テキスト第4章「中国のしたたかな世界戦略」を、128ページまで。
中華人民共和国の歴史を簡単に。49年革命によって成立(毛沢東をリーダーとする共産党政権)。その後、国民経済復興の数年をへて、次第に社会主義への接近を目指すようになる。56年から66年のあいだに工業資産が3倍になるなど、経済の前進が生まれるが、66年からは毛沢東による北京政府からの奪権闘争である「文化大革命」が開始される。76年に収束。78年には鄧小平政府が「文革」の極左政策を批判するとともに、改革開放政策をとり、今日的な社会主義市場経済への端緒を開いた。
次に「社会主義」とは何かという問題。①人類の歴史には段階的な変化があるが、その変化を資本主義より先に押し進めようという思想。古く遡ることは可能だが、現代社会に決定的影響力をもったのはマルクスとエンゲルス。②資本主義の良さを引き継ぎ、弱点を乗り越えるために彼らが主張したのは、生産手段の社会的所有(大企業をみんなのものに)、働くものが主人公の社会に(民主主義の徹底)、その取り組みをリードする共産党をつくること。
③これが思想から体制に移行する最初の可能性を開いたのは、1917年のロシア革命。指導者のレーニンは、戦争からの脱却、植民地の開放、「社会保障」の追求、8時間労働制の追求など、大胆な社会改革に乗り出す。④日本の「シベリア出兵」をふくむ干渉戦争の中で、国家による経済の完全管理(市場の排除)が追求されるが、最大勢力である農民の不満によってこの政策は破綻する。⑤そこから基幹部門を国家がコントロールしながら、市場経済を活用するという「新経済政策(NEP)」の方針が出される。
⑥1924年にレーニンは死亡。権力闘争の結果、スターリンが後継者となり、21年に開始された「新経済政策」の試みが断ち切られる。国家による経済と社会の完全管理をめざす、農業の強制的な集団化がすすめられる。⑦多くの反発は力によって封じられ、これの抑圧を主たる仕事とする秘密警察がつくられる。人民がすべて「収容所」と隣あわせという専制的な抑圧社会となる。1930年代以後のソ連は「社会主義」の看板をかかげた対外的には覇権主義、対内的には抑圧的先制社会となった。
⑧1945年以降、戦争中にソ連が軍事的影響力をもった東欧地域にソ連型社会が数多くつくられる。49年革命の中国も次第に社会主義をめざすようになり、59年にはキューバ革命が起こる(61年に社会主義宣言)。さらに76年には統一ベトナムが社会主義への道を選択する。⑨89年以後ソ連・東欧の政治体制が一挙に崩壊し、ソ連型抑圧社会が克服される。現在、その一部は西欧EUに接近し、他方は上海協力機構に、ロシアはサミットに参加しながらアメリカにもEUにも距離をおいた外交政策をとっている。
⑩残る3ケ国のなかで中国・ベトナムは市場経済の活用のなかで社会主義への接近をはかる道を選択している。今日、両国はいずれもレーニンが提起した「新経済政策」を意識的に研究しており、いまだ多くの模索の課題を残すとはいえ、世界でもっとも成長率の高い地域の中心勢力となっている。⑪アメリカやEUとの経済的相互依存の深まりも明らかである。現代世界が直面する平和や環境、貧困の克服の問題に、いずれが合理的な回答を引き出すことができるかが、両体制の共存と競争の重要な課題になっている。
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