〔新聞・放送・メディア〕
新聞はあまり読まれない、1000人当たり購読者は156人(英独320人前後)、高学歴者向け、「大衆紙」はない
テレビ地上波は6チャンネル、国家統制が強く民間放送の承認は1986年、中央集権的、強大な権限をもつ放送高等評議会
ジャーナリズムは市民から距離をおいた存在、「報道の自由」は「報道からの自由」、反論権の規定
「中立」「不偏不党」でなく多元性が尊重される
〔学校〕
小学校5年、コレージュ(前期中等教育)4年、リセ(後期中等教育)3年、大学
リセ1年までが義務教育、義務制・無償制・世俗制は1880年代から
幼稚園も3才でほぼ100%
学校では知育、家庭で徳育、徳育のための休み
「学習リズム」の重視、週4日制も、「7-2リズム」、1クラス22~24人
フランス共和制をささえる「市民」の育成、個人の所属性は校門に置いて入る
〔グランゼコール〕
理論的教育を行う大学と、18世紀以後(本源的蓄積期)につくられた技術者養成のグランゼコール
大学は学費無料、グランゼコールは多様、出身のグランゼコールに応じた給与格差、グランゼコール入学者の多くが上層階級出身
コレージュ・ド・フランス、知の最前線の無料公開授業、試験も免状もない
〔補足・フランス植民地帝国の崩壊〕
1880年からの15年間でフランスの海外領土は10倍に、1890年頃には「フランス植民地帝国」という言葉が使われるように、アルジェリアが独立する1962年までに,この「植民地帝国」は完全な崩壊を遂げていく
フランス植民地の解体過程については,グザヴィエ・ヤコノ『フランス植民地帝国の歴史』(白水社,1998年),平野千果子『フランス植民地主義の歴史』(人文書院,2002年),渡邉啓貴『フランス現代史――英雄の時代から保革共存へ』(中公新書,1998年)を参考に
アルベール・サロー『植民地の偉大さと隷従』(1931年)
「偉大なヨーロッパは,いまや植民地という基盤の上になり立っている」「それは人類の,また文明の命じるところである」
フランス本国による植民地住民の支配は「文明化」の名によって合理化された
モロッコのリフ(1921~26年),ベトナム(30~31年),シリア(25~27年)などで大規模な反乱が、20世紀の初めにはすでに各地で蜂起と反乱が恒常化
急速な変化はヒトラー・ドイツの侵攻による40年6月の「パリ陥落」から、7月にはパリ南東の町ヴィシーにドイツ従属の新政権、アメリカはじめ国際社会がこれを承認
将軍シャルル・ドゴールは「自由フランス」を名乗り、ドイツへの抵抗運動(レジスタンス)を、ドゴールがフランス正統政府を主張する自らの証としたのは,植民地の「領土」と「国民」
フランスのレジスタンスは,ドゴールの側についた植民地地域を基盤とすることで,初めて成り立ちえた
植民地コンゴの首都ブラザヴィルが「自由フランス」の首都
ドゴール「フランスは一丸となって植民地の一体性を完全に保持する」(43年6月)
「フランスは植民地で文明化の仕事をなし遂げてきた」「植民地の自立という考えも,あるいはフランス植民地帝国という枠組みを離れた形での植民地の発展の可能性も,断じてうけいれることはできない」(44年1月,いずれもブラザヴィルにて)
本国と植民地との一体性を強調
1946年の第4共和制憲法は,「植民地帝国」を「フランス連合」に再編、もはや「帝国」の名は使えない
植民地住民がごく少数の代表をフランス議会に送ることができるようになる他,「連合」がもたらす本質的な変化はなし、実態は植民地支配の継続そのもの
各地で民族蜂起。「連合」の崩壊に致命的な一打を与えたのはベトナム、45年9月ベトナム民主共和国が独立を宣言、フランスは第1次インドシナ戦争を開始し,49年3月には「連合」の一員である傀儡政権・独立ベトナム国家(南ベトナム)を打ち立てる
1946年の第4共和制憲法は,「植民地帝国」を「フランス連合」に再編、もはや「帝国」の名は使えない
54年5月ディエンビエンフーの敗北、7月にはジュネーブ停戦協定に調印、アジアにおけるフランスの領土は完全に失われた
フランス本国では,戦争の継続を望み,アメリカに原爆投下を要請したラニエル内閣が,「名誉ある終結」を主張したマンデス・フランス内閣に取って代わられる(54年6月)
ただし,ジュネーブ協定を推進しながら,協定への調印を拒んだアメリカが,ベトナムへの大規模な介入戦争を展開していく。49年の「中国革命」以後,アメリカは積極的にフランスの「支援」を行っていた
54年11月アルジェリアに一斉蜂起、人口の1割がヨーロッパ系入植者であったアルジェリアへの弾圧は熾烈をきわめる
マンデス・フランスも「アルジェリアとフランス本国の分離は考えられない」と、58年独立を阻止しようとする入植者と現地軍が,ドゴールの政界復帰を実現
植民地を基盤にフランスを救ったドゴールなら,アルジェリアの植民地を維持してくれるであろうという思惑
58年9月第5共和制成立、「フランス連合」にかわる「共同体」が誕生、「共同体」への参加の是非を海外領土自身が自主的に決定、不参加(=独立)を選べばフランスからの経済援助はない
インドシナ3国とチュニジア,モロッコは独立、残された植民地はほとんどがサハラ以南のブラック・アフリカである
この瞬間にはギニアだけが独立を選択、独立運動の指導者セク・トゥーレ「隷属下の豊かさよりも,自由の下での貧困を選ぶ」
つづいてフランスとの関係を維持しながら独立を認めてほしいと,セネガルとマリからの要請、親フランス地域にあっても独立を押しとどめることはできない
ドゴールは,59年11月に独立以後も経済援助を継続すると表明し,60年6月にはこれにそって憲法第12章「共同体」を修正
17ヶ国が独立した60年が「アフリカの年」と呼ばれるのは,この憲法修正によってフランス領の14ヶ国が次々と独立を達成したことによる
60年11月ドゴールは「アルジェリア共和国」の設立承認に追い込まれる(独立宣言は62年7月)、61年「共同体はもはや存在しない」(ドゴール)
それは「フランス植民地帝国」の最終的な崩壊の告白
変革の推進力は、自立を求める植民地地域の人々の力
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