以下は、関西唯物論研究会編『唯物論と現代』41号(2008年11月)、2~15ページに掲載されたものです。
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碓井敏正・大西広編著『格差社会から成熟社会へ』を手がかりに
報告1:経済学の立場から
1・「成熟社会」とはどういう社会なのか
今日は、碓井さん、大西さんが編集された『格差社会から成熟社会へ』の経済関係の部分について意見を述べよとのことですが、せっかくの機会ですので、この本の内容を紹介し論ずるというだけでなく、この本の枠組みにこだわらず「格差社会」のとらえ方やそれを乗り越えていく展望といった問題についても、思うところを述べさせていただきたいと思います。大雑把な問題提起ということになるかと思います。
最初に、この本のタイトルにもある「格差社会」や「成熟社会」の中身について、本を執筆されたみなんさんがどのように捉えておられるかということを整理してみます。結論からいってしまえば、そこにはかなり大きな見解の相違、あるいは曖昧さがあるようです。
まず二人の編者による「まえがき」の部分からです。そこには次のような箇所があります。以下、内容を要約して紹介しながら、それに私なりの意見を付け加えさせてもらいます。
①さて、こういう議論があります。「格差社会」という現状を抜け出し、日本が進むべき「社会イメージ」は「成熟社会」にある。それは「体制転換によってではなく、ある主体が同一性を維持したままで進化していく」のだが、しかし「資本主義の成熟のかなた」にある社会である(ⅰ~ⅱページ)。
これは、私にはちょっとわかりづらいです。成熟社会は「体制転換」によって形成されるのでなく、「同一性」が維持された「進化」の先にあるとされるにもかかわらず、しかし、資本主義の「かなた」に生まれる社会だとなっています。これは一体どういうことでしょう。他方で、現在の格差社会は、そういう社会に「進化」していかねばならないといわれていますが、格差社会からの脱出はそのような「かなた」の社会にいたらねば実現されないものなのでしょうか。本のタイトルが「格差社会から成熟社会へ」とされていることともあわせて気になるところです。「まえがき」という文章の制約はあるでしょうが、これだけ重要な論点ですから、もう少し説明を加えてもらいたいところでした。
②第3章の大西さんの論文を紹介した文章には、日本のゼロ成長は「資本蓄積」の終了を意味しており、それは「成熟社会」の到来を意味する、だが本当の「成熟社会段階」に至るには「途上国の経済成長が国際的条件」になるという箇所があります(ⅳページ)。
ここでは成熟社会は、すでに到来の局面にあるとされています。資本主義の「かなた」にあるはずの成熟社会が、今日すでに到来しつあるとされているわけです。また、そのことを根拠づける指標とされているのは、日本経済のゼロ成長あるいは「資本蓄積」の停滞であるようです。さらに、到来しつつある成熟社会が本当に「成熟社会段階」に達するためには、国際的な条件の成熟が必要だともされています。これらの論点のより立ち入った検討は、後に第3章自体を紹介するなかで考えてみたいと思います。
③また「まえがき」には、本書には「異論が多い」だろうし、「各論文の論旨に微妙なニュアンスの差」があるし、また「論じるべき分野の議論のいくつかを欠いている」(ⅶページ)という文章も登場します。これは全体として、執筆者が共同で練り上げてきた研究成果を、互いに分担しながら執筆しているというのではなく、各人がそれぞれに自説を自由に語った論文集であるということなのでしょう。実際、以下に見ていくように、確かに「各論文の論旨」の相違はかなり大きいようで――というよりも、むしろ「格差社会から成熟社会へ」というタイトルの内容に照らしてさえも、執筆者間の共通認識といったものがなかなか見当たりません――、それは「微妙なニュアンスの差」という枠にはまったくとどまっていないように思えます。
2・格差社会論の「国民国家的制約」をめぐって
本論に入って、まずは第1章の「成熟社会への戦略――格差社会を超えて」(碓井敏正氏)を見ていきます。
①ここでは「いわゆる格差社会化」の進行が、新自由主義的社会再編による貧富の格差の拡大であると理解されています(1~2ページ)。「いわゆる格差社会」は、非常に具体的な新自由主義の諸政策に結びついたものとされているわけで、この点については私も同感です。
②ただし「格差社会化は国家像の変化と密接に結びついている」としながら、これを改革していくには、国内の再分配政策よりもむしろ国際的な労働ルールの確立が重要だとされている点には違和感を覚えます(2、4ページ)。
グローバリゼーションの進展の中で、国際的に連帯した取り組みの重要性が増しているのは事実ですが、それは国内における再分配の政策――たとえば社会保障の充実や税制の改革の重要性を低めるものにはなりません。また国内政治を改革していく力を強めることこそ、国際的な連帯の可能性を広げることにもつながります。EU諸国やドイツ、北欧などの実態を見れば、むしろ国内の労働政策、社会保障政策こそが「格差社会化」への抵抗の力として大きな役割をはたしているといえるのではないでしょうか。
グローバリゼーションが資本や商品などの移動の他に、労働の移動を含むことはそのとおりで、その点を重視せねばならないことはまちがいありません。しかし、たとえばドイツでは、海外からの低賃金労働者の流入にたいして、あらためて産業分野ごとの最低賃金の明確化をすすめています。また労働者派遣法の2004年改正によって、ドイツの企業には派遣労働者を、自社の正社員とまったく同じ賃金・労働条件ではたらかせねばならないことが義務づけられています。こうして各国ごとに「国家」に対して何より国民生活を守る姿勢を強めさせていくという取り組みは、ますます重要になっているのではないでしょうか。
③さらに著者は、格差を論じる従来の議論には三つの限界があったとして、これを乗り越えることの必要を提起しています。その一つは議論の課題を格差の縮小にではなく貧困の解消にはっきりすえる必要があること、二つはその論議に国民国家的な制約があること――たとえばそこには底辺におかれた外国人労働者への無関心がある――、三つには現状を打開していく対抗勢力のグローバルな形成を重視すべきだということです(5~7ページ)。
すでに述べたように、私は2つ目の論点とされる国民国家的な制約の内にあるとされる議論については、そこにも重要な意味があると考えています。先進国中最悪ともいわれる日本の労働条件の劣悪さは、先進国の国際標準からますますはずれるものとなっています。つまり条件悪化の主因は国際環境の変化にではなく、それにどう対応していくかという日本の政府や社会の姿勢にあるのです。問題の是正や解決は、なにより国内の努力、政治の展開によって行なわれるものとなるのではないでしょうか。また、日本の製造業現場に多くの外国人労働者がおり、彼らがきわめて劣悪な労働条件のもとにおかれているという問題ですが、たとえばJMIUは彼らを労働組合に組織することを重視し、すでに「偽装請負」の外国人労働者を直接雇用に転換させるなどの成果もあげています。
とはいえ、私は、ここに指摘された三つの問題は、それぞれ重要な問題を含んでいるとおもいます。私なりに勝手な解釈を加えさせてもらえるならば、それは、一つには「格差社会」と資本主義社会の区別と関連を明らかにすること、二つには資本主義に不可避なグローバリゼーションとアメリカ発の新自由主義的なグローバリゼーションの区別と関連を明らかにすること、三つには新自由主義的なグローバリゼーションを克服していく主体の世界的な配置やそれを可能とする世界構造の変化を明らかにすること等になるかと思います。ただちに私なりの回答を全面的に示す用意はありませんが、以下で、いくつかのことを意識して指摘してみたいと思います。
3・見えてこない「成熟社会」の内容
次に、第3章「成熟社会の歴史的位置――『格差社会』の問題とかかわって」(大西広氏)を見ていきます。
①ここで著者は「成熟社会」を資本主義後の社会だとしながら、これを「社会主義」と呼ぶことについては留保するとしています(62、64ページ)。すでに見たように編者の「まえがき」は、「成熟社会」を資本主義社会のかなたにある社会としながら、そこに至る社会「進化」の過程は「体制転換」を含むものではないとなっていました。しかし、この第3章では、「成熟社会」は資本主義後の社会、すなわち資本主義とは質を違える社会だとされています。これが先の「同一性」を維持した「進化」という議論とどのように整合性をもつのか、もう少し言葉をつくしてほしいところです。
また、少し先回りして述べておけば、ここでは「成熟社会」を社会主義と呼ぶことが留保されているわけですが、同じ著者による第6章は「本当の社会主義」を主題としています。しかし、「本当の社会主義」と「成熟社会」との関係については、そこでもまったく論じられません。この本のタイトルは『格差社会から成熟社会へ』となっているわけですから、格差社会とは何であり、「成熟社会」とは何であり、両者の関係はどのようであるかという点について、もっと正面からの論究を期待したかったところです。
話しをすすめますが、ここでは「成熟社会」は資本主義後の社会だとなっているわけです。そうするとただちに疑問に思えるのは、格差社会からの脱却は資本主義後の社会に至ることによってしか実現されないものなのかという点です。言葉をかえれば資本主義の枠内における改革の積み重ねにより、格差社会を抜け出すことはできないのだろうかという問題です。後で述べますが、私はそのようには考えませんが、こうした疑問に対する答えもどこにも見当たりません。
②これもすでに「まえがき」に紹介されていた論点ですが、日本経済のゼロ成長は「資本蓄積の課題をほぼ完了したこと」を意味していると述べられます(69ページ)。「まえがき」ではそれが「成熟社会」の到来を示唆する根拠としても語られていました。
この議論については、まず「資本蓄積」をどう考えるのかという、その定義の問題があるようです。マルクス流にいえば資本蓄積は剰余価値の追加による資本規模の拡大、つまり資本の単純再生産ではなく拡大再生産を意味するわけです。その角度から日本社会の現実を見れば、1997年をピークとした平均賃金の下落にともない、また99年の労働者派遣法の「改正」もきっかけとした非正規雇用の急増で、日本の大企業は史上最高の利益をあげています。資本金10億円以上企業で見れば、その経常利益は85年11兆3731億円、95年13兆9050億円、2005年29兆4326億円となっており、内部留保も85年62兆円4093億円、95年134兆4790億円、05年205兆5062億円といった具合です。資本規模の急膨張は明白であり、資本蓄積の「完了」などとはまったく言えません。
また経済のゼロ成長という問題についていえば、成長をはかるGDP(国内総生産)という指標が、多国籍化した現代の大企業の資本蓄積を正確に反映するものでないことも明らかです。この点では、GDPの伸び率の大小をもって資本蓄積の「完了」を言うという問題の立て方が良くわかりません。また、それが「成熟社会」の到来を示す兆候と理解されることの根拠もわかりません。
③なお、これも簡単な指摘があるだけですが、「正義論」や「格差社会」論が論じられるのは資本主義の「後期段階」の証だという叙述があります(79ページ)。これについては資本主義の「後期段階」とはどのような内実をもった資本主義のことなのかという疑問が当然わきますし、他方では、日本やアメリカのような格差社会化の進行に抵抗し、逆にその縮小に努力している北欧などの社会は「後期」には入らないのかなど、いくつもの疑問がわいてきます。「格差社会」が論じられる社会が「後期」のものだという議論は、おそらく、それが資本主義後の社会である「成熟社会」に近接した社会だという理解につながっているのだろうという予想はたちますが、やはり言葉を尽くしてほしいところです。
④関連して「成熟社会」は単純労働でも高学歴で高賃金を得ることのできる社会だが、日本はそれにすでに近いところにあるので、海外からの低賃金労働の導入には慎重であるべきだという議論もなされています(81ページ)。はたして、これは日本社会の現実を正しく見つめた議論といえるでしょうか。単純労働であれ複雑労働であれ、はたして日本の企業社会が支払う賃金は高いものといえるでしょうか。
たとえば製造業の時間あたり賃金は、2002年時点の購買力平価で見るとき、日本を100にしてアメリカ137、イギリス137、フランス125、ドイツ165といった具合です。同じく「格差社会」が大問題となっているアメリカやイギリスに比べてさえ、日本の低賃金は際立ちます。さらに、この時期以降にも日本の非正規雇用者比率は高まり、日本の平均賃金はさらに低くなっていますから、国際格差もおそらく拡大しています。また、サービス残業を合法化するホワイトカラーエクゼンプションの企みが、今日「ワークライフバランス」論に盛り込まれる形で再び浮上しています。もし、このような日本の社会がすでに「成熟社会」に近いものだとすれば、資本主義のかなたにあるとされる「成熟社会」の実態も、国民にとってあまり魅力的なものにはならないでしょう。
⑤もう1つ、海外を搾取しては「成熟社会」ではありえないということもいわれています。途上国の経済成長が「成熟」のための条件だというわけです(82ページ)。これも「まえがき」にも紹介されていた論点です。やはり「成熟社会」の定義が良くわからないままなのですが、支配や従属を含む世界的な経済秩序を、公正なものに改革する必要があるという問題意識はそれとして重要なものだと思います。
ご承知のように、いわゆる新興諸国の台頭をきっかけに、大企業の海外進出が進出先政府との協定によって一定の規制を受けるようになっています。また新興国にあっても労働条件の改善がすすめられており、それらの国への進出を単純に経済侵略だとはいえないのではないか、という問題提起もなされています。
実際、日本経団連のような財界団体も東アジアの経済共同をすすめる上で、それに加わる各国に利益があがる「ウィンウィンの関係」が大切だということを強調しています。私は、今後の日本経済は、東アジア全体の消費の高まりを背景に発展するという要素が大きくなると思いますが、その関係を安定させるためには日本企業の進出や日本政府が各国ととりむすぶ経済協定を、大企業の利益だけを考えるものではなく各国の消費――その最大の部分は各国の個人消費になっていくでしょうが――を育てるものにしていかねばならないと考えています。つまり東アジアにくらす国民の生活水準の向上こそが、日本経済の発展の重要な条件になっていくと思うのです。そのような二国間の経済協定や東アジアにおける経済共同の内容を、具体的に考える必要が出てきていると思います。
4・「本当の社会主義像」の新しさは
第6章「成熟社会における企業――市場と株式制度がもたらす社会主義」(大西広氏)に進みます。
ここで著者は、新しい、今ある社会の現実にこそ「本当の社会主義像が生み出される」と強調しています(134ページ)。そして「所有と経営」が分離した株式会社をどうとらえていくかと問題を立て、経営者に株主や労働者に対する社会的責任をとらせていくことの大切さを説き(142ページ)、あわせて、マルクスが株式会社の過渡的性格に注目し、エンゲルスが証券取引所の役割に注目したことを紹介して、われわれの「新しい企業社会像」も大胆に将来社会への過渡にあるものとしてとらえていくことが必要だといわれています(143~144ぺージ)。
それぞれに言いたいことがわからないわけではありませんが、ここにあげられた論点は、いずれもすでに様々な研究が重ねられている問題だろうと思います。マルクスは株式会社の発展を私的所有のもとでの社会的資本の形成という角度から論じましたし、同様に信用の発展についても『資本論』はそれが未来社会を準備する物的条件になるという視角から検討しています。さらに、それをヒントにレーニンが産業企業に対する銀行のネットワークを活用した経済管理の構想を『帝国主義論』の延長線上に展開しており、今日では、そのようなレーニンの発想が「新経済政策」以前の誤りを含むものではなかったかといった議論もなされているわけです。率直にいって、ここでは「本当の社会主義像」だといわれることの新しさがどこにあるのかが、よくわかりませんでした。
なお、すでに述べましたが、第3章で著者は「成熟社会」を資本主義後の社会だとしながら、それを「社会主義」と呼ぶことについては留保を表明していました。しかし、ここではその留保や「成熟社会」という概念との関係にはまったくふれない形で「本当の社会主義像」が論じられています。もう少し見解を整理して示してほしいところです。
以上の他に、第8章「成熟社会におけるマクロ経済学」(松尾匡氏)が、ここでは「構造改革」以後の経済政策についての分析は展開されていますが、「成熟社会」そのものについての言及は少なくとも明示的にはありません。本来であれば私が担当すべき経済関係の論文の一つになるわけですが、今日の私なりの視角からははずれてしまうという理由で、報告の検討範囲からははずさせてもらいます。
5・「構造改革」が生んだ国民生活の貧困化
次に、この本の内容に触発されながら「格差社会」について私なりに考えてみたことを少し述べてみいたと思います。
まずもっとも直接的な「格差社会」と呼ばれる現実についてです。
様々な指摘がすでにあることですが、90年代半ばからの「構造改革」の本格的な推進――80年代後半の中曽根内閣時代に規制緩和や法人税減税への動きが大きく進みますが、当時はあわせて大型公共事業を急拡大させる時期ともなっており、政府の経済政策全体が新自由主義的改革を推進力とするものにはなっていたとはいえません――により、国民生活の貧困化が進みます。
たとえば1ケ月の家計可処分所得――家計収入(ボーナスも12ケ月に配分)から税と社会保険料を引いたもの――の全国平均は、85年37万3693円、90年44万0539円、95年48万2172円と上昇しますが、97年49万7036円をピークに逆転が始まり、2000年47万2823円、05年43万9672円、06年44万1066円となっていきます。97年を転機に、日本人の平均的な生活は絶対額でも貧困の度合いを深めたわけです。古い言葉を使えば、いま起こっているのは「相対的な貧困化」にとどまらない「絶対的な貧困化」です。
これを先に紹介した資本金10億円以上企業の儲けぶりと比較すれば、ここに「富と貧困の対立」が貫かれていることは明白です。97年とその10年後の2006年とで、全国民の平均的な生活水準は月額で5万6000円も低下しています。この貧困化がいかに重大なものかは、私たち自身の生活を考えてみれば良くわかることです。
最近、大阪の生活と健康を守る会が『この国に生まれて良かったか――生活保護利用者438人 命の叫び』(日本機関紙出版センター、2008年)という本を出しました。これは生活保護制度を利用している人たちの生活でさえ、いかに深刻なものかということをきわめてリアルに伝えます。「構造改革」や「自己責任」論の主張のもとで、老齢加算の廃止や母子加算の削減など生活保護水準の切り下げが進められていますが、その政治が生み出している人間生活の一端は次のようなものとなっています。
〈1日3回の食事を2回に減らした/友人を受け入れなくなった/ずっと家に引きこもっている/生きることに何の目的も希望もない/一般新聞をと思うけど高いのでスポーツ新聞だけにしている/お風呂がないのでベランダで行水している/早めに夕食を食べて夜はテレビの明かりだけで生活している/病院からも栄養が足りないといわれているが、おかずは一品にしている/トイレはためて流している/最大の被害者は子どもだ・・〉
NHKが放映した「ワーキングプア」が広めたように、いま日本全国の10世帯に1世帯が生活保護水準以下の生活レベルに落ち込んでいます。しかし、実際に生活保護を受けている人たちは、人口の1.2%にすぎません。残りの多くの人たちは生活保護制度によって守られるべき水準にありながら、生活保護を受けることができずにいるということです。
私たち労働者・国民の生活水準は、大雑把にいって、①賃金や収入、②社会保障の給付、③税、④社会保険料などの合計によって成り立ちます。この4つの点で見ると、「構造改革」は、①非正規雇用者をふやし労働者の平均賃金を引き下げ、あるいは農産物の輸入自由化などで農漁業を破壊し、それによる個人消費の低迷によって自営業者等の収入を減少させ、②社会保障については「自己責任」論を振りかざし、あるいは「財政赤字」を理由に予算を削って、給付をどんどん減らしています。反対に、③税については高齢者等の控除をなくし、④また保険料の引き上げを行なっています。
①②が減らされ、③④がふやされますから、結果として国民の生活水準が悪化するのは当然です。貧困化が進行するのは当然なのです。大切なことは、これがいずれも政治によってつくられた人災であるということです。国会議員の決定がこれを行なわせているということです。そこには95年の日経連による「新時代の『日本的経営』」といった雇用破壊推進の宣言文書に象徴される日本財界の求め――今日、日経連は日本経済団体連合会に統合されています――が大きな役割をはたしています。また「年次規制改革要望書」などを通じたアメリカからの求めも重大や役割をはたしましたが、その受けいれはグローバリゼーションの時代だから仕方がないといったものではなく、対米従属の政治でなければキッパリ断ることもできたものです。
6・「格差社会」と資本主義社会
次に、こうして「構造改革」の政治によって形成された今日の「格差社会」と資本主義社会との関係についてです。「格差社会」は、もちろん現代資本主義のひとつの在り方ですが、それは資本主義世界にとって普遍的なものでもなければ、長期の継続を宿命づけられたものでもないと思います。
日本における「構造改革」の進行が、淵源を新自由主義の政策にもつことは明らかで、それが1980年代以降のアメリカやイギリスで勢いを増した諸政策だということも明らかです。そこには、いわゆるケインズ主義的な経済運営の結果としての財政政策の破綻、資本主義大企業の多国籍化とそれが政治に求める経済政策の変化、89年のベルリンの壁崩壊に象徴されるソ連・東欧諸国の市場経済化、米ソ冷戦の集結をきっかけとしたアメリカの軍事的・経済的覇権主義の強まり、90年代半ばからのIT革命の進展と「金融経済」の肥大化など、多様な背景がありました。
さらに日本における新自由主義的政策の強まりを見る時には、日本経団連役員企業の構成変化にあらわれた、ゼネコン関連資本を核とする重厚長大企業から、自動車や電機機械メーカーを柱とする製造業多国籍企業への財界主流の変化や、先にもふれたアメリカからの対日要請を唯々諾々として受けいれる独自の政治の在り方を重視せねばなりません。
しかし、アメリカや日本が資本主義世界全体の典型であるわけではありません。この両国では貧富の格差の拡大は急速で、日本では社会保障政策の長期に渡る後退も明らかです。ですが、こうした政策は資本主義世界全体を一様に覆ったわけではありません。この点を課題評価しないことが大切です。たとえば「労働力流動化」「総額人件費削減」というのは、93~95年の東京・ナポリ・ハリファックスという3度のサミットで、カーター政権が各国に呼びかけた方針ですが、これをそのまま実行したのは日本くらいのものでした。EU諸国にも政財界による推進の動きはありましたが、これに抵抗する社会の力が、あからさまな労働条件の悪化を抑制します。『週刊・東洋経済』(08年1月12日号)が「『北欧』はここまでやる」「格差なき成長は可能だ!」という特集を組みましたが、福祉や教育の充実、男女平等の促進などに力をいれる北欧等でこそ一人当たりGDPが最も高いという内容です。北欧だけでなくドイツやフランスなどもそうした社会に近いものとなっています。資本主義の類型論もさまざまに議論されていますが、資本主義の世界がアメリカを見ればわかるといった時代はもはや過去のものとなっています。また、世界構造全体の転換に注目すれば、大規模な変動が起こっている中南米諸国が、「アメリカの裏庭」からの脱出を「アメリカの新自由主義的政策」からの脱出として強く自覚していることも重要です。
角度をかえてみれば、これらのことは新自由主義的政策の流行が、資本主義の枠内で解決のつかないような問題ではないということを示しています。それは北欧を含むEU諸国が、資本主義の枠の中にありながら、日本とは比べものにならない労働条件や福祉の充実をすでに実現していることに明らかです。またサッチャー政権によって新自由主義的政策が進められたイギリスでは、すでにその路線からの一定の転換がはかられています。この日本にあっても90年代に入るまでは、新自由主義を中軸とするのではない経済政策がとられていたわけで、それを資本主義が資本主義である限り解決のつかない問題であるかのようにとらえる必要はどこにもありません。
少しまとめておけば、私は、①資本主義世界の全体が新自由主義的政策によって覆われているとするような状況理解は正確ではない――この点は別の機会に論ずる予定ですが、アメリカ経済は量的には世界への影響力を強くもっていますが、経済の質の面ではすでにEUよりも未発達なむしろ遅れた資本主義になっている――と思っており、②したがって今日の資本主義世界の発展段階をアメリカン・グローバリゼーションの浸透という角度ばかりから特徴づけることにも反対で、③また今日の「格差社会」は資本主義の枠内での改善が可能なものであり、この社会からの脱出を資本主義後の社会に先のばしする必要はまったくないと思っています。
7・改革の主体形成論を活発に
次に、格差社会からの脱出の具体的な展望についてです。EU諸国との社会のあり方の相違をみるとき、アメリカや日本の社会が抱える問題は、資本の論理に対抗する社会の力が未熟なことだと思います。資本それ自体は、いつでも、どこにあっても「あとは野となれ、山となれ」です。しかし、そのような資本の野蛮な本性の発揮をゆるさない社会の力が育ち、それによる規制が加われば、資本は一定の文化的な行動を余儀なくされます。資本主義の内部にはそういう社会の分裂と対抗の関係があり、端的にいって階級対立の関係がある。問題は、その力関係の中で、資本を規制する力がどこまで社会に育っているかということです。要するに労働運動の力、市民運動の力、あるいは政党の力、それらが目前の支配層との対比において十分に育ちきっていない、そこに21世紀の現代にあって絶対的な貧困化を伴う「格差社会」を許してしまったこの社会の弱点があると思います。
政策論のレベルでは、たとえば雇用の分野において労働者派遣法をまずは99年以前のレベルにもどすとか、軍事費や公共事業費を削り、法人税や高額所得者の税率をあげるなどして社会保障予算の充実をはかるとか、様々な形で問題解決に接近していく基本の方向性は出されていると思います。投機の自由に対する規制を国際協調の中で実現していくこと、投機の犠牲を被った国民に対しては直接的な援助を行なうこと、また、先にふれた東アジア共同体の中での日本の位置の問題についても、IMFや世界銀行などの国際機関の改革、さらには国連の改革などについても方針の基本方向は打ち出されていると思います。
問題は、そうした政策を実行する政府を望む国民の意志の未熟さです。国民の政治的教養の不十分さです。これに対して科学はどういう対応の必要を提示するのか、そこの論議が求められていると思います。30年ほど前には変革主体形成の理論といった議論も様々に行なわれていたわけですが、今日、その手のものはほとんど目にしません。唯物論の立場から、科学の立場から、この問題にどう挑んでいくかはきわめて重要な課題となっているのではないでしょうか。
私なりに、これに関連する思いつきを順不同で列挙するならば、一つには国民の今日の貧困化が「構造改革」によるものであり、それは政財界の意志によって国民に強制されたものだという事実への理解を広げることが大切だと思います。苦しみの根源を知らせるということです。非正規雇用に追い込まれ、未来への希望を失った若者が自暴自棄になるといった事件も起こっていますが、敵が誰であるのか、どういう仕組みのもとに自分の苦しみが生まれているのか、その点への理解を深めていけば、やり場のない怒りの爆発は、少しずつでも苦しむもの同士の連帯へ、さらには悪政との闘いに力に転化していくのではないでしょうか。
『蟹工船』ブームの一端は、そこに登場する闘う労働者たちに魅力を感ずる若い世代の心情が支えていると思います。いまの自分のつらい境遇を抜け出すための何かがそこにあるのではないか、そういう切実な思いです。どういう政治家が、どういう政党が、労働者派遣の原則自由化に賛成し、社会保障予算の削減に賛成し、税の控除の廃止に賛成し、社会保険料の引き上げに賛成し、その一方で法人税や高額所得者の減税に賛成してきたのか、そしてどういう人たちがそういう流れに抗する闘いに努力してきたのか、そこの事実を広げることがやはり根本であるように思います。
二つには、いまの政治や社会を批判するにとどまらず、どういう社会目指すべきかという改革の展望を語り合う機運を高めることが大切です。「憲法どおりの社会」を一度しっかり目指してみよう、現在の政治状況や改憲派と護憲派の力関係を見るとき、私は「憲法どおり」という打ち出しは大変にタイムリーなものになるのではないかと思っています。たとえば、憲法25条の生存権の直後に27条の労働権があることは重要です。はたらくことを希望する国民の権利を国が保障するとしたものですが、それは国民の生存権を守るために、労働権を守ることがどうしても必要だという組み立てになっています。つまり生存権が守られないような賃金や労働条件は本来、この国にあってはならないものなのです。それが憲法の精神が語っていることです。憲法の条文を守る取り組みを発展させながら、あわせてこれを国づくりの指針としてしっかり位置づけるところへ、護憲の運動を発展させる必要があるのではないかと思います。
三つには、労働組合運動の一段の成熟が求められているように思います。日本の「構造改革」は歳出削減策の重要な柱に公務員削減を位置づけており、そこから自治体労働組合への攻撃が強められています。「地方財政改革」を理由に公務員賃金の引き下げが自治体側から提起され、組合が自分たちの生活を守るという立場から反論を加える、こういう様子がマスコミによって流されますが、そこで一部のマスコミは「組合はこのように自分たちの既得権を守ることしか考えていません」という具合に事態を描く。これが労働組合に対するマイナスイメージを広げる大きな機会とされています。
このような攻撃をはねかえすためには、「労働組合は日本国民全体の生活や運命を考える」「そのことを誰よりも良く考えて、必要な行動をとっていくのが組合だ」、そういう打ち出しが強く表に出る論立てや運動論が徹底されねばならないと思います。そうすることは組合員一人ひとりを、自分の権利や利益の問題とともに、社会全体のあり方、政治の在り方を論ずることのできる人間へと育てることにもなると思います。労働組合が「社会的連帯」づくりの柱となるには、そこの突破が必要なように思っています。
四つには、誰もが主権者として、自分の意見をいつでも社会に表明していくという習慣を身につけていく必要があると思います。労働運動や市民運動、学習運動、さらには科学者運動の担い手たちが、そういう習慣づくりの先頭に立っていく必要がある。そのときに、大切なことは、その意見の表明が自分の属する組織の意見をおうむ返しするばかりでなく、自分のあたまで考えた自分の意見の表明であることです。それが当人の政治的教養の充実のためにも、また社会全体の発展のためにも重要な役割を果たすと思います。それを気軽に行なわせる手段として、インターネットは非常に有効な手段を提供してくれます。特にブログやミクシィのようなSNSと呼ばれるネットワークは、技術的にはメールを書いて送信することができる人であれば誰でもできます。また無料で行なうことができます。書き込みの内容は、多くをケータイから読むことができますから、それはパソコンをもたない若い世代にも大いに影響を与えるものとなっています。
学生たち話していると「組合というのはそういうオタクの集まり」と理解している人にも出くわします。それに対して隣近所にいるような普通のオッチャン、オバチャン、若者がやっているんだと、様々な社会運動の生の姿を見せていくことが大切だと思います。
五つには、市民の学習のすすめということですが、勉強の方法にはいろいろなやり方があると思います。そのいろいろなやり方をTPOに応じて使い分ければいいわけですが、それにしても個人の心構えとしては、学習の基本は独習だということがもっと強調されてよいように思います。他方で、学びの取り組みを広げる学習運動の側からすれば、映像の活用に慣れることが大切だと思います。私は大学の授業でも「戦争と平和」をめぐる問題、「労働や貧困」をめぐる問題、「世界構造の変化」をめぐる問題、「社会の改革を求める取り組み」の問題などで様々な映像を使っていますが、それは短時間に非常に多くの情報を伝えてくれます。もちろん映像にすべてを語らせることはできません。しかし、それを手がかりにした話し合いや、補足の説明が必要です。それにしても学びを促進する重要な教材の1つとして、映像の制作や活用は大いにすすめられてよいものだと思います。
最後に、これは研究上の課題になりますが、EUには日本やアメリカよりも民主主義の観点から見て成熟した資本主義がすでに存在するわけです。もちろんそうした社会にもさらなる成長の課題があり、社会内部の対立もあり、社会の変化にジグザグもあるわけですが、全体としては、むき出しの新自由主義的政策を許さない国民の力が育っています。それが歴史的に何をきっかけにして、どのような段階をへて、どのような思想に導かれ、またどのような取り組みを通じて育ってきたのか、そこを明らかにすることが必要になっていると思います。これも科学が本領を発揮せねばならない領域の一つとして自覚されるべきではないかと思います。
もう終わりにしますが、最近「資本主義の限界」ということが日本のマスコミでも大きく取り上げられています。マスコミの取り上げ方にはそれなりの制約がありますが、そのような話題が取り上げられることは、前向きに受け止められるべき事柄だろうと思います。人間社会の発展には歴史があり、資本主義社会もその例外ではなく、歴史的に一過的な社会でしかない。資本主義を人間社会の行き止まりにある社会であるかのようにとらえる必要はまったくない。そういう議論を大いに喚起していく必要があるかと思います。それは他の何よりもマルクス主義、科学的社会主義の学問が高い蓄積をもつ領域です。そうした大きな議論を促進しながら、同時に資本主義の枠内での改革を議論するという二重の論立てが大切になってきているように思っています。
なんとも雑駁な報告になりましたが、問題提起のいくつかだけでも前向きに受け止めていただければ幸いです。
(本稿は、2008年3月15日に行われた関西唯物論研究会の例会での報告をもとにしたものです。)
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