「人間発達の経済学」とマルクス・労働運動・セン
神戸女学院大学・石川康宏
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2006年度政府予算は,医療改悪に焦点をあてた「構造改革」の推進を前提しています。また自民党の「新憲法草案」は,基本的人権を「公の秩序」という名の時々の政策によって深刻に制限するものとなっています。「人間発達」を促進する諸条件の再生と拡充に向けて,「人間発達の経済学」には何が期待されているのか。マルクス経済学とのかかわり,労働運動の位置づけ,アマルティア・センとの異同といった問題を考えてみたいと思います。
〔1・はじめに〕
池上惇・二宮厚美編『人間発達と公共性の経済学』(2005年,桜井書店)の書評(「しんぶん赤旗」2005年10月9日)に,私は次のように書いておいた。「各章とも多くの理論的蓄積を前提とする力作である。なかでも私にとっては,個人の尊厳を守ろうとする強い意志,その帰結としての野放しの市場化への厳しい批判や憲法の尊重,さらには公務労働論の展開,『大学モデルの組合』,企業価値への社会貢献の盛り込み,利益第一主義を制御する株主運動の可能性など,具体的な実践の指針にかかわる探究が興味深かった。欲をいえば発達の条件をもたらす社会改革の担い手が,現代日本でどのような発達の可能性や課題をもつかについても,踏み込んだ解明を期待したかった」。これについては,今も同じ感想を持っている。
他方で,最後の「欲をいえば」の部分を補強しておけば,個々の論文の集合が,全体としてうまく映像を結ばせないことにもどかしさを感じる点もある。「はじめに」(池上惇氏)は「思想,方法,経済学に対する考え方まで,すべて不統一である」(p.10)と述べ,「あとがき」(二宮厚美氏)には「思想や主張の共通面と差異について,それをそのまま本書に反映させることにした」(p.264)とある。しかし「人間発達の経済学」の中心的な担い手であろう著者等の久しぶりの共作となれば,読み手としてはその「経済学」の枠組み自体についての探究・創造の到達点を期待したいところであった。
以下,人間発達を促進しうる社会的条件やその条件の獲得に必要な主体の形成という問題に焦点を当て,第1に「人間発達の経済学」とマルクスの経済学との関係について,第2に「人間発達の経済学」における労働運動の位置づけについて,第3に「人間発達の経済学」とアマルティア・センの「潜在能力開発アプローチ」の関係について,それぞれ「人間発達の経済学」の今後に期待するところを述べてみようと思う。
〔2・「人間発達の経済学」とマルクスの経済学〕
小論の執筆に先立ち,『経済科学通信』(以下,『通信』)から,基礎経済科学研究所(以下,基礎研)の研究動向を総括的に論じたいくつかの文章を読んでみた。その結果,あらためて考えさせられたことの一つは「人間発達の経済学」とマルクスの経済学との関係についてである。それは『人間発達と公共性の経済学』に,内容上の「不統一」をもたらす大きな要因の一つになっているように見える。
『通信』95号の特集「20世紀マルクス経済学:回顧と展望」の冒頭で,森岡真史氏は率直にその問題を語っている(森岡真史「特集『20世紀マルクス経済学:回顧と展望』によせて」『経済科学通信』No.95,2001年4月)。――かつて「基礎研のアイデンティティーの骨格」をなしたマルクスの経済学や思想の「吸引力」は,80年代後半から基礎研においても低下した。90年代には企業社会批判を精力的に展開したが「現時点では,当時の人間発達の理論の担い手たちの間にも,またこれに共感してその後に基礎研運動に参加した人々の間にも,企業社会論とマルクス経済学の関係について,明確な共通認識といえるものは存在していない」。――こうした認識の上に立って,森岡氏は「マルクス経済学が本来持っている潜在的な可能性や広がりを新世紀の経済理論に発展的・批判的に活かしてゆく唯一の道」として「マルクスをめぐる真に自由な『百家争鳴』」を呼びかけた。
確かに,手元の3冊の本を見ても――基礎研編『人間発達の経済学』(青木書店,1982年),基礎研編『人間発達の政治経済学』(青木書店,1994年),池上・二宮編『人間発達の公共性の経済学』――時の移り変わりとともにマルクスの影響力は,やはり低下しているように見える。もちろん,それがマルクスへの批判的検討の結果であれば,低下は同時に発展ということにもなるのだろうが,現実はそう単純ではないようだ。森岡氏は90年代を「『原論』にかかわる問題の検討は,回避されたわけではないが,かなり弱かった」時期だと振り返っている。
いうまでもなく「人間発達」の課題は,マルクスの経済学研究や社会改革の実践において,決して副次的なテーマではない。それどころか,むしろ中心的なテーマである。だからこそ,それは「基礎研のアイデンティティーの骨格」であることができた。
たとえば,1866年の国際労働者協会第1回大会に向け,マルクスは決議の草案「個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示」(大月書店版『全集』第16巻,p.191)を書いている。その第3項「労働日の制限」は「労働者階級,すなわち国民中の多数者の健康と体力を回復するためにも,またこの労働者階級に,知的発達をとげ,社交や社会的・政治的活動にたずさわる可能性を保障するためにも,ぜひとも〔これが〕必要である」となっている。第1項「国際協会の組織」,第2項「労資の闘争における,協会の仲介による国際的協力」は,いずれも組織の性格や運営の方法を論じたものであるから,「労働日の制限」は資本家たちとの闘いの課題としては,文字通り最優先と位置づけられたものである。マルクスは「労働日の制限は,それなしには,いっそうすすんだ改善や解放の試みがすべて失敗に終わらざるをえない先決条件である」と述べている。第1回大会でこれは満場一致で採択された。1868年の第2回大会では,マルクスは自ら「労働時間の短縮についての決議案」の提案演説も行っている(同p.553)。「労働者階級,すなわち国民中の多数者」の豊かな発達の促進は,マルクスにとってきわめて重要な目前の実践課題とされていた。
良く知られるように,こうした実践面でのマルクスの姿勢は,『資本論』に結実する経済学研究の成果――その資本主義認識によって支えられたものであった。絶対的剰余価値の生産を論じるなかで,マルクスは次のように述べている。資本の論理に従えば「人間的教養のための,精神的発達のための,社会的役割を遂行するための,社会的交流のための,肉体的・精神的生命力の自由な活動のための時間は,日曜日の安息日でさえもが……まったく無意味なものなのである!」(新日本出版社上製版『資本論』Ⅰa,p.280)。「資本は,社会によって強制されるのでなければ,労働者の健康と寿命にたいし,なんらの顧慮も払わない」(同p.285)。だからこそ,その社会による抑制を実現する労働者階級の団結した闘いが必要になる。人間的な発達の条件を勝ち取るためには,資本の論理への対抗が必要であり,先の実践の指針――まずは資本主義の枠内における労働時間の短縮――が資本家との「闘争」を正面からかかげる背後には,剰余価値論が明らかにする労資の対抗関係へのこのような分析があった。
21世紀日本の現状を見るとき,95年の日経連「新時代の『日本的経営』」に象徴される――その背後には93~95年の3度のサミットによるアメリカ主導での「労働力流動化」「総額人件費削減」の国際合意があったが――労働条件破壊の実践は,日米財界による利益獲得の自由の拡大のために,労働力人口の80%に達する労働者たちから,人間らしい生活と発達の条件を奪い取るものとなっている。この現実の経過にマルクスの剰余価値論や資本蓄積論の基本的な妥当性を見ることは――今日的形態についての新たな分析が必要なのは当然だが――格別困難なことではありえない。『資本論』第1部の出版から140年の年月が過ぎようとするいま,歴史が新たな多くの研究課題を生み出しているのは当然のことだが,それを重視することと,上の点でのマルクスの実践的姿勢や経済学の骨太い生命力を確認することは決して矛盾することではない。財界が世界最長の労働時間を誇るこの国で,むき出しの資本の論理に対抗し,労働時間短縮に向けた改革の力をどう育てていくかは,「人間発達の経済学」がますます力をこめて語って良いことではないだろうか。
〔3・「人間発達の経済学」と労働運動〕
関連して,基礎研編『人間発達の経済学』には次のような文章がある。「資本主義が準備した人間発達の諸条件に実質をあたえるのも,生産力の発達が人間の諸能力の全面的な発達と歩調をあわせるような共同社会を建設するのも,まさしく労働者階級自身の事業であることを銘記すべきである」(森岡孝二「経済学の基礎概念と人間の発達」p.56)。このような問題の立て方をしているのは,森岡孝二氏ばかりではない。1982年の同書には労働者階級による闘いの意義にふれない,あるいはそれを前提しない論文は1つもないといってよい。それとの対比で見れば『人間発達と公共性の経済学』――そこには青木圭介氏の「現代の労働と福祉文化の発達」,重森暁氏の「人間発達と公務労働」があるとはいえ――における変革主体の論議はいかにも比重を低めている。そこにもまたマルクスの経済学や実践の思想に対する評価の「不統一」が反映しているのかも知れない。
社会改革の取り組みの組織や形態を,労働組合や労資の闘争に限定する必要がないのは当然だが――現に私も社会保障や男女平等の推進を求める運動,労働者や市民の学習の運動,「慰安婦」問題などにかかわっている――,しかし,それを認めることと資本の論理に対抗する取り組みにおいて労働運動が中心的な役割を果たすことは,やはり矛盾することではないと思う。むしろ労働運動自身が,新しい歴史条件のもとでどのように成長すべきか,労働組合以外の形態での多様な取り組みとどのように連携すべきか,こうした問題の解明に積極的に取り組むことが求められているように思う。そのためには日本における労働運動や社会運動の歴史を研究することも必要となる。
1897年に片山潜等が労働組合期成会を結成し,これに応えて鉄鋼組合(1897年),日本鉄道矯正会(1898年),活版工組合(1899年)が結成されてから,日本には,すでに100年を超える労働運動の歴史がある。その戦前の姿を一瞥すれば,産業革命以後の活発な活動は,治安警察法(1900年)や「大逆事件」(1910年)によって一旦壊滅に追い込まれる。しかし,ロシア革命(1917年)を再生の転機に,1924年には組合数469,組合員数は約23万に成長する。友愛会から日本労働総同盟へ,総同盟の分裂から戦闘的な日本労働組合評議会の結成へと,全国的なネットワークの模索と形成もすすめられた。これが侵略戦争の激化と国家権力による徹底した弾圧によって再び衰退を余儀なくされるのは1930年代のことである。その後,治安維持法(1925年),国家総動員法(1938年),大政翼賛会(1940年),「産業報国会」(1940年)と,日本の労働運動は再び壊滅に追い込まれていく。
戦後の歴史は米軍による軍事占領下にスタートする。組織率の驚異的な上昇と階級的ナショナルセンター産別会議の結成(1946年),占領軍と日本政財界による産別会議の切り崩しとレッド・パージ,占領軍の指示による「総評」の結成(1950年),「安保・三池闘争」での「ニワトリからアヒルへ」の「総評」の脱皮,安保闘争以後のケネディ・ライシャワー路線と労資協調型IMF・JC路線の育成,60年代からの革新自治体の建設と70年代初頭の「賃金爆発」,70年代半ばからの政財界あげての「戦後第二の反動攻勢」,74年の「大幅賃上げの行方研究委員会」設立,80年の社公合意による総評の「右転落」,財界主導での労働戦線再編による「連合」の結成とこれに対抗する「全労連」の結成(1989年)――そこには常に日米支配層による弾圧や懐柔との闘いのなかにおかれた労働運動のリアルな姿がある。世界史の前進を背景に,国内の社会状況が労資の対立を機軸に変化していることは明白である。こうした中で,往々にして忘れられがちなことだが,資本に育成された労資協調型の組織ではない,階級的ナショナルセンター(全労連)が10数年の歴史をもつというのは100年を超える労働運動の歴史のなかで初めての到達である。それ自体が,重要な歴史的成果のひとつとなっている。
今日,「構造改革」の路線は「労働組合の既得権益の打破」を公然と語っている。財界の春闘方針文書である日本経団連・経営労働政策委員会報告(2006年版)は「経営者よ正しく強かれ」の副題をもち――この毎年の文書は先に紹介した74年の「大幅賃上げの行方研究委員会」に端を発する――労働時間を無限に延長しうるホワイトカラーエグゼンプション――「どれだけ仕事をやったかは,労働時間とは関係なく,成果がどうであったかで考えるべきです」(日本経団連『経済Trend』2006年2月号,座談会「経営者よ正しく強かれ」での辻井昭雄氏発言)――の導入や,労働者1人1人を自らの意志で経営革新に参加させるなど,もはや労資協調主義をも越えようとする,資本への労働者の一方的な従属を求める露骨な労働者管理を求めている。マルクスが語った「労働日の制限」の問題は,今日の労資関係においても中心的な争点となっている。
他方,「構造改革」が連合系労組までもを過酷な攻撃の対象とし,また民主党による自民党との賃下げ競争が連合系労組に対する民主党支持おしつけの矛盾を深めている現実を踏まえ,「全労連」は,あらためて所属組織の違いをこえた共同行動,未組織労働者の組織化,労働運動の分裂をゆるさない公務員攻撃への官民一体となった反撃などの方針をかかげている。こうした労資関係の今日的な局面を具体的に踏まえながら,「人間発達の諸条件に実質をあたえる」ための労働運動の発達課題やその達成の方法を論ずることは,「人間発達の経済学」に多いに期待されるところであろう。この点で,私には先の青木論文「現代の労働と福祉文化の発達」が,「労働力流動化」政策の現実の進展に対応しうる組合組織のあり方として,「大学モデルの組合」を論じている点は貴重に思えた。
歴史の中で繰り返し論じられてきたように日本の労働運動には「企業別組合」という組織形態がもつ制約があり,必ずしも労働基本権を自らの力で勝ち取ってきたとはいえない戦後の歴史の経過があり,また正規雇用者を中心とした労働組合からセパ(正規パート)共同型への組織形態の脱皮,男性主導型から「労働組合の男女共同参画」へと,「全労連」もその組織的成長に向けた具体的な苦労の中にある。そこでは,狭く自己の利益に目を奪われることのない労働者階級全体の連帯の精神の育成――大学現場でも正採用の教員組合には非常勤講師の権利や要求にどのような態度をとるかという実践の課題がつきつけられている――や,民主的改革の担い手に相応しい民主的な能力を組合員に育てるための,組合民主主義のあり方なども論じられている。またこうした闘う組織や個人の成長は,マルクスが未来社会の担い手を特徴づけて述べた「自覚的に結合した生産者」を,資本主義自身がその内部でどのように準備していくかという問題や,さらには『57~58年草稿』がいう人格的依存と独立,その上での共同をめぐる人間の「個性」の発達などの論点にもつながっていくだろう。
なおマルクスは,先にもふれた「個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示」の第6項に「労働組合――その過去,現在,未来」をあげ,そこで次のように述べている。「いまや労働組合は,その当初の目的以外に労働者階級の完全な解放という広大な目的のために,労働者階級の組織化の中心として意識的に行動することを学ばなければならない。労働組合は,この方向をめざすあらゆる社会運動と政治運動を支援しなければならない。みずから全労働者階級の戦士,代表者をもって自認し,そうしたものとして行動している労働組合は,非組合員を組合に参加させることを怠ることはできない。労働組合は……賃金の最も低い業種の労働者の利益を細心にはからなければならない。労働組合の努力は狭い,利己的なものではけっしてなく,ふみにじられた幾百万の大衆の解放を目標とするものだということを,一般の世人に納得させなければならない」(『全集』第16巻,p.196)。
ここにいう「当初の目的」とは「賃金と労働時間の問題」に限定された経済闘争ということだが,文中の「労働者階級の完全な解放」を,段階的な社会発展の見地に立って「資本主義の枠内における民主的改革」と書きかえるなら,また「あらゆる社会運動と政治運動」に平和・憲法・人権にかかわる市民の多様な取り組みを含み入れるなら,このマルクスの指摘は現代日本の運動課題を驚くほど的確に表現したものとなっている。この「人間発達の経済学」における労働運動の位置づけという問題は,「人間発達の経済学」とマルクスの経済学との関係に深く結びついているのだろう。
〔4・「人間発達の経済学」とアマルティア・セン〕
最後は,「人間発達の経済学」とアマルティア・センの「潜在能力(ケイパビリティ)アプローチ」の関係についてである。『人間発達と公共性の経済学』で,池上惇氏は論文「人間発達と固有価値の経済学」の一節で「A・センの潜在能力アプローチ」を論じている。より詳細にこれを語っているのは,論文「人間発達の経済学と固有価値の視点」(『経済科学通信』No.105,2004年8月)である。そこで池上氏は「(1980年代に)人間発達の経済学というテーマで,体系的な展開を試みた書物」として,センの『商品と潜在能力』(鈴木興太郎訳『福祉の経済学――財と潜在能力』岩波書店,1988年,原著85年)と自身の『人間発達史観』(青木書店,1986年)をあげ,「この両者の異同を手がかりとして人間発達の経済学の内容を明らかに」しようとする。
センの「潜在能力」概念の理解にかかわる,池上氏のいくつかの文章を紹介しておく――センには「基本的な潜在能力という概念」と「潜在能力の発揮あるいは,発揮する好機という概念」がある,「池上説は,センと同様に人間の潜在能力に注目するが,潜在能力の開発過程」のとらえ方が異なる,「潜在能力とその発揮の機会を創り出す人権ルールの重要性については,両者が,ほぼ,同一の基盤に立っている」。また,氏は自身の「人間発達」論を解説しながら「人間の潜在能力(基本的潜在能力と潜在能力=センと同じ)の積極的な開発がすすむ。しかし,その能力を発揮する機会は,所得水準の制約や,仕事の仕組みの制約,特に,部分情報や,部分的な技術,技能への限定,都市生活や住居の限定,日常の教育や文化の水準のサービス価格や,人材や施設による限界などによって,極めて限定される」と述べている。いずれにせよ,センの「潜在能力」は何らかの条件に左右されながらも「発揮」される能力ととらえられているのである。だが,このようなセンへの理解は,はたして正しいものであろうか。
センは「潜在能力」を「人が行うことのできる様々な機能の組み合わせ」とする。ここでの「機能」とは人の生活の構成要素のことで,具体的には「適切な栄養を得ているか」「避けられる病気にかかっていないか」「幸福か」「自尊心をもっているか」など多岐にわたる事柄となる。こうした諸機能の集合として,センは人の具体的な「生活」をとらえようとする。それは所得や資産に還元しうるものではない。所得が高くとも何らかの差別を受ける立場にあれば,「幸福」や「自尊心」は得ることができず,それは人の本当の福祉(暮らしぶりの良さ)を表すものとは限らないからである。差別を被る立場にあれば,それだけで人は一定の「機能」を失い,「潜在能力」の発揮ではなく「潜在能力」そのものを制約されることになる。また,人は「潜在能力」のすべてをいつでも同時に自らの「生活」の構成要素とすることはできない。そこで,人は自らの意志にもとづいて何を重視すべきかを選択する。だから,センは個人が実際に送っている「生活」を,その人の「機能のベクトル」と表現し,「潜在能力は『様々なタイプの生活を送る』という個人の自由を反映した機能のベクトルの集合」だという(アマルティア・セン『不平等の再検討――潜在能力と自由』岩波書店,1999年,pp.59-62)。つまりセンがいう「潜在能力」は,まだ顕在化していない可能性としてのみ実在する能力ということではなく,人が実際の生活において選択しうる諸「機能」そのもののことである。したがって,センにおいては「潜在能力」の発揮の条件ではなく,「潜在能力」それ自身の豊かさこそが人の生活の豊かさや人々の平等をはかる尺度となる。
『不平等の再検討』の訳者であり,アジア諸国の所得配分を研究している池本幸生氏は,同書の「訳者まえがき」で「『潜在能力』は‘capability’の訳である。日本語の『潜在能力』とセンがつかう‘capability’にはかなりズレがある」と書いている(同p.ⅴ)。またセンの共同研究者であるヌスバウムの著作の「訳者あとがき」で,同じ池本氏はさらに詳しくこれを論じている。「ケイパビリティは一般に『潜在能力』と訳される。その訳語によって,この概念は広く知られるようになり,また多くの人々に受け入れられる一方,多くの誤解を招くことにもなった。……ケイパビリティは,『子どもの潜在能力は無限だ』という使い方とも違うし,『経済を発展させるためには,人々の潜在能力を活用すべきだ』という使い方とも違う。潜在能力を『財を利用する能力』と解釈するものもあるが,これも間違った解釈である」。「ケイパビリティは……ある人が何をできるのかを表すものである。何ができるか(doing),どんな状態になれるか(being)によってその人の生活の状況を評価しようとするものである。何ができるか,どんな状態になれるか,は選択肢の幅を示すだけであり,実際には,その中から選択が行われ,現実の生活の内容(実現された機能)が決まる。ケイパビリティは,前者を示すものであり,実際には選択されない選択肢を含む。だから『潜在的』なのである。同時に,それはある人がどんな生き方をすることかできるかという自由をも表すことになる。自由を重視するなら,実現された結果(機能)を見るのでなく,ケイパビリティを見なければならない」(マーサ C.ヌスバウム『女性と人間開発』岩波書店,2005年,「訳者あとがき」362-4ページ)。
こうしたセンの「潜在能力」概念への誤解は,池上氏だけのことではない。たとえば座談会「『通信』100号と今後の課題」(『経済科学通信』N0.101,2004年4月,p.58)の中にも,基礎研の「人間発達」論とセンの「潜在能力」論の異同を「人間の潜在能力の開発ないし発展という点では共通しながら」「潜在能力を顕在化させる条件として,基礎研の場合には……センの場合には」という問題の立て方をしている箇所がある。しかし,センの「潜在能力」は実際の生活のために選択しうる――その意味で潜在的な――諸機能の集合ではあっても,それ自体が「発揮」や「顕在化」の出発点になるような概念ではない。この点は,「人間発達の経済学」を錬磨するためにも,より厳密に論じられて良いことだと思う。
〔5・おわりに〕
冒頭の森岡真史氏の論文にもどれば,氏は基礎研内部におけるマルクス評価の問題を論ずる前に,日本の経済学研究全体における「マルクス経済学の理論的影響力の劇的な低下」について述べていた。それは社公合意以後の革新「冬の時代」に,天安門・ベルリンの壁・ソ連崩壊という国際的な大事件が重ねられた時期に合致する。この激変期の直前には革新自治体高揚の時代があり,その直後には「構造改革」の時代がならんでいる。この二つの時期の間に社会保障・医療・教育など「人間発達」の重要な政治的・制度的条件の破壊がすすみ,「自己責任」論や「勝ち組・負け組」論による労働者や市民の連帯の破壊もすすめられてきた。
このような状況を振り返るなら,アメリカン・グローバリゼーションの進展という世界的視野のもとで,この日本の政治・経済・文化の過程を究め,他方で「人間発達」に必要な外的条件を新たに獲得するに相応しい労働者・市民の連帯と意欲を育むためにも,マルクスの経済学と思想の再検討は重要な役割をもつように思う。「人間発達の経済学」にも,「マルクス経済学が本来持っている潜在的な可能性や広がりを新世紀の経済理論に発展的・批判的に活かしてゆく」取り組みを大いに期待したい。
〔基礎経済科学研究所『経済科学通信』第110号,2006年6月15日発行,42~47ページ〕
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