以下は,総合社会福祉研究所『福祉のひろば』2007年2月号(2月1日発行)の48~51ページに掲載されたものです。
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侵略を反省し,平和な日本づくりの決意をあらたに
第3回・「水曜集会」に参加して
今回は,訪韓旅行の3日目に参加した「水曜集会」の様子を中心に紹介します。
〔若い頃は,おしゃれができなかったから〕
9月13日,私たちは「ナヌムの家」で朝を迎えました。周辺には,日本の郊外と何も違わないきれいな景色が広がります。この朝の自炊は,同行してくださったチーム大人の女性たちに活躍していただきました。朝の学生たちには「化粧」に時間がかかるのです。
食事の後,数名の学生と,初めてハルモニの個室にあがらせていただきました。『「慰安婦」と出会った女子大生たち』(新日本出版社)には,二人のハルモニの証言が掲載されていますが,そのお礼を直接お伝えするためです。生活の場に足を踏み入れることには,あらためて軽い緊張がありましたが,ハルモニたちはとても暖かく接してくれました。ムン・ピルギハルモニは,「体調が思わしくない」「今日の水曜集会には参加できない」ということを残念そうに語り,私たち一人一人としっかり握手をしてくれました。
イ・オクソンハルモニは,2005年12月に神戸女学院大学で証言したことを良く覚えておられ,「アナタには会ったことがある」「空港から山の奥の方へ連れて行かれた」(関西国際空港から宝塚のホテルまでですが)と,笑って話してくれました。きれいな黒の帽子とコートを着て見せて,「若い頃はおしゃれができなかった」「だから今それをしている」とも話してくれました。
〔独立への闘いを記録する公園〕
10時前には,荷物をまとめて貸し切りバスに乗り込みました。私たちのゼミはこの3年間,月曜に韓国に入り,火曜に「ナヌムの家」を訪れ,翌日「水曜集会」に参加し,木曜に韓国を発つというスケジュールを組んできました。歴史館に学び,ハルモニの証言を聞き,そのうえで「水曜集会」に参加することを重視してきたからです。ソウルまでは,1時間以上の道のりです。マイクロバスで移動する80才前後のハルモニたちには,決して楽な行動ではありません。
11時にはホテルに到着し,荷物をおいて,私たちは近くのタプコル公園へ歩きます。日本は1910年に,朝鮮人から彼らの国を奪い取ります。それから1945年まで,朝鮮は日本の植民地とされ,世界地図からその名が消し去られました。朝鮮の人たちは日本の支配者に対し,繰り返し,激しい抵抗を試みています。1919年には朝鮮全土に大きな独立運動が展開されました。
このタプコル公園は,その年の3月1日に,日本からの独立を宣言する文書が最初に読み上げられた場所なのです。入るとすぐに,宣言の全文が刻みこまれた立派な記念碑が立っています。さらに進むと,独立の願いを踏みにじる日本軍の蛮行を描いた大きなレリーフがならんでいます。チョゴリ姿の若い女性に銃を向ける日本兵。女性の長い髪を軍馬の尻尾にくくりつけ,引きずり回す日本兵。かつて日本軍がこの半島で何をしたのか,それが誰にも一目で良くわかるようになっています。
〔いよいよ水曜集会へ〕
公園から10分ほど歩くと,日本大使館前に到着です。92年1月8日から毎週行われているこの集会は,この日で713回です。水曜デモとも呼ばれていますが,いわゆるデモ行進は行いません。ハルモニたちは,台風の日にもこの日本大使館への抗議行動をつづけていますが,唯一95年1月17日の阪神淡路大震災の日だけは,自分たちで中止を決めました。たくさんの人が亡くなったことへの哀悼と鎮魂の思いがあったのでしょう。
集会は,韓国挺身隊問題対策協議会が運営します。韓国では「慰安婦」問題は「挺身隊」問題とも呼ばれています。最前列に黄色のゼッケンをつけたハルモニたちが椅子に座ってならびます。この日の参加者は全体で80名ほどで,愛知の新日本婦人の会などたくさんの日本人の顔もありました。学生たちも,緊張の面持ちで,縦1m,横5mの大きな横断幕をひろげていきます。「日本政府は謝罪せよ。正しい歴史教育を行え」とハングル文字で書いたものです。京都からの学生は「謝罪せよ」などの文字をうちわに書いて持っていました。参加者の代表が交代で前に出て,発言を行っていきます。大邱(テグ)で生活し,毎週韓国の外務省に1人で抗議を行い──日本政府にもっと強い態度で問題解決を迫ることを求めてです──,それから水曜集会にかけつけるイ・ヨンスハルモニも元気に発言されました。
〔思いのかぎりを簡潔に〕
京都の学生たちの次に,私たちのゼミの発言がありました。以下は,3人の代表による発言の全文です。
「はじめまして。私達は日本から着ました、神戸女学院大学3回生石川ゼミです。私達は毎週5時間、半年に渡り、日本の加害の歴史を学んできました。私達の中には『慰安婦』の言葉さえ知らなかったものもいます。日本の加害は教育の中で重要視されていないからです。私達は広島や長崎の原爆など、ほとんど日本の被害ばかり教えられてきました。しかし、この『慰安婦』の問題を含め、日本の加害の歴史を学ぶようになり、とても大きなショックを受けました。日本にはこの問題を知らない若者がまだまだたくさんいます。私達は大学で学び、実際にハルモニに話を聞きたいと思い、今回韓国に来ました」(Uさん)。
「私は昨日ナヌムの家に行き、歴史館を見学したり、ハルモニの証言を聞いたり、とても多くのことを吸収することができました。私たちとあまり年の変わらない時に,そういった被害を受けて苦しんでいたと考えると、とても胸がいたくなりました。私たちの前で証言して下さったカン・イルチュルハルモニは、私は被害を受けたけれども今の若い人たちには受けてほしくない、人と人の関係を大切にしたいとおっしゃってくださいました。加害国の人間である私たちに対してとてもやさしくしてくれて、私はそれを本当にうれしく思いました。日本に帰ってナヌムの家での話をいろんな人に伝えたいと思います」(Nさん)。
「今の日本は平和とは反対の道へと進んでいます。再び過去の歴史を繰り返すような国になろうとしています。次期首相に名前があがっている安部官房長官は憲法を改正し、過去の反省を消し去り、戦争のできる国にしようとしています。私たちは決してそのような国になることを望んでいません。今回韓国に来て、決して日本と韓国、日本とアジアが再び争う事はあってはいけないと強く感じました。私たちは日本へ帰ったら一刻も早く、周りの人々に呼びかけ大きな輪を作り、正しい歴史が教えられるような政府を私たちでつくります。日本と韓国、日本と世界が争いのない国に、そして本当の意味で日本が平和な国になるよう若い力で日本を変えたいと思います」(Kさん)。
「カムサハムニダ(ありがとうございます)!!」(全員で)。
〔飛躍し,成長する若い力〕
最後の「若い力で日本を変えたい」という言葉には,大きな拍手がとびました。とはいえ,実をいうと学生たちは,前夜「ナヌムの家」で発言内容を考え始めた最初から,日本の政治にこのような明快な態度をとろうとしていたわけではありません。議論は「私たちの力は小さい」「なんとか政府に協力してもらわないと」というところから始まりました。しかし「いまの政府に『協力』が期待できるのか」という問題提起から,話の中味が深まっていきます。それが最終的には「日本を変えたい」という,集会での発言に結実しました。議論のあいだ,私は男性用の部屋にいましたから,これは後で,同行した大人の女性のみなさんに,教えてもらったことでした。
若い世代というのは,集中して考え,決断することを余儀なくされる瞬間には,大きな飛躍を遂げるものだと,強く思わされる出来事でした。もちろん,いっしょに考える仲間がいることも大きな役割を果たしているのでしょう。
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