前回からの「アメリカいいなり政治の形成」のつづき。発端は1945年から52年の米軍による軍事占領。占領政策は47~8年を転換期に,ポツダム宣言実施を主とした前半期とアメリカいいなりの軍事大国化を追求した後期にわかれる。
東京裁判の背後にあったのは,侵略戦争を違法行為として裁くという国際世論の発達。第2次大戦に際しては,ナチスにはニュールンベルク裁判が,日本軍国主義に対しては東京裁判が行われた。ただし東京裁判については「勝者の裁き」にもとづくゆがみの面も強い。主な内容は,①日本による植民地支配の罪を不問に付したこと,②裁判そのものをアメリカの対日占領政策にそわせてねじ曲げ(昭和天皇の罪を問わない)たこと,③戦犯容疑者をアメリカいいなりを条件として釈放していったことなどである。これによって侵略戦争の当事者たちが,戦後日本の政治・経済支配層に残っていく。
同様のゆがみは51年9月8日調印のサンフランシスコ講和条約にも認められた。アメリカ等は,アメリカの認める範囲とのみ戦争状態を集結し,国交を回復する片面講和を主張し,すべての交戦国との関係を回復する全面講和の主張を抑えていく。その結果,会議の招請範囲から中国,南北朝鮮は排除され,会議に招請されながらもこれへの抗議を理由にインド等が参加を拒否し,会議に参加したソ連らも調印を拒否することとなる。そこには,アメリカやイギリス等の戦後も植民地支配体制を継続しようとする思惑が強くはたらいていた。講和会議で植民地支配の是非を問わせないという姿勢である。これは日本国内においてはアジアに対する加害への意識を希薄化させる役割を果たした。
日本の再武装も,アメリカの強い意向に基づいている。45年に帝国軍隊は解体されるが,50年の朝鮮戦争をきっかけにアメリカが日本政府に警察予備隊の創設を求める。旧職業軍人を中心とする7万の人間が集まり,これにアメリカが武器を渡し,米軍基地で訓練を行った。アメリカの週刊誌は警察予備隊を「星条旗をまとったアジアの軍隊」と紹介。これの創設目的は,朝鮮戦争に際しての日本国内の治安維持であり,その力は国内の反戦平和勢力に向けられた。これが52年に保安隊となり,54年に自衛隊となる。
今日にいたる日本の中心政党・自民党は,1955年に岸信介を初代幹事長として結成される。結党に際しては,財界の他,アメリカCIAも多くの資金を投じている。岸は東京裁判の腰折れによって,巣鴨の刑務所を出所し,その後アメリカいいなりの政治家として大きな役割を果たしていく。自民党結党の目的は,安定した保守政治と明文改憲であり,57年に首相となった岸は,安保改定と憲法改定を政治課題にかかげていく。しかし60年安保の改定と引き換えに,平和を願う国民世論によって,岸は退陣を余儀なくされる。そこから日米の支配層は明文改憲から解釈改憲へと,平和憲法の制約を乗り越える当面の戦術を転換する。そして国民への親米気分の醸成に取り組むようになる。
05年の自民党による改憲案の発表は,60年安保闘争がもたらした改憲への壁をあらためて乗り越えようとする動きと位置づけられる。
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