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ワルモノ バリを行く 2001
明かに気乗りしていない大先生を無理矢理南半球まで連れて行ってもいいものだろうか? という葛藤を見事に乗り越え、ネシア上陸
<前半 ジンバラン滞在>
2001年9月5日(火)
朝7時半,例の原稿をメールで編集部に送りつけて,逃げるように家を出る。タクシーでJR堺市駅へ。8時38分には関空快速に乗る。
「2時間前に来てよね」といわれていたようだが,行ってみると発券カウンターには長蛇の列が。ここで延々30分は並ぶことになる。
10時20分には搭乗。見事1度目のトライアルで離陸成功。「安さ」が売りのガルーダ・インドネシア航空(国有らしい)である。目的地のバリ,デンパサール空港までの飛行距離は5250㎞と表示される。
「何か飲み物は」と日本語まじりのネシアン・イングリッシュで問われ,ただちに「ビール2つ」と回答。気圧の変化でパンパンにふくらんだ袋入りの豆をコリコリと食いながら,空を行く。眠い。
「チッキン オア サカナ?」。昼食の時間である。なぜ鳥は「チッキン」なのに,魚は「サカナ」なのだ。そして思わず「フィッシュ」と答えると,これが相手には通じなかった。じつに不思議な会話である。
食後のテレビ映画は「ドクター・ドリトルⅡ」。エディ・マーフィが自然保護のために,サーカスで育った熊を野生にもどすべく苦労するというお話。
この映画をきっかけに機内は暗くなる。そして機内全体が昼寝タイムに突入する。
ずいぶんとバリが近づいたころ,突如「おにぎり」が配られる。コンビニに良く売られているピーッとシールをはがす式のアレである。製造地は大阪府和泉市。おにぎりの胴体にははっきりと「おかか」と書かれていた。
機内全体が「おかか」の人たちとなる。
日本時間の5時56分,無事バリ到着。だが「時差があるから時計を1時間もどせ」といわれる。ここからさらにジャカルタなどへ行くと「もう1時間もどせ」ということになるらしい。
それにしても,この機内生活。まず飛行機に乗る→途端に飲ませる→つづいて食わせて満腹にする→明かりを消す→全員を眠らせる→おにぎりで起こす→飛行機からおろす。ガルーダはわれわれを「ブロイラー」のように扱ってはいないか。
別にいいんだけど。
ず~っと、バリに行きたかったのでどんなに感動するだろうと期待していたが 空港では両替、ホテルまでのタクシーGET、リコンファーム等々バタバタしてしまってそれどころじゃなかった
何があっても3児の父を無事に帰国させないといけないので 小さな子を連れた親の気分で危険に備えたけど 某国のように白タクの客引きにカバンや体をつかまれたりする事も無い
ここは想像以上に安全なところみたい 一気に警戒レベルが下がった が しかしここで気を抜き過ぎてしまったのか リコンファームを忘れる失態 (しかも次の日まで気付かず)
空港を出て,観光案内所(のようなトコロ)を襲撃。やたらと元気なお姉さんと「アジャラ,ウジャラ」しゃべっているうちにタクシーの手配が出来てしまった。
タクシーにはメーターがなかったが「3万ルピアでどうだ」「4ドルくらいだ」といわれてOKする。まだ金銭感覚がまったくできていない。ホテルまでの途中に「土佐鶴」の大きな看板を見つけて笑う。日本料理屋らしい。
バリ・インター・コンチネンタル・リゾート・ホテルにチェックイン。フロント前ですでにガムランが演奏されている。
それにしても,こうまで「ワシはリゾートでっせ」のホテルは初めてだ。いままでの自分にとってのホテルというのは講演会にしても旅行にしても,寝るためと,どこかに出かけるための臨時の出撃基地でしかなかった。ホテルにいること自体が目的になるようなホテルは,これが初めてである。
3階の部屋が面している中庭にはたくさんの木が生えているが,それぞれのあたまがどれも同じくらいの高さで,しかも平らであることに興味を覚える。
一休みしてから,プライベート・ビーチに出る。ちょうど夕日が落ちたところで,とてもキレイな眺めだった。
あぁ~嬉しいなァ 海もプールも素敵 泳げる! 蒸し暑いんだろうなぁと覚悟を決めていったのに大阪よりも数段過ごしやすいので驚いた
日が沈んでしまったビーチに立ってはじめて 開放感が私に降りてきた
しかし,不思議なことに機内であれだけ食っても腹は減る。やはりわれわれは「ブロイラー」なのかも知れない。ビーチを南へ下ると「ワシらどんな魚介でも焼いて見せますぜダンナ」の店がズッラ~ッとならんでいた。
たくさんの店のそれぞれが3m歩くごとに,いちいち「ウマイよ」「やすいよ」「ウチの店入れ」の攻撃をかけてくるので,途中でいやになり何も選ばずに端っこの店に入ることにした。
サラダ,大きな白身のサカナ,海老,イカ,ゴハン,くだものなどをたらふく食って15万ルピア。2000円くらいだ。もちろんビールも飲んだ。以後バリではずっと「ビンタンビール」の人となる。少しの甘味が暑い気候や料理にあう。
全てが海に向った席 その一番前に陣取った キャンドルの明かり、目の前は海、シーフードの大皿、冷えたビール
何も言う事ありまへん
テーブルはすべて外にある。アタマの上には天の川がクッキリと流れ,いつも南の空に地上スレスレに見てきた「さそり座」が空高く光るのを,誰かにだまされているような思いで眺め,バリの初日は終わっていった。
朝と夜とでのこの生活環境の激変。「ガルーダ・マジック」か。
2001年9月6日(水)
朝,ホテルの近くの「事務所」から電話がかかってくる。
実は夕べのシーフードの店で簡単なアンケートに答えたんだが,それが「あたりました」「1等賞です」「お望みの旅行に行けます」という巧みな旅行売りつけ技の入り口に転化したわけである。
ああ,朝っぱらから勘弁してくれ。
そんな憂鬱な出来事の直後でも,やはり腹はへる。もちろん,われわれはホテル内の「お上品料理」にひたることを潔しとしない。「郷にいっては郷にしたがえ」「そっちに行ったらそっちのメシを食え」の類の人種である。
おそるおそるホテルを出て,「ワシは完全に庶民御用達の店だ」の色をとても強く発しているスーパージモティ食堂に入る。ここから1週間,朝食はつねに昼食を兼ねてとる生活となる。
比較的準備の少ない旅行だったが(ワシは),それでも事前に食い物だけは調べていた。さっそく「ナシ・ゴレン」(まあ焼き飯,ただしコメは長粒種),「ミー・ゴレン」(まあ焼きそば,ホントに),「アヤム・ゴレン」(まあ鳥のから揚げ,ただし辛い)を注文する。
「ゴレン」というのは「炒める」とか「揚げる」とか,「ともかく油だぜ」という調理法の意味らしい。
店の中にはハエが飛び,足元にはくたびれた茶色の犬がゴロリを昼寝をぶちかまし,そして「ああ,ああ,ようやく昼飯だよ」と集まってくる近所のオイチャンたちに「あれ,なんでこんなとこに日本人がいるんだ?」という好奇の目で見られるなかでの食事である。
日本的にいえば「まだ小学生だな」という年代の少女も店を手伝っていた。なかなかうまい。「バブース」(うまい)という大切な単語をここで覚える。
「なるほどこのようにバリの食い物はウマイのだな」と,その方面への期待を大きくふくらませて店をでる。そして次に近くの小売店を襲撃。「練り歯磨きがほしい」という希望を見事「オンリィ身振り」で伝え,ゲットする。
そして,またさらに他の店でビール,コーラ,ピーナッツなどもゲット。
どこのメシ屋でも,ビールをたのむとこのピーナッツをガーリック・オイルで炒めたものが,良く登場する。少し粒が小ぶりだが,実にうまい。
昼からホテルのプールに入る。かろうじて足は立つ。この夏の日本での苦しいプール通いの成果が問われる瞬間であった。
とりあえず「日本のハジ」をさらさぬ程度には泳ぐことができたと思う。
プールサイドのデッキ・チェアには白い巨大な肉塊がドテーッとのっかっている。ある者は本を読み,ある者はジュースを飲み,ある者はただただほうけている。
「泳ぐアホウに見るアホウ」「同じアホだがアンタはでかい」。
今まで進んで欧米の方々を見習おうと思ったことは無かったけど バカンスに対する考え方、姿勢には感動
別にここが豪華ホテルだからではないと思う 時間の使い方? 付き合い方? う~ん 少し違うなァ すまん表現できない
遊んだ後っていくら楽しくても疲れるもんでしょう? それが一切ない 疲れない遊びとでもいいましょうか・・・・
プールからはバリ特有のカラフルな凧が見えた。空の上には,いい浜風が吹いているらしい。
が,ここで大きな失敗をしてしまう。「南半球の紫外線」にやられてしまったのである。なんでもシドニーはオゾン・ホールの影響もあって,日本の8倍もの紫外線があるらしい。バリはそこまで強くはないのだろうが,それでも日本の比ではない。
別に意図して日差しを受けたわけではないのだが,あっというまに前半分の「半身焼け男」になってしまった。身をていしての人体実験である。そのため,夕方くらいから「うう,気だるい」の気分が数日続くことになる。
2時すぎ,すでに予約してあった「企画」をこなすためにお迎えのクルマに乗り込み,クタの街へ突撃する。
目的の建物に到着すると,3人の若い女性にかこまれ,いきなり「さあ脱げ,いま脱げ,ここで脱げ」と急かされる。「エッ? ここで?」とオタオタしてると,ヤツらは「ぜんぶ脱げ」と攻撃の度合いをさらに深めてきた。
そして「おにいちゃんここすわる」(44でもこのお店の日本語では「オニイチャン」らしい),「おねえちゃんお尻みぎ」と,これだけ読めば「オマエらいったい何してるんだ」と思われるだろうが,そんな命令されどおしの一時をすごした。エッ? 「企画」の内容? それは言えない。
秘密である。
ここでの「企画」は「脱げ脱げ」から,おしまいの「着ろ着ろ」まで全体でわずか1時間。これで今回のバリ旅行の大半の「目的」は達成された(らしい)。それにしても,なんでこんなことになったんだろう。
多謝!
にぎやかなクタの街を歩く。ここは「バリでのトラブルのほとんどはここで起こる」といわれるような地域である。確かに客引きのうるささはホテル周辺とは比べ物にならない。カバンを両手で思いっきりひっぱられている女性も見かけた。
が,幸いにして巨大白人女性の腕力は強かった。
2日後の移動のために「英語・日本語・バリ語?」をチャンポンにして繰り出す不思議な言語を互いにあやつりながら,シャトル・バスの予約をし,喧騒の街を逃れる。いや,途中で「ハーゲンダッツ」に入ったな。「半身焼け」の気だるさと,ノドのかわきに負けたのだ。
ホテルに向かうタクシーにはメーターがあり,1万3000ルピアで戻ることができた。これで昨日の空港からの料金がメーターの2倍くらいだったことがわかる。しかし「空港」という特殊な場所を考えると,そんな相場もありえる気がする。
またしても,ビーチのデッキチェアに寝っころがって夕日を眺める。
夜。今日もホテルを出て,近くの「やや庶民的」レストランに入る。若い兄弟たちだけでやっている(ように見えた)。
外に面したテーブルに通され,料理を注文して,待っていると外から人が寄ってくる。建物の内外を仕切るガラスはない。したがって,彼らはほんのすぐそこまで寄って来る。
言葉はわからないが彼らの身振りから「おなかがすいている」「食べ物がほしい」「お金がほしい」という意志が伝わった。すぐにお店の人が出てきて「追っ払って」しまったのだが,やはりショッキングな出来事ではあった。
食べ終わってホテルへもどるわずかのあいだにも,すれちがった2人の女性に「お金がほしい」と手を出される。
自分達の島に大勢の金持ちが遊びに来る 多くの島民が観光客相手に商売をして生計を立てる 地元の人は実際のところどんな事を考えるんだろう?
子供を抱いて物乞いしにきたお母さんの顔が忘れられない
ただ落ち着いて考えてみると,彼らはいずれも身なりがキチンとしていた。からだもひどくやせていたわけではない。根底に貧しさがあるのは間違いないが,同時にわれわれに向けて差し出されたあの手は,生きるうえでの彼らのしたたかさを表わす手でもあったように思う。
ホテルの中庭では,ケチャダンス,バリダンスが行われ,また山ほどのゴチソウを自由にとって食べる泊まり客たちの前で,ガムラン奏者たちがビートルズナンバーをかなでていた。
「南北格差ここにあり」。逃れようもなくわれわれもその「北」の一員である。
体の「半身焼け」が次第にひどくなり,どんどん動くのが面倒になってくる。
もうこの時点でボロブドゥール危うしという空気が漂っていた 居心地がよいこのホテルでの滞在も明日を残すのみ プールと海が一体になって見える作りになっている このプールでもっと泳ぎたい 泳ぎたい~
寝坊という不可抗力に期待しつつ眠りについた
2001年9月7日(木)
ボロブドゥールの遺跡を訪ねるための飛行機を予約していたのだが,「半身焼け」の気だるさと,「ワシともかく眠い」の気分に負け,貴重なこの計画を放棄してしまう。
インドネシアの歴史や遺産についての事前学習が不足していたことも,その一因だったのだろうか。それにしても,南の紫外線はこわい。 不覚だ。
ボロブドゥール訪問は人生の目的の一つ ここで果たしてしまってはこれからどうやって生きていけばよいのかわからない
涙を飲んで我慢し 私は泳ごう 心の隙間を埋めるべく 泳ごうぞ 波は高いものの天気はまずまず
のんびりホテルライフの今日一日と思いきや 人生これだからわからない 海の藻屑になりかけるとは・・・・
11時ころに起き出して,初日の夜にいったシーフードのビーチレストランで朝昼兼用食をとる。ナシゴレンとミークアー。
「クアー」というのは「汁物」の意味。出てきたミークアーは日本のインスタントラーメンとほぼ同一の食い物であった。そして,この店は何をたのんでも最後にパインとスイカのデザートを出してくれる。
一日の開始にまずは食事 いつも料理が出てくるまで相当待たされるけど別に気にならないのが不思議だ 日本なら殺気立ってるところなのにねぇ
ふふっ やっぱり何を食べても美味しいわ
今日は海の波がひどく高い。サーフィンをしている若者もいるが,驚いたのは4~5人のチーム・デカイ白人軍団であった。身長の2倍はあろうかという高波にアタマから突っ込んで「ウワッハッハッハッ……」と大喜びを繰り返している。
「ふっ,酔狂なヤツらめ」。
口のはしでそう笑いながら食事をとり終えると,やはりわれわれも同じことをしていた。他人を笑うことのできる人格ではないのである。
しかし,同じくアタマから高波に飛び込んではみたものの,その圧力でゴーグルさえ吹き飛んでしまうという超強烈な波である。3回ほどの挑戦でスゴスゴと海をあとにすることとなった。
「チーム酔狂」が酔狂人でありえたのは,彼らにそれなりの体力があったかららしい。
真相をお伝えしよう 午後 (危惧していた通り)海で波遊びをする事になった
こんなに高い波では何かあった場合 新金岡のマーメードと言われたこの私ですら男性一人助けるのは不可能に近い
失敗してからでは遅過ぎるので タイミングを見計らって声をかけることにした あぁ~これが命取り 大先生の成功を見届けたはいいが 自分の波に潜るタイミングが遅れそのまま波打ち際までゴロゴロと流されてしまった
珊瑚や貝殻のかけらで両足は切り傷だらけ 水着の中は砂だらけ 立とうとしたが次の波が来ていたのでまたまたゴロゴロ
チラッと見えた大先生はまだ波に立ち向かい嬉しそうに遊んでいる
何とか体制を立て直して脱出したが ちょっぴり死ぬかと思った (少々の誇張はお許し下さい)
うちひしがれてホテルのプールにもどると,先の白い酔狂人軍団がこんどはプールの中央に集合し,顔をつきあわせて互いになにやらヒソヒソ議論を交わしていた。
じつに怪しい。某国の仲良しのスパイかも知れん。
午後,部屋にもどって,テーブルの上におかれた「バリ雑誌」に手をのばす。驚くべきは表紙の写真。やせこけたしわくちゃの普段着の,日本では決して表紙にはなりようのない貧相なジイサンなのである。
しかし,関係する記事を得意の単語とばし読み読書術で読んでいくと,ジイサンは地元の有名なクックファイター(闘鶏家)であった。ギャンブルが禁止されているインドネシアにあっても,この闘鶏だけは宗教的な意味合いを含むものとして認められているのだそうだ。
そんな事情を知ったうえであらためて表紙のジイサン写真を眺めてみると,その貧相なカラダとしわくちゃの顔が,急に自信に満ちたありがたい渋みのある姿に見えてくるから不思議だ。
つづいて今日も,ホテルの前の「コンビニ」風マーケットに買い物に行く。買ったのはコーラ,ビール,ジュース,クッキーなどである。
ホテルの前で地元の人々が一台の屋台にタカリ何かを食べている 無遠慮に覗きこんでみるとそれは幻?のミー・バッソだった
「うぁ これバッソや」 というと皆が「そうだバッソだぞ」と答えてくれた 後で絶対食べようと心に決めて買出しへ
買い物を終えたところで「屋台」を止める。「止める」というより,こちらから手をあげて合図をしたら,向こうがクルマのビュンビュン走る道路を命懸けで横切って来てくれた。こちらの道路には信号というものがない。ほんとうに命懸けである。
ホテル前で見かけた「ミーバッソ」の屋台である。
いれもののサイズは子ども用のラーメン丼といったところ。前の客がつかった後で洗ってないのだろう。これまたあまりキレイには見えないタオルでキュッキュッとそいつをふいて用意(?)は完了。
旅行案内には「おやつ」とあったが,超庶民派の軽食のようである。まるで英語の通じないニイチャンが,身振り・手振りで「コレ入れるか」「アレも入れるか」「なんでも入れるか」と聞いてくるので,こっちも「ソレいれるぞ」「コレも入れるぞ」「ともかくなんでも入れるぞでいいぞ」と回答する。
材料は,春雨,サカナのすり身,キャベツ,揚げたゆで卵,ソース2種類,塩,そしてスープである。
これがウマイ。抜群にウマイ。やはり毎日,庶民が飽きずに食っているものにまちがいはない。そう思って見ると,街の中には,昼休み時間になると,あちこちにミーバッソ屋台が出ているのであった。
どうもわれわれの舌は「安いくてうまい」ものに激しく反応するようにできているらしい。実にありがたいことだ。
食い終わってから「いくら?」と得意の身振りで訪ねてみると,若い彼は何か思い詰めた表情で指を5本立てる。
「ウッ? 5って,500なんだろうか,5000なんだろうか?」。互いに言葉はまったくつうじない。
「超庶民料理なんだからきっと500だな」と勝手に思い,静かに1000ルピア札を出してみる。
すると彼は再び思い詰めた表情で,立てた指を3本にへらす。
「なるほど5本は5000の意味だったのか」。「わかった」と3000ルピアを渡し,もっとも頻繁につかったバリ語「トリィマーカシー(ありがとう)」と「バグース(おいしい)」を伝える。すると,緊張していた彼の表情がようやく崩れてくれた。きっと相当な決意をこめてふっかけていたんだろう。
これも生きるためのたくましさだ。
昼寝をして夕方またビーチに出ると,つかまり立ちがやっとだという白いチビッコがさかんに芝生の上を歩きまわっている。どうも親子3代でホテルを楽しむ家族の一員のようなんだが,そこらへんに落ちているものをひろって口に入れては母親に叱られる。それをさかんに繰り返していた。
夕暮れ時になるとたくさんの人が海岸に出て夕焼けショーを楽しむ
一時間程デッキチェアーに座っていると辺りは真っ暗になり少しだけ星が見えてくる 周りが比較的明るいせいか予想に反し降ってきそうな星達ではなかった
と ここら辺でシーフード市場からのいいにおいに吸い寄せられてしまうのであった
夕食は今日もまたビーチのシーフード市場。今日はホテルのショーの人気がないのか,ホテルから出てきている客がとても多い。なんだが「女学院でよく見るような服装」の学生集団も見かけて,「キミたちは世界中どこにいっても同じ服装なんだね」と感心してしまう。
食って,飲んで,星を見て,「ながし」の歌を聞いて,波の音を聞いて,今日もまたゆっくりと1日が終わる。
<後半 ウブドゥ滞在>
2001年9月8日(金)
9時起床。10時にはチェックアウト。「冷蔵庫つかった?」「つかってない」「そう,じゃあ」という,実にあっさりとしたチェックアウトだった。
ホテルを出てタクシーをつかまえようと思っていたら,その前にタクシードライバーが,両手でハンドルをまわすしぐさをしながら「タクシ?」と寄ってきた。
そして,値段の交渉がはじまる。メーターのないタクシーでは,この交渉がすべてを決する。
今日はクタからシャトル・バスに乗る事になっている。先日,3ケ国チャンポン言語を駆使して予約したあのバスだ。
「クタのプラヤ・シャトル・バス・サービスまで」と伝えると,ドライバーは突如「シャトル・バスだめよ」「どこ行くの?」……「ウブドゥ」……「オー,ウブドゥ」「絵があって,金があって,籠があって,指輪があって……それ全部まわってホテルまでもどって35万ルピアでどう?」……「えっ?」……「どう,どう35万でどう」「5000円くらいよ」「安いよ」……。
結局,「いやウブドゥに泊まるつもりだから」というまで,彼は運転しながら「どうする? どうする?」「バスだめよ」をずっと繰り返していた。じつに商魂たくましい。
10時45分にはバス・サービスに到着する。
「そこで待て」といわれたバスの待合室には,どうしたわけかオウム,フクロウ,七面鳥,犬などがいた。黄色い30センチほどのオウムはカゴに入っておらず,天井からつるされたとまり木に「どうかした?」ってな顔で気ままに立っている。
これに激しい反応を見せたのが同じバスを待つ2人の黒人だった。
もう口をあけて声もでないという顔つきでそれぞれにオウムを凝視している。が,その目の焦点はすでにどこにも定まっていない(どういう凝視だ)。いったい何がそんなに珍しかったのか,こちらにはその2人の男こそが驚愕の見物対象であった。
11時15分発の予定だったが,実際には11時30分ころに発車。まあ,そんなものだ。
大きな観光バスではなく,やや小さめのマイクロバス,しかもガタボロの相当な年季もののバスである。
シートもせまい。こちらは日本人2人だからなんとか座れるが,ガタイのデカイ連中はホントウに窮屈そうに座っていた。もちろんクーラーはなく,窓があけっぱなし。ヘタすりゃ,一部天井から空も見えるというしろものである。
ほとんど信号のない道を(したがって交差点ではドライバーたちの度胸と技術が激しくぶつかりあう,しかもそのスキをぬって人が道を横断している),おんぼろバスは相当のスピードで激走していく。
途中には日本料理屋「桜島」があり,バリの人たちは鶏肉をよく食べるからだろうか「ケンタッキー」のサンダースおじさんもたくさん目につく。そしてあちこちにならぶ石像,見事にひろがる水田とカカシ。
右から左から自由自在にバスを追い越していくたくさんのバイク,そしてたくさんのクルマ。センターラインは「あってなきがごとし」の状態である。
12時30分,キョロキョロと外の景色を見回しているあいだにウブドゥに到着。
降りた途端に「泊まるか?」「ホテル安いぞ」「案内するぞ」とバスにむらがる人から声がかかる。
「いや決まってるから」と彼らをふりきる。しかし,クタの町のような客引きのしつこさはない。が,それが彼らの「生きるエネルギー」の低さに見えてしまうから不思議だ。
さっきまで,あまりに元気一杯「オレのところで買え」「オレのクルマ乗れ」の人たちばかりを見てきたためだろう。
適当なところでレストランに入り,ミーゴレンとペペスイカン(?)を食べる。ペペスの方は大きなバナナの葉にツナをくるんで蒸してみましたというような食べ物で,ちょっと「観光客向け」のかおりがした。
ジャンバランが海辺の町だったのに対して,ここウブドゥはかなり山に入ったところにある。
町の中も坂道が多い。クルマがビュンビュン走るにもかかわらず歩道が狭い。そして,ここでも日本料理「漁師」に出くわす。バリの日本料理屋の名前はどれもこれもじつに素朴で強烈である。
2時15分,ホテル・チャンプアンに到着。ここのホテルはバリの王族が経営する地元資本である。英語のバリ訛り度もグッと高くなる。
朝までのインターコンチネンタルが「とてつもなく良く整備されたリゾート」だったのに対し,チャンプアンは「すべてを自然にまかせたリゾート」である。
「川の流れるジャングルの谷間をちょっと開いてコテージをつくってみました」という風で,いくつものコテージのあいだはたくさんの植物で区切られ,歩きながら下を見ると川に入った釣り人の姿も見える。
目の前にはたくさんのチョウが飛び,見上げると高い木々のあいだをリスが走る。なんだか上下左右のすべてが自然におおわれ,ホントウにその中に「ちょいとコテージをつくってしまいました」という具合になっている。
ただし,部屋の設備にはかなり問題あり。水の流れは悪く,TVもなければ冷蔵庫もない。問題は冷蔵庫だ。夕べ,ジンバランで買ったビール・コーラがリュックの中に入っているのだから。
いい訳するとホテル選びの基準がプールの数 そしてエアコン しかし実際ファンだけで十分過ごす事ができた
テレビはともかくまさか冷蔵庫がないなんて・・・・ 鬱蒼と茂った木々はこれから先の虫ライフを予見させた
籐であまれた天井に直径1mのファンがまわり,コテージの屋根は茅葺き屋根。外からはいつでも鳥の声とガムランの音楽が流れてくる。部屋の中は「蚊とり線香」完備である。
ただし,いかにも「チップくれよぉ」「もっとくれよぉ」というボーイたちの態度はいただけなかった。
私はチップの習慣に納得できないというより嫌いだ その根性が気に入らん(怒)
7時,今夜も外で夕食をとる。「ガドガド」という温野菜と,「アヤム・カリ・ハジャ(?)」とかいう鶏肉のクリームカレー煮のようなもの。ここはホテル客が多いからだろうか,あまり味付けが辛くない。
コテージにもどり,部屋の前の,自然によって隔離されたプライベートな空間にはまる。そして,「ぬるい」缶ビールを飲む。
暗くて静かな時間である。虫・鳥・カエルの声がし,オレンジ色の鳥の姿も見える。
カエルの真似が得意 鳴き声は日本とさほど変わりないので少しコミュニケーションをとることができたが 一つだけ発音?出来ない音があった
蝉が鳴き終わりに出す「ジ~~~」という音 あれに似た音をカエルが出すので驚いた
日本からバリへ飛んだ日と同じように,今日もまた朝と夜での環境の変化に,なんだがカラダとアタマが驚いている。刺激的な日々である。
2001年9月9日(土)
11時前,ホテルで食事。ここのホテルは朝のバイキングが宿泊とセットになっている。仕方なく,ホテルの中で食べる。ズラッとならんだ食べ物のうえを,小さなハエがたくさん飛んでいるのも,なんだかここでは「普通」のことに思える。
レストランからの景色も「ジャングル」。目線のずっと下からはえた木が,目線のずっと上までつづいている。驚かされるのは,集まっている木々の種類の多さ。いろんな形の木々,植物が互いに競い合い,絡み合うようにして立っている。
12時にホテルの敷地内にあった「こっちは寺院」の看板を見て,そちらの方へ行ってみる。
すると,地元のおそらくまだ10代だろう若い男が上手に日本語をあやつって話しかけてくる。「うらから山へ出られる」「パノラマ・ビューね」「すごいね,すごいキレイね」「バリはキレイ」と。
「じゃあ,せっかくだから」と青年といっしょに山道をあがる。が,これがなかなか大変だった。
この道は両側が川で深くえぐられていて中州のような形になっていた
時折川から涼しい風が上がってくるのがとても気持ち良かった
3人でゆっくりゆっくり丘の小道を進んでいくと向こうからサイボーグ・ドイツ人がやってきた 彼らは見るからにサイボーグいや、山歩きスタイルで奥の山への登山道を探しているらしかった
バリに来てからこの手の人を見るとドイツ人だと勝手に決めつけていたが冷静に考えれば圧倒的にオージーの方が多いんじゃないか?
茅葺屋根の材料となるたくさんの草,「これをカットするのはハードワークね」。そしてスラッと背の高いヤシの木があり,ようやくポンっと頂上がひらける。すると,四方の360度がきれいに広がった。
谷の向こうには,段々畑が並び,遠くには「25人が住んでいる」という小さな村が見え,どこを見てもまぶしいほどのミドリが目に飛び込んでくる。空の白い雲もきれいだ。
「これはオジギソウ」,「トカゲはトケといいます」。気さくに説明してくれる青年は,しかし,生活の中で鍛えられた逞しさもかいまみせる。
山から寺院にもどり,日本から持っていった「せんべい」を渡し,ガイド料金としてお礼を渡す。別れ際に「バイバイ」と声をかけたが,なんだが少し疲れているようだった。
いったん部屋にもどり,プールに入る。インターコンチネンタルのプールは30m×15mくらいのいかにも立派なプールだったが,ここのは小さい。15m×10m。それよりまだ小さかったかもしれない。
しかし,かわりに深さが2m30センチ。
これは鋼鉄の肉体をもつ大先生にとっては十分に「危険」なしろものだった。
だが,さすがに,この数日は泳ぎっぱなしの毎日である。調子にのって底までもぐり,鼻に水が入るなどのアホはしたが,なんだが水に入ることが嬉しくなりはじめている。
「めざせ鋼鉄の半魚人」か。
夕方,ウブドゥの街へ出る。この街は「芸術村」として有名らしい。まだ「売れてはいない」けれど,しかし,「これはオレが描いたんだからな」という,「オレは芸術家なんだ」の誇りが見える絵があちこちに並び,彫刻,木彫りもそこらじゅうに並んでいる。
「タクシ?」「タクシ?」といって空中でハンドルをまわすまねをしてみせるたくさんのドライバー(もちろん多くが白タクだ)の声のなか,あちこちの土産屋にも顔を出す。
ちょっと時間遅れの昼御飯は「ジャングル・チキン」と「インド・ポテト・カレー」。
カレーには,マイルド,ミディアム,スパイシーという3段階の種類があったが,もちろんここは「スパイシー」。さすがに汗が流れる。カレーについてきた酸っぱいはずのヨーグルトがとても甘く感じられる。
これは辛かった わりかし辛いものは好きなんだけどね でも 味は良かったわ 人生で2番目に美味いポテトだった
なんども飲んだ「バリ・コピ」(コーヒー)は豆の粉を漉さないままに飲む。
だからカップにそそがれたコーヒーの中には豆の粉がたくさん入っており,これが下に沈んでから上澄みをすする。黒砂糖風の甘味がある。しかし,その甘さが,辛い食べ物には良くあっている。「ビンタン・ビール」の甘味と同様,食べものとの相性がうまくできている。
ホテルにもどる途中,目をつけていた土産を買う。「誰かへの土産」ではない。「家の装飾のための土産」である。空飛ぶ黒ブタと,空飛ぶカエル。
「2つで15万ルピア」といわれたが,こちらは「10万だ」と主張し,結局11万で手を打つこととなった。
部屋にもどり休憩。なにせやはり日差しは強い。
でもやっぱり泳いでしまう 寝転んで本を読んでいる人達の迷惑も顧みず深いプールに何回も飛びこんで遊んだ
このジャングル環境にもなれて快適に過ごせるようになってきた まずは作りこまれていない事 後はホテル内に日本人がいない事 キャーキャー遊ぶのではなく静かなくつろぎに満ちている感じがした
南国ののんびりムードが残っていたからかもしれない
7時には外に出る。
「ここは地元のドライバーなんかがテイクアウトする店だ」といったタイプの庶民的食い物屋に入る。
トン足,何種類かの味付けのチキン,ゆで卵の揚げ物,ピーナッツの揚げ物,正体不明のかき揚げなどに,カレーココナッツ,野菜,赤青2種類の唐がらしをぶちまけてもらう。
ここでは皿は使われない。油をとおさないちょっと分厚い紙に,すでに出来上がって大皿の上にならべられている食い物を乗せて渡してくれる。
食い物選びの方法としては「バリ版・ザめし屋」といったところ。
「さあ食べよう」と席についたところでビールを注文。ところが,なんてことだ。この店にはビールがない。仕方がない。「すまん,テイクアウトさせてくれ」ということを,身振りで伝える。
ここで見事な技が披露された。お店の若い彼はその紙のはしをおってカップ状に形を整え,そのなかに食べ物をキレイにくるみこんで,最後にあたまをホチキスで止めた。これでもう食べ物は落ちない。
逆さにしない限り,ソースも流れない。なるほどの技であり,所変われば……の技であった。
値段も面白かった。店は若いひとばかりで,どの店員も15才くらいに見える。その彼らが「いくらにしようか」と相談しながら,しかし,さも価格どおりに電卓をうっているフリをしている。
「これくらいかな」「いや,それは高すぎる」。そんな感じの会話である。「さあ,いくらになるのかな」と思ってまつと17000ルピア。日本円になおすと240円くらい。
たしかに二重価格で特殊観光客向けの高価格なんだが,だからといって「もっと安くしろ」と交渉したくなる値段でもない。「OK」というと,若いみんながホッとしていた。こちらが店を出るときの「トリィマーカシー(ありがとう)」の声も大きい。
部屋にもどり,部屋の前のジャングル・テーブルでルーム・サービスのビールといっしょにゴリゴリ食べる。
天井ではヤモリが虫を食べている。すぐ前にはカエルがやってき,なぜか,ゲーゲー,プルップー,ジジジジ……という,3段階の鳴き声を披露する。一晩のあいだに何度もやってきて,同じ3段階鳴きをしてはどこかへ消えていく。几帳面なカエルである。
木々のすきまから見える空が黒く,星がやはりキレイだ。
部屋の中のホテルの案内に「スペシャル・アテンション」があることに気付く。
「なんだ?」と思って見ると,①ここの天井や屋根は伝統的なつくりでとても火に弱い,だからタバコを吸う人は気をつけるべし,というものと,②ホテルは自然をこわさないようにしている,敷地の中に谷があるから小さな子どもがおっこちないようにしてくれと。
このホテルらしい注意であった。
なんだかこの日は眠れず,天井でゆっくりとまわるファンをしばらくながめたあと,次の研究報告のレジュメなどをメモしてしまう。そろそろ「帰った後」が気になり始めている。
あと1日だ。
2001年9月10日(日)
10時起床,今日もバイキングの食事を取る。パンとか目玉焼きとか,どこにでもあるスタイルのものだが,バナナのクレープがなかなかうまい。
食べ終わって,昨日の「お寺」に例の「青年」を探しに行く。まだ空港までのタクシーを決めていなかったので,それを彼に頼もうと思ってのことである。
寺を歩き,山を歩き,ホテルの周辺を歩く。12時になると近くの学校から制服を来た子どもたちがワラワラと出てきて,「コンニチワ」と日本語で声をかけてくる。
残念なことに,結局,「青年」は見つからずじまい。
仕方なく,通りで声をかけてきた「タクシ?」の人びとのなかから(彼らの英語は「タクシー」と音をのばすことをしない),いかにも「人の良さそうな」「腰の低そうな」人を見つけ出して,夜8時半にプリ・サレン王宮で待ち合わせすることを約束した。
王宮から空港までの「タクシ」の値段は25ドルと決定。もうルピアがない。
「これで帰りの支度もできた」と安心してホテルへもどる途中,なんとまあ,探していた例の「青年」と出くわす。ホントに5分とちがわない。
しかし,今日の彼の背後には背丈が彼の1.5倍もある白人旅行者がついている。どうやら彼は街のガイドをしているようす。「オレはいま仕事をしてるんだ」という誇りがあふれ,笑顔にもゆとりが見えた。
なんだか,こちらもうれしくなってしまう。
昼はいつものようにプールですごす。きっと,これが今年最後のプールである。
日焼けを警戒しつつ,デッキチェアにしばらく寝ころがる。その短いあいだにも,風が吹くたび,高い木から,小さな種がふってくる。
昼寝のあと,4時にはホテルをチェックアウト。そして昨日行った庶民派「テイクアウト」の店に入る。
今日は店の中で食う。
中にはすでに白人女性3人がお茶を飲んでいた。われわれが勝手を知った風にチキンなどを注文しはじめると彼らはチョイと驚いたようすを示す。
そして,われわれがカバンからワルモノを取り出し,こいつをテーブルに乗せて写真をとろうとすると,騒々しかった彼らの会話が完全に止まった。静寂の瞬間。
ふっ,「オリエンタル・ミラクルよ」。
歩いて,ウブドゥの中心街へ向かう。7時半からプリ・サレン王宮で行われるバリのダンスを見るのが,この旅行の最後の「企画」。
時間を調整するためにレストランへ入る。最後の「バリ・コピ」でヨーグルト・チョコ・ケーキを食べる。やたらとでかいケーキである。暗くなるとろうそくに火が灯される。そういえば,どこの店へいってもこのロウソクは同じだ。
夕方の空をツバメが飛び,コウモリが遊ぶ。
7時には王宮へ。入り口のチケット売り場には人が集まり,中に入るとすでにたくさんの人が席についている。
やたらと日本人のツアー客が多いのは興ざめだったが,まあ,しかし,こちらも同じようなものか。予定の時間になると,ガムランの演奏で今夜の催しがスタートする。
いくつかのちがったダンスが続くが,一番印象に残ったのはたった1人の「少年」が演ずる闘いの舞い(ウォーリアー・ダンス)。
表情,まばたきをしない目の動き,すみずみまで繊細に緊張した四肢の動き,首や背筋のはりとそり,それらが音楽の興奮の度合いに応じて瞬時に変化し,闘いのなかでの怒りや恐怖,必死の格闘の様子が表現されていく。
目の動きひとつで観衆全員を引きつけるその威力は凄まじいものだった。
終わると同時に「スゴイ」という言葉が何度も口をついて出る。ホントウにすごかった。
8時半,まだ終わらない今夜のバリ・ダンスに後ろ髪をひかれつつ,昼のうちにホテルの近くで交渉した「人のようさそう」なドライバーマデさんの「タクシ」に乗り込む。
「クルマ,トヨタよ,いいクルマよ」。
デンパサール空港までの1時間弱のあいだ,彼は知っている日本語を次々と繰り出してくる。仕事のために「週に2回,4ケ月,日本語を学ぶために学校に通った」という。
彼らの英語には共通して「f」や「v」の発音がなく,それがすべて「p」にかわる。そして「r」が「l」になる。「ビアー」というと通じないのに「ビール」というとすぐに通じる。
また「タクシ」に代表されるように,決して音を長くのばすことをしない。
日本からの輸入製品の話になったときに,コンピューターを「コムプタル」といわれたときには理解するのにずいぶん時間がかかった。
マデさんによるとバリの人は基本的に8時から15時が就業時間となっているらしい
へぇ~そうなんだと一般ピープルは流してしまうかもしれないがそこはさすが大先生 聞き逃す事なく日本人の現状についてマデさんに熱く語り始めた
マデさんの方も始めて聞く話らしく働き過ぎ日本人についてしきりに感心したり驚いたりしていた
会話は英語70%位かなぁ 良く話すマデさんのネシアイングリッシュを聞きつづけた結果 大先生が脅威的なスピードで聞き取りが出きるようになっていくのがとても面白かった
彼がいうには「ミーバッソはジャワ料理であってバリ料理ではない」「バリの最高の料理は子豚の丸焼きだ」という。
これはいいことを聞いた。次回以降の課題としたい。
空港でマデさんにも「せんべい」を渡し,10時には出国の手続きを終える。
2時間近くも免税店がならぶ空港のフロアーで時間をつぶす。
バリでものすごく幅をきかせている「福太朗」という日本料理屋がここにもあり,当然のようにここには日本人があつまり,他方でマクドには白人たちが,特に白人の子どもたちが集まっていた。
みんなそろそろ地元の味がなつかしいのだろうか。
空港は日本人だらけで,なんだかすでにバリにいる気がしない。
台風が不安だったので,日本の天気をしらべようとインターネット・カフェに入る。しかし,うまく日本文字が出て来ない。この「ワルモノ・ページ」も完全に文字化けしてしまっていた。
それでも「ディリー・ヨミウリ」にたどりつき,関西の天候が飛行機を止めるほどでないことを知る。
11時40分,行きと同じく,「安いぞガルーダ・インドネシア」に搭乗。
来る時には5350㎞と出ていた飛行距離が,帰りには4548㎞と表示されている。かなり航路にちがいがあるらしい。そして,動きだして飛行機が滑走路のハシへ移動すると,ごていねいにこの飛行距離は4550㎞に変更された。
あの時間にわれわれは滑走路を2㎞も移動してるだろうか。
2001年9月11日(月)
カルピス・オレンジ風のオレンジジュースを飲み,男女の愛をコミカルに描いた映画を見ながらウトウトする。狭い機内で熟睡はできない。が,それでも3時間くらいはまどろんだ。
お腹がすいたのでパンを齧っていると急に腹痛、吐き気が襲ってきた 2時間苦しんだ
5時になるとスッチーたちがあわただしくジュースやおしぼりを配り始める。そしてメシ。帰りもまたわれわれは言われるがままの「ブロイラー」である。
今朝は「サカナ?」ではなく「チッキン オア オムレツ?」の朝食であった。
飛行機は台湾上空を通過し,九州,瀬戸内から大阪に入っていく。なるほど,行きよりはずいぶんと西の空を飛んだことになる。
実は,この帰りの飛行機。われわれの後ろの座席にはわが女学院の学生がすわり,前の座席には女学院の職員さんがすわっていた。バリと女学院には人知れぬ深いかかわりがあるらしい。
そして世間は恐ろしく狭い。
着陸のあと,この機の乗客としてはナンバー1の早さで空港を出る。何せどちらのホテルでも驚かれたリュック1つ,手荷物だけの軽装である。あずけた荷物を受け取る待ち時間がまったくいらない。
8時12分,JRの快速に乗り,自分のからだに「バリ」の「スパイシー臭」を感じながら,通勤客で混み合う堺市駅のホームに降りる。そしてタクシーであびこへ。
9時15分。1週間ぶりの我が家には,なんだかやはり仕事の臭いがした。
金がたまったら,また来年もバリへ行こう。そう思わせてくれる楽しい時間だった。来年はマデさんの案内で「子豚」を食い,例の「青年」にも仕事をたのもう。
毎年来たいなぁ~と未練タラタラ
とても時間の流れがゆるやかな,わが人生にとってまれにみる「ゆとり」の1週間だった。
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