憲法九条こそ日本経済再生への道
--歓迎されるアジアの一員めざして--
神戸女学院大学・石川康宏
http://web.digitalway.ne.jp/users/walumono/
1.アジアから日本への期待と警告
2003年末にマレーシアの首相を退いた,マハティール・モハマド氏の著作が次々と出版されている。「アジアのことはアジア人が決める」。その明快な自主独立の姿勢をもって,長く東アジアの発展を模索してきたマハティール氏は,一方で日本の経済に対する強い期待の声をあげ,他方で日本の政治に対する不安と懸念を示している。
「いままさに日本が挑戦すべきことは,東アジアにおけるリーダーの役割を果たすことです。日本には経済的な規模があり,富があり,世界水準の技術がある」1)。日本の生産力,消費力,技術力を,アジアにおける貧困の克服と経済成長のために活用して欲しいという氏の期待と願いは切実である。
だが,他方でマハティール氏はこうも述べないわけにはいかない。「唯一心配なのは,日本の軍備がアメリカに利用されてしまうことだ。アメリカ軍は日本に米軍基地を構えて,そこから海外に展開している。今回のアフガニスタン空爆の際も,イラク戦争の際も,日本は艦船をインド洋に派遣して,アメリカ軍を補完する役割をになった。これが一線を越えると,日本の自衛隊はアメリカ軍と変わりがなくなってしまうだろう。ここが心配なところではある」2)。「残念ながら米国はアジアの幾つかの国への敵意を隠さず,日米同盟はこれらの国に向けられていると見なされている。これはよくない。なぜならこれらの国も日本を敵と見,地域が常に緊張するからだ」3)。
こうして日本に寄せられる期待と懸念の両面は,マハティール氏個人の思いにとどまらない。それは東アジアの多くの政治指導者たちに共通している判断である。彼らの期待にこたえる道か,あるいは不安と懸念を深めさせる道か,その選択がこの国には問われており,それは,実は,世界とアジアの平和にかかわる問題だけではなく,日本経済の今後にも深くかかわるものである。
憲法9条が代表する平和外交の精神の発揮は,アジアにおける日本の経済的交流をひろめ,日本経済の再生と前進に新たな可能性をひらくものとなる。これに対して,アメリカの侵略や介入の戦争に自衛隊を一体化させようとする憲法「改正」は,アジアにおける日本経済の孤立を一段と深めるものになる。政治の孤立は,経済の孤立を深めずにおれない。それはいわば当然のことである。
財界や政府,自民党,民主党等による憲法「改正」の動きは,日本経済の再生と日本国民の生活向上に,重大な障害を生み出すものである。小泉首相は「憲法を改正して,米国と一緒に行動できるようにすべき」と発言している4)。それは平和と安定の見地からだけではなく,日本経済の今後を考える時にも決して選ばれてはならない道である。
以下,東アジアにおける共同体や経済圏のあり方をめぐるASEAN(東南アジア諸国連合)と日本財界との思惑のズレ,また,そうしたズレの根拠となる日本の「脱植民地化」過程の特異性や,戦後日本の対外政策の「帝国主義」的な要素にふれ,あわせて「アジアに友人のある国」をめざす闘いの課題について述べてみたい5)。
1) マハティール・モハマド『立ち上がれ日本人』新潮新書,2003年,47ページ。
2) マハティール・ビン・モハマド『日本人よ。成功の原点に戻れ』PHP,2004年,103~104ページ。
3) マハティール・モハマド『アジアから日本への伝言』毎日新聞社,2000年,59ページ。
4) 2004年6月27日の党首討論番組での発言。「毎日新聞」2004年6月28日付。
5) こうした視角から私なりに日本とアジアの関係にふれたものとして,山田敬男・石川康宏・牧野広義『軍事大国化と「構造改革」』(学習の友社,2004年)がある。また,アジアにおける経済連帯の深まりが,アメリカ市場に対する日本の過度の依存を低める意義をもつことについては,石川康宏『現代を探究する経済学』(新日本出版社,2004年)第1部第5章でふれている。
2.友好と連帯の共同体か,大国支配の経済圏か
ASEAN諸国を中心に,東アジアには政治・経済・文化の共同を求める強い流れが育っている。これに日本の政財界は「東アジア自由経済圏」構想を対置している。両者が「共同」や「経済圏」に含めたいとする主な地理的範囲は,いずれも「ASEAN+3」の13ケ国である。しかし,この地理の合致が両者の願いを自動的に同じくするわけではない。問題はその構想の内容である。先取りしていっておけば,そこには,ASEAN等がすすめる連帯・友好型の共同なのか,日本政財界が求める大国支配型の非共同なのかという,相当に大きな性格の相違がある。
2003年8月の第1回東アジア会議で,これを主催したマレーシア戦略問題研究所のノルディン・ソピー会長(当時)はこう述べた。「東アジア共同体というのは,アジアのためのアジア諸国の組織である。ASEANの発展を踏まえながら,さらに東アジア全体で,各国の独自性,多様性を尊重しつつ,地域の平和確立を最大の目標に,経済,文化面でも協力をすすめていくための組織にできればと思っている。とにかく,一番重要なのは,地域の平和ということだ。平和が担保されてはじめて,安定して経済建設の条件ができる」6)。
この研究所の成立を提唱したのはマハティール氏なのだが,彼はマレーシアの経済政策に引きつけながら,アジアにおける共同の必要性と不可避性を次のように語っている。「近隣諸国が貧しければ,多くの問題が自分の国にふりかかってきます。貧しい国から難民がどっと入ってくれば一大事ですが,近隣諸国が豊かになれば,自国製品を輸出することもできる」7)。
「隣人を富ませることによって自国が富む」。「貧困国において職を得られない国民は,経済移民として周辺の先進国へ向かい,移動先の社会でさまざまな摩擦を引き起こす。よって,先進国が貧困国の繁栄に協力することは,廻りまわって自国の問題の軽減に役立つのである。他国の利益になることを行って,結果として自国の利益になる行いを,われわれは『啓蒙された自己利益』と呼ぶ」8)。
こうした視角からのマハティール氏による共同体の提唱は,1990年末の東アジア経済グループ(EAEG)にまで遡る。その後,このアイデアは名称を東アジア経済会議(EAEC)とあらためた。
実際には,EAECにはアメリカの猛烈な妨害があり,その妨害に追随した日本や,親米的な東南アジアのいくつかの国の消極的な態度によって,これがただちに実現することはなかった。クリントン政権は,93年にアジア太平洋経済協力会議(APEC)の非公式首脳会議をシアトルで開催し,「ソ連崩壊後のアジアでの覇権確立に乗り出し」ていく9)。しかし,97年のアジア通貨危機を大きな転機に,アジアはあらためてアメリカ抜きの共同へと,大きく歩みを進めることになる。
この経過について,マハティール氏はこう語っている。「米国の主導するアジア太平洋経済協力会議(APEC)は東アジア経済を支配している。しかし,APECはアジアの諸国が経済・通貨危機から抜け出す手助けもせず,その力もなかった」。「APECはアジア市場をできるだけ早期に開放することだけに焦点をあてている。そしてその恩恵を享受するのは誰なのか自明の理である」10)。「APECの基本的な利益は,加盟国の市場開放であり,中国や韓国,東南アジア諸国の市場の潜在力は非常に大きい。しかし,東南アジアや韓国は,市場開放は深刻な脅威をもたらすことも今回の危機で知った」11)。
そのうえで,マハティール氏は,あらためてこう強調する。「アジアは初志〔EAECのこと――石川〕を貫徹しなければならない」12)。すでに,APECは「年中行事として閣僚会議,首脳会議はつづいて」いるが,「その影は限りなく薄くなって」いるという13)。
中国は2010年と15年の2段階で,ASEANとの自由貿易協定の実現に入ることを決定した。さらに,ASEANがよびかけたTAC(東南アジア友好協力条約)には,中国だけでなく,インドも加盟をしている。東南アジアから南アジアにいたるこの地域には,すでに27億人をこえる「友好協力」の輪がひろげられているのである。第1回東アジア会議では「脱米軍支配」とともに「脱ドル支配」さえもが,「共通の決意」として語られたという14)。歴史がソピー氏のいう「アジアのための,アジア諸国の組織」を着実に育てているのはまちがいない。
こうした動きのなかで,アジアの一員たる日本の政財界は,どのような対応をとっているか。EAECには否定的な態度をとり,APECの中ではアメリカの忠実な「同盟者」としての役割を果たしてきた。そのAPECの事実上の破綻のうえで,いま政財界が追求しているのが「東アジア自由経済圏」構想である。
2003年1月の「奥田ビジョン」等を見ると,この構想には次のような特徴がある。第一に,それは日本大企業の利益を「国益」の名で前面に押し出すものであること。第二に,それは自動車や電機など,財界中枢をしめる製造業企業の「最適地生産」ネットワークづくりを最優先していること。第三に,それは「世界のモノづくりセンター」として,アジアを日本大企業が世界市場競争に勝利するための手段と位置づけていること。第四に,それは構想実現にむけた日本政府の「強力なリーダーシップ」を求めていること等である。日本経団連の奥田会長は,リーダーシップの発揮のためには,東アジアとの「歴史観の共有に向けた努力」が必要だと語っているが,侵略戦争への反省,靖国問題,日本軍「慰安婦」問題といった具体的なことがらには何もふれていない。その一方で「平和への建設的貢献」を求めており,憲法「改正」への財界の執着とあわせてみれば,この「経済圏」構想がアジアへの政治的・軍事的影響力の強化と一体のものであるのは間違いない15) 16)。
なお,「東アジア自由経済圏」構想は,そこからアメリカの利益を排除しようとするものではない。外務省が2004年の「ASEAN+3」外相会議に提出した文書には,「東アジア共同体の範囲」について「他のパートナーに参加の可能性」といった文言があり,アメリカの参加に道を開こうとする狙いが込められていた17)。
また,日本政府は2003年10月にTAC加入の呼びかけを一度断っている。これを受けてマレーシア戦略国際問題研究所のシャウハル・ハッサン所長は「日本が米国追随から抜け出せばもっと良いことができる」と題する論評を公開し,日本政府に対して「何より,対米追随を脱却し,自分自身の独立の道を固める必要がある」と指摘した18)。その後,年末になって日本政府はTACへの加入を表明するが,その2ケ月のあいだに日本政府はアメリカの意向を打診したという19)。
アジアのための共同か,アメリカへの従属下で大企業の利益第一主義をアジアにひろげる道か。同じアジアにありながら,日本とその他の国との意識の溝はきわめて深い。
6) 笠井亮「大国の横暴ゆるさず『アジアのことはアジアで』」(『前衛』2003年11月号)67ページ。
7) 前掲・マハティール『立ち上がれ日本人』22ページ。
8) 前掲・マハティール『日本人よ。成功の原点に戻れ』45ページ。
9) 三浦一夫「平和と友好,対話と協調のアジアへ」(『前衛』2004年9月号)25~26ページ。
10) 前掲・マハティール『アジアから日本への伝言』93ページ。
11) 同右,117~118ページ。
12) 同右,93ページ。
13) 前掲・三浦「平和と友好,対話と強調のアジアへ」32ページ。
14) 前掲・笠井「大国の横暴ゆるさず『アジアのことはアジアで』」69ページ。
15) 以上,奥田碩『人間を幸福にする経済』(PHP新書,2003年)の紹介も含めて,前掲・山田・石川・牧野『軍事大国化と「構造改革」』129~136ページ。
16) 日本経団連が東アジアを「重要戦略地域」だと位置づけながら「東アジア自由経済圏」構想の推進をまとめて語った文書に,「経済連携の強化に向けた緊急提言」(2004年3月16日,http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2004/020/index.html )がある。また外務省の「対外経済政策総合サイト」には,文書「東アジア経済連携について」がある。そこには各国における部品関税率をそえた「自動車産業の『アセアン最適』供給体制」がわざわざ資料として紹介されており,この「経済連携」が自動車産業の利益を強く意識したものであることがわかる(http://www.meti.go.jp/policy/trade_policy/epa/data/higashiasia.pdf)。
17) 前掲・三浦「平和と友好,対話と協調のアジアへ」34ページ。
18) 北原俊文「内を固め外に拡げるASEANと日本の孤立」(『前衛』2004年1月号)132ページ。
19) 三浦一夫「アジアの新しい流れと日本」(『前衛』2004年3月号)64~65ページ。
3.戦後日本における「脱支配・脱植民地化」過程の特異性
次に,このような深い溝を東アジア各国とのあいだにつくり出してきた日本の戦後史の問題点を,まず内政についてふりかえっておく。
第二次大戦において同じ侵略国の立場にありながら,現在の日本とドイツに対する世界各国の信頼感には大きな格差がある。それはヒトラーによるポーランド侵略が6年であるのに対し,日本による台湾の植民地化が50年,朝鮮の植民地化が35年,さらに中国への侵略が満州事変からでも15年という,侵略と植民地化の期間の長短によるものだけではない。戦後のドイツは歴史の節目ごとに,政府自身がかつてのナチスによる戦争を告発し,その記憶を次代に引き継ぐことが,現代に生きる者の責任であると繰り返し訴えてきた。
例えば,大戦終結50周年式典でヘルツォーク大統領(当時)はこう述べている。「多くの諸国民の罪のない人々にたいして大虐殺をおこなったのはドイツ人である。ドイツ人は今日でも,むしろ50年前よりももっとはっきりと,自分たちの当時の政府や自分たちの父親の多くが,大虐殺に責任があり,ヨーロッパの諸国民に破滅をもたらしたことを知っている」(1995年5月8日)。
また,ナチスによる強制労働の被害者に補償を行う基金『記憶・責任・未来』をドイツ議会に提案しながら,シュレーダー首相はこう述べた。「なによりも,過去の犯罪の繰り返しをこれからのあらゆる時代を通じて阻止する,その目的でこの歴史の記憶をもちつづけることが重要なのだ」(2000年4月14日)20)。
このドイツ政府の姿勢と,同じ大戦のA級戦争犯罪人である東条英機を合祀した靖国神社に首相自らが参拝し,さらに,侵略戦争を「大東亜戦争」の名で肯定する学校教科書を国家の検定にパスさせる,日本政府との姿勢の違いは,あまりに明白である。
その背後には,日本における「脱植民地化の特異性という問題がある」と歴史学者・荒井信一氏は指摘する。フランス,オランダ,イギリスなど,かつての植民地大国の多くにあって,植民地支配体制の崩壊は「本国の側からしても非常に苦痛に満ちた」ものであり,「さまざまな後遺症を本国社会の政治,文化あるいは国民の意識の中に残していった」。ところが日本にはその悲痛な葛藤のプロセスがほとんどなく,「脱植民地化の過程というのが……極端にいえば存在しなかった」と21) 。
確かに,イギリスに次ぐ世界第二の植民地大国だったフランスは,独立を求めるベトナムからの撤退に際しては,強硬派のラニエル内閣から「名誉ある終結」を主張したマンデス・フランス内閣への政権交代を体験している。それは個々の政治家による判断ではなく,フランス国民全体の判断だった。また,そのマンデス・フランスでさえ「分離は考えられない」と語ったアルジェリアの独立を,ドゴール大統領は長い闘いの後に,承認することを余儀なくされる。これらの解放の原動力は,植民地状態からの独立を願う人々の闘いの力であったが,それはフランス政府と国民に,戦後の新しい国際秩序のあり方を模索させ,苦悩させる原動力ともなっていた22)。
侵略と植民地支配を反省しない戦後日本政府の姿勢は,アメリカによる軍事占領のもとで温存・継承された。45年から47年までは,「ポツダム宣言」にもとづく日本の平和国家づくりが進められる。帝国軍隊は解体され,戦争犯罪人の追及と処刑が行われ,47年には第9条をふくむ平和憲法が発効する。しかし,47~48年を転機に占領政策は大きく転換される。「ポツダム宣言」は放棄され,アメリカは日本をアメリカに従属した経済・軍事大国として復活させる道につく。48年には早くもロイヤル陸軍長官が平和憲法の「修正」を求め,朝鮮戦争が開始された50年には日本国内の「治安維持」を目的に,アメリカの指図によって警察予備隊が発足させられる。これが52年には保安隊となり,54年には自衛隊となる。第9条をもつ平和憲法のもとでの,アメリカのイニシアチブによる日本の再軍備である。戦争犯罪人の追及や戦争協力者への公職追放も緩和され,当初「最大の戦争潜在力」(45年,ポーレー報告)と指摘された財閥の解体停止が,48年末には確定される。経団連が初代会長を決定するなど,財界が戦後の活動を本格的にスタートさせるのもこの年である。
侵略と植民地支配への無反省を象徴する事実のひとつは,41年12月8日の真珠湾攻撃などで対米戦争を開始した東条内閣の商工大臣・岸信介が,48年に無罪放免で巣鴨の拘置所を出され,57年には戦後日本の首相となったことである。岸は,かつての傀儡国家・満州国を統治する官僚でもあった。また,同じ時期に,同じく巣鴨の拘置所を出された小佐野賢治と笹川良一は,戦後親米右翼の中心となる23)。さらに重要なのは,日本に310万人,日本を除くアジア各国に2000万人を超える犠牲者を出した,あの戦争の最高責任者であった昭和天皇・裕仁が,戦争犯罪人としての罪を一切問われることなく,戦後も「日本国民統合の象徴」という地位を与えられたことである。それは日本支配のために天皇を活用するというアメリカの策ではあったが,同時に,日本の軍国主義による侵略と植民地支配という戦争の加害責任に対する自覚と反省が,必ずしも国民多数の共通認識とはなっていない事実を反映したものであった24)。
問題はいまだ過去のことではない。麻生太郎総務大臣が「創氏改名」――植民地下朝鮮人の氏名を強制的に日本名に変えさせたこと――は朝鮮人が望んだことだと平然と言い放ち,「大東亜戦争」を賛美する歴史教科書を検定パスさせた文部大臣・町村信孝氏を小泉首相は外務大臣に任命する。そして当の小泉首相自身も,東条英機を合祀した靖国神社への参拝を欠かさない。さらにいえば,90年代半ばからの「自由主義史観」キャンペーンは,93年からの自民党の「歴史・検討委員会」を直接の出発点としている。同委員会は95年8月15日(敗戦の日)に,『大東亜戦争の総括』(展転社)を出版し,主に,次の4点を結論として主張した。①大東亜戦争は侵略ではなく,自存・自衛の戦争,アジア解放の戦争だった。②南京大虐殺,「慰安婦」などの加害はデッチあげであり,日本は戦争犯罪を犯していない。③学校教科書には,ありもしない侵略や加害が書かれているので「教科書のたたかい」が必要である。④こうした歴史認識を国民の共通認識とするために,学者を使って国民運動を展開する必要がある25)。
この「歴史・検討委員会」のメンバーには,先の麻生・町村氏の他に2004年10月時点での現職大臣が5名も含まれている。財務大臣・谷垣禎一,法務大臣・南野知恵子,厚生労働大臣・尾辻秀久,経済産業大臣・中川昭一,内閣官房長官(男女共同参画特命大臣)細田博之の各氏である。残念ながら日本の国民は,かつて裕仁の戦争責任を追及しきれなかっただけはなく,戦前・戦中型の支配者意識を色濃く引きずる政治家たちを,今日もこの国の政府・国会にいただきつづけている。「脱植民地化」過程の希薄さを乗り越えることは,今なお日本国民の課題となっているのでおり26),それは侵略と植民地支配の反省と謝罪を誠実に行う政治をめざす,その改革の実現によってこそ達成されるものとなろう。
20) 不破哲三『歴史教科書と日本の戦争』小学館,2002年,21~22ページ,26~29ページ。
21) 荒井信一「戦後50年と戦争責任」(歴史学研究会編『戦後50年をどう見るか』青木書店,1995年)70~74ページ。
22) 石川康宏「世界情勢の発展と『帝国主義』」(『経済』2004年6月号)170~171ページ。
23) ジョン・G・ロバーツ/グレン・デイビス『軍隊なき占領』講談社+α文庫,2003年,29~30ページ,182~184ページ他。
24) 現代日本の「アメリカいいなり」や「戦争への無反省」という特質を深く理解するには,敗戦直後のアメリカによる日本占領の実態を知っておくことが不可欠である。藤原彰・荒川章二・林博史『新版・日本現代史』(大月書店,1995年),山田敬男編『日本近現代史を問う』(学習の友社,2002年)など,定評ある歴史家の著作を強くお勧めしておきたい。なお,当時の多くの憲法草案については,日本共産党中央委員会附属社会科学研究所『憲法の原点――論評と資料』(新日本出版社,1993年)に全文がある。そのなかで国民主権を明快に貫いたのは日本共産党案だけであった。
25) 俵義文『徹底検証・あぶない教科書』学習の友社,2001年,51ページ。
26) 同右『徹底検証・あぶない教科書』154ページの名簿によれば,「歴史・検討委員会」には94年11月現在で自民党議員105名が参加していた。そこには,本文中にあげた現職大臣の他にも,橋本龍太郎,安倍晋三,古賀誠,鈴木宗男,額賀福志郎,平沼赳夫,森喜朗,片山虎之助各氏など有力者たちの名前がある。
4.アジアにおける帝国主義支配の後退と戦後日本の役割
戦後のアジアは,アフリカとならび,帝国主義大国による支配を急速に掘り崩してきた歴史をもつ。大戦終結まで,東南アジアの独立国はタイ1国だけであり,朝鮮半島と台湾は日本の植民地,さらに中国もイギリス等による半植民地の状態におかれていた。さらに,そこに大日本帝国によるアジア・太平洋への侵略が覆いかぶさっていったわけである。
しかし,その後,歴史は大きく動いた。45年10月にスタートした国連の原加盟国51ケ国のうち,アジア・アフリカの国は12ケ国にすぎなかった。それが2003年末には加盟国191ケ国にふくれあがり,うちアジア・アフリカの諸国は112ケ国となっている。戦後アジアにおける植民地解放・民族独立の闘争は,一握りの帝国主義大国が世界全体を支配するという時代の終焉に向け,大きな役割を果たしてきた。
そのアジアの戦後史における日本の対外的な役割と行動はどういうものであったのか。次にそれを見ておきたい。
アメリカの占領政策やこれに追従する政財界の活動は,この国に平和憲法の精神に反する様々な行動をとらせてきた。自衛隊という名の「戦力」を再建し,さらに60年の新安保条約では日米共同の軍事作戦を義務とする。また,占領下では朝鮮戦争への積極的な協力を行い,アメリカによるベトナム侵略戦争には一大軍事拠点を提供した。そして,その上での,今回のイラク戦争への自衛隊派兵である。
こうした日本の対外的な姿勢を,戦後,まず深く方向づけたのはサンフランシスコ講和条約であった。戦争状態の終結と国交の正常化を確認するサンフランシスコ対日講和会議(1951年9月)に招請された国は,日本を含めて55ケ国である。しかし,そこに,日本が最も深刻な殺戮と略奪の傷を残した南北朝鮮,中国などの名はなかった。このような会議の構成を決め,講和条約の内容をまとめる中心に立ったのはアメリカである。講和内容への不満などから,ユーゴスラビア,ビルマ,インドは会議に招請されながら参加せず,また参加したソ連,ポーランド,チェコスロバキアも調印式には出席しなかった。結局,この会議は「講和」を名乗りながらも,アジア各国に対する日本の戦争責任を棚上げし,謝罪と補償,国交の正常化さえ先送りにするという,アメリカが日本を「西側の一員」に組みこむことを最優先の課題とした会議となった。調印式が行われた9月8日,日本の国会にも全貌が知らされないまま,日米二カ国間で安保条約が調印される。また,講和条約第3条は,沖縄に対する米軍の新たな占領支配を記していた27)。
さらに,この講和条約は,各国に対する戦後賠償を日本の「存立可能な経済を維持」する範囲にとどめ,賠償を資本財などの「役務賠償」として行うものと規定した。経済的・軍事的に強い日本の「復興」を求めたアメリカは,50年9月の対日講和7原則で,関係各国に対して対日賠償の放棄を求めていた。その後,フィリピンなど被害国からの強い反対やイギリスなどの反対と助言もあり,無賠償の方針はくつがえされる。しかし,水力発電や各種工場建設などを内容とする「役務賠償」は,賠償額を低く抑え,外貨不足に苦しむ日本のドルを節約し,さらにアジアに対する日本企業の新たな進出を開くものとなった。賠償金は現地の犠牲者個人には渡らず,そのまま「役務」を提供する建設会社など日本大企業の手に落ちることとなり,財界には賠償金の分け取りをめぐる「賠償から商売へ」というはやり文句が生まれていく。くわえて,この役務賠償方式は,日本企業の生産力増強にも役立つものであった。
結局,講和条約の規定にもとづく賠償が行われたのは,ビルマ,フィリピン,インドネシア,南ベトナムの4ケ国だけである。インドネシアへの賠償はスカルノ政権の腐敗を助長する結果となり,また,戦争中に100~200万人の餓死者をもたらした北ベトナム地域への賠償を回避したのは,アメリカの傀儡政権であった南ベトナムへの露骨な戦争支援の意味をもった。その他の準賠償・経済協力を含めても,結果的に日本の賠償総額は7148億円にとどまり,ドイツの7兆円の1/10にとどまっている。こうした戦後賠償のあり方が,アジアと日本に強い「きしみ」や「怨み」を残したことはまちがいない28)。
戦後日本のODA(政府開発援助)が,インドネシアや韓国のような当時の親米軍事独裁政権に集中するなど,アメリカのアジア支配戦略を補完し,また日本大企業の海外進出を助成することを目的にした点も重要である。これについては工藤晃氏の詳細な研究がある29)。加えて工藤氏は,戦後の「日米経済協力」が1951年のダレス訪日段階ですでに明らかだったとし,その主な内容の1つが「アメリカ,日本,東南アジアの三角地域を相互に緊密化」させる「アメリカのアジア戦略」であったと指摘している30)。
今日,日本経団連は「東アジア自由経済圏」構想の実現に向け,東アジアに対するODAの集中投下を求めている31)。あわせてアメリカ政府高官による,次のような発言も,現代における日本のODAの役割を教えるものとして重要である。在日アメリカ大使館のジェームズ・ズムワルト経済担当公使は「長期におよび日本経済の停滞が米国に痛みを与えたもう1つの分野は,世界における共通の目的達成を支援するために,日本が米国と共に働く力が低下することです。1つの典型的な例は,日本の対外援助予算の縮小です」と語っている32)。また,アーミテージ国務副長官も,日本が「世界第2位の対外援助大国」であることを指摘しながら,そこでの日米両国の「戦略的利害」の共有を確認している33)。
このようにして,戦後の日本はアメリカによるアジア支配の政策に追随し,侵略と植民地支配についての反省と謝罪を回避し,それだけでなくベトナム侵略などアメリカの帝国主義的行動を物的に支える役割を果たしてきた。そして,アメリカが与える世界戦略の枠内で日本大企業による経済的利益の拡大を追求してきた。
ベトナム戦争での敗北以後,アメリカは日本に対してアジア支配の肩代わり強化を求めてきた。これにこたえて,76年には戦後初めて日本と東南アジアのあるべき未来を語った「福田ドクトリン」が示される。その後,中曽根首相が対アジア戦争を「侵略」であったと承認して以後,細川・村山首相までは口先での反省や謝罪がつづく一時期がある。しかし,それはアジア地域への日本大企業の経済的進出および,シーレーン防衛やPKO法によるカンボジアへの自衛隊派遣など政治的影響力拡大のための,いわばリップサービスとしてであった。
そして,96年に日米安保再定義を行った橋本首相以後,この口先だけの反省や謝罪の言葉さえもが失われていく。小泉首相は「東南アジアにおいても,ASEAN諸国と共に,地域の安定確保のために一層積極的な貢献を行う」と語り,あわせて大東亜戦争を肯定する「(日本の)教科書に対して,中国や韓国が批判されるのは自由だが,日本がそれに惑わされることはない」と開き直った34)。このような戦前・戦中の支配者思想を維持したままでの「安定確保」の試みが,アジアにとって歓迎されるものでないことは明白である。
27) 前掲・藤原・荒川・林『新版・日本現代史』81~82ページ,87~89ページ。
28) 同右,126~128ページ。内海愛子『戦後補償から考える日本とアジア』山川出版社,2002年,24~28ページ。
29) 工藤晃『帝国主義の新しい展開』新日本出版社,1988年,151~156ページ。同『現代帝国主義研究』新日本出版社,1998年,68~73ページ。
30) 同右『帝国主義の新しい展開』109~110ページ。
31) 日本経団連「ODA大綱見直しに関する意見」2003年4月22日,http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2003/033.html 。
32)講演「日米経済関係:日本経済回復への課題」2004年5月21日,http://tokyo.usembassy.gov/j/p/tpj-j20040528-51.html。
33)講演「世界の中の日本と米国」2004年2月2日,http://tokyo.usembassy.gov/j/p/tpj-j20040202-54.html。
34) 前掲・山田・石川・牧野『軍事大国化と「構造改革」』133~134ページ。また歴代日本政府の東南アジア政策については,荒井利明『ASEANと日本』日中出版,2003年,191~205ページ。
5.アジアに友人のもてる国をめざして
このような戦前・戦後の歴史を本気で反省し,政財界による今日のアジア政策を共存共栄型に転換していくことは,日本の未来にとっても,アジアの平和と繁栄にとってもきわめて重要な課題となっている。そこで確認しておくべきは,その反省と転換の道を歩むことが,実は,今ある日本国憲法本来の精神を発揮する道にほかならないということである。
憲法前文は次のようにいう。「日本国民は,恒久の平和を念願し,人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて,平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して,われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは,平和を維持し,専制と隷従,圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において,名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは,全世界の国民が,ひとしく恐怖と欠乏から免れ,平和のうちに生存する権利を有することを確認する」。
また第9条はこう書いている。「日本国民は,正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し,国権の発動たる戦争と,武力による威嚇又は武力の行使は,国際紛争を解決する手段としては,永久にこれを放棄する」。第2項「前項の目的を達するため,陸海空軍その他の戦力は,これを保持しない。国の交戦権は,これを認めない」。
これらの精神が,日米安保条約や自衛隊の存在と相容れないことは明白であり,またアジアにおける友好と連帯の推進を裏切るものでないことも明白である。このように優れた平和憲法をもちながら,その精神を十分に発揮することなく,逆にこれに反する多くの行動を重ねた戦後の日本が,今なおアジアで警戒され,厳しい「監視」の目にさらされているのはいわば当然のことである。
しかし,その中で,憲法とそれを遵守しようとする国民の運動は,無力であったわけではない。平和憲法は多くの国民に非戦の願いの象徴として自覚され,また原水爆禁止運動や反戦平和運動の支えとなり,それは戦後,この国自身による帝国主義的行動を抑止する大きな役割を果たしてきた。53年には鳩山内閣による改憲の推進があり,57年に成立した岸内閣は安保条約改定後の改憲をめざしていた。しかし,日米安保条約ではなく,憲法をこそこの国の形の基本にしようとする国民の激烈な闘いがこれを阻止してきた。
岸内閣による安保条約改定を前に,59年3月には,134団体による安保改定阻止国民会議が結成される。統一を破壊しようとするいくつもの策動を乗り越えながら運動は発展し,59年11月のデモや集会にはのべ300万人が参加するまでになった。しかし,繰り返される反対運動にもかかわらず,60年1月には日米政府間で新安保条約の調印が行われる。この段階で労働者・市民の闘いは調印阻止から批准阻止へと転化した。60年5月までに,全国から届けられた請願署名は1300万人を超えている。そうした全土騒然というべき状況の中で,5月19日,暴力団員と警官隊に占拠された衆議院本会議場で,政府は採決に必要な過半数ギリギリの国会議員の出席のもと,一切の審議を行わずに新安保条約を採決するという暴挙に出た。6月4日には全国560万人の怒りのストライキが行われ,6月15日にはスト・集会の参加者は580万人に達していた。6月19日,ついに岸内閣が新安保条約の自然成立を宣言する。条約改定・批准の阻止にはいたらなかったが,こうした労働者・市民の闘いは日米の支配層に強い衝撃をあたえ,鳩山・岸内閣等の憲法改正による公然たる再軍備の路線は挫折を余儀なくされていく35)。
こうした闘いの歴史があるからこそ,マハティール氏も「平和憲法」と日本の政治を次のように評価した。「たとえ米国の核の傘下にいても,日本が平和憲法を持っていることに変わりはありません。戦争が解決策にならないことは,世界で唯一原爆を落とされた日本が一番よくわかっているはずです」36)。
このアジアからの熱い期待を裏切ってはならない。政財界による新たな改憲の動きを阻止し,平和憲法の精神を真に活かす国づくりへと日本の進路を転換することができるなら,それは日本をふくむアジア各国の平和や経済に重大な貢献をなしうるものとなる。あわせて,それは何よりこの国自身に,平和と安全の道をひらき,さらに新しい経済的繁栄の道をひらくものとなる。中国13億人を筆頭とする巨大な東アジア市場との安定した経済交流の育成は,国際的な産業調整や,貿易・投資ルールの改善を重ねながらではあろうが,日本経済に新たな発展の原動力を与えるものとなる。
金融問題の専門家として知られる相澤幸悦氏は,日本が率先して「アジア経済共同体(AEC)」の設立を考える時期だとし,その議論を次のように締めくくっている。「そこで大前提となるのは,ドイツが戦後一貫して実行してきたように,侵略と戦争犯罪に対しての明確な謝罪や補償を行うことである。心底からそれを実行しなければ,決してアジアの人々は日本を受け入れてはくれない。このことをわれわれは肝に銘じなければならない。くりかえすが,21世紀には日本は,アジアの中でしか生きていくことはできないのである」37)。
まったく同感である。日本と世界の平和のために,そして日本とアジアの発展のために,日本は平和憲法の精神を本気で発揮する国とならねばならない。
35) 前掲・藤原・荒川・林『新版・日本現代史』141~151ページ。
36) 前掲・マハティール『立ち上がれ日本人』129ページ。
37) 相澤幸悦『ユーロは世界を変える』平凡社新書,1999年,185~186ページ。
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