2003年11月3日(月)……竹中平蔵・石井菜穂子『日米経済論争--「言いわけ」の時代は終わった』(TBSブリタニカ,1988年)から
・2人の著者の執筆分担は明示されていない。
・日米経済関係は85年を境に新しいシステムづくりを模索する「経済論争」の時代にある。それにふさわしい論争の担い手が日本側にも必要。「ポスト85年戦略」(4~5,8,20ページ,)……ここではアメリカの「覇権主義」は問題にされない。しかし,この時期にアメリカの対日政策が新しい展開を見せるのは事実であり,そこを正確にとらえることはもちろん大切である。
・「ポスト85年戦略」は,プラザ合意による為替調整,アメリカの債務国化,保護主義ブーム,301条の運用強化の提起,途上国累積債務問題を解決しようとする「ベーカー提案」などを内容とする。その背後にあるのは,現状の為替レートでは「巨額の国際収支赤字→資金借入→利子支払い増加」という経済メカニズムがもはや持続不可能であるという「サステナビリティ・ショック」(21ページ)……対日政策としてはドル高への転換,アメリカからの輸入強化,ジャパンマネーの還流などが柱になるか。要するにアメリカによる「近隣窮乏化」政策(経済覇権主義)であることの確認が根本で必要。そこが欠落しているということが,あるいは自覚していながら曖昧化しているということろが,竹中氏の日米関係理解の基本にある。
・ポール・クルーグマンがドル高維持の「持続不可能」を主張した。これがプラザ合意への知的先鞭(あるいはイデオロギー的先鞭)となる。また,同じ85年,国際収支赤字を解決するための財政赤字への取り組みが「グラム・ラドマン・ホリングス法」として現れる。同法律は大幅修正を余儀なくされるが,それが市場の不信による87年のブラックマンデーにつながり,これへの対応としてレーガン大統領は増税を打ち出していく(24,27ページ)……すでにソ連にはゴルバチョフ政権が登場している。アメリカの「ポスト85年戦略」の発動・展開と,米ソ「冷戦」以後への戦略転換がからみあって進展していくということか。
・85年にはアメリカによる太平洋重視も示される。シュルツ国務長官のもとに。また85年11月の米ソ会談で「新デタント」への戦略転換も。「軍事費負担削減→財政赤字削減→金利低下→ドル高是正」をねらったもの(34ページ)……しかし,実際には88年にレーガン政権期の軍拡は新たなピークを迎える。そこにはアメリカ国防産業の圧力という独自の要因があったといえるか? あるいはソ連「崩壊」にむけた圧力強化という政治的意図があったのかも知れないが。
・小尾敏夫氏(コロンビア大学日本経済経営研究所の日本代表)のいう「ジャパン・シフト」。小尾氏は83年頃からの一連の対日政策強化を指摘する。副大統領が対日問題の責任者となり,USTRに日本部が創設されたのが83年,国務省のイーグルバーガー次官が日本重視の方針を明らかにしたのが84年。その背後にあるのは,貿易摩擦。しかし,80年代前半のアメリカは総じて良好なパフォーマンス。そのもとでの摩擦激化は,アメリカによる「サステナビリティ・ショック」の自覚と「ポスト85年戦略」による(37~9ページ)……小尾氏を読むこと。この時期の日米関係が,日米関係の今日的な展開にむけた大きな転期になっている。当時の世界経済に対するアメリカの認識,世界経済全体のなかでのアメリカの経済戦略を示してくれる文献はないのものか。
・1980年に98億ドルの日本側黒字であった日米貿易収支は,81年151億ドル,83年212億ドル,86年549億ドルへと不均衡を拡大していく。80年代のマクロ経済論争はこれを背景とする(44ページ)……このアメリカ側の赤字については,アメリカ企業の多国籍化による「逆輸入(企業内部国際分業を含む)」の拡大を組み込まねば理解できない。だからこそアメリカ経済はこの貿易赤字にもかかわらず,それだからこそ「良好なパフォーマンス」でありえたのだろう。
・83~4年の日米金融摩擦から「日米円・ドル委員会」の発足(83年11月に設置を発表),84年5月の同委員会報告書発表となるが,これは金融産業の市場開放にとどまらず,じつは「安すぎる円」というマクロ経済問題が出発点。それまでの個別品目をめぐる経済摩擦とは性格を違える。しかし,日本金融市場の自由化にもかかわらず,むしろ円レートはドルに対して低下の傾向にあった(44~5,52ページ)……これはアメリカの思惑が,つねのそのままに実現するのではない事実を示す事例と理解していいのか。あるいはそれを承知の上での,為替を脅しの材料として活用した市場開放要求が本質だったのか。
・83年頃からフェルドシュタイン,ボルカーなどが日米貿易不均衡をマクロ経済の視角から議論。85年4月にシュルツ国務長官が日本の内需拡大をもとめる演説を行ったことから,この議論が本格化する。講演内容は,不均衡の原因が両国のIS(貯蓄・投資)バランスの乖離にあるとし,不均衡縮小にはアメリカの財政赤字削減とともに日本の内需拡大が必要だとするもの(54ページ)……こうした論理での「内需拡大」要求は89~90年の日米構造協議でも展開されていく。
・85年のバーグステン=クラインの研究は,不均衡の原因として,高すぎるドル,日本の低い成長率,日本の構造問題を指摘。そのうえで,日本の成長率を高めるためとして公共投資をGNP比3%程度拡大することを求める(57~61ページ)……85年の日本のGNPは325.5兆円。したがって,3%拡大は約10兆円の拡大となる。「内需拡大」にとどまらず,公共投資としての拡大が求められていたわけである。
・クルーグマンは,85年6月に論文「 Is the Strong Dollar Sustainable ?」を示し,87年1月には論文「 Has the Dollar Fallen Enough ?」を発表している。対外債務の縮小を基本論拠に,後者では,ドル安幅が十分でないと主張し,実際にドル相場はその後,大きく低落していった(66~7ページ)……もちろん,そこに円高不況による日本産業の苦境への配慮はない。
・80年代前半の議論のすえ,日米不均衡が主として貯蓄・投資のインバランスから生じ,それに起因するドル高によって引き起こされたことが「政策専門家の間のコンセンサス」となった。植田和男(大阪大学)はアメリカの財政赤字削減か,あるいは日本の財政赤字の拡大が必要だとの計算をする(75~6ページ)……結局,議論のすえに,シュルツ演説の内容が日米共通理解となったことを竹中氏本人も是認していく。それでは,アメリカとの「論争」にはならないではないか。それにしても植田氏の議論は日本の財政赤字問題をどう考えるものであったのか。
・プラザ合意以降の円高にもかかわらず不均衡は思ったほどに解消されなかった。このことは解決のために「ミクロの経済主体の体質」そのものの変化,「経済の構造調整が必要であることを示唆している」(79ページ)……ここでも,竹中氏の議論は,結局,日米経済論争といいながらも,論争の内容はアメリカの主張を飲み込んでいくことになっている。
・日米マクロ経済論争においてアメリカの分析は「あくまで客観的かつ公正であり,不当に日本を攻撃するようなものはなかったといってよい」。そこではアメリカの専門家集団の強みがしめされた(82ページ)……まったくもって驚き。近隣窮乏化による円高強制,自由化強制,輸入拡大への圧力,これらのどこが「公正」なのか。アメリカ企業による「逆輸入」の拡大を日本側の責任にすりかえるその論議は,どこが「客観的」なのか。
・1985年に「前川レポート」の実施状況をチェックすることを目的とした「日米構造対話」が開始される(100ページ)……アメリカが日本の構造改革推進を監視する。これのどこが「公正」か。それにしても,アメリカの要求に屈した「前川レポート」を,対米公約とするにとどめず,その実施を「対話」機構によって促進しようとする日本政府の従属ぶりも深刻である。中曽根時代のこの特殊性はどこから生まれたのか。
・80年代半ばから貿易摩擦の品目はハイテク関連にシフトしていく(126ページ)。86年2月からは関空建設に関連し,大型プロジェクトに実績のあるアメリカ企業が参入できないことを不満とする公共事業へのアクセスも政治問題化していく(130ページ)。また農業分野でも,70年代以降の技術革新で大幅に生産量を拡大しながら,ドル高で輸出競争力は低下していた。これの穴埋めの相手として日本が選ばれる(まずは牛肉・オレンジ,そして米)(132ページ)……まったくもって,やられっぱなし。日本の財界には,こうしたアメリカからの圧力に抵抗する動きはまったくなかったのか。調べてみること。
・日米間の経済論争に打ち勝つ「論争国家」が必要である(138ページ),アメリカの日本経済研究に影響をおよぼすことがアメリカの対日政策決定プロセスに影響をあたえることになる(234ページ),アメリカの対日政策をうまく「操作したい」(236ページ)……そのように語りながら,竹中氏は,アメリカの研究者層の厚さに対抗した,日本側の研究の強化を主張し,またシンクタンクの設立につながる議論をつづける。しかし,肝心なことは,人や研究所の数や規模ではない。その研究の姿勢である。アメリカによる自己中心的な圧力を,圧力として自覚することさえできない研究所がどれだけふえようと,それはアメリカの対日政策を合理化する役割以外のものを果たすことができない。現に,今日の竹中氏が日本政府のなかではたしている役割がそれを実証してはいないだろうか。
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