。憲法の誕生から今日までの政治状況の変化を追って考えてみます。
〔戦後日本の民主化を求めたポツダム宣言〕
1945年8月に日本は戦争に負け、連合国を代表した米軍によって全土を軍事占領されました。私の大学に入学してくる学生は、多くが、日本がアメリカに軍事占領されていたことを知りません。ついでに言うと、その直前に50年間も侵略戦争をつづけた事実も知らないことが多いです。そういう歴史の事実を若い世代に伝えていくことが大切です。「そんなことは知っていて当たり前」などと横着な態度をとらずに、正面からきちんと伝える努力が必要です。
占領は足かけ8年続きました。連合国側はあらかじめその占領の方針についての合意をつくっていました。それが「ポツダム宣言」です。内容のいくつかを紹介しましょう。
「吾等の条件は以下の条文で示すとおりであり、これについては譲歩せず、吾等がここから外れることも又ない。執行の遅れは認めない」(ポツダム宣言第5項)。こういう日本改革の方針を、大日本帝国は1945年8月14日に、連合国に受諾すると通告して降伏したのでした。
「日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を除去する」(第6項)。「捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されること」(第10項)。戦争推進の勢力を排除し、戦争犯罪人を処罰するというのです。これらの項目があるため、日本軍は戦争犯罪の証拠となりそうなものを組織的に隠滅することも行いました。
「民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除されるべきこと。言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されること」(第10項)、そして、「日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に占領軍は撤退する」(第11項)。
これが、アメリカを含む連合国による日本占領の方針でした。一言でいえば、平和・民主の日本をつくるということです。
実際にも、1945年8月末に来日した占領軍最高責任者のマッカーサーは、10月に、①女性の解放、②労働者の団結権の保障、③教育の民主化、④秘密警察の廃止、⑤経済の民主化という、いわゆる「五大改革指令」を発します。さらに、日本の政府に対して「新しい憲法をつくる」ことを指示します。
その後の経過については、みなさんもよくご存じだと思います。結局、日本政府からはまともな改憲案が出てこず、占領軍が草案をつくることになりました。それが帝国議会の議論にかけられ、第25条が追記されるなどのこともあった上で、47年5月に憲法の施行となりました。第9条をふくみ、第25条をふくむ憲法です。このまま、この憲法を本当の指針とする国づくりが行われていれば、日本は世界に冠たる民主国家になったでしょう。
〔アメリカいいなりの軍事大国づくりへの転換〕
ところが、アメリカの自己中心的な判断により、占領政策の大転換が起こされます。47~48年にアメリカは、ポツダム宣言を事実上放り出し、日本を「アジアにおける反共の砦に」「反共産主義、反ソ連の砦にする」と言い出したのです。「砦」というのはたたかいの基地のことです。日本を、二度と戦争をしない平和国家ではなく、米軍による戦争のための出先の軍事基地国家にすると言い出したのです。
背景にあったのは、アジアにおける、米ソ「冷戦」の進展でした。48年には朝鮮半島が南北に分断されました。49年には中国革命が起こります。第二次大戦直後のアメリカは、東アジア支配の拠点を中国に置こうと考えていました。第二次大戦を共にたたかった、蒋介石政権をあてにしてのことです。実際に戦後アメリカは中国に武器援助を行い、軍事顧問も派遣していました。
ところがその中国で、毛沢東の共産党が力を増してくる。そこで、アメリカは判断するわけです。「中国には期待できない」と。それで、東アジア支配の拠点をどこか他の場所に移すことを考えたとき、手のひらにのっていたのが日本列島だったということです。
アメリカは、日本の民主化を中断させ、「アメリカいいなりの軍事大国につくり変える」ことを始めました。ですから有名な話ですが、「9条を変えろ」と世界で初めて言いだしたのは、アメリカの軍部です。こうして、すでに世界史的にも先進的な立派な憲法が施行されているにもかかわらず、この国の支配者であった占領軍は、日本を対米従属の軍事大国に育て、思想・信条の自由にも制約をくわえ、反共を社会の根本思想にすえるレールを敷いていきます。
そして、その過程で、戦争犯罪人の追及を中断します。それは、アメリカ言いなりの日本をつくる上で、役に立つ日本の政治家や支配層をアメリカが必要としたからです。アメリカのために役立ちそうな人間は、当時、すべて巣鴨の拘置所に放り込まれていました。米軍は、東京裁判によってそのうち何人かを処刑します。
しかし、それ以降の裁判を中断して、この拘置所から、アメリカ言いなりの誓いを立てた者を出したのです。その代表が、48年12月25日に出てきた岸信介です。後に自由民主党をつくる人物です。同じ日に出てきたのが、小佐野賢二と笹川良一です。いま、会場にどよめきがありましたが、そういう反応が起こるのはフロアの平均年齢が高いことの証拠です。うちの学生たちに話しても、誰一人としてそういう反応はしませんから(笑)。
「朝日」も「毎日」も「読売」も、経営者は一時期を除いて、戦時中と代わりませんでした。後に日本への原発導入の立役者となる読売新聞社主の正力松太郎も、A級戦犯容疑者として収容されていた巣鴨の拘置所から出された組の1人です。
こうして、ほんの数年前までアメリカ人を「鬼畜米英」と罵っていた人間が、「あの戦争は正しかった」と言いながら、もう一方で、「アメリカ様」に卑屈にあたまを下げる。そういう支配層が、戦後の日本にはつくりあげられました。戦時中の最高権力者であった昭和天皇も、一切の罪を問われることがなく、本人にも反省の色はまったくありませんでした。
〔戦後保守の原型と革新自治体づくりの運動〕
1952年4月28日に、米軍による占領は終わり、日本は形式的に独立します。形式的にというのは、この瞬間から旧日米安保条約がスタートしたからです。それは、この日が対米従属国家としての戦後日本の始まりになったということです。戦後日本の保守政治の原型が、ここに姿をあらわします。
第一に、経済は財界まかせ。この財界も、戦時中は産業報国といって侵略戦争に全面加担した人たちが中心です。第二に、外交・軍事は、アメリカに首根っこを抑えられたまま。そして第三に、歴史認識はどうなっているかというと、侵略戦争とその時代を美化する思想にとりつかれたままの状態です。こうして、いわゆる三つの異常が、戦後政治のスタートラインに置かることになりました。
以上が、文章としては立派な日本国憲法をもちながら、これを国づくりの指針とすることを国家権力が拒否していく、こういうねじれた国がつくられた経過です。これは戦後日本の政治や社会の理解にとってきわめて大切なポイントです。その結果、日本国憲法の実現は、支配層と国民のたたかいの力関係にまかされることになりました。
1955年に、岸信介が初代幹事長になって、自民党をつくります。最大の目的は自主憲法の制定、つまり改憲でした。改憲に必要な国会の3分の2の議席を得るために、当時の自由党と民主党を合同させます。アメリカの求めに応じて9条をかえ、あわせて戦前型の軍事大国の復活を目指したものでした。
結局、国会の3分の2を得ることには失敗し、改憲の発議は挫折しますが、1957年に首相になった岸は、60年に国民の激烈な反対運動を押しのけて、アメリカとの共同戦争に向けた新安保体制をつくっていきます。
他方で、国民の側も、1950年には、早くも京都に蜷川府政を誕生させます。後に「憲法を暮らしの中にいかそう」という有名なスローガンをかかげる有力な地方政治が、朝鮮戦争とレッドパージの年につくられるのです。その後、1960~70年代には、これをお手本として、政党としては社会党、共産党の共同を軸とする革新自治体が全国につくられます。最大時には、全国民の40数%が「憲法どおりの日本」をめざす革新自治体の下で暮らしました。
この運動は、国政にも大きな影響を与えていきます。1973年には自民党が「福祉元年」を宣言しました。憲法第25条の精神からすれば、あまりにも当然のことであり、遅きに失したということですが、自民党政権は一貫してこれをさぼってきたわけです。ところが選挙の度に、京都だけでなく、東京も、大阪も、横浜も、沖縄もと日本中に「福祉」をかかげた革新自治体がひろがっていく。国政選挙でも共産党の前進が進みました。
そこで自民党政権が方向転換をするのです。「これからは自民党が福祉を進めます」「だから社会党、共産党にばかり投票しないでください」というわけです。73年に高齢者医療の無料化制度がつくられたのは、こういう事情によってでした。自民党政権は、自分がやりたくてやったのではありません。「憲法どおりの国をつくれ」という国民の運動がこれを実現させたのです。
〔「オール与党」で財界が政治の前面に〕
しかし、支配層はやはり狡猾です。社会党と共産党の連携を壊しにかかります。共産党に対しては、党首だった宮本顕治に対して、この人は戦時中、共産党に入り込んだスパイを殺した人物だと、国会の中で民社党という公党の委員長が発言し、これに大手メディアがとびつくという一大謀略攻撃がかけられました。それは歴史の事実をまるでねじまげるものでした。
さらに、社会党を共産党から引きはなし、労働運動を右寄りに再編しようといった動きがはじまり、福祉のあり方については日本型福祉社会論が宣伝されます。日本型福祉社会論というのは、国や自治体の責任での公的な社会保障を「家族の愛」にすりかえるもので、今日の「行政に頼るな、家族で抱き合え、それがこの国の美しい姿だ、伝統だ」という思想に直結するものです。こうした国民に対する支配層からの巻き返しが、70年代半ばから強化されました。
その結果、80年に、社会党が革新政治をつくる運動から最終的に離れていきます。公明党との合意(社公合意)の中で「もう共産党とは手を組みません」という姿勢を、明らかにしたのです。これによって全国の革新自治体が崩れていきます。選挙での共産党の前進にもストップがかかりました。
入れ代わりに政治の前面に出てきたのが財界です。当時の経団連会長・土光敏夫が「めざしの土光」という、後の言葉でいえば「清貧」を売り物にしてテレビに登場し、「官は民を見習え」「国や自治体は企業のように動け」という圧力を強めてきます。財界いいなりのための「行政改革」の推進です。
とはいえ国民の側は、これを黙って見ていたわけではありません。社会党が自民党側に寝返っていくなかで、どのようにして日本の平和や民主主義の充実をはかるのか。その探求の末、81年に結成されたのが全国革新懇です。革新懇は、三つの共同目標をかかげました。「日本の経済を国民本位に転換し、暮らしが豊かになる日本をめざします」「日本国憲法を生かし、自由と人権、民主主義が発展する日本をめざします」「日米安保条約をなくし、非核・非同盟・中立の平和な日本をめざします」というものです。この取り組みが全国に広げられます。
「階級闘争の弁証法」という言葉がありますが、実際にも、今日の日本社会は、このような「押しつ押されつ」のたたかいを通じて、あるいは「押されても、くじけずにもう一度押し返していく」という不屈の運動の積み重ねによってつくられてきたものなのでした。
社会党が転落したことで、80年代の国会はいわゆる「オール与党」となっていきます。共産党以外のすべての政党が、自民党と連携するようになってしまいました。「共産党を除くすべての政党が」と、あらゆるテレビ番組が、政治を語る枕詞のように言っていました。その中で政党と政治家の質が悪くなっていきます。
〔アメリカいいなりの「構造改革」推進〕
1980年代の半ば、中曽根内閣の頃には「規制緩和」路線がはっきりと打ち出されてきます。さらに1989~90年にはアメリカの求めにより「日米構造協議」が行われました。これがその後の「構造改革」の直接のきっかけとなります。
94年には、国際的な労働条件引き下げのためのサミットが、アメリカのクリントン大統領の主導の下に行われます。そして、同じ94年から「対日改革要望書」が日本にどんどん届けられるようになってきます。すべてを市場にまかせろ、余計なルールをつくるな、ルールはアメリカ型に統一しろという、アメリカングローバリゼーションの強制でした。
こうした動きの背景にあったことのひとつは、大資本の多国籍企業化・多国籍銀行化です。個々の資本が金儲けの範囲を自分の国から世界に広げる。そうすると世界各地でルールが違っているのはややこしい、どこの国へ行っても一律の金の儲けやすいルールであってほしいという願いが強くなる。こういう世界のルールの改革を、アメリカ政府が先頭に立って行いました。労働条件の改悪も、日本に進出してくるアメリカ企業にとって儲けやすい環境をつくるのが目的です。
もう一つの大きな背景は、ソ連・東欧諸国の崩壊でした。統制経済を特徴としたこれらの国が、市場経済の方向に転換します。その新しい大きな市場を、アメリカ資本に有利な形に誘導するということが、アメリカングローバリゼーションを世界的規模で実施していくもう一つの強い動機になりました。
この中で特に重視されたのが「金融制度の改革」「金融の自由化」です。日本では「金融ビッグバン」という言葉で推進されました。1960年代の世界的な「資本主義の黄金時代」が終わり、70年代半ばには、当時、戦後最悪といわれた世界恐慌が発生します。「黄金時代」を通じた世界的規模での過剰生産の結果でした。
そこで行き場を失った巨大資本が、投機での儲けを拡大していきます。そこから「金融の肥大化」「経済の金融化」「マネー経済の拡大」「投機資本主義化」などと呼ばれる変化が生まれます。アメリカングローバリゼーションは、その「投機の自由」を世界に強制することを、重要な内容としたのでした。
こうしたアメリカの求めにどう対応するか、抵抗していくのか同調していくのか、日本側にも一定の軋轢がありました。
しかし、結局、小泉内閣時代には、「山の国」から「海の国」へという路線転換が、これは当時のソニーの出井会長の言葉ですが、はっきりさせられます。「国の規制に守られた経済ではダメだ」「世界市場でたたかえる経済に改革しなければいけない」というものです。
それは大手のゼネコンや鉄鋼、農業などが強い力をもっている経済から、世界市場でたたかう製造業多国籍企業の利益を最重視する経済づくりに変えるというもので、財界内部にもそうした一定の主導権の転換がありました。製造業多国籍資本によって「内需主導型」から「グローバル国家型」への方針転換がかかげられます。
この転換が政治の表面にあらわれたのが、「旧い自民党をぶっ壊す」「私に抵抗するすべての者が抵抗勢力だ」とした小泉首相の発言でした。あれは古い「内需主導型」経済にこだわる勢力への攻撃であり、地方への「バラマキ経済」への攻撃でした。「改革か、抵抗か」という政治の世界での争いは、右のような経済の世界の変化によって生み出されたのでした。
同時に、この転換を正当化するために小泉首相が、前面に打ち出したのが「トリクルダウン」「おこぼれ経済」論です。「大企業が潤えば、いまに下々も潤う」という主張です。それなりに地方経済を支え、それなりに国民生活を支える役割をもっていた経済政策を、製造業大企業への奉仕に集約化していく動きです。
このような理屈によって、大企業を潤わせるための労働条件の改悪、社会保障の切り捨て、法人税減税のための消費税増税などが急速に推進されるようになります。この点は、今日のアベノミクスもまるで変わりません。
〔「自己責任論」への道、格差を放置する政治〕
「自己責任論」は、こうした規制緩和の流れの中で強く打ち出されてきたものです。大きくいうとこれは、戦後の憲法25条の実現を求める運動の成果に対する正面からの巻き返しです。95年には、政府の社会保障制度審議会が「公私分担論」を打ち出しました。憲法25条は、国民の最低生活の保障は「国」がやるとしているわけですが、そこに「私」がすべりこまされてくる。そして、これが「自助」という言葉にかわっていきます。
先に見たように、70年代半ばから日本型福祉社会論の思想攻撃がありました。「福祉は家族でやるものだ、子どもや年寄りを支えるのは家族、これが日本人の良いところだ」というものです。そして革新自治体をつぶしながら、経団連会長の「めざしの土光」が前面に立って、「臨調行革」を進め、80年代に福祉制度をどんどん切り捨てていく。
さらに90年代に入ると「公的社会保障という考え方自体がおかしい」となってきます。これが福祉や生活をめぐる「自己責任論」として展開されました。
2013年に、悪名高い「社会保障改革プログラム」が成立しますが、この中で政府は自分たちの役割を、「自助、自立の環境整備」と定めました。
「公的保障」の役割は一体どこにいったのでしょう。この重大な理念の転換、社会保障の変質の説明を、政府は積極的には展開しません。それをごまかすために行われるのが「財政赤字だから、社会保障が削られるのは仕方がない」という、まやかしの財政赤字論です。
図3には、17の先進国が並んでいますが、グラフの上の灰色の部分の数字は、各国の相対的貧困率を示すものです。国によって生活水準には差がありますが、国ごとの真ん中の生活水準のさらに半分以下の水準の人が、その国の中にどれくらいの割合でいるかという数字です。
これで見ると、貧困者が一番多いのはフランスの24・1%です。しかし、みなさんが知っているフランスはそんなに格差の大きな国ではないと思います。
実はこのグラフの本当の値打ちは、上の灰色の棒グラフの数字と下の黒い棒グラフの数字の差にあります。
上の数字は、貧困を政府が放置しているとこれぐらいの貧困者が生まれるという数字であり、しかし、実際には政府は国民生活を下から支える政策をとっていますから、その数字はどんどん小さくなります。国が、税と社会支出・社会保障で貧困者を支援する、それによって、実際に存在する貧困者の割合は減っていく、そうして減った結果を示しているのが下の黒い棒グラフの数字です。現に存在する貧困者の割合です。
つまり、上と下の数字の差が大きければ大きいほど、その国の貧困者対策は役に立っており、小さければ小さいほど、役に立っていないということです。
そうすると、フランスは24・1%が6・0%まで下がっている。その差がもっとも大きい。つまりフランスは、各国の中でもっとも有効な対策をとっている国だということです。
その反対に、もっとも役に立たない政府をもっている国は、日本です。16・5%が13・5%にしか下がっていません。
理由は簡単です。貧困は「自己責任」だと政府が責任逃れをしているからです。「国家が面倒を見るつもりはありません」というのが日本政府の公式見解です。これは日本のありようの異常さが、よくわかるグラフになっています。
〔財政赤字の急拡大は「構造改革」から〕
日本政府が公的保障の放棄を正当化する理由にあげる財政赤字を見ていきます。財務省の資料を見ると、1年間の財政赤字が一番大きくなっているのは、最近20年ほどのことです。つまり「構造改革」の時代です。改革の前よりも、改革を進める中での方が、財政赤字が大きくなっている。「社会保障を切り捨てる」と公然と言いだした後の方が、財政赤字が大きくなっています。
赤字拡大の理由は簡単です。税収が減っているからです。一番減っているのは、所得税です。20年前には国に26~27兆円も入っていたものが、いまは13兆円台に減っています。半分になっているのです。
もう一つ、大きく減っているのが法人税です。これもまた20年ほど前には、国に18~19兆円も入っていたものが、いまは8兆円台まで減っています。こちらも半分ということです。
これは景気の悪化で自然に減ったものではありません。資本金10億円以上の大企業の内部留保は猛烈な勢いで伸びていますし、格差拡大政治の中で富裕層の所得も大きく伸びています。それにもかかわらず、なぜこんなに税収が減っているのか、答えは、税率が下げられたからです。誰が下げたのか。国会議員です。これは政治の選択です。
そして同じ国会議員たちが、それによる税収の穴を埋めるために、消費税をどんどん上げている。こうした政治の正当化に「大企業が潤えば、いまに下々も」という「おこぼれ経済」の理屈が使われています。
〔雇用の「自己責任論」とバッシング〕
次に、雇用をめぐる「自己責任論」の問題です。1995年に日経連が「新時代の『日本的経営』」を打ち出しました。ここで労働者を雇い方と給与の支払い方によって3つのグループに分けることが提起されました。
1つは、終身雇用だが、競争の中で際限なく働かせることができる幹部候補の成績給グループ。2つは、技術者等を必要な時に雇って必要がなくなれば解雇できるようにする年俸制グループ。そして3つは、それ以外の低賃金で、いつでもくびを切ることができる時給制グループです。福利厚生の削減ともあわせて、目的は、企業が払う総額人件費をできるだけ安くするということでした。
これを政府が応援しました。典型は非正規雇用増やしです。2004年の労働者派遣法改悪で、製造業の現場にも派遣が広まり、派遣労働者は2000年の33万人から2008年の140万人、2012年の245万人へと急増します。非正規雇用者全体を数えれば、すでに日本の全労働者の3分の1を超えています。
非正規労働者は給料が安いです。そして、それを重石として使うことで、正規労働者の賃金も引き下げられました。その結果、日本の労働者の平均賃金は1997年をピークに低下し、全世帯の平均所得も97年をピークに低下しました。国民は絶対額で貧乏になっており、生活の貧困化が進んでいます。
こんなに長期にわたって国民の所得が伸びない先進国は、他にどこにも見当りません。同じ97年を始点にみても、給料が1・5倍ぐらいになっている国はたくさんあります。その中で日本だけがへこんでいる。「世界中どこでもこんなものでは」というのは事実にもとづかない誤解です。そう思わされているだけです。
90年代の後半には『SAPIO』などの雑誌で「勝ち組、負け組」論が展開されました。「給料が安いのはオマエが負け組だからだ」「就職できないのはオマエが負け組だからだ」という、政治や社会の構造の問題を、個人の努力にすりかえる思想攻撃です。これはいまだに大きな力をもっています。
このような労働条件と社会保障の破壊をすすめる上で、大きな役割を与えられたのは野蛮なバッシングでした。「自己責任論」への批判を封じ込めようとするものです。たとえば生活保護へのバッシング。
日本の政府は、本来生活保護を受けるべき多くの人を取りこぼしているにもかかわらず、逆に、生活保護を受けている人のごく一部の「不品行」を取り上げて、保護を受けている人たち、受けようとする人たち全員を攻撃する。これは憲法25条そのものへのバッシングです。
労働の分野では、公務員への集中攻撃が行われました。民間企業に比べれば、まだ比較的労働法が守られていた公務の分野を攻撃することで、日本の労働条件全体を引き下げていこうとするものです。
公務員賃金が下がると、病院や私学など「人事院勧告に準拠する」という給与基準をもつすべての職場の賃金が引き下げられる。そうして民間賃金と公務員賃金が引き下げ幅を争うという「賃金デフレ」の悪循環がつくりだされました。
公務員の人数の削減も劇的でした。それは行政による公務の放棄と結びついています。特に削減が集中したのは福祉・医療関係でした。住民の生活をささえる公務が真っ先に切り捨てられている。その意味で公務員バッシングは、国民生活へのバッシングとなっています。
以上が、日本国憲法の実現をめぐる戦後のたたかいの歴史、世界的にも先駆的な日本国憲法の下で、なぜ「自己責任論」のような反憲法的な思想が広がるようになったかの歴史を追ったお話です。
この国には世界に誇れる優れた憲法があります。しかし、それだけで自動的に良い社会が目指されるということはありません。国民は、まだ憲法を本気で実現しようとする政治を打ち立てることに成功していないからです。
通常の歴史では、よりよい政治をめざす勢力が政権を握り、その政権がそれにふさわしい憲法をつくっていくのですが、日本の歴史はそこがひっくり返っています。憲法の実現を本気で願う、そういう政治をつくることが、日本国民の歴史的な課題になっています。
3 自民党がめざす近未来の日本社会像
次に自民党は、日本社会を一体どうしていきたいのか、その全体像を綱領と改憲案から探ってみます。
〔2010年自民党新綱領〕
まず綱領です。綱領というのは、どういう政治をめざすのか、そのためにどういう政策をとるのかなどを記した、政党にとってもっとも重要な文書です。自民党は2010年に綱領を変えました。なぜこの時期に変えたのか。2009年の総選挙で民主党に政権を奪われたからです。
その時に自民党は解党につながりかねない危機に直面します。そこに、財界から「自民党よ、踏みとどまれ」「再生せよ」という号令がかかります。それは鳩山、小沢の民主党では、財界は心もとないということからでした。それで自民党は態勢を立て直します。
その結果、つくられたのがこの綱領です。前文を見ると、自民党の政治理念は、「日本らしい日本の保守主義」と整理されました。これだけだと、なんとでも読める文章ですが、2年後に発表された改憲案で、その内容がはっきりします。先回りして述べておくと、それは日本を天皇中心の国にするということです。
そして自民党の政策の基本には、何よりもまず改憲が示されました。日本らしい日本の姿、つまり天皇中心の日本をつくり、世界に軍事力で貢献できる日本を目指す。そのための改憲が自民党の基本政策の第一なのだと語っています。
「自民党はどういう政党ですか?」と問われた時の100点満点の回答は「改憲のための政党だ」というものです。
「どういう内容の改憲ですか?」と聞かれたら、まず天皇中心の国にする。そして、9条をなくして戦争をする国にする。
さらに「自助自立する個人を尊重する」国にするというのが答えです。これは自助自立できない人間を尊重しない国づくりということです。「自己責任論」の憲法化です。
では、その下で国民はどうやって生きていけというのか。綱領の回答は「家族で抱き合え」ということです。日本型社会福祉論そのものです。これが自民党の目指している近未来の日本社会像です。
現在の自民党は、こうした綱領で団結した政党です。安倍さんの個性によってたまたま「暴走」しているのではないのです。この綱領の策定過程で、自民党全体がはっきり思想的に右に一歩ずれ、国民生活を一段とないがしろにする方向にはっきり一歩動いたのです。
ですから、河野洋平さん、野中広務さん、古賀誠さん、加藤紘一さんといったかつての自民党の大幹部が、いまの自民党にはついていけない、おかしな政党になってしまったと言うのです。
〔2012年日本国憲法改正草案――独裁の国へ〕
こうした自民党がめざす日本社会像を、より具体的に示したのが、2012年の改憲案です。綱領も改憲案も自民党のホームページに公開されていますから、ぜひ、全文を自分で確かめてください。
改憲案の前文は、「日本国は、長い歴史と固有の文化をもち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家」だとしています。「戴く」というのは「頭の上に置く」ということです。つまり、天皇は下々とは別格の存在なのだということです。
そして、そういう国を「末永く子孫に継承するため、ここにこの憲法を制定する」と言っています。天皇が頂点にすわる国をつくり、それを「子孫」にまで残すために改憲を行うというのです。
では、天皇が頂点に立つというのは、具体的にはどういうことか。それは改憲案の条文に書かれています。ひとつは、天皇を「日本国の元首」(第1条)にするということです。この国を代表するのは首相ではなく天皇になるということです。主権在民との関係はどうなるのでしょう。
この原則と整合的に理解しようとすれば、私たちに国の「元首」である天皇を選ばせるということになります。「第一回国民的天皇選出選挙」といったハガキが、私たちのところに届けられるということでしょうか。そして、その場合、私たちも天皇に立候補してよいということでしょうか。
ところが、そういう話しをすると、途端に「違う、天皇家は万世一系なのだ」と言い出します。つまり、私たち国民は、国民の代表者を選ぶ権利を失うということです。主権在民はガラガラと崩されていくということです。
もう一つは、天皇を憲法尊重擁護義務をもたない存在に変えていくということです。ご承知のように、日本国憲法は、権力を縛るための法律です。「権力はついつい調子に乗っていろいろな過ちを起こしがちだ。だから、大きな政治的力をもつ人たちは、必ずこの枠の中で行動しなさい」と決めているのです。
日本国憲法には「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」(第99条)という条文があります。ところが、自民党の改憲案は、ここから天皇と摂政(天皇の名で仕事を行う代理人)をはずすとしています。
これはすごいことです。天皇は、この国の元首であり、なおかつ憲法を守る必要のない存在になるというのです。普通の日本語だと、これは「独裁者」と言うのではないでしょうか。
しかし、ただちに補足しておかねばならないのは、いまの天皇がこんな悪巧みをしているわけではないということです。いまの天皇は、二度と戦争をしてはならないということを、安倍内閣が集団的自衛権の行使を容認する閣議決定を行った直後にも強調しましたし、天皇としての役目についても、日本国憲法が定める範囲でこれを行うということを繰り返しています。今の政治の動きを相当意識しての発言だと思います。その限りで言えば、現在の官邸と宮内庁にはけっこうな緊張関係があると思います。
〔付記〕――2015年1月1日の「新年の感想」でも、天皇は次のように述べました。「本年は終戦から七十年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」。
裏を返すと、安倍首相には、いまの天皇の意向を尊重するつもりはないということです。天皇なら誰でも敬うということではない。
安倍首相が大好きなのは、誰からも敬われている天皇が国の中心にいて、その天皇が国民に仮に死ねと命令すれば、誰一人文句を言うこともなく死んでいく。そういう精神的な一体感のある国の形です。それを安倍さんは「美しい国」という。そういう国の形に対する強い憧れの下に行動しているということです。思想の力というのは恐ろしいものです。
〔外には戦争、内には弾圧の国づくり〕
日本国憲法は、二度と戦争をしないとしていますが、改憲案では、それらはすべて削除です。何せいま、戦争をする準備を進めている最中なのですから。全世界の国民が「平和のうちに生存する権利」も削除です。日本は世界のどこかに攻め込む準備をしている最中なのですから。ですから「恒久平和」なんて言ってちゃだめだとなるのです。ここには「世界の平和は戦争を通じてこそつくることができる」という「積極的平和主義」が貫かれています。
それから前文には、わざわざ「活力ある経済活動を通じて国を成長させる」という文章が入れられます。自民党のいう活力ある経済は、活力ある大企業と同じ意味ですが、これを国の経済運営の基本として、憲法の中に書き込むというのです。「おこぼれ経済神話」の憲法化です。
自衛隊を「国防軍」に変えた上で、第9条では、軍の任務をこう整理しています。「国防軍は、第一項に規定する任務を遂行するための活動のほか」。第一項の任務というのは、日本の独立を守ることです。その限りであれば、国民の多くは不満を述べないでしょう。問題はその「ほか」に任務があるとしているところです。
そのひとつは「国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動」です。これがアメリカの戦争についていきますという、集団的自衛権の行使に化けていく部分です。
もう一つ重大な任務が記されています。「公の秩序」を守るための活動です。「公の秩序」については明確な定義がありません。しかし、改憲案全体をみていくと、うかびあがるのは天皇を頂点に置いた政治体制そのものです。つまり、この体制を守る活動を軍が行うというのです。
その場合、誰がこの体制を脅かすと想定されているのか。外から誰かが攻めてくるのでしょうか。それには第一項の任務で対応することになっています。
そうなると、考えられるのは国内からの反対運動、あるいは政治改革の運動以外にありません。民主主義の日本、主権在民の日本をつくろう、戦争をしない平和な日本をつくろうという国民の運動を、国防軍は弾圧しますということです。大日本帝国憲法と治安維持法がセットになったような憲法です。
〔国民の上に「公の秩序」をすえる復古主義〕
「自己責任論」とのかかわりでは、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない」(第12条)という現行憲法に、ただし、それは「公の秩序に反してはならない」と付け足します。国民の自由や権利は「公の秩序」に反してはならない。
いまの日本国憲法では国民が主人公としてあって、その自由や権利を国家が下から支えるものとなっていますが、これをまったく逆転させて、国民は「お上」が許す枠の中で生きていけということです。日本国憲法は国家権力を法で制御するものとなっていますが、自民党の改憲案は、天皇を頂点とする権力が全権を握った上で、それが国民の権利をしばるものとなっているのです。
第21条の結社の自由では、「公の秩序を害する……結社をすることは、認められない」となっています。さて、今日の取り組みの主催者である労働者教育協会はどうなるのでしょう。また全国各地の労働者の学習教育組織はどうなるのでしょう。
考えられる道のひとつは、これまでの信念を「もう天皇中心でいい」「民主主義も平和も、もういいや」と曲げることによって、結社を許してもらうという道です。
もう一つは、節を貫く道ですが、この道は憲法違反の存在となるということですから、これを選んだ全員が地下に潜っていかねばならなくなります。何せ憲法違反の存在ですから、家に帰れば警察が待っています。家族にも会えません。事務所にもいけません。つばの広い帽子を目深にかぶって、大きな建物の影から影へと逃げて歩くしかなくなります。そういう地下活動をするしかありません。愛読書は、もっぱら小林多喜二になるのでしょうか。
こうして、改憲案に繰り返し登場してくる「公の秩序」とは一体なんのことでしょう。私は、これは戦時中に語られた「国体」のことではないかと思います。1937年に文部省が編纂した『国体の本義』は、「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である」と書きました。天皇を中心に、天皇の命にしたがって全国民が団結する、世界に類をみない国の姿。これを、もう一度日本に再現させたいということなのだと思います。
また「両性の本質的平等」を定めた第24条の冒頭には、「家族は、互いに助け合わなければならない」を加えています。自民党の綱領にあった、国民は家族で抱き合って生きていけということの憲法化です。
実際、生活保護の適用にも、本人の困窮を証明するだけでなく、一族郎党の困窮の証明が求められるようになってきています。さらに「平等」の内容に、あえて「扶養」が付け加えられています。女性にも扶養の責任を求めることで、「家族責任論」を強化しようとしているのです。
第72条は「内閣総理大臣は、最高指揮官として、国防軍を統括する」です。戦闘機に乗っては笑って手を振り、戦車に乗っては笑って手を振る。そういう安倍首相なら大喜びでしょう。
第9章「緊急事態」は、全体を新たに盛り込むものです。これは国に何か大きな困難が起こった時に、日本中の法律を一時ストップして、「国民はすべて権力の指示にしたがえ」という状況をつくるものです。どういう時にそれを実施するのか。第一に戦争、第三に大きな自然災害があげられていますが、二番目にあげられているのは「内乱等による社会秩序の混乱」です。
普通の日本語だと、これは戒厳令のことですね。まだ民主主義を十分実現できずにいる国で、軍事独裁政権が時々、実施しているものです。軍のお気に入りの大統領に、民衆がノーを突きつけたとき、戦車が出ていって運動を蹴散らしていく。そんな構図が目に浮かびます。
〔改憲案の内容を知らせる運動の工夫を〕
全体をまとめてみると、非常にいびつな改憲案です。天皇中心の復古主義を軸に置きながら、決してアメリカには楯突かず、アメリカの戦争に子分としてついていく。他方で、国民の生活に対する責任は追いません。自己責任と家族責任でなんとか生きてくださいという内容です。さらに経済運営は、ともかく大企業を優先する。最後に、そういう政治が気に入らない国民を、容赦なく弾圧していくというものです。これが自民党が目指す国づくりの内容です。
このような改憲案を自民党は2年以上も前に公表し、その後、ホームページにずっと公開しています。それにもかかわらず、国民の怒りが高まる気配はありません。なぜなら、ほとんどの人が読んでいないからです。そしてそれを知らせる力も同じく弱い。そもそも全体を読んだことがないという人は、私たちのまわりにも随分多いのではないでしょうか。
内容の異常さを伝えるのは、そう難しいことではありません。格別ひどいと思った条文を、何カ所かビラにコピーする。そしてタイトルに「これが自民党のめざす日本の姿です」と書き、コピーの下に1行「私は反対です」とすればいい。
そのビラを配られた人は、たぶんはじめて見ますから、「そんなばかな」とか「ウソでしょう」というのが予想される反応です。「いくら安倍さんでもここまでひどいことは言わないだろう」と。それに対して「いいえ本当です。自民党のホームページに全文がありますから、ぜひ確認してください」と答えていけばいいわけです。
「9条を守ろう」「憲法を守ろう」というだけの抽象論にとどまらず、問題を具体的にとらえ、具体的な危険と具体的にたたかう運動論を、ぜひ工夫していただきたいと思います。
4 日本国憲法までの世界の人権保障の歴史
こうした改憲の動きや「自己責任論」の広がりに、大きな抵抗の力を発揮し、「憲法が輝く日本」を目指していくためには、いまある憲法の条文を読むだけでなく、どうしてこういう条文になっているのか、その背景を知ることが必要です。以下では、国家が国民の人権を保障するという考え方の誕生と発展を見ておきます。
〔人権の誕生は自由権から〕
人権という言葉は、身分の高いものが土地や人間を支配するという封建制の社会から、近代の資本主義社会に移り変わる中で生まれました。マルクスは、16世紀から封建制の中で資本主義が始まったとしていますが、それに照応するかたちで、資本主義の誕生を支えるものの考え方が現れてきます。
古い身分による差別を超えて、あらゆる人間に対等な権利を認めていかねばならない。人は誰しも平等な権利をもってこの世に生まれてくる。そういうホッブズ『リヴァイアサン』やロック『市民政府論』のような思想が出てくるのは、17~18世紀のことです。そこでは、国家は、独立し、平等である諸個人の契約(約束)によってつくられるものだとされました。
それが封建制の社会と権力を批判して、歴史を大きく進める原動力になりました。人を生まれつきの身分にしばりつける社会に対して、万人の平等が対置されたのです。そこには経済活動の自由、財産権などの言葉も出てきます。「私たちの労働の成果を、王様が力づくで奪い取ってはいけない」「私の労働の成果は私のものだ」という思想です。それは生まれたばかりの資本主義の発展を促す思想でもありました。
こうした人権の思想は、ブルジョア革命の指針になると同時に、打ち立てられた新しい権力の下で、憲法という形をとっていきます。近代憲法の誕生です。最初の典型はアメリカの独立宣言と、フランスの人権宣言です。
内容の基本は自由権でした。「何々からの自由」「何々されることのない自由」です。私のものは盗まれない、私は誰にも拘束されない、私の思想・信条は制約されない、私の経済活動は束縛されないなど。これらは封建制の社会を否定し、資本主義の発展に合致したものです。ブルジョア革命が生み出した近代憲法は、この自由権を中心としたものでした。
ただし、ここでいう人権の「人」の範囲には大きな制約がありました。フランス人権宣言の際に「女性にも人権を」と訴えたオランプ・ドゥ・グージュは、ギロチンで首を落とされました。人権の「人」に女は入らないとされたのです。
同じような制限がいろいろありました。人権を語りながら、フランスはアフリカに、アジアに植民地を広げます。「黒人には人権はない」「黄色い人間には人権はない」とされたのです。
そして選挙権は金持ちにしかあたえられません。貧乏人には人権はない。身体障害者にも人権はない。要するに人権は、ごく限られた人たちの権利からスタートしたのでした。
男女の平等、人種差別の撤廃、普通選挙権、各種のマイノリティの権利など、こういう適用範囲の狭さを乗り越える取り組みは、その後、今日まで、長くつづけられています。
〔自由権のみの制約を超えて〕
同時に、自由権の限界も次第に明らかになってきます。焦点は経済活動、営業や雇用の自由です。「契約のルールは自由だ」「当事者が同意していればいい」「国が口をはさむな」ということの結果、マルクスが『資本論』で豊富に紹介したように、低賃金、長時間、過密、不衛生な労働が増え、たくさんの過労死が生まれました。
ここから「ブルジョア革命の限界をのりこえよう」「封建制を越えたのはいいが、越えた後がこれでは困る」という、エンゲルスの『空想から科学』が第一章で描いたような考え方が出てきます。次に、この資本主義をのりこえる社会をつくらなければいけない。そうして、さまざまな社会主義の思想と運動が発展します。
ご承知のように、マルクスは社会主義の元祖ではありません。マルクス以前に社会主義者はたくさんいましたし、同時代にもいっぱいいました。いっぱいいたからこそマルクスは、それらの人々と論争したり、共同したりしていたわけです。資本主義の害悪は、そのように誰の目にもわかりやすいものでした。
ブルジョア革命は、資本家と労働者が一緒になって、封建制の権力を倒すものでした。しかし、その後の資本主義の中で、「おれたち労働者は、資本家とは利害が対立している。これを解決しなければ」という自覚が生まれてきます。資本家の側も同様で、労働者たちを支配の対象と考えるようになっていきます。
1871年、マルクスが、本質的に労働者階級の政府だったと総括した「パリ・コミューン」が生まれます。このコミューンは、従来の自由権にくわえて、新たに社会権を主張しました。これが近代憲法を再編、拡充する最初の試みです。
社会権というのは、国民が国家に対して幸福に生きるための保障を求める権利のことです。パリ・コミューンは、万人の教育と最低生活は国が保障するのだと宣言しました。そういう権利を実現する意志をもった政治をつくると宣言したのです。公的保障の思想です。
これは労働者の運動から生まれた思想でした。「経済活動の自由だけでは、満足に生きられない」「こんな契約では、こんな低賃金では暮らせない」「働けなくなったら終わりだ」「そこをなんとかしなければ」ということです。パリ・コミューンの指導部には、いわゆるマルクス派は一人もいませんでした。つまり、社会権の思想は、当時の先端の労働者たちに、すでに広く共有されたものだったということです。
さらにパリ・コミューンは、これらの社会権を実現するには社会の構造をかえることが必要だと考え、「賃金制度と永遠に決別する」と主張します。さらに「権力と財産を万人のものにする」とも語ります。これらの改革は運動の目的ではありません。万人に社会権を実現することが目的であり、社会の改革はそのための手段だったのです。しかし、残念ながらパリ・コミューンは、短期間のうちに、ブルジョアと旧封建制の支配者たちの武力によってつぶされます。
〔経済の自由に制限をかける現代憲法〕
しかし、この考え方は20世紀に継承されました。これを条文に書き込んだ最初の憲法が、1919年のドイツにつくられたワイマール憲法です。ここには国民の生存権、教育権、労働権が書き込まれました。
1917年、ロシアに社会主義をめざす革命がおこり、その影響でドイツでも革命運動が一定の高揚を見せます。その中で、ロシアのような革命は嫌だが、民衆はそれに魅かれている、そこで間をとって、帝政は倒すが、ロシア型社会とはしないという運動が力をもちます。この運動から生まれたのがワイマール共和国です。
この共和国は、自由放任の経済に制限をかけました。憲法に「経済生活の秩序は、各人に人間に値する生活を確保することを目的とし、正義の原則に適合しなければならない。各人の経済上の自由は、この限界内で保障される」(第151条1項)と書き込んだのです。
もうけの自由、食えない自由ではだめだ、経済活動は正義の原則に適合しなければいけない、各人の経済上の自由はこの限界内でのみ保障されねばならないというのです。
このように自由権にとどまらず、人々の社会権を国家が保障するとした段階の憲法を、現代憲法と呼びます。それは資本のやり放題に、制限をかけるようになった憲法でもあり、資本の運動にルールを与えることが、資本主義の内的な欲求であることを明確に示す憲法ともなりました。
〔大日本帝国憲法から日本国憲法への飛躍〕
こういう角度から、あらためて日本の歴史を振りかえると、何が見えてくるでしょう。日本にも近代憲法と現代憲法の二つの憲法が存在します。大日本帝国憲法は、日本の最初の憲法で、徳川封建制から資本主義への社会の大きな転換の中つくられた近代憲法のひとつです。
しかし、日本の近代憲法は、人権保障の内容を一切もっていませんでした。基本的人権、自由権が何一つ書かれていないのです。ですから、実際社会にも、多喜二の小説が描いたように過酷な非人間的労働が放置され、タコ部屋と呼ばれた労働者への身体的拘束も野放しで、小作人といわれた農民には封建的農奴とかわらぬ小作料が課され、学問や思想の自由も許されませんでした。
大日本帝国憲法には、国民の自由権がありません。そもそも国民は天皇の家来を意味する「臣民」としてしか書かれていません。憲法学者は、世界の近代憲法にはアメリカの独立宣言やフランス人権宣言のように、後の社会発展の本流となる部分と、そういう内実をもたず、傍流として消えていくカッコつきの「近代憲法」があるとして、後者の代表に、ワイマール憲法前のドイツ憲法(プロシア憲法)と大日本帝国憲法をあげています。
もちろん民主主義と人権を求めるたたかいが、戦前の日本になかったわけではありません。たとえば自由民権運動です。憲法をつくれ、憲法のもとで自由権を保障しろというのが、植木枝盛たちの運動でした。
政治は国民が選んだ議員たちが、政党をつくって行うべきだという、政党内閣制、議員内閣制を求める大正デモクラシーの運動もありました。
さらに日本にも、資本主義の限界を越えようとする社会主義の運動がおこります。しかし、これらの運動は天皇制の権力によって弾圧されてしまい、結局、国民の人権を守る政治をつくるには至りませんでした。
その後、侵略戦争での敗北をきっかけに、日本社会は激変します。その変化のひとつが、世界でも最先端の憲法の施行でした。自由権さえ実現することができなかった日本人と日本社会に、一挙に、社会権を盛り込んだ最先端の日本国憲法が与えられました。
日本国憲法は、人権は「侵すことのできない永久の権利」だと第11条と97条で2度もくり返しています。そしてたくさんの自由権が規定されています。くわえて第25条から28条には、生存権は国が保障する、教育権も国が保障する、労働条件も法律で決める、さらに労働三権の保障も書かれています。社会権が盛り込まれているのです。
経済活動についても、第22条には職業選択の自由があり、第29条の財産権にはそれが「公共の福祉」に反してはいけないことがはっきり記されました。加えて男女平等や戦争放棄も明記されています。
このような世界史的に見ても、きわめて先駆的な憲法に、日本国民は、世界史的に見てひどく遅れた大日本帝国憲法から、一挙に飛び移ることを余儀なくされました。そこから日本国憲法が保障する権利に、理解が及ばないという問題が生まれます。
憲法第97条は、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と書いてます。その意味がよくわからないという問題です。
「自己責任論」の横行は、憲法とのかかわりでいえば、現代憲法から近代憲法への逆行です。資本やり放題の野蛮な時代への逆行です。
それを食い止めるには、自由権の大切さに加え、社会権の必要を理解し、それを実現する社会づくりに取り組んできた人類社会の努力に共感できねばなりません。そこの理解を深めることが、私たちの憲法学習にも求められています。
いまある条文を知ることに加え、改憲を許さない運動論を考えることに加え、この憲法に現れている人類社会の到達点、社会とはこうあるべきで、人々の共同はこうあるべきだという模索の到達点を、国民の共通理解にしていく。これが、私たちが担わなければならない憲法学習の内容です。
〔20世紀に急進展した戦争違法化への道〕
戦争の違法化については、ゆっくり触れる時間がありませんが、第9条も生存権と同じように、人間社会の長い模索の到達だということを、箇条書き的に紹介しておきます。
19世紀の終わりから20世紀の最初が、軍事大国による世界分割、植民地支配の最盛期でした。国際法の範囲内なら戦争の正当性は問わないというのが、当時の大国の戦争観です。
しかし、第一次大戦で2000万人の死者が生まれます。そこで1920年に「加盟国は、戦争に訴えざるの義務を受諾し」とする国際連盟が45カ国の同意で誕生します。
さらに1928年には「戦争放棄に関する条約」(不戦条約)が結ばれました。「締約国は、国際紛争解決の為戦争に訴ふることを非とし…政策の手段としての戦争を放棄する」(第1条)、「一切の紛争又は紛議は…平和的手段に依る」(第2条)とするものです。
これをきっかけに「国家の政策の手段としての戦争を放棄する」(31年、スペイン憲法)、「国家の政策の手段としての戦争を放棄し」(35年、フィリピン憲法)などの憲法がつくられました。
しかし、そこには「自衛権」の名で戦争正当化の論理をもぐりこませる弱点も残されました。アメリカ、イギリス、フランスなどの企みです。そして、これを最大限に活用したのが日本でした。日本の生命線を守るという「自衛」論をかかげて日本は「満州事変」(31年)を起こすのです。このことへの国際的な批判を前に、日本は国際連盟を脱退する最初の国家となりました(33年)。そして、第二次世界大戦に突入します。
戦争中に連合国は、大西洋憲章(41年)で「すべての国のすべての人が、恐怖と欠乏からの自由のうちに、かれらの生をまっとうすることを保障するところの…平和を確立する」ことを確認しました。
第二次大戦後、1945年10月には国際連合が創設されます。国連憲章を確定した最後の会議(45年4月)では、①平和の基礎となる経済の安定を目的に経済社会理事会を設置し、②「人民の同権及び自決の原則の尊重」(米ソは渋々の賛成でしたが)が盛り込まれました。同時に、ここでも、③国連が措置をとるまでの個別的・集団的自衛権という逆流が書き込まれます(第51条)。
集団的自衛権というのはこの時に初めて主張されたアメリカの造語で、目的は、同じ常任理事国となるソ連の同意なしに軍事力を発動できるようにするということでした。いま日本社会がこの集団的自衛権の実行部隊になるということは、戦争の違法化に向けた世界の歴史に再び逆行するということを意味します。
〔資本主義発展の歴史を考える〕
関連して、憲法の発展と資本主義社会の発展の関連についてもふれておきます。今日は学習運動の集まりですから、少しだけ理論的な話もしておきます。
私たちは、資本主義の経済や社会の歴史について学ぶ時に、自由競争の資本主義から、20世紀初頭の独占資本主義、そして第一次大戦、あるいは大恐慌、第二次大戦を経て、国家独占資本主義へ、現代はそういう段階の延長線上にある社会だと学んできました。
このような理解の原型をつくったのは、レーニンの『帝国主義論』とそれ以後の書き物です。独占段階の段階としての重視は、それを「死滅しつつある資本主義」ととらえる歴史観と一体のものでした。この歴史観が誤りだったことは、歴史がすでに証明しています。
レーニンはなぜ独占段階を「死滅しつつある資本主義」と判定したのか。その根拠のひとつは、資本主義は自由競争で、社会主義は完全な計画化だというエンゲルス流の資本主義理解です。そこから、無政府性が独占によって乗り越えられつつある段階は、資本主義の枠内における社会主義への過渡のはじまりなのだという理解が生まれてきます。
これに関連する問題提起をしてみます。
一つは、資本主義にとって、自由競争が本当に典型的な段階なのかという問題です。レーニンはそう考えました。しかし、歴史をふり返ると、封建制の体内に発生した資本主義が、産業革命を通じて初めて自立するのは、19世紀前半のイギリスです。
ところがその資本主義はたかだか40年ほどの間に、「大不況期」と呼ばれる独占段階への過渡期に入ります。そして20世紀の初頭に独占資本主義に達します。
それからすでに1世紀以上が経過しました。つまり確立した資本主義の全生涯で、もっとも長い期間を占めているのは独占段階以降の資本主義です。なぜこれを資本主義の典型と言ってはいけないのでしょう。これが一つ目です。
二つ目に、独占段階以降の資本主義ですが、その下で二度の世界大戦があり、社会権や人民主権、戦争の違法化などの社会の発展がありました。国際的な関係では、植民地なき資本主義への転換も起こります。
このように同じ独占段階でも、資本主義の具体的な姿は相当大きく変わっています。独占段階あるいは国家独占資本主義段階という資本主義のとらえ方は、これをきちんと反映したものになっているでしょうか。
三つ目は、さらに踏み込んで、計画性の発展を資本主義発展の最大の基準とすることに道理はあるのかという問題です。自由競争から独占へ、私的独占から国家独占へ。これらの段階区分は、資本間の関係への計画性の広がりを基準としています。では、なぜそれが基準となるのでしょう。
レーニンの説明は、結局のところ、自由競争こそが資本主義の基本的特質だからだというものでしかありません。つまり「死滅しつつある資本主義」論にもとづいているのです。しかし、20世紀以後の独占段階が「死滅」でなく、むしろ「発展する資本主義」を体現してきたことは明らかです。その時に、私たちはまだ「自由競争から計画性へ」を基準に資本主義の発展段階を考える必要があるのでしょうか。
四つ目に、この問題を考えるときに、あらためて重視すべきは、社会をとらえる史的唯物論の見地ではないかと思います。社会は土台である経済構造が、政治や法や社会意識などの上部構造を規定するだけでなく、逆に上部構造も経済に反作用します。
この作用と反作用の関係を、エンゲルスは、土台と上部構造という二つの等しくない力の相互作用と表現しました。最も大きな力を発揮するのは経済だが、それ以外の要素も常に力を発揮して、その社会のあり方をさだめる役割を果たしているということです。
このような土台と上部構造の相互作用の全体として、資本主義の発展をとらえ返す必要があるのではないでしょうか。
20世紀以後の資本主義には、さまざまな変化が起こっています。多国籍資本と国民経済の対立をもたらすほどに発展した資本の生産力、過剰生産とケインズ主義の破綻の中での金融の肥大化や恐慌の形態変化、主権在民と議会制民主主義の定着の下での一定の福祉国家の実現、世界的な植民地体制の崩壊と世界構造の大きな変化などです。
これらの巨大な変化を、資本主義社会の発展段階としてきちんと示していく必要があるように思います。
そういう角度からマルクスの理論をあらためて振り返えると、やはり次の箇所が示唆に富んでいると思います。
「工場立法、すなわち社会が、その生産過程の自然成長的姿態に与えたこの最初の意識的かつ計画的な反作用」「工場立法の一般化は、生産過程の物質的諸条件および社会的結合とともに、生産過程の資本主義的形態の諸矛盾と諸敵対とを、それゆえ同時に、新しい社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」。
ここには、労資の力関係の変化と生産力の発展の相互関係の下に資本主義の発展をとらえる構造的な視角、その資本主義の発展を同時に未来社会の準備としてとらえる歴史的な視角が、端的に示されています。こうした見地を導きに、あらためて資本主義の発展のあり方を、とらえなおす必要があるのではないでしょうか。
〔付記〕――これらの論点は、拙稿「資本主義の発展段階を考える」(『経済』2015年1月号)で、より詳しく述べました。ご参照ください。
5 憲法が輝く社会に向けて
いま、自民党政権の動きに対する国民の反応はどうなっているでしょう。多くの世論調査で、閣議決定に反対だとする声が多数となっています。では、そうした声にもとづく政治の転換の可能性はあるのでしょうか。そこを少し考えてみます。
〔新しい政治を模索する国民の動き〕
国会にはいろいろな政党が議席をもっていますが、NHKが毎月調査している政党の支持率をみると、2014年の最大勢力は「支持なし」です。これに拮抗しているのが自民党の支持率です。自民党の支持率は34~40%です。3人に1人、多くても10人に4人くらいの支持にとどまっており、相対的には一番ですが、絶対的には有権者の3分の1強の支持しかありません。
その次に支持率が高いのは民主党で5~6%です。次が公明党で3~4%。そして共産党が2~3%。あとは離れたり、くっついたりの維新が1%程度。安定して一定の支持を得ているのは、自民、民主、公明、共産の4党だけです。
こうした政党支持の到達点は、どうやってつくられてきたのでしょう。それをふり返っておきます。
90年代の後半に、自民党の不人気が強まりました。そこで小選挙区制が拡大され、また、財界による二大政党制づくりが急がれます。しかし、二大政党制は破たんしました。自民と民主の支持率に、あまりにも大きな差がついてしまったからです。
政権を獲った2009年に2984万票を得ていた民主党は、4年後の2013年には713万票しかとれない政党になりました。この短期間に、国民は学んだのです。自民党にお灸をすえるために民主党に入れたが、結果的に民主党は何の役にも立たなかった。そう判断して2200万以上の人が民主党から票を引き上げました。
もちろん、それが自民党や公明党に戻ってしまえば元の木阿弥です。しかし、実際には、票はもどっていません。2009年に政権の座を失った自民党の得票は1881万票でしたが、2013年の安倍自民党は1846万票に後退しています。安倍自民党は、国民の支持を伸ばすことに成功してはいないのです。これを支える公明党も805万から757万へ、48万票を減らしています。
それでは、民主党に愛想をつかし、自民党にも公明党にも戻らなかった人たちは、一体どこに行ったのでしょう。一方では、もう政治に期待しない、投票しないという動きが強くなりました。2009年の衆院選の投票率は69%でしたが、その後、2010年の参院選は58%、2012年の衆院選は59%、2013年の参院選は53%と低下します。
もう一つの大きな変化は、選挙のたびに投票先を大きく変動させる模索の動きとなって現れます。2010年にみんなの党は794万票を集めますが、2013年には476万票まで減らして、その後分裂となりました。2012年には維新に1226万票が集まりますが、2013年には636万票となり、やはり分裂、そして数あわせの統合となっていきました。「第三極」への期待と失速を短期間に生んだ流れです。
その中で、2013年に新しい変化がつくられます。共産党への期待の回復です。2009年494万票、2010年356万票、2012年369万票と停滞した共産党が、2013年に514万票に前進します。
転換のきっかけは、2012年選挙での安倍政権の成立とその直後からの「暴走」でした。自民の「暴走」を止める力を求めた国民が、共産党に期待を寄せる結果となったのです。「共産主義のことは知らない」「ソ連や中国はきらいだ」「しかし、安倍政治は止めてほしい」そういう期待の現れです。
ここで期待に応えることができなければ、共産も、みんなや維新のように、短期間に再び支持を失う可能性をもっています。いまが踏ん張りどころということです。
〔付記〕――2014年12月の衆議院選挙で、自民党は2013年の1846万票から1766万票へ、公明党も757万票から731万票へ、それぞれさらに得票を減らし、与党合計で106万票を失う結果となりました。他方、民主党は新党大地との協力や生活の党からの合流などもあって713万票から978万票に、また共産党は515万票から606万票に前進しました。今回の選挙でも、安倍自民党政治の転換を求める国民の動きははっきりしています。ただし、投票率は53%にとどまっており、政治への期待を回復できない国民はいまだ多くを占めています。
〔「一点共闘」から政治転換の大共闘へ〕
政治の転換をどう進めるかについてですが、来年(2015年)にはいっせい地方選挙が行われます。再来年(2016年)には参議院選挙があり、衆議院選挙もあります(この衆議院選挙は2014年12月に実施されました)。それをどうやって迎える必要があるでしょう。一方ではもちろんみなさんが支持している政党にがんばって大きくなってもらうということがあります。
もう一方で、私たちが学び、考えなければならないのは、先日の堺の市長選挙での保守から革新まで手をつないでの「ストップ維新」の勝利です。保革の垣根を越えたこうした共同が、いま沖縄の県知事選挙にも現れています。辺野古に基地はつくらせないという「オール沖縄」の連帯です。そういう広い共同を、日本全土に広げるために一体何が必要か。その探求に、いま知恵をしぼる必要があると思います
〔付記〕――2014年11月の沖縄県知事選挙では「オール沖縄」を代表した翁長候補が、基地建設をすすめる仲井真候補に10万票の差をつけて圧勝しました。また、12月の衆議院選挙では4つの小選挙区すべてで「オール沖縄」の候補が勝利しました。いずれも保革連携の威力を見事に実証するものとなっています。
その足掛かりになるのが、いわゆる「一点共闘」の進展です。一点共闘はすでに保革の垣根を越えた大運動となっています。消費税10%反対、原発再稼働反対、TPP加入反対、憲法守れ、辺野古への基地建設反対など、今日の政治の中心的課題のすべての問題で、多数の共同が生まれています。この力を「政治を変える力」に、どのように発展させていくかが課題です。
私も役員の末席を占める全国革新懇は、一点共闘でがんばっているみなさんに「つくりたい政治」を自由に語り合ってもらう場を提供しようとよびかけています。「みなさんは、安倍内閣で憲法が守れると思っていないでしょ」「安倍内閣で原発ゼロが実現するとは思っていないでしょ」「安倍内閣で増税が止められるとは思っていないでしょ」「ではみなさん方は日本にどういう政治をつくりたいと思いますか」。それを自由に語ってもらう場をつくる取り組みです。
100%自由に語ってもらっていい。その中で、「私は消費税増税反対でがんばってきたけど、原発ゼロの人とあまり意見が変わらないことに気づいた」「私は脱原発だけど、護憲の人とあまり意見がかわらない」というように、お互いの中に共同の気付きの広まりが生まれてきます。それを促進しようということです。
全国革新懇の主催で、東京では6月にやってみました。もっと幅広い顔ぶれでやるべきだったという声もあがりました。革新懇の総会で、これはすでに全国に呼びかけられています。すぐに手をつけてくれたのは、京都と大阪でした。大阪は維新とのたたかいでこういう取り組みが発展しています。京都にも保革の垣根を越えた幅広い「町衆」の連帯を追求する伝統があります。それぞれ大いに期待したいところです。
これらの取り組みを通じて「こういう政治をつくりたい」「これなら保守から革新まで納得できる」。そういう合意をつくっていく。そういう下からの強い合意に支えられた時に、安倍内閣打倒と政治転換の運動は、国会内の取り組みと連携して、本当に国民的なものとなるように思います。そうした大きな国民的な運動は、国会の中にさらに新しい変化を生み出す力ともなっていくでしょう。
〔付記〕――安倍内閣が衆議院選挙を2014年末に繰り上げ実施したのは、集団的自衛権の行使や改憲論議で国民の反感を買うことを避けるためでした。結局、自民は3議席の減、これを公明の4議席増が帳消しにして、自公全体での「大負け」回避は成功したようです。しかし、その代償として、安倍政権は3つの大きな失点を余儀なくされました。
一つは「安倍暴走政治ストップ」を正面からかかげる共産党を、8議席から21議席に躍進させてしまったこと。二つ目は、沖縄の全小選挙区で「基地ノー」連合に敗北し、辺野古への基地建設をますます困難にしてしまったこと。三つ目は、改憲の最大の援軍と期待していた「次世代の党」を壊滅状態(19議席から2議席)に追い込んでしまったということです。
大手メディアを抱き込み、野党の不意を突き、用意周到に行った選挙だったのに、どうして、こんな結果になってしまったのか。それは消費税増税、原発再稼働、格差拡大のアベノミクス、戦争する国づくり、沖縄基地建設の強行など、安倍暴走政治の根本に、国民の多数が反対しているからです。政治は権力者の思惑だけでは進みません。権力と国民の綱引きによってしか進みません。これは、私たちが、2015年の政治を展望する上でも、根本にすえるべき視点となるものです。
6 全国の学びの仲間に対する期待
最後に、学びの仲間のみなさんへの期待をこめて、いくつか問題提起をしておきます。
科学的社会主義の基礎理論や目前の課題に結びつけた情勢学習にくわえて、日本国憲法の理念・条文と国民意識の到達のずれを埋める、歴史的に大きな構えをもった憲法学習を進めていただきたいと思います。
憲法の条文につうじることはもちろんですが、なぜそういう条文がつくられたのかという思想的・歴史的な背景を学ぶこと、そして自民党の改憲案の具体的な内容について、また憲法どおりの日本をめざす運動のあり方について、これらのものをセットにして学ぶ取り組みを期待したいと思います。
次に、学びの水準をどう引き上げていくかということについてです。すそ野を広げると同時に、学習運動のリーダーの水準をどう引き上げていくかという問題に、独自に取り組むことが必要です。
たとえば大学にはアドバンスト・コースというものがあり、卒業に必要な単位には数えられないけれど、希望する学生には特別に質の高い授業を提供するといったことが行われています。労働学校を何度も受講している人たちに、もう一段質の高い学びをどう保障するか、そこを考えていただきたいと思うのです。
そこで検討しうる学びの方法のひとつは、読書ゼミではないかと思います。たとえば科学的社会主義の基礎理論には、この20年ほどのあいだにかなり急速な変化が生まれています。次々に出てくる新しい研究、新しい文献に、個人で追いついていくことはなかなか大変な状況です。そこで、それを集団で学ぶ。励ましあいながら、集団で検討をくわえていく。そういう取り組みができないものかと思います。
もうひとつ検討をお願いしたいのは、インターネットの活用の発展です。取り組みの案内を掲示するのは多くの組織が行っています。
さらに「いまここで、こんな風に学んでいます」ということを、写真や映像つきで発信する。そういうライヴ感覚をもった学習運動の発信ができないものでしょうか。ツイッターなどのSNSの活用を念頭してのことですが。
それからお勧めの本の紹介や、受講生や卒業生との日常の連絡にも、インターネットをうまく活用できないものでしょうか。「ああ、こういう人間的なつながりがある場なんだな」ということを、受講生の外に拡散するための発信です。
独習をどう組織し、その水準をどう高めていくのかという問題も重要です。独習と教室の相乗効果の検討も必要でしょうし、独習そのものの水準をどう高めていくかという検討も必要です。
たとえば科学的社会主義の研究を目的とした雑誌のひとつに『経済』がありますが、みなさんはこれをどのように活用されているでしょう。私の年代だと、学生時代から定期講読をつづけている人も少なくないと思います。
最初から読めたから講読したのではありません。読めるようになりたいから定期講読をしたのです。そういう背伸びに、組織的に取り組むことはできないものでしょうか。
独習を進めるには、文献の紹介や販売の他に、読書の感想を紹介することも大切です。
また独習によって、私はこういう風に変わりましたという育ちの実際を示すことも大切だと思います。読書カルテをつくって、ホームページやフェイスブックに学びの様子を公開するグループをつくる。「私は日々、このように学んでおり、去年とちがって、いまはこんなことを考えるようになりました」といったことを、ずっと公開していく。カルトっぽく見えてしまってはいけないのですが、生活の中に学びを取り込むよびかけとして、なんとか工夫できないものでしょうか。
今日からの3日間、みなさんは全国の学習運動の経験を交流するわけですが、心の中に秘めたアイディアなども大いに積極的に交流していただき、学びの取り組みの発展に、お互いに力をあわせていきたいと思います。集会の充実を期待して、私のお話を終わります。どうもありがとうございました。
(本稿は、2014年10月11~13日に開催した全国学習交流集会in千葉での記念講演〔集会1日目〕をもとに加筆・修正したものです。)
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