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いまマルクスがおもしろい
第2回 若いマルクスのバイタリティー
神戸女学院大学教授 石川 康宏
みなさん、こんにちは。今回は、みなさんと同じ年代の「若いマルクスのがんばり」について書いてみます。若いみなさんの生き方に、きっと大きな刺激を与えてくれるでしょう。(7回連載)
マルクスが生まれ育った時代
前回、マルクスが1818年のドイツ生まれ、ということを紹介しておきました。まず、その時代の空気を少し感じておきましょう。
当時のヨーロッパ社会は「フランス革命」の巨大なインパクトに揺れ動いていました。1789年に起こったこの革命は、王様の政治から、国民に選ばれた代表者の政治へ、政治のあり方を根本的に転換しようとするものでした。
1799年には、ナポレオン・ボナパルトが軍事力でフランス政治の頂点に立ちますが、その独裁政治の下でも、人間の平等や財産所有の絶対性などを定めた「ナポレオン民法」ができるなど、革命の理念は基本的に守られました。
ただしナポレオンは、革命をヨーロッパ各国に力で押しつけようと「ナポレオン戦争」を行ないます。ロシアやイギリスが大きな役割を果たし、フランスはこの戦争に敗北します。そして1815年には、戦争後のヨーロッパのあり方を話し合う「ウィーン会議」が開かれ、各国で王様による政治を復活することが確認されました。実際にフランスでも、革命前のブルボン王朝が復活します(1830年に再び倒されますが)。
そうした逆戻りもありましたが、戦争を通じて、フランス革命の思想的な影響は、ヨーロッパ各地に広まりました。それが次の新しい政治の改革を準備する力となっていきます。ウィーン会議の3年後に生まれたマルクスは、そうした激動の空気を吸い込みながら、若い時代を過ごしました。
この歴史のダイナミックな変化の根本にあったのは、封建制から資本主義への経済のしくみの転換でした。
「私」の生き方と「みんな」の生き方
1835年に、マルクスが17歳で書いた文章の一部を紹介します。タイトルは「職業の選択にさいしての一青年の考察」です。
「地位の選択にさいしてわれわれを導いてくれなければならぬ主要な導き手は、人類の幸福であり、われわれ自身の完成である」(『マルクス・エンゲルス全集』第40巻519ページ)。
「地位」というのは、自分がつこうとする「職業」のことなのですが、それを少年マルクスは、「人類の幸福」と「われわれ自身の完成」を基準に決めねばならないというのです。
そして「人間の本性というものは、彼が自分と同時代の人々の完成のため、その人々の幸福のために働くときにのみ、自己の完成を達成しうるようにできている」とも言っています(同前)。
ここには「自分さえ良ければ」という、せまい個人主義が入り込むすきはありません。「自己」は「人々の幸福」のために働くときにだけ「完成」するのですから、許されるのは「私」の幸せを「みんな」の幸せに重ね合わせる生き方だけになるわけです。
僕は、この少年マルクスの人生観は、みなさんが自信の持てる「生き方」を探すうえで、とても重要な問題提起を含んでいると思います。
「私」の生き方を、「みんな」の幸せにつながるものにするのか、あるいは「みんな」の幸せを踏みにじるものにするのか、それは「私」の生き方への自信を大きく左右することになるでしょうから。ここは、ぜひよく考えてほしいところです。
自分で決めた激動の人生
22歳でマルクスは、イエーナ大学で哲学の博士号をとり、大学の教師になろうとします。しかし、遅れたドイツの社会には、マルクスのような進歩的な人物を受け入れるゆとりがありませんでした。
そこでマルクスは教師をあきらめ、1842年に24歳で、営業の自由などを求めるライン州の改革派の資本家たちが発行していた「ライン新聞」の事実上の編集長になります。ここでマルクスは、新聞に対する政府の検閲とたたかい、庶民の生活にかかわる具体的な経済問題に直面し、社会主義・共産主義の思想にもふれることになります。
43年に政府がこの新聞を発行禁止にしたところで、マルクスはパリに移ります。そして「ユダヤ人問題について」「ヘーゲル法哲学批判序説」という二つの論文を発表し、この世はどうなっているか、どう変えればよいかという理論的な探究を開始します。
この時、まだ25歳なのですが、すごいなと思うのは「ユダヤ人問題について」の中で、早くも人間の「政治的解放」にとどまらない「人間的解放」が提起されていることです。
ここでの「政治的解放」というのは法的な平等のことで、現実のヨーロッパ社会は、その実現をめぐる激動のさなかにありました。しかし、その平等が実現されても経済的な格差や貧困はなくならない、そこで、その問題の解決に取り組む「人間的解放」が必要だと、青年マルクスは、すでにフランス革命の問題提起を乗り越える、より根本的な改革の探究に進んでいたのです。
この発想は、46年までに書かれた「ドイツ・イデオロギー」の中で「共産主義革命」として仕上げられていきます。この時期のマルクスの研究の前進は、驚くほどに急速です。
マルクスは、実際の政治活動でも精力的でした。46年に、エンゲルスと一緒に、ブリュッセルに「共産主義者通信委員会」を立ちあげます。そして社会改革についての自分たちの考え方を広め、イギリス、フランス、ドイツの運動家との連絡を深めていきます。この委員会のメンバーにはロンドンの「正義者同盟」の一員も加わりました。
「正義者同盟」は、もともとは、フランスへ逃れたドイツ人労働者の秘密結社ですが、40年頃からは国際的な組織に変わっていました。47年には、共産主義の考え方に基づく組織に改革するため、マルクスとエンゲルスに加盟と協力を求め、同じ年に開いた大会で名前を「共産主義者同盟」に変更していきます。
この求めに応じて、同盟の綱領として書かれたのがマルクスの『共産党宣言』です。この時、マルクスはまだ29歳の若さでした。
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ざっとふり返っただけでも、本当に激動の青年時代です。このマルクスがもし現代日本に生きていたら、いったいどれだけの研究と活動をやってのけたでしょう。
ここで僕が強調しておきたいのは、青年マルクスの人生に、誰かに指示されて行なった行動は一つもないということです。研究も、政治活動も、すべては自分で決めた生き方です。このマルクスの生き方を参考にして、みなさんにも「みなさん自身の人生」を力強く送ってほしいと思います。
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