日本財界のアメリカへの従属と過度の依存
――東アジアとの連帯に日本の自立を考える――
神戸女学院大学・石川康宏
http://web.digitalway.ne.jp/users/walumono/
1,ジャーナリズムが「独立」を論じる時代のなかで
年末にカレル・V・ウォルフレンの『アメリカからの「独立」が日本人を幸福にする』(実業之日本社,2003年)を読んだ。実に,明快なタイトルである。「日本は形式的には独立しているように見えるが,実際は他国(アメリカ)に従属している」(27頁)。「日本はここ数年,構造改革と称してさまざまな市場改革を行ってきた。……日本で行われている市場改革は,アメリカを懐柔し,満足させるためのポーズにすぎず,本物の改革ではない」(96頁)。「構造改革の行方は暗い」(102頁)。「こうした状況を変えていくには,まず真の政府をつくる必要がある」(33頁)。憲法9条に対する評価など問題点もあるが(118頁),しかし,アメリカに対する日本の従属という事実の把握や,そこからの脱却の必要が説かれる論旨には,ほとんど違和感がない。こうした著作の出現は,自衛隊イラク派兵問題を大きなきっかけに,ジャーナリズムの世界においても,日本の「独立」がひとつの話題にならずにおれなくなっている,そういう時代の状況を教えているといえる。
以下では,問題の焦点を経済にしぼり,日本財界の対米従属と依存の問題を,占領期における財界の復活,ドル支配とアメリカ市場への過度の依存,日本市場に対するアメリカの介入,財界の現時点での対米戦略,過度の依存からの脱却の道といった点にそって考えてみたい。粗っぽいスケッチにとどまらざるをえないところが多いが,ご了承願いたい。
2,アメリカの戦略としての財界の「復活」
『経団連の10年』(経済団体連合会,1956年)に,財界人が戦後の「思い出を語る」という座談会がある。「大づかみに敗戦後数年間の記憶を辿ってみますと敗戦,直後……今考えると非常にバカげたような措置が,つぎつぎに実施された」「その後24年(1949年――石川)になってからは,占領政策の転換とともに,ドッジ・ラインによる安定措置が実施され……予想外の復興をみるに至った」(佐藤喜一郎・経団連副会長,163頁)。学校教育の現場には,「占領」の事実さえ教えられないところもあるようだが,敗戦後の日本には,連合国を代表した占領軍(事実上はアメリカ軍)による1945年から52年までの足かけ8年に渡る軍事占領(間接統治)の時代があった。佐藤氏の語る「占領政策」とは,その占領軍が行った対日統治と改革の政策のことである。つづいて石川一郎・経団連初代会長が,佐藤氏のいう「バカげたような措置」のとられた時期を,次のように解説している。「軍国主義的ではない,ほんとうの意味での民主国にし,しかもなお,富んだ国でないようにしようというのが,当初の占領政策の基本であった」(166頁)。あわせてみれば,経団連首脳は,そういう平和・民主の国づくりを「バカげたような」と否定しているわけである。彼らの平和・民主嫌いは今に始まったことではない。
この「占領政策の転換」を,占領した当事者であるアメリカの側からも見ておこう。これについては,津田達夫『財界』(学習の友社,1990年)が詳しい。日本の戦後賠償問題を調査した1945年のポーレー報告は「財閥は日本の軍国主義に対して軍国主義者自体とおなじく責任があるのみでなく,彼らは軍国主義によって巨利を博した」と語っている。ここにいう財閥とは,同族支配という特徴をもった当時の巨大な企業集団のことである。したがって「財閥が解体されぬかぎり日本人が自由人としてみずからを統治しうる望みはほとんどない」,財閥は「日本における最大の戦争潜在力である」とポーレー報告は断定する。しかし,アメリカの対日占領政策は変化する。世界支配への野望を語ったトルーマン・ドクトリンが47年2月に発せられ,また中国における政治改革の動きを懸念し,48年1月にはロイヤル陸軍長官が,日本をアメリカによるアジア支配の拠点として位置づけなおすことを表明する。さらにロイヤル演説は,アメリカのアジア支配にそった財閥の活用という方針を示す。「財閥解体や産業の集中排除をあまり極端にすすめると,日本の戦争遂行能力をそれだけ弱めることになる」「軍事的,工業的に日本の戦争機構をつくりあげ動かしたものたちは,産業界で成功した指導者であったこともしばしばだった。彼らは日本の経済復興にたいしても大きく貢献することになろう」。こうしてアメリカは財閥を「解体」の対象から,活用の対象へととらえなおしていく。
このような政策転換を受け,日本の企業集団およびその代表者からなる日本財界は急速に活気を取り戻す。戦争推進者・協力者に対するアメリカの「財界パージ」を恐れ,1946年の設立総会で正副会長を空席にせざるを得なかった経団連は,48年3月に初代会長・石川一郎を選出する。同じ時期に,日経連は「経営者よ正しく強かれ」と戦闘的な総会宣言を採択し,また経済同友会も46年創立当初の「修正資本主義」路線を急速に転換していく。48年12月には占領軍から極東委員会に対して財閥解体措置停止の通告が発せられる。その後の事態の転換は急速である。50年の朝鮮戦争時には占領軍の指示により警察予備隊が創設され(これが54年に自衛隊となる),52年の占領終了と引き換えに日米安保条約が発効する。安保体制の確立により莫大な米軍基地が日本に残され,さらに60年の現行新安保条約が米軍と自衛隊との共同作戦を義務づける。こうして,きわめて短期間のうちに,今日にいたる「アメリカいいなり日本」の原型が形成される。全面占領の時代が終わり,安保とともに「半占領」の時代が始まった52年,戦前財閥の最高幹部,三井本社の向井忠晴相談役,三菱銀行の加藤武男会長,住友本社の古田俊之助総理事(肩書は43年)等が,吉田自由党内閣の「経済最高顧問」に就任する。わずか7年前に同じアメリカによって「最大の戦争潜在力」と指弾された彼らが,「独立」した日本経済の「最高顧問」となってこの国の「戦後」は始まったのである。
「日本の財界は,"不死鳥のように",つまり伝説にいう霊鳥のようにみずからの力で蘇生したのではなかった。日本財界の復活は日本がまだ占領下にあった時期に,アメリカの支配者たちがアジア極東戦略の一環として布石した大がかりな事業だったのである」「戦後史の事実は,それが財界復活の最大の動機だったことを示している」1)。「もっとも重要な戦略的目標についてはもっぱらアメリカの指示」に従う,国際的にも特異な支配層はこのようにして成立した2)。
1) 津田達夫『財界――日本の支配者たち』学習の友社,1990年,86頁。
2) 上田耕一郎『戦争・憲法と常備軍』大月書店,2001年。上田氏は政官財からなる日本の支配層を次のように特徴づけている。「独自の戦略的な政治的,経済的決定を下し,その遂行に政治責任をもつという,普通の主権国家の支配層が当然蓄積してきた経験を歴史的に欠いた」「外交,政治,経済のもっとも重要な戦略的目標についてはもっぱらアメリカの指示」に従う支配層(155~6頁)。
3,従属と依存のからみあった展開
見てきたように,戦後日本の財界はアメリカによるアジア支配の拠点として,アメリカの意図に適う限りで「復活」を許された。その対日支配の核心は軍事的な支配にある。しかし,その後の経済をめぐるアメリカの対日介入と日本側の「アメリカいいなり」ぶりは,すべてが単純に権力的な支配・従属に還元されるものではない。そこにはアメリカ経済に対する財界の過度の依存が,アメリカによっていわば「経済的な人質」として利用されるという現実がある。権力的な従属と,経済的な依存は同じものではない。「鎖国経済」ででもない限り,世界の各国は多かれ少なかれ互いに経済的な依存関係を形成している。原材料の輸入や商品の輸出もその一例だが,それはいつでもどこでも権力的な支配・従属と結びついているわけではない。二国間の権力的な支配・従属の関係が重なるときに初めて,経済的な依存はその支配のための「手段」という位置づけを得る。「原材料を売ってやっているのだから」「商品を買ってやっているのだから」という具合にである。
戦後の日米関係におけるそのひとつの典型は,アメリカの対日ドル支配に始まる,従属と依存の一連の展開である。第2次大戦後,世界経済に圧倒的に優位な地位を占めたアメリカは,巨大な生産力に見合った販路を求めて,世界貿易の自由化を推進する。貿易の決済に必要な為替の安定と「ドル特権」の獲得に向け,アメリカはドルを「金1オンス=35ドル」で金にリンクし,さらにドルと各国通貨の交換比率(為替相場)を固定していく。このルールについての国際合意をとりまとめたのがIMF協定である。これによりドルは国際決済手段の地位を獲得し,これによって世界で唯一アメリカのみが,国内通貨ドルの増刷をもって,世界各国への支払いを行いうる力を得た。これがいわゆる「ドル特権」である。日本も初めは占領軍の命令により,52年からはIMFへの加盟により「1ドル=360円」という固定相場に組み込まれていく。
爆撃で生産設備を破壊され,原材料供給源としての植民地を失った日本が,IMF協定にもとづく国際経済体制に参加するということは,大量のドルの恒常的な入手が不可避になるということである。財界による戦後の経済復興は生産設備と原材料の輸入を不可避としたが,その支払いは常にドルによって行われねばならなかったからである。したがって,戦後日本の経済成長は,輸入代金としてのドルを手に入れるための対米輸出を至上命題として行われる。日本財界による過度のアメリカ市場への依存関係は,こうしてつくられた。その後,65年になり日本は最終的に「ドル不足」から脱却する。ドルの大量保有時代へのスタートである。しかし,ベトナム戦争で急進したアメリカの「ドルばらまき」は,すでに「ドル危機」を招いていた。67年にはアメリカの金保有高を,海外通貨当局の短期ドル債務が上まわり,この瞬間に,アメリカによる「金1オンス=35ドル」での交換は事実上不可能となった。IMF体制は根幹を揺るがされていたのである。アメリカの「ドル防衛」政策に協力し,莫大なドルを金との交換なしに保有していた日本は,71年の「ニクソン・ショック」(金ドル交換停止声明)とその後の変動相場制への移行により,巨額の損失を被ることになる。その後のドル価値の下落により,360円の価値をもつはずだったドル紙幣は,300円に,250円にとその価値を短期間に引き下げていった3)。
目を今日に転じてみよう。まず,最新の内閣府『経済財政白書』(国立印刷局,2003年)が,成長率の推移に「外需の寄与度が高い」(6頁)と述べ,「貿易相手地域のなかでも,特にアメリカ経済の景気動向は重要である」(9頁)とし,「景気の将来展望」においても第一に「輸出の増加」「アメリカにおける実質成長率の高まり」(83頁)に期待をかけるとしているように,日本の地域別輸出相手国としては,依然としてアメリカが突出した地位を占めている。28.5%というその比率は,中国の9.6%の3倍である4)。しかも,今日の日本財界の中枢を占める自動車・電機産業でこそ,対米輸出依存度はきわめて高くなっている。日本経団連会長・奥田碩氏の出身母体であるトヨタ自動車は,総売上の65%を海外に依存し,さらにその半分以上を北米市場に依存している5)。くわえて自動車産業は海外生産の48%(01年)を北米で行っている。主要産業における輸出と現地生産両面でのアメリカ市場依存はきわめて深く,ここからアメリカの景気を支えることと,輸出抑制要因となる円高ドル安に対する財界の強い関心が生まれてくる6)。
03年8月にはアメリカの上院議員8名が,日本の為替操作を問題視する書簡をアメリカ財務省に届けている。「日本が為替市場で大規模な介入を継続しており,米自動車業界に深刻な打撃を与えている」「(為替操作は)主要輸出製品への事実上の補助金」であると日本政府を批判するものである7)。実際,政府・日銀による円売り・ドル買いの市場介入は91年の統計公表以後最大規模に達しており,9月時点で総額は13兆円に達している8)。それが円高を抑制し,日本の輸出大企業の利益を守るものであるのは間違いない。
しかし,問題はそこにとどまらない。そうして得られたドル資産はアメリカの国債購入に向けられ,史上最大の軍拡予算のもとで財政赤字を拡大するブッシュ政権への事実上の財政支援となっている。03年5月末での日本の外貨準備高は5431億ドルで,そのうち4418億ドルが外貨証券として運用され,その数字はアメリカ側が公表した日本の政府・民間合計での米国債保有高4286億ドルにほぼ合致する。また,アメリカを除く米国債の保有高で日本は33%と,2位中国・イギリスの9%を遠く引き離している9)。円高は日本財界にとって効果の高い「脅し」の武器である。そこで,ブッシュ政権は意図的に円高圧力を日本に加え,これによって日本からの財政支援を勝ち取り,同時に国内向けにはアメリカ産業擁護の姿勢を示して大統領選挙への追い風とする。これくらいのことが考えられていてもまったく不思議ではない。そして,何より深刻なのは,このブッシュ政権の策に乗り,円高回避のドル買いを行うことが,財界中枢を占める輸出大企業の利益に合致している現実である。最後に,大量のドル買いはドル暴落を防ぐことでアメリカの「ドル特権」を維持する役割をもち,その保有量を増やすことは,ますますドル価値の維持に向けた運命共同を深めることにもなる10)。この道は,果てしなきぬかるみである。
3) 戦後アメリカによる「ドル支配」体制の確立と金融・通貨における日米関係の展開については,大槻久志『「金融恐慌」とビッグバン』(新日本出版社,1998年),今宮謙二『国際金融の歴史』(新日本出版社,1992年)が大変に参考になる。
4)「しんぶん赤旗」2003年7月11日付。「シリーズ『経済再生』の条件/国際収支の動き/垣間見える経済構造変化」。
5)「しんぶん赤旗」2003年5月30日付。「自動車大手/大幅増益の要因は?」。2003年6月17日付。「シリーズ『経済再生』の条件/深まる米国依存/経済主権を守ることこそ」。
6) 240万円のクルマがアメリカへ輸出されたとき,円ドル相場が「1ドル=240円」であれば,その価格は1万ドルとなる。しかし,相場が「1ドル=120円」に変化すると,同じ240万円が2万ドルへと跳ね上がる。価格が2倍になれば売れ行きは落ち,輸出は減る。そこで輸出産業は円高回避を願うことになる。なお,例えば「1ドル=240円」が「1ドル=120円」になるように,円の数字が小さくなる方向への相場の変化を円高ドル安という。以前より少ない円で以前と同じ1ドルとの交換が可能になることは,1円あたりの円の価値が上昇していることを示すからである。
7)「しんぶん赤旗」2003年8月7日付。「日本の為替操作断定を/米上院議員/財務長官に要請」。
8)「しんぶん赤旗」2003年8月8日付。「円売り過去最大4.6兆円/政府・日銀/4-6月期の為替介入」。「しんぶん赤旗・日曜版」2003年10月19日付。「経済これって何?/日銀の市場介入/空前の日米共同作戦」。
9)「しんぶん赤旗」2003年7月26日付。「米国債/日本はどれだけ買っているか/購入急増,米財政支える」。
10) 吉川元忠『マネー敗戦』(文春新書,1998年)は,日本の米国債購入総額が76年の1億9700万ドルから86年には1380億ドルに増加したことを指摘して(46頁),「ドルが暴落すれば,それまでに投資され,ドルに姿を変えたジャパン・マネーはさらに大幅に減価する。そうならないようにと,ドル債権投資をつづけることが,唯一の方策となってしまった。一蓮托生,ドルと運命をともにする」(87頁),日本の金融政策は「ドルを支え続ける以外に独自のマネー戦略を持たない」という(91頁)。今日,米国債購入額はここに紹介された当時の3倍を超えている。
4,日本市場への支配と介入の諸政策
次に,アメリカによる日本市場への直接的な支配と介入の政策を見ておきたい。アメリカの対日経済政策は日本経済の育成・活用にとどまらず,日本市場への資本進出による直接的な経済支配をすすめるものでもあり,それに必要な市場整備を求めるものでもあった。
1949年4月,アメリカ陸軍省顧問でもあったノーエル石油調査団報告は,次のように述べた。「太平洋岸製油所を解放することは日本を基地とするアメリカ軍の石油供給を保証し,その意味で対共産戦略上重要である」。これを受けて7月には占領軍が太平洋岸製油所の再開を許可し,11月には千トン級タンカーの建造許可,12月には同製油所の操業開始と日本による原油輸入を許可していく。軍事拠点としての日本の位置づけからした石油産業の重視である。他方で,48年5月のジョンストン報告は「(日本には)外国の個人投資にたいする各種の障害が残っており,これを除かなければ投資の相当な流入を期待できるようにはならない」と述べていた。この障害を取り除くため,49年1月には占領軍が「日本における外国人の事業活動に関する件」での通告を行い,日本政府が50年5月には「外資に関する法律」を施行する。この2つの流れが合流し,スタンダード・バキューム,カルテックス,タイドウォーター,シェルなどアメリカを中心とする当時の大手石油資本が続々と日本に上陸することになる。それは日本を舞台としたアメリカ軍産複合体の活動展開であり,また産業エネルギーの供給基地として,その後の日本における石油市場支配の土台をつくるものでもあった11)。
その後の歴史で,今日につながる対日市場介入の大きな転機となるのは,70年代後半の「内需主導型」経済構造への転換要求である。以後,これは小泉内閣にまでつながる,日本政財界の長期的対米公約となる。世界的な高度成長が完全に終焉し,当時,戦後最大といわれた74・75年の世界同時不況の後,76年のIMFジャマイカ総会で変動相場制への移行が公的に確認された。これによって,かつての固定相場制は過去のものとなる。それにアメリカ大企業の海外進出(資本流出)が重なり,再び急速なドル安が始まる。そこで,これへの対応策としてアメリカが持ち出したのが「日独機関車」論である。アメリカの景気抑制を回避しながら,国際収支の改善をめざすには,黒字国である日本とドイツが対米輸出を抑制し,内需主導型で世界経済を牽引するしかない。77年ロンドン,78年ボンと2度のサミットでアメリカがこれを主張し,福田内閣は内需主導による7%成長をアメリカに公約し,ドイツもまたGNP比1%以上の内需拡大を約束する。半年後の第二次石油ショックによって「機関車」論は破綻する。しかし「内需主導型」への転換公約が日本経済に与えた影響は甚大であった12)。78年度の当初予算で公共事業費は前年比34.5%増という驚異的な伸びを示し,実質国債依存度は小泉内閣なみの38.8%と飛躍する。財界は「内需」を無条件に大型公共事業へと直結させ,79年にはJAPIC(日本プロジェクト産業協議会)を結成した。ここから世界にもまれな「無駄と環境破壊のゼネコン国家」が生まれる13)。
85年9月のプラザ合意でアメリカはそれまでのドル高戦略を転換し,「秩序あるドル安」への誘導によりドル暴落を避け,また日本の輸出拡大に歯止めをかけて,ドルの対外流出を抑制しようとした。当然,日本には「内需主導型」への一層急速な転換が求められる。10月には中曽根内閣の経済対策閣僚会議が,公共事業推進策として「民活政策」を本格的に打ち出し,86年には「前川レポート」(「国際協調のための経済構造研究会」報告)が「輸出指向型経済構造」から「内需主導型の経済成長」への転換を宣言する。さらにプラザ合意時の日本の予想をはるかに上回る急速な円高に歯止めをかけようと,87年6月には6兆円の公共投資を追加する「緊急経済対策」を示す。この瞬間から93年の50兆円突破まで,日本の公共事業費は一直線に拡大していく。いわゆる「逆立ち財政」は,このように「内需主導型」へのアメリカの強力な転換圧力を背景につくられた。その後,89年から90年にかけての「日米構造障壁協議」は日本の公共事業の拡大を中心に行われ,「非自民」を売り物にした細川内閣も,94年2月には7兆3000億円の公共事業をふくむ「総合経済対策」を行っていく。93年12月の「平岩レポート」(経済改革研究会報告)もまた「内需型経済構造」への転換をテーマとしていた。
80年代終わりから90年代初頭にかけては,アメリカが「ソ連崩壊後」の軍事・経済戦略を模索し,打ち出す時期でもある。「ならず者国家論」「国連を活用するが従わない」「経済軍事一体型のアメリカン・グローバリズム」等。日本に対しては「安保再定義」などの軍事的支配の強化とともに,それまで以上に強力な経済介入が進められる。80年代半ばからの規制緩和・市場開放は「内需主導型」への転換と一体の要求だったが,90年代には特にアメリカ資本の対日進出に必要な条件整備の色彩が強まる。「日米構造障壁協議」での6分野240項目に及ぶアメリカの要求は,日本政府関係者をして「アメリカの第二の占領政策」と言わしめるほどの内容だった14)。日経連「新時代の『日本的経営』」に象徴される労働法制改悪も,93~95年の東京,ナポリ,ハリファックスという3度のサミットでアメリカが主張した「総額人件費削減」「労働力流動化」合意にもとづくものである15)。それは日本に進出するアメリカ資本の利益拡大策であり,同時にこれを「外圧」として活用する日本財界の利益拡大策でもあった。
2001年の小泉・ブッシュ会談による「成長のための日米経済パートナーシップ」を受け,02年の「日米投資イニシアティブ報告書」は「海外からの直接投資は,日本経済の再生にとって不可欠な要素となっている」「日本の制度改革の前進の結果,今や日本は,投資家にとって障壁はかなり除去されている」と評価した16)。不良債権処理を急がせ「産業再生機構」を使い,これをアメリカ資本に売却せよとの要求は,対日投資の拡大をはかるひとつの重要な経路である。03年1月には小泉首相が施政方針演説で今後5年間での対日直接投資の倍増を宣言し,3月には対日投資会議がその具体策を発表する17)。11月の日米財界人会議はこの計画の実行を強く求めた18)。「構造改革特区」にも医療への株式会社参入などアメリカ資本の要求は強い19)。こうして,ブッシュに尾を振る小泉内閣のもと,アメリカ資本による対日参入の条件は急速に整備されている20)。
すでに日本に進出したアメリカ資本は,早くも政府審議会に深く食い込み,外資本位の政治運営に力を注いでいる。この状況を前に,ある外資系アナリストは「近年,外資の人たちは,自民党や官僚の政策決定に多く入り込んで,日常的な政策決定に深く関与している」と語っている21)。また,03年の円高阻止のために売却された円が,海外投資家による日本株投資の急増につながり,03年上半期だけで6兆8523億円の取得超過となっている22)。株価の上下に対する海外投資家の影響力は,当然,日本の企業経営に対する影響力へとつながり,リストラ横行のアメリカ型企業経営の促進にもつながっていく。こうした事態に,03年7月のイラク特措法採択で野中広務氏とともに議場を退席した自民党元幹事長の古賀誠氏が,駐日アメリカ大使の圧力によって発言をトーンダウンさせられたといった政治レベルの話を重ねるなら,「第二の占領」は決して大げさな表現ではない23)。
11) 前掲・津田達夫『財界』69-73頁。
12 横田綏子「第7章・変動相場制下のドルとアメリカの外国為替政策」(横田茂編『アメリカ経済を学ぶ人のために』世界思想社,1997年),257~258頁。
13) 戦後日本の公共事業の歴史については,大野隆男『公共投資改革論』(新日本出版社,2000年)を参考にした。
14) NHK取材班『ドキュメント構造協議・日米の衝突』(日本放送出版協会,1990年)100頁。同書には「マッカーサー以来の日本改造」という表現もある(110頁)。
15) 一ノ瀬秀文『世界と日本をどうみるか』(新日本出版社,1997年)65~70頁。
16) ドナルド・P・ケナック在日米国商工会議所会頭も「日本に新たな機会を見出す外資系企業」(日本経団連『経済Trend』2002年12月号)で「ここ数年の重要な改革により,外資系企業はこれまでになる日本で投資をし成長することが可能になった」と述べ,その「改革」の内容に労働,金融サービス,大店法等をあげている(37頁)。
17)「しんぶん赤旗」2003年3月28日付。「日本企業のM&A容易に/対日投資会議/法整備74項目を決定」。
18)「しんぶん赤旗」2003年11月5日付。「『双子の赤字』米に懸念表明/財界人会議が閉幕」。
19)「しんぶん赤旗」2003年4月16日付。「経済・財界気流/対日直接投資/5年で倍増目指す小泉政権/米側は『称賛』するが……」。
20)「骨太の方針2003年度版」も「日本経済の体質を強化し,内需主導の自立的回復を実現するという依然大きな課題を残している」と述べており,今日の小泉内閣にも「内需主導」型への転換方針は貫かれている。
21)「しんぶん赤旗」2003年11月13日付。「03年度上半期/外国人の日本株買い/過去最高の6兆8523億円」。
22)「しんぶん赤旗」2003年1月8日。「日本の政府審議会に外資が進出/米投資銀の代表などズラリ」。大門参院議員のこの調査によれば,外資系企業の主な審議会への参加は,財務省3名,経済産業省6名など,計15名となっている。
23)「しんぶん赤旗」2003年8月25日付。「03年夏・自民党の風景/星条旗に包まれる政治(3)/カリーリングリストの効用」。
5,「奥田ビジョン」はなぜ金融市場を語らないのか
ところで,03年1月の「奥田ビジョン」には,対米関係,「ゼネコン国家」,金融市場,この日本経済の現在と今後にとってきわめて大切な3つの問題の検討がない。奥田碩『人間を幸福にする経済』(PHP新書,2003年)についても同じである。とはいえ,日米関係への沈黙は何も不思議なことではない。アメリカに付き従うことを唯一の「戦略」とする日本の支配層にとって,それはむしろ「面目躍如」といえるだろう。
奥田氏の著作に公共事業費の削減が描かれるのは「国の公共投資については,バブル期以前の水準までもどします」というたった1行だけである(130頁)。他方で「人々の満足度を高める都市と居住環境」と題した都市再生問題には10頁があてられており,バブル以前の水準云々もどこまで本気なのかは疑わしい。都市再生については「新しい家具や家電製品,自動車などの個人消費の拡大も期待できる」と,わざわざクルマの売れ行きにまでふれている(110頁)。確かに,今日の財界中枢には自動車・電機などの輸出産業(多国籍企業)がすわっている。しかし,2004年度予算案,「社会資本整備長期計画」,道路公団民営化案のいずれを見ても,無駄と環境破壊の大型公共事業は継続するのが現実である。支配層の全体を見れば「ゼネコン関連の政財官勢力」は依然として大きな力をもち,小泉内閣がこの側面をも含んだ自民党政治の全体を「構造改革」の名で合理化している点に注意がいる。「アーミテージ報告」(2000年)も「財政赤字増大という問題はあるが,日本政府は将来の成長を促進する見込みのある分野に重点を置くべきである」と財政支出の継続を求めている。「奥田ビジョン」が「ゼネコン予算の縮小」をつねに逃げ腰でしか語ることができず,財政再建をもっぱら社会保障切り捨てと庶民増税にかける他ない姿勢は,こうした力関係の反映であろう。
金融市場をめぐる問題は,アメリカの対日介入と密接にかかわっている。第2・第3の「新生銀行」を求めるアメリカ金融業界の要請を受け,2002年9月の内閣改造で金融大臣は柳沢氏から竹中氏へと交代する。その翌月にはアメリカ流の会計規準を盛り込む「竹中プログラム」が直ちに示され,このルール変更が日本の金融業界の危機を深める。生き残りのために,大手金融グループは中小企業への貸し渋り,貸しはがしをすすめ,最後にはアメリカ投資銀行の出資を受けることになる。2003年10月で三井住友グループの筆頭株主はアメリカのフィディリティ投信(5.16%),UFJグループについてもアメリカのゴールドマン・サックスとなっている(5.2%)24)。また,新ルールに耐えられなかった「りそな」は,2003年5月に「実質国有化」の憂き目をみる。注目されるのはその売却先が,かつての長銀のようにアメリカ資本となり,第2の「新生銀行」が実際にこの国に生まれるのかどうかである。
こうした金融市場「明け渡し」劇の直接のきっかけは,96年11月に始まる「金融ビッグバン」である。それは95年の日米金融サービス協定にもとづくものだと,植田信『ワシントンの陰謀』(洋泉社,2002年)は述べている。97年11月,サマーズ財務次官はこう語った。「この協定のもとに,目下,橋本首相が〈金融ビッグバン〉をおこなおうとしている」「これは日本経済に構造改革を促す」「これが成功し,健全な金融システムが構築されれば,日本は内需主導の経済になり,さらなる経済成長が見込めるだろう」(158頁)。植田氏はこれは「密約」であったとし,高橋靖夫氏もそれを裏付ける事実を紹介している25)。さらに注目されるのは,この合意が95年4月17日の1ドル79円をピークとした,アメリカによる円高圧力の成果だという推論である。ドル高への反転を求めた「逆プラザ合意」(4月25日)については,クリントンの再選戦略であるという指摘,それがヘッジファンドの莫大な利益につながったという指摘,また日本からアメリカへの資本移動の拡大策であるとの指摘などがある。しかし,あわせて植田氏がいうように円高圧力の緩和と引き換えにこれが合意されたとすれば,対米輸出産業を中心にもつ今日の財界中枢部がなぜこれほどにまで,金融業界の窮境に冷淡でいられるか,金融の「グローバル化」になぜこれほどまでに積極的であるかのひとつの筋のとおった理由付けにはなるものと思う26)。
24)「しんぶん赤旗」2003年10月17日付。「三井住友FG/米投信が筆頭株主に/株式保有報告書で判明」。「UFJ株式を5.2%保有/米GS」。
25)高橋靖夫「金融ビッグバンにおける日米合意――ルービン・栗山合意文書(1995年)の分析」(経済理論学会第51回大会報告要旨,2003年)。同氏は文書の署名が95年2月13日であること,96年の大蔵省国際金融局年報に協定への言及がないこと,高橋氏が入手ののち文書がアメリカン・センターのファイルからも消えていることなどを指摘し,また文書が規制緩和の内容の筆頭に「資産運用」をあげていることを明らかにしている。
26)90年代の円ドル相場は,年平均で90年の「1ドル=144.79円」から95年の「94.06円」まで一直線に円高となり,以後,反転して98年には「130.91円」へと下落する。この反転を方向づけた95年4月のG7蔵相会議は,かつて円高への転換を方向づけた85年の「プラザ合意」との対比で「逆プラザ合意」と呼ばれた。
6,アメリカ市場への過度の依存から東アジアでの連帯と共同の道へ
すでに紙数は尽きた。石油などエネルギー依存の問題,食糧依存の問題。また逆に日本大企業の海外進出の問題など,本来検討されるべき課題は多い。しかし,この限られた検討の範囲からでも,アメリカへの政治的・軍事的従属からの自立とともに,アメリカへの深すぎる経済的依存からの脱却が重大課題であることはわかってもらえるものと思う。
これに関連して検討すべき先例にEUがある。アメリカ市場への依存度を引き下げ,通貨統一によって為替をめぐる域内対立の条件を取り除き,あわせてドルに伍しうる強い通貨をもつ。そのEU各国の努力と到達点への自信が,イラク問題に象徴される今日のアメリカ離れを可能とさせる力になっている。また,そうしてつくられる「連帯」を重視したヨーロッパ型資本主義は,日本に「ルールある資本主義」をつくるうえでも多くの検討材料をもつ。福島清彦『ヨーロッパ型資本主義』(講談社現代新書,2002年)は「ヨーロッパのアメリカに対する批判は,結局,アメリカの市場原理主義批判と一国覇権主義批判」だ(58頁)とまとめている27)。
日本もまた,ASEAN諸国のよびかけにこたえ,東アジアとの経済的相互依存を深め,アメリカに対する過度の依存を抜け出すことが必要である。すでにアジアには自主的な経済関係の発展がある。その動きの中心がASEAN(東南アジア諸国連合)である。1976年には「経済協力推進による域内の強靱性強化」をかかげ,92年には域内関税の引き下げなどによる「ASEAN自由貿易地域」の創設を決める。その後,93年から2000年までに域内貿易額は4倍となり,域外との貿易の4倍に達した実績もある。97年には「ASEAN+3(韓国・中国・日本)」が呼びかけられ,2003年には中国とASEANが2010年から自由貿易協定(FTA)をスタートさせることで合意する。韓国もすでに「ASEANとの関係を21世紀の包括的パートナーシップに発展」させると表明している。2003年8月の第1回東アジア会議(ASEAN+3)で,マレーシアのマハティール首相は「共通かつ協同の平和と繁栄の東アジア共同体」を強くよびかけた。
この大きなアジアの流れのなかで,日本は惨めな孤立を深めている。90年にマハティール首相が提唱した東アジア経済協議体に「アジアだけのフォーラムは日米同盟をないがしろにする」と参加を拒否,99年の「ASEAN+3」でもアメリカ抜きで安全保障問題に踏み込むことはできないと述べ,2003年10月の「ASEAN+3」では東南アジア友好協力条約(TAC)への加入を拒否した。その後,国際的な批判のなかで11月には加入を表明するが,自主性のないぶざまな態度に変わりはない28)。
マレーシア戦略国際問題研究所のノルディン・ソピー会長はこう述べている。「ASEAN諸国はとても速く前に進んでいるので,日本には,遅れずについてきてほしい」「日米安保条約が日本にとって重要だということはわかります。しかし,同時に日本は,ほかのことを独立して行うこともできるのです」「それが,主権国家の権利なのですから」29)。アジアにおける連帯と共同の道を大きく開くこと,そこに外交の進路を大きく転換すること。これは現代の日本国民が抱えるきわめて重大な課題である。そして,それはアメリカとのあいだに対等・平等の経済関係を開いていく道でもある。
27) 福島氏は,2000年12月のEU首脳会議から,ヨーロッパがめざす「社会モデル」の内容を次の6点にまとめている。「1)よい雇用をもっと創出する,2)雇用の弾力性と安定性の間の新しいバランスを定める,3)貧困と差別をなくし,社会の包容力を高める,4)社会的保護の近代化,5)男女平等,6)EU加盟国の拡大およびEUの対外関係において社会政策を重視する」(65頁)。
28)「しんぶん赤旗」2003年11月8日~11月20日付。連載「アジア/平和への流れと日本」。
29)「しんぶん赤旗」2003年11月20日付。「アジアの識者は語る/マレーシア戦略国際問題研究所ノルディン・ソピー会長/日本はもっと独立した行動を/東アジア共同体創設へ歩み出す各国」。
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