映像「NHKスペシャル 安保とその時代 第4回"愚者の楽園へ"安保に賛成した男たち」の前半部分をみる。
その後の議論に出てきた質問意見は次のよう。
「沖縄返還時の核密約は、日本の首相も同意した?」
「いまもその当時の密約は生きている?」
「その後の歴代総理は、みんな知っていた?」
「日本の自衛力はどれくらいの力をもっている?」
「中国・ロシアなど日本の領土をねらっている国もあるのでは?」
〔以下は、映像の内容についてのメモ〕
1965年6月15日国会突入、同じ瞬間安保賛成の学生の取組も「土曜会」、保守派の学生の集まり、官庁などに入り込み体制の内側から自立した国家をめざした、その1人が若泉敬(96年、歴史への結果責任をとると自殺)
若泉が死の直前に残した言葉、「愚者の楽園」(フールズ・パラダイス)
安保とその時代 第4回・”愚者の楽園へ”安保に賛成した男たち
在日米軍基地の74%が集中する沖縄、返還は72年、佐藤・ニクソン秘密合意議事録(密約)が09年に明らかになった、有事の際には沖縄の米軍基地に核兵器の持ち込みを認めると、4人の合意(佐藤・ニクソン・キッシンジャー・若泉)、返還合意69年の日米首脳会談、その舞台裏に若泉が作成した密約文書、96年66才で亡くなった、遺品の中に60年安保の際の土曜会のビラも、安保体制こそ戦争防止の有効な手段
土曜会メンバーはいまも連絡をとりあっている、卒業後・官庁・民間企業ではたらいた、産経記者・評論家・読売記者・三井物産・・・土曜会で学んだことは圧倒的熱狂を冷静に見つめること、『安保改定によせる若い良識の意見』(土曜会冊子)、岸は自主防衛の方向に国を近づけようとした、核抑止力に頼らざるをえない、駒場の学内では「右翼」と呼ばれることもあった、自分たちでは「中翼」「主翼」といったが、6月15日有楽町の駅で宣伝、「オレはソ連に抑留された」など声をかけてくれる人も
土曜会は本来は読書会、1950年発足、そのころのメンバーの1人が若泉、52年東大5月祭事件(赤い暴力)、同級生粕谷氏(中央公論などの編集)、戦時の熱狂への反省から、学生運動の「熱狂」にも不信、佐々淳行も、60年若泉は防衛研究所、佐々は警察庁で、治安・外交・貿易から日本を再建する、体制内改革派だと
60年6月19日、新安保自然承認、土曜会はそれを自立にむけた一つのステップにすぎないと、軍隊をもって独立国家になればいい、安保は目的ではなかった
条約は10年後には廃棄可能に、70年が次の節目、土曜会は自主性の確立を強調、集団的安保はいいがアメリカへの依存を減らしていく、60年安保の直後に社会人の組織「有志の会」を設立、130人、土曜会出身者だけでなく、月2回の研究会、財界人も政治家も、それらの力による変化を期待した、粕谷氏も、60年代半ばから中央公論の編集者として保守派の論客を発掘、有志の会は「自主体制」を強調する寄稿を、自前の防衛産業を
ベトナム戦争で在日米軍基地が活用される、日本では反戦運動が、安保条約は70年をこえられるかが日米両政府の懸案に、65年佐藤栄作総理が沖縄の本土復帰を政権公約に、若泉は京都産業大学に転身していた、若泉は沖縄返還を独立のために不可欠だと、沖縄返還によって日本人の従属意識をかえていくことができる、通常兵器の脅威に対しては70年代半ばには独自に対処できる自衛力を、国民の自営意識の確立と団結が必要、そのために沖縄返還は非常に好ましい影響を
67年9月、福田幹事長から若泉への協力要請、佐藤・若泉は私の秘密の代理人、密使、返還にあたる最大の懸案は核兵器、佐藤は非核3原則をかかげていたから、「核抜き返還」、外務省の交渉は難航、若泉は外務省ルートでわからないところを極秘に、国家安全保障会議の主要メンバーに、モートン・ハルペリン(国務省次官補)・どうしても核が必要な時には使えるようにしておかねば、密約の提示、土曜会の後輩・谷内正太郎(外務省)が若泉宅に学生として下宿していた
交渉過程でアメリカは核についての姿勢をかえず、若泉はこの問題への対処の必要を認めていく、佐藤に密約の説得をする、キッシンジャー補佐官と2人で密約を作成、69年11月日米首脳会談で若泉の3年の努力・沖縄返還がようやく合意に、、
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