前回につづいて、映像『未決・沖縄戦』(じんぶん企画)の後半部分をみる。
45年8月以降も強制収容所で日々埋葬が行われ、うち8割近くが幼児・老人だった。米軍の野戦病院が45年5月に設置されたが、そこには朝鮮婦人のテントがあった。
名護の「慰安所」には特に日曜日には朝から兵隊がならんでいた。朝鮮ピーと呼ばれた。朝鮮人の男は軍夫(階級章がない軍服を来た土方・荷役)であった。
強制集団死。伊江島への4月16日米軍上陸以降多発。爆雷(手榴弾をそう呼ぶ場合があった)を使って。
強制集団死をめぐる歴史の捏造にかかわって、石原昌家氏(沖縄国際大学)が語る。
--真実の記憶・記録が日本政府によって絶えず捏造されてきた。軍人を美化し、名誉の死という意味をもつ「自決」を、無念の住民の死にもあてはめる巧妙さがある。捏造の背景には、アメリカの戦争への強力・加担の力がある。
--恩給法から援護法(53年・旧軍人・軍属対象)への転換の中で、戦争への認識がゆがめられた。57年以降援護法の適用が沖縄の一般住民に拡大する。軍人・軍属には国との雇用関係があったが、この過程で、その関係がない住民との関係が「雇用類似の関係」とされた。住民が軍の命令にしたがって濠をあけわたしたところで「雇用類似の関係」が成立したとするもの。
--援護法申請に当たっては、積極的な戦闘協力をしたということがポイントになる。多くの書類は司法書士などが書いており、住民はその内容を知らないものが多い。多くは戦争被害への保証金だと理解した。自分が積極的な協力者とされたという認識は多くない。
--集団自決は軍人等が責任をとって自殺すること。海軍濠でも、摩文仁第32軍司令部の濠でもあった。これと異なり、住民は自ら責任をとって死んだのではなく、死に追い込まれていった。日頃から鬼畜米英の恐ろしさが植えつけられており、他方で、軍の秘密を知っている住民に投降は許されないとされた。絶望的な状況。そこにお互いに殺し合うという関係が。自ら命を絶った自決とは違う、命を絶たされた。それを「集団自決(強制集団死)」と書いてしまえば、まったく意味の違うものを1つにつなげることになる。07年頃から急速に広くつかわれるようになった。戦争のできる国に向けた変化が背景にある。
以上にもとづき、グループごとに討論。その後、出てきた質問は次のよう。
「治療を受けた子どもがいたのは?」「強制収容所は何のために?」「雇用類似の関係というのは?」
「フィリピンの兵士というのは連合軍?」「日本の夏の戦争アニメなどに政府の規制はある?」「早ければ2011年に改憲というのは?」
「いまある自衛隊は違憲?」「こういう授業をする先生が政府から圧力を受けることはないのか?」
「『戦果』というのはどういう意味?」「兵士にも住民にも餓死が多かった?」
次回は、戦後の憲法制定の話に進んでみたい。
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