以下は,総合社会福祉研究所『福祉のひろば』2007年1月号(1月1日発行)の48~51ページに掲載されたものです。
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侵略を反省し,平和な日本づくりの決意をあらたに
第2回・ハルモニを訪ね,歴史と今を考える
前回は「慰安婦」問題の基本について述べました。今回は,それを学んだ上で,韓国へ旅立ったゼミ生たちの取り組みを紹介してみます。
〔近くて遠い国〕
9月11日は,関西国際空港に10時30分の集合でした。学生11名(ゼミ生9名,他ゼミの学生2名)と京都・兵庫・大阪の市民のみなさん8名,そして私と,今年は総勢20名での出発です。午後1時には離陸し,機内食をとって,3時前には韓国の仁川(インチョル)空港に到着します。朝鮮戦争時に,米軍が上陸する現場となったあの仁川です。「フライト時間がすごく短い」と,飛行機を降りて感想をもらした学生がいました。確かに大阪を起点にすれば,ソウルまでは沖縄へ行くよりはるかに近く,札幌へ行くのと変わらぬほどの距離なのです。「近くて遠い国」。戦後61年をへて,いまだにそういわねばならない両国関係に,日本の政治は大きな責任を負っています。
4時には迎えに来てくれていた専用バスで,ソウル市内へ向かいます。日本語の上手なガイドさんが,簡単な観光案内をしてくれました。ホテルに荷物をおいて一息つき,それからあらかじめ予約しておいた焼き肉屋へと歩きます。大きく立派なビルがならぶ街並みですが,途中で「日雇い仕事」をまっている労働者の一群に出くわしました。西成地区をかかえる大阪の街と同じような光景に見えてきます。
焼き肉屋は,なかなかの有名店だったようです。看板には端のほうに「ノビチプ」と日本語で店名が書かれていました。他にも「味付けカルビ」などの日本語がいくつも見えます。「韓流ブーム」の「成果」でしょうか。ビールで乾杯し,おいしい焼き肉をにぎやかに食べていきます。食後,学生たちは自由にどこかへ出かけ,大人たちは若者でにぎわう通りを歩いてみました。そこにもたくさんの日本語が飛び交っていました。
ホテルまでもどり,数名で近くの居酒屋に入ってみました。ここでは互いに言葉がまったく通じません。それでもお店のオカアサンは,親切にあれこれを出して,おいしいマッコウリを飲ませてくれました。すでに韓国に来ていることはまちがいないのですが,あまりに移動の時間が短くて,まだカラダが不思議に思っているかのような気分のままでした。
〔ナヌムの家へ〕
翌12日は,10時半にホテルを出ます。昨日と同じバスが迎えにきてくれました。次第に,ガイドさんとも気軽に話ができるようになっていきます。ガイドの李さんは,子どもさんが2人いる若いオカアサンです。バスが走るあいだ,日本語で日本と朝鮮の交流の歴史を話してくれました。
「ナラという言葉は韓国では国のことです。奈良という地名の由来は朝鮮の言葉なのかも知れません」。「ハナというのは韓国では一のことです。日本語でも『最初から』のことを『ハナから』というでしょう」。そうした話のあいだに「朝鮮半島は1910年から45年まで日本に占領されました」という言葉がサラリと流れてきます。特別のこだわりがあってのことではありません。日朝関係を語れば,避けることのできない客観的な事実です。そして,それを乗り越えて仲良くなっていきましょうと語ってくれました。今日の日本政府の姿勢を思うと,胸に痛みを禁じ得ない一言です。
昼食の休憩をへて,1時前には「ナヌムの家」に到着です。学生たちが緊張の度合いを急速に深めていくのがわかります。ほどなく京都の学生8人も合流しました。「ナヌム」というのは韓国後で「分かち合い」という意味です。苦しいことも楽しいことも,ここに集うみんなで分かち合っていこうとの意味だと聞かされました。私にとっては,これが4度目の「ナヌムの家」です。
外に出ておられたペ・チュンヒハルモニに,1年ぶりのご挨拶をして,初めて会った日本人スタッフの村山さんとも挨拶をかわします。そして,まずはビデオを2本見ていきました。『中国・武漢に生きる─元朝鮮人「慰安婦」』と『ひとつの史実─海南島従軍慰安婦の証言』です。「中国・武漢」の方は研究室にありながら,学生たちとは見る機会のなかったもので,「海南島」はまるで知らないものでした。それぞれ16才と14才で「慰安婦」を強制された被害者が証言します。「海南島」には,当時のことを覚えている男性住民の話もあり,「日本人が中国人の首を切るのを何度も見た」という言葉も登場します。
〔歴史館に学び,ハルモニの証言をうかがう〕
つづいて28名で「日本軍『慰安婦』歴史館」に入りました。静まり返った空間に,展示の前に立つ村山さんの解説の言葉が響いていきます。かつて「慰安所」とされたアジア各地の建物の写真があり,日本軍が発行した数種類の軍票(お金)もあり,「慰安所」利用に必要とされたチケットや日本軍が配給していたコンドームの現物もならんでいます。驚くべきことに「慰安所」利用の割引券の写真もありました。また「兵站指定慰安所故郷」という看板を出し,それが軍の管理下にあったことを明快にしめす「慰安所」入り口の写真もあります。
実際のレイプは建物の中でのほか,クルマの中や野外など,様々な場所で行われていますが,ここにはその1つの部屋が再現されています。狭い板張りの部屋に,粗末なベッドと沖縄の「慰安所」で実際に使われていた金ダライがおかれています。この金ダライに入れた消毒液で「慰安婦」は自分のからだを拭い,時には使いまわしのコンドームを洗いもしたそうです。もっともコンドームをつけない兵士が少なからずいたからこそ,年若い「慰安婦」たちは数多く妊娠せずにおれなかったのですが。
去年はこの部屋の前でゼミの学生の1人が倒れましたが,今年は京都から参加した女子学生がやはり1人倒れてしまいました。若い女性にはそれほどにつらい追体験の場になるということです。部屋の中に入ったある学生も「入るのにとても勇気が要った」「両側の板の壁から強い圧力が来ている気がして,長くは中にいれなかった」といっていました。
展示は,戦争が終わった瞬間に捨てられた被害者たちの戦後の苦痛も紹介します。日本政府からの誠意ある謝罪の言葉を聞くことなく,無念の思いをかかえて亡くなったハルモニの遺品もあります。さほど大きくはない歴史館ですが,2時間以上をかけてじっくり学んだあとには,立っているのがつらいほどの大きな疲労感が残ります。
一呼吸おいて,カン・イルチュルハルモニの証言をうかがいました。ハルモニは15才のときに軍人と巡査に連れ去られています。セックスがどういう意味をもつかもわからないまま,毎日レイプを繰り返されました。抵抗した際に兵士に頭を壁に打ちつけられ,今も後遺症で鼻血が出ます。「慰安所」へ行く前は生理も安定しておらず,安定したのは戦争が終わり「慰安所」生活が終わったあとでのことでした。
それでもハルモニは,日本人への「怨み」を繰り返すわけではありません。政府には誠実な謝罪を強く求めながらも,日韓は二度と戦争を繰り返してはならない。若い人たちに同じ苦しみを味わってほしくはない。政府の関係がうまくいかなくても,市民同士が仲良くなれば良い。独島(竹島)が争いのタネになるなら,あそこは日韓両国民が自由に行ける場所にすれば良いと語ります。
話は通訳もふくめて1時間ほどで終わりました。ある学生は「自分の祖母の姿に重なって」と,ずっと涙を流して聞いていました。直接の「慰安婦」被害は昔のことでも,被害者への謝罪をさける政治は現代日本のものなのです。そして謝罪を求めるハルモニは今も私たちと同じ空気を吸って暮らしています。問題は「昔のことだ」では決して済まされません。
暗い星空を見上げながら,夕食は庭に炭をおこしてのサムギョプサルとなりました。豚の焼き肉です。たくさんの野菜やニンニクも焼き,これに味噌をつけ,エゴマなどの大きな葉にまいて食べるものです。数人のハルモニがいっしょに食べてくれました。気持ちの元気が回復したのか,焼いた肉をもってハルモニの生活の場に入り込んでいく学生もでてきます。遅くまでハルモニとカラオケも楽しみました。しかし,そうした楽しい時間の中にも,学生たちの急速な成長は確実に用意されていたのです。翌日はソウルの日本大使館前での「水曜集会」でした。
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