以下は、日本共産党『前衛』2013年7月号に掲載されたものです。
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「財界奉仕のアベノミクスと復古主義的国家主義」
──安倍政権が発足して七カ月。アベノミクスで日本経済がよくなるのかが注目されています。まず、アベノミクスとは何かからお聞きしたいと思います。
〔大企業による強欲の免罪と推進の諸政策〕
アベノミクスというのは「安倍政権の経済政策」ということですが、これは端的にいえば、日本経済の不調の原因である「富のゆきすぎた偏在」から国民の目をそらし、財界の強欲や政府の悪政を免罪する議論で、今後も大企業への奉仕をつづけ、さらに「富の偏在」を拡大させる諸政策の寄せ集めです。
昨年一二月の総選挙で自民党が勝利し、安倍晋三さんが首相に選出され、安倍政権が発足しました。
安倍さんは、経済については、デフレ対策で日本を再生することを打ち出しました。そしてこれまでの経済の不調の原因は日銀による通貨量の管理のあり方にあったとして、白川さんから黒田さんに総裁を交代させました。
「悪人」は白川さんだと指弾して、その裏側で、国民経済を破壊してきた財界の強欲やそれを応援してきた政府の経済政策を免罪したわけです。
日本経済は九〇年代以後、経済成長なき「失われた二〇年」を体験し、さらに「失われた三〇年」に足を踏み入れつつあります。そのあいだに国民の生活水準は戦後はじめて長期の低下を示し、その一方で、大企業の内部留保は空前の拡大を見せました。
「失われた二〇年」はこうした「富のゆきすぎた偏在」と一体のものでしたが、アベノミクスはこれらにまったく口をつぐんでいます。そもそもアベノミクスには、日本経済の不調の原因を、まともに検討した形跡がありません。
では、安倍さんはデフレ対策の名で、いったい何をしようとしているのでしょう。
IMF等は「二年以上連続しての物価下落」をデフレと呼んでおり、この規定によれば日本経済は確かにデフレです。しかしIMFは、デフレの原因まで細かく特定しているわけではありません。全般的な物価下落を指摘するだけです。
ところが、安倍さんは、このデフレを通貨現象としてのデフレ、つまり流通通貨の不足から起こるデフレにすりかえて、その脱却には金融緩和が必要なのだと主張します。やりたいことは、これまで以上の金融緩和です。
どうして金融緩和をすすめると日本経済は「再生」するのでしょう。アベノミクスは、それも説明しません。そうなのだという断定があるだけです。
〔大企業・投機家に奉仕する「三本の矢」〕
そのうえで、安倍さんは「三本の矢」を言っていますが、すでに様々な指摘があるように、そこには特別の新しさはありません。
「一本目の矢」は、いま紹介した「大胆な金融緩和」ですが、九九年の「ゼロ金利政策」以来、すでに長期にわたって様々な金融緩和政策はとられてきたわけです。それにもかかわらず、日本経済は「再生」しませんでした。そこはすでに事実が語っていることです。
なぜ「再生」につながらなかったのかといえば、理由は簡単で、「富のゆきすぎた偏在」のもとで金融緩和をすすめても、通貨(お金)は「富める者」にしか届いていかず、「富まない者」には届かないからです。
金利を下げたところで「富まない者」に新たな活気は生まれません。賃金や所得が減っている中でローンの返済の目処は立たないからです。
結局、これは「富める者」にあらたな投機の資金を提供するだけです。小さなバブルの「創造」です。それが株価の上昇につながり、株主による企業への出資金を増やし、大株主たちに莫大な利益がもたらされているというのは、いくつも報道があるとおりです。ただし、実体経済の拡大をともなわないバブルは、長くつづくものではありません。
さらにこのバブルのために、日銀は市中銀行から国債などを買い上げるだけでなく、政府から直接購入することを匂わせています。これは政府に国債発行の歯止めをはずさせ、国家財政の破綻を促進する危険をもつものにもなっています。
「二本目の矢」は、「機動的な財政政策」です。内容は大型公共事業の推進で、九〇年代のゼネコン国家路線への逆戻りとも言えるものになっています。
すでに地方自治体には、補正の大型予算がおろされているようですが、地方の側からすればどんな事業をするかが決まっていません。
社会保障や教育、医療など「住民の福祉」を高める事業は必要ですが、政府は生活保護や年金予算を削っていますから、地方もそこにはお金がつかいづらい。
一方で財政危機だ、消費税増税は不可避だと言っておきながら、他方で「事業なき予算」の大盤振る舞いですから、この財政政策には、まったく一貫性がありません。
そして、こんな大盤振る舞いによる赤字の結果が、消費税増税の理由にされたのではたまったものではありません。
そして「三本目の矢」が、「民間投資を喚起する成長戦略」です。中心は規制緩和と大企業の減税政策です。
特に酷いと思うのは、労働力流動化をさらに推し進めようとしていることです。正規雇用をいくらでも首が切れるようにするということが、財界人の発言をきっかけに政府の会議で公然と議論されている。まったく異常な光景です。
また、国民多数の反対を押し切ってのTPPへの加入や、原発輸出もこの成長戦略の一つに位置づけられています。
結局、この「三本の矢」は、財政破綻のツケや規制緩和の被害を「富まない」労働者や国民におしつけながら、大企業・大株主への奉仕をすすめるものでしかありません。
規制緩和やTPPへの加入、原発推進政策の継続、投機資金の提供は、アメリカはじめ海外の大企業・投機家に奉仕するものともなっています。
これでどうして日本経済が「再生」するといえるのでしょう。
〔推進の中心には大企業経営者たちが〕
この「三本の矢」と、後に続く消費税増税、社会保障の大改悪という「五本の矢」を正当化する論理があるとすれば、それは小泉内閣の時期にさかんに言われた、「大企業が潤えばそのうちに国民も潤う」というトリクルダウンしかありえません。
実際には「富のゆきすぎた偏在」が示すように、トリクルダウンはまったく機能していませんが、それをいまだに正しいとする世論操作が続いています。
「大企業が潤えば・・・」という路線は、昨年末の総選挙に向けた自民党の選挙公約にも、はっきりと掲げられていたことでした。「世界で一番企業が活動しやすい国」を目指すとして、政策として「大胆な規制緩和」「大胆な金融緩和」「切れ目のない経済対策」などが掲げられました。
しかも、公約では、こうした政策を推進するうえで経済財政諮問会議や日本経済再生本部、産業競争力会議などを軸にすることも宣言されていて、現実に、経済財政諮問会議には三菱ケミカルホールディングス社長の小林喜光さん──経済同友会の副代表幹事です──が入っていたり、東芝社長の佐々木則夫さん──この六月から経団連副会長の予定です──が議員として入っています。
産業競争力会議にも、武田薬品工業社長の長谷川閑史・経済同友会代表幹事やコマツ会長の坂根正弘・経団連副会長、東レ会長の榊原定征・元経団連副会長をはじめ、佐藤康博みずほフィナンシャルグループ社長、新浪剛史ローソン社長、三木谷浩史楽天社長などの財界人が名を連ねています。
ここが推進力になってアベノミクスが形成、展開される仕組みですから、「世界で一番企業が活動しやすい国」を、その企業の代表者自身がつくっていく。それに政府がお墨付きを与えていくというのが、アベノミクスの具体的な姿です。
小泉内閣の時にも酷いものでしたが、それと同じように露骨な財界いいなり型の構造です。
──なるほど、株高と円安で経済は好調という宣伝にもかかわらず、アベノミクスへの批判や懸念も指摘され、その本質的な問題も露わになりつつあるわけですね。アベノミクスの根本的な欠陥についてもう少しお話し下さい。
〔予想や期待が経済の肝?〕
内閣官房参与の本田悦朗静岡県立大学教授が、『アベノミクスの真実』という「安倍総理公認」だという本を書いています。もちろん内容はアベノミクスの肯定ですが、印象的なのは、経済では「予想」あるいは「期待」が「肝」になるという話です(二六ページ)。
つまり、これからインフレになると予想(期待)すれば、国民は目減りを恐れて手もとのお金を使い始める。だからインフレになることを力強く国民にアナウンスし、日銀がその達成に必要な通貨を供給すれば、デフレから脱却できると書いているのです(三二ページ)。
しかし、インフレが予想されようがされまいが、お金のない人間はお金を使えません。目減りの見通しもなにもあったものではなく、食料品などの生活必需品を買いつづけ、なんとか毎日の生活を維持するしかないのです。
本田さんの議論では、日銀がインフレをアナウンスすると、まずプロの投資家が動き、プロの投資家が主導して株を買いはじめれば、それが企業や消費者に次第に伝わっていくとされています。
なるほど、確かに株価の上昇は起こっており、大株主の資産倍増が起こっています。しかし、株券など見たこともないという一般庶民には、その恩恵はまったく届いていません。
目減りを恐れた投資家たちの円売りにより、円安の進行もはじまりましたが、それによって中小業者が困窮するといった事態も起こっています。燃料の高騰でイカ釣り漁船が操業できないということが話題になりましたが、油や小麦粉などの値上がりで、私のまわりのうどん屋さんや豚カツ屋さんも困っています。
さらに本田さんは、物価と賃金が下落するデフレは、もはや経済活動の結果ではなく原因ともなっていると書いています。デフレスパイラルというやつです。
そこから抜け出す必要があると言われるのだから、賃金の上昇策も書かれているのかと思いましたが、どこまで読んでも、賃上げ実現の具体策は出てきません。ふれられるのは、インフレで大企業が儲かれば賃上げが「可能に」なる、「徐々に」あがるはずだという「願望」だけです。
この本は、「アベノミクスの司令塔」が、経済財政諮問会議、日本経済再生会議、産業競争力会議の三つであり、「具体的な戦略を議論する実務的な場」は産業競争力会議だと書いています(一七五〜六ページ)。
すでに見たように、そこには財界代表がたくさん入っていますから、賃上げ策など出てくるはずがないわけです。財界の財界による財界のためのアベノミクスということです。
〔「三本の矢」の不整合についての告白も〕
この本が出版されたのは四月二五日ですから、原稿は遅くても四月初旬には書き上げられていたのでしょう。書き始めはもっと早い時期ということです。
そうでありながら全五章の中の第三章がまるまる「アベノミクス批判に応える」という言い訳にあてられています。
「物価が上がると年金生活者が困る?」「給料が上がらないまま、物価だけが上がったら大変?」などの疑問に言い訳し、最後に「アベノミクスに反対する人は『現状をどうすればよいのか』という建設的な提言をしようとしません」「このままデフレを放置すればよいとでも言うのでしょうか」という開き直りで終わっています。
アベノミクスは開始早々、たくさんの言い訳をせねばならない政策であるということです。
他方で、アベノミクスの正当性を主張しながら「三本の矢」という政策の不整合を、端なくも語っているところもあります。
例えば「金融を緩和して、デフレから脱却しておかないと、第二、第三の矢はうまく機能しない」(一〇ページ)などです。それなら、なぜこれらの政策が同時におこなわれているのでしょう。
同じことは、金融緩和政策の指南役だと言われている浜田宏一イェール大学名誉教授の発言にも見られます。
浜田さんは、IMF等によるデフレの定義を、貨幣の不足にもとづく貨幣現象としてのデフレに矮小化する点で、アベノミクスの金融緩和論に議論の土台を提供しています。
しかし、「どれだけ、いつまで金融緩和を続けるかについては船長〔黒田日銀総裁のこと〕に任せます」と、緩和政策の難しさを指摘したうえで、「二本目の矢である財政政策、三本目の成長戦略の行方には一抹の不安を感じて」いるとも述べています。
そして「二本目の矢」については、「財政支出を選挙民の歓心を買うために使うという、旧来型の政治を志向している一部の政治家が与党にもいる・・・財政バラマキ政策に転換して、支持を増やしたいと考えているのでしょう」と言い、「三本目の矢」については「経産省の役人などのなかには、旧い産業政策を復活させたい魂胆が見えてきます。今、最も必要な規制緩和の概念と逆行する考えであり、非常に危険です」と言っています(「奇跡の日本経済復興論」、『文芸春秋』五月号)。
つまり浜田さんも、安倍政権が掲げるアベノミクスを丸ごと肯定しているわけではないのです。浜田さんはさらに、「(小泉内閣の構造改革は)不利益を被る人への思いやりや配慮が欠けていた」と述べ、「デフレ不況を乗り越えた後、日本は、国民が生きがいをもてる社会をどう作っていくか考えた方がいい」とも言っています。
このような視角は、アベノミクスにはまったく欠落していると思います。
〔マルクスの資本主義論にふれておけば〕
マルクスは、剰余価値の追求をあらゆる運動の出発点とも終結点ともするのが資本である。資本は互いの競争をつうじて自己の利潤を追求するが、それによって国民経済にの生産と消費のバランスを崩し、そこから周期的な恐慌(経済危機)を生み出さずにおれないと述べました。
そこから出てくる対策は、個々の資本(大企業)による利潤追求の「自由」を政府が適切に制御することと、生産力にくらべた消費力の不足を補っていくことになるでしょう。
実際、内閣府が発表している「需給ギャップ」の試算でも、需要の不足は明らかで、それはバブル崩壊以後の長期的な傾向となっています。
なんでも市場まかせの規制緩和一辺倒でなく、この国の消費力の六割を占める個人消費を守っていくこと、最低賃金の引き上げや社会保障の拡充で、これを逆に育てていくこと。マルクスの「資本」論からは、そういう危機対策が導かれます。個人消費が活気をもってこそ、国内での設備投資も拡大しています。
またマルクスは、現実経済(実体経済)と金融経済との関係を、土台と上部構造という言葉で表現し、両者の全体によって経済活動はつくられるが、より大きな力を発揮するのは現実経済の方だと指摘しました。
金融経済は現実経済が生み出した資金を活用し、現実経済を促進したり、攪乱したりするが、根本にあるのは現実経済の方だということです。
つまり金融の世界で供給通貨を増やし、インフレ期待を高める誘導政策を採ったとしても、不調の根っこにあるのは現実経済での生産と消費の乖離であって、それを解決していかなければ、危機からの抜け出しにはつながらないということです。
アベノミクスのバブル待望論に比べればマルクスの資本主義経済論の方が、はるかにリアリティをもつ、地に足のついた議論になっているのではないでしょうか。
──アベノミクスはすり替えを前提とし、大きな矛盾をかかえた政策だということですが、今なぜ安倍政権は、こういう不整合なアベノミクスを追求するのでしょうか。
〔市場開放・規制緩和と「ゼネコン国家」の推進〕
そもそもが、財界やアメリカの諸要求の寄せ集めだからだと思います。
理論的に筋が通っているとか、何か見事な絵が描かれているといったことはなく、財界の内部あるいは財界と政府とのリアルな力関係のもとで、政府に期待される諸要求を集約した結果がアベノミクスだからなのだと思います。
その背後には、大きな流れとして、日本の財界の主力が、かつての重厚長大産業から、自動車や電気機械などの製造業多国籍企業にシフトしており、経済の構造自体が変わってきているという現実があります。
ただし、労働力流動化や大企業減税は、業種・業態にかかわりなく、あらゆる大企業の利潤を拡大するものです。
大型公共事業の推進は、自動車やパソコンの販売台数に直接かかわるものではありません。様々な企業の様々な要求が、抱き合わせになっているということです。
そのあたり、少し歴史をたどってみましょう。
「構造改革」路線の出発点は、中曽根内閣あたりにあったかと思います。一九八六年の「前川レポート」です。
その直接のきっかけはアメリカとの経済摩擦で、日本からアメリカへの輸出が減らないので、ここでは日本市場の開放が金融の自由化などの条件整備もふくめて示されました。
あわせてアメリカへ輸出せずに国内で消費しようとの名目で、公共事業費の拡大も求められました。これがいわゆる「バブル経済」を生み出します。
八九、九〇年には「日米構造協議」がおこなわれました。ソ連・東欧崩壊を背景に、アメリカは世界への経済支配を深める「経済グローバリゼーション戦略」を展開し、その重要なターゲットとして日本市場がねらわれたのです。
協議の結果、日本側は、六分野二四〇項目の経済構造の変更を突きつけられました。
そこには空港、港湾、道路などの「建設予算の即時増加」も含まれており、これを受けて一〇年で四三〇兆円の大型公共投資をおこなう「公共投資基本計画」(九五年には一〇年で六三〇兆円に増額)が合意され、日本の公共事業費は、九三年と九五年に年額五〇兆円を超えて、「ゼネコン国家」と呼ばれる時代がつくられます。
この計画の立案や遂行には日本のゼネコンや鉄鋼企業も「積極的」な役割を果たしました。
同時に、九三年には日米包括経済協議がおこなわれ、九四年からは例の年次改革要望書が、毎年アメリカから届けられるようになります。
こうしてアメリカは、アメリカ大企業への日本市場開放と公共事業拡大の二本立てで、日本経済の「構造」改革を求めており、日本側にも九三年の「平岩レポート」をはじめ、規制緩和を一層推進しようとする流れと「ゼネコン国家」を推進する流れが併存していました。
しかし「ゼネコン国家」は日本の財政赤字を拡大します。また日本経団連など財政中枢をしめる企業群は、従来型の重厚長大から自動車、電気機械などの製造業多国籍企業に次第にシフトしていきました。
そこで九六年の橋本「六大構造改革」には、「ゼネコン国家」路線の見直しを求める「財政構造改革」がふくまれて、これが財界内部でも大きな争点となりました。
九七年に消費税率の引き上げを強行した橋本内閣は、参議院選挙に大敗し、後を継いだ小渕首相は「私は世界一の借金王」と言いながら、莫大な公共事業の補正予算を組んでいきました。
そこには経団連会長企業が、トヨタから新日鉄に変わったことも大きく影響していたでしょう。
〔製造業多国籍企業が中心に〕
小渕さんが亡くなった後、短期間の森内閣をへて小泉内閣が成立します。ここで製造業多国籍企業の利益を中心にすえる小泉流「構造改革」が進展します。
小泉さんは「私に味方しないのは『抵抗勢力』だ」と言い放ち、自民党の内部改革を進めました。「ゼネコン国家」路線と製造業多国籍企業(グローバル企業)支援の路線の力関係が大きく転換します。
同時に、ここで小泉内閣は大企業支援の経済政策を国民に納得させるために「大企業が潤えばいまに国民も潤う」「大企業の利潤回復こそ景気回復の前提」というトリクルダウンのスローガンをかかげました。
このもとで大企業の利益の急速な伸びとうらはらに、大量のワーキングプアがつくられていきます。
そのために、つづく第一次安倍内閣は、最初から「負け組」が「再チャレンジ」できる仕組みづくりを掲げねばならない状態になっていました。国民は小泉「構造改革」路線に強い嫌気を感じていたのです。
歴史問題での失敗や乱暴な改憲の提起もあって、安倍自民党は二〇〇七年参議院選挙で歴史的大敗を喫します。
その後、福田、麻生内閣とつづきますが、自民党の退潮に歯止めはかけられず、〇九年に民主党政権が誕生するわけです。
自民党とともに「二大政党」づくりの途上に位置づけられた民主党でさえ、ここで自民党の政策をそのまま継続することはできませんでした。
「コンクリートから人へ」、教育・福祉・医療の予算増など、経済政策の小さくない転換を打ち出さなければ、国民の支持は得られない状況が生まれていたからです。
そこで「選挙結果の自己総括を出発点とする、自民党の再生が不可欠である。新しい時代をリードする政党として、再出発していただきたい」という経済同友会代表幹事の談話に象徴される、財界からの巻き返しが始まります。
鳩山首相は追い落とされ、菅内閣で経済政策は自民党型にもどります。そして3・11後の経過の中で、結局、民主党政権は瓦解の道をたどりました。
〔「古びた昔の矢」では、くらしの改善は望めない〕
そうして二〇一〇年に新綱領を決定し「再出発」した自民党が政権に復帰したのが、現在の第二次安倍内閣です。
自民「圧勝」という世論操作にもかかわらず、安倍内閣は〇九年に民主党に敗北した時よりも、さらに二〇〇万票以上を減らした、国民の支持の薄い内閣です。
小選挙区制の「恩恵」で多くの議席は得ましたが、政権維持のためには財界の支援が不可欠です。そこで「三本の矢」、「五本の矢」、TPPへの即時加入、原発のトップセールスといった財界発の経済政策に、忠実な姿勢をとるわけです。
財界が求める経済政策の全体は、いつでも体系的・整合的であるわけではありません。見てきたように、時には大きな転換もあります。
大企業ごとに、業種ごとに、地域ごとに、政治的な事情もからんでそれぞれ違った要望があり、財界指導部はそれを力関係に応じて「まとめて」推進するのが役割です。アベノミクスがチグハグであることの理由も、根本はここにあるわけです。
なお、このように見てくれば、財界の求めに応じたアベノミクスが、長く国民の支持を得られるものでないことは明らかです。
財界の求めに応じた小泉「構造改革」路線は〇九年選挙で、いったん国民に拒否されました。
その後の民主党政権も、結局、被災地支援・TPP・原発・基地問題、消費税増税など、要するに財界やアメリカの求めに応じた政策のために政権の座を引きずりおろされることになりました。
無責任な一部メディアの礼賛はあったとしても、アベノミスクの「古びた昔の矢」では、国民のくらしを改善することはできません。
──安倍政権の特徴として復古主義的な国家主義があげられます。今言われたようなアベノミクスと国家主義の結合をどう考えればいいのでしょうか。
〔「構造改革」の進展と復古主義的国家主義の台頭〕
一つには「構造改革」を推進した結果、利益を地方の業者にまわすといった利益分配型の政治ができなくなり、「いろいろあっても経済は自民党」といった具合に、国民に信頼される関係がどんどん希薄になっていったことがあると思います。「負け組」には支援しないというわけですから。
そこで出てきたのが小泉内閣の「大企業が潤えば、いまに国民も潤う」であり、また「負けるのは本人の責任」という「自己責任」論です。
しかし、前者は「大企業が潤っても、国民は潤わない」という事実によって否定され、後者もいくらなんでも酷すぎる。
そこで「国のすることに逆らうな」という強権的な国家主義が、次第に前に出てきているのではないでしょうか。
財界へのメディアの従属といったことも指摘されていますが、財界の諸政策への「同意」を強制する思想として、国家主義、復古主義の役割が大きくなっているように思います。
それは裏を返せば、日本の経済的・政治的支配層が復古主義以外に、国民を「統合」する新しい戦後型の思想・イデオロギーをもつことができなかったという、弱点の現れでもあると思います。
これも少し、歴史をふりかえってみると、八〇年代には中国や韓国とのあいだでの教科書問題がありました。
九〇年代に入り「日米構造協議」を受けて、日本が「構造改革」に走りはじめていく時期の九三年には、「慰安婦」問題での「心からお詫びと反省の気持ち」を表明した「河野談話」が、九五年には「植民地支配と侵略」に対して「痛切な反省の意」を表した「村山談話」が出されています。
これに対して、復古主義者からの巻き返しがおこり、九三年には自民党に歴史検討委員会がつくられ、九五年には『大東亜戦争の総括』が出版されます。南京大虐殺や「慰安婦」問題は事実ではない、それにもかかわらず教科書に書かれている、教科書の書き換えに向けて学者をつかった国民的運動が必要だ、とされました。
それにぴたりと歩調をあわせて、九六年から「産経新聞」で「自由主義史観キャンペーン」が開始され、九七年には「日本会議」「新しい歴史教科書をつくる会」「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が発足します。
「構造改革」が推進される過程は、政府の中から出てきた歴史問題での一定の反省に、激しい巻き返しが起こる時期と重なっているのです。
「六大構造改革」を掲げた橋本首相は、直前の九三年から九五年まで日本遺族会の会長でした。彼は靖国公式参拝を公約に掲げて首相になります。
二〇〇〇年代に入り、小派閥の長だった小泉さんが首相になった背後にも、八月一五日に靖国神社に公式参拝するという公約がありました。日本遺族会の大きな支持があったと言われています。
「構造改革」の歩みは、復古的な国家主義の台頭あるいは前面化と時期を同じくしていました。
先日、「朝日」のオピニオン欄に、私の同僚であった内田樹さんが、「日本の現在地」という一文を寄稿し、示唆に富んだ文章として話題になりました。
そこで内田さんは、グローバル企業段階で国民国家が解体させられつつあると述べていましたが、私流の言葉で言いなおせば、「国民経済を破壊しながら、国民国家を維持する試みがアベノミクスと復古主義的国家主義の結合」ではないかと思います。
〔改憲案にも復古と「活力ある経済活動」の両方が〕
そのアベノミクスと復古の結合が端的に現れているのが改憲問題です。自民党の改憲案には、いろんな要素が組み込まれています。
一つは天皇中心の復古主義の方向です。二つはアメリカと協力して戦争ができる国、三つは「公の秩序」を最優先し、国民の権利や自由を国家が制限・抑圧できる国、四つは国民が自己責任でいきる国、五つは「活力ある経済活動をつうじて国を成長させる」、そういう国づくりの方向です。
そこには、復古主義的国家主義、財界が求める「構造改革」、アメリカとの共同戦争の実現などがごちゃごちゃになって入っています。
特に目につくものの一つが「公の秩序」に反するものを許さないとする思想です。国民の自由や権利も、幸福追求権も、集会・結社の自由も「公の秩序」の範囲内に押しとどめる。
さらに「国防軍」は「公の秩序」を守ることを任務の一つとし(九条三項)、内閣総理大臣はその「国防軍を統括」(七二条三項)して、「内乱等による社会秩序の混乱」に際して「緊急事態」が宣言できるとなっています(九八条)。国防軍は、国民に銃を向けるということです。
「公の秩序」の具体的な内容なのは、「国民統合の象徴である天皇を戴く国家」(前文)でしょうから、ここにいう「公の秩序」はもはや戦時中の「国体」に近しいものと理解するしかありません。
この点にかかわって注目しておきたいのは、自民党が二〇〇九年に下野し、翌二〇一〇年につくった新綱領の内容です。
自民党の再生をはかるときに、何を柱にすえることができるのか。それは思想的には「日本らしい日本の保守主義を政治理念」とし、政策的には「日本らしい日本の姿を示し、世界に貢献できる新憲法の制定を目指す」ということでした。
復古主義のもとに、海外に軍隊を出すことのできる国づくりをするということです。
ですから、このような改憲への動きは安倍さん個人の思想的背景に解消することのできるものではありません。自民党の「再出発」はこうした自民党全体の右傾化の過程であったのです。
そして、ここに財界が求める経済路線が付け加えられます。新綱領は「我が党の政策の基本的考え」の四番目に「自律と秩序ある市場経済を確立する」を掲げました。
この内容に関連して、綱領策定の中心に立った伊吹文明氏は「資本主義経済でなければ、経済が発展しないことは歴史が証明しています。しかし、資本主義経済はそれを動かす人間の自己抑制がなくなると、誠に醜い拝金主義経済に陥ります」「額に汗せず、お金を右から左に動かして儲ける人が偉いわけではありません。下請けいじめの利益は立派なことではありません。自律と秩序ある市場経済の確立がわが党の基本です」と述べました。
ところが「自律と秩序ある市場経済」の内容に入ったとたんに、伊吹氏は「一部の人を優遇し、競争条件を不平等にする政策を採るのは、保守主義本来のあり方に反する」と強調します。
国民には機会の平等が与えられれば良いのであり、あとはすべてを市場に任せていくということです。競争の中で強いものが勝ち残るのは当然で、そのときに弱い立場にたった人間を救うような「優遇」はしないということです。
自民党の憲法改正草案の前文にある「活力ある経済活動を通じて国を成長させる」という文章を、自民党の『日本国憲法改正草案Q&A』は何も解説していませんが、内容は右の伊吹氏の説明で十分でしょう。
復古主義を強化しながら、財界いいなりの経済政策を進めることは自民党の改憲案にもまとめられているのです。
──しかしアベノミクスと復古はうまく両立していけるのでしょうか。最後に、このアベノミクスにどう立ち向うかについてもお話し下さい。
〔復古主義と財界、アメリカとのねじれ〕
財界は、アベノミクスの推進を歓迎していますが、東アジアとの対立は望んでいません。
たとえば日本経団連は、四月一六日に「通商戦略の再構築に関する提言」を発表しましたが、そこでは「日中韓FTA」が必要である、そのためにも「対中国市場アクセスの改善はわが国にとって重要である」と述べています。中国はじめ東アジアの経済成長を、いかに自分たちの利益に結びつけるかは、日本財界にとって最重要の課題の一つとなっています。
ところが安倍内閣は、日本軍「慰安婦」問題でも、靖国神社参拝問題でも、アジアとの対立を深める方向に進もうとする。
日本国憲法は「信教の自由」を定めた第二〇条で、国や自治体は特定の宗教的活動をしてはならないと定めていますが、自民党の改憲案はここに「ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない」と追記しています。
つまり靖国神社や各地の護国神社への参拝を合憲にしたいということです。このような方向性が、アジアと世界に受け入れられるはずがありません。つまり財界のめざす道と、自民党や改憲案の復古主義には相当に深刻なねじれがあるのです。
それは、小泉内閣や第一次安倍内閣の時にも露呈した問題です。小泉さんが連続して靖国神社に参拝したさいに、日本経団連の奥田会長(当時)は、靖国に行かないように進言しました。
また経済同友会からは「過去に対する謙虚な反省」が必要である、「『不戦の誓い』をする場として・・・靖国神社が適切か」という問題提起まで飛び出しました(「今後の日中関係への提言」〇六年)。
財界の利潤第一主義と復古の流れの衝突が前面に出た瞬間でした。この時「日本の伝統を金で売るのか」と財界にかみついたのが、当時の安倍さんでした。
この点での対立の構図は、今日もまったく変わっていません。財界はアベノミクスの推進は評価するが、ゆきすぎた復古主義が財界の利益を損なうようになれば、それは決して許すことができない。逆に安倍さんたちは、アベノミクスを進めながら、どこまでの復古が許されるのかを様子見している。彼らは見事な一枚岩ではありません。
同じようなねじれは、復古主義とアメリカとの間にもあります。
日本に向かって「TPPに入れ」「基地を辺野古にもっていけ」「集団的自衛権を行使しろ」「原発政策を継続しろ」と要求し、それにこたえようとする安倍内閣の動きは歓迎するが、復古主義の台頭には釘をさす。
そうでなければアメリカが二一世紀の最重要な二国間関係だとする米中関係を混乱させられてしまうからです。また米日韓の「同盟」を混乱させられてしまうからです。
第一次安倍内閣の時に、アメリカはすでにこの点で手を焼いた経験をもっています。
そこで今回は、安倍内閣が誕生した直後から、「河野談話」の見直しをするなと繰り返し伝えて来ましたし、超党派の対日政策文書である「アーミテージ・レポート(第三次)」も歴史問題への真摯な取り組みを求めて来ました。今回の閣僚の靖国参拝についても、アメリカはただちに「懸念」を伝えています。
安倍内閣は、財界、アメリカいいなりを基本としていますが、財界、アメリカとねじれて、対立しているところもあるのです。
安倍内閣の暴走は、ただちに国民とのあいだに大きな摩擦を生みますが、この復古主義の問題では、摩擦は東アジアとのあいだだけでなく、財界やアメリカとの間にも起こるものとなっています。
〔復古主義以外の保守政党がない〕
どうしてこういうねじれをもった政権ができあがってしまったのか。端的にいえば、日本の政界には、ほかに財界、アメリカの要望にしたがって政治を実行できる勢力がいないからです。
それができる政党は、復古主義すなわち「日本らしい日本の保守主義を政治理念」とする自民党のほかにない。これ以外の財界いいなり政党の育成に、日本の財界は成功してこなかったのです。
ゆきすぎた復古主義があらわになり、財界、アメリカが安倍内閣を見限る局面が生まれたとしても、財界には、その次の政権を安心して託すことのできる別の勢力はありません。
もう少し歴史を大きく見ておけば、これは戦後日本政治の「三つの異常」と指摘される、対米従属、財界いいなり、侵略と加害への無反省が、共存できなくなってきているということです。
利潤第一主義にとって、過度の復古は、すでに許しがたいものになりつつある。世界経済における中国や東アジアの台頭がそれを求めているわけです。
しかし、ここで復古主義を否定してしまえば、「国のいうことは何でも聞け」と、国民に財界いいなりを強いる国家主義の柱は失われてしまう。
日本の支配層は、いまそういうジレンマの中に立たされています。これは非常に大きな変化の兆しといっていいのではないでしょうか。
もちろん、それを支配層内部の衝突による国民支配の新たな再編にとどめないためには、過去の歴史の反省にたって、アジアや世界に新たな友好を広げる取り組みに加え、財界やアメリカによる国民支配との一層力強いたたかいが不可欠です。
〔経済政策と国づくりの二つのレベルの対案を〕
最後にアベノミクスにどう立ち向かうかという問題です。私は、経済政策のレベルでどういう対案を示すかということと同時に、安倍政権がアベノミクスの遂行もふくめて行おうとしている国づくりのレベルでの対案を示すこと、この二つが大事だと思います。
経済政策の点では、共産党は、四月に「『アベノミクス』の危険な暴走を許さず、消費税増税を中止し、国民の仕事と所得を増やす、本格的な景気回復を」という政策を打ち出し、「賃上げと安定した雇用の拡大で、働く人の所得を増やす」「消費税増税を中止する──財源は消費税に頼らない『別の道』で確保することを提案しています」「現役世代も高齢者も安心できる社会保障に」「内需主導の健全な成長をもたらす産業政策に」という四つの方向を明確にしています。
前向きな産業政策を提示したところは新しい注目点で、今後も経済再建あるいは本当の意味での経済「再生」の道を、わかりやすく建設的に示すということに力を注いでほしいと思います。
もう一方の国づくりのレベルでは、改憲案にすでに指摘したような多くの問題点があるわけですが、「大企業が潤えばいまに国民も」という破綻済みのトリクルダウンを憲法にまで書き込んでいくという国づくりでいいのか、国民のくらしを守り発展させる国家でなく、もっぱら大企業ばかりの発展をめざしていく、そんな国づくりでいいのか、ということが大きく問われる必要があるように思います。
なにより政治は国民のためにあり、国家は国民のくらしを守り、発展させるためにあるのではないのか。そのことを、強く訴えていく必要があるのではないでしょうか。
九六条を入り口とした危険な改憲をゆるさないという取り組みに、日本国憲法が本当に生かされた社会をめざす、前向き改革を対置することが重要だと思います。
そうして憲法の条文を変えさせないという保守の護憲から、憲法をいかした社会づくりを積極的にめざしていく改革の護憲へと、護憲の射程を広げていく必要があるのではないかと思います。(いしかわ・やすひろ)
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