8月末に「気仙沼大島」で震災ボランティアに加わってきた、若い知人の手記を、2~3回にわけて掲載します。
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「気仙沼大島」での震災ボランティア活動(1)
◆参加の経緯
第一陣で陸前高田での活動に参加させて頂いて、微力ながらも自分にできることがあることを実感しました。今回も少しでも被災地の役に立てればと思い、参加させて頂きました。
◆大島について
大島は、宮城県気仙沼市の気仙沼港から船で20分ほどの位置に浮かぶ周囲約22kmの東北最大の離島です。本土との距離は近い場所で230mほどしか離れていません。
人口は約3,400人、島の北側に位置する亀山には「緑の桜」が自生し、鳴き砂海岸である十八鳴浜、牡蠣の養殖も盛んで、観光と漁業で成り立っている島でした。詩人の水上不二さんによって「みどりの真珠」とたたえられるほど美しい島でした。
◆震災時の様子
大島は、今回の震災により何重にも被害を受けました。
太平洋側からの津波と、気仙沼本土に辿り着いた津波の帰り波により、二度の津波被害を受けました。東西から押し寄せた津波は島の中央で合流し、島は一時南北に二分されました。
津波だけではなく、本土の石油コンビナートから重油が漏れ、瓦礫に引火した火が海を渡って大島の亀山に燃え移りました。震災当日、多くの島民は仕事などで島を離れていたため、島に残っていたのは人口の約1/3の1,100人ほどだったといいます。
その多くが高齢者や子どもたちだったにも関わらず、「大島をなくしてはならない!」と、島民総出で消火活動にあたったそうです。しかし、大島には消防車がないため、消火活動は島民の方々の不眠不休のバケツリレーで行われ、消し止められたのは火災発生から6日後の3月17日だったといいます。
現地を案内してくださった島民の方は、その時の光景を「爆弾が落ちたような、戦争のような、なんと表現していいか分からない、空が赤く染まり、この世のものとは思えない光景だった。」と語って下さいました。
また、当日島を離れていた人々は、大島の火災を知り、残された子どもや高齢者を助けに行くこともできず、どれほど居た堪れない思いをされただろうかと想像すると胸が詰まります。
今回、亡くなられた島民の方は24名、未だに行方が分からない方は17名おられるとのことです。
◆現地の様子
場所は異なりますが、同じ被災地である陸前高田を4月に訪れた時と違い、津波後に残った住宅の基礎部分も見えなくなるほど雑草が生い茂っていたり、瓦礫が撤去され始めている分、そこが野原だったのか、人が生活を営んでいたのかすらうかがえない状況でした。
“瓦礫だらけの状態”から撤去が進んだ分、“何もない状態”と化している箇所も多かったように思いました。
“何もない状態”という光景は、被災された方々からすれば、いよいよ本当に跡形もなく何も無くなったと、現実を突きつけられるような思いでもあるのかなと思ったりします。
仮に、どちらの光景も被災された方々にとって辛い光景であるとすれば、我々ボランティアが感じる“片付いて良かった”という感覚は、時に、被災された方々のお気持ちとズレが生じていることもあるのではないかと、地元に帰ってきた今になって思います。あくまで私の勝手な想像ですが。
今回は、予定よりも早く作業が終わり、島民である旅館の方に島を案内して頂くことができました。
「緑の桜」が自生する亀山は、標高235mと高くはない山ですが、展望台からは島を360°の大パノラマで見渡すことができました。しかし、よく目を凝らすと所々にある瓦礫の集積所やさら地が目に留まりました。
また、亀山の木々も真黒に焼け焦げたところがあり、火災の被害にあったことを感じさせられました。島の瓦礫集積所には10mを優に超える瓦礫の山がいくつもありました。
海岸では、陸前高田の一本松と同様に、多くの松が津波によりなぎ倒され数本しか残っていない箇所もあり、「島から見えないはずの海が見えるようになって、景色が変わった。」と仰っていました。途中、道路が津波により寸断されてしまっているところもあり、1分で行ける所をずいぶん遠回りして行かなくてはならないとのことでした。
また、島全体が1m地盤沈下したことにより、鳴き砂は海水を含み鳴りにくくなっているたり、ビーチそのものの範囲も狭くなってしまったとのことでした。まだまだ、逆さまになった車や、真横に転がったままの家も多く、震災から半年近く経ったとは思えない状況でした。
津波により渡し船も流された現在は、残りわずかな船が交通の手段となっており、島から離れる島民も少なくないといいます。また、フェリーも往来していますが、往復運賃に加え、車を乗せると数千円の別途料金がかかり、高齢者が本土の病院へ定期的に通院したりすることは非常に困難だというお話もありました。
気仙沼市内の方でも、フェリー乗り場の桟橋は沈み、焼けて黒くなった建物、辛うじて建ってはいるものの津波が通り抜け中が空洞になっている建物、地盤沈下の影響で満潮時に海水が街に流れ込み、くぼみに海水が溜まったままの箇所も見られました。
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