以下は,全国労働組合総連合『月刊・全労連』2007年1月号(№120)の1~9ページに掲載されたものです。
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安倍改憲内閣と「もう一つの日本」
神戸女学院大学・石川康宏
http://walumono.typepad.jp/
(1)平和と憲法をめぐる2つの体験
まず最近身近に起こった出来事を2つ紹介しておきたい。06年11月4日は,勤務先の大学で入学試験が行われた日であった。18才人口の減少の中で,本来なら大学にも,手厚い高等教育を実施する可能性が広がるところだが,教育の世界も受益者負担の金次第という「構造改革」路線は,大学間の入学者確保競争を促進するものにしかなっていない。とはいえ,ここに述べたいのはそのような教育制度にかかわる話しではない。
紹介したいのは,その日の昼の休憩時間に,憲法を守る取り組みが教員間の話題になったということである。神戸女学院大学には「9条の会」がすでにある。したがって,平和や憲法の問題が少人数の場で話題となることは少しも不思議なことではない。しかし,これは入試業務にかかわる全教職員が集まる部屋でのことであった。しかも内容は,前日11月3日に7500人を集めて神戸のワールド記念ホールで行われた企画「はばたけ! 9条の心」に「家族が参加してきた」という,ある同僚教員の家庭での会話の様子であった。
私自身は当日,京都で行われた「関西歴史研究者9条の会」に参加せねばならず,この7500人の1人となることはできなかった。しかし,その夜のうちには企画成功の連絡をうけ,そして翌日には同僚からこのような嬉しい話を聞くことができた。じつに身近なところにまで,平和を守り,憲法を守る取り組みの輪が押し寄せていることを,あらためて実感させられた。すでに全国5600を超える「9条の会」を生み出したこの国の市民の平和に対する願いの強さは,決して悲観するようなものではない。
もう1つ紹介したいのは,06年9月に3年ゼミの学生たちと韓国「ナヌムの家」を訪れたときのことである。旅行は11日夕方にソウルに入り,12日には「ナヌムの家」を訪れ──「日本軍『慰安婦』歴史館」に学び,「慰安婦」を強制された被害者ハルモニ(おばあさん)の証言をうかがい──,13日にはソウルの日本大使館前で「水曜集会」に参加し,14日昼には日本へもどるという強行日程であった。「『慰安婦』と出会った女子大生たち」は,「水曜集会」で「私たち若い世代が日本の政治を変えていく」と発言し,多くの参加者の拍手をあびていた。
この旅行には学生以外にも10人ほどの参加があったが,兵庫県母親連絡会の上野会長の発言は印象的なものであった。旅行の最終日に,ホテルから仁川空港へ向かうバスの中で,旅行参加者の全員がマイクを握った時のことである。「まともな謝罪をしない加害国の人間として,ハルモニたちにどういう顔で会えばいいのか不安に思っていた」「しかしハルモニは,日韓の市民が仲良くしていくことの大切さ,二度と日韓が戦争をしないことの大切さを強調された」「日本での私たちの9条を守る取り組みが,このハルモニたちの願いにピッタリ重なることがわかり,とてもスッキリした気分になれた」。上野さんは「ナヌムの家」で,つらい体験を話してくれたカン・イルチュルハルモニに,「9条てんとう虫」を手渡していた。
また,驚かされたのは,バスの中での全員の発言をじっと聞いていたガイドの李さんの言葉である。空港に到着する直前に立ち上がった李さんは,私たち日本人に向かってこう語ってくれた。「私はいまとても感激しています」「侵略戦争や平和の問題,『慰安婦』の問題をこんなにまじめに考えている日本人に,私は生まれて初めて会いました」「私はこれまで『日本が占領したから韓国は発展した』と言ってくるような日本人にしか会ったことがありませんでした」「みなさんのような人が日本にいることを知って,とても嬉しいです。私もがんばります」。2人の小さな子どもをもつ李さんにとって,北東アジアの平和は,子どもの未来に直接かかわる実に切実な問題として受け止められていた。
学生たちと「ナヌムの家」を訪れたのはこれが3度目のことだが,今回は侵略と加害の歴史を学び,その問題を解決し,誠実に乗り越えていく道を考えるだけでなく,この瞬間にアジアの平和を目指す取り組みをすすめることの大切さと,そのための国際的な連帯の必要を強く実感させられる旅ともなった。平和憲法を守り,憲法どおりの日本をつくろうとする私たちの運動の役割は重要である。
(2)侵略戦争を反省せず,海外で戦争をする国づくり
05年10月に自民党が発表した改憲案「新憲法草案」の問題点を,以下に4つ指摘しておきたい。
第一は,「日本国憲法」前文の侵略戦争への反省の文章をすべて消し去り,そのかわりに,この国や社会が何をしても無条件で愛せという愛国心を国民に強要している点である。
憲法前文は「日本国民は…政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」する。「日本国民は,恒久の平和を念願し,人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて,平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して,われらの安全と生存を保持しようと決意した」と述べている。
しかし,改憲案は,この種の反省を100%完全に消し去るものとなっている。反省を消すことの背後には,そのような反省をすることがそもそも正しくないのだという過去の歴史への誤った認識がある。改憲の先頭に立つ安倍首相は,著書『美しい国へ』や『安倍晋三対論集・日本を語る』で「現憲法の前文は何回読んでも,敗戦国としての連合国に対する詫び証文でしかない」「為政者が責任放棄を宣言したような内容」「非常にいじましい」と繰り返している。つまり安倍氏はかつての戦争は正しかったと考えており,改憲は堂々とそのことを主張する国づくりを行うための手段と位置づけられているのである。容易には信じがたいほどの時代錯誤だが,それがこの国の支配層主流の歴史観であるのは事実である。靖国史観の根深さをあなどってはならない。
それだけでなく改憲案には次の文章がふくまれている。「日本国民は,帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有」する。「日本国民は…国際社会において,価値観の多様性を認めつつ,圧政や人権侵害を根絶させるため,不断の努力を行う」。次に見る9条の「改正」とあわせて読むならば,これは日本が海外で戦争をしても,国民はその政治を無条件で「支え守る責務」を果たせということである。またそれは「戦争反対」を叫ぶ者を,国民の「責務」に反する非国民として抑圧していく根拠ともなる。さらに海外で「圧政や人権侵害を根絶」する努力というのは,アメリカが他国への介入戦争を正当化する際の常套句としてきたものでもある。
ここには強いアメリカへの軍事的一体化をはかりながら,その影で靖国史観を国家公認の歴史観として復活させようとする改憲派のたくらみが良くあらわれている。
第二の問題は,改憲案が9条2項を書き換えて,日本を海外で戦争のできる国につくりかえようとしていることである。第9条は「国権の発動たる戦争と,武力による威嚇又は武力の行使は,国際紛争を解決する手段としては,永久にこれを放棄する」と述べ,第2項で「前項の目的を達するため,陸海空軍その他の戦力は,これを保持しない。国の交戦権は,これを認めない」と書いている。
これに対して自民党の改憲案は,現在の第2項を新たに4つにわけ,その3つ目の小項目で次のように述べている。「自衛軍は,第一項の規定による任務を遂行するための活動のほか,法律の定めるところにより,国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び緊急事態における公の秩序を維持し,又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる」。ここにいう「第一項の規定」とは,新たにつくられた4つの小項目の「第一」の項目のことで,その内容は「我が国の平和と独立」にかかわるものとなっている。そして,この第三の項目が定めているのは,その「平和と独立」の問題の「ほか」に,はっきりとそれとは別の形で行われる自衛軍の活動である。内容の1つは海外での軍事活動であり,2つは国内での治安維持を目的とした軍事活動である。
海外での活動にかかわり「法律の定めるところにより」というのは,具体的には「イラク特措法のようなものにより」ということである。安倍首相は戦争のたびにそのような法律をつくっていては機敏な活動ができないので,恒久法をつくれば良いともいっている。そうなれば,自衛軍の派兵の是非を,一々国会で審議する必要もなくなるというわけである。つづく「国際社会の平和と安全を確保するために」というのは,「政府がそう認めさえすれば」ということである。さらに「国際的に協調して行われる活動」というのは,現実には「アメリカと協調しての活動」ということである。現に自衛隊は有志軍の一員としてイラク戦争に参加しており,また米軍との共同演習を年間250日も行っている。
国内での治安維持活動の問題は,先に指摘した改憲案前文のこの国を「支え守る責務」にかかわるものであり,また市民の自由な政治活動を規制する「共謀罪」の企みとも深く結びついたものとなっている。対外的に軍事力を誇示し行使する国家が,国内においても抑圧的とならずにおれないことは,すでに無数の歴史が証明していることである。
(3)国民の権利と自由を政府が制限していく国づくり
第三は,国民の権利や自由のうえに政府がたち,政府がこれを制限していくという問題である。憲法12条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は,国民の不断の努力によつて,これを保持しなければならない。又,国民は,これを濫用してはならないのであつて,常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」となっている。注意したいのは「濫用してはならない」ことの責任は,国民が自主的に負うものとなっている点である。
だが,改憲案はこうなっている。「(権利と自由については)国民は,これを濫用してはならないのであって,自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ,常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し,権利を行使する責務を負う」。見られるように権利と自由の「濫用」を制約するのは,第一に「公益及び公の秩序」つまりその時々の政治のあり方とされている。
それが目指すところを,今日の自民党政治の具体的な事例で見ておきたい。たとえば06年4月に施行された「障害者自立支援法」は,福祉施設の利用に際して,介助の必要が大きい人ほど多くの利用料を支払えというとんでもない法律になっている。その結果,利用料が払えず,施設に通うことができない人がたくさん生まれている。これが自民党のいう「公の秩序」のひとつである。障害者は自立支援法に反しないように自由を享受し,権利を行使しろというわけだ。また06年6月には高齢者の住民税が5倍にも10倍にも跳ね上がり,連動して介護保険料や国保料金も引き上げられた。これも高齢者はそうした重い負担のもとで権利と自由を享受しろということである。
じつは今回の「新憲法草案」に先立ち,自民党は04年11月に「憲法改正草案大綱(たたき台)」をつくっている。驚くべきことだが,そこには国民の生存権を記した憲法25条を「『基本的な権利・自由』とは異なり,『権利』性が弱(い)」節に「位置づける」という文章がふくまれている。つまり自民党の改憲案には,そもそも国民の生存権を守ろうという姿勢がまったくなく,むしろそれを破壊することが改憲の重大目的となっている。それは「構造改革」推進の中心に立った竹中平蔵元大臣が,社会保障は「たかり」だと繰り返していたことにも見事に合致するものとなっている。「障害者自立支援法」は,そうした国民の生存権を根こそぎ破壊する象徴的で先行的な一例であり,それを全国民に対する政治の基本姿勢に高める道が,この第12条「改正」に込められているといって良い。
第四の問題点は,改憲手続きを定めた96条をかえ,その後の改憲をさらにやりやすくするというものである。現在の憲法では改憲案を国民投票にかけるためには,両院の3分の2以上の議員の賛成が必要だが,これを過半数で良いものに変えるというのである。つまり自民党は,改憲を今回の草案の内容だけでは終わらせず,二度・三度とつづけて行うことを前提している。「憲法改正草案大綱(たたき台)」には天皇を「日本国の元首」にするなど,驚くべき内容がふくまれているが,今回の改憲案は,そうしたより深刻で露骨な平和と民主主義の破壊に向かう連続した改憲を準備する役割をもつものとなっているのである。
(4)「もう一つの日本」を改憲策動との闘いの中から
このように自民党による改憲の動きは,日本を「侵略戦争の反省をせず,海外ではアメリカと共に戦争を行い,国内では国民の人権を守らぬ国」へとつくりかえようとするものである。恐ろしいことに,そのような国を安倍首相は「美しい国」と呼んではばからない。事態はきわめて深刻である。
だが,すでに広く展開されている改憲反対の取り組みは,こうした攻撃にただ身をかたくして耐えるという守勢一方のものではない。ここの理解が大切である。憲法を守る取り組みは,国民が日本国憲法の世界的にも先進的な内容を深く学び,この国がめざすべき形と方向の根本を,あらためてしっかりと確認しあうものになっている。現在の日本が憲法の理想を十分体現する社会となっていないことは明らかだが,だからこそ憲法を学ぶことは,いまある日本をより民主的で平和な国へとつくりかえる国民的な合意の土壌を広げるものとなっていく。「9条を守れ」「憲法を守れ」という取り組みは,日本社会の前進的な改革を準備する革新的で攻勢的な取り組みの意味をもつのである。
たとえば憲法前文と第9条は,戦争をしない日本づくりをすすめるとともに,世界各地の紛争を平和的に解決するための外交力の発揮,そうした角度からの国際社会への積極的な関与と貢献を日本社会に求めている。また第24条は「ジェンダー・フリー・バッシング」の逆流を許さず,職場や家庭で「両性の本質的平等」を実態化していく各種取り組みの原動力となる。第25条は障害者やホームレスを「見殺し」にする社会のあり方を転換し,首のすわらぬ赤ん坊からカラダの自由が効かなくなったお年寄りまで,すべての国民に「健康で文化的な最低限度の生活」を保障することを目指すものとなっている。
他方で,第27条は大企業等によるリストラの促進や非正規雇用の創出に歯止めをかけ,ワーキングプアを一掃し,はたらくことが必要な誰もに勤労の権利を保障していく指針となる。25条と27条の精神をあわせて理解するなら,労働時間や賃金の水準が労働者やその家族の「健康で文化的な最低限度の生活」を侵害するものであってならないことは明白である。他にも日本国憲法には,われわれがめざすべき社会の指針やヒントが無数にふくまれている。天皇家の政治利用をゆるさず,天皇は「国政に関与する権能を有しない」という第4条を厳格に守っていくこともその一つである。
このように憲法を守る取り組みは,自民党流の「美しい国」に対置される「もう一つの日本」の具体的な内容を示すものとなっている。憲法はその国が目指すべき社会の形を示すものであり,それ自体がその社会の発展方向を示す実践の指針としての意味をもつのである。
自衛隊の問題について補足しておきたい。今日の自衛隊は明らかに「戦力」の保持を否定した日本国憲法に反している。しかし,国民多数の合意にもとづき,現存する巨大な自衛隊と第9条との齟齬を解決していくには,いくつかの段階を踏む必要がある。とりわけ現瞬間に重要なことは,北東アジアの平和を積極的な外交交渉をつうじて形成していくことである。それは,安心して自衛隊を縮小・解消していくことのできる国際環境を醸成していくことにもなる。北朝鮮の「核実験」に対抗して日本もまた核兵器を保有すべきだという議論があるが,それは「戦力」保持を否定した日本国憲法に反するだけでなく,軍事衝突の危険をますます強め,国民の生命を危機にさらしていくものでしかない。なお「戦力」のない日本への接近が国民的な合意となった段階では,その時点での自衛隊の能力を,災害復旧など「戦力」以外の形で活用することの可能性も大いに議論されることとなろう。
とはいえ憲法をめぐる日本社会の現状は,この国の社会づくりの根本指針として,日本国憲法を堅持していくのか,それとも自民党流の「平和と人権が失われた国づくり」へとこれを転換していくのか,ここを最大の争点としており,日本国憲法どおりの日本をどのようにつくっていくかというその具体的な方法を争点としているわけではない。したがって「憲法を守り,9条を守る」今日の取り組みを広げるうえで,自衛隊問題についての何らかの見通しを,広範な共同の条件とする必要はどこにもない。この点を取り違えないことも重要である。
(5)危険だが基盤の弱い安倍内閣
安倍内閣については「危険だがもろい」という評価が良く行われている。その「もろさ」は,何より国民の中の支持基盤の弱さにある。根底にある問題の第一は,格差と貧困の進行に対して,安倍政権が「再チャレンジ」というごまかしの言葉を語りながらも,経済や雇用の状況転換に向けたどのような抜本策も打ち出すことができずにいるという点である。
06年の『経済財政白書』は,この国の総世帯の平均所得が99年の649万円から04年の589万円へと,5年で60万円も低下したことを指摘している。最大の原因は非正規雇用の増加であり,それによる若い世代を中心としたワーキングプアの拡大である。こうした実態を生み出した政治への批判を前に,小泉内閣も目に見える対応を余儀なくされ,3月には安倍晋三官房長官(当時)を中心に「再チャレンジ推進会議」(「多用な機会のある社会」推進会議)をつくらずにおれなくなった。小泉政権を引き継いだ安倍首相に「再チャレンジ内閣」を語らせたのは,何よりこれ以上の格差と貧困には耐えられないとする国民の不満と批判の声であった。
ただし,安倍内閣が「再チャレンジ」をスローガンとすることと,実際に国民生活の改善をすすめる政治を行うこととは別である。安倍氏は「『再チャレンジ』の狙いは,弱者を保護するということではなく,人材を眠らせない,人材を活用していく,ということ」だ(藤田勉『安倍晋三の経済政策を読む』115~116ページ),「企業のほうも,賃金が低く,人員の増減がしやすい非正規雇用を必要としている」「経済的に豊かになることが人生の目的ではないし,正規雇用されなければ不幸になるわけでもない」(『美しい国へ』225~226ページ)と述べている。そこには,国民生活の苦労に心を寄せる姿勢がまったくない。
だから,安倍流「再チャレンジ政策」は,「『勝ち組,負け組』を固定させない社会」を目指すとはいうが,「負け組」がいなくなる社会,まじめに働けば誰もが安心してくらせる社会を目指すとは決していわない。雇用政策の内実を見れば,それが目指すのは「勝ち組(正規)」と「負け組(非正規)」がクルクル入れ代わることのできる社会である。誰かが正規,誰かが非正規と,格差が「固定」されるから国民は不満をもつ。だから労働者たちの貧困化を,全員に満遍なく,なだらかに実現しようというわけである。そのようなものだからこそ大企業・財界もこれにはまったく反対しない。
こうした政策を「再チャレンジ政策」と名づけること自体が,国民だましの一策なのだが,それは安倍政権に格差と貧困を是正する意志や政策がまるでないことを証明するものである。安倍内閣はこのように小泉内閣の「負の遺産」から出発しながら,これを是正するのではなく「継承する」としかいうことのできない内閣である。それは発足当初から,国民の不満や批判をまともに受けずにおれない内閣なのである。
安倍内閣の「もろさ」の根底にある第二の問題は,その歴史認識と内外世論とのあまりに大きなズレである。
俵義文氏によれば安倍内閣18人の大臣のうち,11人は「日本会議議連」に,13人は「神道議連」に,12人は「靖国議連」に,11人は「改憲議連」に,7人は「歴史教育議連」にそれぞれ属しているという。どのグループにも属していないのは公明党の冬柴交通相,民間からの大田経財相の他,自民党ではただ一人溝田国家公安委員長がいるだけである。安倍氏はこのすべての議連に属し,それぞれで重要な役割を果たしてきた経歴をもつ。これらのことから俵氏はこの内閣を「史上まれな極右政権」とも呼んでいる(『安倍晋三の本性』85~89ページ)。
しかし,「オール靖国」ともいうべきこの内閣が,国会論戦をつうじては「慰安婦」問題を謝罪した93年の河野談話,「植民地支配と侵略」を謝罪した95年の村山談話を,政府としては継承するといわずにおれない。また10月8日の日中首脳会談で,安倍首相は次のように述べている。「日本は歴史上、アジアの人々に大きな損害と苦痛を与えた。歴史を深く反省するという基礎に立ち、平和的発展の道を堅持するというのは日本の既定政策であり、変わることはない。日本側とわたし自身は、両国関係に影響を与えている政治的困難を克服し、両国関係の正常で安定した発展を促進するという両国の共通認識にしたがい、歴史問題を適切に処理する」(人民日報日本語版,10月9日)。
これらの発言が安倍氏の旧来の主張にまったく反していることは明白である。だからこそ安倍政権に期待をかけた右派からの安倍氏に対する批判と落胆も小さくない。安倍氏自身「私が今まで述べてきたこととの関係で批判はあるだろう。その批判は甘んじて受ける」(日経新聞,10月10日,衆院予算委員会)と述べている。また「一国会議員としての発言と首相としての発言は違って当然だ。首相が考えを曲げたとか、ひよったということではない」という下村官房副長官による苦渋の弁明も登場した(北海道新聞,10月26日)。
根っからの靖国派にしてさえ,このようにいうしかないほど,首相による靖国参拝への批判は強いのである。それは国内の民主勢力や中国・韓国などアジアからの批判にとどまるものではない。本来自民党政治の最大の支え手である経済同友会などの財界団体や,アメリカ政府からさえ強い批判が繰り返されている。その財界やアメリカの動きの背後にあったのは,東アジア経済の急成長であるから,自民党政権へのこれらの批判は世界構造の巨大な変化にもとづくものだといって良い。このように安倍内閣はその発足の最初から,自らの信念というべき歴史観を封じることでしか国際社会の前に立つことのできない内閣となっている。
(6)互いの取り組みを励まし合う工夫を
「危険だがもろい」安倍内閣のもろさを露呈させる役割をはたすべきは,この国の主権者であるわれわれ自身である。05年9月の選挙では自民党が大勝したが,その後の06年春の国会は,政治が国会内の議席数だけで動かせるものではないことを証明した。国会内部の取り組みと各地の国民運動の取り組みが,政府が最重視した4つの法案──教育基本法「改正」,医療制度改革,共謀罪導入,改憲手続き法のうち,医療制度を除く3つを継続審議に追い込んだ。政治の展開は,権力者と国民との力の衝突の結果としてのみつくりだされるものであり,その闘いにふさわしい反撃の力を育てることが,国民の側には求められている。
取り組みの成長に自信をもち,そのスピードをあげるために自覚しておくべきは,大手マスコミによる国民運動黙殺の策についてである。春の国会に向けて届けられた医療制度改悪反対の署名は2000万に達している。在日米軍基地強化に反対する市長が,新たに沖縄市と岩国市に誕生した。横須賀の米軍基地反対集会には3万人が集まった。また全国の9条の会は5600を超えて増殖し,住民過半数から改憲反対署名を集めた自治体がすでに3つも誕生している(高知県土佐清水市・大月町,岩手県陸前高田市)。教育基本法「改正」に反対する集会には2万7000人が集まった。こうした運動はすでに若い世代にも広がりを見せている。05年11月に東京で行われた全国青年一揆は,そのアピールパレードを見ていた高校生に「闘う人たちをはじめて見ました。がんばってほしい」と言わしめている。このように全国には大きな運動のうねりがいくつもある。それを知らずに「自分たちは孤立している」と思い込むようであれば,それは大手マスコミによる黙殺とそれをつうじた国民運動分断の策にすでに絡めとられているということである。
これをはねかえすために大切なのは,それぞれの運動の様子をとりわけインターネットをつかって発信し,いつでも全国各地に大きく伝えていくための努力である。特に,その場の熱気を伝える画像の提供は重要である。冒頭の神戸での7500人集会など,その全容を示すたった一枚の写真でどれだけの人が元気づけられることか。07年夏の参議院選挙は,インターネット選挙解禁となる可能性も高いというが,これへの事前の準備という意味でもインターネットの活用には,急いで習熟していく必要がある。
最後に強調しておきたいのは,国民運動の成長の速度を根底で左右するのは,何よりそれを自覚的に担おうとする人間一人一人の成長の速度だということである。「毎日1時間の独習」を,ぜひ全国の労働運動・市民運動の当たり前の姿としていきたい。他人の話は3日で忘れてしまう。学習会のレジュメは1週間でなくなってしまう。だからこそ大切なのは,自分の目,手,頭をつかって,手もとに開いた自分の本を読み,線を引き,書き込みを行っていく学びである。学習の本道は,あくまで自分で学ぶ独習である。「時間がない」などの言い訳を自分にゆるさず,毎日の独習を生活に組み入れていくこと。それは日本の平和と民主主義を守り,拡充していくうえで,避けてとおることのできない取り組みの一つである。年末年始の短い休みを,大きな転機としてほしい。
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