何度か話題にした、本学の奉安殿(戦時中に御真影と教育勅語を収めた建物)と昭和天皇来院の件である。
『神戸女学院百年史・総説』(1976年)によると、中庭につくられた奉安殿は、このような形のものであった(222ページ)。
この写真でみると、先日ブログに紹介した場所は、少しズレていたようである。
より正確には、このあたりということになるらしい。
中庭に無造作におかれたこれは、観音開きの扉の上の部分と見える。
『百年史・総論』によると、奉安伝がつくられたのは1937年である。
完成後、10月7日・8日に文部省の「視学官」による視察があり、次の2つのクレームがついたとある。
①屋根が低く、周囲の建物に見下ろされる形になっている。
②学院の設立趣意書にキリスト教主義教育より教育勅語を優先して打ち出すべし。
①については兵庫県が認めたのだからと、そのまま許されたという記述があるが、②への対応がどうであったかについての記述はない(以上222~223ページ)。
1937年12月18日、御真影が県庁より「授与」される。
「学院では職員・生徒一同正門から総務館に至る沿道に整列し御真影の到着を厳粛に迎え、その後奉戴式が行われた」(同223ページ)。
デフォレスト院長(当時)は、自伝の中でその頃のことを次のように書いているという。
こちらは『神戸女学院百年史・各論』(1981年)の武田清子氏の文章による。
「御真影を納めて初めての夜、私が院長室で寝てその番を致しました。
あとは部長やら男の先生たちに順番に事務所に寝ていただきました。
気にかかったのは学校に対し悪感情を持つ人があれば、奉安殿を開き御真影を盗んで逃げられるのが学校を何より傷つける復しゅうの仕方だということでした」(393ページ)。
ミッション・スクールが戦時を生きのびることには、様々な苦労があったわけである。
他方、戦後の昭和天皇来院の件についても、『総論』に写真と記述があった。
上の写真の中央が、本学を訪れた天皇である。両側に銃を構えて護衛する米兵たちの姿がある。
昭和天皇は、1946年1月1日にいわゆる「人間宣言」を行い、2月から各地の「巡幸」を開始する。
兵庫へは6月11~13日が予定され、「畠中院長(当時)は、この巡幸の途中天皇の昼食の場所として女学院の院長室を提供する話をすすめた」。
そして「6月12日午前11時45分、進駐軍のM・Pに先導された天皇の軍隊がキャンパスに着いた。」
「天皇は院長室で昼食をとり、畠中院長、デフォレスト名誉院長とも会い、中庭で学生の歌う賛美歌『祖国』を聞いた。」
「これに聞きいる天皇の目には光るものがあった。」
「侍従にうながされて天皇はやっと藤棚へと歩を移し、ここで高等女学部のマスゲームを見、1時40分車で岡田山を降りていった。」
「その天皇の車の前後は、多くのジープやトラックに分乗して銃をかまえ肩ををいからせた米兵にかこまれていた」。
本学の院長がどういう意図をもって、天皇との昼食の機会をもったかについては記述がないが、総じて当日の様子がよくわかる文章である。
ところが、同じ段落の最後にあたる、以下の箇所は一転意味がとれないものとなっている。
「正門近くの溝に立って見送っていた一学生はこみ上げてくる腹立たしさを感じ、それまでの『天皇は戦争の責任の故にいさぎよく退位すべきだ』という持論を放棄した。」
「戦後の天皇巡幸は軍国主義日本の主権者の変身の場であった」(以上277~278ページ)。
「一学生」は一体誰に(あるいは何に)「腹立たしさを感じ」、それまでの「持論」を「放棄」してどのような見解を持つにいたったのか。
それがまったくわからない。「主権者の変身」についても同様である。
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