以下は、日本共産党『前衛』2008年12月、第837号、172~173ページに掲載されたものです。
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科学的社会主義の多様な発展――古典家同士の見解の相違も――
不破哲三著『古典への招待(中巻)』
新日本出版社の「古典選書」を軸に、マルクスとエンゲルスの理論的な探求の生涯を明らかにしようとする不破氏の著作の中巻である。ここには「マルクス『賃労働と資本』『賃金、価格および利潤』」「エンゲルス『「資本論」綱要・「資本論」書評』」「マルクス『フランスにおける内乱』」「マルクス『ゴータ綱領批判』」「エンゲルス『自然の弁証法』」「エンゲルスと『空想から科学へ』」の全六講が収められている。
この巻が主な検討の対象とするのは、『賃労働と資本』(四九年)を除き、マルクス等が史的唯物論と剰余価値論の双方を確立し、公開して以後の諸研究である。そこには『資本論』の執筆をつうじた経済学はじめ科学的社会主義の多彩な理論的革新、パリ・コミューンという歴史的経験の同時代的分析、ドイツの労働者運動における理論的混乱の除去という実践的な要請に従っての階級闘争論、過渡期論と未来社会論の新たな解明、さらには科学的社会主義の初めての概括の試みなどが含まれる。それは草稿『ドイツ・イデオロギー』(四五~六年)で史的唯物論の形成をもって生まれたばかりの科学的社会主義とは、比べようのない多くの実りを体現している。その豊かさを可能としたのは、彼らの革命家としての人生観と、尋常でない現実世界への好奇心、知的探求の精神であった。
しかし過渡期論・未来社会論については、レーニンの誤った解釈が大きく影響し、正確には読まれない時期が、その後、長く続くことになる。また科学的社会主義を簡潔に概括するエンゲルスの試みには、マルクスとの小さくない見解の相違も含まれた。この巻は、そうした科学的社会主義の単純ではない理論史の一面をも、あるがままにとらえさせるものとなっている。以下、各講を私なりに要約すれば次のようになる。
〔第七講〕『賃労働と資本』(四九年)と『賃金、価格および利潤』(六五年)は、マルクス自身による経済学の入門書として並べ置かれることが多い。しかし、エンゲルスの補筆・修正にもかかわらず、剰余価値論形成以前の『賃労働と資本』は「あまりにも不完全」であり、これはあくまで「歴史的な文書として読む」べきである。対照的に、階級闘争の立場から「経済学の全領域」を歩きまわる『賃金、価格および利潤』は『資本論』全三部の草稿が完成する直前の講演で、そこには『資本論』にも展開されない重要な論点が含まれている。
〔第八講〕『資本論』第一巻(六七年)に対する黙殺を打破するために書かれた「『資本論』書評」九篇(六七~八年)は、その歴史的感覚、ラサール批判、厳密な科学性、青写真主義への警告、工場立法や議会資料の格別な意義など、『資本論』の深みにそれぞれ独自の角度から光を当てるものとなっている。またイギリスへの本格的な紹介の準備作業であった「『資本論』綱要」(六七年)は、第二篇に力点をおきながら第一~四篇の骨格を骨太く示すものとなっている。
〔第九講〕『フランスにおける内乱』(七一年)は、マルクスが「できあいの国家機構」の「粉砕」を目指したとするレーニンの理解に反して、議会の多数を得ての革命がマルクスの一貫した考え方であることを示す重要な文献となっている。ここには労働者階級による国家権力の掌握という『共産党宣言』の定式を越え、抑圧の機構を取り除き、必要な行政機構を民主的に改革するという国家機構の改造論が示されている。
〔第十講〕『ゴータ綱領批判』(七五年)は、ドイツの二つの労働者政党の合同に際して用意された「ゴータ綱領」が含む、ラサール主義の六つの教条を全面的に批判している。未来社会の確立にともなう国家の死滅や、プロレタリアート執権を社会全体の革命的転化(未来への過渡期)の一環ととらえる等の新たな思想が展開される。しかし、これもレーニンによって二段階の未来社会論・国家死滅論と誤読されるところとなった。
〔第十一講〕『自然の弁証法』(七三~八二年)は、多年に渡る草稿の集大成だが、それは唯物弁証法的な「自然把握」の内容として、数学と自然諸科学の到達点を「概括」するという壮大な試みにもとづいている。その著作についての「七八年のプラン」は、弁証法の総論的な説明と三つの「主要法則」を区別するという特徴をもつ。だが、弁証法研究の内容については、必ずしもマルクスとの間に十分な交流があったわけではない。
〔第十二講〕『反デューリング論』(七六~七年)の抜粋をもとにまとめられた『空想から科学へ』(八一年)は、科学的社会主義の初の体系的な「入門書」である。社会主義を科学とするには、マルクスによる史的唯物論と剰余価値論の発見が必要だった、という有名な一句がここにある。ただし資本主義の発展と没落の弁証法を、剰余価値生産の追及を含まぬ「社会的生産と資本主義的取得の矛盾」から論じた点には、マルクスの資本主義理解とのずれもある。そこには恐慌の現実性を論じた『資本論』第三部の草稿を、エンゲルスがいまだ読めずにいたという事情が恐らく深く関わっている。
こうして十分な成熟の域に達した後にも、マルクス等の知的格闘と前進への努力には、まるで止まるところがない。それを個々の側面からだけでなく、多面的に、同時並列的に発展する知性のありのままの姿で、トータルにとらえさせるところにこの本の面白さがある。
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