以下は、関西唯物論研究会編『現代と唯物論』第48号に掲載されたものです。
聽濤弘氏「新しい社会主義像の探求」、
芦田文夫氏「『自由・民主主義』『市場経済』をつうじる社会主義論」とともに、
特集「今なぜ社会主義論か」に収められました。
原稿では、傍点、傍線を活用しましたが、
ここでは、それぞれを斜体、下線で示しています。
一部、誤植を訂正してあります。
------------------------------------------------
マルクスの資本主義分析と未来社会論
石川康宏
リーマンショックをきっかけとした世界経済危機の深まりの中で、資本主義の批判的研究者としてのマルクスに新しい注目が集まっている。
だが、その注目の視野に、資本主義を越える新しい社会を展望した共産主義者としてのマルクスはふくまれていない。そこにはかつてのソ連社会に対する強い拒絶感があらわれている。
とはいえ、理論的にいえば、これはきわめて矛盾した傾向といえる。
肯定の中に否定をとらえる弁証法にもとづくマルクスの資本主義分析は、資本主義の発展過程を、同時に未来社会の物質的・主体的な準備の過程ととらえるものになっているからである。
小論では、このような視点にもとづいて、未来社会論に関するマルクスの基礎的な論点を紹介する。
なおマルクスは資本主義を越える未来の社会を、社会主義、共産主義、結合的生産様式など様々な言葉で表現したが、ここではそれらを基本的に同じ内容のものと考える。
一 未来社会を論ずる根本の視点
まず、右にふれた未来社会を論ずる根本的な視点についてである。これについてはエンゲルスが『空想から科学へ』で述べた次の文章がわかりやすい。
「すべての社会的変動と政治的変革の究極の原因は、人間の頭のなかに、すなわち、永遠の真理と正義についての人間の認識の発展に求めるべきではなくて、生産様式と交換様式の変化に求めるべきであり、それは哲学のなかではなくて、その時期の経済のなかに求めるべきである。
現存の社会制度が非理性的な、不正義なものであり、理性は無意味になり、幸いが災いになったということについての認識の発展は、生産方法と交換形態にいつのまにか変化がおこり、以前の経済的条件にあわせてつくられた社会制度がもはやこの変化に適合しなくなったことの、一つの兆候にすぎない。
それはまた同時に、あばき出された弊害を取り除くための手段もまた、変化した生産関係そのもののなかに――多かれ少なかれ発展して――存在しているにちがいないということを意味する。
この手段は、けっして頭のなかで考案すべきものではなくて、頭をつかって現存の生産の物質的事実のなかに発見すべきものである」(新日本出版社・古典選書『空想から科学へ』、六二~三ページ、傍線は石川、傍点はイタリック体によるエンゲルスの強調、以下同様)。
エンゲルスは、社会変革の究極の原因が、その社会の内部に、とりわけ経済の中にあり、そこには変革の必要を人間に理解させる諸問題とともに、諸問題を解決するための手段もふくまれていると述べている。
だからこそ資本主義を乗り越える未来社会の探求は、それらを現にある資本主義社会のなかに「発見」していく作業となる。それは「空想的社会主義から科学的社会主義への社会主義の発展」を支える根本の論点である。
二 資本主義の歴史を導く根本矛盾
具体的な資本主義探求の内容に入りたい。
まず確認したいのは、マルクスが生涯をかけた『資本論』の「最終目的」についてである。
マルクスは『資本論』「初版への序言」の中で「近代社会の経済的運動法則を暴露することがこの著作の最終目的である」(新日本新書①、一二ページ)と述べている。
価値論、剰余価値論、蓄積論など『資本論』第一部には斬新で重要な解明が豊富にあるが、マルクスの最終目的はそれら個々の論点の解明ではなく、それら論点の解明を積み重ねることによる資本主義社会の「経済的運動法則」の解明だった。
ここにいう「運動法則」とは、第一部の結論部分といっていい第二四章に代表されるように、資本主義の生成・発展・死滅に関する大局的な歴史的運動法則のことである。
一六世紀からの「資本主義時代」の開始(資本の本源的蓄積の時代)や、機械制大工業の成立により資本主義が自分の足で立つようになる「独自の資本主義的生産様式」の時代など、『資本論』第一部には資本主義社会全体の発展段階に関する叙述が随所にあり、特に「独自の資本主義的生産様式」の分析は、「自由な結合的労働の社会経済」(未来社会)に向けた諸要因の形成を、多面的に究明するものとなっている。
第二四章第七節は、それらの論点をあらためて総括し、とりわけ未来社会に向かう資本主義の死滅の究明に力点をおくものとなっている。
そのような「運動法則」の探求にあたり、マルクスが重視したのが資本主義の歴史的運動を導く「資本主義の根本矛盾」の解明であった。
マルクスの世界観は、世界のあらゆる事物は変化の過程にあり、その変化を導く運動の原動力は事物内部にふくまれた矛盾にあるとするものだが、その見地は資本主義社会の運動の解明にも適用されていく。
たとえばそれをマルクスは、第一部完成稿にいたる以前ではあるが、『資本論』第三部の中で次のように表現していた。
「資本主義的生産の真の制限は、資本そのものである。資本とその自己増殖とが、生産の出発点および集結点として、生産の動機および目的として、現われる、ということである。
生産は資本のための生産にすぎないということ、そして、その逆に、生産諸手段は、生産者たちの社会のために生活過程をつねに拡大形成していくためにだけ役立つ諸手段なのではない、ということである」
「資本主義的生産様式が、物質的生産力を発展させ、かつこの生産力に照応する世界市場をつくり出すための歴史的な手段であるとすれば、この資本主義的生産様式は同時に、このようなその歴史的任務とこれに照応する社会的生産諸関係とのあいだの恒常的矛盾なのである」(『資本論』⑨、四二六~七ページ)。
資本は自己増殖(剰余価値生産の追求)を運動の目的とし、それによって自身と社会全体の生産力を発展させるが、「生産者たちの社会」を豊かにすることはできず、その結果、生産と消費の矛盾が生まれ、生産力発展の衝動そのものもスムースに満たすことができなくなっている。
資本主義は恐慌という、周期的な社会の生産力の破壊をふくむ経済循環を通じてしか、生産力を発展させることができない。
マルクスは主に、このように恐慌論の解明という課題に引きつけて、資本主義の根本矛盾を探究した。
ただし、それはマルクスがいつでも、根本矛盾の探究を恐慌という矛盾の特定の展開形態に結びつけてとらえていたということではない。「五七~五八年草稿」でマルクスは次のように述べているが、そこでは資本の本性がもたらす「制限」は、様々な姿をとりうるものとなっている。
「資本がそのような限界のすべてを制限として措定し、したがってまた観念的にはそれらを超えているからといって、資本がそれらを現実的に克服したということにはけっしてならない。
そして、それのような制限はいずれも資本の規定に矛盾するので、資本の生産は、たえず克服されながら、また同様にたえず措定される諸矛盾のなかで運動する。
そればかりではない。資本がやむことなく指向する普遍性は、もろもろの制限を資本自身の本性に見いだすのである。
これらの制限は、資本の発展のある一定の段階で、資本そのものがこの傾向の最大の制限であることを見抜かせるであろうし、したがってまた資本そのものによる資本の止揚へと突き進ませるであろう」(大月書店『資本論草稿集②』、一八~一九ページ)。
『資本論』第一部は、六七年の出版後も繰り返し改定が行われたが、その一方で第一部出版後のマルクスの草稿執筆は第二部の部分に集中した。
その結果、現在遺されている第三部は、全体として現行『資本論』の中で執筆時期がもっとも早いものとなっている。
その事情を考慮すれば、主に第三部で展開されたマルクスの根本矛盾論は、第一部・第二部――現行『資本論』に採用されていない恐慌の運動論を解明した第二部第一草稿をふくむ――の展開に即して充実される必要がある。
三 資本主義の枠内での階級闘争と生産力の発展
マルクスは『資本論』第一部で、資本主義の枠内における資本主義の制限の抑止――解決ではなく――について語っている。
これは根本矛盾が導く資本主義発展の具体的な姿の解明でもあるが、注目されるのはここで、階級闘争における労働者の前進という政治的な力関係の変化と、社会的生産力の発展という経済の変化の相互関係が論じられていることである。
「工場立法、すなわち社会が、その生産過程の自然成長的姿態に与えたこの最初の意識的かつ計画的な反作用は、すでに見たように、綿糸や自動精紡機や電信機と同じく、大工業の必然的産物である」(『資本論』③、八二八ページ)。
機械制大工業の出現は、イギリス社会に過労死を頻発させる過酷な労働条件をもたらすが、そうした苦難に直面した労働者は、労働組合をつくり、議会を動かし「工場立法」を成立させる。
マルクスは、それを資本主義の「自然成長的」な姿に対して史上初めて加えられた「意識的かつ計画的な反作用」と評価し、さらにそれを「大工業の必然的な産物」ととらえている。
しかし、そのような労働者階級の前進は、資本主義経済の発展を抑止し、これを萎縮させてしまうわけではない。逆である。
労働時間の上限規制を核心とした「工場立法」の広まりは、労働時間の延長にもとづく絶対的剰余価値の生産から、機械制大工業の発展による相対的剰余価値の生産へと、資本による自己増殖の方法を転換させる。
資本は、長時間・過密労働を追求するだけでなく、新しい機械装置の発明や技術革新、労働組織の改革を新たに追求するようになる。
その結果、資本主義は、労働者階級の闘いの前進にもかかわらず、むしろ、それを契機に急速で本格的な生産力の発展を実現することになる。
この歴史の進展を、マルクスはさらに視野をひろげて、次のように総括する。
「工場立法の一般化は、生産過程の物質的諸条件および社会的結合とともに、生産過程の資本主義的形態の諸矛盾と諸敵対とを、それゆえ同時に、新しい社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」(『資本論』③、八六四ページ)。
業種、地域、性別、年代をこえたあらゆる労働者への「工場立法の一般化」は、「生産過程の物質的諸条件」とそれに対応した労働者の「社会的結合」のあり方を成長させ、それによって「新しい社会の形成要素」――つまり資本主義を越える未来社会の「形成要素」と、「資本主義的形態」にとらわれた「古い社会の変革契機」を成熟させるというのである。
ここでマルクスは資本主義の発展を、資本の自己増殖欲求が生み出す生産力発展への飽くなき衝動と、同じ自己増殖欲求が生み出す労働者の闘いとその闘いがもたらす資本への「反作用」の統一という角度からとらえている。
つまり生産の無制限な発展への衝動が剰余価値の生産と不可分であることから生まれる資本主義の「制限」は――それは労働者と自然を破壊するものだが――、それを乗り越えて未来社会に向かう力を一足飛びに成就させるものではなく、未来社会をささえる条件にせよ、未来社会の実現を切り拓く変革への持続的な衝動にせよ、それらは資本主義の枠内にあってその「制限」を抑制あるいは制御しようとする労働者たちの闘いをつうじて形成されるものだというのである。
マルクス没後の歴史も視野にふくめるなら、二〇世紀の資本主義は労働者・国民の闘いにもとづく一定の生活改善を実現しながら、同時に資本の生産力のこれまでにない飛躍的な上昇を実現した。
それは一方で、社会による資本への「意識的かつ計画的な反作用」が、歴史上最初の「工場立法」にとどまることなく、幾重にも積み重ねられたということであり、他方で、その「反作用」の強化――変化する外的条件のもとで、それでも資本が自己増殖への強い欲求を技術革新や労働組織の改革などの形で貫いたことの結果であった。
二〇世紀の歴史はこのようにして「新しい社会の形成要素」と「古い社会の変革契機」を成熟させたが、くわえて資本はこの期間に巨大メディアや教育などの活用によって「変革契機」の成熟を押しとどめる力を強めもした。
かつてエンゲルスは階級闘争を、政治闘争、経済闘争、思想闘争の三つの側面から論じたが、この視角にそっていえば、階級闘争の前進にとっての思想闘争の重要性は急速に増したといってよい。
四 未来社会を担う労働者たちの結合の発展
次は、未来社会の経済活動を担う労働者(生産者)たちの「結合」の問題である。
すでに引用したマルクスの文章にそっていえば「新しい社会の形成要素」の主体的内容をなす「社会的結合」の問題である。
マルクスは未来社会を、社会主義や共産主義と表現するだけでなく、その内容を「結合」という言葉で特徴づけることが多くある。
たとえば『資本論』では次のようである。
「資本主義的株式企業は、協同組合工場と同様に、資本主義的生産様式から結合的生産様式への過渡形態とみなされる・・・」(『資本論』⑩、四五六ページ)、
「最後に、資本主義的生産様式から結合した労働の生産様式への移行の時期に・・・」(『資本論』⑪、一〇六四ページ)など。
資本主義の枠内での労働者の「結合」は、資本の指揮によって強制された「結合」だが、マルクスはそれが未来社会を担う準備の意味をもつとして、生産力の発展に応じた「社会的結合」の歴史的進展に注目した。
「結合された労働日の独特な生産力は、労働の社会的生産力または社会的労働の生産力である。・・・労働者は、他の労働者との計画的協力のなかで、彼の個人的諸制限を脱して、彼の類的能力を発展させる」(『資本論』③、五七三ページ)。
労働者は「結合」されることによって個人的「制限」を脱した「社会的労働の生産力」を生み出す。ただし、それはあくまで資本の生産力としてであり、剰余価値の生産を追求する手段として活用されるものとなる。
「第一の表現では、結合された全体労働者または社会的労働体が支配的な主体として現われ、機械的自動装置は客体として現れている」(『資本論』③、七二五ページ)。
ここでは「結合」された労働者たちの総体に、「全体労働者」という用語が与えられている。
「生産物は、一般に、個人的生産者の直接的生産物から一つの社会的生産物に、一つの全体労働者、すなわち一つの結合された労働人員――その成員は労働対象の処理に直接または間接にかかわっている――の共同生産物に、転化する。」
「生産的に労働するためには・・・全体労働者の器官となって、そのなんらかの部分機能を果たせば十分である」(『資本論』③、八七二ページ)。
労働者たちの「結合」の進展により、生産物は誰にも自分でつくったといえるものではなくなっていき、全体労働者によってのみつくることが可能な「社会的生産物」となっていく。
そのような社会の下にあっては、全体労働者の「器官」として機能することが、生産的労働者であることの条件となる。
このような「結合」の発展は、生産手段を全体労働者が共同的にのみ活用しうる生産手段に転化させる。
だから、マルクスは次のように、生産手段の事実上の「共有」を「資本主義時代の成果」であると述べていく。
「資本主義的生産は、自然過程の必然性をもってそれ自身の否定を生み出す。これは否定の否定である。
この否定は、私的所有を再建するわけではないが、しかし、資本主義時代の成果――すなわち、協業と、土地の共有ならびに労働そのものによって生産された生産手段の共有――を基礎とする個人的所有を再建する」(『資本論』④、一三〇六ページ)。
法的、形式的な所有は、もちろん資本による所有のままなのだが、生産手段は、多くの全体労働者との統一によってしか機能しえないものになっている。それは、生産における資本家の役割がますます小さくなっていることの証明でもある。
このような分析を重ねる一方で、マルクスは資本主義の枠内で準備された労働者たちの「結合」が、未来社会においてどう変わっていくかについてもふれている。
「最後に、目先を変えるために、共同的生産手段で労働し自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出している自由な人々の連合体を考えてみよう」(『資本論』①、一三三ページ)。
「社会的労働力」として支出される「個人的労働力」は、もはや資本に強制されたものではない。
労働者は「自覚的」に、自分の意思にもとづいて互いに「結合」しあい、社会的な生産力を社会全体のために発揮する。未来社会はそのことを基本的な特徴とする社会として描かれている。
五 生産様式の共同的性格に応じた生産関係へ
『資本論』第一部第二四章第七節は、資本主義の発展から死滅への転化の分析に力点を置いている。
そこにいたる資本家側の変化については、資本家相互の闘争と排除がすすみ、労働者の結合に応じて生産手段がますます共同的生産手段に転化していくことなどが指摘される。
「こうした収奪は、資本主義的生産そのものの内在的諸法則の作用によって、諸資本の集中によってなしとげられる。一人ずつの資本家が多くの資本家を打ち滅ぼす。
この集中、すなわち少数の資本家による多数の資本家の収奪と相並んで、ますます増大する規模での労働過程の協業的形態、科学の意識的な技術的応用、土地の計画的利用、労働手段の共同的にのみ使用されうる労働手段への転化、結合された社会的な労働の生産手段としてのその使用によるすべての生産手段の節約、世界市場の網のなかへのすべて国民の編入、したがってまた資本主義体制の国際的性格が発展する」(『資本論』④、一三〇五~六ページ)。
ここでは全体として、結合された全体労働者の発達と、それによる生産の社会的性格の深まりが指摘され、その裏返しとして、生産活動における資本家の不要性の深まりが示されている。
他方で、マルクスは労働者階級が、すでに見た「結合」の発展をつうじて未来社会における生産の担い手として成長するだけでなく、未来社会の実現を求めて闘う力を高めることを指摘する。
「この転化過程のいっさいの利益を横奪し独占する大資本家の数が絶えず減少していくにつれて、貧困、抑圧、隷属、堕落、搾取の総量は増大するが、しかしまた、絶えず膨張するところの、資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結合され組織される労働者階級の反抗もまた増大する」(同前一三〇六ページ)。
この闘いの力は、資本主義を乗り越える瞬間に一挙に成長しうるものではなく、資本主義の枠内での闘いの積み重ねを通じて次第に高められていくものである。
これらの諸要素の成熟の上に、いよいよ資本主義の死滅過程への転化が論じられる。
「資本独占は、それとともにまたそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏となる。生産手段の集中と労働の社会化とは、それらの資本主義的外被とは調和しえなくなる一点に達する。この外被は粉砕される。資本主義的私的所有の弔鐘が鳴る。収奪者が収奪される」(同前)。
少数の大資本による資本の排他的な独占が――そのような所有を特徴とする資本主義的な生産関係という外被が、「結合」された労働者たちによってしか生産活動を行うことのできない生産力の内容あるいは生産様式――生産力と生産関係の全体という広い意味での生産様式でなく、生産の方法という狭い意味での生産様式――にとって、いよいよ捨て去られるほかない奴隷の足かせだということが明らかとなる。
そういう歴史的な「一点」の到来は不可避であり、問題の解決は、生産様式の内容にあわせて外被をつくりかえる他になくなっていく。
生産様式の共同的な性格の深まりにふさわしく、生産手段を法的・形式的にも共同的な存在に転換していく。そのような生産手段の社会化が、収奪者である資本家が、逆にここで社会によって収奪されるということの内容をなす。
なお若い時代のマルクスは、このような「一点」の到来を、恐慌の勃発に結びつけていた。しかし、ここにはその具体的な形態を特定する言葉はまったくない。
生産力の発展に対する無制限の衝動と、その生産力をいつでも剰余価値生産の手段と位置づける他ない資本主義的生産関係との根本矛盾が、何を直接の契機に矛盾の解消過程に入るかの探求は、個々の社会の具体的な発展の行程に委ねられたわけである。
六 エンゲルスの基本矛盾論とレーニンの「歴史」認識の誤り
関連して、レーニンの資本主義分析とそこから導かれた社会主義論の問題にふれておく。
レーニンは右にみたようなマルクスの根本矛盾論ではなく、エンゲルスの根本矛盾論に依拠することで、資本主義の独占段階の歴史的地位を「死滅しつつある資本主義」ととらえていった。
その理解が二〇世紀における資本主義の急速な発展の事実によってすでに裏切られたことは明らかである。
エンゲルスは資本主義の根本矛盾を、端的に「社会的生産と資本主義的取得の矛盾」ととらえ、それが「プロレタリアートとブルジョアジーとの対立」「個々の工場における生産の組織化と社会全体における生産の無政府性との対立」というふたつの現象をとって現れるものと理解した。
そして資本主義の発展をもたらす「推進力」を、もっぱら「社会的な生産の無政府状態」に求めていった(『空想から科学へ』、六八~七四ページ)。
このような認識の上でエンゲルスは、生まれつつある独占資本主義を分析し「トラストにおいては、自由競争は独占に転化し、資本主義社会の無計画的な生産は、せまりくる社会主義社会の計画的生産の前に降伏する。もちろん、さしあたりはまだ資本家の利益のためである」(同右、八一ページ)と書いていった。
後にレーニンはこの個所を念頭しながら、つぎのように語っている。
「エンゲルスが二七年前に、トラストの役割を考慮に入れず、『資本主義は無計画性を特徴とする』とかたるような、資本主義についてのそういう問題の立て方の不十分なことを指摘したということは、興味ぶかい。
エンゲルスはこれについてこう指摘している。『トラストにうつるなら、そこでは・・・無計画性もなくなる』、しかも資本主義は存在している、と。
戦時国家――国家独占資本主義の存在する現在では、このことを指摘することはいっそう適切である。
計画性の導入は、労働者を奴隷の状態からすくいだすものではなく、資本家がいっそう『計画的に』利潤を手に入れるようになる。
いま資本主義は、いっそう高度の計画的形態へと直接に成長転化しつつある」(「ロシア社会民主労働党(ボ)第七回(四月)全国協議会」での「現在の情勢についての決議を擁護する演説」、一九一七年四月、二四巻、三一三~四ページ)。
『空想から科学へ』(一八八〇年初版)に、エンゲルスが「トラスト」についての記述を補足したのはドイツ語第四版(一八九一年)でのことであり(『空想から科学へ』ロシア語版は一八九四年)、それはこの「二七年前」にほぼ合致する。
資本主義の推進力である生産の「無計画性」と、その対立物である「計画性」が共存する過渡的状況にありながら、依然として「資本家の利益のため」に活動するトラスト――エンゲルスのこのような整理に着想を得て、レーニンは「わずかばかりの独占者」に奉仕する二〇世紀初頭の独占資本主義を、資本主義の本来の姿である「競争の完全な自由」(無政府性)から未来社会を意味する「全面的な社会化」「完全な社会化」(高度の計画的形態)への「移行」過程にある「新しい社会秩序」ととらえていった。
「帝国主義段階にある資本主義は、生産のもっとも全面的な社会化にぴったりと接近する。それはいわば、資本家たちを彼らの意志や意識に反して、競争の完全な自由から完全な社会化へ移行する、なにか新しい社会秩序へ引きずりこむ」(新日本出版社・古典選書『帝国主義論』、四三ページ)。
独占資本主義がこのように「完全な社会化」への過渡を進むものであるということは、エンゲルスが根本矛盾の現象形態と指摘した「個々の工場における生産の組織化と社会全体における生産の無政府状態との対立」が、次第に解消されていくという意味をもつ。さらに生産の無政府性の消失は資本主義が発展の「推進力」を失うことを意味していく。
したがって、その過程を進む独占資本主義の段階は「死滅しつつある資本主義」ととらえられることになる。その先に不可避的にやってくるのは「取得」の転換だけである。
これがこの問題についてのレーニンの論理の基本となった。
さらにレーニンは国家独占資本主義についても、戦時統制経済の発展を、同じく「無政府性」の反対物である「計画性」のますます精緻な発展ととらえ、それを根拠に国家独占資本主義に「社会主義の入口」という歴史的規定を与えていく。
しかし、その後の歴史の現実は、「競争の完全な自由」を象徴した一九世紀よりも、死滅の過程に入ったはずの二〇世紀に、遥かに大きな資本主義の発展を記録させた。
資本主義発展の「推進力」を個々の資本による剰余価値生産の追求ではなく「社会的生産の無政府性」に求めたエンゲルスの基本矛盾論の弱点は、レーニンによる資本主義の歴史的な運動法則の理解に大きな制約を与えていったといってよい。
七 生産手段の社会化から自由な生産者の結合へ
次に資本主義の死滅の過程を、新しい未来社会の形成という角度から見つめなおす。
マルクスは未来社会の実現を、何より資本主義の根本矛盾の解消ととらえ、それは生産手段の社会化を基礎に、経済発展の推進力を個別資本による剰余価値生産の追求から自覚的に結合した生産者による社会全体のための生産に転換していくことだと考えた。
その転換の開始には労働者階級による政治権力の獲得と、そのもとでの生産手段の社会化――収奪者の収奪――が必要であり、また転換の最終的な達成には、あらゆる権力が不要となる新しい社会の運動法則の自然発生的な展開が必要だとされた。
このような資本主義から未来社会への社会転換の過程を、マルクスは二九歳で書いた『共産党宣言』(一八四八年)に早くも次のように記していた。
「プロレタリアートは、ブルジョアジーからすべての資本をつぎつぎに奪い取り、すべての生産用具を国家の手に、すなわち支配階級として組織されたプロレタリアートの手に集中して、大量の生産諸力をできるだけ急速に増大させるために、自分の政治的支配を利用する」(新日本出版社・古典選書『共産党宣言』、八四ページ)。
「発展の過程で、階級の差異が消滅して、すべての生産が連合した諸個人の手に集積されると、公的権力(ゲヴァルト)は政治的性格を失う。・・・そして支配階級として強力的に(ゲヴァルトザーム)古い生産諸関係を廃止するときには、プロレタリアートは、この生産諸関係とともに、階級対立の、諸階級そのものの存在諸条件を、したがってまた階級としてのそれ自身の支配を廃止する」
「階級および階級対立をもつ古いブルジョア的社会の代わりに、各人の自由な発展が、万人の自由な発展のための条件である連合体(アソツィアツィオーン)が現われる」(同右、八六ページ)。
生産用具は「国家の手」に集中されるとしているが、その目的はすべての生産を「連合した諸個人の手に集積」させるためである。
またそれが十分達成された時には、階級や政治的権力そのものが消滅していくとされている。
そして、それによってもたらされる未来社会は「各人の自由な発展が、万人の自由な発展のための条件である連合体」と特徴づけられた。
これが一八七二年の「土地の国有化について」では、次のように述べられる。
「土地の国有化は、労資の関係に完全な変化をひきおこすであろうし、結局は、工業であろうと農業であろうと、資本主義的生産を完全に廃止するであろう。
そうなったときにはじめて、階級差異と特権とは、それを生み出した経済的土台といっしょに消滅し、社会は一つの自由な『生産者』の結合社会(アソシエーション)に変わるであろう」。
「他人の労働で暮らしていくようなことは、過去の事柄となるであろう! そこには、社会そのものと区別された政府も国家も、もはや存在しないであろう!」
「生産手段の国民的集中は、合理的な共同計画に従って自覚的に活動する、自由で平等な生産者たちの諸結合体(アソシエーション)からなる一社会の自然的な基礎となるであろう。
これこそ、一九世紀の偉大な経済的運動がめざしている目標である」(新日本出版社・古典選書『インタナショナル』、二二〇ページ)。
ここでは資本主義の「廃止」後にあらわれる未来社会が、「自由な『生産者』の結合社会」「自覚的に活動する、自由で平等な生産者たちの諸結合体からなる一社会」と呼ばれ、生産手段の集中はそのための「自然的な基礎」だとされている。
さらにマルクスは「フランス労働者党綱領・前文」(一八八〇年)にこう書いた。
「生産者は生産手段を所有する場合にはじめて、自由でありうること、生産手段が生産者に所属することのできる形態は、次の二つしかないこと、
一、個人的形態 この形態は普遍的な現象であったことは一度もなく、また工業の進歩によってますます排除されつつある、
二、集団的形態 この形態の物質的および知的な諸要素は、資本主義社会そのものの発展によってつくりだされてゆく・・・」
「フランスの社会主義的労働者は、経済の部面ではすべての生産手段を集団に返還させることを目標として努力する」(新日本出版社・古典選書『多数者革命』、一〇一ページ)。
ここでは生産手段の社会的所有が、「生産者」自身による集団的所有であることが明快に示されている。
資本家から「生産者」への生産手段の所有の転換は、資本主義を「廃止」する基礎となるものであり、同時に「自由な『生産者』の結合社会」の形成を可能にするものと位置づけられる。
なお、マルクスはこのような新しい社会の形成が、人間そのものの発達にどのような肯定的意義をもつかについて、次のような壮大な展望を示している。
「この国(必然の国)の彼岸において、それ自体が目的であるとされる人間の力の発達が、真の自由の国が――といっても、それはただ、自己の基礎としての右の必然性の国の上にのみ開花しうるのであるが――始まる。労働日の短縮が根本条件である」(『資本論』⑬、一四三五ページ)。
未来社会の実現は、人々に等しく十分な物質的豊かさを届けるにとどまらず、個々の人間がもつ様々な能力の開花「自体」をその社会の「目的」にすえることを、初めて人間社会に許すようになるというのである。
八 生産の新しい組織の形成と調整にかかる時間
最後に、未来社会の実現に至る過渡期の問題である。
とりわけパリ・コミューンの経験をきっかけに、マルクスは権力を手にした労働者がどのように経済や社会の改革をすすめていくかについての探求を、より深いリアリティをもってすすめていく。
パリ・コミューンを総括した『フランスにおける内乱』の第一草稿(一八七一年)で、マルクスはこう述べている。
「労働の奴隷制の経済的諸条件を、自由な結合的労働の諸条件とおきかえることは、時間を要する漸進的な仕事でしかありえないこと(その経済的改造)、そのためには、分配の変更だけでなく、生産の新しい組織が必要であること、言い換えれば、現在の組織された労働という形での生産の社会的諸形態(現在の工業によってつくりだされた)を、奴隷制のかせから、その現在の階級的性格から救いだす(解放する)ことが必要であり、その調和のとれた国内的および国際的な調整(coordination)が必要であることを、彼らは知っている」。
「現在の『資本と土地所有の自然諸法則の自然発生的な作用』は、新しい諸条件が発展してくる長い過程を通じてのみ、『自由な結合的労働の社会経済の諸法則の自然発生的な作用』によっておきかわりうること、それは、『奴隷制の経済諸法則の自然発生的な作用』や『農奴制の経済諸法則の自然発生的な作用』が交替した場合と同様であることを、彼らは知っている」(『マルクス・エンゲルス全集』⑰、五一七~八ページ)。
「労働の奴隷制」(ここでは資本主義のこと)を「自由な結合的労働」の制度に置き換えるには「時間を要する」「長い過程」が必要で、それはかつて奴隷制が農奴制に、農奴制が資本制に交替したのと同様である。
そのような長い時間を要する仕事の核心を、マルクスは「生産の新しい組織」の形成だとした。
その内容はすでに見たように、資本に結合された労働を「奴隷制のかせ」(資本制のかせ)やその「階級的性格」から解放し、自由で自覚的な結合に転換するということであり、それが十分に実現しうる具体的な組織をつくりだすということである。
さらに、そのような新しい組織の「国内的および国際的な調整」も「経済的改造」の重要な内容になると述べられている。
先に見た「土地の国有化」(一八七二年)の中でマルクスは、未来社会を「自由で平等な生産者たちの諸結合体からなる一社会」と特徴づけたが、その意味が、ここには良くあらわれている。
また「自由な結合的労働の社会経済の諸法則の自然発生的な作用」は、法則の作用を強制する政治的権力が不要になることを意味している。国家が不要になるということである。
こうした探求の末に、マルクスは『ゴータ綱領批判』(一八七五年)の中で、資本主義から共産主義への革命的転化の「時期」を定式化する。
「資本主義社会と共産主義社会とのあいだには、一方から他方への革命的転化の時期がある。
その時期にまた政治的な過渡期が対応するが、この過渡期の国家はプロレタリアートの革命的執権(ディクタトゥール)以外のなにものでもありえない」(新日本出版社・古典選書『ゴータ綱領批判・エルフルト綱領批判』、四三ページ)。
九 おわりに
小論は、二〇一一年一二月三日に関西唯物論研究会が主催したシンポジウム「今なぜ社会主義論か」での報告をまとめたものである。
当日の報告には「マルクス以後の世界の発展をふりかえって」という項目が含まれたが、内容が不十分であることから、ここでは割愛した。他日を期したい。
なお資本主義の基本矛盾と階級闘争との関係については、「マルクスの目で現代を見て、社会を変える」(新日本出版社『経済』二〇一二年五月号)をあわせて参照願えると幸いである。
(いしかわやすひろ・神戸女学院大学・経済学)
最近のコメント