今日の入試控室で、M平先生が話題にしていたのは、この記事のことであったか。
指導教官であろうE藤先生も、多方面でご活躍である。
もちろん、主人公の林さんが一番だが。
治虫が愛したチョウ求めて 「昆虫手帳」もとに宝塚調査(朝日新聞、2月29日)
漫画家の故手塚治虫氏が少年時代に昆虫採集に没頭した兵庫県宝塚市で、1人の女子大学院生が手塚氏をまねて虫捕り網を手に3年がかりでチョウを追った。手塚氏の親族や同市立手塚治虫記念館などに協力をあおぎ、約60年前の手塚氏の採集記録を入手して分析。当時は約70種いたチョウが約4割減ったことがわかり、都市化の進展が生物に与える影響の一端を明らかにした。
チョウの生態記録をまとめたのは、神戸女学院大大学院人間科学研究科で学ぶ林江里子さん(24)。研究のきっかけは、同市の手塚治虫記念館に保管・展示されている「昆虫手帳」との出合いだった。
手のひら大の手帳には、採集日時、場所、虫の種類など、旧制中学時代の手塚氏が毎日のように昆虫採集に出かけた際の記録がこまめに記されていた。
以前から、都市化と生物の関係について数値で表せないかと考え、愛好家が多く過去の生息状況のデータが得やすいチョウに注目していた。手塚氏の手帳にはチョウの採集記録が豊富にあり、林さんは格好の比較資料になると直感。記念館には1冊だけしか保管されていなかったため、手塚プロダクション(東京)から1942~43年にかけての手帳のコピーを入手した。
さらに、幼少期に手塚氏と一緒にチョウを追った実弟の手塚浩さん(77)=大阪市=にも話を聴いたうえで、手塚氏が暮らしていたころの宝塚には約70種のチョウが生息していたと推定した。
一方、現在の生息状況は歩き回ってこつこつと調べた。採集範囲は、手塚氏の自宅があった同市御殿山付近を中心に半径約800メートルと決め、大学4年の春から1カ月に最低3回は捕虫網を手に住宅街や里山をめぐる約5キロのルートを歩いた。3年がかりで36種を採集、4種を目撃。これ以外に周辺で確認されている4種も生息していると判断した。
約60年の間に付近の住宅地の面積は約5倍に増えた一方で、森林面積は半減し、農耕地はほとんど無くなっていた。
手塚氏が採集したチョウには、今では絶滅危惧(きぐ)種となったオオウラギンヒョウモンもあったが、林さんが目にすることは一度もなく、里山や森を好むとされるオオムラサキやカラスアゲハも姿を消していた。
林さんは結果をまとめた修士論文を3月7日、大学がある兵庫県西宮市の市大学交流センターで発表する。「生き物と人間との共生を作品で訴えていた手塚さんが、すでに少年時代に命への愛着を感じていたことに気づかされ、研究の励みになりました」と話している。
宝塚市に隣接する同県伊丹市の市昆虫館によると、同市の昆陽池公園などもチョウの種類は減り、約60種が確認できた70年代に比べ、近年は38種にとどまっているという。同館は「幼虫が食べる植物が姿を消すなどした影響で、種類が減っているようだ」としている。
《手塚治虫と昆虫》 小学5年の時、友人の昆虫図鑑を見て昆虫採集に目覚めた。ペンネームの治虫(本名・治)は、甲虫の一種オサムシにちなんで自作の漫画に使い始めた。旧制北野中学(現・大阪府立北野高校)時代には友人と「六稜(りくりょう)昆虫研究会」を結成して「昆虫の世界」などの機関誌を発行。昆虫図鑑を精密に模写したり、空想上のチョウを描いたりしていた。この頃に自然や生命への尊敬の念が育まれたといわれている。
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