前回レポート返却
「金融寡頭制」についての補足(経済の少数者支配と政治を含む社会全体への少数者支配の両面を)
『岡田山論集』の配布
7月08日 第5章「資本家団体のあいだでの世界の分割」 松島・森本・大石さん、第6章「列強のあいだでの世界の分割」 佐藤・関・高荻さん
7月15日 映像『中国人強制連行』『写真に記録された「慰安婦」』
7月22日 序章・解説・まとめ 豊福・入門さん
〔映像『映像の世紀6-独立の旗の下に』〕
45年8月終戦を歓迎する人々、日本軍の武装解除、アジアにおける権力の空白
毛沢東、ホーチミン、ガンジー、強力な指導者のもとでの独立への動き
インドへの大英帝国の支配、ジョージ5世がくぐったインド門、インドの皇帝に
イギリスの植民地支配はアフリカにも、南アフリカにも、そこにいたガンジー、一等車のキップをもちながら貨物車にうつされた有色人種ガンジー
インドシナへのフランスの支配
日本による朝鮮の支配
第一次大戦へのアジア人の「参戦」(植民地市民の動員)、1919年パリ和平会議(ウィルソンが民族自決を提唱
1920年代中国、欧米の進出、租界、上海は「東洋のパリ」と、外国の支配下にある民衆
孫文、民主・民権・民政の三民主義、外国からの独立を
1917年ロシア革命、アジアに独立の機運が高まる、コミンテルンに参加したホーチミン、秘密工作員としてアジア各地で地下活動を
中国広州、孫文はコミンテルンから講師を招いて革命軍の育成に、校長が蒋介石、政治部に周恩来、毛沢東も面接官、孫文は共産主義者も仲間にいれて、この学校の校歌が後に台湾の「国歌」に、インドシナ青年の姿も
多宗教国家インド、1915年ガンジー帰国、すでに南アフリカで人権闘争、「偉大な魂(マハトマ)」、非暴力闘争、インドはヨーロッパの暴力をまねるべきではない
ヒンズーとイスラムをどうまとめるか、独立闘争をまとめる象徴、糸車、イギリスからの綿製品に対抗して、国旗の意味(ヒンズー・イスラム・その他の三色と中央に糸車)
1930年塩の行進、イギリスによる塩の専売への抗議、海から塩をつくる
1925年孫文の葬儀、共産党が訴えたストライキが外国人排斥へ、国民党を受け継いだ蒋介石、共産党の殲滅を指令
1931年ロンドンでの会議(第二次英印円卓会議)、マクドナルド首相、インドから87人を招待、ガンジーは1/87の存在に、独立でなく自治領、帰国後のガンジー逮捕をインド総督に命令、この後ガンジーが政治の世界の第一線に現れるのは戦後のこと
1935年溥儀(満州国皇帝)が来日、日本が勢力を拡大する時代、満蒙を領土とすることは正義
延安に共産党の根拠地、革命とは暴力(毛沢東)、37年日中戦争から2ケ月後に国共合作、国土・人口・正義が中国にはある、三段階の持久戦論(毛沢東)
41年太平洋戦争、44年に毛沢東はアメリカからの武器援助を得ようと
日本は東南アジア各国を占領、「天皇陛下万歳」を叫ぶインドネシアのスカルノ、「日本を利用できると考えていた」「勇敢な兵士にかえてもらえる」、朝鮮人兵士も
41年、30年ぶりにベトナムにもどったホーチミン、ベトナム独立同盟を結成
終戦、アジアにもどってくる欧米諸国
インドの指導はネルー(ヒンズー)、ジンナーはイスラム独自国家の創設を訴える
46年中国内戦勃発
〔質疑〕
孫文の死後なぜ中国で共産党が力を
チャップリンや李香蘭(山口淑子)の立場は
ガンジーはなぜイギリス市民に歓迎されたか
南アフリカでの人種差別は
イギリスでの会議に招かれた他のインド人は
会議にガンジーの声は反映されなかったのか
次回レポートの課題「第二次大戦後の植民地独立をどう考えるか」
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