以下は、日本民主青年同盟「民主青年新聞」2009年11月16日、2755号に掲載されたものです。
掲載時に字数オーバーで削除した冒頭部分を、復元しています。
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第3回「いつまでも資本主義で本当にいいのか」
前回は、財界や大企業・資本家たちとの綱引きによって、資本主義の利益第一主義に「ルール」をあてはめる実績があげられていることを紹介しました。「ルール」の基準は「人間らしい労働と生活」であり、日本にも「ルールある資本主義」をめざす取り組みが求められています。さて、最終回の今回は、さらにもう一回り歴史を大きくみて、日本は「いつまでも資本主義で本当にいいのか」という問題を考えます。
〔利益第一主義を乗り越える〕私たちが財界・大企業と綱引きを行い、「ルールある資本主義」づくりの努力を行わねばならないのは、何より、財界・大企業の行動が利潤第一主義に陥っているからです。それが労働者に貧困を押しつけ、周期的な経済危機を生みだし、さらに、今日では人類の生存をおびやかす深刻な地球環境破壊をもたらしています。
では、財界・大企業は、人間社会にこうまで大きな被害をあたえる利潤第一主義を、どうして行動の動機や目的とするのでしょう。
その根底にあるのは、生産手段――機械や工場、原材料や部品、生産・流通・販売を管理するための建物など――が、少数の資本家のものになっているという問題です。それによって、生産手段をもたない生産者は、資本家に雇われて労働者となるしかなく、また資本家同士の競争は、それぞれの企業の利潤追求を、天井知らずに進行させるものとなっていきます。
そこで、私たちが「ルールある資本主義」の段階を越え、利潤第一主義そのものをなくす改革に取り組むなら、それは生産手段を誰のものにするかという所有の改革を中心とせずにおれなくなります。
生産手段を少数の資本家のものから、社会全体のものに転換すれば――それを「生産手段の社会化」といいます――、資本家と労働者という関係が生まれる根拠はなくなり、経済活動の目的も個々の資本家のもうけから、社会全体の利益の追求に、根元から変えていくことができるようになります。
じつは、これが資本主義から社会主義への社会の改革です。
社会主義の社会をめざすということは、資本主義がその内部にかかえる問題を、手順を踏んで解決していくことの必然的な結果であって、誰かがあたまの中でひねり出した「理想」を、外から社会に押しつけるといったものではありません。
「ルールある資本主義」が深く進むにつれて、日本においても「利潤第一主義そのものをなくす改革」が、次第に人々の重要関心事となっていくでしょう。
〔社会主義とはどういう社会か〕社会主義の社会は、次のような特徴をもつでしょう。
第一に、資本主義がもたらした高い生産力を、世の中から貧困や差別をなくすために活用するようになります。時々の生産力がもたらす生活水準には限りがありますが、そこには資本家と労働者の対立が生み出すような、社会的な格差の余地はありません。
第二に、経済の計画的運営がより本格的に進められます。資本主義のもとでも、政府は景気や雇用の調整を試みています。しかし、今日のような経済危機が避けられないように、そこには大きな限界があります。「生産手段の社会化」は、その限界を生み出すもととなる、資本家同士の競争をなくしていきます。もちろんそこでは、社会と自然の調和も、計画的な管理の重要な柱内容となっていくでしょう。
第三に、人間社会の最大の追求目標が、人間一人一人の成長や発達におかれていくようになります。労働時間の短縮と生活の安定の上に立って、人々は拡大する自由時間を、それぞれの潜在能力の自由な開発に費やすことができるようになります。そうして育てられた力は、社会のより豊かで急速な発展を導くものとなるでしょう。
しかし、社会主義社会のこうした特徴は、資本主義を乗り越える改革をはじめた直後に、ただちに全面的に現れるものではありません。そこには一定の過渡期が必要です。日本では「ルールある資本主義」の高い到達点を出発点に、「市場を活用しながら社会主義へ」という道を少しずつ前進していくものとなるでしょう。
今日の世界では中国・ベトナム・キューバが、それぞれまだ途上国の経済・生活水準にありながらも、社会主義をめざす過渡期の道を歩んでおり、その中で中国とベトナムは市場を活用する道を選んでいます。
なお、みなさんには、すでに「歴史上の話」でしょうが、かつてソ連という軍事大国が「われこそは発達した社会主義だ」と名乗ったことがありました。しかし、その実態は、少なくとも1930年代には社会主義への過渡期を大きくはずれた、社会主義とは無縁の抑圧社会でした。
今日「新しい社会主義」を模索する南米の国々が、ソ連を社会主義の先輩として認めていないのはそのためです。
〔マルクス等の古典にかじりついて〕
現代の世界は、政治の面でも、経済の面でも、アメリカやG7など「先進工業国」中心のこれまでの構造を、大きく転換する過程に入っています。少数の大国が世界を一方的に左右する時代は終わりを告げ、すべての国々が世界をつくる主人公として育ちつつあります。
そして、その変化をさらに深くとらえていけば、そこには――戦争や貧困や恐慌や環境破壊の克服は、資本主義の枠内でどこまで可能なことなのか――という社会体制の問題がひそんでいます。
若いみなさんは、これから、そうした時代を切り開いていくわけです。
話を最初にもどせば、日本の政治は大きな変化の過程に入っています。鳩山新政権の成立は、そうした変化の最初の一歩にすぎません。「より人間らしい労働と生活」を求める国民の願いは、民主党のマニュフェストや連立3党の政策合意に収まりきれるものではないからです。
それは財界との綱引きをつうじて「ルールある資本主義」の形成を求めるものとなり、その「ルールある資本主義」を充実させる道の前進は、利潤第一主義の転換を求める社会主義への道に、次第に接近せずにおれません。
みなさんには、毎日の変化に立ち遅れることのない学びを期待します。
あわせて強調したいのは、こういう大きな変化の時期だからこそ、「人間の社会とは何か」「どこからどこへと発展するのか」「その発展の原動力は何か」――そういった社会の根本をつかむ「そもそも論」の学習に挑戦してほしいということです。
いますぐ理解できることは多くなかったとしても「いつか必ずよくわかるようになるはずだ」――自分の成長にそういう期待を大いにかけて、マルクス等の古典にかじりついてほしいと思います。
ではまた、お会いしましょう。
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