以下は,総合社会福祉研究所『福祉のひろば』2006年12月号(12月1日発行)の48~51ページに掲載されたものです。
グラビアの4ページも,韓国を訪れた学生たちとハルモニとの写真でした。
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侵略を反省し,平和な日本づくりの決意をあらたに
第1回・急がれねばならない「慰安婦」問題の解決
〔政府と軍がつくった「慰安婦」制度〕
かつてこの国は兵隊たちの性欲を満たすために,たくさんの女性を拉致し,「慰安所」にとじこめ,数カ月から数年にわたる大量のレイプを繰り返しました。軍の資料で確かめることのできる最初の「慰安所」は,1932年に上海につくられたものでした。現在わかるだけでその数は400ヶ所をこえ,被害者「慰安婦」の数は7万とも20万ともいわれています。日本国内にも沖縄から北海道まで,百数十カ所に「慰安所」がつくられました。
敗戦時に日本軍が関係書類を焼却したため,こまかい事情についてはわからないところがあります。しかし,これがウソやデッチアゲでないことは,日本政府も93年8月4日の河野洋平官房長官(当時)談話ではっきりと認めていることです。最近も「慰安婦」問題は20世紀最大規模の人身売買であり,日本政府は適切な対応をとるべきだとする決議が,アメリカ下院国際委員会であげられたばかりです(2006年9月13日)。
新しく首相となった安倍晋三氏は,強制の事実があきらかでないとして「慰安婦」問題を教科書から削るべきだと主張し,かつての日本政府の罪を裁いた「女性国際戦犯法廷」(2000年)を描くNHKの番組を力ずくで修正させた張本人です。しかし,その本音がどうであれ,そのような考え方をもつ安倍首相であっても,秋の国会や日韓首脳会談では先の河野談話を引き継ぐと言わずにおれませんでした。
くもりない目で事実を見つめるならば,莫大な「慰安婦」被害者を生んだ当事者が,一部の民間業者などでなく,この国の政府と軍であったことは否定しようがないことです。
〔謝罪しない政府をいただく私たちの責任〕
私たちは今年も,9月11日から14日まで韓国を訪れてきました。ソウルからバスで1時間半ほどの場所にある「ナヌムの家」を訪れ,「慰安婦」被害者であったおばあさん(ハルモニ)に会って証言をうかがい,「日本軍『慰安婦』歴史館」に学び,日本政府に歴史認識の是正ときっぱりとした謝罪を求める「水曜集会」に参加してきました。3年ゼミ生を中心とする学生たち11名の他,大阪・神戸・京都の市民や大学の同僚等8名が同行し,さらに「ナヌムの家」と「水曜集会」では,日本で先に交流をすませていた京都の学生たち8名とも合流しました。
「慰安婦」問題の解決を願う日本人がハルモニをたずねることは,彼女たちを励まし,力づけることにつながります。若い女子大生たちは,孫のように甘えることもでき,それをとても喜んでくれるハルモニもいます。しかし,同時に私たちは,80才前後となったハルモニたちに,残された時間がそう長くないことを直視せねばなりません。実際たくさんの被害者が,日本政府からの謝罪を聞くことなく,どうにもならない悔しさを胸にかかえたままに亡くなっています。そうした政府をつくっているのは今に生きる私たち日本の国民です。侵略と加害の事実と責任を認め,反省し,謝罪し,きっぱりとこれを清算する政治を日本につくる取り組みが,主権者である私たち1人1人に強く求められています。
〔「慰安婦」問題の基本点〕
韓国へ旅立つ前日の9月10日,私たちは西宮市の大学交流センターに集まり,直前の集中学習会を行いました。旅行に同行した市民の方は全員が参加し,京都の学生6名もやってきました。この日の学習の基本点を,簡単に紹介しておくことにします。
まず「慰安婦」「慰安所」という表現は,実際に起こった事実を正確にあらわすものではありません。それを「慰安」と感じうるのは,レイプを行う兵士の側だけです。女性にとってはこの上ない暴行と凌辱でしかありません。したがって国際社会では「慰安婦」は性奴隷,「慰安所」はレイプセンターなどと呼ばれています。
「慰安婦」被害者には,植民地朝鮮の女性が多かったのですが,その他にも日本人,中国人,台湾人,フィリピン人,インドネシア人,ベトナム人,ビルマ人,オランダ人などが犠牲とされています。10代半ばの幼い日に,一日に数十人の相手をさせられたという証言も少なくありません。
「慰安所」は民間業者が経営したのであって,軍や政府は無関係だという主張があります。しかし,先の河野談話は政府による独自の調査にもとづいて,「慰安所」の設置・管理や「慰安婦」の輸送に日本軍が「直接あるいは間接にこれに関与」したことを認めています。またそうした関与を示す少なくない資料が,吉見義明編『従軍慰安婦資料集』(大月書店,1992年)にまとめられています。
「慰安婦」は自ら進んで「売春」を行ったという主張もあります。確かに「売春」を目的に「慰安所」へ向かった人も皆無ではありません。しかし,河野談話は「慰安婦」の「募集」にあたっては「甘言,強圧による等,本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり」「官憲等がこれに加担したこともあった」と,その強制性を認めています。また「慰安婦」がお金を手にすることができた事例も,きわめて限られたものとなっています。
「戦争にレイプはつきものだ」という議論もあります。それはそうかも知れません。しかし政府や軍自身がレイプの制度や施設をつくる公的な方針をもち,これを大々的にすすめた点で「慰安婦」制度は歴史的,国際的にも際立ったものとなっています。これは国家による犯罪であり,個人による犯罪行為と同列に置かれてよいものではありません。
「『慰安婦』が逃げなかったのは同意していたからだ」という議論もあります。しかし河野談話と同時に発表された日本政府の文書「いわゆる従軍慰安婦問題について」は,「慰安婦たちは戦地においては常時軍の管理下において軍と共に行動させられており,自由もない,痛ましい生活を強いられたことは明らかである」と書いています。「逃げる」ことは決して簡単なことではなかったのです。
〔日本とアジアの友好のために〕
戦争が終わった時に,日本軍は少なくない「慰安婦」を殺し,また現地に置き去りにしました。その結果,生まれた国へ帰ることができない「慰安婦」が生まれ,国へ帰ってもすでに健康が失われていたり,さらには家族からさえ「日本人に汚された女」と侮蔑されることも少なくありませんでした。被害者たちの人生の悲惨は,戦後もずっと続いていたのです。
金学順(キムハクスン)さんが,かつて「慰安婦」を強制された被害者であることを表明して,大きな話題を呼んだのは1991年のことです。きっかけは90年の国会で日本政府が「民間の業者がそうした方々を軍とともに連れて歩いている」と,「慰安婦」問題への政府の関与を一切否定したことでした。
その後,証拠をつきつけられて追い込まれた日本政府は,河野談話を示して右の政府見解を大きく転換します。しかし談話は,政府の関与は認めても,被害者個人への補償はしないとの立場をとるものでした。その後も政府は,調査結果の公表をせず,戦争犯罪の承認や謝罪と賠償,再発防止にむけた教育の改善など,問題の解決に向けたどのような具体的な努力も行いませんでした。
それだけではありません。95年には「植民地支配と侵略」への「痛切な反省」と「お詫び」を述べた村山談話が発表されますが,これに反して小泉首相は靖国神社への参拝を繰り返し,戦争責任の曖昧化をすすめます。安倍首相もそのような動きを強力に推進してきた一人であり,さらに自民党の「新憲法草案」は日本国憲法前文にある侵略戦争への反省を完全に消し去るものとなっています。
侵略とレイプを行ったのは60年以上も前の日本人ですが,被害者への謝罪を拒み,過去の反省さえ曖昧にしようとする今の政府をつくっているのは主権者である私たちです。被害者たちのためにも,日本とアジアの友好のためにも,「慰安婦」問題はただちに解決されねばならない問題です。
このような諸点を再確認して,翌9月11日,私たちは韓国へ飛びました。
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