以下は、日本共産党『前衛』2017年1月号に掲載されたものです。
(全国革新懇『市民と野党の共闘の発展をめざす懇談会 記録集』からの転載)
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報告「政治の流れの逆転へ、推進力の根本は市民運動から」
〔2年半前の懇談会をふりかえって〕
皆さん、こんにちは。神戸女学院大学の石川です。全国革新懇の、あまり出席率はよくないんですけども、代表世話人の1人です。きょうはコーディネーターという格好いい名前で、実際には普通の司会をさせていただきます。スライドをご覧ください。
まず、ご報告の皆さんをご紹介します。すでに発言順に座っていただいています。
こちら側から小田川義和さん、全労連議長、総がかり行動実行委員会の共同代表をされています。次が中野晃一先生です。安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合の呼びかけ人で、上智大学の先生です。お隣が志位和夫さんです。日本共産党の委員長を務められています。
それから、そのお隣が西郷南海子さんですね。安保関連法に反対するママの会発起人で、今日は小さなお子さん2人と一緒に、家族3人でご参加ということです。それから、トリが横山良さん、オール徳島県民連合代表呼びかけ人で、神戸大学の名誉教授です。皆さん、よろしくお願いいたします。
私からも、話をしなさいということですので、少しだけ準備をしてきました。
先ほど牧野先生からもお話がありましたが、2年半前、「『一点共闘』と政治を変える共同の発展をめざす懇談会」というものを、やはり全国革新懇の主催で行いました。その記録集を読み返してみましたが、面白いんですね。
フロアから、東京革新懇の方だったと思いますけれど、国政選挙で何とか革新の共同候補を立てることはできないのか、という声があり、それに対して共産党の志位委員長から、現状ではなかなか難しいが、何とかそこに変化をつくりたいという回答がされていました。
それから2年半たっての今日の懇談会は、すでに国政では初めての市民と野党の共闘が行われ、1人区で前回参議院選の2議席から今回の11議席へという飛躍を生み出した、そういう歴史的体験を共有したうえでの懇談会になっています。
そのような変化を反映して、前回の報告者は革新懇の内部の、あるいは敷布団の方だけだったのが、今回は敷き掛け合わせて、さらに広く、分厚いみなさんになっています。
今後、市民と野党の共闘をどのように発展させていくかということについてのお話ですが、その運動の渦中にある方がお並びですので、私からは外堀の一部を埋めるということで、一方で、戦後初めて改憲派が両院の3分の2議席を取る危険な状況が生まれ、もう一方で、市民と野党の共闘で戦後初めて国政選挙に取り組むという変化がつくられてきた、その経過について簡単に思うところをお話しさせていただきます。
〔現在に直結する90年代からの社会の劣化、閉塞化〕
今のように非常に生きづらい、閉塞感の強い日本社会がつくられるうえで、私が自分の人生でも実感を持って感じるところですが、大きく2つの転機があったかと思います。
1つは、かつての革新統一戦線運動、革新自治体をつくり広げる運動が、70年代半ばから壊されていき、それを食い止めることができなかったというところ。
もう1つは、こちらが今日の社会のあり方に直結するわけですが、91年にソ連が崩壊した後に「社会主義は死んだ」だけでなく、「革新は死んだ」という大合唱があり、同時に「資本主義万歳」という大合唱が行われました、その後の10年間での非常に大きな変化でした。
その内容の1つは「構造改革」です。アメリカの大企業が自由に金もうけのできる環境整備を進めろというアメリカからの圧力があり、これに日本の財界が乗っていく。そこから、賃金が1997年をピークにして、それ以降それを超えることがなくなるという現状が生まれ、他方で大企業の内部留保がうなぎ登りに伸びるという、貧困と格差の拡大が進みました。
2つは、日米安保の問題ですが、96年に安保共同宣言が行われています。ソ連が崩壊したにもかかわらず、もう安保はなくてもよいという話にはまったくならず、反対に、アジア太平洋の全域で日米同盟を展開する、日米安保をグローバル安保に拡大するということが確認されました。今日の安保法体制づくりに直結するところです。
加えて3点目が復古主義の台頭、前面化です。河野談話や村山談話に対する危機感と、護憲の力が弱くなっていると見る復古派の判断の両方があったかと思いますが、97年に日本会議が結成され、日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会や新しい歴史教科書をつくる会がつくられます。これは、93年に発足した自民党の歴史検討委員会が95年に発表した『大東亜戦争の総括』などにもとづく、相当に大がかりな策動の結果でした。
4点目は、自民党が、今日のように政治的に幅のない政党になってしまうきっかけの問題です。自民党元総裁の河野洋平さんが安倍政治は右翼政治じゃないかと言われましたが、そうした自民党の劣化の1つのきっかけが、96年の衆議院選挙で小選挙区制がスタートしたことでした。
ベテランの皆さんは、よく覚えておられると思うんですが、かつての中選挙区制では、1つの選挙区から自民党の議員が2人当選する、場合によっては3人当選するといったこともありました。出身派閥の違う人たちが同じ自民党から当選したわけです。その結果、同じ自民党の中に、それなりに意見の違うグループが併存しました。
しかし、小選挙区制になると、党執行部のお墨付きをもらわないと当選できなくなってしまい、そこから執行部へのイエスマンばかりの党に変わり始めます。有力者が自分のオトモダチばかりを集めた政党に変質するわけです。ここに、先の復古主義の台頭がかさなりました。96年から首相をつとめた橋本龍太郎さんは靖国公式参拝を総裁選の公約とし、小泉純一郎さんは8月15日に公式参拝することを公約して総裁になりました。こうして自民党の単色化・劣化と右傾化が一体で進むことになりました。
5つ目に、市民の意識に対する攻撃として、90年代後半から、特に若い世代に向けて「勝ち組・負け組」論が、『SPA!』なんていう、ベテランの皆さんには元「週刊サンケイ」と言ったほうが通りがいいかと思いますが、そういう雑誌で展開されました。
こうして90年代には、いわば同時多発的に、大きな社会の変化がつくられました。そういう急速な社会の劣化、閉塞化を前に、98年の参院選では共産党が比例で820万票を獲得する変化も起こりますが、その後、集中攻撃を浴びせられ、また自民・民主の2大政党制を財界主導でめざす動きが表面化し、それに押し戻されるということもありました。
〔九条の会、各種の一点共闘、市民と野党の共闘へ〕
このようにして日本社会は、日本国憲法の理念からますます遠ざけさせられました。そのうえで、2000年代に入ると、自分たちで遠ざけた現実に合わせる方向で憲法の方を変えようという動きが表面化します。
00年の「読売」の改憲試案、02年には公明党が「加憲」というごまかしの言葉で改憲に同調する。04・05年になると、自民党の中からは毛色の違ういくつもの改憲案が出てくるし、財界団体や民主党からも同じ方向の意見が出てくる。
そんな状況に強い危機感をもって市民が大きく立ち上がったのが、04年の九条の会の発足でした。立場の違いを超えて憲法を守ろう、9条を守ろうという1点での市民の取り組みでした。
その後、2006年に第一次の安倍政権が成立し、国民投票法を可決させるなど直接的な改憲の準備に踏み込みますが、07年の参議院選挙で自民党は歴史的な大敗を喫します。
ご存じのように、あの瞬間には「9条は守れ、しかし、憲法は変えてもよい」というそれまでの市民の世論が、「9条は守れ、憲法も変えてはいけない」に変わりました。九条の会はじめ、さまざまな護憲団体の取り組み、市民運動と護憲政党が力をあわせた取り組みの大きな成果でした。
そして、2009年には民主党中心の連立政権が誕生します。自民党に取って代わる新しい政権を国民が選択したものでしたが、残念ながら、これは国民の期待に十分応えることができませんでした。安倍政権は倒したが、それに代わる政権の準備はできていなかった。これが安倍政権とのたたかいの第1ラウンドの結果でした。
誕生した民主党政権が右往左往する間に、2010年には自民党が新しい綱領を決めていきます。「日本らしい日本の保守主義を政治理念として再出発したい」(前文)と、自民党はここで右傾化から右翼化への飛躍を確認します。また、さらなる政治反動の先兵として、維新の会が国政に進出したのも10年でした。
2011年の東日本大震災と原発事故をきっかけとして、新しい形での市民運動が高揚します。原発ゼロへの取り組みからのスタートでしたが、震災復興、TPP、消費税、基地などさまざまな問題ごとに、個々の政治課題に応じた一点共闘が誕生し、民主党政権に向かって政治の中身の転換を求めていきました。
しかし、そうした市民の声に応える政権構想は見えてこず、2012年に第2次安倍政権が成立、復活し、これが暴走を開始します。安倍政権とのたたかいの第2ラウンドの開始です。安倍さんたちは、一度国民に倒された経験から教訓を得て、一方ではメディアを抱き込み、もう一方では、内外二枚舌外交で、東アジアやアメリカを怒らせないというように、より巧妙に「政治技術」を駆使します。
しかし、いかに巧妙であっても、進められる政治は市民の利益に反したものですから、矛盾を最も集中させられた沖縄から、2014年にはオール沖縄による画期的勝利が生み出されてきます。
15年には、安保法が強行採決されますが、全国的に、強力に展開された巨大な市民運動の期待に応えて、共産党が安保法廃棄のための「国民連合政府」を提唱し、その動きを加速させる「市民連合」も誕生します。市民連合は、安保法の廃止と立憲主義回復だけでなくて、個人の尊厳を守る政治いわば日本国憲法が定めた基本的人権のすべてを生かす政治を掲げて選挙に取り組みました。
これは戦後の国民運動、市民運動の歴史上画期的なことでした。
こうした歴史的な経過のうえに立って、この夏の参議院選挙は、改憲派が両院の3分の2の議席を戦後初めて獲得するという危機的状況の深化とともに、市民と野党の共闘が状況の転換に向けて新しい希望の火を灯すものともなりました。改憲の道に踏み込むのか、その流れを逆転させて憲法の生きる日本をつくるのか、文字通り、ここが本当に踏んばりどころです。
〔改憲派から国会の議席を取り戻すために〕
今後に向けた問題ですが、まずは、改憲案の発議を可能とする両院の3分の2議席を改憲派が握る状況を堀り崩さねばなりません。国会の議席を取り戻さねばならないのです。しかし、野党が一党ずつでたたかったのでは、今の選挙制度では勝ち目がありません。そこで市民と野党の共闘を、さらに強く、広く発展させるしか道はありません。それを急いで進める以外に道はありません。
これを強く、広く発展させるためには一体何が必要なのか。そこを話し合うのが今日のテーマで、具体的には、報告者のみなさんから提起があると思いますが、ごく簡単にふれておけば、1つには、野党間で政策の合意をどう深めるかという問題があると思います。市民の信頼をさらに広げるために、これは欠かすことのできないことだと思います。
2つには、自民党政権を倒しはしたが、受け皿となる政権準備ができていなかったという2009年の失敗を繰り返さないためにも、筋の通った連立政権の合意が必要だということです。
3つ目は、野党間のより対等で公正な相互協力の実現という問題です。最大野党は民進党だから民進党を応援しましょうでは、それ以外の野党を支持する市民の力は十分発揮されません。取り組みをより力強いものにするためには、ここも避けて通ることのできない問題です。
こうした課題をやり遂げるうえで、根本の推進力となるのは市民運動の力です。後ほど、ご発言があるかと思いますが、10月16日投票の新潟知事選挙の結果は画期的なものでした。最終盤には民進党の蓮舫さんが、野田さんの制止を振り切って、新潟へ応援に行かざるを得なくなり、選挙後には原発政策についてもう1回ちゃんと考えたいと言わざるを得なくなっている。
そうして全国的な情勢にさえ前向きの変化を切り開いた力は、何より市民の運動によるものでした。これを全国で、もう一回り大きく発展させるには、どうしたらよいのか。それを、それぞれの運動の領域で大きな役割を発揮されているみなさんに、お話しいただけるものと思います。
勝手にハードルを上げてしまったところがあるかもしれませんが、それではみなさん、順にご報告をよろしくお願いいたします。
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まとめの発言と閉会あいさつ「今日を懐かしく振り返る、大きな前進を力をあわせて」
みなさん、ありがとうございました。最後に、私から、まとめと閉会のあいさつをするようにとのことですが、今日は、自由に意見を交換することが目的ですし、また、これはこうだと勝手に答えを出すと、あとで中野先生に怒られそうでもありますので(笑)、そういうまとめはやめておきます。
かわりに、私が今日、皆さんの報告や発言をうかがって、印象的に思えたところをいくつか挙げさせていただくと、1つは「届く言葉」ということでした。「届く言葉」が必要だと、口で言うことは簡単なんですが、それを具体的に探求するのは大変です。
私も、すでに敷布団人生が40年になっていますので、この経験の世界から抜け出すことはなかなか難しいのですが、幸い、大学などで若い世代との付き合いがありますので、彼らとの対話のなかで、自分の言葉がどの程度届いているのかの確認に気を配り、少しでも自分を育ててみたいと思います。
それから、未来を切り開くポジティブな構え、ポジティブな訴えが大切なんだということも大事な点だと思いました。
敷布団世代には、今ある政治にはこういう問題があるというネガティブなところから話を展開する習性がありますが、そうではなく、私たちが本来目指したい社会はこういうものじゃないでしょうか、もう少しこうあったらすごしやすいですよねというポジティブな提起を先に打ち出して、そこから考えるといまの政治にはこういう課題があるんじゃないでしょうか、さて、皆さん一緒に乗り越えていきましょうよ、というふうに、そういう論の立て方に努力することもひとつの方法なのかと思いました。
志位さんからは、政党の立場からということで、野党間での政権の構想について、少しでも前向きな合意を作っていきたいというお話がありました。これはぜひとも深めていただきたいところで、私も、よりよい合意が実現するように、みなさんといっしょに取り組みを進めていきたいと思います。
それから掛け布団、敷布団に次いで、敷布団の新種なんでしょうか、せんべい布団という言葉も登場しました(笑)。いろいろ楽しくあってよいと思いますが、しかし、これは「自称」にとどめた方がいいでしょうね。人さまに向かって「あなたはせんべい布団だ」なんて言うわけにはいかないでしょうから(笑)。
新潟の知事選挙についてのご発言は、本当に感動的でした。「もう新潟は保守王国ではない」。この言葉に、万感の思いが込められていると思えました。長年の様々な体験や時々の気持をふりかえりながら、あらゆる思いを凝縮した言葉だったかと思います。
日本のどこでも政治の流れは変えられる、そのことを新潟のみなさんが実証してくれたわけですから、私が知事選挙にかかわっている兵庫県でも、ぜひとも過去の経験の枠をこえた新しい挑戦を進めたいと思います。
フロアからの発言のあり方についてですが、司会の私としては、発言したいとおっしゃる皆さんの権利を最大限尊重したいと考えました。それは、ここに集まっている方々一人ひとりを私が信頼し、リスペクトするということからです。
その点にかかわって、もう少し考えていただきたいと思うところがあったのは、今日のこの企画の主旨に沿う形で報告を作り上げてきたみなさんや、主催者の準備、またその内容にそった議論参加することを期待して全国から集まってこられた方がおられるわけですから、発言される方一人ひとりにもその努力や思いをリスペクトする姿勢を貫いていただきたかったということです。
一部のご発言に限ってのことですが、率直にお伝えしておきます。
さて、最初にお話をさせていただいたときに、2年半前の「一点共闘」についての議論を紹介し、そこから短期間のうちに大きな変化があったことを確認しました。この先、2年後にこのような企画が3度あるのかどうかは分かりませんが、もしあるとすれば、2016年の懇談会ではまだあんな議論していたんだね、そんなことを懐かしく語り合えるような、さらに大きな前進を、市民と野党の共闘の一層の発展を通して達成していきたいと思います。今後とも、力をあわせていきましょう。
では、これにて今日の企画は終了とします。みなさん、お疲れさまでした。
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