○京都平和委員会から「そろそろ順番だよ」とミニ原稿の依頼が来た。
何人かで交代しながら書いている「平和の風」というコラムである。
わずか350字なので,コリコリッと書いて,ただちにガッシン。
とはいえ,ゼミのネタばかりでもうしわけない。
○安丸良夫『神々の明治維新--神仏分離と廃仏毀釈』(岩波新書,1979年)を読み終える。
「明治の新政権はなぜ天皇の権威を必要としたのでしょう」。
その疑問に対して,M平先生が「まずこれから読んで」と教えてくれた本である。
しかし,残念ながら,わがボンクラあたまでは,どうにも整理がついていかない。
「神仏分離と廃仏毀釈を通じて,日本人の精神史に根本的といってよいほどの大転換が生まれた」。
「この転換は,国際社会の力と力の闘技場へ加わろうとしたときの,一つのまだ弱小な民族の自己規定と自己統御にかかわっていた」。
だが,それは政府の意図が一挙に庶民に受け入れられるという,そのように単純なものではない。
幕末の政治で「傍流」に位置した国体神学が,いまだ基盤の弱い新政権の権威確立の具として政治の表舞台に立てられる。
表に引っ張りだしたのは薩長倒幕派の面々である。
しかし,庶民の暮らしに根ざした仏教の力は強く,また新政府は仏教勢力との提携を不可欠ともした。
そのため「廃仏」は,実は,国家によって権威づけられない神仏に限られていく。
政府が目指したのは「神話的にも歴史的にも皇統と国家の功臣とを神として祀り,村々の産土社をその底辺に配し,それ以外の多様な神仏とのあいだに国家の意思で絶対的な分割線」をひくことである。
同じく「分離」もまた,記紀神話や延喜式神名帳に権威づけられた特定の神に限られていた。
他方,この変化の中で,庶民の多様な信仰は,存続のために,この分割を受け入れ,すすんで内面化する。
その結果,初詣や神前結婚式のような宗教的行為が,深い宗教意識なしに,しかしそこからの逸脱をひどく不安に思いながら行なわれる過剰同調の社会がつくられた。
なるほど民主主義のルールに支えられるのでない新たな権力は,それを正統化するイデオロギーを必要とする。
とはいえ,そのイデオロギーがなぜ「国家神道」であり,現人神である必要があったかについては,やはり,まだ釈然としない。
始まったばかりの学習の第一歩ということである。
最近のコメント