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いまマルクスがおもしろい第3回 ものの見方を学んでみよう
神戸女学院大学教授 石川 康宏
みなさん、こんにちは。今回から、マルクスの理論の中身に入っていきます。まずは「ものの見方」の基本から。ふつうは「哲学」とか「世界観」なんて呼ばれている問題です。(7回連載)
重力があると思うから溺れてしまう?
マルクスは若い時期から亡くなるまで、ものすごくたくさんの論文や本を書きました。この連載では、有名な文章を少しだけ紹介して、それに解説をつけていきます。「マルクスは、ホントはもっと詳しく書いてるんだろうなあ」と思いながら読んでください。
一つめは『ドイツ・イデオロギー』からです。
「あるけなげな男が、かつて、人間が水に溺れるのは彼らが重力の思想に取りつかれているからでしかないと思い込んだ。たとえばこの観念を迷信的な観念、宗教的な観念と言明することによって、それを頭から追い払えば、彼らはすべての水難を免れるというのだ。生涯にわたって、彼らは重力の幻影とたたかった」(新日本出版社〈科学的社会主義の古典選書〉版、10ページ)
人が溺れるのは、重力があると思い込んでいるからで、その思い込みを頭から追い払えば、人が溺れることはなくなるのだ、こういうものの見方をマルクスは観念論とよびました。なにかの観念――この場合は重力があるという思い込み――が、現実――人が溺れるということ――をつくりだすのだ、という種類のものの見方です。
これに対してマルクスの見解は、まったく逆のものでした。人が気づこうと気づくまいと、現実世界には重力がある、だから重力に逆らう泳ぎの技術を身につけなければ、重力をどう考える人であれ、みんな溺れてしまう、そもそも「重力の思想」は現に重力があるから生まれてくるのだ。マルクスはこのように、観念が現実をつくるのでなく、現実こそが観念をつくる大もとなのだと考え、こういう見方を唯物論とよびました。
どちらの見方が正しいかは、「就職難だと思い込むから就職できない」「火が熱いと思い込むから、手を入れるとやけどする」「そう思い込むから学費は高い」など、観念論の具体例をあげてみると、すぐ分かります。
ここでマルクスが批判しているのは、青年ヘーゲル派とよばれた当時の改革派の理論家たちです。彼らは目の前にある古い王様時代の体制を批判しましたが、批判は宗教(観念)の分野にとどまり、民主主義や自由など具体的な政治の分野には進みませんでした。マルクスは、そうした改革派の思想的弱点を乗り越えなければ、ドイツ社会の民主的改革に進むことはできないと考えたのです。
観念論の考え方からは「みんなが安心して暮らせる社会にかえよう」「ヨーロッパのように学費を安くしていこう」など、現実を改革する行動が生まれてきません。なにせ、すべては「思い込み」のせいにされてしまうのですから。
世界は大昔から変わっていない?
二つ目は、現実世界はかわっているのかいないのか、という問題です。
マルクスの生涯の友人であり共同研究者であったエンゲルスの『フォイエルバッハ論』から紹介しますね。
「世界はできあがっている諸事物の複合体としてではなく、諸過程の複合体としてとらえられねばならず、そこでは、みかけのうえで固定的な諸事物も、…生成と消滅のたえまない変化のうちにあ(る)」(古典選書版、72ページ)
ここで「できあがっている」というのは、もう完成しており、どのようにもかわりようがないということです。つまり「世界はできあがっている諸事物の複合体」だというのは、世界は何百億年さかのぼっても、今とかわらぬ姿であった、ということです。個々の命が生まれたり、消えたりということくらいは認めても、人間とか、地球とか、宇宙とかは、今とまったく同じ姿であったというわけです。
これに対してマルクスらは、当時誕生したばかりの生命や宇宙の進化論に学び、世界は変化の「過程」にあると考えました。そしてこのように世界のあらゆるものは変化の過程にあるという見方を、マルクスは弁証法と呼びました。
21世紀の現代では、細かく分からないところはあるにしても、人類や生命の発生、地球の歴史、宇宙の変化など、それぞれの事物や世界の全体に、「はじまり」や「変化」があることは、科学の常識となっています。
マルクスのすごいところは、その現代の常識を「世界は神様が、今ある形でつくりあげた」とヨーロッパの多くの人が考えていた時代に、ずばりと言ってのけたところにありました。ダーウィンでさえ、生物の「進化」が『聖書』の世界に反していると、『種の起源』の発表を遅らせた時代のことですからね。
社会の変化は偶然に決まる?
三つ目も『フォイエルバッハ論』からです。社会のしくみや歴史のとらえ方の問題です。
自然に比べて、社会は科学の探究が遅れた分野となってきました。社会は人間たちの意志でどこにでも向かう、歴史は英雄の登場に大きく左右される、だから社会の変化は偶然で、科学でとらえられるものではないのだ、長くそう思われてきたからです。
そこに初めて本格的にメスを入れたのが、マルクスらでした。
「歴史の本来の最終的な推進力をなしている動力を探究することになると、…問題になるのは、人間の大きな集団、民族全体、さらにそれぞれの民族のうちでの諸階級全体を動かす動機であり、しかもこれも…大きな歴史的変動をもたらす持続的な行動にみちびくような動機である」(83ページ)
補足しながらかみ砕いて言うと、多くの人間の意志が、いっせいに同じ方向を向いた時に歴史は大きくかわる、英雄の成功か失敗かはその人の進む方向と、多くの人が進もうとする方向が同じかどうかによっている、だから歴史の「推進力」の探究は、多くの人を持続的に動かす「動機」がどのようにしてつくられるかの探究になる、というわけです。
マルクスは、その探究をつうじて、社会は、文化、政治、法律などいろんな要素からなっているが、最も影響力の強い要素は経済であり、経済の変化が歴史をつくる「動機」の根本にあることを見つけました。
今回はここまでです。唯物論の見方、弁証法の見方、社会の土台に経済をとらえる見方、こうしたものの見方をみなさんはどうとらえますか。慌てず、じっくり考えてみてください。
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