1)出席者7名。まずビデオ『アウシュビッツからベルリンへ--加害の記憶をたどる旅』を見る。ドイツがかかえている問題はあるが,それにしても戦争責任の記憶に対するドイツと日本の姿勢の相違は明白。強制労働力を活用したかつての加害企業(シーメンス)が記録を残すことに協力し,強制労働での加害者と被害者やまたその子どもの世代が正面から向き合う場がつくられていく。「自分たちの親(祖父母)の世代が行なった加害」を直視する勇気と誠実さがこの国には欠けている。なぜドイツで可能だったことが,日本にできないのか。親世代との「感覚の違い」についても率直に議論がかわされる。
2)テキストの前回検討箇所から「『内鮮結婚』について」の報告がある。植民地朝鮮の「同化」のために「内鮮一体化」のスローガンがかかげられ,「日本人」と朝鮮人の「通婚の奨励」が行なわれる。少なくとも28年以後,毎年の「内鮮結婚」の約半数が日本人男性と朝鮮人女性の結婚だが,1934年頃から朝鮮人男性と日本人女性の結婚が増えていく。双方からの入り婿も若干。戦後の生活はどうなったのだろう。
3)第5章「日本敗戦と朝鮮半島分断・朝鮮戦争」に入る。占領軍の「慰安」のために政府は1億円(当時)を用意し,最盛期7万人の女性を「民族の純潔」を守る「人柱」として差し出していく。「昭和天皇の免責」にかかわっては,いわゆる「人間宣言」が報告される。46年元日のそれは冒頭に明治政府の施政方針であった「五カ条の誓文」をそのまま掲げるなど,戦前の体制からの転換をきわめて曖昧にしか示さぬものとなっている。なぜ免責されたのかという歴史の経過をより詳しく調べることにする。中国革命や北朝鮮の「成立」をきっかけとした占領政策の転換についても,下山・三鷹・松川事件を調べることに,また女性参政権の行使は日本46年,韓国48年がそれぞれ最初だが,欧米ではどうだったかについても調べることにする。4節「南韓のみの単独政府樹立と女性」は担当者欠席につき次回に残す。
4)230万人の在日朝鮮人の多くが終戦直後に帰国するが,65万人が日本に残ることとなる。選挙権など今日にいたる在日朝鮮人の社会的権利の制約についても調べることとする。朝鮮人学校(民族学校)の強制閉鎖をめぐる日本の警察との衝突は,48年に朝鮮人少年の死亡事件を起こしている。抑圧は戦中で終わったわけではない。51年9月のサンフランシスコ講和条約は親米諸国のみとの講和となり,条約調印の夜,日米安保条約がむすばれ米軍基地の配備が継続される。あわせて講和条約は沖縄・奄美・小笠原の施政権放棄を含むものともなる。すでに47年昭和天皇は米軍による沖縄の長期占領を日米双方の利益になるどの判断から希望していた。琉球王国の独立を踏みにじられ,日本人への同化を強制され,「捨て石」として唯一の地上戦を強要され,戦後は「基地の島」として切り離される。在日米軍基地の7割が集中する今日の沖縄もまた「捨て石」として活用されていることに,鈍感であってはならない。「基地の島」と日本政府のかかわの戦後史についても調べることとする。
最近のコメント