以下は、『経済』2010年3月(第174号)、12~21ページに掲載されたものです。
-------------------------------------------------------------「今日の東アジアをどう見るか」
1・世界構造の変化と東アジア
――世界の大きな変化がつづいていますが、その中で東アジアの現状や役割をどのように位置づけることができるでしょう。
東アジアは世界の構造変化の中で、その経済的・政治的地位の上昇を今後しばらく継続し、それによって世界の構造変化をますます促進していくと思います。
〔20世紀世界の変化と東アジア〕
まず世界全体の構造変化をふりかえっておけば、20世紀は、1917年のロシア革命をきっかけに、社会主義をめざす改革の取り組みが始まり、第二次大戦後には東アジアから世界に広がった植民地体制の崩壊があり、1991年のソ連崩壊後には、世界各国が「唯一超大国」アメリカへの従属ではなく、逆にそれからの自立を深める世紀となりました。
20世紀の初頭は、レーニンが『帝国主義論』などで描き出したように、少数の帝国主義列強が、南極大陸を除く世界全領土の分割を完了し、その再分割のための戦争へと進んだ時代でしたが、そうした世界像は、いまや遠い歴史のかなたとなっています。
そのような変化の中での東アジアの役割に注目すれば、第二次大戦後のベトナム、インドネシア、中国などによる植民地解放の取り組みは、その後の植民地体制の世界的な崩壊に向けた、歴史の重要な先駆けとなりました。また、その後、中国とベトナムは社会主義をめざし、今日、急速な成長を遂げています。さらに、1967年に創設された東南アジア諸国連合(ASEAN)は、ベトナム戦争の最中にもかかわらず、米ソいずれにも与しない「平和・自由・中立」の地域づくりを目指すものでした。このように、東アジアの国々は、20世紀世界の構造変化を生みだす上で、先駆的で中心的な役割を果たしてきたといえるでしょう。
〔注目されるアメリカの変化〕
その中で、いま注目されるのは「最後の帝国」アメリカが、成長する東アジアに、より対等な立場での接近を余儀なくされつつあることです。アメリカは戦前から中南米などで、形式的な独立を与えながら実質的な支配をつらぬく「新植民地主義」の政策をとってきました。その結果、戦後の植民地体制崩壊の中でも、「脱植民地化」の葛藤を体験することがなく、また社会主義の看板をかかげて帝国主義の政策をとったソ連への対抗意識もあって、いつまでも帝国主義を抜け出すことのできない遅れた軍事大国となってきました。かつてのベトナム戦争では、東アジアに破壊と分断と対立を持ち込みもしました。
しかし、そのアメリカが、今日、大きな外交政策の転換の中で、中国および東アジアとのより対等な関係づくりを余儀なくされているのです。アメリカは、ASEANが世界に広げてきた東南アジア友好協力条約(TAC)への加盟を、先制攻撃戦略の手が縛られることを理由に拒否してきましたが、オバマ政権になってこれへの加盟に踏み切りました(2009年7月)。これはそうした変化を象徴する出来事といっていいでしょう。
オバマ政権発足の直前である、2008年11月にアメリカの国家情報会議が作成した「2025年の世界」(http://www.dni.gov/nic/NIC_2025_project.html)は、その時点では「米国中心の国際秩序はほとんど姿をとどめていない」「中国とインドが多極化時代の新たな大国として米国と影響力を競い合う」「中国は今後20年間、他のどの国よりも影響力を強める」と述べました。その1年前には、アメリカの世界的な孤立からの脱却を深刻に訴えた「スマートパワー委員会報告」(07年11月)がありましたが、そこには今後のアメリカにとって最重要の二国間関係は米中関係だという指摘がすでに含まれていました。東アジアの政治と経済の発展は、アメリカの帝国主義・覇権主義政策の後退を導く大きな要因となっています。
〔2050年の世界経済予測〕
今後の世界経済の変化については、アメリカの大手証券会社ゴールドマンサックスが、「ネクスト・イレブン」という2007年のレポートで示した見通しが興味深いものとなっています(http://www.chicagobooth.edu/alumni/clubs/pakistan/docs/next11dream-march%20%2707-goldmansachs.pdf)。ゴールドマンサックスの経済調査部は、2003年のレポートでBRICs(今後の急速な経済成長が見込まれるブラジル、ロシア、インド、中国の頭文字をとった造語)という言葉を世界に広め、2005年には、その4ケ国につづき急成長をとげる11ケ国を「ネクスト・イレブン」と定義づけました。11ケ国というのは、バングラデシュ、エジプト、インドネシア、イラン、韓国、メキシコ、ナイジェリア、パキスタン、フィリピン、トルコ、ベトナムのことです。
図1(http://www2.goldmansachs.com/japan/gsitm/column/emerging/next11/index.html)は、そのレポートに含まれた、2050年時点での各国GDP(国内総生産)の予測と国際比較です。今日、最大の規模を誇るアメリカのGDPは、第3位のインドに追い越される寸前であり、ヨーロッパの国では最上位のイギリスが第9位にようやく登場し、日本もインドネシアに後れをとっての第8位で、もはや米日欧が世界経済の中心を占める状況では、まったくありません。
図1に示された22ケ国の中で、東アジアの国は、中国(第1位)、インドネシア(第7位)、日本(第8位)、韓国(第13位)、ベトナム(第15位)、フィリピン(第17位)の6ケ国となっており、全体の1/4以上を占めています。
この予測が出された後に、世界経済危機の深刻化が起こりますが、その過程で米欧日と中国の経済成長率の格差は、ますます大きなものとなっていきます。2009年の成長率については、まだ確定した数値が公表されていませんが、2009年10月のIMFによる「世界経済見通し」(http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2009/02/index.htm)によれば、世界全体の成長率がマイナス(▲)1・1%、国・地域別で見ると米欧日がアメリカ▲2・7%、ユーロ圏▲4・2%、日本▲5・4%であるのに対して、中国はプラスの8・5%となっています。両者の力関係の転換は、この危機の中でますます加速しているわけです。
〔資本主義を乗り越えようとする動き〕
もうひとつ、この図1の内容から読み取れるのは、GDPの規模で世界の上位にあがってくる国の多くが、2010年の現時点で、資本主義を乗り越える様々な衝動をはらんだ国だということです。第1位の中国は、いうまでもなく社会主義をめざしている国です。第2位のアメリカは「最後の帝国」ですが、第3位のインドには共産党が与党である州政府が、西ベンガル、ケララなどに存在しています。さらに、第4位のブラジルでは、与党の労働党が第3回党大会(2007年)でブラジルにおける社会主義の可能性を正面から議論しました。
さらに第5位のメキシコについては、イギリスのBBCが行った27カ国・2万9000人へのアンケート調査(2009年11月9日発表)に面白い数字がありました。このアンケートには、23%の人が、資本主義には致命的な欠陥があり、これにとってかわる新しい経済システムが必要だと回答していますが、そうした回答の最も多かった国が、フランス43%、メキシコ38%、ブラジル35%の順になっているのです(図2、http://news.bbc.co.uk/2/hi/8347409.stm)。この調査の限りでは、メキシコの世論には、資本主義批判の声がブラジル以上に強くあるということです。
他にも、たとえば南米では、ベネズエラ、ボリビア、エクアドルの政権党が、それぞれ「新しい社会主義」を模索しており、また社会主義をめざすキューバに対してアメリカが行っている経済封鎖の解除を求める決議が、国連で187ケ国の賛成を得るという状況を見ても(2009年10月)、21世紀の世界が資本主義を乗り越える様々な動きを発展させるだろうことはまちがいありません。
そういう中にあって、東アジアの中国とベトナムは「市場をつうじた社会主義への道」の探求に踏み込み、しかも周辺の資本主義各国との深い交流のもとにその道を進むという、この分野でも変革の最先端をいっています。
2・鳩山政権の「東アジア共同体」論をめぐって
――そうした変化の中で、鳩山政権が「東アジア共同体の構築」をうたっていますが、日本の政治や社会の動きについてはどうご覧になっていますか。
〔鳩山政権の新しい動き」〕
鳩山政権を構成する3党の政策合意文書(2009年9月9日、http://www.asahi.com/politics/update/0909/TKY200909090292_03.html)には、「中国、韓国をはじめ、アジア・太平洋地域の信頼関係と協力体制を確立し、東アジア共同体(仮称)の構築をめざす」という方針が含まれました。近隣各国との友好を深めることは、どこの国にあっても当然のことです。
その後、鳩山首相は昨年9月22日に、中国の胡錦濤国家首席との会談で「村山談話を踏襲する」と述べました。1995年に当時の村山首相が「戦後50周年の終戦記念日にあたって」というタイトルで発表したこの談話には、次のような文章が含まれています。「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の 人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます」http://www.mofa.go.jp/MOFAJ/press/danwa/07/dmu_0815.html)。
鳩山首相はこの「植民地支配と侵略」という事実認識と、「痛切な反省」「お詫びの気持ち」を踏まえて行動すると述べたのです。
さらに、半月後に韓国を訪れた鳩山首相は、李明博大統領との会談で「新政権はまっすぐ歴史というものを正しく見つめる勇気を持っている」(2009年10月9日)とも述べました。正しく見つめると一体どういう歴史認識になるのかという、肝心な点への踏み込みはありませんが、それでも、侵略戦争を正義の戦争だったと主張する、いわゆる靖国派が中枢を占めたこの間の自民党政権に比べれば、前向きな変化の可能性が見えており、一層の前進を期待したいところです。
〔利益第一主義の財界の議論〕
しかし、同時に注目しておかねばならないのは、政財界に、過去の歴史への理解の深まりや、その理解にもとづく各国への誠実な対応の必要性を、必ずしも第一義的な推進力としているのではない「東アジア共同体」論があるということです。そこで大きな役割を果たしているのは、東アジアの経済力・政治力の拡大を前にした、日本財界の利潤第一主義の経済戦略です。
私は『覇権なき世界を求めて』(2008年、新日本出版社)の中で、中国など東アジアの成長と共同の発展が、アメリカの東アジア政策の転換を生み出し、そのアメリカが首相の靖国参拝や「慰安婦」問題での日本政府の姿勢を批判するようになるという「政治変化の世界的な玉突き現象」を指摘しておきました。また、それと同時に、財界の一部に、経済的な東アジア重視の姿勢やアメリカ一辺倒であることへの懸念、さらには学校教育の中で若い世代に戦争を「正視」させ、靖国神社にかわりうる「戦争による犠牲者すべて」を追悼する記念碑を建立すべきだ、といった意見がうまれていることも紹介しておきました。
しかし、鳩山政権成立後に日本経団連が発表した「危機を乗り越え、アジアから世界経済の成長を切り拓く」(2009年10月20日)、「アジア経済の成長アクション・プランの実現に向けて」(2009年11月17日)などの文書や、日本経団連の月刊誌『経済Trend』(2010年1月号)の「アジアから世界経済の成長を切り拓く」という特集は、今日の経済危機のもとでも、抜群の成長を生みだす東アジアの消費力を、日本大企業にとっての「内需」として取り込もうということを主張するばかりで、「歴史」に対する言及は、まったくないものとなっています。
〔反省抜きの「共同体」論や逆流も〕
また、財界人、研究者の他に、省庁関係者もかかわり、2004年に設立された「東アジア共同体評議会」は、その「使命」を「『東アジア共同体』はすでに不可逆的なうねりとして我々に迫ってきている。この展望を正面から捉え、我々日本がいかなる戦略を構築するかを、今こそ問わなければならない」としています。
この会の会長は中曽根康弘氏ですが、同氏は、1985年に靖国神社への公式参拝を、初めて「終戦記念日」の8月15日に行った首相であり、いまも「新憲法制定議員同盟」の会長をつとめる人物です。そうした影響力の強い保守の政治家が、自らの歴史認識をあらためることなく、東アジアに対する日本の「戦略」を模索しているという現実があります。中曽根氏は、最近も、世界平和研究所会長の肩書で書いた「共通通貨が開く日本とアジアの未来」(『中央公論』2009年4月号)で、「ドル、ユーロに並ぶアジアでの第三極」形成の必要を強調しています。
このように東アジアの台頭は、この地域における友好の発展を、日本政財界の好むと好まざるとにかかわらず、達成すべき重要課題として浮かび上がらせています。そして、その達成のためには、客観的には「歴史問題」の解決を避けることができません。しかし、「東アジア共同体」を口にする政財界人の中に、史実を踏まえてこの問題に積極的に取り組もうとする動きが強まっているわけではなく、むしろ「未来志向」といった言葉で過去の歴史を曖昧にしようとするやり方が目につきますし、NHKが韓国併合にいたる明治の歴史をたたえるドラマ「坂の上の雲」を、併合100年の節目にあわせて放映するなどの逆流も起こっています。これらは、大いに重視すべき問題だと思います。
〔脱アメリカ支配とAPECの変化の兆し〕
鳩山政権の「東アジア共同体」論は、アメリカとのかかわりという角度からも見ておく必要があります。
アメリカは、1989年にオーストラリアのイニシアチブでつくられたアジア太平洋経済協力会議(APEC)を、特に1993年のシアトルでの初の首脳会議を転機に、東アジアにおける貿易・為替・投資の「自由化」を推進する場として活用してきました。そこから、東アジア自身の手になる〈東アジア〉と、アメリカ主導の〈アジア太平洋〉という地域協力の併存と摩擦が起こってきます。APECの中で日本は、自国大企業の利益も重ね合わせて、アメリカが求める「自由化」推進の旗振り役を務めてきました。しかし、1997年のアジア通貨危機をきっかけに、東アジアにはアメリカ離れの動きが進み、2000年のチェンマイ・イニシアチブなど「ASEAN+3(日中韓)」の通貨・金融協力も生まれてきます。
さらに2005年末からは、東アジア共同体を展望した「ASEAN+6(日中韓の他にオーストラリア、ニュージーランド、インド)」による東アジアサミットが、定期的に行われるようになりました。これを推進する中心に立ったのはASEANですが、ASEANは2015年に加盟10ケ国での共同体をつくりあげることで合意しており、現在、そのための具体的な作業を進めています。
アメリカは、2005年の東アジアサミットの開催や、そこに日本が加わることに対して強い反対の意思を示しましたが、それが通らないと見ると、ブッシュ大統領が第一回サミットの直前に、中国との「建設的パートナーシップ」を確認するという大幅な譲歩を行いました。これは2002年のブッシュ・ドクトリンが、中国を「潜在的敵国」ととらえていたことからの急転換といってよいものです。
この時期から、アメリカは共同を深める東アジアに、より対等な形での接近の政策をとるようになり、そして、そうした路線転換にとって障害と感じられた、日本政府の強くなりすぎた靖国色を抑えるための動きを強めます。ブッシュ政権が小泉首相(当時)の靖国参拝にクレームをつけ、またアメリカの下院外交委員会ではじめて「慰安婦」決議があげられるのは、翌2006年のことでした。
今日のオバマ政権による米中関係の重視には、両国で世界を支配しようとする「G2」の狙いが込められているという人もいます。しかし、少なくとも中国の側に、これに応じるつもりがないことは、すでにはっきりしていることです。NHKの「クローズアップ現代」が、2009年11月24日に楊潔篪外相へのインタビュー番組「”大国”中国の外交戦略」を放送しましたが、少数大国が世界を動かす時代は終わった、「G2」には与しないというのが楊外相の明快な回答でした。
また2009年にシンガポールで行われたAPECの会議では、インドネシアのユドヨノ大統領が主張した「包括的経済成長」の路線が確認されています。これは貧困層を擁護する経済成長を目指すもので、従来アメリカや日本が求めてきた、大企業の利益を第一とする「構造改革」や「自由化」推進の路線に対する一定の反省を含むものとなっています。APECの中にさえ、今日、このような新しい変化が生まれているわけです。
〔アメリカ追随から抜け出せない鳩山政権〕
このように、東アジアがアメリカからの自立を前提として、お互いの連帯を深める道を進んでいることはまちがいなく、鳩山政権が「東アジア共同体の構築」を強調せずにおれなくなっているのは、財界やアメリカの東アジア政策の一定の転換を受けてのことです。
ただし、先の3党政策合意文書には、東アジア共同体を「アジア・太平洋地域の信頼関係と協力体制」の確立の上で行うと、そこに、あえて「太平洋」という言葉を含ませています。それは、アメリカが長く、アメリカ主導の〈アジア太平洋〉のもとに東アジアを位置づけようとしてきたことへの配慮であり、「緊密で対等な日米同盟」という同文書の文言に象徴される、アメリカへの追随姿勢の表れといっていいものです。その点で、鳩山政権の「東アジア共同体」推進論は、いまだ日本政府としての自立した東アジア政策の展開にもとづくものとはなっていません。
3・中国の経済外交と東アジアの歴史
――東アジアの急速な成長や世界的地位の変化にかかわって、他にはどのようなことに関心をお持ちでしょうか。
〔中国とアフリカの経済交流〕
ひとつは、中国の経済外交が、今後の世界構造の変化にどういう影響を与えていくかという点に関心をもっています。特に、この数年、中国はアフリカ諸国との交流を急速に発展させてきました。
2000年に始まった中国・アフリカ協力フォーラム閣僚会議は、第3回会議(2006年11月)を初めての首脳会議としました。その後、胡錦濤国家首席のアフリカ8ケ国歴訪(2007年2月)、アフリカ開発銀行総会の中国での開催(2007年5月)、中国アフリカ発展基金の創設(2007年6月)、国連本部での中国・アフリカ48ケ国外相会議(2007年9月)などが続けられました。両者の経済交流は急速に発展し、その過程では、中国の行動を「新植民地主義」だと批判する見解も出てきましたが、これに対して世界銀行のポール・ウォルフォウィッツ総裁(当時)が「アフリカの貧困からの脱出をはげまし促す」ものだと反論を加えるといったこともありました(2006年11月)。
2009年12月には、第4回の中国・アフリカ協力フォーラム閣僚会議がエジプトで開かれ、中国は100億ドルの低利での融資をアフリカ諸国に約束しました。NHKスペシャル「チャイナパワー」の第2回が「巨龍 アフリカを駆ける」(2009年11月29日)、第3回が「膨張する中国マネー」(2009年12月13日)を描きましたが、中国は外貨準備などを積極的に海外投資に活用する国家戦略をとっており、その投資額はすでに年5兆円に達しています。また、中国はアフリカに工業製品を輸出し、原油などの資源を輸入していますが、アフリカ全体への輸出額は、2007年の段階で旧宗主国のフランス等を抜いて、世界第一位となっています。
アフリカ53ケ国全体の経済成長率は、99年から08年までの10年で年平均5・3%と高くなっており、地中海に面した諸国をのぞくブラック・アフリカ47ケ国は、5・6%とさらに高くなっています。そこには、中国の成長がアフリカの成長の少なからぬ部分を牽引するという関連が成り立っています。
〔平和共存と相互交流の新段階〕
かつてソ連で「ネップ」を推進した時期のレーニンは、ヨーロッパの経済復興をめざした1922年の国際経済会議(ジェノバ会議)に参加する際に、この会議を準備した第一次大戦の戦勝国が、参加各国の所有・経済・政治制度の多様性を大前提としていることを重視しました。当時のソ連は、今日の中国と同様、市場経済を活用しながら社会主義をめざす過程にありましたが、この会議は、そのソ連が帝国主義諸国からの干渉戦争に苦しみながらも耐え抜き、ついに帝国主義・資本主義諸国との平和共存と経済交流の道に踏み出す歴史的な一歩となるものでした。
今年2010年は、アフリカの旧植民地17ケ国が一挙に独立した「アフリカの年」の50周年にもなるわけですが、今日では、帝国主義諸国から独立した、世界で最も貧しい旧植民地諸国の成長を、社会主義をめざす国が経済交流の中で大いに激励する役割を果たしているわけです。ここにも歴史の大きな変化を見て取ることができます。こうした関係を、中国が、社会主義をめざす国にふさわしい形でさらに発展させていくならば、それは社会主義の理念や体制への世界的な信頼を大きく広げるものにもなるでしょう。期待をもって見守りたいところです。
〔東アジアの経済史研究に学んで〕
もうひとつ、こちらはこれから勉強したいと思っていることですが、東アジアの現在の姿を、その歴史の上にとらえてみたいということです。この分野の専門家の言葉に従えば、東アジア経済史の研究はこの20年ほどの間に大きく進み、それらの研究には、一国史だけでなく東アジアの一体性に注目する、戦前戦後の断絶だけでなく連続性に注目する、各国の関係を対立だけでなく相互の依存や影響に注目してとらえるといった、新しい特徴が生まれているようです。
たとえば東アジアの近代を、従属と自立という角度からとらえれば、①長い自生的な発展の段階、②16世紀以降の西欧資本主義・帝国主義による植民地支配の時代、③20世紀の日本帝国主義による新しい侵略と植民地支配の時代、④戦後の独立と成長の時代という具合に区分していくことができます。しかし、ここに、たとえば次のような経済史研究の成果を加えるならば、歴史はさらに立体的に見えてきます。
①17世紀頃には東アジアは西欧と同様の経済発展を達成していた。それにもかかわらず、東アジアで資本主義の形成が遅れたのは、国家間の競争の格差があったからで、それによる本源的蓄積の推進が、西欧に一足早く資本主義を成立させることとなった。
②15世紀には、すでに東アジアにも広域交易圏が成立していた。16世紀になってそこに西欧諸国が参入してくる。19世紀には、東アジアは、植民地・従属国として欧米主導の世界市場に組み込まれるが、その時期にも東アジアには域内貿易の発達があった。その点は、ラテンアメリカやアフリカとの重要な相違であり、根底にあったのは在来中小工業の発達の格差であった。東アジアでもっとも早く産業革命を達成した日本の資本主義は、こうした域内貿易の中でこそ、急速な成長が可能となった。1920~30年代には中国資本主義も成立し、東アジアにはじめて近代国家間の競争が誕生する。
③19世紀の東南アジアには宗主国との間の植民地型の経済構造が形成されるが、その構造が、大戦間期にはアメリカへの輸出、日本からの輸入を主とするものに転換する。欧米帝国主義への対抗のために、日本は植民地の開発に力を注ぎ、朝鮮・台湾の資本主義化を進めることとなった。大恐慌期以降も、日本は満州をふくめた「帝国圏」だけでなく欧米の植民地地域にも輸出を拡大する。その後の日本帝国主義の拡大は、旧来の東アジアの域内貿易を分断するものとなっていった。
以上は、東アジア地域研究会・中村哲編『現代からみた東アジア近現代史』(青木書店、2001年)他の中村氏の研究を参考にしたものです。同氏は、④の20世紀後半の「歴史的な理論的枠組み」は未完成だとされていますが、いずれにせよ、こうして蓄積されてきた研究の成果を積極的に検討し、現代の東アジアをこの地域自身が内部にもつ発展の論理に即してとらえる努力が必要だろうと思っています。
東アジアの歴史と現在の研究は、私たちの未来を考える上で、ますます重要なものとなっていくでしょう。
--東アジアを大きくとらえる視角を提示していただきました。本日は、ありがとうございました。
最近のコメント