今日の映像は「ETV特集・安保とその時代 第2回”改定”にいたる道のり」。
これを見終わってからの短いグループ討論をへて、出てきた意見・感想は次のよう。
a・内容がむずかしい/登場したソ連とアメリカと日本と中国の関係がわからない/ダレスが日本からオーストラリアに乗り換えるという話しは日本への脅しだったのか
b・日本は中立になればいいのではないか、なぜそうできないのか/中立というのはどういをことか/50年前の安保条約がいまだに一言の変更もされていないことにびっくり
c・日本はアメリカに利用されすぎ/岸首相はアメリカとの関係を重視したが、国民の世論はどうだったか/朝鮮戦争の軍需物資を日本がつくっていたがそのお金は/日ソの領土問題の今は
d・日本はアメリカにいいようにされている/当時の中立主義の内容は/今の国民は安保について教えられていないし、知らない
〔以下は、映像の内容についてのメモ〕
1953年石川県内灘接収反対闘争
1951年旧安保条約、この時、米軍基地700
日本各地で吉反対闘争、次第に安保条約そのものを問うように
アメリカの警戒、国務省文書、中国は日本の中立化をねらっている、ソ連もと
中ソ同盟は破綻への道を進み、日米関係はより強固に、安保改定へとすすむ
1960年新安保条約-相互協力と関係強化、米軍による日本防衛の義務明記、基地提供は継続
50年前のこの条約は今日まで、まったくかわらず
「ETV特集 安保とその時代 第2回 ”改定”への道のり」
基地闘争のはじまりから安保改定まで、新たな条約まで
52年春、講和条約を喜ぶ日本人、ヒロヒト
同時に結ばれた日米安保条約
52年秋、人口7000人の内灘村に試射場設置の通告が政府から
村は期限付きで政府通告を受け入れる、53年1~4月の4ケ月のみ
住民のほとんどが漁業で生活、浜は地引き網漁にかかせない
浜が米軍の試射場に、村のハシからハシへの砲弾試射
近いところは村まで800メートル
4ケ月で返還という政府の約束が破られた
朝鮮戦争の最中、戦場で使う物資を日本が供給、砲弾・弾薬、パラシュート・・・ 性能検査が必要だと
6月2日、内灘の浜の永久接収を吉田内閣が決定
住民は試射場で抗議の座り込み開始、日本本土ではじめての基地反対闘争
梅雨の最中の座り込みは連日、小さな子どもをつれて、
この浜があればこその生活、先祖代々の浜、永久「接収反対」
全国から大勢の支援、支援者が求めたのは安保条約撤廃
阪急労組がつくった現地報告、講和・安保は日本の基地化をすすめている、いまが分岐点
内灘闘争を外から支えた労働運動・学生運動の思想的・政治的背景
日本は中ソと講和を結べなかった、多くの日本人が望んだが
アメリカとの同盟でない中立を望む声も強かった
内灘住民は永久接収の反対派と賛成派にわかれていた
試射場内の施設のほとんどは地元企業がつくったもの、大きな雇用
長丸さん、夫は弾薬をはこぶトラックの運転手、妻は座り込み
漁師は各地の海に出稼ぎに、しかし全国各地に漁業規制が敷かれ大変に
ナカヤマ村長は、見返りとしての補助金に注目、田畑をふやしてくらしの安定をと
反対派住民から拒絶される
西田さん、村長と同じ立場で取り組んだ、村の予算の2倍以上の見舞金5500万円
外からみれば矛盾した現実があった、それだけ内灘村は貧乏だった
砲撃再開の通告、再開前日、反対派に役場がとりかこまれて負傷者が
6月15日試射再開、村民内部の対立は深まる
ナカヤマ村長、9月政府を訪問、土地返還を要望
政府、土地は3年後に返還と約束
人々は補償金よりも軍事施設のない村を選んだ
吉本さん、うれしかった
返還後、土地は畑や宅地に、本土初の返還闘争は住民の勝利に終わった
53年7月板門店、休戦協定
アメリカ大統領トルーマンからアイゼンハワーに、ソ連もスターリンからフルシチョフに
「平和共存」を訴えるフルシチョフ、中ソで対日共同宣言(54年)も
鳩山内閣の誕生、アメリカ一辺倒でない自主外交をかかげ、ソ連との交渉に
56年8月日ソ交渉、最大の懸案は領土問題、ソ連はハボマイ・シコタンの返還を、日本は4島返還を、重光は2島返還を受け入れようとするが、日本政府に認められず、アメリカのダレス国務長官もソ連に強く出るようにと
56年10月日ソ共同宣言、平和条約は断念、鳩山はダレスに会談を要請するが受け入れられず
ダレスの行動の背景にはソ連への強い警戒心が
NSC6008号文書(60年)、日本の基地は極東の防衛に欠くべからざるもの、中ソとのたたかいとともに、米軍の軍事負担を軽くする
旧安保で日本には700をこえる基地、内灘闘争の勝利は全国に影響、各地で基地反対運動
東京都砂川町で、基地拡張反対闘争
群馬県相馬が原演習地、薬莢をひろっていた日本女性が米兵ジラードに射殺された、有罪判決だが執行猶予がつきアメリカに帰国、強まる米軍基地への反感
ジラード事件の翌月、ダグラス・マッカーサー2世が新駐日大使に、われわれは対日関係のターニングポイントに、日本は少しずつ中立主義の方向に流されるのでは(本国への報告)
菅英輝氏、ダレスは日本の中立化、中国との経済交流に強い警戒心をもっていた
マイケル・シャラー氏、日本の中立主義という表現が頻繁に文書に登場する、共産主義化の警戒ではなく中立化への警戒
57年岸内閣誕生、6月アメリカ訪問、ダレス・日本軍の大幅削減の考えがある、しかし、内輪の話しだが中ソの脅威についてわれわれと同じ評価をしていると考えている、日本の望みが離米にあるならその意志にそいたい、われわれは東アジアで別の取り決めをすることができる、たとえばオーストラリアを工業基地にする考え方もある
岸・日本の未来はアメリカとの緊密な協力の中にのみある、安保条約を再検討したい、ダレスはこれに応じると
シャラー氏、アメリカは岸を「無二の親友」ととらえていた、社会主義を広めないために岸を支持することが大切だった、しかし日本で岸は信用されていなかった、アメリカはそれを何とかしたかった
日本本土のアメリカ地上軍が撤退開始、基地は1/4に減少、反比例して沖縄に基地が集中、同じ期間に2倍に
シャラー氏、米軍の行動の自由が規制されない場所として沖縄を重視した、アメリカの政策の大きな転換だった
マッカーサー大使、ダレス国務長官に連絡、安保改定が日本側から持ち出される、これの熟慮が必要
米軍による防衛義務が明記されていない、基地の配置に日本との協議がいれられていない、条約の期限が定められていない、などの日本の不満
菅氏、アメリカは日本国民のナショナリズムをうまく管理していった、アメリカ政府の方が日本の国内世論に目を向けていた、日米関係を危機的状況に陥らせないように
安保改定に向けて日米論議の開始、国際問題談話会(知識人)は政府の改定を批判・対米従属の解消を・積極的中立主義以外にない、平和問題談話会(かつて全面講和を主張した)は冷戦は必ずしも激化するとは限らないと
東側の変化、中国の外交文書、毛沢東は農業集団化のための人民公社を推進、フルシチョフはこれを批判、かつてソ連が失敗したことを引き合いに出して、人民公社化はばかげていると
栄植氏(元モスクワ中国大使館職員)、いつでも見張られていた
イゴーリ・ロガチョフ(元駐中ソ連大使)、毛沢東が国際共産主義のリーダーを目論んでいた
58年フルシチョフ訪中、毛沢東と言い争いに、毛沢東が核技術の提供をもとめ、フルシチョフが拒絶、
沈志華氏、アメリカはこうした中ソの食い違いを把握していた
60年1月日米安保改定に調印
直後の岸会見、東西緩和を手放しで楽観するわけにはいかない
新安保、アメリカとの関係強化、基地提供の義務
基地反対闘争をきっかけにはじまった改定交渉だったが、結局、日本にアメリカの基地は残ることに、ソ連は条約締結に反発、日ソ共同宣言で約束していた領土返還交渉の中止を宣言、中国にも反発、強い脅威と不安の意識、すべてが次の戦争のためと思われた、当時は日本への反発も強く、
5月衆議院で採決、反対派をしめだしての強行採決、国民の安保反対闘争の拡大
30年後、東西冷戦は集結、しかし日米安保は変更されず現在にいたっている
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