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「慰安婦」問題をゼミで学んだ第2世代の訪韓旅行。
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最近の出来事(2005年9月特別編)
2005年9月12日(月)~15日(木)……3年生ゼミ旅行で韓国「ナヌムの家」へ!
「歴史館」「ハルモニの証言」「水曜集会」「若い世代の自由な交流」
〔12日〕……いざ韓国へ。
〔選挙結果の他力本願に不安を感じながら〕
3時就寝,9時30分起床の朝であった。
イチジクとキウイで立ち上がり,さらに野菜ジュースを流し込む。
昨日の選挙結果を確認し,いくつかの論評も読んでみる。
単純な「強いものへの期待・待望」に,社会の不気味な一面も感ずる。
「ナヌムの家」の矢嶋さんと,直前の相談をする。
主に食事の問題である。
シャワーをあびて,11時20分には外に出る。
JR「加島」から「尼崎」へ,空港バスで関空をめざす。
停留所で3年生O西tさんと出くわす。
1時間も前に家を出てきたという。
ごくろうなことだ。
バスに乗ると,さっそく顔づくりをはじめ,終了するとただちに眠った。
じつにわかりやすい行動である。
売店で買った新聞たちをながめていく。
「朝日」と「産経」の選挙論評に,そう大きな違いがあるわけではない。
ただし,「産経」の方が「白紙委任」に対する肯定的評価が強い。
生活の苦しさや将来への不安を強く感じながら,
しかし,その根源が何であるかへの理解がとぼしい。
「小泉一任」型の投票は,いわば,問題解決への他力本願的傾向のあらわれであろう。
もっと社会が賢くならなければ。
〔飛行機に遅れかかりながらも関空出発〕
12時40分には,関空に到着。
集合場所である「左側の世界時計」というのを探して,歩いていく。
すでに数人の学生が集まっていた。
集合時間の1時には,学外から参加のT垣さん,T田さん,卒業生のY田さん,
神戸市外大の4年生T井さんもふくめて,全員が集まる。
チケットを配布し,とりあえずの打ち合わせをして,一端解散となる。
手配をしてくれた旅行会社の担当者は,3年生Iりさんの同級生だという。
こちらは,「チーム非学生」の4人組で行動していく。
まずは喫茶店へ。
ランチを食べながら,自己紹介から始め,次第に話題は選挙となる。
あれこれ,おしゃべりがはずみ,時計を見たときには,すでに時間があぶなくなっている。
両替,搭乗手続,安全チェック,出国手続。
特に,安全チェックのゲート通過に,ひどく時間がかかり,
飛行機の離陸時間が迫ってくる。
最後の最後は,4人全員でダッシュであった。
出発時間に1分遅れてしまったらしい。
どんじりというわけではなかったが,それにしても,スマヌスマヌの出発である。
3時15分の離陸となる。
機内「講演録をなおしの人」となっていく。
全法務省労組でのもので,A4で20枚をこえる長いものである。
この旅行の初仕事である。
となりにすわった4年生は,ただちに眠り,
お菓子が配られると,ただちにかじり,
そして,また,ただちに眠りに落ちていった。
ここでも,やはり学生たちの行動はわかりやすい。
〔韓国・仁川空港に到着する〕
5時には韓国の仁川空港に到着。
ここでは入国審査に時間がかかる。
長い例をつくり,ゆっくりと進むなか,「講演録なおしの人」をつづけていく。
みんなが荷物を受け取るころには,なおしも終了。
こちらは,あいかわらずリュック1つの身軽さである。
空港ロビーに出て,ガイドさんをさがす。
「神戸女子学院大学」のカードを発見。
日本語の実に達者な,辛ウッキョンさんが,今年のガイドさんとしてついてくれる。
95年に1年間日本に留学したことがあるのだそうだ。
「『女子学院』じゃなく『女学院』です」。さっそく学生たちがおしゃべりしている。
6時すぎには,中型のバスに乗り込み,ソウルへと向かう。
辛さんが,「韓国入門」「ソウル入門」のような話を,いろいろとしてくれる。
学生たちには,10才上のお姉さんといったところである。
外国語である日本語を上手につかい,日本と韓国の社会や歴史について話す姿は,
自分たちの近い未来を考えるひとつの材料にもなってくれるだろうか。
〔さっそくブラブラ歩いてみる〕
こちらにとっては3度目の韓国である。
いつも同じ場所ばかりを動いているので,町並みもなんとなくなつかしく思える。
7時15分には,いつもの免税店に到着。
こんな日程はパスしたいのだが,これをパスすると,安いツアーが成り立たない。
いったん入って,ただちに脱出。
新聞社が多く,市役所もすぐ近くという,にぎやかなビジネス街を歩いてみる。
片道8車線の大きな道路は,地下道を通って渡ることが多いようだ。
歩道の青信号は,なぜかいつでも点滅している。
そして,人々はそんな信号を無視して,赤信号でもどんどん歩く。
「徳寿宮」というのは,秀吉が朝鮮侵略をした時代の,臨時の王宮だったらしい。
なぜか,たくさんの警官隊が警備に出ていた。
そういえば,市役所前にも警備の警官が。
7時45分には,バスにもどる。
〔韓国学生フレッシュマンとプルコギを食べる〕
8時には,ニュー国際ホテルに到着。
大きな通りに面しており,去年の豊田(プージョン)ホテルよりも,便利なようす。
すでにロビーには,3年ゼミN村さんの友人たちが待っていてくれる。
この夏の「日韓交流平和ツアー」で同じグループになった韓国の友人たち。
部屋に入り,荷物をおいて,ただちにロビーへもどる。
この韓国の学生たちが予約しておいてくもさた焼き肉屋さんに歩いていく。
にぎやかなミョンドンの街へ。
大きな店の2Fを借り切り,26~7名というなかなかの大集団でのカンパイである。
共通の言語は,双方あやしい英語だが,
なかには日本に9年住んで学生もおり,達者な日本語を披露してくれる。
19才(日本の数え方だと18才)のフレッシュマンだが,
じつに精力的に歓待してくれた。
ありがたいことだ。
その前で,大きな鍋がグツグツ煮える。
「これは何?」と聞くと「プルコギ」だと。
これも,エゴマにくるんで食べる方法がある。
汁がおおいが,やってみると案外うまく食べられる。
青い唐がらしもナマでかじってみる。
〔明日の天気はわからない〕
10時には,店を出る。
外には雨が落ちていた。
「明日の天気は?」と聞いてみると,
「洗濯しなさいという人と,洗濯してはダメという人がいる」とのこと。
なるほど,判断がつかないということらしい。
しばらく歩いて,路上でいったん解散とする。
日韓若いもの交流には,まだ先がありそうである。
一方,こちらは,明日にそなえておかねば。
フラフラと歩き,コンビニにもよって,11時前には部屋にもどる。
NHKのBSをしばらくながめ,夜は静かに「網野史学の人」となる。
1時ころ,となりの部屋に酔っぱらった韓国オトッツアンが帰ってくる。
なにやら大声で叫んでいるが,どの国でも,酔っぱらいはこんなものであろう。
モーニング・コールも,めざまし時計も見当たらず,
リュックからケータイをひっぱりだして,眠りにつく。
学生たちも,1時半にはもどったらしい。
〔13日〕……「ナヌムの家」へ,歴史館に学び,証言を聞く。
〔サービスエリアでゴマ団子〕
1時30分就寝,9時起床の朝であった。
お茶をクピクピとのみ,少しからだを動かしてから,
シャワーをあびて,ロビーに降りる。
10時の集合時間に,全員キチンと集合である。
ただし,良くみると,いつもより,全員アタマボサボサの度合いがひどいようではある。
バスに乗り込み,ただちに「ナヌムの家」へと出発していく。
10時50分には,途中のサービスエリアでいったん降車。
ここで食事をとるという作戦である。
気持ちのやさしそうなオトウサンから,
ソーセージとピクルスの春巻きや,フランクフルト,ゴマ団子など買ってみる。
もちろん,言葉は通じず,すべて指さし確認だけでの購入である。
身内で,互いに食べ物交換を行い,
あげかまぼこのようなものもかじらせてもらう。
また,和菓子をあげたようなお菓子も食べさせてもらう。
満腹になったところで,11時30分には,サービスエリアを出発。
バスが山の方に入るにつれて,まわりの景色が再び,見慣れたものに思えてくる。
〔1年ぶりの「ナヌムの家」〕
12時ちょうどには,「ナヌムの家」に到着する。
白いアホ犬が吠えかかってくるものと思っていたが,肩すかしである。
今年は少しだけ「大人」になっていたらしい。
1年ぶりでチュヒョクに会う。
去年よりひとまわりたくましくなっており,日本語もさらに一団と流暢になっている。
あとで聞いたところでは,日本語教師になりたいらしい。
お土産のサザンのCDを渡すと,とてもよろこんでくれた。
12時20分には,歴史館で仕事をしていた,矢嶋さんもやってくる。
相変わらずの鷹揚とした風貌だが,しかし,忙しそうである。
今日は他にも日本人のグループが来ているらしい。
「今年は相方さんは来ないんですか?」とも。
まずは,ビデオ2本をながめていく。
3年ゼミ生たちはすでに見ているものだが,他のメンバーには初めての人もいる。
姜徳景ハルモニについての『私たちは忘れない』,
朴永心ハルモニについての『写真に記録された「慰安婦」』を見る。
〔歴史館での学びの開始〕
1時10分には「日本軍『慰安婦』歴史館」に入る。
矢嶋さんのていねいな解説のもと,あれこれの資料たちをながめていく。
「解放後もいろいろな事情で身動きのとれなかった元『慰安婦』は少なくなく,
かつて慰安所があった場所から数百メートルのところに,
いまだに1人で住んでいる人もいる」。
「沖縄の『慰安所』は134ケ所。
朝鮮人の強制労働によってつくられたハエバルの洞窟のなかの野戦病院にも」。
「インドネシアではオランダ人数百人も」。
「国連では『慰安婦』(comfort woman)という用語をすでにつかっておらず,
『性奴隷』(sexual slave)に統一されている。
『従軍』には自らの意志で戦地におもむいたという意味がふくまれる。
加害国の日本でのみ『従軍慰安婦』という用語がいまだに使われていることは問題」。
「数年前,さきほどのビデオの朴永心さんが,かつての南京の『慰安所』をおとずれた。
それが日本で本になっているはず」。
〔強制された人の多くは朝鮮人〕
「記録に残る最初の『慰安所』は,1932年にまず海軍によって,つづいて陸軍によってつくられた。
当時の日本には公娼制があり,国内で性奴隷とされていたこの人たちが,
初期には『慰安所』で多く活用された」。
「『慰安婦』の総数は良くわからない。5万から30万という人もあれば,
全体で20万という人もあり,朝鮮人だけで20万人という人もある。
しかし,全体のなかで朝鮮人が非常に多いのはまちがいない。
長く植民地であったこともあるし,深い民族差別ということもある」。
「いま『ナヌムの家』には8人のハルモニがいるが,
6人は10代で未婚のままに『慰安婦』とされ,
2人は20代で家族も子どももあったなかで『慰安婦』とされている。
植民地支配下で生活が苦しく,いい仕事があるとダマされて連れさられた」。
「軍関係だけではなく,日本の企業がもっていた産業慰安所もたくさんある。
北海道の炭鉱にも多かった。
九州の麻生産業は,朝鮮人・中国人の強制労働も活用していた。
その経営者たちが,戦後の日本権力にふかくかかわっていくという歴史がある」。
〔実態としては軍が経営〕
「『慰安婦』を『衛生的公衆便所』と呼ぶこともあった」。
「経営形態には種類があったが,軍が民間業者に委託して行なうものが主流。
他に軍が直営するもの,また民間経営だが,
軍人に優先的に利用させるという契約を結んだものなどもあった」。
「民間業者がかかわる場合も,経営の規則や,『慰安婦』の『運搬』を軍が行なっており,
実質的に軍が経営していたといえる」。
「梅毒の治療や妊娠中絶のためには,きわめて有害な水銀の塗布が行なわれた」。
「先日,光州でなくなった元『慰安婦』は12才で『慰安所』に連れ去られていた」。
「『慰安婦』や『慰安所』に軍票やチケットを渡して,セックスすることが多かったよう。
軍票は直接管理者に渡され,チケットは管理者と『慰安婦』に渡される場合の両方があった」。
「この形式をもって『商行為』だという人もいるが,
拉致そのもので『慰安所』につれていかれたという強制性,
密閉された空間で,兵士のいいなりにならねば生きられなかったという強制性,
『商行為』だという人たち,これらの問題にふれようとしない」。
〔1人の学生が倒れてしまう〕
ある「慰安所」を再現した場所の前で,1人の学生の気分が悪くなって倒れてしまう。
ドイツ人女性ボランティアのエバにもかかれられて,事務室で横にならせてもらう。
「日本から来た人には時々あること。カラダの自然な反応です」と矢嶋さんはいう。
看護士の資格をもったスタッフもいるらしい。
残りのメンバーで学習をつづけていく。
「外務省,厚生労働省,防衛庁,警察庁などに資料が残っているが,公開されないままになっている」。
「解放後も,殺される,置き去りにされるなどのことがあり,
戦後60年もたってから,ようやくふるさとに帰った人もいる」。
「最近,1945年の11月か12月に沖縄のコザで撮影された写真が見つかった。
そこには7名の朝鮮人『慰安婦』が写っており,
あわせて147名の『慰安婦』の名簿も出てきた。
日本史研究者の林博史さんがアメリカで発見し,今年の7月31日の新聞で報道された」。
「韓国政府は国家的プロジェクトとして,真相究明委員会をつくっている」。
〔「アジア女性基金」の問題点〕
「日本の元軍人が戦後出版した手記などには,『ピー屋』という名前で『慰安所』が出てくることがある。
ピーというのは,女性器を意味する中国語の俗語。
『慰安婦』を中国ピー,朝鮮ピーなどと呼んでいることもある」。
「『慰安婦』制度と公娼制度は,かかわりはあるが,まったく別のもの。
公娼については,本人の意志確認が必要。
また公娼の場合は,確認があっても未成年者については,働かせてはならないという決まりがあった」。
「唯一,公的に『慰安婦』への加害が裁かれたのがセマラン裁判。
13名が有罪とされ,1名は死刑となって処刑された。
ただし,これはインドネシア人をのぞく,白人被害者への加害だけを裁いたもので,
そこにはアジア人蔑視のダブル・スタンダードもあらわれている」。
「被害者たちは,『アジア女性基金』による『つぐない金』ではなく,
税金による『国家賠償』を求めている。
『アジア女性基金』は,韓国・台湾・オランダ・フィリピンの4ケ国だけに向けられたもので,
しかも,申請者だけにわたされるとしたもの。
中国・北朝鮮は対象とされていない。
1人500万円という金額は,生活に苦しむ被害者には大きなものだが,
それを受け取ったどうかで,被害者内部にも被害者を支援する運動の中にも新たな対立がつくられた」。
「受け取っていない韓国人が,名簿で受け取ったと記されたことがあり,
本人が抗議したが,国民基金は韓国側窓口に金を渡してあるのだからと,
門前払いを食らわせた。まったく不誠実な態度」。
「当人たちは善意でつくったといっているが,結果的には独善といわれても仕方がない」。
〔告白せずにおれなかったペ・ポンギさん〕
学生たちは,メモ,ペン,ビデオ,カメラなどを手に,
目でみるもの,声で聞くものを,全身で受け止めようとしている。
ほぼ無言のままである。
倒れた先の学生も,このあたりで,みんなのもとにもどってくる。
韓国で最初に,自分が「慰安婦」であったことを告白した金ハクスンさんの,声がながれる。
「私を17才に返してほしい」という言葉が悲痛である。
「沖縄では45年8月15日以後も戦闘がつづき,
自殺を強要するなどの,日本軍による日本人殺害もつづいた」。
「1944年に沖縄につれてこられた,ペ・ポンギさんは,
サンフランシスコ講和条約が発効した52年4月28日に一方的に国籍を奪われる。
その後,沖縄はアメリカの統治下におかれるが,
72年の返還時に,外国人としての登録がないことが発覚する。
それが問題とされたときに,自分が『慰安婦』であったことを告白せずにおれなくなる。
『私を勝手につれてきたのは日本じゃないか』ということだ」。
「沖縄の一部メディアがとりあげたが,大きな注目はされなかった。
朝鮮総連系の人が支援したが,当時の総連と韓国の関係はまったく疎遠で,
ペ・ポンギさんは,韓国へ帰る機会を得ることができなかった。
戦後も「辻」や「米軍基地」でセックス産業にたずさわらずをえず,
晩年はサトウキビ畑の手伝いなどをしていた」。
〔韓国社会の偏見を乗り越えて〕
「ペ・ポンギさんは91年10月に亡くなっている。
金ハクスンさんの告発が91年8月だから,それを知る機会があれば,
ペ・ポンギさんも故郷の韓国を再び訪れる機会がもてたのかも知れない」。
「『慰安婦』の体験を語ることは,韓国国内でも強い偏見との闘いを必要とした。
しかし,90年代以後の取り組みのなかで,
〈汚れた女〉ではなく,かつての日本軍による〈被害者〉という,大きな理解のパラダイム転換が起こる。
日本と異なり,すでに韓国では,その正しい見方が社会の多数派。
加害国の日本では,いまだにそれが多数になっていない」。
「91年1月8日に最初の『水曜集会』が行なわれた。
日本にも共産・社民・民主の参院議員に,この問題の解決に努力している人がいる。
しかし,解決に向けた法案を国会に提出しても,与党がこれをつぶしてしまう。
政治をかえることが必要で,みなさんも政治とのつきあいを本気で考えてほしい」。
「国家賠償を要求して,歴代首相を批判してきたハルモニだが,
話題が昭和天皇におよぶと,気持ちがすくむところがある。
『皇国臣民の宣詞』を,まだ前文暗唱できるハニモニもここにいる。
いかに植民地支配の力が,個人の人格に深い影響を与えるかという一例だ」。
「ハルモニの絵には,自分たちが船にのせてはこばれる姿をえがいたものもある。
ハルモニは知らなかっただろうが,軍は彼女たちを『補給品』として実務処理していた」。
〔歴史の事実と自分のかかわり〕
しばらく,ハルモニたちの絵をながめて,
全員,文献・資料・ポストカードなどがおかれた最後のコーナーに出る。
「慰安婦」であったことの悲惨と,その後の人生の悲惨,
それらの悲惨を強制した加害の罪の深さを,それぞれがあたまとカラダで整理していく。
自然,口数は少なくならずにおれない。
そして,この歴史の事実と,いまいる自分のかかわりはどのようなものであるのか。
この問いにも,1人1人が自分なりのこたえを求めていかねばならない。
何十時間も学んできたことではあるが,
文字からでは学ぶことのできない空気がここにはある。
ひどく降り始めた雨のなかを,もとのホールにもどっていく。
〔ムン・ピルギ・ハルモニの証言〕
3時15分から,ハルモニの証言をうかがう。
今回の証言をしてくださるムン・ピルギ・ハルモニは,中国で「慰安婦」を強制され,
解放後は,長くソウルでくらし,この1年ほど前に「ナヌムの家」にこられた方だという。
証言を,矢嶋さんが翻訳して伝えてくれる。
「私は15才でつれていかれた」。
「故郷はキョンサンナンドのチニャングン。
父は日雇い労働のような仕事をし,母は雑貨屋をやっていた。
ひどく貧しいわけではなかったが,学校にいくことはできなかった。
父に『日本人が経営する学校にいってどうするか』といわたりもした」。
〔15才で中国へ〕
「15才のある日,両親のいない日に,警官らしい人がきて,
『工場で働かないか』『中国の工場で働けば,学校にもいくことができる』といわれた。
『このクルマに乗っていけ』といわれ,最初に汽車で釜山の方へつれていかれた」。
「釜山で美容室のようなところへいき,腰まであった長い髪を切られた。
悲しくて泣いた。
つれていった日本人は非常に朝鮮語がうまかった。
釜山から女5人でソウルへ運ばれ,そこであらたに女が10人乗った,
さらにシンウィジ(?)から次の10人の女が乗った。
全部で25人ほどの女が中国へつれていかれた」。
〔子どもにできることではない〕
「『慰安所』には,軍人はチケットをもってやってきた。
軍人の相手は,とてもつらかった」。
「チケットはつづりになっており,本当なら,決められた枚数を渡さねばならないが,
少ないチケットしか出さない者もいた。
ちゃんとチケットをくれというと,殴られて,怖かった」。
「ちょっとでも言うことを聞かないと,蹴られたり,なぐられたりした。
本来,子どもにできることではないのに。
『オマエたちの国は,オレたちが奪った。だから言うことを聞け』。
そういわれるのが一番くやしかった」。
〔病院にはこびこまれて〕
「ある土曜日,軍人に,暖炉の火かき棒を,脇にあてられた。
朝鮮語をつかってはいけないことになっていたが,
思わず『ナンダ,コノヤロウ』と朝鮮語が出た」。
「あまりの大声に,外にいた軍人がやってきた。
ふるえて倒れている私を見て,『誰がこんなことをした』と問い詰める者もあった」。
「大騒ぎになり,病院で軍医の治療をうけた。
注射され,命をとりとめたが,『部隊の名誉が失われるので,このことは絶対に秘密だ』といわれた」。
ハルモニのとつとつとした証言に,矢嶋さんが何度も質問を繰り返し,
話にまとまりがついたところで,日本語になおして伝えてくれる。
〔週末には1日20人の相手を〕
「週末の土曜・日曜には,多くの軍人がやってきた。
週末には1日20人ぐらいの相手をさせられ,逃げることもできない。
妊娠したある女性は,中絶させられた。
出産した女性の場合は,母子ともに殺される場合もあった。
生んだ子どもを,中国の老婆に頼み込んで,あずけた人もいた」。
「ときには外に出ることもあったが,軍に雇われているチンピラが2人,
監視役として,後ろから棒をもってついてきた。
軍属(軍に雇われ,軍のために働く民間人)だった」。
「チンピラは,ちょっとでも私たちが気に入らないことをすると,
『慰安所』の横の寒い地下室に私たちをとじこめた。
ある女性は,それでカラダをこわした。
言葉につくせない,たくさんの苦労をしてきた」。
〔地獄のようなところ〕
「いま腰がいたいのも,その時の後遺症。からだがつらい。
のしかかってくる男が大きい場合には,その重みでつぶされる思いがした。
地獄のようなところへつれていかれた」。
「梅毒を兵隊からうつされたこともあった。
606号というクスリで良くなったと思っていたが,
ずいぶん後に髪の毛が抜けることがあり,
病院で,そのクスリの後遺症だといわれた」。
「小泉日本政府は,私たちにすべきことをきちんとすべきだ。本当にくやしい。
腰が痛いだけでも,大変な苦労だ。
日本人は本当にヒドイ」。
「梅毒は大きな病院で治療したので,いまは大丈夫」。
〔3年ぶりに故郷へ〕
「解放の瞬間には,突然軍人がいなくなった。
どこかに闘いにいったと聞かされた。
その場に取り残されたが,シンウィル(?)の女性が『帰り方を知っている』といった。
自分よりはだいぶん年上の人で,4名でそこを出ることにした。
まず平壌まで出て,そこでその女の人とわかれた。
女の人がたのんでくれた男の人につれられて,ソウルへついた。
その男の人にオニギリを2つもらったのを覚えている。
平壌ではソ連の軍人を見たし,ソウルの駅ではアメリカの軍人を見た」。
「キレイにしているとソ連兵におそわれるかも知れないというので,
4人で顔に泥を塗りあって,帰って来た」。
「ソウルの駅で,その男の人から『これで帰られるから』と切符をもらった。
なんとか自分の家にもどったが,3年ぶりだった。
母親が『本当に帰ってきたのか? 幽霊じゃないのか?』といった」。
「『もう学校にいく年ではないから,結婚しろ』といわれたが,
それはしたくなかった。
その後,今日まで,結婚することはなかった」。
〔あなたたちの国のために,こうなった〕
「体験については,これくらいにしたい。
小泉は賠償するべきだ。
あなたたちの国のために,こうなった。
カラダはボロボロだ。
どうして,知らぬふりができるか」。
「最近は,竹島(独島)さえ,自分のものだといいだした。理解できない。
お互い生きていかねばならないのに,いつも日本が韓国にいやな思いをさせる」。
「2000年の民衆法廷では,元日本兵の証言があった。
最後に『被害者がいっていることは本当です』といってくれて,嬉しかった。
互いに握手しあった。会場からも泣き声が聞こえた。
たくさんの人が,私たちがどういう目にあったかを,わかってくれたと思う」。
これらは,個人の記憶にもとづく証言の要約と翻訳であり,
さらに,こちらの責任でのメモである。
必ずしも正確でないところが当然にある。
しかし,「慰安婦」であることを強制された3年間の体験と,その後の人生の苦しみについては,
伝わるところが十分あるものと思う。
〔毎日が軍人との闘い〕
話をうかがった側から質問もさせてもらう。
いまおいくつですか?
--「数えで80才」。
現在の生活はどのようで,何が楽しみですか?
--「昨日は病院で,長くまたされ,それで1日がつぶれた。
ふだんはヒマな時間はテレビを見ている。それが趣味。
息子(姉妹からあずかり自分が育てた)家族に会いに行くのが楽しみ。
今日も電話してみたが,留守だった」。
監視役のチンピラはどういう場合にハルモニを地下室にいれたのですか?
--「ほとんどがいやがらせ。とくに私たちが約束をやぶったからではない。
いたずら半分に,地下室にいれるのが目的であるかのようにあつかわれた」。
--「軍人が私たちをつれて歩くことは禁じられていたが,『椿姫』という映画につれていってもらったことがあった。
楽しいことかあったとすれば,それくらい。軍人も大変だったとは思う」。
--「毎日が軍人との闘いだった。本当なら,軍人と闘うために,私が銃をもっていたかった」。
証言は,終始,静かな口調で行なわれた。
〔証言の後には,うなされることも〕
矢嶋さんが,最後に言葉をそえてくれる。
「ムン・ピルギ・ハルモニは,こういう証言をすると,その夜,当時の夢を見ることがあり,
外にもうめき声が聞こえることがあります。
そういう思いをしてでも,みなさんに証言をしなければならないと思っているわけです」。
「入院したことがあるのですが,ベッドに横になっている時には,『慰安所』のベッドを思い出したそうです。
また治療してくれる医者が,軍医に見えたそうです。
あまりに恐ろしかった記憶は,そのような形でいまも残っているのです」。
お礼を述べて,4時すぎには,証言をうかがう時間を終える。
ホールを出て行くハルモニを,何人かの学生が追いかけ,
手をとって,いっしょに生活の場まで,歩いていく。
〔はじめての横幕づくり〕
4時15分,夕食の買い出し部隊と横幕づくりの二手にわかれて,
夜の準備がはじまっていく。
雨が強いので,今年は昨年のように,外でバーベキューというわけにはいかない。
まったくもって残念だが,それでも,自炊を楽しむ時間をつくることにする。
さらに買い出し部隊は,明日の朝食の用意,
夜の酒とお菓子と,ハルモニたちへの果物も買うことにする。
他方,残りのメンバーは,ホールに新聞紙をひろげ,
4メートルほどの布をひろげて,横幕をつくっていく。
全員で,ハングルの1文字ずつを,なれないハケで書いていく。
「謝罪しよう。私たちは本当の日韓友好を実現したい」。
さらに,全員が,1人1人の思いを日本語で,あちこちに書き込んでいく。
もちろん,ワルモノも登場した。
ワルモノのセリフは,「私たちも謝る,日本政府も謝れ」というものであった。
できあがった横幕を,ホールの端にうつし,
テーブルをならべて,食事の準備をすすめていく。
〔緊張の糸をほぐして〕
広くはない炊事場で,たくさんのブタ肉が焼かれていく。
味噌をつけて,エゴマやチシャの葉にくるんで食べる,サムギョプサルである。
野菜をあらい,食器を引っ張りだし,
肉を焼き,焼き上がったものを窓からホールに手渡していく。
ワイワイと,にぎやかな時間となっていく。
6時30分から食事である。
ビールもあいて,ジュースもあいて。
学生たちの顔に,屈託のない笑顔がもどる。
矢嶋さんやチュヒョクもいっしょに食事をとる。
歌姫・ペ・チュンヒ・ハルモニもやってくる。
7時30分からは,去年にひきつづき,ハルモニを先頭とする「カラオケ大会」となっていく。
ハルモニが長年きたえたノドを披露すれば,
チュヒョク(坊主アタマのためか学生に「一休さん」と命名される)がサザンを歌い,
学生たちは,大量のお菓子を食べながら,何やらいまどきの歌を歌っていく。
こちらもいくつかを歌えと追い詰められていく。
ドイツ人のエバもやってくる。
ドイツから日本に留学し,いまはここで短期間のボランティアをしているらしい。
ハルモニの太鼓にあわせて,学生時代に良く歌った,なつかしい歌も歌ってみる。
〔宴はつづく〕
はげしい盛り上がりに区切りをつけて,10時50分には,1Fホールの片づけに入り,
酒飲み大人部隊は2Fへあがる。
2Fは,とどまるところなく盛り上がりの度を増していく。
韓国焼酎ジンロのビンがつぎつぎとカラになり,
話題は,「慰安婦」問題,歴史認識問題,学生たちの姿,
日本の選挙,チュヒョクの日本留学から,プライベートまで。
結局,2時30分には,寝たらしい。
そのあたり,残念ながら,記憶はさだかでないのだが。
〔14日〕……水曜集会で発言,若者たちは手をつなぐ。
〔白犬を上手投げ〕
8時30分,どうにかカラダをもちあげる。
夕べは,気持ちの良い時間となり,例によって飲みすぎてしまった。
はじめてだった昨年の極度の緊張から,
行動の針が一挙に対極にふれとんでいる。
オレンジ・ジュースをグピグピと飲み,9時には,まぶしい朝日をあびてみる。
元気のいい学生たちが,掃除機をもって,2Fホールへあがってくる。
顔をあらって,ヤケクソで,例の白犬と遊んでみる。
母犬は,かまっても,「ハイ,うれしゅうございます」と申し訳程度の喜びだが,
息子の白犬は,全力で「オレ,うしいです」「オレ,うれしいです」と完全二足歩行で抱きついてくる。
しばらく,ふりまわして,最後には,上手投げでころがしてみた。
〔集会の発言者を「あみだ」で決める〕
10時には,チョヒョクとも別れ,バスに乗って出発とする。
矢嶋さんとエバとペ・チュンヒ・ハルモニが,われわれと同じバスに乗り込んだ。
ほかのハルモニたちは,別のクルマで移動である。
「水曜集会」が行なわれる,ソウルの日本大使館前へと移動である。
12月20日に大学で行なわれる「ハルモニの講演(証言)会」の打ち合わせを,
矢嶋さんとしながら,自分がどうも「犬クサイ」ことに気づいていく。
「集会」で発言する3人のメンバーを「あみだ」で選び,どういう発言をすべきかについて,
マイクをまわし,学生たち全員が自分の意見を語る。
「あみだ」という選出方法に,異論は出ない。
このあたり,学生たちは,妙にハラがすわっている。
屈託のなさも,すでにたくさんの学びを重ねてきたことから来ているのだろう。
「矢嶋さんは何もですか?」の声にこたえて,ご本人から簡単な自己紹介をしてくれる。
そして,ソウル市内に入ったところで,
植民地時代につくられたいくつかの建物を紹介してくれる。
〔水曜集会で発言する〕
11時50分には,日本大使館前に到着。
今日は,第674回の「水曜集会」である。
こちらでは「水曜デモ」ともいわれるが,
日本でいうデモ行進ではなく,同じ場所での1時間ほどの集会である。
さっそく,夕べつくった横幕をひろげていく。
主催者あいさつのあと,まずは韓国の高校生たちが発言する。
男の子がしゃべり,女の子がしゃべり,そのたびに,同じ生徒たちから,
応援の黄色い声がとぶ。
このあたり,日韓の少年少女気質に大きな違いはないようである。
2番目の発言が,われわれであった。
全員で前にならび,代表の3人が語っていく。
「日本人全員が謝罪の気持ちをもつべき」
「小さなからだで,たくさんの軍人の相手をさせられたかと思うと本当に胸が痛む」
「知らなかったではすまされない」
簡潔ではあるが,それぞれの気持ちと意志が率直につたわる。
たくさんの拍手をあびて,うしろにもどる。
〔日韓の若者たちが手をつないで〕
つづいて,東大と中央大学の学生たちが発言する。
さらに名古屋からこられた市民団体の方たちも。
今日も,日本からきた人が,集会全体の半分くらいをしめるだろうか。
ざっと見て70~80人くらいの参加に見えたが。
集会のフィナーレは,じつににぎやかなものとなった。
日韓の若者たちが手をつなぎ,1本の龍のようになって,グルグルとかけまわる。
最後には,おそらく,「互いに力をあわせて思いをとげよう」ということだろうが,
たくさんのメンバーが横一列にからだを寄せ合い,背中をまげて,
その背中のうえを,次々と人が歩いて渡る。
小さな前進のために,1人1人の背中(力)が必要ということだ。
われわれのグループからも,2人の学生が手をひかれ,
日韓の若者たちの背を踏みしめながら,前へと進んだ。
笑顔と歓声のなかでの,フィナーレであった。
〔さっぱり冷麺で旅行の目的は完了する〕
中央大学の学生には,見知った顔があり,なんどか言葉をかわしてみた。
さらに,集会のあとに,みんなで入る食堂には,
昨年の旅行でいっしょに酒を飲んだ,市民運動家のカン・ジェスクさんの姿があった。
名古屋からグループの案内をしており,なんと,昨日は「ナヌムの家」にいたという。
偶然というのは,あるものである。
氷のういた冷たい冷麺をツルツル食べる。
酢の効いたさっぱりした味わいが,かわいたからだに嬉しい。
目の前にすわったエバが,「先生はどうしてワルモノが好きですか?」と,上手な日本語で聞いてくる。
意表をつく質問であった。
「それはね……」。
2時30分には,バスにもどる。
ここで,矢嶋さん・エバとお別れする。
矢嶋さんとは,年末に,会うことになりそうである。それまで,お元気で。
3時前には,ホテルにもどる。
これからあとは,明日の朝まで,全員,完全自由時間となる。
4月から今日までの,ハードな全ゼミ日程のいわば「褒美」のようなものである。
〔なぜかそこだけ工事中〕
こちらは部屋にもどり,シャワーをあびて,気分を転換。
「犬クササ」からも解放される。
3時30分にロビーに集まり,今度は3人だけで外へ出る。
この時間については,一切予定を考えておらず,
「独立公園などまわりませんか」という外大のT井さん等につきあうことにする。
ブラブラとあるいて,「景福宮」へ。
ここは,李氏朝鮮時代の王宮であり,
植民地時代には,日本軍による破壊と占領があった場所でもある。
その一角に,王妃・閔妃(明成皇后)が,1885年に殺害・凌辱されたことを記録する碑があるらしい。
目当てはそこにあるという。
広い王宮のなかをあるき,もっとも奥にようやく碑のある場所を見つけ出すが,
不運なことに,その一帯だけが工事中である。
同行した学生が,「雨女」ならぬ「工事女」であったらしい。
ガックリして,5時には,1本買うごとに大きな音楽の流れる巨大自販機の前で,休憩する。
キャッキャッと声が聞こえ,振りむいてみると,
キレイな民族衣装をまとった,20人ほどの小さなこどもたちが,
手をつないで,どこかへ歩いていく。
実に,かわらしい姿である。
〔3・1独立公園へ〕
気を取り直し,今度は,ミョンドンの街を通り抜け,
「3・1独立公園」へ歩いてみる。
去年,矢嶋さんに,ザッと案内をしてもらった場所である。
1919年の独立運動の発祥地でしり,当時の闘いの様子や,日本軍による弾圧の様子が,
何枚もの大きなレリーフに残されている。
宣言文の前文が大きな石碑に刻み込まれ,何人もの闘争の英雄の像がある。
レリーフをながめていると,突然,園内に大きな音楽が流れ,なにやら演説調の放送がはじまる。
おそらく独立運動の解説なのだろうと,わからないながらも,勝手に想像していく。
「国宝」だという大きな塔と,同じく「国宝」だという柱もながめる。
その昔は,大きなお寺があった場所だという。
6時には,公園の入り口が閉まってしまう。
これにて,とりあえずの目的は達成。
〔3日つづけて焼き肉です〕
疲れと空腹を感じて,ミョンドンの街を歩くが,どこで食事をとっていいかがわからない。
何せ,言葉がまるでダメなのである。
結局,「もうここでいい」と,投げやりに決定して入ったところが,
なかなかどうしての焼き肉専門店のようであった。
「私は,日本語がうまくないから」と日本語で話しかけてくれたオトウサンと,
確かに,うまく通じ合わない会話をして,しかし,食べるものはなんとなく決まっていく。
ゆっくりと1時間ほどは食べたのだろうが,
ていねいなことに,そのあいだに4回も5回も,焼き肉の網がとりかえられた。
時間がたつにつれて,韓国サラリーマンたちがふえてくる。
〔ぶらぶら歩きの夜である〕
7時半には,店を出る。
「お土産を買いたい」というので,ミョンドンのそれらしい店を物色していく。
いくつかの妙な置物に心がひかれるが,
これ以上,研究室がヘンなものだらけになっても困るので,静かに衝動をおさえていく。
それに,それらはいずれも韓国の文化とは無縁なもののようであった。
途中,偶然,3年生K元さんにあう。
韓国の友人2人といっしょである。
このように,学生たちのなかには,
個別にそうした日韓ネットワークをもっている人も少なくない。
あらかじめ連絡をとりあっていたのだろう。
買い物をおえて,8時50分にはホテルにもどる。
振り返ってみると,実に良く歩いた1日である。
さらに,これから「アカスリ・エステ」に出かけるグループがあるらしい。
その一群がロビーに集合している。
学生たちの夜のすごし方も様々である。
コンビニを求めて,再び外に出るが,
9時すぎからは,おとなしく部屋で時間をすごしていく。
〔15日〕……予定どおりの帰国となる。
〔ホテルを出る〕
9時30分就寝,12時起床,
さらに2時就寝,7時30分起床。
2段階ダンダラ睡眠の朝であった。
たんに寝ついたのが早すぎただけであろう。
シャワーをあび,水をクピクピ飲んで,片づけをする。
8時30分には,ロビーに集合。
バスに荷物を放り込み,記念撮影となったところで,
学生2名が足りないことに,ようやく気づく。
電話で起こして,ドタバタ下ろす。
初日に焼き肉屋などを案内してくれた韓国の学生たちが,見送りにきてくれる。
夕べも遅くまで,学生たちにつきあってくれたらしい。
試験の時期だというのに,ありがたいことだ。
これもまた学生ネットワークの力である。
さらに数日旅行をつづけるという3年生M本さんを残して,ホテルを出る。
「ナヌムの家」でハルモニに買ったくだものを,渡し忘れていたのだが,
ここでお世話になったガイドさんに,それプレゼントすることにする。
辛さんには,自由時間の学生たちの見学先,夜の「アカスリ・エステ」の安全な往復など,
あれこれととてもお世話になった。
ハニモニたちへは,日本から,別にプレゼントを届けることにする。
〔今後のために意見をうかがう〕
バスのなかでは,パソコンをひらいて「日記作成の人」となっていく。
9時40分,どうやら昨年とはちがう土産物屋に到着する。
しかし,7~8種類のキムチを次々食べさせ,
「さあ,これを買わないか」とプレッシャーをかける方法は同じである。
店内を歩いていても,「買わないのか」という,店員さんのつきまとい攻撃は,実にキビシイ。
ハンパに残っているウォンの分だけ,明太子とチャプチェ(春雨炒め)を買ってみる。
10時40分には,空港へ。
搭乗手続きをすませ,辛さんと全員握手でお別れである。
出国の手順を終え,「チーム非学生」で,軽い食事をとることにする。
日本名「混ぜ冷麺」を食べて,ちょうどウォンがピタリとなくなる。
食事をしながら,この旅行日程に改善点があるとすれば,それはなんでしょうかと,
同行した大人のみなさんの意見をうかがう。
「ナヌムの家での夜の時間」,さらに「自由時間の使い方」もあげられる。
さらに濃密にすることが可能ということである。
〔出版についても若い世代の意見をリサーチ〕
11時50分には,搭乗ロビーに集合。
今度は,外大から参加の学生T井さんに,このゼミ旅行をどう思ったか,
また本を出版することになった場合,
どういう内容であれば若い世代に喜ばれるかと聞いてみる。
「ブログ風の旅行記スタイルが読みやすい」「電車男のように」,
それでいて「歴史認識についてはキチンと学べる1本も」。
なかなか注文はむずかしいのである。
12時20分には,仁川空港をとびたっていく。
去年は出なかった機内食が,なぜか今年はただちに出てくる。
すでに「混ぜ冷麺」胃袋となっていたので,泣く泣く「いりません」と返していく。
去年と同じ時間の飛行機なのに。
機内には,寝て,食べて,寝るという,またしてもわかりやすい学生が多かったが,
こちらはずっとおしゃべりである。
1人の学生と,こんなにジックリしゃべる機会も珍しい。
〔おつかれさまでした〕
1時50分には,関空に到着。
入国し,荷物を受け取ったところで,ゼミ委員長より,解散のあいさつが行なわれる。
ゼミは全2年間のうち,まだ1/4が終わったばかりである。
残りの学生時代のさらなる充実の道を,ぜひ考えてほしいと思う。
これにて,今年の「ナヌム旅行」はおしまい。
参加のみなさん,おつかれさまでした。
相方号で,4時には家にもどり,ただちに196通のメールに迎えられる。
これを無視して,チャプチェと明太子で夕食をとっていく。
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