以下は、兵庫県地域人権運動連合「地域と人権・兵庫版」2011年3月1日、第429号、第2面に掲載されたものです。
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随想・社会の思想を語る気構え
なぜ日本では人の命を奪うほどの深刻な「自己責任」論が強い影響をもつのでしょう。日本国憲法が、国民の文化的で健康な最低限の生活を「国が」守ると定めているにもかかわらず。これは深く、しっかりと考えられねばならない問題です。
私は、万人の人権が守られるべきだということを、いまだ血肉化できない日本社会の歴史的未熟さとして、これをとらえる必要があると思っています。
この視角を得るきっかけは、現代資本主義についての研究でした。少なくない研究者が現代資本主義というけれど、その現代とは何であり、何を基準にそれを重視しているのだろうという問題です。
この研究をすすめの中で、マルクスを読み返してみました。そこで、社会の発展と個人の発展の関係という問題を、私なりに再発見することになりました。マルクスは未来社会をつくるのにふさわしい「個性の発展」が、資本主義の中でどう形成されるかと問題を立てました。私は、それを資本主義の枠内で社会発展をすすめる個人の成長の問題としてとらえてみたいと思ったのです。
他方で、日本資本主義の歴史も振り返ってみました。あらためて気づかされたのはヨーロッパ諸国との民主主義をめぐるたたかいの積み重ねの落差です。フランスやイギリスでは人権と議会を求める市民のたたかいが、資本主義の歴史を拓きました。
それに対して日本の資本主義化は、富国強兵、軍事力強化を最初からの目的とします。そして人権や民主主義を求める動きは、天皇制権力につぶされました。その結果、日本とこれらの国には、人権や民主主義の獲得と充実の歴史に100年単位の落差が生まれています。
もちろんこの差は永遠の宿命などではありません。とはいえ、それをどのようにして縮めていくのかという大局観をもたずに、現代日本を考えることはできないのです。どのような問題にも、人権とは何か、民主主義とは何か、生存権とは何か、こういう人間社会の根本にかかわる思想レベルの取り組みを、重視してかからないわけにはいかないのです。
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