世界情勢の発展と「帝国主義」
――レーニンの時代と現代――
神戸女学院大学・石川康宏
http://web.digitalway.ne.jp/users/walumono/
はじめに
帝国主義は資本主義の独占段階に固有のものではない。一般にそれは他国への侵略や植民地支配という意味をもつ。たとえば,グザヴィエ・ヤコノ『フランス植民地帝国の歴史』は,その全過程を1533年から1830年までの3世紀にわたる植民地経験,1830年から1930年の帝国主義と植民地革命の1世紀,1930年から1962年の30年間の抗争という3つの段階にわけている1)。侵略と植民地支配としての帝国主義の歴史は,レーニンがいうようにさらに古代にまで遡ることが可能である。また,帝国主義の用語法については,今日のような意味では1878年のイギリスにおける政争での使用が初めてだという指摘がある。当時の自由党が保守党の対ロシア強行外交と国内の「排外的愛国主義」を批判した際に,それを表現するものとして帝国主義の用語が使われたという。さらに,これは政敵を非難する政治闘争の用語として誕生しただけでなく,第2次大戦後の米ソが互いを帝国主義と呼んだように,学問の用語としての定着をみた後にも政治的な批判の意味をふくんだ用語でありつづけている2)。
私も帝国主義については,いくつかの論文を書いてきた。それらの論文の主たる問題意識は,「全般的危機」論とは異なるレーニンの独占資本主義理解の方法と内容を考えようとするところにあった3)。それは積極的な意味をもったと思う。しかし,いま読み返してみると,帝国主義と独占資本主義の関連という問題については,小さくない制約が目につく。それは,レーニンの帝国主義論をもっぱら独占資本主義の経済理論として読み,さらに独占資本主義をもっぱら一国資本主義の体制として論じているという問題である。そこには,帝国主義と独占資本主義との区別を問うという視角が希薄であり,また帝国主義戦争が不可避となった世界史段階という,レーニンが立ち向かった帝国主義の歴史的特質についての自覚が希薄であった。この問題にあらためて目を向けるきっかけとなったのは,一国帝国主義の判定基準を独占資本主義という経済の発展段階に解消せず,その国の政策と行動に侵略性が体系的に現れている場合にのみそれを帝国主義と呼ぶ,という最近の日本共産党の議論である4)。以下では,今後,私自身がこの理論的制約を乗り越える上で,私なりに考えていかねばならないと思ういくつかの問題を論じてみることにしたい。
1) グザヴィエ・ヤコノ『フランス植民地帝国の歴史』(白水社,1998年)10頁。
2) 木谷勤『帝国主義と世界の一体化』(山川出版社,1997年)6頁。シュンペーターも帝国主義を,他民族への暴力的な征服・膨張の政策や植民地支配という形で理解していたという(11頁)。
3)本誌に掲載されたものとしては「『死滅しつつある資本主義』と社会変革」(『経済』1997年6月号)がある。
4)その議論の到達点は,2004年1月に改訂された同党の新綱領に反映された。『前衛』2004年4月臨時増刊号を参照のこと。
1,レーニンの一国帝国主義論と世界情勢論
主要な資本主義国のすべてが植民地の獲得と拡張に奔走し,さらに19世紀末時点での世界の領土的分割の完了が,大国同士による植民地再分割を目的とした帝国主義戦争を不可避とする。レーニンが分析し,「帝国主義とは資本主義の独占段階である」という定義を与えたのは,帝国主義と植民地政策のそのような特殊な歴史的段階についてであった。『帝国主義論』(1916年7月まで)は,主としてそうした資本主義(人類史)の世界史的段階を分析するものであり,その段階では主要な独占資本主義国は,いずれも同時に広大な植民地を領有する帝国主義国であった。
ここで重視したいことのひとつは,レーニンによる一国ごとの帝国主義の具体的な特徴づけについてである。例えば『帝国主義論』では6大列強として一括された国々が,ノート「帝国主義国家への植民地の配分」(16年12月)では,それら相互のあいだにも支配・従属関係があるものととらえ返される。ロシアと日本は主要帝国主義国への金融的従属をふくんだ帝国主義国だとされていく。他方,ヨーロッパ「小国」の理解についても重要な見解の発展がある。金融資本の発達段階やその国際的関連を根拠に,植民地をもたず,大戦でも中立を維持したスイスを帝国主義と判定しながら,レーニンは『帝国主義論』では多くの植民地をかかえるポルトガルを過渡的な形態の従属国ととらえていた。しかし,先のノートの「総括表」では,ポルトガルは大国への従属と同時に,植民地人民への抑圧者でもあると両面からとらえられるようになっている。植民地領有の意義がより重視されるようになるのである。これらの事実は「独占資本主義=帝国主義」という一般的命題にとどまらない,個々の実情にそくした一国帝国主義の判定基準の模索がレーニンにあったことを示している1)。特に,その基準のひとつとして植民地の領有が重視されたことは,ブッシュ・ドクトリンをめぐる今日の帝国主義・独占資本主義国同士の対立を考えるうえで示唆的である。
もうひとつ重要なのは,帝国主義による支配との闘いを世界的視野でとらえたレーニンの世界情勢論,革命運動の世界的配置についての議論である。帝国主義戦争が植民地再分割を目的とする以上,この戦争の世界からの人類の脱出は植民地の解放を不可欠とする。その変革の見地から,レーニンは植民地・従属国において帝国主義に反対する運動が高揚していくことの意義をとらえている。「社会主義革命と民族自決権(テーゼ)」(1916年)で,レーニンは先進資本主義国における社会主義革命にむけた闘い,東欧諸国での民主主義・民族的な闘争,植民地・半植民地・従属国での民族解放闘争という,少数の帝国主義大国による世界支配をくつがえしていく運動の世界的な配置を示している2)。
さらに,この世界情勢論が大きな進展を見せるのは,最後の口述論文となった「量はすくなくても,質のよいものを」(1923年)においてである。資本主義との共存による一国社会主義が可能であるという新しい情勢認識のもと,レーニンは来るべき帝国主義との衝突をまぬがれるために,ソビエト共和国が同盟すべき主たる相手として「東洋」の抑圧された住民をあげていく。この「東洋」とは,帝国主義の植民地拡張と,その戦争の災厄に巻き込まれた全世界の植民地・半植民地・従属国のことである。レーニンはこれらの諸国における解放運動が,資本主義国内部の労働運動やソビエト自身の成長と支えあい,帝国主義の世界支配を打ち破っていくうえで重大な役割を果たすものと考えた3)。その後,第二次大戦を転機に,これらの国の民族解放闘争は帝国主義大国による植民地支配を現実に崩壊へと追い込んでいく。さらに,それらの国々は国際政治を動かす新しい重要な力として成長してくる。21世紀における世界史の激動を見通すうえで,レーニンのこの大局的な世界情勢把握の視角は,しっかりと継承される必要がある。
1)一国帝国主義の具体的な分析については,不破哲三『レーニンと「資本論」』第4巻「戦争と帝国主義」(新日本出版社,1999年)188~216頁,ポルトガルに対する評価の発展については,201頁,209頁を参照のこと。
2)同『レーニンと「資本論」』第4巻,256頁。
3)同『レーニンと「資本論」』第7巻「最後の三年間」(新日本出版社,2001年)216~234頁。
2,「フランス植民地帝国」の崩壊
1880年からの15年間でフランスの海外領土は10倍に広がり,1890年頃には「フランス植民地帝国」という言葉が使われるようになる。そして,アルジェリアが独立する1962年までに,この「植民地帝国」は完全な崩壊を遂げていく。ここでは,20世紀における民族解放運動の成長と植民地体制の崩壊を,フランスに焦点をあてて見ておきたい1)。
アルベール・サロー『植民地の偉大さと隷従』(1931年)が「偉大なヨーロッパは,いまや植民地という基盤の上になり立っている」「それは人類の,また文明の命じるところである」と語ったように,フランス本国による植民地住民の支配は「文明化」の名によって合理化されていた。しかし,モロッコのリフ(1921~26年),ベトナム(30~31年),シリア(25~27年)などで大規模な反乱が起こるように,20世紀の初めにはすでに各地で蜂起と反乱が恒常化していた。
急速な変化は,ヒトラー・ドイツの侵攻による40年6月の「パリ陥落」に始まる。7月にはパリ南東の町ヴィシーにドイツ従属の新政権が打ち立てられ,アメリカはじめ国際社会がこれを承認していく。こうした状況に対して将軍シャルル・ドゴールは「自由フランス」を名乗り,ドイツへの抵抗運動(レジスタンス)を呼びかける。その際,ドゴールがフランス正統政府を主張する自らの証としたのは,植民地の「領土」と「国民」であった。フランスのレジスタンスは,ドゴールの側についた植民地地域を基盤とすることで,初めて成り立ちえたのである。植民地コンゴの首都ブラザヴィルが「自由フランス」の首都となる。その中で,ドゴールは「フランスは一丸となって植民地の一体性を完全に保持する」(43年6月),「フランスは植民地で文明化の仕事をなし遂げてきた」「植民地の自立という考えも,あるいはフランス植民地帝国という枠組みを離れた形での植民地の発展の可能性も,断じてうけいれることはできない」(44年1月,いずれもブラザヴィルにて)と,本国と植民地との一体性を強調した。
大戦後,46年の第4共和制憲法は,「植民地帝国」を「フランス連合」に再編する。もはや「帝国」の名を使うことはできなかった。しかし,植民地住民がごく少数の代表をフランス議会に送ることができるようになる他,「連合」がもたらす本質的な変化はなく,実態は植民地支配の継続そのものであった。その後,各地で民族蜂起が相次いでいく。「連合」の崩壊に,致命的な一打を与えたのはベトナムであった。45年9月,ベトナム民主共和国が独立を宣言する。フランスは直ちに,これを阻止する第1次インドシナ戦争を開始し,49年3月には「連合」の一員である傀儡政権・独立ベトナム国家(南ベトナム)を打ち立てる。しかし,54年5月のディエンビエンフーの敗北をへて,7月にはジュネーブで停戦協定への調印を余儀なくされる。これによって,アジアにおけるフランスの領土は完全に失われた。フランス本国では,戦争の継続を望み,アメリカに原爆投下を要請したラニエル内閣が,「名誉ある終結」を主張したマンデス・フランス内閣に取って代わられる(54年6月)2)。
54年11月,今度はアルジェリアに一斉蜂起が起こる。人口の1割がヨーロッパ系入植者であったアルジェリアへの弾圧は熾烈をきわめ,マンデス・フランスも「アルジェリアとフランス本国の分離は考えられない」とした。58年,独立を阻止しようとする入植者と現地軍が,ドゴールの政界復帰を実現する。植民地を基盤にフランスを救ったドゴールなら,アルジェリアの植民地を維持してくれるであろうというのが思惑である。58年9月,第5共和制が成立し,「フランス連合」にかわる「共同体」が誕生する。その新しさは「共同体」への参加の是非を,海外領土自身が自主的に決定するという点にあった。ただし,不参加(=独立)を選べば,もはやフランスからの経済援助はない。ドゴールはこの条件に期待をかけた。
すでに,インドシナ3国とチュニジア,モロッコは独立しており,残された植民地はほとんどがサハラ以南のいわゆるブラック・アフリカである。結局,この瞬間には,ギニアだけが独立を選んだ。独立運動の指導者セク・トゥーレは「隷属下の豊かさよりも,自由の下での貧困を選ぶ」と語っている。しかし,つづいてフランスとの関係を維持しながら独立を認めてほしいと,セネガルとマリからの要請が届く。親フランス地域にあっても独立を押しとどめることはできない。そう判断したドゴールは,59年11月に独立以後も経済援助を継続すると表明し,60年6月にはこれにそって憲法第12章「共同体」を修正する。17ヶ国が独立した60年が「アフリカの年」と呼ばれるのは,この憲法修正によってフランス領の14ヶ国が次々と独立を達成したことによっている。60年11月ドゴールは「アルジェリア共和国」の設立承認に追い込まれる(独立宣言は62年7月)。61年「共同体はもはや存在しない」とドゴールは語った。それは「フランス植民地帝国」の最終的な崩壊の告白に他ならない。この変革の推進力は,かつてレーニンが語った「東洋」の力そのものであった。
その後,63年EECと旧フランス植民地18ヶ国との相互特恵待遇を決めたヤウンデ協定が結ばれる。73年にはイギリス,デンマーク,アイルランドがECに加盟。75年には旧イギリス植民地をふくむアフリカ・カリブ・太平洋(ACP)諸国71ヶ国とECのあいだに援助・協力協定としてのロメ協定が発足する。協定はその後,93年11月のマーストリヒト条約をへてEUに引き継がれる。EUは対外援助の理念に,相手国における人権・自由・法の支配の擁護,世界経済への組み入れ,環境の尊重などをかかげ,さらに2000年6月にはACP諸国等77ヶ国・地域とのあいだにコトヌ協定を調印する。コトヌ協定は,紛争防止や貧困撲滅を目標に,EU側が7年間で225億ユーロを供与することを含んでいる3) 4)。他方,フランスはコートジボワール,ガボン,セネガル,チャド,ジブチに計6000人以上,さらに仏領ギニア,西インド諸島,インド洋,太平洋のソシエテ諸島,ニューカレドニアなどにもそれぞれ200人以内の小規模部隊を駐留させている5)。これらの経済協力・軍事協力の評価については,個別の具体的な検討が必要である。ただし,これも「フランス植民地帝国」が崩壊に追い込まれた後の関係として,その大局的な歴史変化の上にとらえる必要があろう6)。
1)以下,フランス植民地の解体過程については,前掲グザヴィエ・ヤコノ『フランス植民地帝国の歴史』,平野千果子『フランス植民地主義の歴史』(人文書院,2002年),渡邉啓貴『フランス現代史――英雄の時代から保革共存へ』(中公新書,1998年)を参考にした。
2)ただし,ジュネーブ協定を推進しながら,自らは協定への調印を拒んだアメリカが,以後,ベトナムへの大規模な介入戦争を展開していく。49年の「中国革命」以後,アメリカは積極的にフランスの「支援」を行っていた。
3)村上直久『WTO』(平凡社新書,2001年)118~122頁,長部重康・田中友義編『ヨーロッパ対外政策の焦点――EU通商戦略の新展開』(ジェトロ,2000年)28頁,75~78頁等を参照のこと。
4)工藤晃『現代帝国主義研究』(新日本出版社,1998年)は,「新植民地主義」の詳細な実態分析をすすめながら,他方で「すべてのDAC加盟国のODAは,新植民地主義的というのはまちがいである。とくに北欧諸国のODAは,その点で注目に値する」と述べている(77頁)。
5)イブ・ジャン・ギャラス「フランスにおける平和運動の進展」(日本平和委員会『平和運動』2004年4月号)8頁。
6)岡倉登志『アフリカの歴史――侵略と抵抗の軌跡』(明石書店,2001年)も,60年の「アフリカの年」により,「黒アフリカ諸国の多くが帝国主義者の言いなりになり,自己の発言権を持たない時代は,一般的に終了した」と評価する(214頁)。そのうえで,かつて「自由フランス」が拠点としたコンゴでの傀儡政権との闘いを「新植民地主義打倒の革命」(63年8月)とする等(223頁,225~227頁),独立以後のアフリカ諸国の歴史を「新植民地主義」との闘いという視角からとらえている。
3,戦後の情勢展開と国連の役割変化
45年10月に発足した国際連合は,1920年の国際連盟につづく「集団的安全保障」の2番目の組織である。国連の形成過程には,戦争を禁止し平和を求める世界の運動と,第2次大戦後に最大国となるアメリカの世界戦略,それに連携する諸大国の思惑が刻まれていた。1)加盟国の平等,内政不干渉,2)武力による威嚇や武力行使の禁止,3)国際紛争を平和的に解決する義務,4)平和的解決が不可能な場合の集団的制裁。こうした国連の基本精神の十全な発揮をさまたげているのは,安保理常任理事5大国の特権と,軍事ブロック容認の条項である。国連の基本構造については,この両面からとらえる必要がある1)。
しかし,45年に加盟国51ヶ国(うちアジア・アフリカ12ヶ国)でスタートした直後の国連と,03年に加盟国191ヶ国(うちアジア・アフリカ112ヶ国)に達した国連を,そのまま単純に同一と見るわけにはいかない。国連と国連憲章が現実に果たしうる役割には大きな変化が生じている。例えば国連憲章には「植民地解放」という目標が含まれなかった。憲章を論議した45年6月のサンフランシスコ会議では,ソ連,中国などがその明記を求めるが,フランスやアメリカなどが反対にまわる。その結果,植民地の解放は植民地人民の闘いを原動力とする他なかった。しかし,その後,独立をかち取った旧植民地は次々に国連への加盟をはたし,60年には国連総会で「植民地独立付与宣言」を採択していく。「いかなる形式および表現を問わず,植民地主義を急速かつ無条件に終結せしめる必要がある」。このような総会決議には法的拘束力はないが,これは国際社会の世論形成に重要な力を発揮した2)。「アフリカの年」が,これと時期を同じくするのは偶然ではない。
圧倒的な軍事力によって集団的安全保障を根底から脅かしうる核兵器の問題でも,61年に第1回首脳会議を開いた非同盟運動が大きな変化をつくっていく。常任理事5大国が核兵器を保有するなか,76年には非同盟諸国会議が核兵器の使用禁止・核軍縮を優先課題とする国連軍縮特別総会を要請する。78年に開催された特別総会では,アメリカなどの反対で決議案は採択されない。しかし,それは同年秋の総会で,今度は核兵器保有国の反対を押し切って採択されていく(賛成103ヶ国)。87年の中距離核ミサイル全廃条約をへて,90年代後半に入ると非同盟諸国は核兵器廃絶を将来に先のばしせず,期限を区切ってこれを行う決議を毎年採択するようになる。さらに98年にはスウェーデン,ニュージーランド,アイルランドなど7ヶ国の「新アジェンダ連合」が,核保有国に核兵器廃絶のための交渉を求める決議を国連総会で採択させる。核兵器廃絶を推進する運動は,非同盟諸国の取り組みを軸としながら,すでにヨーロッパの資本主義国をも主体とするにいたっている3)。
国連と国連憲章の歴史的な役割の変化として,もうひとつ注目されるべきは,武力不行使原則の尊重についてである。特に70年代のベトナム反戦運動の国際的な盛り上がりは,特定の国が行う特定の戦争の是非を国連憲章に照らして問うという,国連憲章がかかげたルールの実態化にむかう歴史の新しい前進を生んだ。75年のベトナム戦争終了以降,ソ連によるアフガン侵攻(79年),アメリカによるグレナダ(83年),リビア(86年),パナマ(89年)への軍事侵攻に対して,国連総会はいずれも憲章違反との決議をあげつづける。これは,かつてのアメリカによるグアテマラ(54年),ドミニカ(65年),さらにはベトナムへの軍事侵攻に,一切の批判決議がなかったことと比べるなら,実に大きな違いとなっている。こうした変化の上に,アメリカによるイラク戦争が行われた。これは明白な憲章違反である。フランスやドイツなどアメリカの軍事同盟国さえもが,公然とアメリカを批判する立場に立った。非同盟諸国の要請で安全保障理事会の公開協議がもたれ,大多数が武力行使反対の表明を行ったのは今回が初めてである。さらに戦争の開始前に,安全保障理事会はアメリカの武力行使が許されるか否かを真剣に議論し,多くの国がこれを退けた。これもまた国連の歴史では初めてのことである4)。すでにふれたように国連はもちろん万能ではない。その無条件での礼賛は誤りとなる。しかし,少数大国の支配に反対する世界情勢の進展は,国連が国際社会で果たしうる役割に大きな新しい可能性を生みだしている。国連創設の初心にかえった国際的な努力が,これほど大きな歴史の転換の可能性をもったことはかつてない。
1)坂口明『国連――その原点と現実』(新日本出版社,1995年)「第1章・国連への道」を参照のこと。
2)松竹伸幸『反戦の世界史――国際法を生みだす力』(新日本出版社,2003年)98~103頁。
3)同『反戦の世界史』120~126頁。
4)同『反戦の世界史』111~117頁,142~145頁。
4,イラク戦争とフランス
イラク戦争に反対するフランスに,アメリカは「古いヨーロッパ」と悪罵を投げた。しかし,「アメリカの戦力は……アメリカとその連合国の意思を強制する能力を維持しなければならない。そうした決定的な打倒のなかには,敵国家の体制を変えること,あるいはアメリカの戦略目標が達成されるまで外国領土を占領することがふくまれる」とするアメリカの国防報告(02年8月)を見れば,いずれが「古い」立場にあるかは一目瞭然である1)。自分の望む体制づくりのために,相手国への軍事占領を厭わない。これこそかつての「植民地主義」そのものではないか。
フセイン政権が倒れた直後,シラク大統領はこう語っている。「冷戦時代,国連憲章は手の届かない理想に見えた」「私たちは現在,いわゆる『歴史の終わり』が,戦争という手段の復帰として表現されるさまを目撃している」「同時に逆説的だが,(自由など)私たちの共通価値の勝利は,それぞれの国家が集団的連帯的な責任の原則に従い,法に支配された力の在り方を自由に検討できる世界を生み出した」「それは国連の枠組みで言えば,外交と軍事力の間に必要な均衡を集団で定義することが,公正さの原点であるような世界,国際社会の支持なしには,軍事力行使が困難な世界だ。つまり,私たちは国連憲章の諸原則に立ち戻ったといえる」2)。
フランスのこうした立場については,様々な見方がある。イラクにおける石油利権と深く結びつけて理解していく見解もあり,また,石油利権ではなく,平和主義でもなく,むしろ「多国間主義」そのものと結ぶべきだという見解もある3) 4)。95年から96年にかけての仏領ポリネシアでの6度の核実験にも見られるように,フランス自身が依然として軍事力信奉の傾向を強くもっていることもまちがいない。したがって,これを単純に平和主義の国家と特徴づけることはできない。しかし,他方,アメリカによる「新しい植民地主義」の暴走に,フランスは同じ「植民地主義」をもって対抗しているわけではない。戦後の国際社会が築いたルールを力で破壊しようとするアメリカに対して,フランスは国連を柱とする多国間主義の外交を対置している。われわれ自身が国際合意の到達を軽視するのでないかぎり,この相違は軽んじて良いものではない。
2003年12月EU理事会は,欧州安全保障戦略「よりよい世界の中の安全な欧州」を採択し,欧州委員会が提出した報告書「欧州連合と国連――多国間主義の選択」を承認した。これはEUにとって,安保外交路線の基本を初めて明らかにしたものである。その特徴は,アメリカの単独行動主義と先制攻撃戦略に対して,国連を中心とした多国間主義を強調し,危機の根源の問題に外交や経済援助をもって取り組む予防外交を打ち出したということである。戦略文書作成の責任者ハビエル・ソラナは,首脳会談翌日に発表した論文で「国際関係の基本的枠組みは国連憲章である」と強調した5)。
また,この方針を採択した時点でEU15ヶ国中11ヶ国はNATO加盟の諸国である。03年1月にアメリカは,ドイツ駐留のNATO軍を,イラクに接するトルコに移動することを提案した。しかし,大量破壊兵器に関する国連査察団の活動中に,イラク攻撃を前提とした移動はすべきでないというフランス,ドイツ等の反対によって,この会議は決裂した。NATOの亀裂の象徴である。さらに4月フランス,ドイツ,ベルギー,ルクセンブルグの4ヶ国が,EU独自の軍事本部創設で合意する。アメリカからの激しい批判にもかかわらず,12月の首脳会議でEUはNATO本部内に「欧州司令室」を設置することで合意する。当初案からすれば,規模・機能の縮小はあったが,これがアメリカとの一層対等な関係づくりをめざすものであることはまちがいない6)。
2003年9月イラク戦争後初の国連総会で,アナン事務総長は「国家は先制して武力行使する権利をもつ」「安保理の合意を待つ義務はなく,一国あるいは有志で行動することができる」とアメリカの主張を要約し,これは「58年間,世界に平和と安定をもたらしてきた諸原則(国連憲章)にたいする根本的な挑戦である。このような論理が受け入れられるなら,単独行動主義による無法な武力行使が蔓延しかねない」と厳しい批判を加えた。後には,シリア,ヨルダン,エジプト,ブラジル,中国,ベトナム,スウェーデン,メキシコなどの批判がつづき,フランスやドイツもその批判の中に加わった。フランスのこの姿勢が,アメリカによる無法な一極支配のもくろみを阻止し,世界情勢の現瞬間を前向きに打開するうえで積極的な役割をはたしていることは疑いない。
1)森原公敏「21世紀の世界とアメリカ帝国主義」(『前衛』2004年3月号)38頁。
2)軍司泰史『シラクのフランス』(岩波新書,2003年)188頁。
3)酒井啓子『イラクとアメリカ』(岩波新書,2002年)は,湾岸戦争による経済制裁のもとで,フセイン政権による「食糧のための石油」輸出が対国連戦略を意図してロシア,フランス,中国という常任理事国に向けられたことを重視し,また,他方でアメリカが経済制裁解除に反対したのはイラクへの経済進出の「乗り遅れ」を懸念したからだと指摘する(138~139頁,202頁)。さらに,同『イラク――戦争と占領』(岩波新書,2004年)でも,イラク戦争に反対したフランスとロシアの態度は,フセイン政権との利権契約や借金返済問題から説明され(71頁),また戦後の「イラク人政権への早期主権委譲」の主張も復興事業への関与を拡大するためと説明されている(221~226頁)。
4)前掲・軍司泰史『シラクのフランス』は,9・11以降のアメリカの先制攻撃論に対する強い「違和感」がシラクにはあり,それが「深いところで世界観の衝突を招いた」(193頁),そしてアメリカの「単独行動主義」を「その他の世界」が抑制するシステムのために,シラクは国連を活用しているのだと主張する(185~186頁)。
5)浅田信幸「注目すべきEUの『安全保障戦略』」(『前衛』2004年3月号)70~71頁。
6)西尾正哉「米国のNATO戦略と欧州同盟国の反発」(『前衛』2004年3月号)95~98頁。ここにはユーゴ空爆直後の「新戦略概念」の採択時にも,欧州同盟国は国連安保理の承認を重視していたという指摘もある。なお,ユーゴ空爆には国連の承認はなかったが,空爆開始直後にロシアが安保理に提出した攻撃停止決議案は,反対12,賛成3で否決されていた(前掲・軍司泰史『シラクのフランス』190頁)。
5,「帝国主義」の段階をこえて
かつてレーニンは,主要な資本主義国のいずれもが植民地政策をとるにいたった段階,植民地の再分割をめぐる戦争が不可避となった資本主義の一段階を帝国主義と呼び,これを資本主義の最高にして最後の段階と規定した。しかし,その後,資本主義は大きな変化を体験する。
独占資本主義は固有の侵略性を継続するが,植民地主義やむきだしの軍事的侵略は益々困難となった。これを許さぬ国際的な合意や,その合意を強制する包囲の力が大きく育っているからである。「東洋」の独立は植民地体制を過去のものとし,それによって,双方の側からする植民地争奪の帝国主義戦争を過去の歴史に葬った。さらに独立した「東洋」は,すでに平和・公正・民主の国際社会の建設に巨大な力を発揮している。また「新アジェンダ連合」など発達した資本主義諸国における反戦平和・民主主義を求める運動や,イラク戦争において社会主義への道を探求する国々が果たした新しい外交努力も注目に値する。こうした大局的な情勢変化の確認の上で,最後に2点つけ加えておきたい。
ひとつは,「帝国主義」という用語の問題についてである。古い植民地主義を克服した段階での資本主義国と途上国の民主的な関係づくりが課題となっている今日の世界で,あからさまな植民地主義の復活をもくろむアメリカの行動は突出したものとなっている。このアメリカのむきだしの侵略性を他の独占資本主義国のそれとは区別して強く批判しながら,他方でアメリカ以外の独占資本主義国の侵略性の現れについても必要な警戒を怠るわけにはいかない。そうした,求められる論立ての筋道を考えるとき,冒頭に紹介した日本共産党の新しい提起は大変に賢明なものであった。特に,その提起が今日の世界情勢への包括的な理解にもとづいていることを,しっかり理解することが必要だと思う。
二つは,「最高にして最後の段階」という帝国主義の歴史的な規定についてである。今日の資本主義経済も,レーニンが解明した独占資本主義の本質を維持し,継続していることはまちがいない。しかし,その政治的上部構造には大きな変化があった。搾取・抑圧・侵略を許さない,それらを制御する具体的なルールづくりが,民主的な力の成長に応じて進んでいる。それはレーニンの帝国主義論が予期しなかった事態である。歴史はすでに,帝国主義が資本主義の「最後の段階」ではなかったことを明らかにした。現実世界は,帝国主義を抑止し,独占資本主義の侵略性を抑止する平等・互恵の民主的な国際秩序づくりの段階へと足を進めている。内政・外交においてルールある資本主義の発展を求める取り組みは,その歴史をさらに前へ進める意味をもつものとなる。
古く野蛮なアメリカ帝国主義への理論的・実践的な批判とともに,現代世界の転換を大きく,大局的にとらえる理論の発展が必要である。それは,レーニンの帝国主義論を現代をとらえる型紙としてあつかうのではなく,激動する世界の全体を広く視野におさめ,その現実の中から新しい理論をくみ出すという姿勢をもって行われるべきものである。これは,何より,私自身の反省であり,今後の課題である。
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