「『勝ち組・負け組』論をはねかえせ」
神戸女学院大学・石川康宏
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生きる不安をのりこえるため
私たちは,何のために社会について学ぶのでしょう。それは,より良い自分の生き方を探すためです。私のまわりにも「自分に自信がもてない」という学生がいます。話してみると,そういう人たちは社会に目が向いていないことが多いようです。
自分に自信がもてるかどうかは,単なる「気のもちよう」ではありません。「将来が見えない」など,不安は多くが社会によってつくられます。しかし,社会の仕組みがわからないと,その不安の原因は見えません。そのため,不安は「漠然としたもの」として個々人の上におおいかぶさってきます。それだけではありません。不安の原因が見えないということは,それを解決する方向も見えないということです。そこから「いつか誰かがなんとかしてくれる」という他人だのみが生まれます。そして,この他人だのみの姿勢が,さらに個人の不安を深める役割をはたします。
自分の力で不安の原因をつかみ,その解決方向に確信をもち,自分に自信をもって毎日をいきる。そのためには,どうしても社会の仕組みを,学問の力で深くとらえることが必要なのです。
「負け組になる」のが個人の責任?
ところで,社会を学ぶ姿勢をもつうえで,とても悪い役割を果たしているのが「勝ち組・負け組・個人責任」論です。受験も,就職も,恋愛や結婚もすべて「勝ち組・負け組」。そして「うまくいかないのは,すべてオマエ自身の責任だ」というわけです。じつはそこには非常に大きなたくらみが隠されています。それは,社会問題を個人問題にすりかえ,みなさんの目を社会に向けさせないということです。
就職難を例に,考えてみます。日本中の仕事をさがしている人の数と,会社からの求人数の比率をしめす「有効求人倍率」という数字があります。分母が就職活動中の人の数で,分子が求人・募集の合計数です。ですから大雑把にいうと,倍率が1をこえれば「みんなに仕事がある」となるわけです。実際,いまの不況がスタートした1991年に,この倍率は政府統計で1.40でした。就職活動をしている人100人に対して,「うちで働いてほしい」という求人は140もあったのです。その時にも「より良い仕事」をめぐる競争はありました。しかし,その競争に負けたとしても「仕事につけない」ということはほとんどなかったのです。
ところが10年後の2001年,この倍率は0.59にまで落ち込みちました。求職者100人に対して,求人・募集は59しかなくなったのです。個人がどんなにがんばっても,絶対に大量の失業者が出てきます。だからフリーターやニートという言葉が,社会の中から生まれてきました。明らかにそこには,個人のがんばりでは解決できない,社会状態そのものの悪化という問題があったわけです。
「大失業社会」をつくりだした政財界
では,有効求人倍率が91年の1.40から2001年の0.59に,たった10年で落ち込んだ理由はなんだったのでしょう。そこには「国際競争力を強めるために,リストラをどんどん進めよう」という財界の意識的な経営戦略がありました。さらに,その動きにストップをかけるのではなく,逆に「どんどん応援する」という立場をとった政府の重大な誤りがありました。
日本がいまのような「失業者のあふれる社会」になったのは,1990年代に入ってからのことです。それまでの日本はそんな社会ではありませんでした。それを一挙に打ちこわすきっかけとなったのは,日経連という財界団体が出した「新時代の『日本的経営』」という文書です。95年に出された文書です。これによって財界は自分たちのもうけのために「総額人件費削減」「リストラ推進」「正規雇用の縮小」「短時間雇用の拡大」「成績主義賃金の導入」といった労働条件と就職条件を破壊する意志統一をしたのです。そこには,日本に進出してくるアメリカ大企業の「日本人労働者安づかい戦略」もありました。こうした日米大企業の要請にそって,政府は派遣労働者をどの職場でも雇えるようにするなど,労働法制の改悪をすすめました。ですから,就職競争に一時的に「勝った」としても,その先に待っているのは「リストラと過労死におびえて働く」職場です。その実態は決して「勝ち組」などではありません。
現在の「大失業社会」の出現は,誰にも止めることのできない「自然現象」などではありませんでした。資本主義に不況はつきものですが,90年代の不況を戦後最悪の大不況にまで深刻化させたのは,こうした財界人や政治家たちの雇用破壊の戦略だったのです。現在の小泉内閣の「構造改革」路線も,さらにこれを果てしなくすすめようとするものです。
「勝ち組、負け組」論をのりこえて
「勝ち組・負け組・個人責任」論は,政財界によるこうした雇用破壊の推進にピタリとかさなって登場しました。簡単に想像がつくように,そこには「学生や労働者をだまらせる」「不満をいわせない」という役割があります。すべてを個人責任にしてしまえば,だれも財界や政府の責任を問うことはしなくなるだろうということです。また,この議論はまじめに政治や社会について学ぶことを避けさせるものにもなっています。「政治のことなど考えても無駄だ」「そんなヒマがあれば資格のひとつもとっておけ」「それが競争の武器になる」というわけです。こうして政治や社会に疑問をもたない市民を「育てる」ことが,「大企業が主人公」という今の社会を安定させ,継続させることにつながるというわけです。
みなさんには,こうしたずる賢いたくらみに飲み込まれることなく,この社会の仕組みを深くとらえて,より良い社会のあり方を正面から語り合う,そういう取り組みを期待したいと思います。ヨーロッパ流のワークシェアリングや解雇の法的規制,サービス残業の根絶や,個人消費の激励による不況対策など,現状の打開に向けては,すでにたくさんのアイデアが出されています。みなさんにも,「どうすれば,みんなが安心して働き,くらすことのできる社会をつくることができるのか」,それを根本から考える腰のすわった学びを期待したいと思います。それは,自分が「社会のために役立っている」という,毎日の生き方への自信を深めることにもつながるでしょう。
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